夢はお持ちですか?

あなたは何になりたいですか?

憧れる理想と現実との壁

でも

夢があるということは

それだけできっと素敵なこと…………

 

 

小話その2 しばかりと夢追い少女

 

 

 

 その日、紅茶館“さくら”でのバイトを終え、自宅に帰ってきた上条しおりを待っていたのはパジャマ姿の小さな女の子だった。

「おかえりなさ〜い」

 そう言ってしおりを出迎えた女の子は、のぞみという名の彼女の従姉妹。

 まだ幼稚園にあがったばかりではあるが、年の割にはおませな女の子である。

 今、しおりの家では、この少女を三日ほど預かっている最中であった。のぞみの両親が結婚記念日で、夫婦二人で温泉旅行に行っているのだとか。

「あれれ。のぞみちゃん、まだ起きていたの?」

 玄関に入った途端に出迎えてくれた従姉妹を見て、しおりは少し驚いた。

 時間は午後二十一時を過ぎている。のぞみくらいの小さな子供はもうお休みしてないといけない時間だ。

「もうねなさいって言われたんだけど、どうしてもしおりおねえちゃんにおやすみなさいをいいたかったの」

「それでわざわざ起きててくれたんだ」

 しおりはちょっぴりくすぐったい気分だった。早く寝ないのは困りものだが、こうして慕ってもらえる事は素直に嬉しいと思う。

「それじゃあ、わたしからも言わないとね。のぞみちゃん、おやすみなさい」

「うんっ! おやすみなさ〜い」

 のぞみも元気にそう言い返す。これでもう用件は済んだ筈だった。

 しかし。

 のぞみは「おやすみなさい」の挨拶を終えたにもかかわらず、布団のある部屋には戻ろうとしなかった。それどころか、しおりの顔をじ〜っと見つめている。

「…………どうしたの? まだお姉ちゃんに何か用事?」

「うん。ええとぉ。あのね」

「なになに?」

「ずっとまってたら、ねむくなくなったの。だから、ねむれるまで絵本よんでほしいなあって」

「あはは。それくらいならいいよ」

 しおりは快く引き受けた。健気に慕って待ってくれていた彼女が喜んでくれるならと。

「どんな絵本がいいかな。お姉ちゃんのお部屋にも沢山の絵本があるけど、その中から選ぶ?」

 将来、絵本作家を志しているだけあって、しおりの部屋には実に沢山の児童向けの絵本があったりする。中にはのぞみのような子供でも喜びそうな、簡単な内容のものもあった筈だ。

 しかし、のぞみは首を横に振ると「これがいいの〜」と、自分が手に持っていた絵本を見せた。

 その絵本のタイトルは“桃太郎”。典型的ともいえる日本の昔話だ。

 女の子が好むお話としては珍しいともいえるが、しおりは以前にも彼女がこの絵本を持っていたことを思い出す。もしかするとお気に入りのお話なのかもしれない。

「うん。それじゃあ、のぞみちゃんのお部屋に戻りましょう。良い子にして、お布団に入ったら読んであげるね」

 しおりはそれだけ言うと、両親にも一言だけ帰った事を知らせる。それからは着替えるのを後回しにして、まずは従姉妹を寝かしつけることにした。

 のぞみが泊まっているのは一階にある和室のひとつ。彼女がこの家にいる間、夜はしおりの母親が一緒に付き添って眠っている。

「さあ、お布団に入って」

「はーい」

 のぞみは素直に返事すると、すぐに布団の中へと潜りこむ。

 しおりも彼女の横に腰をおろすと、見えやすいように“桃太郎”の絵本をひらく。

「それでは桃太郎のはじまりはじまり〜」

「わ〜い」

「むか〜し、むかし。あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでおりました」

 しおりは感情を込め、優しく柔らかい声で朗読をはじめた。

「おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯にいきました…………」

 そこまで読み進めた所で、のぞみが「ねぇ、ちょっといい?」と声をかけた。

「ん?」

「あのね、おばあさんがせんたくっていうのはわかるんだけど、この絵のおじいさんはどうしてゴルフの道具をもってないの?」

「え? ゴルフ? なぜ?」

 しおりはピンとこなかった。桃太郎でゴルフをするなんて内容あったっけ? 

 いや、ない。絶対にない。そもそも桃太郎の時代にはゴルフそのものもない……と思うのだけど。

「だって、おじいさんは山へしばかりだよ。しばかりってゴルフに行くことじゃないの?」

「それは何か違うと思うよ……」

「おかしいなぁ。いつもおとうさんがゴルフに行くとき、おかあさんが「また、しばかり?」とか言ってるのに」

「ああ。なるほど。そういう意味」

 少し納得がいくしおり。同時に叔母さんは叔父さんに対して、なかなか手厳しいシャレを言うんだなあ、と苦笑。

「少なくともこのおじいさんはゴルフをしにいってるんじゃないよ。しばかりってそういう意味じゃないから」

「じゃあ、どういう意味?」

「しばかりっていうのはね…………」

 説明しようとして、しおりは途中で言葉に詰まった。

(あれ? 冷静に考えてもみれば、しばかりってどういう意味なんだろ?)

 しばかりっていうくらいだから、芝を刈るのだろうか? だとすればガーデニングみたいなもの?

 でも、山をガーデニングして何か生活の役に立つのだろうか? おばあさんは真面目に洗濯物しているのに、おじいさんは役にも立たないガーデニングっていうのも変な気がする。

「おねえちゃん、どうしたの?」

「あ、ごめんね。ちょっと変なこと考えちゃって」

「ふ〜ん。よくわかんないの。で、しばかりってなあに?」

「…………しばかりっていうのは」

 どうしよう。芝を刈ってのガーデニングというのは絶対おかしい気がするし、もし間違っていようものなら大恥だ。

 そもそも子供にデタラメを教える訳にもいかない。

 それ以前に。

(わたし、絵本作家を目指してるのに、こんなことも知らないでいいの?)

