第五章
知ってしまったもの。流れゆく世界
〜
Reveal the truth 〜
人は何もかもを背負えるほど強くはないんだ
雨の中、買い物にでかけた俺は、ひとりで小さな溜め息をついた。
その原因は瑞葉に対して、まだまだ配慮の足りなかった自分への後悔。
彼女の過去には、無理に触れないにしようと気遣ったつもりだが、結局それは瑞葉ひとりを考え込ますだけの結果に追い込んでいたのだから。
なんとも情けない話だ。
瑞葉は自分の過去を思い出すのを恐れていた。だが、それ以上に自分が何者であるのか?という不安もあったのだろう。
過去を思い出すのは怖いが、思い出さないことには自分が何者かすらわからない。そんな揺れ動く心をひとりで抱えたままの彼女は、本当に辛かったのではないかと今さらながら感じる。
俺は彼女を守るって約束したのに、全然守りきれていないじゃないか。
自分への苛立ちが自然と募る。憂鬱な雨の天気が、ネガティブな気分に拍車をかけそうになる。
でも、このままではいけないんだよな。後悔するだけでは、その先に何の希望も生まれない。俺がしなければいけないことは、同じ過ちは二度と起こさないよう注意すること。
そう。まだ何とでもしてやれるチャンスはあると思う。
いきなり難しい配慮をしすぎて同じ過ちを犯すのも何なので、まずは簡単な所から彼女との関係を保てるようにしないとな。
とりあえず今夜の夕飯はとびきり美味しいものでも用意して、また瑞葉に喜んでもらうのもいいかもしれない。
彼女には思いつめた表情をされるよりも、笑顔でいてほしいものな。
俺は大好きな彼女の笑顔を思い浮かべ、少しずつポジティブな思考ができるよう自分を盛り上げた。
こうして買い物先のスーパーに辿り着いた後は、あれこれと食材を吟味しながら今夜の夕食を考える。
瑞葉には色々と食べさせてやりたいものはあるが、特にコレにしようと決めるのは難しい。俺の得意料理なんてものもたかだか知れているし、そういったものは既に披露済み。
さて、一体どうしたものか。
そんな風なことを考えていると、ふと白菜が目に付いた。その時、俺の中に夕食のアイディアが浮かび上がる。
そうだ! 鍋なんてどうだろうか。
今まで一人暮らしをしてきた俺にとっても鍋料理なんて久しぶりだし、瑞葉と一緒に鍋を囲むのも何だか家族みたいな感じがしていいかもしれない。
よし、夕食は鍋で決定だな。鍋料理にも色々あるけど、とりあえず無難なところで水炊きにするか。
そうと決まればあとは早かった。野菜類のほかに鶏肉や豆腐などなど、必要な材料を買い込んでいく。
こうして程なくして材料を揃えた俺は、会計を済ませ、荷物を手に外に出る。
雨はまだ降っていた。まったく、いつ止むんだろうなこれ。
ここ数日の雨は気分を憂鬱にさせる以上に、俺の生活にもささいな弊害を与えていた。単純な所でいえば洗濯物を干せないとかもあるが、今のように買い物に出てきた時でも、傘を持つ手で片方の手が塞がるので、両手一杯の荷物まで買いだめできないのが面倒に思えた。
まあ、それでも深刻な問題ではない。遠からずこの雨だって止むだろうしな。俺はそう単純に考えていた。
その時である。
「ちょっとそこの君。話があるんだけど、少し付き合ってくれないかしら」
俺に対して誰かが声をかけた。その声は馴染みのない女性のものであったが、聞き覚えがある。
背筋に嫌な感覚が走る。
おそるおそる相手の顔を見ると、そこには想像した人物が立っていた。以前、瑞葉のことを付け狙っていたサングラスの女性だ。
見たところ彼女ひとりだけの様子であったが、油断は出来ない。俺はこの場を切り抜けようと、以前のように逃げる覚悟をした。
だが、その前にむこうの方が先に口を開く。
