第六章

儚いもの。それでも大切なもの

〜 awake from a dream 〜

 

 

 

 

 

 

さようなら、わたし…………

 

 

 

 

 

 

 

 誰もいない静かな部屋。ここはわたしが生まれてきてから、大半の時を過ごしてきた場所。

 調度品も少なく、人が住むというには殺風景すぎる部屋かもしれません。最近まで“外”の世界で過ごしたわたしには、いま自分に与えられている部屋の異質さというものがよくわかります。

 “外”の世界の情報から完全に隔絶され、必要ないものへの興味など一切抱けないようなそんな場所。

 俗物的な感情に染まらないための無色に近い場所。

 子供の頃のわたしは、それがどこにでもある当たり前の世界だと思っていました。

 けれども、実際の世界は違っていて、今でこそ自分の置かれた環境がおかしいものだと実感するに至りました。

 むかしのわたしは、いわば籠の中の鳥。

 でも、それを理解した上で、わたしは再びむかしの環境へ戻ってきたのです。それこそが自分の果たさなければいけない使命であり運命だから。

 わたしは穢れなき神子として、己の身を犠牲とし、いまこの世を滅ぼさんとする歪みを浄化しないといけないのです。

 歪みを浄化した末には、自分の命が失われることもわかってはいますが、それももう覚悟の上。

 わたしをこの運命から解放しようとして亡くなっていった両親には申し訳ない気持ちで一杯ですが、わたしが使命を果たさないことにはもっと多くの人々の命が失われるのです。その中には大好きな一矢さんだっています。

 彼と、彼を取り巻く世界を守れるのであれば、わたしは自分の意志ですすんで使命を果たします。

 それがわたしの選んだ答えですから。

 今はただ静かに、使命を果たす時を待つだけ。余計なことなど考えず、心を無にするかのように。

 外からは激しい雨音が伝わってきます。でも、それに混じって廊下から誰かが歩いてくるような足音も聞こえてきました。足音の主はこの部屋の前で止まると、そっと戸を開けて中へ入ってきました。

 わたしは伏せていた顔をあげて訪問者を確認します。そこに立っていたのは巫女装束を着た大人の女性。

「何か御用でしょうか、幸恵さん」

 なにも喋らない彼女に対し、わたしから声をかけてみます。

 すると彼女は。

「…………私のこと、ちゃんと思い出してくれたみたいね」

 確認するかのようにそう話しかけてきました。

「ええ」

 目の前にいる彼女は佐山幸恵さん。この“山”に住まう巫女の一人。

「良かったわ。ちゃんと記憶も戻ったのね」

「はい。今まで色々と忘れていて申し訳ありませんでした。これからはわたしに課せられた使命を果たすようにだけ頑張りたいと思います」

「いかにも長老さま方が喜びそうな模範的な答えね」

「別にそのような…………」

 侮蔑を伴ったような皮肉な言い回しに対し、わたしの返す言葉は弱々しくなる。

「その様子からすると、私の皮肉には気づいているみたいね。昔のあなたでは考えつかないことだわ」

 何も言い返せませんでした。彼女の言うことは間違いないですから。

「今のあなたは、外の世界に出て普通の人間っぽい感情に染まったということかしらね」

「あの、何が言いたいのでしょうか?」

 幸恵さんの意図がわからない。むしろ、このような会話はしてほしくありませんでした。神子としての使命を果たす身に、こんな話をされても心が乱れるだけです。

 わたしの使命は、普通の人間の感情を持ったまま行うには辛すぎるのですから。できる限り自分の心を殺し、深くなど考えずにいたいのに…………

「これくらいの会話で動揺していて、本当に神子としての役目を果たせるのかしら、ね」

「動揺なんて!」

「していないとは言わせないわ。そんなムキになって言い返されても説得力ないわよ」

「でも…………」

 顔を伏せたわたしに、幸恵さんは小さな溜め息をつく。

「言い過ぎたわ。謝る。あなたはあなたなりに一生懸命なのに、それに揺さぶりをかけるようなことを言ってしまって。こんなところ長老さま方に見られでもしたら、私もお咎めくらうでしょうしね」

「それなら、なぜこのようなことを?」

「私は私なりに心配なのよ。あなたはもう不完全な神子なんじゃないかってね」

「不完全、といいますと?」

「いくら自分の心を殺そうとしても、ちょっとしたことでそれが崩れるなんて神子としては完璧とは言えないでしょ。あなたの中で“普通”の人間らしい感情が根付いていては、土壇場になって儀式がうまくいかないこともあるかもしれない」

「…………うまくできるように頑張ります」

「口では何とも言えるわよ。大事なのは、本当にそれを成すべき瞬間にうまくやれるかどうか。失敗は許されないのだから」

「大丈夫です。わたしにはどうしても守りたいものがありますから、絶対にうまくやります」

 私は顔を上げ、幸恵さんの目を見てしっかり意志を伝えました。

「守りたいものね。それはあの男の子のことかしら?」

「そうです。彼と彼を取り巻く世界のために」

「そのためには自らの命を捧げるのも悔いはないという訳ね」

「ええ…………」

「立派ね。そうやって自ら納得して使命を果たそうとするだなんて。でも、本当にそれでいいのかしら?」

「どういうことです。わたしには幸恵さんが何を言いたいのかよくわかりません」

 わたしが素直に使命を果たす。それも自ら望んで。それは長老さま方や彼女にとっても悪いことではない筈でしょうに。なのに、何故あんな疑問を投げかけられないといけないのでしょう。

 幸恵さんも少し苦笑して、困ったような表情を見せました。

「私も自分が何故、こんなことを言っているかなんてわからないわ。ただ、なんとはなしにだから」

「それは無責任というものでは」

「あらあら。随分と厳しく言ってくれるじゃない」

「ごめんなさい。別にそんなつもりでは」

 彼女を批難するつもりはなかったのですが、自然とそのような口調になっていた自分を反省。わたし自身、自分で思っているよりも心のゆとりがないのでしょうか?

