第七章 想いこそは全ての力
ゆらりゆらりゆらり。
まるで自分が羽にでもなったかのように漂っている感覚。
はっきりとした意識はない。ただ、身体がそう感じているように思える。
心地よい反面、気持ちも悪い。
今まで感じたことのない感覚に、私は置かれている。
短い時間ならまだしも、ずっと続く揺れ。身体のみならず、心の中までゆらりゆらりと漂う。
現実では到底ありえない奇妙な感覚。ここでぼんやりとでも考えることをやめたら、身体と心はそのまま別々に離れていきそうだった。
自分の常識とはかけ離れた場所。ここは私の居場所ではない。
漂いに全てを委ねると、私という存在はどんどん希薄なものに感じられた。
このまま消えちゃうのかな?
ぼんやりとそう思った時、身体のどこかに鈍い痛みを感じた。
ぺちぺちぺち。
それは断続的に続く。痛いと言っても、それほど大した物でもなかった。
けれどその痛みは、私を現実に繋ぎとめてくれる。馴染んだ感覚であるからだ。
そして次の瞬間。
バコ〜〜〜〜〜〜〜ンっ!!
今度はクラッとくるような痛みが走った。何かに頭を殴られたのだ。
「イッタぁ〜」
思わず呻いて頭をおさえるのと同時に……。
「マコぽん、やりすぎなんだぞぉ。鈴音ちゃんがおバカになっちゃったらどうするのぉ〜」
「やかましいわい。おのれみたいにぺしぺし叩いとるだけやったら、いつ目覚めるかわからんやろが」
耳元に響き渡る良く知った声。私は意識をはっきりとさせた。
「マコトくん。それにティル?」
目を開けて訊ねると、そこには二人がいた。
「おぉ。鈴音ちゃん、目を覚ましたかぁ〜」
ティルが明るい顔で私を覗きこむ。
「ええ。どうにか……。誰かに頭を思いっきり殴られた感じがして」
「それはマコぽんの仕業だぞぉ〜」
「コラコラ。ワシが悪いことしたみたいにぬかすんやない」
「でもねぇ〜」
二人はまだ言い合いを続けそうだった。
「あのお。それよりもここは……」
意識がはっきりとしたきた私は、周りを見渡しながら呟いた。
周囲の世界は無限に広がる乳白色の空間。自分の身体は宙を漂っており、時折、遠くが霞んだりぼやけたりする。
「鈴音はさっきまでの事を覚えとらんのか?」
マコトくんが心配そうに訊ね、私は思い返そうと頭を働かせた。
「えっと……」
「ホレ。ワシらはヴェノスっちゅうやつの結界に閉じ込められ、異世界の狭間に呑み込まれたんやがな」
「あ、そういえば」
マコトくんの言葉によって記憶がどんどん戻ってくる。
私たちは、リートプレアの魔法評議会より派遣されたヴェノスという人により、この世界に吸いこまれたんだ。
「ということは、ここは人間界ではなく別の世界?」
「まあそういうことやな。厳密にいえば世界と世界を繋ぐ中間の場所やけど」
「なるほど。それで私は宙に浮いているような感じなんですね」
ここは私の常識とは異なる世界。そう考えると自分の状態にも、周囲の光景にも納得がいった。
ただ、そこまで話してひとつ思い出す。
「そういえばマコトくんまでどうしているんです? 最初はティルが吸いこまれて、そのあとは私で……」
「鈴音の想像する通りでエエ。ワシもあの姉ちゃんも、最終的にはこの世界に引きずりこまれてもうたんや」
「そうだったのですか。……それで、スーディアさんは今どこに?」
「あの姉ちゃんやったらそこにおる」
ホウキの柄がある方向をむく。すると確かに彼女がいた。
しかし見るからに様子がヘンだった。私のように宙を漂っている感じなのだが、剣を腕に抱え込んだまま身じろぎひとつしないのだ。
「まだ彼女、気を失ったままなのでしょうか?」
「いや、鈴音より先に意識は戻っとる。しかし、それ以降はずっとあの調子やねん。ワシらが話しかけても返事もかえさん有様や」
「……どうかなされたのでしょうか」
「それがわかれば苦労はせえへん」
「でも、安心はしました。こんな世界に呑み込まれたとはいえ、皆も無事みたいですし」
最初、意識が闇に落ちていったとき、もう皆とも会えないんじゃないかと思っていた。
実際はそれほど冷静に考える余裕もなかったのだが、本能的にそんな不安は走ったのだ。
けれど今は、皆が再び揃って話もできる状態にある。それだけでも心強かった。
「少しスーディアさんに話しかけてみます」
私はマコトくんたちにことわりをいれてから、彼女の元に近づいた。
「スーディアさん。ご心配をおかけしました。私もさっき意識が戻りました」
とりあえずそう呼びかけてみるが、返事はない。ただ、言葉が返らないかわりに、肩を竦めて身を丸くされた。
その様子からすると、私の言葉は聞こえているようだった。
「あの……スーディアさん?」
やはり様子がヘンだった。
と、その時である。
「今のスーディアは罪悪に苛まれておる」
彼女が抱えている剣より重い声が響いた。知性の剣(インテリジェンスソード)ウィムドさんのものだ。
「罪悪?」
「いかにも。汝らを救うこともできず、この狭間に呑まれたことを悔いておる」
「そんな。でも、それって別にスーディアさんの責任じゃありませんし」
「だが、ヴェノスなる奴を注意しておれば、このようなことにはならなかった。スーディアはヴェノスを多少でも信じたばかりに、取り返しのつかない状態に追い詰められたのだ」
「確かに裏切られる形になったのかもしれませんが、スーディアさんにも事情はあった訳ですし、ヴェノスという人を信じるしかなかったのでは? 確証もないまま疑うよりは、信じてあげたいものもあったことでしょうし」