「そんなに警戒しないで。以前のことは私が悪かったと思っているのよ。ごめんなさい。謝るわ」
彼女はサングラスを取り、俺の目をしっかり見つめながらそう言った。
サングラスを取った彼女の雰囲気は、がらりと異なった。もっと冷たい目をしていると思っていたのに、そこから現れたのは優しそうな目だったのだ。
だからといって気を許すわけにもいかないが、素直に謝られたことといい調子が崩れそうだった。
「やっぱりまだ怒ってるのかしら? このまえ瑞葉のことを物みたいに言ったことを」
彼女は尚も言葉を続け、俺はぎこちなく頷いた。
「あ、当たり前だ。どんな事情があるかは知らないけど、あんな言い方はひどすぎると思う」
「…………それもそうよね。何も知らない人が聞いて、快く感じる訳はないか。でもね、瑞葉にはああいう形で接していかないと、私だって辛いのよ」
「何だよ、それ。言ってる意味がまるでわからない」
「ごめんなさいね。でも、あの子に課せられている運命を知れば、私が何故あんな物言いになるのか、少し理解してもらえるかもしれないわ」
「瑞葉に課せられた運命だって……?」
相手の話のペースに乗るのは危険だと思うが、それ以上に興味のほうが大きかった。そんな俺の心を読み取ってか、目の前の彼女は薄く微笑む。
「知りたいのなら教えてあげるわ。いえ、むしろあなたには知ってもらいたいと思う。だからこうして声をかけたのよ」
「部外者には何も答えないんじゃなかったのか?」
「勿論、誰にでも言っていい話じゃないわ。でも、このままだと、知らないうちにあなたにまで重い運命を背負わせてしまう。そうなってから後悔しても遅いでしょう」
「………………」
「ま、あなたはもう瑞葉を巡る一件には巻き込まれているわ。だからこそ真実を知り、そのうえであなたのちゃんとした答えを出して欲しいの」
「…………わかった。とりあえずあなたの話は聞こう」
「ありがとう。それじゃあこんな所で立ち話もなんだし、近くの喫茶店にでも入りましょうか」
彼女の提案に俺は無言で頷いた。人気のない路地裏ならともかく、普通の喫茶店とかなら向こうもおいそれと騒ぎはおこさないだろうとの安心感もある。
こうして俺たちは近くにある小さな喫茶店に入った。店の中はそれなりに客もいる。大半は買い物帰りの主婦か、雨やどり中のサラリーマンばかりだ。
そのなかで自分たちは、奥の方の空いたテーブルに案内してもらう。席に着いた後は俺も彼女もコーヒーを注文した。
「本題に入る前に自己紹介だけしておきましょうか」
まずはそう言って彼女が話をきりだした。
「私の名は佐山幸恵よ」
「俺は野上一矢」
「ふうん。じゃあ一矢くんでいいわね」
何となく“くん”付けで呼ばれるのには抵抗もあるが、相手のほうが年上なのは間違いなさそうなので我慢しておく。
「なら俺の方は佐山さんと呼ばせてもらう」
「ええ。それでいいわ」
「それじゃあ早速だけど、瑞葉のことについて教えて欲しい」
「そうね…………でもその前に」
佐山さんはそう前振りだけして、窓の外の景色を見つめた。俺も彼女の視線の先を追うが、特に変わったものがある訳でもない。見慣れた光景の中で傘をさした人々がそれぞれ歩いているだけだ。
「ねえ、一矢くんはこの雨のことをどう思う?」
「は? なんでそんなことを」
「いいから感じたことを答えて」
「そりゃあ、なんていうか最近は雨つづきだし、少し憂鬱かなくらいで」
「その程度なんだ?」
顔もみずにそう言われる。なんだか小馬鹿にされたようでいい気はしない。だから俺も憮然と言い返す。
「他にどう思えというんだよ」
「これだけ長く降っている雨よ。しかも全国的に降っているの。地方によっては水害の恐れだってあるわ」
「そう言われるとそうかもしれないけど…………」