「まあ、いいわ。特に怒ったとかそういうつもりはないから」

「すみません」

「もういいって言ってるでしょ。それよりも、ひとつだけ質問いいかしら?」

 幸恵さんはそっと近づいてくると、わたしと同じ目線まで膝を折った。

「答えられるものでしたら」

「構わないわ。で、質問だけど、瑞葉はあの一矢くんっていう子を本当に愛していたの?」

 予想もしなかった問いかけ。でも、素直に受け止めて自分の思う言葉を返します。

「愛しています」

 迷うことなんてありませんでした。これがわたしの偽りのない気持ちである以上。

「ふうん。だけど、あなたは人を愛するということがどういうことなのか、本当にわかっているのかしら」

「え?」

「だって、瑞葉はこの“山”を抜け出すまで、人を愛するという行為がどういうものかなんて知らなかったと思うもの。なまじ外の世界に出てそれを知ったとしても、本当の意味で理解できてるのかしらね」

「幸恵さんの目から見て、わたしは何か間違っているということでしょうか?」

 たしかにわたしは知らなかったことも多く、精神的には未熟な存在かもしれません。それでも一矢さんが好きな気持ちは間違いないし、それはもう愛していると例えても良いような気はするのですが…………

「正しいとか間違っているとか、本当はどっちかなんてわからないわ。ただ、私には一矢くんが哀れに思えただけ」

「どういう意味ですか。どうしていきなり一矢さんが出てくるのです」

 勢い込んで訊ねたその時。幸恵さんはいきなりわたしの口を手で塞いだ。それと同時に廊下側から何人かの足音が近づいてきます。

「私の言葉はもう忘れなさい。あなたは大好きな彼の為に、自分の使命を果たせばいいのよ」

 耳元で囁かれる。

 そして、廊下側から近づいてきた人たちによって、この部屋の戸が開かれました。姿を現したのは長老さま方です。

「瑞葉。外の雨は予想以上の速さで激しさを増してきた。もはやこのままにしておくわけにはいかぬゆえ、これより“儀式”を執り行う」

 長老さま方の中でも、特に中心格に位置するご老体がそう告げてきました。

 唐突な宣言ではありましたが、わたしには拒絶することはできませんし、そうするつもりもありません。

「それはそうと、何故この部屋に幸恵が来ておるのじゃ?」

 彼女がここにいるのを咎めるかのように、別の長老さまが言葉をぶつけます。

 それに対して幸恵さんは神妙な表情で答えました。

「私も巫女の端くれ。後学のために彼女の神子としての覚悟を教えてもらいたくて参りました」

「貴様と瑞葉では果たすべき役目が違うのだ。そのようなものは役に立たぬ。我等の許可なく出すぎた振る舞いを致すでない。神子にとっては今が大事な時期。余計なことで瑞葉の手を煩わせてはならぬ。よもや神子に妙なことを吹き込んではおらぬであろうな?」

 厳しく詰問する長老に対し、中心格のご老体がやんわりとそれをなだめた。

「貴殿もそう口調を荒立てるでない。瑞葉が何事かと不安に思ってしまうであろう。とりあえず今回の幸恵の一件は不問といたそう。彼女が“山”の使命に忠実なのは瑞葉を連れ戻したことからも確かなこと」

「ありがたき言葉。感謝致します。そして、勝手な振る舞いをしてしまったこともお詫びいたします」

 深く頭を下げる彼女に対し、中心格のご老体は静かに頷いた。そして彼はわたしに向き直ります。

「さて、瑞葉よ。今から儀式を執り行うのは先ほど告げた通りだ。これより最後の禊を済ませ、“儀式”を行う祠まで案内されてくるがよい」

 ご老体の言葉が終わると同時に、いままで後方に控えていて見えなかった世話役の老女が前に進み出て、ゆっくりとわたしを立たせようとしました。

「瑞葉さま参りましょう」

 それには頷いて素直に従います。

 ただ、やはり気がかりなのは幸恵さん。彼女の言った「一矢さんが哀れに思えた」という言葉の意味が問えないこと。

 けれど…………

 いまさらそれを問うた所で、なんの意味もないのかもしれません。もうわたしは一矢さんと出会うことはないのですから、いくら気にしたところでどうすることもできないのですから。

 

 

§

 

 一体、もうどれくらい走っただろう。

 なんどもなんども息をきらせながら、それでも無我夢中で走り続けてきた。雨に打たれ続けたせいで体温も奪われ、それによる体力の消耗も激しい。おまけに足は鉛の重く、なんどか足をもつれさせて転びそうにもなった。