「汝も甘いことだな。何も理解しておらぬから、そのような呑気なことを言える」
「……………」
「そもそも今、汝らが置かれた状態は……」
「ウィムド。もういい。あとはわたくしから話す」
突如、スーディアさんが口を開き、ウィムドさんを黙らせた。
「心得た。主よ」
ウィムドさんも了承の旨をかえし、彼女は俯けていた顔をそっとあげた。
「鈴音殿。本当に済まない」
顔をあげたスーディアさんは、いきなり私に謝ってきた。
それは、今まで見てきた態度の中でも、限りなく弱々しいものだった。少なくとも私の知る彼女らしくはない。
「スーディアさんが謝る必要なんてありませんよ」
私はできる限り、優しく言葉をかける。
「しかし、そうも言ってはおれぬ。わたくしが不甲斐ないばかりに取り返しのつかいないことになってしまった」
「でも、この世界に呑まれたのはスーディアさんの責任ばかりともいえませんよ。そんなことを言えば、私なんかにかかわったばかりに、このようなことになってしまったとも言えるのですから」
「………………」
「とにかく今は、責任の所在を問う前に元気を出しましょう。せっかく皆、無事だったのですから」
「元気を出せか……。生憎とそれができれば苦労はせぬ。もう手遅れで取り返しはつかないのだから」
自嘲気味に呟かれる。
やはり彼女らしくなかった。諦めにも似た悲壮感が伝わってくる。
「一体、どうしたというのです? スーディアさんらしくもない」
「鈴音殿も今、我々が置かれた立場を知れば、わたくしが落ち込む理由も理解できよう」
「置かれた立場って何なのですか? ウィムドさんもさっき、それらしいことを言ってましたが」
「ならば最初に確認をしよう。鈴音殿は、この世界がどういう所かご存知か?」
「えっと……異世界の狭間でしたっけ。それ以上はわかりませんが」
「うむ。鈴音殿の申す通りここは異世界の狭間だ。世界と世界を繋ぐ、曖昧な中間地帯と思えばいい。少なくとも普段の我々では認知できぬ空間だ」
「なんだかすごいのですね」
「まあな。そしてここは混沌の世界ともいえる。世界を繋ぐ中間である故に、数多の世界の法則が流れ込み、それが混濁している故に」
説明を聞きつつ、私は首を傾げた。
「あのお、世界を繋ぐといいましたけど、それって人間界やリートプレアのことですか?」
「その二つだけに限った訳ではない。ここはそれ以外にも、数多の世界の中間なのだ。よって、我々の知り得ぬ異世界に通じている場合もある。鈴音殿は魔法学院で召還魔術など習わなかったか? その時の講義で最初に教えられたことを思い出してみよ」
「召還魔術の講義ですか。確か最初に教わったことは、異世界のことについてですね」
「そうだ。召還魔術は異世界よりあるモノを呼び出す術だ。精霊を呼び出すには精霊界、禁断の魔神などを呼び出すには魔界という具合に、それぞれの異世界に呼びかけるであろう? 話を戻せば、この狭間はそういう世界にも通じているのだ」
「なるほど。少し理解できた気がします。つまりこの狭間は、世界同士を結ぶ回廊みたいなものと考えてもいいわけですね」
「そういうことだ。また異世界というものは確認されていないものも多く、実際にはどれほどの数が存在するかもわからぬ。リートプレアでわかっているものは、精霊界、妖精界、魔界、人間界といった異世界ぐらいだ」
スーディアさんの言葉に私も深く頷く。召還魔術の講義で教えられたことと同じだったからだ。
リートプレアの住人が、それらの異世界の住人とかかわりをもてたのも、まだ自分たちの概念で処理できる範囲だったからとも聞く。
ヘンな例えかも知れないが、こういうのって文化の違う外国人を理解するのに似ていると思う。最初は言葉や生活習慣の違いに戸惑いを覚えるかもしれないが、根本で自分たちの概念と共通するものがあれば、それを理解するのは難しいことでもない。
ただ、ここまで話を聞いていても、まだわからなかった。
自分たちの置かれた立場。スーディアさんが落ち込み、取り返しがつかないという理由が。
急かすのはどうかと思えたが、このまま話が逸れていくのも何なので、もう一度そのことを訊ねてみる。
するとスーディアさんは悲しそうな顔をした。
「やはり話さねばならぬか?」
「……できればお願いします」
私の頼みに、スーディアさんはゆっくりと頷いた。
「わたくしはさっき、ここが混沌の世界と言ったであろう。数多の法則が流れ込む混濁した場所だけに」
「ええ。覚えています」
「それが問題なのだ。この世界は数多くの法則や理が入り乱れ、まともな概念など存在しない所なのだ。つまりは我々の常識が通じぬ場所ともいえる」
「でも、それって大きな問題なのですか? 確かに常識が通じないのは困りますけど」
「冷静になって考えて見られよ。今まだこうやって話していられる内は良い。しかしこの狭間にとどまる限りは、わたくしたちは常軌を逸した体験をする事になる。それも並大抵のものではない。数々の法則が混ざりあった、理解の範疇を超えたものを見るやもしれぬ。そのようなものに晒され続けて、我々の精神が無事で済むとお思いか?」
「……それは」
正直、そこまでは考えもつかなかった。
自分の理解を超えるものを目の当たりにしたら、理性は崩壊するかもそれないということだ。つまりは発狂するのと同じこと。
「いかに我々が強い心を持っておったとしても、人の持ち合わす心には限界もある」
「そ、それじゃあ、そういう目に遭う前に、この狭間を抜け出さないといけないのでは?」