 しおりは少し自己嫌悪に陥った。

「どうしたの? おねえちゃん。もしかして、わからないの?」

「えっと。その……」

「やっぱりゴルフのことじゃないの?」

「それは絶対に違うよ」

「じゃあ、しばかりって何することなの?」

「だからそれは…………」

 結局しおりは答えらしい答えも見出せず、どんどん歯切れが悪くなる。

「もういいよ。わかんないみたいだし。おねえちゃん、おとなのくせに頼りない……」

 のぞみには悪気などなく、単に思ったことを口にしただけなのだろうが、しおりには結構ショックな一言だった。

 おとなのくせに頼りない。

 まあ、のぞみからみれば十分な大人に見えるのだろうけど、しおりはこの春に高校二年生になったばかり。成人を迎えていないという意味では、まだまだ子供だったりするのだけど。

(ああ。だめだめ。そんな言い訳を自分でしちゃ駄目だよ)

 しおりは頭を振って甘い考えを振り払おうとした。

 だが、そこへ更なる追い討ちが耳に響く。

「頼りないから、あんなヘンな絵もかいちゃうのかなぁ」

「え?」

「ほら。このまえおねえちゃんがかいてくれた絵。イヌさんの色がおかしかったもん。緑色のイヌさんなんてヘンだよ。あんなの本当はいないんだよー」

「それは本物を意識したとかじゃなくて、絵だし可愛い色の方がいいかなって」

「あんなのかわいくないよー。きもちわるいよ。ほかの絵もみんなへんだったし」

 のぞみの手厳しい言葉は、しおりの胸に容赦なく突き刺さった。

 絵や色彩感覚には少し自信があったつもりなのに、あっけなくそれを砕かれた気がする。

 しばかりの意味を知らないというのも恥だったが、自信のあった絵にまで文句をつけられてしまってはどん底に落とされた気分。

 言い訳をすれば、のぞみの好みに合わなかっただけともいえるのだが、彼女くらいの年頃の子に共感してもらえなかったというのは、それはそれで致命的ともいえたりで…………

 自分を慕ってくれるのは嬉しいが、言いにくいこともズケズケと言ってくれるあたりは、さすが叔母さんの子というべきだろうか。夫のゴルフを“しばかり”と表現するような人の娘だけに、血は争えないと思った。

 その後はなんとか“桃太郎”を読み終えるものの、どう読んだかなんて殆ど覚えていなかった。しおりが心に受けたダメージは思いのほか大きく、心ここにあらずといった状況だったから。

(はあ。情けないなあ、わたし。こんなことで本当に絵本作家になれるのかな?)

 後でやってきた母親にのぞみのことを任せたしおりは、とぼとぼとした足取りで自室へと戻る。そして、着替えもせずにベッドへ寝転がり深い溜め息をつく。

 憧れの作家のようになろうとすれば、まだまだ勉強も必要だろうし、センスだって必要だろう。ただ、もっと必要なものは、作品の評価をどんなふうに下されようとも頑張っていける図太さ。

 絵本作家になったら、彼女の作品が多くの人の目に触れるかもしれないのだ。そんな時、全部が全部、好意的な評価であるとは限らないだろう。

 今みたいに、従姉妹の手厳しい一言だけで落ちこんでいる自分なんかでは、到底やっていける世界とは思えない。

 何もしないで諦めるようなことはしたくもないが、今のしおりは己の無力さばかりが頭をよぎり、前向きな思考ができなかった。

 …………しばかりの意味を辞書で調べることすらも忘れているのだから。それは結構重症かもしれない。

 

 

 

§

 

 

 日曜日。毎週この曜日だけは、上条家の朝は少し遅めに始まる。

 平日は朝の七時起きのしおりも、日曜だけは九時前くらいに目を覚ます。

 昨夜の出来事から一夜明けた事になる訳だが、あまり寝付けなかったこともあり、しおりの心は正直晴れていなかった。

 ちなみに今日は学校こそ休みだが、バイトにはいかなければならない。こんな靄のかかったような精神状態でバイトというのも辛い気はするが、日曜日はお客様が多いかもしれないだけに休むわけにはいかなかった。

 朝食を摂るため台所に行くと、のぞみはまだ寝ているとのことだった。母親の話によると、しおりが部屋に帰った後も何だかんだで寝付こうとせず、遅くまで起きていたのだという。

 もっとも、朝からのぞみと顔を合わせることがなかったのは、幸いというべきか。相手は何も思っていないだろうが、しおりにしてみれば少し気まずいものがあったから。

 しおりは手早く朝食を済ませると、立ち上がって母親に告げた。

「お母さん。私、今日はもうバイトに行くね」

「あら。まだ早すぎるんじゃないの?」

「たまには早めに行って、開店前の準備も手伝いたいし」

「それにしたって早すぎるとは思うけど」

「いいの。とりあえず用意したら行ってきます」

 さすがにのぞみと顔を合わせるのが気まずいなんて言えないしおりは、逃げ去るようにして自宅を後にした。

 普段の平日は学校を終えてからのバイトになるが、日曜日は正午の開店時間に合わせてバイトに入る。しかし、今はまだ午前十時過ぎ。母親が指摘したように少し早すぎる。

 さて、どうしたものだろう。しおりは少し考えた。

 天気は曇り空。晴れるような兆しは感じられない。厚く垂れ込めたどんよりとした雲は、いつ雨をもたらしても不思議ではない。

 この不安定な天候は、今の彼女の心を象徴するかのようだった。

(どこかに寄り道して雨が降り出しても嫌だし、真っ直ぐお店に向かうことにしよう)