「このまま雨が続いたら、この国はめちゃくちゃになってしまうわ。いえ、この国だけじゃなく、いつかは世界的規模にまで拡大する」
「大袈裟な。そんなことある訳ないだろ。数日間、雨が降ったくらいで何でそこまで不安なことを思うのさ。雨なんていつかは止むよ」
「…………そうね。いつかは止んでほしいわ。ううん、正確には“止ませなければ”いけないのよ」
俺は首をかしげた。どうにも訳がわからない。でも、そんな俺に対して佐山さんはこう言った。
「一矢くん。いま降っているこの雨は、放っておいたら永遠に止むことはないわ」
「冗談だろ……」
永遠に止まない雨なんてあってたまるものか。そう笑い飛ばしたかったが、彼女の真剣な横顔をみて少し躊躇う。
その時、注文したコーヒーが運ばれてきた。佐山さんは窓から目を離し、砂糖とミルクをいれてスプーンでかきまぜる。そしてコーヒーを一口飲んでから、静かに告げた。
「この雨はね、古の悪い神様によってもたらされた超常的な現象なのよ。そしてこの現象を鎮めることができるのが瑞葉なの」
俺は呆然となった。いきなり悪い神様だ、超常現象だのと言われてもピンと来る筈などない。
佐山さんはそっと目を伏せる。
「理解できないならそれでも構わないわ。でも、これは事実なのよ。そのことだけは念頭において考えてみて」
「わかったよ。とりあえず事実だと仮定して俺も話を聞く。けれど、その悪い神様っていうのは何なんだよ?」
「何百年か昔に、雨乞いの儀式の末に召喚されたものらしいわ。で、その神は確かに召喚者の望み通りに雨を降らせた訳ではあるけど、最終的には望む以上の雨を降らし続け、召喚者の命令にもまったく応じなかったっていうわ」
「制御できなかったって事?」
「そういうことね。でも、そのまま永遠に雨が降り続けば当然のこと水害になる。だから当時の私たちのご先祖は神に挑んだの。けれど、人が神の力においそれとかなうわけもなく、できたことは幾人もの犠牲を出して封印することのみ」
「でも、そのご先祖の封印も完璧ではなかったから、今また雨が降っているというのか」
「それは少し違うわ! 今の世で封印がとけてしまったのは事実だけど、いつまでも完璧でありつづける封印なんて存在はしないもの」
佐山さんにピシャリと言われ、俺は反射的に謝った。確かに自分のさっきの一言は、彼女のご先祖を批難したように聞こえても無理はない。
「………ごめん。別に悪い意味で言ったんじゃないんだ」
「私こそごめんなさい。少しムキになったりして」
反省する佐山さんを見て、俺は彼女の印象を少し改めることにした。こんなふうにご先祖を想える彼女は、決して悪い人間ではないと思えたからだ。むしろあれほど真剣に言い返されてしまっては、この途方もない話も冗談ではないことがうかがえる。
「とりあえず神様についてわかっているのはそういうことくらいよ。そして私たち一族は、ずっとこの神様と対抗する術を模索しながら時を重ねてきたの。もっと厳密に言えば、この世界で起きる超常現象的な歪みを人知れず正すのが私たち一族の役目かな」
「そんな運命を背負った一族、物語か映画の中でしかいないと思ってたよ」
「普通はそれでいいのよ。超常現象が懐疑的と見られるこの世の中で、今さらそんなものがあるなんて公にしたって人々は混乱するだけよ。超常現象が常識として定着する前に、パニックが人々を滅ぼしてしまいかねないでしょ」
「たしかにそうだよな。今までの常識が覆されて、すぐに順応できるほど人は強くないからな」
「ええ。だから私たちが何とかしなきゃいけないの。もっとも、本当にどうにかできる可能性を持つのは瑞葉だけなんですけどね」
佐山さんは言葉の後半で少し声のトーンをおとした。それはここからが大事な部分であるとの雰囲気を伝わらせる。