「普通ならそうなのだが、それはもう無駄だ」
スーディアさんは悲しげに首を振った。
「何故です?」
「この狭間ではわたくしたちの魔法は発動しにくいのだ。沢山の法則が入り乱れた世界だけに、“見えざる真理”に願いを届ける前にそれらが遮られるらしいからな。よってこの狭間から元の世界に戻る魔法を使うのは不可能に近い」
「そんな……絶対に不可能なのですか?」
「絶対とは言わぬ。リートプレアの大魔術師グイル・アルバー殿は、この狭間の調査に赴いた後、奇跡的な生還は果たしたからな。しかしその彼をもってしても、この狭間は危険と主張し、生き延びたことが信じられないと言う。大魔術師ならぬ自分たちでは、ここを抜け出すなど夢のまた夢だ」
落胆を隠せないスーディアさんの声。私も言葉に詰まる。
「我々が置かれた立場はこの通りだ。鈴音殿には謝っても謝りきれん」
「やっぱり、謝ることはありませんよ。スーディアさんが悪いのではないんですから」
「しかし絶望的な状況なのだぞ。わたくしがヴェノスを警戒しておれば、このようなことには」
「スーディアさん、落ち着いてください。仮にあなたに責任があったとして、私にどうしろと言うんですか? あなたを責めろとでも仰るのですか?」
「それは……」
「これが絶望的な状況というのならば、スーディアさんを責めても何の解決にもなりません。そんな不毛なことをするくらいなら、最後まであがいて、ここを抜け出る方法を考えましょう」
今の私にはそれしか言えなかった。
スーディアさんが絶望するだけに、それが無茶であることぐらいはわかっている。けれど、ここで一緒に落ち込むのは、私には耐えられそうにない。
「マコトくん、ティル。来てもらえますか」
とりあえず一人で考えていても仕方はない。
私は二人を呼ぶと、自分たちの状況をざっと説明した。そして意見を伺う。
このまま諦めてよいものか?、と。
その結果、マコトくんもティルも、私と同じ意見だった。諦めるよりは最後まであがくと言ってくれた。
私はスーディアさんに向き直る。
「皆、諦めることを良しとはしません。スーディアさんも一緒に考えてくれますね?」
ゆっくりと確認するように問う。
しかし彼女は、躊躇ったように顔を俯ける。
「……鈴音殿たちの気持ちはわかるが、わたくしたちだけでは無理だ」
「そんなこと言わないでください。諦めてどうするのです。このまま素直に滅びろとでも?」
さすがの私も、少し語気が荒くなる。
これはいけない兆候だ。明らかに焦りを覚えている証拠。
そこへマコトくんが冷静な声で割って入った。
「まさかとは思うが姉ちゃん。元の世界に帰りたないんちゃうか?」
「………………」
スーディアさんは答えなかった。マコトくんは、ふんっと唸る。
「何も言わんとこみると図星みたいやな。元の世界に戻ったかて、もう姉ちゃんの居場所も希望もないって思うとるんか?」
私たちは返事を待った。
そして、少し間を置いてからスーディアさんは口を開く。
「否定はしない。今の評議会にとってわたくしが疎ましい存在であることは、今回でよりはっきりしたのだ。いまさら戻っても、わたくし一人では何もできない。辛い思いを重ねるだけだ」
「姉ちゃんには家族や友人とかおらんのかいな?」
「わたくしは孤児ゆえ本当の両親は知らぬ。幼い頃、評議会の先代の長であるクリュス長老に引き取られ、そこでずっと育てられたのだ。家族や友人といえば、その当時の評議会の面々ぐらいだ。しかし今となってはその者たちもいないに等しい」
淡々とした言葉。翳る表情。
「一生懸命、評議会を建てなおすべく我慢は重ねてきたつもりだ。だが正直、もう疲れたのかもしれん。わたくしが真面目に頑張った所で、何がかわるという訳でもなかったのだ」
弱音。聞きたくはなかった言葉。
数々の悪い要素が重なって、スーディアさんは脆くなってゆく。
私は目を閉じた。自分にできることを冷静に模索する。一時の感情だけに流されないよう、ゆっくりと正しいと思える言葉を選ぶ。
そして。
私の言うべきことは決まり、それをびしっと口にした。
「いつまで一人でいるつもりですか!」
言葉を、鋭く打ち付けるように響かせる。余計な感情は混ぜることなく、ただ言いたい気持ちだけを込める。
空気が震えるような状態。スーディアさんのみならず、マコトくんたちもビクッと反応した。
「……鈴音殿?」
「スーディアさん。真面目に頑張って、何もかわんなかったなんて嘘です。あなたは理解していないかもしれませんが、確実にかわったものはあるんです」
「それは一体なんなのだ?」
「私自身です」
自分の胸に手を当て、しっかりと彼女の目を見据える。
「私、スーディアさんが頑張る人だってわかったから、あなたを信じることができたんです。信じて、好きになって……だからお友達とも思っているんです」
「友達か……先程の対決の後にも言っておられたな」
「はい。言いました。これは私の一方的な思いなので、迷惑だと言われればそれまでです。でも、スーディアさんが私のことを少しでも友達として思ってくれるのなら、悲しいことを言うのは止めてください」
「ワシも弱気な姉ちゃんは見たないぞ。アンタは自信ありげに堂々としとるほうが似合いや」
「一緒に元の世界に戻ること、考えるべきだぞぉ〜」
マコトくん、ティルも口々に言う。
しばらくの間、沈黙は続いた。スーディアさんの気持ちの整理がつくまで私は待つ。
「鈴音殿。わたくしはそなたに友達と言ってもらえるほど、立派な人間ではないぞ」