 しおりはそう決めるとバイト先の紅茶館“さくら”へと歩を進めた。

 こうして自宅から歩くこと約二十分。街の中心地から少し離れた桜並木の通りに、彼女が働く紅茶館“さくら”はあった。

 名前の通り紅茶を専門に扱う店であり、店内での喫茶もさることながら持ち帰り用の茶葉の量り売りもしている。

 入り口にはまだ“準備中”との看板がさげられていたが、しおりは構わずドアを開けてみる。鍵はあいていた。

「あら?」

 ドアを開けるなり、床を掃除していた綾瀬まりあと顔が合う。

「…………おはようございます、まりあさん」

 しおりは挨拶をした。まりあはこの店に住む人間で、働く仲間であると同時に学校の先輩でもある。

「あっ、ええ、おはよう。どうしたの? 随分と来るのが早いけど」

「自宅にいてもやることがなくて。それで店の準備のお手伝いでもしようかと…………」

「そうなんだ。それは助かるわ。でも」

 まりあはじ〜っとしおりの顔を見つめた。

「しおりちゃん、何だか顔色悪くない? それにいつもと違って声にも張りがないような」

 いきなりそう指摘されしおりは、慌てて首を横に振る。

「大丈夫です。さっきまで考え事をしながら歩いてきたので、その切り替えがうまくできてなかったっていうか……」

「何か悩み事?」

「いえ、そんな大したことではないので…………」

 しおりはとにかくはぐらかすように言った。

 相談や愚痴なりを持ちかけるにしても、内容が内容だけに、自分の弱みを見せてしまうようで気が引けた。

「まあ、大丈夫ならそれでいいんだけど」

「すみません。朝から気を遣わせてしまって」

「そんな大層に謝らないで。私も軽く訊ねてみただけなんだし」

 まりあが苦笑する。

 その時、奥の部屋からもう一人、姿をあらわす女性がいた。

「あらら。しおりちゃん、おはよう。今日は随分と早いのね」

 思わず和んでしまいそうな優しい声。彼女はこの店の店長であり、まりあの義理の姉の綾瀬さやだ。

「おはようございます、店長」

「うん。おはよう。外、曇っているみたいだったけど、雨は大丈夫だった?」

「はい。わたしがここに来るまではまだ降っていませんでした」

「ならよかったわ。でも、このままだとそのうち降り出しそうね」

 窓の外に目を向けながらさやがつぶやく。

「天気予報では午後から下り坂とか言ってましたし、そうなるでしょうね」

 まりあも頷いた。

「でも、雨が降ったらお客様も少ないかもしれないわね。今日は案外楽できるかも」

 繁華街に面した店ならいざ知らず、街の中心部から少し離れた位置にあるこの店は散歩のついでなどで訪れる客の方が多い。よって今日みたいに天気の悪い日は散歩する人間も少なくなり、おのずと客足も遠のく。

「さやさん、それは店長の発言としてはいかがなものでしょう。普通なら商売繁盛を願うものでは?」

 まりあが苦笑しながら言う。

「それはそうなんだけど、わたしは適度に儲かるくらいでいいと思うの。優雅な時間を楽しんでもらいたい場所だし、わたしたちまで忙殺されるようでは、お客様も落ち着かないかなって」

「そういう考えもわからなくはないですが、どんなに忙しくても私たちの苦労をお客様に見せない努力の方が必要ですよ」

「じゃあ、そういう努力はまりあちゃんに期待ということで♪」

「それはずるいです。私だけが頑張っても仕方ないでしょうに」

 わざとらしく頬を膨らませるまりあ。このやりとりを楽しんでいる感じだ。

「うふふ。わかってるわよ。冗談よ、冗談」

 そう言って笑い合う彼女たちは、血が繋がらないとはいえ本当に通じ合った仲の良い姉妹。しおりはそんな二人の関係を羨ましく思う。

「さあ、改めてお仕事の準備にかかりましょうか」

「それじゃあ、わたしも着替えてきます」

 店の制服に着替えるべく、しおりは奥の部屋へと向かおうとする。そこへさやが声をかけた。

「着替え終わったら、いつものように黒板お願いね」

「…………黒板ですか」

 しおりは少し固まった。

 紅茶館“さくら”では営業前、店先に小さな黒板を出す。それには今日のおすすめメニューやちょっとしたコメント。そして、可愛らしいイラストが日替わりで描かれる。

 これはしおりのアイデアなのだが、アイデアを出した当人として黒板の担当はしおりの仕事だった。

 しかし。

 今のような精神状態でまともなイラストが描けるだろうか?