「さっき瑞葉がこの現象を鎮めれるとか言ってたけど、それって具体的にはどういうものなんだ?」
「あの子には神子としての役目があるの。封印をとかれた神の魂をその身に降臨させ、彼女の内で神の魂を浄化させるという役目がね」
俺は首を傾げた。何だか途方がないもののように聞こえ、それをどういう意味で受け止めてよいのかわからなかった。
「もう少しわかりやすく言えば、彼女の身体の中に悪い神様をおろし、その中で神を消し去るのよ」
「…………どうもうまくイメージできないな。第一、人の身体の中に神をおろすだなんて、どうやってやるんだよ?」
「儀式を通じて行うのよ。悪い神様は言い方を変えれば、幽霊のような精神体なの」
「それって、精神体の神とやらを瑞葉に取り憑かせるってことか?」
「イメージ的にはそんな所」
俺は息を呑んだ。常識を捨て去っていかないと、とてもではないがこの話についていけない。
「取り憑かせた後はどうするんだ。その神を内部で消し去るって言うけど…………」
「瑞葉の内部…………いわば、心とも言えるものだけど、無垢で真っ白なのよ。悪い神様の魂はその真っ白な世界に染められて、やがて消えてゆくの」
「そんなことが可能なのか?」
「今とは違う時代の事件だけど、別の悪い神様がその方法で浄化されているわ。詳しい原理までは私にも説明はできないけれど、私たち一族はその手法を代々受け継いで、有事の状況に備えてきたの」
「……だから瑞葉が必要なのか。それはわかったけど、彼女はそっちの家に帰るのを怯えていた。神を浄化させることはとても恐ろしい行為なんじゃないのか?」
得体の知れないものを自らの中に取り憑かせるなんて、誰だって正直ご免被りたいものだろう。瑞葉がそれを恐れて逃げ出したというのなら、その気持ちは痛いほどわかる。
だが、佐山さんから返ってきた言葉は俺の想像よりも重く、残酷な事実だった。
「神をその身に降臨させるという行為は、瑞葉の命そのものを犠牲にする行いよ。あの子は役目を果たせば死んでしまう」
「何だって…………」
俺は絶句した。
佐山さんは目を伏せ、淡々と言葉を続ける。
「それが神子たるものとして育てられた彼女の運命なのよ。神の魂を受け入れるには、人の器では小さすぎる。だから神を浄化すると同時に、神子も一緒に衰えて壊れてゆくの」
「そんな馬鹿な話があってたまるものか。彼女の命をむざむざ犠牲にするんだぞ。そんなのおかしい」
ギリリと歯を食いしばり、拳に力を入れる。そうでもしないと憤りが収まらず、この場で暴れだしてしまいそうだった。
「一矢くんの気持ちはわかる。でもね、瑞葉が役目を果たさないことにはもっと大勢の命が失われてしまうのよ」
「…………他に方法はないのですか。例えば浄化ではなく、もう一度封印だけにとどめるとか」
俺の問いに佐山さんは、静かに首を横に振る。
「封印は浄化以上に犠牲を伴う行いよ。それにそれは問題を先の時代に延ばすだけにしかすぎない。後世に迷惑をかけないためには、ここで彼女が使命を果たすしかないの。こういうのも何だけど、運が悪かったのよ」
「本当にどうにもならないのか?」
「残念ながらね。それに今回に限ってはもう時間もないわ。雨はもう降り始めているの。悠長に別の解決法をさがすなんてしていられないのよ。わかるでしょ」
「わからないよ! わかるわけがない。瑞葉は使命を果たすことを恐れているんだぞ。当然だ。自分の命が失われるとわかって恐れないやつなんていない。佐山さんは彼女を可哀想だとは思わないのか?」
興奮のため、語気が荒くなる。
けれど次の瞬間、俺は佐山さんの表情をみて言葉を窮した。彼女の瞳にうっすらとだが湿ったようなものがみえる。もしかして、泣いているのか?