 けれど、進むのを止めようなんていう気はおきない。いまの俺なんかより、苦しい運命を背負っている子がいるのだから。

 その子は俺にとってかけがえのない女の子。

 彼女が背負った運命は、普通に生きてきた俺なんかではどうしようもできないほどに重く、途方ないもの。だから俺に何ができるかなんてわからない。

 それでも俺は、その子ともう一度再会したいから走る。

 走りながら色々と考えもした。そして思ったことは、会ってどうしても伝えたいことがあるということだ。

 彼女を重い運命から救えるかどうかまでは、正直のところわからない。ただ、俺の気持ちを伝えないことには、何もはじまらないような気がした。

 救えるとか、救えないとかは、その気持ちを伝えた先に考えることなのだ。

 俺が何を伝えたいのかは、まだ心の奥底にしまっておく。本当に必要になる瞬間までは安易に自分の中で繰り返したりもしない。

 そんなことを思った時、ずっと前方を走っていた真っ白な小犬が戻ってきて何やら吠えた。

「わんわんっ」

「どうしたんだ、スノー?」

 立ち止まって小犬の目線にまでしゃがむ。この小犬のスノーも俺と同じように、彼女のことが大好きなやつだ。むしろ俺以上に純粋に彼女を想っているやつかもしれない。俺はこのスノーに導かれなければ、彼女のことを諦めていたかもしれないのだから。

 そんなスノーは俺に何かを伝えようとしているのか、小さく吠えたり、その場でピョンっと飛び跳ねたりした。

 相変わらず犬の言葉やリアクションなんてわからないが、こいつのこの行動には何か意味があるのはわかる。

「一体、何なんだろう」

 俺は考えた。少なくとも何かを警戒しているとかいう様子ではない。どこかしら元気で嬉しそうにもみえるから。

 周囲は、もう街という景色ではなかった。明かりもないような山道だ。

 時間にして真夜中に近いが、幸いにしてもう目は闇に慣れている。しかし、この場で何かが見えるようなものはなかった。

 だが、ここで俺はふと思い出した。瑞葉がむかし暮らしていたのは“山”と呼ばれる場所であることを。そして俺たちがいる場所は街の先にある山道。

「瑞葉のいる場所が近い……ということか?」

 呟くと、スノーはこくんこくんと頷いたように見える。不思議なことだが、この小犬には言葉が理解できているようだった。

「だとしたら、ここから先は慎重にいかないとな」

 俺がそう言うと、スノーもそれを心得たかのようにゆっくりと進みだす。くんくんと鼻を働かせながら慎重に慎重に。

 今はもう目の前の小犬だけが頼りだった。自分と同じように今も雨に打たれて薄汚れてしまっているが、弱々しさを感じさせないのはさすがに思える。

 こうしてしばらく進むと、スノーは急に立ち止まり、身を低くして構えた。その時には俺も何かに気がつく。

 道の先に五つばかり灯りが見えた。その灯りは徐々に移動してどこかに向かっている。

 何人かがこの雨の中を移動しているということだろうか?

「スノー、しばらく俺の腕の中にいてくれよ」

 俺はそう言ってスノーを抱え上げると、そのまま移動していく灯りを追って走る。激しい雨音によって自分の足音が掻き消されるのを幸いに、一気に距離を近づけた。そして程なく近づけた所で、側にある茂みに分け入って向こうの様子を窺う。

 移動しているものたちの姿がはっきりと見えた。それはある種、異様な一団であった。

 数は十人ほど。全員が古風な真っ白い装束で頭から全身を覆い、そのうちの何人かがランプのような灯りをもっている。あと、列の中央部分が気になった。そこのところだけ、中心にいる人物の手をひくようにして左右に人がついていた。

 その時、スノーが俺の腕の中で少し暴れる。

「まてまて。こんなところで飛び出して騒ぎなんか起こすわけにはいかないんだぞ」

 慌ててなだめるが、まだ何やらジタバタされる。吠えないだけマシといえたが、どうも様子がおかしい。少し興奮気味なのだ。

 こういう時のスノーは何かを伝えようとしている時が多い。

 そして、俺たちの目的から考えて、そこから導き出される答えは…………

「まさかとは思うが、あの中に瑞葉がいるのか?」

 問うと、頷きが返される。

 俺の胸は高鳴った。もし本当にあの中に彼女がいるのだとすれば、まだ無事だということだ。

 ここに来るまでの間、一番の不安はそれだった。自分たちが到着した頃には既に手遅れになっているのではないかという。

 だが、この雨が降り続いているうちは彼女の無事を信じて走ってきた。皮肉な話ではあるが、世界を滅ぼしかねないこの雨が続いているうちは、まだ瑞葉が使命を果たす前だといえるのだから。

 問題はこれからどうするかだ。連中の白い装束は雨よけも兼ねているのか、頭もすっぽりと覆っている。だから、瑞葉の顔も確認はできない。

「むこうは十人ほど。何の策もなしに挑める相手ではないよな」

 悔しいが無謀な真似はまだできない。俺が自分の気持ちを伝える前に取り押さえられては意味がないから。

 俺の気持ちはしっかりと彼女の耳に届くよう、少しでも落ち着いた形で伝えたい。実際、この先にそんなチャンスがあるのかなんてわからないが、今がその時ではないのも確かだ。

 少なくともこの目で瑞葉の姿を確認しないことにはな。

 そんなことを考えている間にも列は動いてゆく。

「スノー。とりあえずおまえの言うことを信じてみるな」

 まずは連中がどこへ向かうのかを確かめるしかない。俺はスノーを抱えながら、出来る限り距離を保って後を追った。

 それから十五分ほど歩いただろうか。先のほうで拓けたような場所がみえる。更にその奥は高い崖に阻まれ行き止まりになっているようだったが、よく確認すると崖にはぽっかりと洞窟のような穴があいているのがわかった。

 連中はその洞窟の中に入っていくが、二人だけ列から離れて洞窟の入り口前に待機した。まるで外から来るものを見張るかのように。

 ここが一体どういう所なのかはわからないが、あれだけの人数で仰々しくやってくるような場所だ。何かいわくはあるだろう。それこそあまり想像したくはないことだが、瑞葉が使命を果たすための儀式を行う所かもしれない。