 のぞみに“かわいくない”、“きもちわるい”と評されているせいもあってか、自分の描く絵に少し自信をなくしているのもある。

「…………善処してみます」

 しおりはポツリとそう答えて着替えに向かった。

 その言葉にさすがに違和感をおぼえたさやは、まりあに小声で訊ねる。

「今日の彼女、ちょっと様子が変じゃない? 何かあったのかしら」

「わたしも詳しくはさすがに。何か考え事をしているみたいなことは言っていましたが」

「深刻な悩み事じゃなければいいけど」

「大丈夫とは言ってましたが、わたしたちに気を遣ってのことかもしれませんね。でも、彼女が話したくないことであれば、しばらくは黙って見守ったほうがいいかもしれません」

「そうね。今はそうしようか。あまりにも辛そうにみえたら、それからでも声をかけてあげればいいと思うし」

 さやとまりあはお互い顔を見合わせて頷いた。しおりはお店の大事な仲間であり、愛らしいマスコット的な存在でもある。そんな彼女の元気がないというのは、それだけで周りの調子も狂ってしまうだから。

 

 

§

 

 制服に着替え終わったしおりは、さやに頼まれた通り黒板と向かい合った。

 本日のおすすめのメニューは、ニルギリをベースとしたラベンダーティーとのことなのでまずそれを記す。それからはしおりのコメント文とイラストになるのだが、やはりそこで止まってしまう。

 何を書くべきか全然思いつかないのだ。いつもならスラスラと仕上げてしまえるというのに。

 コメントは別に紅茶のことに限る必要はない。しおりが感じたことや、ちょっとした日常の出来事を書くことだってある。ネタは自由なのだから、何かは書けても良いはずだった。けれど。

(どうしてこんなところで詰まるかなぁ)

 やはり何も思いつかない。いや、むしろ思いついてもパッとしないというべきか。

【今日の天気はどんより雨雲。わたしの心は既に豪雨。足元はぬかるみで歩きづらくて先に進めません】

【午後からの雨はどれだけ降るのでしょう? 道の先すら見えない大豪雨? なんだか今日のわたしにお似合いの天気】

 …………とまあ、思いつくのがこんなのばかりで、しおり自身へこみたくなる。少なくとも、こんな暗いコメントの店に誰が入りたがるだろう? 

 とにかくこれでは駄目だ。無理にでも明るく前向きにしなきゃいけない。

【やっほー。わたし、しおり! 今日は天気も心もどんよりだけど、わたし負けないゾ。だって女の子だもん】

 …………これは明るいかもしれないけど、あからさまに無理やりな気がする。最後なんか意味不明だ。女の子だから負けないという理屈がさっぱりわからない。

(そもそもこんなのわたしのキャラクターじゃないわ)

 結局これはボツ。とりあえず次。

【雨にも負けず、風にも負けず、中略、そういうしおりに、わたしはなりたい】

 …………宮沢賢治のパクリ? 前向きだけど何か暗い。

(それにわたし、雨や風に負けてる訳でもないし)

 しおりは深い溜め息をついた。コメントですらこの有様では、イラストに至ってはまともに描けるか怪しいものだ。

 こんな風につまづいている間にも時間はどんどんと流れていく。これでは他の準備を手伝うどころの話ではない。

「しおりちゃん、黒板の方はどう?」

「あ、まりあさん」

「…………あまり順調ではなさそうね」

 まだおすすめメニューしか記されていない黒板を見て、まりあは苦笑する。

「すみません。今日に限って何も思いつかなくて」

「珍しい。でも、たまにはそういう日もあるよね。とりあえず今日はこの状態で黒板だしとこうか?」

「そうしてもらえますか…………」

 しおりは申し訳なさと情けない気持ち一杯だった。プライベートでの心の乱れを仕事にまで持ち込んでしまうなど、バイトの身とはいえ、あってはならないことだ。

 こんな時はつくづく思い知らされる。自分は何て弱く、脆い存在なのかと。

 彼女の憧れる偉大な作家たちは、きっと自分みたいに弱くはないだろう。それは勝手な想像にしかすぎないのだが。

 その時、しおりはまりあの方を見て、ふとあるものに気がついた。手に赤い傘を持っているのだ。

「まりあさん、どこかに出かけるのですか?」

「ちょっと駅前のショッピングセンターまで買い出し。砂糖が少し足りないみたいなの」

「早めにわかって連絡をくれていれば、私で駅前まで寄ってきたんですが……」

「まあ、気がついたのは今さっきだしね。まだ来ていないふみかさんにお願いしようかとも思ったんだけど、電源を切っているのか携帯が通じないし」

「…………そういえば、今日はまだふみかさん来てないんですね」

 二人の言うふみかという人物もこの店の店員であった。さや、まりあ、ふみか、しおりの四人が、紅茶館“さくら”を切り盛りするスタッフなのだ。

 今日はしおりが早く来過ぎたというのもあるが、普段はふみかの方が彼女より先に出勤している。

「病院に寄るから遅れるとかいう連絡はあったわよ」

「病院? 怪我とかされたんですか?」

 日曜日に病院なんて聞くと大きな救急病院を想像してしまう。

「あ、ふみかさんは大丈夫みたいよ。でも、ここへ来る途中で知り合いのお婆さんを見かけたとかで、その人が病院に行くらしいので少し車で送っていくんだとか」

「それはまたふみかさんらしい親切ですね」

 しおりは素直に感心した。ふみかは一見、あまり愛想の良い女性ではないが、義理人情に厚く、困っている人間は見過ごせない性格だ。極悪非道の悪に虐げられ、過酷な法の冷たさに泣く人々を助け、励まし、またある時は影のように支える……というような、どこかの時代劇であったような台詞をモットーにしているとも聞く。

 半ば冗談みたいにも聞こえるが、淡々と無表情にそのような事をいうあたり、ふみかという人物の心の中をうかがい知るのは難しい。どこまで本気でどこまで冗談なのか、実にわかりにくい女性なのだから。