どうやら間違いないようだった。彼女はハンカチを手に取り、それで瞳を濡らすものを拭き取ったから。そして弱々しく語りだす。
「彼女を可哀想だと思わないのか……そう言ったわね? 可哀想だと思わない訳がないじゃない。私はあの子を妹みたいに思っていたときもあるんだから。でも、そんな風に接することはできなかった。この雨が降り出してからは尚更よ。瑞葉は使命を果たして死んでいくとわかっているのよ。大事に愛おしく接したりなんかしたら、悲しみが増して耐えられないわ。だから私はあの子をモノとして見る事に決めたの。悪役に徹して冷たくしていれば、少しは自分の気持ちを守れると思った」
「…………そうだったのか。でも、気持ちはわかるけど悲しい考え方だ」
「何とでも批難してくれていいわ。私はあの子を助けてあげることができないんだから。むしろあの子に恨まれているくらいの方がいいのよ。何も力になってあげれない不甲斐ない自分への罰として」
俺はどう言葉をかけてよいのかわからなかった。懺悔のような告白は聞いていて辛い。
ただ、佐山さんには彼女なりの理由があって、瑞葉に冷たく接していたというのは理解しようと思った。
それからしばらく気まずい沈黙が続く。次に口を開いたのは佐山さんの方からだった。
「一矢くん。さっき瑞葉が使命を果たすことを恐れているって言ったけれど、それは本当なの?」
「ああ、本当だ。佐山さんだって以前、瑞葉と再会した時に見ただろう。彼女はそっちに戻ることを怖がっているんだ」
「そう…………」
「でも、何だってそんなことを確認するんだ?」
「昔までの瑞葉は使命を果たすことを恐れてなどいなかったからよ。厳密に言えば、使命の末にどうなるか教えていなかっただけなんだけどね」
「それってつまり、彼女は自分の身に降りかかる運命を知らされていなかったという意味だよな?」
「そうなるわね」
「それって何かひどくないか」
「じゃあ、あなたはこう言えというの? おまえは死ぬことになるけれど、使命を果たしなさいと」
俺は言葉に詰まった。でも、佐山さんはふっと溜め息をついてすぐに取り繕ってくれた。
「ごめんなさい。私も今のは意地悪な言い方だったわよね。ま、一矢くんの気持ちはわかるわ。事実、自分達のやり方はひどいものであり、瑞葉を騙して利用しているのに近いもの」
「俺こそ……ごめん」
「いいわよ。とりあえずどっちが正しいかなんていう問答はこのさい無意味だし、止めましょう」
俺も小さく頷きつつ、少しだけ話の方向を変えた。
「でも、今の瑞葉が使命を恐れているということは、誰かが真実を彼女に伝えたことにはなるんだよな…………」
「それは確かね。そして私たちは、それを伝えたのが誰なのか検討もついているわ」
「誰なんだ?」
「瑞葉を産んだ両親よ。その人たちは娘が残酷な運命を背負うのを良しとしていなかったから。元々、瑞葉のような神子は両親から引き離されて“山”の長老たちに俗世の穢れを知らせることなく育てられる訳だけど、彼女の両親は長老たちに隠れて瑞葉に逢いに行き、色々なことを教えていたみたいよ」
「どんなことを教えていたんだろう?」
「詳しくはわからないけれど、おそらくは神子の資質を失わせるようなことだと思う。普通の人間が持つ感情とか欲望。楽しいとか悲しい、そういった基本的なものね」
「それを教えることは悪いことなのか?」
「神子にはそんなもの必要ないのよ。使命を果たして朽ちていく存在に、余計なことを教えても使命の邪魔になるでしょう。神子というものは常に無垢の心を持ち、使命を果たすことのみが唯一正しい生き方として育てられるの」
なるほど。つまり瑞葉は、長老とかいう連中の思惑で人間らしい感情を持つこともなく育てられたが、彼女の両親は娘に人間としての正しい感情を教えたということか。
確かに自分達の子供が、非人間的に育てられているのがわかっていて黙ってなどいられないと思う。ましてや命を失うような使命も背負わされているんだ。心ある親ならば納得なんて出来ないのが普通である。
少なくとも瑞葉の両親が、彼女を見捨てたような親でないことには安心した。
しかし、そうなるとまた一つ気になることがよぎる。俺はその疑問を口にした。