「誤解しないでください。立派だから友達じゃないんです。好きだから友達なんです」
これはまぎれもない気持ち。立派であるに越したことはないが、そんなのは二の次で良いと思った。
スーディアさんはそっと顔をあげる。
「こんなわたくしで本当に良いのか? わたくしも鈴音殿を信じて良いのか?」
不安の中にも、信じるものをみつけたいと願う表情。
今の彼女がこんな状況にあるのも仕方がないと思った。これまで評議会の内部でも、彼女は何を信じればよいのか判らない、不安定な状態であったのだろう。
人を信じたい気持ち。人を信じられない環境。それでもやはり信用するしかない現実。波のように感情は揺れ、その揺れを無理やり制してきたものは彼女の信念。けれど、その信念すらも貫けない状況に追いこまれたのが、今。
私はスーディアさんに力強く笑いかける。
彼女の力になってあげたい。友達として正しい道に戻してあげたい。
「信用にはこたえますよ。ですから、一人で悩むのだけは止めましょう」
私は言って、そっと手を差し出した。
スーディアさんの手もゆっくりとのび、やがてにはお互いの手が合わさる。
「うん。これでもう大丈夫ですね」
合わさった手。そっと力をこめて握ってあげる。
スーディアさんはグッと目を閉じた。
「……マコト殿。ひとつだけいいか?」
「なんやい」
「せめてこの瞬間だけでも、弱くあってもいいか?」
「ボケたことぬかすんやない。姉ちゃんは真っ当に信じれるもんみつけたんやろ。それやったらどないな姿を見せようと、ワシはアンタを弱いとは思わん」
「かたじけない」
その言葉の後、スーディアさんは私の手を握って泣いた。両手で握って泣きじゃくった。
澱んだ感情を全て洗い流すように。濁った心を清めるように。
私は静かに見守った。気持ちが落ち着くまで。
そして、スーディアさんの復帰は、思ったよりも早かった。泣き終えた彼女は私の手を離すと、涙をぬぐって生真面目に宣言した。
「とりあえずここを抜け出すことを先決としよう」
迷いのない口調。私の信じる彼女がそこにいた。
「ええ。頑張って考えましょう」
私も力強く頷いた。
「しかし、この狭間を抜けるのはやはり並大抵のことではないぞ。決意して早々弱音を吐くのもなんだが、ここを抜けるにはそれこそ奇跡を起こすだけの覚悟がいる」
「確かにスーディアちゃんの言う通りだけど、そんなに構えて考える必要もないと思うぞぉ」
お気楽な調子でティルは言う。スーディアさんとは全く対照的だ。
「随分と余裕の態度だが、ティル殿には何か妙案でもおありなのか?」
「う〜ん。そういうのはないけど、ここには奇跡を起こせるだけの大魔法使いがいるしねぇ〜」
そう言ってティルは、クルリと私の方を振り向く。
「鈴音ちゃん。ここはズバっと元の世界への出口を開くんだぞぉ」
「わ、私だけでですか?」
「そこまでは言わないけど、一番期待できるのは鈴音ちゃんだと思うんだぞぉ。人間界から何も知らないまま、魔法世界の門を開けた時のことを思い出すんだぞぉ〜」
「おい、妖精。それって鈴音だけにプレッシャーかけすぎちゃうか」
「そんなつもりはないぞぉ。でも、一度でも奇跡を呼び起こせたのなら、二度目だって起こせるような気がしない?」
ティルに悪意などない。むしろ信じてくれているからこそ、気楽でいてくれる。
いまはその信頼に応えようと思った。
私だって、ずっとこんな世界にはいたくないのだから。
「とりあえずはやるだけやってみましょう。でも、皆でも考えてみてください。色々と最善と思える方法を」
「そうだな。鈴音殿だけに苦労はかけられん。あとティル殿、マコト殿。貴殿らは妖精界や精霊界へ続く道を開くよう、努力して頂こう」
「そらどういう意味や?」
「ここはいかなる世界にも通じる狭間だ。貴殿らが元いた世界にも通じている筈。その世界を開くことが可能ならば、一旦そっちに逃れるのも手だ。どうだ、下手にこの空間を打ち破る魔法よりは楽とは思わんか?」
「なるほどねぇ。確かにわたしたちの馴染んだ世界に逃れることができるなら、ここにいるよりは安全だぞぉ。案内だってできるしねぇ〜」
「しかし、ワシはアテにならへんで。ワシはリートプレアに馴染みすぎてもうて、精霊界に戻る術を忘れかけとる」
「ならしっかり思い出すが良い。ここで朽ち果てたくないのならな」
「しゃあないなあ。ま、事態が事態や。ゴチャゴチャぬかしとるんもなんやし、やったろうやないか」
話はついたようだった。
私たちは互いに頷きあうと、それぞれが願う世界を開くべく魔法の集中に入る。
もっとも私の場合、半分以上は我流だ。正規の手続きを踏んだやり方では、異世界の出口を開く魔法など無理に近い。
魔法語による呪文詠唱は、自らの願いを高める暗示。ただ、魔法語の意味を完全に解していない私には、かえって余計なことを考えすぎて、願いを高めるまでに至らない。
私にできることは、ただ純粋に願うこと。
強く、強く、自らが望む世界を開くために、“見えざる真理”に呼びかける。
私はこの世界を抜け、元の世界に戻らないといけない。
だって元の世界には…………。
そこまで考えた時、私の脳裏に色々なものが溢れこんできた。
それは自分の理解では追いつかないような常軌を逸したモノだった。
さまざまな色。鋭かったり、丸かったり、硬かったり、柔らかかったりするもの。音、無音。形があったり無かったりするもの。もはや何であるのか形容すらできない。
私はとっさに集中を中断し、何度も荒い息をはいた。