 ただ一つだけはっきり言えるのは、ふみかは相当有能な女性であるということ。様々な知識に長け、仕事の手際も良かった。

 とっつき辛い点を除けば、しおりとは対照的な感じだ。見習うべき所は多い。

「あの、まりあさん。お砂糖の買い出し、わたしの方で行かせてもらえませんか?」

「それは助かるけれど、いいの? 砂糖以外にもいくつか買い足したいものがあるから少し荷物になるけど……」

「いいですよ。わたしもついでに買っておきたいものがありますので」

 しおりは嘘を言った。特に買いたいものなんてないのだが、どこかで役に立たないとまりあたちに申し訳ない。

「それじゃあ、お言葉に甘えてお任せするわね。買ってきて欲しいものメモするから少し待って」

「お願いします」

 その後はメモと傘、そしてお金を預かり、しおりは再度私服に着替えて駅前の商店街へと向かう。

 まだ雨は降っていないが、やはりいつ降り出してもおかしくなさそうな状態だった。なので少し早足で歩く。商店街までの片道時間はおよそ十五分。買い物の時間も含めると往復で四十分近く。降りだす前に用事を済ませてしまいたい。

 こうして商店街まで辿り着いたしおりは、駅前のショッピングセンターでメモに書かれたものを買い揃えてゆく。時間はそうかからなかったから、このまま帰れば予定通りといえる。

 しかし。ショッピングセンターで出て、少し歩いた所で声をかけられた。

「こんにちは」

 相手はごく自然に話しかけてくるが、見知らぬ中年の男性であった。しおりは思わず立ち止まってしまうが、それがいけなかった。

「貴女は今の日常に満足していますか?」

「……え」

「今、世界では沢山の若い人が自分の生き方に疑問を持って過ごしています。そして悲しいことにそれらはすべて……」

 しおりの戸惑いなどそっちのけに、男性は話を続けていく。軽薄なナンパ行為という訳ではなさそうだが、何らかの宗教勧誘か、それに近いもののように思えた。

 こんな日に限って、こういう相手に捕まってしまうのはついていない。別に相手の考えまで否定する気はないが、しおりとしては尻込みしてしまうものがある。

 それとも神は、悩めるしおりに救いをあたえようと、このような出会いを仕組んだのだろうか?

「…………とまあ、そういうことで自分たちの会ではそういう悩みをもった人たちが集まり、毎日のように集会を開き……」

「すみません。わたし、急いでますので」

 次第に熱を帯びてゆく男性の言葉を遮り、しおりは弱々しい声でそれだけ言った。

 だが、相手もそれくらいでは引き下がらない。今度は鞄の中からパンフレットのようなものを取り出してくる。

「とりあえず自分たちの会を理解してもらう為にも、まずはこの写真を見てもらえますか? この写真にあるように多くの仲間がいてですね……」

 しおりの言葉など無かったように流される。さすがにこれには彼女も困った。

「あの、わたし本当に急いでますし、今はそういうものに興味もないので。ごめんなさいっ」

 とにかく強引にでも振り切るしかないと判断する。しかし、そんな彼女の腕を男性は掴んだ。

 まさかそこまでしてくるとは思わなかっただけに、頭の中が真っ白になる。悲鳴こそはあげなかったが、怖かった。

 男性の方はそんな無礼を詫びる様子もなく、しおりの腕を掴んだまま話を続けようとする。

 だが、次に男性の口から漏れ出たのは、話の続きではなく苦悶の声だった。

「イタタタっ!」

 確認すると男性の片腕を捻り上げている人物がいた。それも、しおりがよく見知った人物だ。

「ふみかさん!」

 まるで救いのヒーローと遭遇したかのように、しおりがその名を呼ぶ。そう、そこにいたのは夕月ふみかだった。

「嫌がる少女の腕を取り、己が話だけを強要しようなど、外道じみた行いと心得られよ」

 どこか時代がかった口調でそう言いながら、ふみかは男性の腕を放してやる。

 その後にはしおりも開放はされるが、男性の方はまだ懲りていないのか、今度はふみかに弁解をはじめる。

「別に自分は悪いことをしていたのではなく、人としての救いを…………」

「黙れ。己が非も理解できぬ者が、救いを与えようなど傲慢の極み。これ以上の無法を貫くとあらば、天に代わって誅伐致す」

 言い方は大仰しく芝居がかっているが、淡々と語るふみかにはある種の迫力はあった。表情を感じさせないので何を考えているのかわかりにくいのもあるが、それがかえって真に迫った何かを思わせたりもする。

 そして、眼光も鋭かった。

 男性はそれに射竦められ、最後にはしぶしぶと立ち去っていく。

 その姿がようやく見えなくなった所で、二人はホッと肩の力を抜いた。

「大丈夫ですか? しおりさん」

「あ、はい。なんとか。ありがとうございます。でも、ふみかさん、どうしてここに?」

「いたいけな少女のピンチを察して…………というのは冗談で、私用の買い物で立ち寄ったのです。しおりさんもお買いものですか?」

「はい。お店の方で足りないものがあったそうなので、それを買い出しに。本当はふみかさんに頼もうとしたらしいのですが、携帯が通じないとかいうことで」

「…………それは申し訳ありません。さっき知人の付き添いで病院の中まで立ち寄った際、携帯の電源を切ったままにしてました」

「なるほどそうだったのですか」

 とりあえずしおりは納得した。

「それよりもしおりさん。私の方から、もうひとつ訪ねたいことが」

「何でしょう?」

「先程の私、かっこよかったですか?」

 特に表情も変えず素っ頓狂なことを聞かれる。先程のというのは恐らくあの男性を退けた時のことだろう。

「ええと……かっこよかったと思います」

 しおりはそう答えておいた。彼女のこういった質問は今にはじまったことではないから。

 夕月ふみかという女性は知的でクール、トップモデルもかくやという容姿とスタイルを誇ってはいるが、性格はこの通り独特すぎる。本気と冗談の区別がつきづらく、見た目と発言とのギャップは色々あった。