「今、瑞葉の両親はどうなっているんだ?」
「…………死んだわ」
「なんだって! 一体、どうして」
「瑞葉と隠れて会っていることが長老たちにバレたのよ。その時、彼女の両親は瑞葉を連れて長老たちの手勢を振り切って“山”を逃げたの。でも、その途中で追っ手とやりあってね」
「そ、それじゃあ、あんたらが殺したっていうことか」
声が震えた。
「そこまでするつもりはなかったけれど、結果的にはそうなってしまったみたい。これ以上、弁解はしないわ」
佐山さんは神妙に目を伏せる。
それを見ていると、彼女だって悲しんでいるのはわかる。ゆえに俺の中での憤りは、どこに向ければ良いのかわからない。
俺は気持ちを鎮めるべく、手付かずだったコーヒーを口にする。既に冷めていて美味しくはなかったが、ほんの少しでも気分を変えることには役に立った。
「瑞葉の両親は自らの命を張って、彼女だけでも逃がしたってことか」
頭の中の整理をつけようとして、俺は口に出して呟く。
「そういうことになるわ。そして逃された瑞葉は、何らかの原因があって記憶を失い、あなたの元へ転がり込んだってところかしら」
「なるほどな」
記憶を失った直接の原因が何かはわからないが、事実関係だけで言えば、佐山さんの推測で間違いはないだろう。
「とりあえず私から話せることはこれで全部。瑞葉の生い立ちや背負っている運命はわかってもらえた?」
「そりゃまあ…………」
彼女の問いかけに俺は歯切れの悪い返事をする。何があったかは理解できても、それを受け入れて消化するには重いものがあったから。
「じゃあ、ここからが更に大事なことなのだけど、一矢くんはこれからどうするのが正しいと思う?」
じっと目を見つめて訊ねてくる佐山さん。その瞳は心の奥まで覗きこもうというほどに深い。
いまこの世界に起きている異変。そしてそれに立ち向かわねばならない瑞葉という少女の運命。俺はそんな重い話を聞いてしまった以上、もう単純に無関係ではいられないんだ。
けれど、どうするのが正しいと言われても、簡単に答えなどでるわけがない。
そして佐山さんもそれがわかっているのだろう。俺にこう話を振った。
「一矢くん。残念だけど、瑞葉はもうあなたの手に負える子じゃない。私たちの元に返してくれないかしら?」
「それは…………」
さすがに躊躇った。だが、きっぱりと拒絶できるだけの意志にも欠ける。
「抵抗があるのもわかるわよ。確かに瑞葉が私たちの手元に戻れば、使命を果たすしかなくなるものね」
「…………佐山さん個人の気持ちはどうなんだよ。本当に瑞葉に使命を果たさせていい。そう思っているのか?」
「意地悪な質問ね。でも、私は仕方がないと諦めているわ。事態はもう切迫しているのよ。私個人の感情と世界の滅亡を秤にかけることなんてできないわ」
確かにその通りだ。
俺だって世界を滅亡させるなんていう選択は取りたくない。
世界が滅亡したら、きっと誰も生きてなどいられないだろう。でも、瑞葉が使命を果たせば、犠牲は彼女だけで済む。
そして今はもう世界の崩壊たる兆しは始まっており、このまま放置したのでは手遅れになることも。
そこまではわかる。わかるんだ。
しかし、釈然としないものはどうしてもある。なぜならば、瑞葉をこのまま返すということは、俺自身この問題から目を背けたということになるだろうから。
いや、それは俺の思い込みすぎか。全てを知った上でそういう選択をしたなら、それは目を背けたことにはならない。
ただ、俺は全てを知ったのなら、単純にそういう選択肢を取りたくないだけなんだ。
だって、瑞葉は俺にとって大切な女の子なんだぞ。
多恵さんが亡くなった時のような後悔はもうご免なんだ。
「なあ、やっぱり他に方法はないのか?」
ややもすれば挫けそうになる心を叱咤し、俺は言った。
「方法?」
「瑞葉を救い、世界だって救う方法だよ。…………それを探す時間がないのはわかるけれど、本当に瑞葉のことを想っているなら、最後の最後まで何か方法を考えてあげるのが大事なんじゃないのか」
手掛かりもないのに甘えたことを言っているのは承知している。
佐山さんはしばらく目を閉じた後に、ふぅっと息をつく。
「一矢くんは本当に瑞葉を大事に思ってくれているのね」