頭痛。めまい。吐き気がする。いや、そんな生易しいものだけではない。あのまま集中を中断するのが遅ければ、気が狂っていたかもしれない。
そして、この症状を味わったのは私だけではないようだった。
「こらアカン。まともに集中どころやあらへんっ!」
マコトくんが最初に叫び、他の二人も危うい状態寸前で集中を解く。
スーディアさんはものすごい汗をかき、ティルに至っては顔が蒼白だ。
「……これは一体、どういうことなのでしょう?」
荒い息のまま、私は誰にともなく訊ねる。
「どうやらこれが狭間に入り乱れる数多の法則なのだろう。“混沌”と例えてもよいほどだ」
「こんなのが続くようだと、願いを届ける以前の問題だぞぉ。どうにかならないの?」
「最初に断ったはずだ。並大抵のことではないとな。少なくとも今の状況でわかったことだが、この狭間で魔法が発動しにくいという意味は、こういうことだったのだ。呪文を集中するには心を無にし、願いを明確にイメージしなければならぬ。だが、心を無にした瞬間には異世界の法則が溢れこんでこようとする。……ここを抜けようと思えばまさに奇跡を信じる他ない」
スーディアさんの言葉にティルの顔が曇る。
事は私たちが想像する以上に困難だったのだ。
「クソったれがっ! あのヴェノスっちゅうボケ、なんちゅうとこに閉じ込めよったんや」
「本来なら狭間を開く魔法は禁断のものとして封じられた筈だった。だが奴めは、その禁断の秘術に手を出したのだろう」
「けど、そんな簡単に禁断の秘術は学べるもんなんかい?」
「普通に考えれば不可能だろう。だが、この狭間を開く魔法を禁忌としたのは他ならぬ評議会だ。評議会内に厳重保管された禁断の蔵書を閲覧できる立場なら、学ぶことは不可能ではない」
「つまりは、管理する側が不正を働いとるっちゅうことかいな……。評議会も完全に腐ってきとるのなぁ」
マコトくんの呟きに、スーディアさんも苦い顔で頷く。
少なくともこの不正が、評議会全体の容認で行われているとは思いたくなかった。
「でも、これからどうするのぉ? 魔法を使おうとすれば、またさっきみたいになってしまうんだぞぉ」
ティルの言葉に、誰も答えを出せなかった。
全員で顔を見合わせる。皆、落ち着かない様子ではあった。
自分の理解を超えたものが溢れこんでくる恐怖。それに耐えることは、並大抵のことではないのだ。
けれど、このままでは何も変わらない。この狭間の異様さに晒されて、やがてはそれに呑まれるだけ。
それで良いの?
いや、良い訳などない。
私はここでとどまる訳にはいかない。元の世界には宗太郎さまや芳美ちゃんだって待っている。
特に宗太郎さまには、すぐに戻ると約束もしたのだ。このまま私が諦めたら、彼に申し訳がたたない。辛い気持ちにとどめをさしてしまうかもしれないのだから。
「……私、もう一度頑張ってみます」
宣言した。
皆、驚いた顔をする。
「おい鈴音。ヤケになったらイカンでぇ〜。ここは落ち着いてやなあ……」
「大丈夫です、マコトくん。私は十分に落ち着いています。だからこそやるんです」
もう制止の声には耳を傾けなかった。
このままで埒があかない以上、気がおかしくなる前に魔法を行使するしかない。
私はいま一度、大きな奇跡を呼ぶんだ。
そのことを心に刻み、それを強さとする。
そして私の願いは、皆で宗太郎さまたちの元に帰ること。誰ひとりが欠ける事も許されない。
心を鎮め、願いへの集中が高めていくにつれ、再び色々なモノが私の中に溢れこもうとする。
「……くぅ」
意識を強く持ち、溢れこむものを無視する。
私は“見えざる真理”に願いを届け、その返事として奇跡を受け取らねばならない。
今、私の心の中は、視界さえもままならぬ吹雪に近い。そんな中で、ただ自分の願いを届ける道を探す。
そのときである。
……鈴音……
自分の中に、その名が流れ込んでくる。
それは音なのか形なのか、判然としないものだった。ただ、私の中で漠然と認識できる記号のようなもの。
……鈴音……
まただ。
……鈴音……鈴音……鈴音……
断続的に続く。私はそれを無視できなくなってきた。
……鈴音……鈴音……鈴音……鈴音……
私はそれに心を傾ける。そこに道があるような気がしたからだ。
様々なものが心を荒れ狂う中、その記号のみを追う。
そうこうするうちに、ひとつ伝わってくる感覚があった。
この記号を発しているのは、宗太郎さま?
はっきりとは言い切れない。しかし、これは私の知る宗太郎さまの呼びかけに思えた。
……鈴音ぇっ!……
一段と大きく伝わるもの。それで私は確信した。
これは間違い無く宗太郎さまのものであると。
そして…………
私は見た。涙に暮れる彼の姿を。悔しそうに雪の大地を殴り、私の名を叫ぶ彼の姿を。
正直、胸が痛んだ。心が揺らいだ。
……それがまずかった。
緩んだ心を、数多の法則が包み込み、呑みこもうとする。
終わった。そう思った。
得体の知れないモノが私の心を壊そうとする。抵抗はできない。
……ごめんね。宗太郎さま。私、あなたの元に帰ることはできそうにありません。
そう諦めかけたとき。
「でかしたぞっ、鈴音殿!」
スーディアさんのそんな声が耳に響き、私は強引に手を引かれた。
「マコト殿、ティル殿。あの出口に向かって貴殿らも急げっ!」
「わかっとるわい」
「らじゃ〜だぞぉ」
響いてくる声。力強く握られた手。“混沌”の波から逃れるように、誰かが私を引っ張ってくれる。
次の瞬間。宙を漂うような感覚が消え、私に溢れこもうとした数多の法則もひいてゆく。
そして。
ドサっ!!