 もしそうだとすれば、のんびりなどしていられない。かといって入り口には二人の見張りがいる。

 さっきよりマシとはいえ、相手は屈強そうな人間が二人。まったく自慢にはならないが、俺には武道の経験も才能もない。絵一筋で頑張ってきた人間だけに荒事には到底向かないのだ。ただひとつだけ自分を褒めてやるとすれば、体力もあまりないような俺がよくここまで走ってきたものだということ。それでも緊張感が解ければ、いつでもぶっ倒れそうな気もするが。

「どうするべきか…………」

 思わず小声で呟く。すると腕の中にいるスノーがモソモソっと暴れだした。また何かを伝えようとしているのかもしれない。

 スノーに目を向けると、何やら腕の中から抜け出そうとするかのようにもがいていた。

「おろせっていうのか?」

 訊ねると、スノーは「くぅん」と頷くようにして鳴いた。

 少し悩んだが、あまりにも暴れるのが激しいので地面には下ろしてやる。しかし、その途端、スノーは一目散に洞窟側に走っていくではないか。

 お、おい! 俺はさすがに焦った。

 洞窟側に走っていったスノーは当然のことながら見張りの二人にみつかる。だが、スノーは見張りの隙間をかいくぐると洞窟内に入ってゆく。見張りの二人もそれはマズイと言わんばかりに小犬を追う。

 まったくどういうつもりなんだ、あいつは。あんな無茶をするなんて…………

 舌打ちした時、スノーは洞窟を飛び出してきた。見張り二人はまだそれを追っている。スノーは二人を翻弄するかのように動き回り、やがてにはここに来るまでの道を引き返す感じで走った。

「わんっわんっわんっ!」

 離れながらスノーは吠えた。その時、俺はピンときた。

 見張り二人が小犬を追い回している今、洞窟の入り口を見張るものは誰もいない。入るなら今がチャンスだということに。

 スノーの吠え声は俺にそのことを伝えようとしているように思えた。いや、きっとそれで間違いない。

「サンキュ、スノー」

 俺はあいつに感謝すると洞窟の入り口まで走り、中へと踏み入った。スノーの事が少し心配ではあったが、あいつは小さくてすばしっこいし、うまく逃げ切れると信じることにする。

 洞窟の左右の壁には灯かりがともされていたので暗くて道を見失うようなことはなかった。道も今のところ一本道なのでそれに従って進むだけだ。だが、逆をいえばここで誰かが近づいてこようものなら逃げるような横道もないということ。

 せめて瑞葉のいる場所にたどり着くまでは、誰とも遭遇したくなかった。

 しかし、どうもそういう訳にはいかなくなったようだ。先のほうからこちらに小走りで近づいてくるような足音が聞こえたから。

 音から判断するに、おそらくは一人だと思う。

 逃げ場がない以上は俺も覚悟を決めるしかない。一人くらいならば不意をつけばなんとかなるかもしれない……というのは甘い考えだろうか。

 だが、迷っている暇などなかった。足音はもう近い。向こうが俺の姿を完全に認識する前に、俺の方から突撃して不意打ちの一発でもくらわせるしかない!

 向こうの姿が見えた。その瞬間、俺は反射的に動き、相手に突っ込んだ。

 相手は俺のことを予期しなかったのか、一瞬だけ怯んだように見える。俺は勢いをつけたまま身体ごとぶつかっていく。

 しかし。

 寸でのところで突撃はかわされ、勢いあまった俺は足をもつれさせて地面に転ぶ。

「くそっ」

 慌てて起き上がろうとする。向こうに反撃の機会など与えないためにも。

 がむしゃらで無鉄砲もいいところだが、身体は勝手に動いてくれた。

 だが、向こうから発せられたとある一言が、俺の理性に働きかけ身体を歯止めする。

「あなた、一矢くん!?

 目の前の相手が俺の名を口にした。その声には覚えがある。

「佐山さん…………なのか」

 確認すると想像通りの人間がそこに立っていた。この“山”の巫女である佐山幸恵という人物だ。

「どうしてあなたがここにいるの。ここの場所はあなたも知らない筈じゃなかったの?」

 彼女は少し驚いたように問いかけてくる。

「俺も最初から知っていた訳じゃないさ。でも、うちの家には瑞葉のことが慕っている名犬がいてね。そいつが彼女の匂いを追って、俺をここに導いてくれたんだ」

「信じ難い話ね。ここまで来るのだって結構な距離だというのに、それを匂いだけで追ってくるなんて」

「俺だって驚いているよ。それでもいま自分たちはここまで来れた。それは事実だ」

「まったく感心するわ。それよりも、どういうつもりがあってここまで来たの?」

 佐山さんの目がスッと細まり、声も冷たく低いものに変わった。彼女からすれば、俺がどうしてここに来たのなんてわかりきっているだろうに。

「瑞葉に会いにきたんだ」

 俺は彼女に臆することなくきっぱりと言った。

「あの子はこれから使命を果たすための儀式に入るわ。会おうと思っても無駄よ。儀式の邪魔をさせる訳にはいかないのだから」

「あんたらからすれば確かにそういうものだろうな。けれど俺は…………儀式を邪魔する気まではないんだ」

「どういうこと。あなたは瑞葉を助けにきた訳ではないの?」

 怪訝そうな顔で見つめられる。

「瑞葉を助けたい気持ちで来たのは事実さ。でも、儀式を止めさせはしない。むしろ彼女には使命を果たして欲しいと思う。けれどその使命を果たす前に、俺は彼女にどうしても伝えたいことがあるんだ」