「それはよかった。最近、気に入っている時代小説の主人公を真似てみたのです」

「はあ……」

「“剣客若様流れ旅”という作品なのですが、ご存知ですか?」

「残念ながら。あまりそちら方面は詳しくなくて」

「よければおすすめしますよ。主人公、有馬竜之進殿が悪人に対して語る台詞の数々は、痛快この上ありません。とても憧れます」

 言葉は淡々としているが、ふみかの語るそれは、小さな少年が正義のヒーローに憧憬を抱くのと似ていた。恥ずかしがることも無く、そのような事を語れる彼女を、しおりはある意味で羨ましく思う。それだけ純粋だとも言えるのだから。

「いつか私も、竜之進殿のような大活躍をしてみたいものです」

 その言葉には、さすがのしおりも目を丸くする。ふみかの言う竜之進殿がどんな活躍をしているのかまではわからないが、悪人を相手に戦っているのだとすれば、さすがにそんな状況は今の世の中そうありえないだろう。

 もし、そうありたいと願うならば、警察関係の仕事で犯罪者相手に活躍するしかない。もっともふみかなら、敏腕女刑事という肩書きも似合いそうだが。

「私、何か可笑しいこと言いましたか?」

「あ、いえ。すみません。ちょっと突飛すぎるかなと思って」

 謝りながらも、思った感想は告げておく。ふみかもそれには頷いた。

「確かに突飛な発想だとは思います。ですが、常に何かに憧れを持つことは自分を成長させる上での糧ですから。それがどんなものであれ」

「…………そうですよね」

 しおりは頷いた。こういう意見を聞くと、ふみかの大人っぽさもちゃんと意識できる。

「しおりさんも何らかへの憧れとかあるでしょう? 絵本作家になるというしっかりした夢をお持ちなのですし」

「わたしは……どうでしょう」

 いきなりそのような事を聞かれるとは想像もしなかっただけに、しおりは少し戸惑った。

 こんな質問で口ごもるなんて、昨夜以前には考えられなかったことだ。だが今は、何だか自信がない。

 確かに憧れというのはある。自分もこうなりたいという。

 しかし、今はその憧れに程遠い自分を認識させられ、それに押しつぶされてしまいそうな気分だった。きっかけは些細なことからなのに、あれだけのことでこんなに落ち込んでいる自分にも嫌悪がある。

 そんなしおりの様子から只ならぬものを感じたのか、ふみかはこう告げた。

「とりあえず私の車で店まで一緒に戻りましょうか。もし、しおりさんで話したいことがあれば車の中で聞きますが」

 それは強制してまで聞かないという意思表示でもあった。

 しおりはそんな彼女の配慮を少し嬉しく思う。同時にそれが、しおりの心を決めさせるきっかけともなった。

 ふみかになら、自分の胸のうちを話してもいいかなという。

 何となくではあるが、彼女なら今の自分にひとつの答えを与えてくれそうに思えたのだ。

 

 

§

 

「…………なるほど。そのようなことがあったのですか」

 ふみかの車に乗せてもらうなり、しおりは昨夜の出来事と自分の抱えている胸のうちを彼女に打ち明けた。

「こんなささいなきっかけからこう言うのも偉そうとは思いますが、理想と現実の違いを思い知らされた気分です」

 他者から見れば「何を大袈裟な」と思われそうだが、彼女にとっては切実な悩み。

 ふみかはすぐには何も答えず、車を走らせはじめた。そして、ひとつめの信号に引っかかった所で口を開く。

「しおりさんはそういう事で悩むタイプの人なんですね」

 どういう意図があるのかわからないがそう言われる。

「変でしょうか?」

「変とまでは言いませんが、しおりさんが目指している絵本作家という夢は、それだけのことで打ち砕かれるほど小さな事なのですか?」

「…………そうは思いたくありませんが、今こうして落ち込んでしまっている以上はそうなのかも」

 認めたくはないが認めるしかない。所詮、自分の器なんて、こんなものかもしれないのだと。

「重症ですね」

「情けない話です」

「しおりさん。あまり自分を追い詰めるような卑屈な発言はよくありません。そうすればするほど本当に情けなくなるだけです」

「でも、事実を述べているだけですし」

「ならばお聞きしますが、しおりさんはその事実を認めた上で私に話を聞いて欲しいだけなのですか? それとも悩みとして相談にのってほしいのですか?」

 鋭い切りかえしだった。ふみかとしては聞く側としての姿勢を決めたいのであろう。

 しおりはすぐには答えられなかった。彼女に胸のうちを明かしたまでは良いが、その後に自分が何を望んでいるかまでは考えていなかったからだ。

「聞き方を変えます。しおりさんは理想と現実の違いを思い知らされたとは言いましたが、それを知った上でもう夢を諦めるのですか?それとも諦めきれないのですか?」

「わたしは…………」

 答えにくかった。

 でも。こういう風に答えがでにくいというのも、まだ未練があるということの裏返しかもしれない。

「どうしたいのかわかりません。でも、諦めるのも辛いです」

 しおりは顔をうつむけ、泣きそうになりながら答えた。

「ならば私は、悩み相談と受け取って答えを返しましょう」

 信号が青になり、ふみかは再び車を走らせながら言った。

「とりあえずしおりさん。悩んでいる時の自分の気持ちなんて、半分以上はアテにはなりません。不必要に自分を追い詰めてしまうのも、それが事実だからというよりは、誰かに甘えてその事実を否定してもらいたいという気持ちがあるんだと思います。ですが、私はそういう慰めは下手なので、このまま前向きな解決策の話を進めます」