どこからか下に落ちた。そこは冷たい地面だった。
「…………っ」
ひんやりとした感覚に、意識が完全に覚める。
目を開けて最初に飛び込んできたものは、綺麗な月だった。
……月?
私は起きあがって、周囲を見渡した。確認するとそこは雪の世界だった。狭間に引きこまれる前の場所に似ている。
「鈴音ちゃ〜ん。気がついたかぁ?」
ティルの声が頭上からした。ぼんやりとしていた私は少し驚く。
小さな彼女は目の前まで飛んでくると、にっこり笑った。
「お手柄だぞぉ、鈴音ちゃん」
「ティル? ここは一体?」
「ここは元の人間界なんだぞぉ。鈴音ちゃんは奇跡を起こして、狭間からの出口を開いたんだぞぉ」
「え?」
私は驚いた。正直、そんな実感なんてなかったからだ。
むしろ奇跡を起こす以前に、壊されかけていた覚えがある。
「あ、スーディアちゃんもマコぽんもお目覚めのようだぞぉ」
ティルの言葉で再び我に返る。
見れば近くで、スーディアさんたちも身を起こしているのがわかる。
「どうやら無事にかえりつけたようだな」
「まったくひどい目に遭ったもんや」
「皆、無事だったのですね」
その事実に、私の胸はホッと一安心した。
「うむ。鈴音殿のおかげでどうにか助かった。そなたは本当に大した魔法使いだ」
「い、いえ。私はうまくやったつもりはないんです。実際、何が起きたのかよくわかってなくて」
「そうなのか? だが鈴音殿が集中して、しばらく後に出口が開いたのだぞ」
「まっ、今は細かいことはエエやないか。どうにか戻ってこれたんやしな」
疑問顔のスーディアさんを、マコトくんがやんわりと止める。
が、それと同時に。
「鈴音っ!?」
自分たちの近くから、そんな声が響いた。
私たちは声の向けられた方を向く。するとそこには宗太郎さまと赤い衣の人物が驚いた表情で立っていた。
「ぬはっ、ヴェノスもおるでぇっ!」
マコトくんが叫んだ。
そう、宗太郎さまの近くにいる赤い衣の人物は、私たちを狭間に落としたヴェノスという人に間違いなかった。
「バ、バカな。何故、君たちがそこにいる?」
赤い衣の彼は、明らかに狼狽していた。
そこへスーディアさんが立ちあがり、彼に向き直る。
「鈴音殿は無意識のうちに魔法世界への門を開けるほどの人物だ。狭間の出口を開けたとしても不思議はなかろう?」
「…………くっ」
「ヴェノス。貴様は評議会の人間にあるまじき、禁断の秘術を行使した。それがいかに重い罪かは存じておるだろうな?」
刃のように鋭い、スーディアさんの詰問。ヴェノスという人は、ゆっくりと後退する。
「わたくしは評議会の正しき一員として、貴様の犯した罪を見逃す訳にはゆかぬ」
「な、何が正しき一員なのかね? 君がわたしを裁くなど間違っているぞ。今の評議会は君の知るものとは違うのだよ。正しいのは我々の方だ。誰も君には味方しない」
「そうか。ならばわたくしも決断は楽になった。今の評議会が完全に腐っているのなら、わたくしはその元凶を全て叩き出す。評議会を運営するのは腐った人の心ではない。秩序とバランスの維持を忘れた者に、評議会の一員を名乗る資格などない!」
「偉そうに言うが、君一人で何ができるのかね? 今までだって何もできなかっただろうが」
「生憎だが、わたくしはもう一人ではない。鈴音殿という友人がいる。そして、評議会の正しい行いを信じる一般の者は、禁断の秘術を私欲で行使する者の味方はすまい。正しい心を持つものは、例え評議会の一員でなくともわたくしの味方たりうるのだ」
「……………」
「貴様の申すように、今までのわたくしでは何もできなかった。人に頼ることなど思いもつかない愚か者ゆえな。だがな、気持ちを切り替えればこんなにも簡単なことだったのだ。それにもし、誰一人として味方がおらぬとしても、諦めはせぬ。諦めなければ奇跡が起きることを、友人に見せ付けられたばかりだしな」
スーディアさんに迷いはなかった。何もかもが吹っ切れ、晴々とした表情だった。
そして彼女は、ヴェノスという人に剣を向ける。
「正しき評議会の名において、貴様を拘束するっ!」
そう叫ぶなり、スーディアさんは雪を蹴って駆け出す。
それは、私と対決した時なんかと比べ物にならないほどキレのある動き。流麗と呼ぶに相応しいものだった。
赤い衣の彼は、簡単な攻撃魔法を放つことによって彼女の突進を阻もうとするが、それらはすべて魔法の剣によって弾き返され、消滅した。
一気に距離がつまったその時、スーディアさんの剣が月光をうつして閃いた。
「……終わったな」
マコトくんが呟いたとき、ヴェノスという人は大地に崩れ落ちた。
「ま、峰打ちや。心配はあらへん」
わかってはいるつもりだったが、改めてそういう風に言ってもらえると安心はする。
その後、宗太郎さまが私たちの方にかけよってきた。
「鈴音っ! 大丈夫だったか」
「はい。宗太郎さま。ご心配をおかけしました」
「まったくだ。俺がどれだけ心配したと思ってんだ。でも、帰ってきて本当によかった」
泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔。ただ、その顔や身体には少し気になるものがあった。
「宗太郎さま……その顔とか、お怪我をなされてるのですか?」
そう。彼の顔にはちょっとした痣ができ、口の端も切ったのか少し血が滲んでいる。
「大丈夫だ。心配するほどのものじゃない。あの赤い男に食いついたとき、ちょっとな……」
「ヴェノスという方とやりあったのですか?」