 そう。俺は本当にただひとつのことだけ伝えたいんだ。佐山さんが危惧しているような、あからさまに儀式の妨害をするような真似は一切考えていない。

「何を伝えたいというのかしら?」

「それは言えない」

「あなた自分の立場がわかっているの? そんなので納得できる訳ないじゃない」

「でも、俺の伝えたい言葉は単純だけど大切なものなんだ。軽はずみに誰にでも教えてしまうようでは、その重みが消えていきそうで嫌なんだ」

「勝手な話ね」

「それもわかっているよ。それより佐山さんにひとつだけ質問してもいいか?」

 俺はじっと彼女を見据えて言った。ほんの少し、沈黙がこの場を支配する。

 佐山さんは緊張感を保ったまま口を開いた。

「内容にもよるわ」

 俺は頷いて質問を口にした。

「あんたは以前、本当は瑞葉のことが好きなんだって俺に話してくれたよな。それは本当の気持ちだったのかい?」

「ええ…………それは本当のことよ」

「じゃあ、どこが好きなんだい?」

「以前にも言ったでしょ。あの子は私にとって妹のように思える存在だったの。私は彼女が小さい頃から側で仕えて世話をしてきたのよ。神子として育てられてきたこともあって普通の人間のように感情は豊かでもなかったわ。でも、だからこそ時折みせてくれるちょっとした笑顔はとても愛らしく、大切なものに思えたわ」

「そうか」

 俺は少し安心した。佐山さんが躊躇うことなくそこまで言い切る以上、彼女の瑞葉のことを想う気持ちは本物だったと信じることにする。

 けれど、問題はその先だ。

「でも、あんたは瑞葉を見殺しにするんだよな」

 俺はあえて辛辣な言葉を彼女にぶつけた。

 佐山さんは唇を噛み、キッと俺を睨み返す。そして。

「仕方ないでしょう。世界の破滅と秤にかけたとき、どっちを優先すべきかなんて」

「ああ、確かに佐山さんの言うことは一般論で言えば正しいのかもな。けれど、あんた個人として何かできることはあったんじゃないのか」

「まだそんなことを言うわけ? 他に何ができるっていうのよ」

「あんたは瑞葉が好きなんだろ。このままただ見殺しにするだけでいいのか? 悪役に徹していればあんた自身の心は守られるかもしれない。けどな、あんたが瑞葉を好きだという気持ちは一生通じないままだ。それは悲しいことだと思わないのか」

「偉そうなこと言わないで!」

「俺は、あんたより瑞葉のことが好きだって自負できる。そして好きだからこそ俺は自分がしてやれることをしてやりたい。それによって気持ちを伝えたい」

 もう俺も吹っ切れていた。こんなにも堂々といえる自分を誇らしくすらも思う。

 佐山さんはすぐに言葉を紡げないでいた。そんな彼女に俺は告げる。

「瑞葉の元へ行かせてもらうよ」

「行って…………どうするというの? 儀式をぶち壊しにはしないの?」

「さっきも言ったけど、本当に儀式を邪魔するつもりはないんだ。そりゃあ少しは進行の妨げにはなるかもしれないけど、俺は瑞葉に使命を果たしてもらいたいと思っている」

「それじゃあこういうことかしら。彼女に伝えることだけ伝えて、最期を看取ってあげるということ?」

「それも違う」

 俺は首を横に振った。

 そして、少し考えた後に、これだけ教えることにした。

「俺は彼女を応援しにきたんだ。使命を全うして、もう一度ちゃんと俺たちの元に戻ってこいって」

「え…………」

「瑞葉には心を強く持って欲しいんだよ。この世界で待っている人間がいるんだから、悪い神だかなんだかわかんないものになんか負けるなってね」

 これが考えた末に出した、自分に出来ることの答え。

 この行動を基本とし、瑞葉に俺の伝えたい言葉をぶつける。その言葉が何かはまだ教えられないが。

 佐山さんはしばらく呆けたような顔をするが、やがてには苦笑して呟いた。

「一矢くん。あなたって本当に彼女のことが好きなのね」

「自分でも驚いているよ。でも、俺は大好きな人をもう失いたくはないんだ」

 俺は自殺した多恵さんのことを思い出していた。

 あの時の自分には何もできなかった。もし彼女の苦しみに気がついて、何か相談にでものってあげれていたら運命はかわっていたのかもしれないのに。

 自己満足と言われればそれまでだろうが、それでも何もしないよりはいい。

 ましてや今回は、大切な人がいかに重い運命を背負っているかを知ってしまったのだから。見過ごすことなんてできる訳がない。

「あなたにも色々あったみたいね。でも、前向きに頑張ろうとしている。逃げて目をそむけようとした私とは違うのね」

「佐山さん……」

「いいわ。私の負け。本当はまだ不安もあるけれど、いま瑞葉が本当に使命を果たすためには一矢くんの力が必要かもしれないと認めてあげる」

「ありがとう、佐山さん」

「礼を言われることじゃないわ。私も瑞葉のことが好きな以上、これくらいはしないとね。それにこの方が使命を果たす上でも効果的と思っただけよ」

「効果的?」

「ええ。長老さまたちはわかっていないかもしれないけど、いまの瑞葉は昔の彼女よりも情緒不安定よ。少なくとも神子としての資質を問われる無垢な純粋さが欠けている恐れがあるの。あの子は自分を犠牲にして世界を救うことを理解しているけど、やっぱり心のどこかには不安や後悔もあると思う。もうあなたと会えなくなるという事実を押し殺して使命に挑もうとしている以上、それがどこで足枷になるかわからないわ。頭では理解できても、心の奥底で納得いっていなければそれは爆弾になりかねない。でも、あなたが側にいて、これからも彼女と一緒にいたいと願ってくれたら、あの子は純粋な気持ちで運命に立ち向かえるかもしれないわ」