「……………はい」

「その前に、自分を追い詰めるような発言を控えると約束してくれますか?」

「わかりました」

 しおりは頷いた。ふみかは真面目に答えようとしてくれている。そんな中で自分が卑屈な発言を繰り返そうものなら、話を混乱させてしまいかねない。それは相談に乗ってくれる相手に失礼というものだ。

「では、しおりさん。まずあなたはもう一度、初心にかえるべきです。絵本作家を志そうとした時のことを思い出しましょう」

「初心ですか」

「そうです。あなたが絵本作家になりたいって思ったきっかけは何ですか?」

 ふみかにそう言われ、しおりはそっと目を閉じる。そして、記憶の糸を辿ってみる。

「…………わたし、子供の頃からものすごく甘えん坊だったんです」

 しおりはゆっくりと思い出しながら語りだした。

 優しいお父さんやお母さんと一緒に、とても楽しく過ごした日々。

 沢山の絵本を読みきかせてもらった時の事。

 そしてそんな絵本の中には、しおりたちの家族みたいに、幸せが一杯つまった物語があった事などを。

「今でも家族や人々の絆を描いた絵本を見ると、幸せで優しい時間の思い出が甦ってきます。その時に絵本ってすごいなーって思いました。決して小難しいことを語るわけでもなく、優しげな文章と絵で気持ちを温かく満たしてくれるんです。だからわたしもこんなのが描けたらいいだろうなって」

 絵本には人の気持ちを安らがせる魔法があると思う。勿論、扱う作風のものにもよるが、大抵の絵本にはどこか優しさがこもっている。

 子供には優しさの根本や何かを愛おしむ気持ちを教え、大人には懐かしさと優しい気持ちを思い出させる。しおりが大好きなのは、そういった絵本だった。それはふわふわのぬいぐるみにも勝る、更にふわふわっとした世界。

「それがしおりさんにとってのきっかけなのですね」

「はい」

「ならば今一度、沢山の絵本を読み返してはいかがですか。大切な気持ちが甦ってくるかもしれませんよ」

「その通りかもしれませんが、正直少し怖いのがあります」

「なぜです?」

「絵本を読み返すことによって、自分の無力さも痛感するんじゃないかって思うんです。偉大なる作家たちと比べて、わたしには技術も表現力も足りないって再認識するのが怖いんです」

「それはまた難儀ですね」

 ふみかは小さく溜め息をついた。

 呆れさせただろうか? それとも怒らせてしまっただろうか?

「すみません。現役の絵本作家さんと比べるなんて変ですよね。わたしとは比較にならないのは当然なのに」

「いえ、そうじゃありません。しおりさん、あなたは何になりたいのですか?」

 ふみかは“何になりたい”を少し強調して言った。

「何って……絵本作家で…」

「じゃあ、しおりさんがなりたいのはアンドレ・ダーハンですか? それともゲオルグ・ハレンスレーベン?」

 ふみかはしおりの好きな作家の名前を挙げる。

「わたしは別にその人たちになりたい訳じゃ…………」

「そうですよね。しおりさんがなりたいのは上条しおりという絵本作家だと思いますから」

 ふみかのその一言は、しおりの胸に深く響いた。

「他の作家さんと比べてしまう気持ちはわからなくありません。でも、上条しおりという作家を目指すのであれば、真に比較すべきは過去の自分。そして、上条しおりはアンドレ・ダーハンやゲオルグ・ハレンスレーベンとは違った個性を見出せるかもしれない。そう考えてはどうです?」

「ふみかさん。それはなんだか大胆すぎます」

 しおりは苦笑した。

 だが、苦笑とはいえ笑みがこぼれたことに驚く。もしかすると、どこかで気分が晴れてきている証拠かもしれない。

「…………でも、そのように考えられたらいいでしょうね」

「いいでしょうね、ではなく、そう考えるべきです。あと、そもそも根本的な間違いは、理想と現実の違いを知ったとか言っていることです。少しの失敗程度でそれを悟るには早すぎます」

 もっともな指摘ではあった。

「しおりさんはまだまだこれからなんです。その気があれば取り返しはききます。勉強して学べばいいんです」

「とても普通なアドバイスですね」

 しおりはそっと目を閉じて呟いた。だが、その言葉に悪意はない。

 普通で当たり前のことこそが大切だということを、しおりは誰よりもわかっているつもりだから。

「小難しいことを言うよりは心に響くと思いますが?」

「そうかもしれませんね」

「私は慰めが上手い人間ではないのでこれが限界ですが、店長やまりあさんならもっとうまく心に響く言葉を言えたでしょうね。あの方たちは優しいですから」

「そんな! ふみかさんだって充分、優しいですよ」

 しおりは反射的に言い返した。彼女は言葉こそ淡々とはしているが、決して突き放すこともなく、最後まで真面目にむきあってくれる。

「……今回、自分の胸の内を話したのは、まだふみかさんだけなんですから。わたしはそれだけふみかさんを頼りにしているんです」

「光栄ですが、どうしてまず私に?」

「最初は何となくだったんですけど、今はその理由が自分でもわかりました。ふみかさんは、わたしを甘やかすことなく励ましてくれるんじゃないかなって期待していたんだと思います」