「……まあな」
「そんな! どうしてそんな危ない真似を」
「仕方ないだろ。おまえたちが出ていった後、俺はいてもたってもいられなくなったんだ。そして俺が着いた時には、鈴音たちが消え去ろうとしている瞬間だったんだ」
そうだったのか。それでなのかもしれない。
私が狭間に落ちて行く時、彼の声が聞こえたのは…………。
「俺、鈴音たちが消えてから、あの男に言ったんだ。鈴音たちを元に戻せって。でも、しつこく食いついたらこの有様さ」
「…………もう。そんな無茶をなさらないでください」
私は彼を抱きしめて言った。嬉しいと思う反面、心配でもあるのだから。
「大好きな女の子を救いたかったんだ。これぐらい無茶とは思わない」
小声で呟く宗太郎さま。私は言葉でこたえる代わりに、ただ強く抱きついた。
半泣きになりながら、ただ抱きついた。
「鈴音。ワシと妖精はあっちの姉ちゃんの様子を見てくる。鈴音は別荘に戻って、そのクソガキの手当てでもしたれ」
「わ。マコぽん。珍しく気の利いたこと言うねぇ〜」
「ボケ! そんなんちゃうわい。ま、とにかく行くぞっ」
「ほいほ〜い。じゃあ、鈴音ちゃん。あとでね〜」
マコトくんとティルはそれだけ言うと、スーディアさんの方へ去って行った。
私も今は、マコトくんの言葉に従うことにする。
「宗太郎さま。お部屋に戻って手当てしましょう」
「……ああ」
小さく頷く宗太郎さま。こうして私たちは、先に別荘に戻ったのだった。
§
「痛っ!」
「あ、ごめんなさい。沁みましたか?」
別荘に戻ってから私は、宗太郎さまのお部屋で彼の手当てをしてあげた。
今は切った口の端をガーゼで消毒したのだが、少し顔をしかめられる。
「……気にするな。我慢するから」
「そういってもらえると助かります。もうすぐ終わりますから、待ってくださいね」
「ああ」
宗太郎さまは素直に頷いてくれた。
「それはそうと宗太郎さま。私たちが消えて戻ってくるまで、どれくらいの時間だったんですか?」
それが疑問だった。異世界の狭間の中ではどれほどの時間が経っていたのか、あまり感覚はなかったから。
「そんなに長くはなかったと思う。……俺も厳密にはわからないが、二十分ほどじゃないか」
「そんなものですか」
思ったよりも短いようだった。
私の曖昧な感覚でも、狭間の中ではもっと時間が経っているように思えた分、ひょっとしたらこっちとあっちの世界では時間の流れ方が微妙に違うのかもしれない。
「じゃあ、二十分もの時間のあいだ、あのヴェノスという人と?」
「まあそうなる。でも、結局は打ちのめされて、どうにもならなかったけどな。あとは無力さに苛まれ、惨めにおまえの名前を呼ぶことしかできなかった」
「え?」
「情けないけど、もうそれしかできなかったんだ。鈴音にもう一度会いたい。無事でいて欲しい。おまえの名を呼び、そう願うしかできなかったんだ」
そこまで聞いて、私はあることを思い出した。
狭間を抜ける魔法に集中したとき、数多の法則が私に溢れる中で、宗太郎さまの呼びかけを感じたことを。
鈴音、鈴音と、何度も響いた記号のようなもの。
あれはやはり、彼の呼びかけに間違いなかったのだ。
でも、それを確信したあとに私の心は緩み、数多の法則に呑まれそうになった。もうダメなんだと諦めもした。
それなのに私たちは出口をひらき戻ることができた。
…………ちょっと待って。
ここで私は、ひとつの可能性に思い当たる。
もしかして、狭間の出口を開いたのは宗太郎さまなのではないだろうか?
私はまじまじと彼の顔を見つめた。
「どうしたんだ。急にヘンな顔で俺をみつめて?」
怪訝な顔で問う宗太郎さまに、私はいま思いついた考えを伝えてあげた。
彼はもちろん、驚いた顔をする。
「俺が出口を開いたなんて……まさかな」
「でも、可能性はあります。私が昔、無意識のうちに魔法世界への門を開いてしまったように、宗太郎さまにも同じことが起きたのではないでしょうか。強い願いは奇跡を呼びますから」
「だとしたら鈴音たちを救ったのは俺になるのか?」
「ええ。きっとそうですよ。だって私は、自分の魔法が成功したという実感はないんですもの。宗太郎さまの呼びかけは狭間にいる私にも伝わるほど強いものでした。それが“見えざる真理”にも届き、魔法の奇跡を呼んだんですよ」
宗太郎さまは最初きょとんとしていたが、やがてには小さく微笑んだ。
「もしそれが本当だったら素晴らしいだろうな」
「大丈夫。間違いありませんよ。宗太郎さまのおかげで帰ってくることができたんです。ありがとうございます」
私は彼の手を握り、一緒に微笑んだ。
「本当に感謝してくれてるのか?」
「勿論です。心のそこから感謝してますよ」
「だったらもうちょっと……形として感謝を示してほしいな」
「形として……ですか?」
小首を傾げて訊ねる。すると宗太郎さまも、少しだけ赤くなりながら告げた。
「例えばだな。……キスしてくれるとか」
「えっ!?」
私の顔は火がついたように真っ赤になる。もう、宗太郎さまってば、一体なんてことを言い出すのだろう。
「……ダメか? 以前のクリスマスプレゼントのかわりってことも含め」
真剣な顔で見つめられる。
困ったなあ。どう返事をすればよいのかわからない。
それ以前にこの心臓のドキドキはなんだろう。相手はまだ小学生の子供なのに。
「俺、目を閉じるから、その間にやってくれ」
宗太郎さまはそう言って目を閉じる。これって私に拒否権はないのだろうか?