「なるほど。わかったよ。ならば俺も頑張って彼女の支えになる」

 俺と佐山さんは目をみて頷きあった。

 そして彼女は装束の上に羽織っていたものを脱いで、俺に手渡してくる。

「奥へいくならこれを着ていきなさい。頭も覆い隠せるから、多少は怪しまれずに済むと思うわ」

「ありがとう。助かるよ」

 俺が深く頭をさげると、彼女はため息だけついて首を横に振る。

「瑞葉のために、私がしてあげられることをしただけよ」

「中々いいと思うよ」

「でも、あなたも全力を尽くしてよ。事は瑞葉の問題だけじゃなく、世界の存亡にもかかわることなのだから」

 最後に向けられた佐山さんの厳しい視線を受け、俺は力強く頷いた。

 

 

§

 

 薄暗い洞窟の奥。周囲に灯るのはいくつかの蝋燭の光だけ。

 わたしは石で出来た祭壇の上に連れていかれ、そこの床に座らせられました。

 長老さま方をはじめとする“山”の人たちは祭壇を外側から取り囲みます。そして色々と準備だけ整えた後。

「これより浄化の儀式を始める」

 儀式の開始が静かに宣言されました。

 わたしはゆっくりと目を閉じます。自分の役目に集中し、外部に気をとられないためにも。

 儀式の進行は長老さまの言葉に従えば良いとのことですので、わたしはただ素直に従うだけです。

「神子に祈りを。世界に調和を」

 長老さま方の言葉を周りが続いて唱和していく。声は段々と重なりを増すにつれて本来の言葉の響きを失い、ただの音のようなものへと変化していきます。

 音は洞窟に低く反響しあい、どこかしら重い空気をもたらしていく。

 周囲の言葉が熱を帯びていくと共に、わたしの身体にも不思議な熱気のようなものがまとわりついてきたかのように思えます。

 それは気のせいではありませんでした。徐々に汗ばみ、息苦しくもなってきましたから。

 ねっとりと絡みつくような熱気に、頭がくらくらっとなりそう。

 そのときです。

「神子よ。神を受け入れるべく、門を開くがよい」

 長老さまの指示が飛びました。

 神を受け入れるべく、門を開く。それはわたしの背中に描かれた模様に気持ちを向けろという意味です。

 この模様こそがわたしの内に神を引き込むための門。わたしが強く願えば門は開き、神は有無を言わさずそこへ引き込まれていくのだといいます。

 これは代々、一族に受け続けられてきた秘儀。

 わたしは言われるがままに従いました。

 途端、背中にゾクリとする冷たさが走り、やがてには痛みを伴うほどのものへと変わっていきます。それは錆び付いた重い扉を無理やりにこじあけるようなもの。

 それでも耐えるしかありません。逃げることは許されないのですから。

 幸いを言えば、先ほどまで絡み付いていた熱気が冷たさを和らげてくれているようには思えます。もし何の準備もなしに門を開いていようものならば、数分も持たないうちに気を失っていたかもしれません。

 熱気と冷気をないまぜるような状況の中、自分の身体の感覚は段々と麻痺してきました。熱いのか冷たいのか、痛いのか痛くないのか、もう漠然としかわからないような有様です。

 けれど、次の瞬間。おそろしいまでの違和感が身体を支配する感覚がありました。

 背中の門を突き破らんばかりの勢いで、途方も無い異物がわたしの内に侵入してくるのです。その異物は一言で表せば薄暗い“闇”。

 そして闇の形をとったそれこそが、わたしの立ち向かうべき“神”。

 放っておけば、世界を滅ぼしてしまいかねないもの。

 はたして、わたし一人の犠牲だけでそのようなものを抑えきれるのでしょうか?

 外の世界に染まることなく、何も知らないままの自分であったのなら、このような疑問を抱くこともなかったかもしれません。

 ただ真っ白で無垢な心を保ったまま闇を浄化するという使命を果たしていたのかも。

 しかし、例え万全な状態であっても真っ白なものが闇に勝てるものなの?、という疑問があります。

 闇の色が白いものを完全に塗りつぶすことはできるでしょうが、白いものが闇を塗りつぶすのは容易ではないように思えます。

 白いものに闇の色が混じった場合、そこに生じるのは灰色。それは決して明るい色とは言い切れません。

 そして現に今も、闇がわたしの心を呑み込まんとしています。自分はそれに抵抗していますが、相手を上回るほどの真っ白さを保つことなどできません。

 でも、ここで屈してしまったら世界は……

 大好きな人と別れてまで頑張ろうとしたのに、もうわたしにはどうすることもできないのでしょうか?