「なら、私はその期待に応える事ができたでしょうか?」

「充分なほどに」

 そう言ったのと同時に、しおりは自分の心の中のモヤモヤが段々と消えていくのを自覚する。

 決して全ての悩みが無くなった訳ではないが、気持ちを新たにして頑張っていこうかなくらいには思えてきた。

「でも、また同じようなことで落ち込みだしたら、その時は再び相談に乗ってくれますか?」

「私で力になれるなら何度でも」

「ありがとうございます。なるだけはそうならないようには努力しますが」

「無理はいけませんよ」

 ふみかは微笑し、言葉を続けた。

「理想と現実の壁は時としてプレッシャーになるかもしれませんが、諦めない限りは少しずつでも壁を登ることができると思います。仮にもし諦めてしまったとしても、それは永遠の終わりじゃありません。どこかでもう一度頑張ろうって思えば、そこからスタートできるものもある訳ですから。ましてや道はひとつじゃない。自分の培ってきた経験から、新しい可能性だって見出せるのかもしれないんです」

「そう考えると、なんだかすごいですね」

「ええ。気持ちひとつで自分の可能性はいくらでの広がるんです。少なくとも私は、しおりさんにそのように頑張ってもらいたいですね。…………しおりさんの絵やお話、結構好きですから」

「ふみかさん…………」

 しおりは何だか照れくさくなった。このタイミングで最後の一言は反則だと思う。

「さて、少しは心も晴れたようですし、お店に真っ直ぐ向かいますか」

「あ、はい」

 外の景色をよく見ると、普段は通らないような場所を走っていた。相談が一段落するまで、ふみかは適当な道を遠回りしてくれていたのだろう。

「それとしおりさん。しばかりの意味なのですが、しばは柴犬の“柴”で表現します。そして“柴”というのは背の低い木のことを指します。それらを刈って持ち帰り、薪や炭にしたりするんです」

「納得しました。そういう意味だったんですね。さすがにガーデニングはありあえないと思ってましたが」

 しおりは素直に感心する。そして改めて思った。彼女は本当に何でも知っているんだなと。

 絵本作家を目指すのも良いが、まずはふみかのような女性を目指してみるのもアリかもしれない。どこまで近づけるかは別として、憧れる気持ちを持つのはやはり悪いことではないと思うから。

 

 

§

 

「おかえりなさい、しおりちゃん。あ、ふみかさんも一緒だったんですね。丁度良かった」

 紅茶館“さくら”に戻ったしおり達を出迎えたのは、まりあのそんな一言だった。

「何かあったんですか?」

 しおりがきょとんと訊ねる。

「今、さやさんが紅茶を淹れていて、そろそろ出来上がる頃だから」

 まりあがそう言うのと同時に、さやが姿をあらわす。その手にはティーカップを載せたお盆を持っている。彼女はしおりとふみかの姿を見て取ると、優しい笑みを浮かべた。

「二人ともグッドタイミングで来てくれたわね♪」

「さやさん。その紅茶、先に二人へまわしてあげましょうか」

「それがいいわね」

 まりあの言葉にさやは頷くと、しおりたちにお盆の上の紅茶を勧めた。

「さあ、お仕事前に元気の出る一杯をどうぞ」

 そうやって勧められた紅茶はロイヤルミルクティーにスライスしたバナナを浮かべた、バナナミルクティーだった。

 しおりとふみかは早速それを受け取ると、冷めないうちにということで先に口をつける。

「わぁ、甘い」

 たっぷりのミルクに馴染んだコクのある紅茶に加え、バナナのとろけるような甘みがなんともいえなかった。

 少し甘ったるすぎる気もしないではないが、しおりはこれくらいの方が好みだった。

「どう? 気に入ってもらえた。しおりちゃん向けに甘めに仕上げてみたのだけど」

「わざわざ私向けにですか?」

「だって、しおりちゃん、少しお疲れみた…………」

 さやはそこまで言って「あ!」という顔をする。隣では、まりあが仕方ないなぁという顔でため息をつく。

 その様子から察すると、彼女たちにも気を遣わせていたのは明白だった。二人はそれとなくしおりを励ましてくれようとしていたのだろう。

「店長、まりあさん。ご心配かけたようですみません。でも、もう大丈夫です。ふみかさんと話しているうちに悩みも晴れてしまったので」

 しおりは少し照れながらも笑顔でそう言った。それを聞いたさやは、心底ホッとしたような顔をする。

「良かったわ。しおりちゃんが暗いままだと、店も寂しいんだもの。ふみかちゃんも彼女の相談にのってくれてありがとう」

「全然構いませんよ。困っている人を救うのは私の武士道ですから」

 また何やら訳のわからない例えをするふみかに、皆が笑った。

 それから、しおりは思いついた。

「あの、今からでも黒板の方、仕上げてもよろしいですか」

「ん? 何か閃いた?」

 まりあの問いにしおりは大きく頷く。描きたいものが思いついたのだ。

「少し手間はかかるかもしれませんが、なるだけ急いで描きあげますので」

「しおりちゃんが出来るっていうのであれば、描いてもらうに越したことはないわ。お店の方は何とかなると思うし、黒板の方お願いするわね」

「はいっ!」

 さやの許可もおり、しおりは早速作業に取り掛かった。自分の中のイメージが消えないうちに。

 

 

 しおりは自分の腰の高さほどの黒板にスラスラっとチョークを走らせる。

 イラストを添えられる範囲は限られているが、絶妙な大きさとバランスでイメージしたものを形にしてゆく。

 彼女が描いたのは、さや、まりあ、ふみか、そしてしおり自身をデフォルメした似顔絵であった。こういう形で店の仲間を描くのは初めての試みだったが、それぞれの特徴はうまく出ていると思う。

 そして、イラストが仕上がった後には、本日のおすすめメニューの下にこうコメントを入れた。

 

 

 

【外の天気は悪くても、お店の中はいつも晴れ模様☆】

 

 

 

〈了〉