だとしたら随分、強引だと思う。
彼の顔をじっと見た。キスされるのをそっと待っている。
…………仕方ないよね。私は心を決め、彼の目の前に近寄る。
そして、額に触れるだけのキスをした。
「……はい。もういいですよね」
そう言って、ゆっくりと顔を離す。
すると。
「バカ。キスっていうのは……」
宗太郎さまが私の頭をそっとつかまえ。
「こうするんだ」
次の瞬間、私の唇は奪われた。
「…………んっ」
頭が真っ白になり、力が抜けてゆく。
たまらなく恥ずかしくて、こぼれでる吐息が妙に色っぽくなる。
キスは、苦しくなるほど長いあいだ続いた。そして終わった後は、しばらくお互い何も言えなかった。
頭の芯がボーッとなる。
私、こんなキスは初めてだった。しかも相手は、小学生の男の子。
宗太郎さまを子供扱いしすぎるのも何だが、少し複雑な気分だった。
「鈴音……怒ってるか?」
ようやく落ちついた頃、彼の方から話しかけてきた。
「宗太郎さまはどうお考えですか。私を怒らせるような真似をしたとでも?」
少し意地悪に言い返す。
「俺は、悪いことをしたつもりはない……そう思ってるけど」
「だったらそれでいいんじゃありませんか。宗太郎さまが自らの責任でしたというのなら、私は責めたりはしませんよ。ただ……」
「ただ?」
「今度するときは、もう少し相手の気持ちも確かめてしてくださいね」
そう言って、あとはとびきり柔らかい笑顔を向けてあげる。
「ああ。そうしてみる」
照れくさそうに目をそむけつつも、素直に頷く宗太郎さま。
その後は、ゆっくりと手当ての続きをしてあげた。そしてそれらも一段落した時、部屋の扉がノックされた。
「鈴音殿。入ってもいいか」
スーディアさんの声だった。私は「どうぞ」と答えると、彼女はマコトくんたちと共に部屋に入ってくる。
「邪魔をする。宗太郎殿の怪我の具合はどうだ?」
「大きな問題はなさそうです。手当てもいま終えましたし。それよりもスーディアさんの方はどうなのですか」
「ヴェノスに関しては、魔法も使えぬよう拘束しておいた」
「そうですか」
「うむ。それでなんだが、わたくしは今すぐリートプレアに帰ろうと思うのだ」
さらりと言われたその言葉に、えっ!、と驚く。
「帰るって、今ここですぐにですか?」
「ああ、そのつもりだ。いくら拘束してあるとはいえ、この別荘にヴェノスを置いておく訳にも行くまい」
「それはそうですが……唐突ですね」
予期せぬ別れの宣言。急に寂しいものがこみ上げてくる。
そんな私の気持ちを察したのか、スーディアさんはポンッと肩を叩いてくる。そして。
「わたくしのここでの使命は終わったのだ。鈴音殿は誰に恥じることもない立派な魔法使いだと確認した」
「………………」
「あと、わたくしはリートプレアに戻って、急ぎやらねばならぬことがある」
「評議会の建て直しですか?」
「その通りだ。ヴェノスの言葉を真に受ける訳ではないが、組織が完全に腐敗しているようなら早い内に正しておきたい」
「ですが、スーディアさんだけで何とかなるものなのですか? 私でお手伝いできることはありませんか」
「鈴音殿にはもう十分、手伝ってもらっている。わたくしを大きくかえてくれたのは鈴音殿だからな。これ以上に望むものはない。それに今度は、魔法学院のステラ学長等にもご助力願おうと思っておる」
「それじゃあ魔法学院を味方につけ、今の評議会を正すのですか?」
「そうするつもりだ。だから、深くは心配せずとも良い。事が終われば、また連絡もよこそう」
それだけ言い終えると、スーディアさんはそっと手を差し出してきた。
「今度会うときは、色々な料理なども教えて欲しい」
「……わかりました。とびきり美味しい料理を教えてあげます」
私は彼女の手を握った。
これで永遠の別れではないとわかったから、笑顔で手を握った。
「姉ちゃん、しっかりやれよ。挫けそうになったらワシが喝をいれたるで」
「今度あったら料理以外に、掃除や洗濯も教えてやるんだぞぉ〜」
「マコト殿、ティル殿。その時はよろしく頼む。……あと、宗太郎殿。今までの滞在をお許し頂き感謝しております」
宗太郎さまに向き直り、恭しく礼をするスーディアさん。
彼は慌てて頭をあげさせる。
「そんなにかしこまらないでくれ。俺はこれといって何もしてはいないんだから」
「しかし、宗太郎殿が居場所を与えてくれたおかげで、わたくしは沢山大事なものを得ることができた。これを感謝せぬことには、わたくしの気持ちがおさまらぬ。あと、挨拶することはかなわぬが、芳美殿や黒部殿にもよろしく伝えてもたいたい」
「わかったよ。うまく伝えておく」
「かたじけない。今回はわたくしのせいで旅行を台無しにしてしまった。本来なら会って謝りたい所だが、そうもいかぬ。だが、この埋め合わせとして、いつかは形として何かを返そう」
「ありがとう。期待するよ」
ヘンに謙虚になるのもどうかと思ったのだろう。宗太郎さまは素直にそう答えた。
「それでは、わたくしはこのあたりで去るとしよう。見送りは結構だ」
最後に全員を見渡すスーディアさん。
「スーディアさん。私、願います。評議会を良き方向に導けますよう」
私の言葉に、彼女は自信に満ちた表情だけで答えた。
任せておけ、と。
こうして私の新しい友達は、新たなる決意を胸にリートプレアに戻ったのだった。
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