 強く保とうとした意思が段々と崩れ始め、ただ苦しさのみが押し寄せてきます。

 周囲を取り巻く長老さま方も慌てた様子でなにやら叫んでいますが、もはや何を言っているのかも理解できません。

 …………ごめんなさい。

 自分に言える最後の言葉かもしれない。それは一体、誰に向けての謝りなのでしょう。

 けれど、そのときです。

「瑞葉っ! しっかりしろ。こんなところで負けたら駄目だ」

 わたしの耳に、もう聴くことなどできないと思っていた声が響きました。それと同時に誰かが駆け寄ってきて、崩れそうになっていた身体を背中から抱きしめてくれる。

 それは幻でもなんでもなく、しっかりとした現実としてそこにあるもの。

 そして、わたしの側にいる人は…………

「…………一矢さん」

 わたしは愛しい彼の名を呼んだ。

 彼は微笑んで頷いてくれました。

「また会えたね」

 本当に一矢さんだ。もう会えないと思っていたのに。わたしの目に嬉し涙があふれ出し、この瞬間だけは“神”のことを忘れるほどでした。

 けれど、周囲の長老さま方はここにいる一矢さんを黙って見過ごそうとはしません。

「小僧。瑞葉から離れよ。いまは大事な儀式の途中。邪魔だてすることは許さん」

「あんたらからすれば邪魔しにきたようにみえるんだろうが、俺は儀式を止める気まではない。彼女にどうしても伝えなきゃいけないことがあって来たんだ。それが終われば、あんたらの好きなようにすればいいさ」 

 一矢さんはその先の長老さま方の言葉を無視して、わたしに向き直った。そして言う。

「瑞葉。俺は世界の誰よりも君を信じている。だから……」

 じっと瞳をのぞきこまれ、願うようにその言葉をぶつけられる。

「使命を全うして、必ず俺の元に帰ってきてくれ! 俺には君が必要なんだ。君のいない世界なんて意味がないんだ。だって俺は君のことが好きだから。瑞葉のことを本当に愛しているから」

「一矢さん……」

 あまりにも熱を帯びた言葉。それはわたしの心の中にまぶしい光を灯すかのよう。

「俺は瑞葉を守るって約束しただろう。その約束を守るためにも、神になんか負けずにこの世界に戻ってきてくれないと困る。ずっと待っているから」

 優しい一矢さん。こんなにも想われている自分が嬉しい。

 でも同時に、わたしは自分の愚かさにも気づく。こんなに大事に想われていたのに、わたしはただ運命に従うことで彼のいる世界を救えると思っていた。

 これでは、ただ自己満足でのみ頑張ろうとしていたにすぎません。

「一矢さん、わたし自分勝手な人間ですよ。あなたのことが好きなのに、あなたのように相手のことをそこまで考えられない人間です。そんなわたしでも一矢さんはいいのですか?」

「自分勝手じゃない人間なんていないよ。間違いだっていくつも犯すし、何が正しいと思うのかもその人によって違う。でも、大事なのは自分の過ちに気づいた時、それを正せるかどうかだろ」

「正せたら、あなたに守ってもらえる資格はありますか?」

「資格なんて関係ないさ。対等にお互いの足りない部分を補い合えてこその関係でありたい」

「わたしにそれはできますか?」

「それは瑞葉が考えるべきことだよ。君が俺との関係を正しい形で望むのなら、うまくいく可能性だってある。瑞葉はこれからも俺と一緒にいたいと思うかい?」

「はい。許されることならずっと側にいたいです」

 この言葉を口にした時、わたしは本当の意味で素直になれたように思えました。

 そして一矢さんも微笑みながら言いました。

「じゃあ頑張ってその願いを果たせるようにな。君は世界を守り、俺は君を守る」

 温かく響くその言葉は、どんなものにも立ち向かえそうな勇気を与えてくれます。

 わたしは小さく頷くと、再び己の内に侵入した“神”と対峙します。

 “神”を意識することによって息苦しさは増してきますが、それでも先ほどのような苦しさはありません。それに闇の中においても、一筋のまぶしい白い光が見えます。

 その光はまだ小さいけれど、なにものにも負けない強い輝きを帯びている。

 あれこそはわたしの道標。闇に呑み込まれて道を失わないようにするためのもの。

 わたしはその光を強く意識しました。そしてその光の中にあるものを感じ取ります。それは明るい形の様々な夢と希望。わたしがこれから望むものがたくさん詰まっている。

 けれど、その光を呑み込んでいかんとする闇の色をした“神”。その力はやはり大きなものです。

 負けたくない。

 人が神に勝てるのかはわからないけれど、自分から諦めるようなことはもうしたくありません。

 これからも一矢さんの側にいたいのです。それは欲望というものでしょうが、決して歪んだものでも穢れたものでもないと思います。なにも恐れることのない純粋な想い。

 そのことを考えるだけで心の中は温かくなり、光も更に強くなります。

 ただ正直、いまのわたしは余計なことを考えすぎなのかもしれません。そう思うと、過去に神を浄化してきたという神子たちはどのような気持ちで神に挑んできたのかが気になります。

 歴代の神子たちは自らの命を代償とする行為に恐れは抱かなかったのでしょうか。

 もっとも、わたしと同じような形で育てられたのだとすれば、恐れや死というものがどういったものかは教えられなかったのでしょうが。

 神子に選ばれた者は、使命を果たす上においての大事なことしか教えてもらえません。必要以上の好奇心を持つことも許されなければ、心に迷いや戸惑いを生じさせるようなものにも一切触れさせることはしません。言葉は悪いですが、その無知さがゆえに穢れも知らず恐れも知らず。

 だからこそ命をかける使命にも、何の疑問もなく立ち向かってゆく。

 けれど、どんなに完璧に育てられても、神子はやはり人間なのです。

 今のわたしがそう感じるから言えることですが、どんなに完璧に育てられた者でも、いざ神に対峙した時には人間としての本能的な恐怖が生まれるとおもうのです。それは人が真の闇をおそれるのと同じように。

 神子たちはその時にはじめて恐怖というものを知り、戸惑うのかもしれません。それでも教えられたものをただ果たすべく必死に神へ抵抗し、最後には神と相打ちになる。…………それが命を失う一番のきっかけなのではないかと思います。

 でも、その恐怖に打ち勝てるほどの希望と願いがあれば、生き延びることだって叶うかもしれない。

 すべてはわたしの勝手な想像にしかすぎませんが、こうやって前向きに考えることも希望をつなぐひとつの手段。

 そのときです。自分の脳裏に直接声が響いたのは。

「召喚者よ。おまえは我に何を望む。更に激しい雨を降らせよと申すか?」

 声は圧倒的な力を秘めています。わたしにはその声の主が何者かわかりました。

 それは今、自分の中にいる闇の色をした“神”の声。

「召喚者?」

「おまえは儀式を通じ、我を呼び出す門を開いた。それは我に望むことがあるからではないのか?」

 その言葉に、わたしはほんの少し戸惑いを覚えました。まさかこのような形で“神”が対話をしてくるなど思いもしませんでしたから。

「あなたに望むことなんて……」

 そう口ごもりつつも、わたしはひとつ訴えてみることにしました。対話で解決するというのなら浄化などしなくてすむかもしれません。

「……あるとすれば、あなたの力でこれ以上の雨を降らさないで欲しいということです」

「それはできぬ話だ。我は永遠の雨をもたらすものゆえ」

「でも、このままでは世界は滅んでしまいます」

「我には関係のないことだ」

 淡々とこたえる“神”の声は、世界がどうなろうと本当に興味がないという雰囲気です。その無関心さには感情も何もなく、わたしの言葉を阻む冷たい氷のような壁があるだけ。

 人と神の価値観の違い。その壁はあまりにも高く感じられる。

 それでもわたしは訴える。黙っていたのでは、脳裏に響く重圧に耐えられそうになかったから。

「横暴ではありませんか」

「それは違う。我は事実を伝えたのみだ。我にできることは雨を降らすことのみ。それ以外に興味はない」

「少しもわたしの言葉は聞き入れてもらえないのですか?」

「言いたいことがあるなら対等に話しはきこう。ただ、我は我にできることしかしない」

「ならばもう一度いいます。雨を降らさないでください。止めることはできるのでしょう?」

「止めることはできる。しかし、その気はない」

 完全なまでに突き放すような物言い。わたしのなかに今まで感じたことのない苦いものがこみあげてきます。

 それこそが怒りと悔しさ。

 事実のみを伝える神に悪意はないのでしょうが、そのやり方は卑怯にすら思えます。言わせることだけ言わせて平然とそれを跳ね返してくるのでは、わたしは神の手のひらで踊らされているだけ。

 訴えても空回りするだけ。惨めですらあります。

 これはわたしの卑屈な考えなのでしょうか? わたしの言葉が足りないから神は何も聞き入れてくれないのでしょうか?

 たしかにまだ出来ることすべてをやっていないのかもしれません。

 でも、それならばそれで試されているような感じにもなります。これのどこが対等なのでしょう。

 悩むわたしと、考えの固執した神。

 それでもまだ対話の可能性があるのであれば、正攻法で訴えるべきか否か。

 けれど、このまま平行線のやりとりが続いたのでは、明らかにわたしのほうが不利。事実問題として“神”との会話は精神に多大な負担を与えているように感じているからです。

 ならばもう、やりかたを切り替えるしかありません。

「わかりました。あなたにはあなたの考えがあることを。ですが、わたしにもわたしの成すべきことがありますゆえ、それをさせてもらいます」

「対話から逃げるのか?」

「残念ですがそうなります」

「対話を逃げるということは、おまえが我に訴える機会を失うということ。それはおまえの願う希望もかなわぬかもしれぬということ」

「見下した言い方はしないでください。わたしはあなたのような絶対的な価値を持った者ではありません。それがゆえに悩みもする弱い生き物です。けれど、悩む中にも選択肢というものはあり、その中には希望へと繋がるものがいくつかある筈です。希望はたったひとつなんかじゃない筈です」

「神を前にして、人の希望がどれほどのものだというのだ」

 その言葉が決裂の合図。次の瞬間には、いままで以上の闇がわたしの心を呑み込もうとする。

 薄暗い闇から本当の闇へ。

 それに呑み込まれようものならひとたまりもないでしょう。

 わたしはそうならないように、自分の信じる希望の光を強く意識します。

 わたしは世界を救って、もう一度そこに戻りたい。

 戻って、一矢さんやスノーちゃんと会いたい。

 皆で仲良く暮らせるようになりたい。

 なによりもわたし自身、普通に人らしく生きてみたい。

 強く、強く、心の底からそう思う。

 すると。闇の中、再び一筋の光が見えました。わたしは心の中でイメージして、その光に手を伸ばす。そしてそれを掴んだとき、まばゆい光がわたしの心すべてを包みこみました。

 これを目でみていたとすれば、眩しすぎて直視できないほどの真っ白な光。

 光は闇を打ち消し“神”の存在も薄れていきます。

 これが浄化ということなのでしょうか。やがてには完全に“神”の存在が消え去ったと感じます。

 これで世界は救われたの?

 でも、もうこの先を考えることはできませんでした。光はあまりにも強く、わたしの想いすべてを真っ白にしていく。

 その先には何も存在しない。

 真っ白で何もないということは無でもあります。

 闇に呑み込まれて消えるのではなく、真っ白に染め上げられて消える。

 儚い。

 そして神子であるわたしは、この世界から消失した。