「当たり前だ。だって、彼女は俺の大切な人なんだ…………」
「瑞葉は幸せな子ね。君みたいな人に愛してもらえたんだから」
「まだ幸せになんてできていないよ。これからなんだ。俺たちはこれから彼女を助ける術を見出して、本当の幸せを与えてやらなきゃいけない」
「俺たちって……私もその中に含まれているの?」
「そう思っている。佐山さんだって瑞葉のことが好きなんだろ。だったら、最後まで彼女を救うことを一緒に考えよう。このまま諦めて悪役を演じるのは佐山さんだって辛いはずだ」
勝手なことを言っているとは思う。だが、これは俺の願いでもある。
その時、佐山さんのバックの中から携帯電話の着信音らしいものが響いた。彼女は俺に待つよう手で仕草を送ると、携帯を取り出しし誰かと話はじめる。
「…………そう。そちらは終わったのね。ご苦労様。私も合流することにするわ」
どんな話が行われているのかはわからないが、佐山さんはそんな受け答えをして、すぐに電話を切った。
そして。
「一矢くん、ごめんなさい。急に用事ができたの。今日のお話はここまでにしましょ。支払いは私がしておくし、ゆっくりコーヒーを飲んでいって」
彼女はそう言って、伝票を取った。
「あ、いや。俺も出るよ」
慌てて荷物を持ち、俺は彼女を追う。
佐山さんは支払いを済ませて店を出ると、近くに走っていたタクシーを止める。
「佐山さん、ちょっと待って。せめてさっきの答えだけでもしてくれないか? 俺と一緒に瑞葉を救う方法を考えてくれるのか」
「ああ、それね。それはもういいのよ」
彼女は振り返って寂しそうに笑った。
「もういいって、どういうことだよ」
訳がわからず問い返す。
そんな俺に対し、佐山さんは子供を諭すような口調で答える。
「残念だけど、私は一矢くんの話にのることはできない」
「…………考え直すことはできないのか」
「よく考えなきゃいけないのはあなたの方よ。少なくとも瑞葉を返す気は、今のあなたにはないでしょ?」
俺は言葉に詰まった。確かにまだ瑞葉を返す決心なんてついていない。
そして、次に佐山さんから語られた一言は、俺の心を大きく揺さぶった。
「とりあえず瑞葉はもう返してもらったから」
「な、なんだって?」
背筋に冷たいものが走る。
「あなたの家の場所はここ数日のあいだ、時間をかけて突き止めさせてもらったの。そして、私がここであなたを足止めしている間に、別の者達が瑞葉を連れ戻しに行ってくれたのよ」
「それじゃあ元々俺を騙すつもりで!」
「どう思うかは自由だけど、瑞葉の話を聞いて欲しかったのは本当よ。あなたが納得して、素直に瑞葉を返してくれたら、それにこしたことはなかったもの」
憐れむような視線で語る佐山さん。俺の目には悔し涙が溢れる。
何でだ。
何でなんだよ。
佐山さんだって、瑞葉のことが好きなんじゃなかったのか! 俺は佐山さんを信じようとしたのに、それは間違いだったのか?
もはや何もかもがわからなくなった。
「ごめんね、一矢くん。でも、これが大人のやり方なの。あなたに守りたいと思うものがあるのと同様に、私にだって果たさねばいけない使命があるの」
佐山さんはそれだけ言うと、タクシーに乗り込んで去って行った。
残された俺は、傘を差す気力も失い、持っていた荷物をすべて地面に落とす。
雨が身体を叩きつける。冷たく、痛いほどの雨だった。
どれだけ悔し涙をこぼしても、それもすぐに洗い流されてしまう。
このまま訳もなく叫びたくても、喪失感のほうが大きくて、それすらもままならない。どん底に叩き込まれた俺の心は、嵐の海を漂う小船のようだ。舵取りがまるできかない。
俺の心はこのままどこへ流されていくのだろう。ただ、足だけは無意識のうちにどこかへ歩みだしていた。
§
どうやってここまで歩いてきたのかは覚えていない。
何も考えられずに、足の赴くままに進んできたからだ。
気がつくと俺は、自分の家の前に立っていた。動物でいう帰巣本能みたいなものか。
だが、こうやって家に帰ってきた以上は、確かめなければいけない。本当に瑞葉が連れ戻されてしまったのかどうかを。
俺は家の中に入ると、手近な部屋からみてまわった。そして居間を覗いた時、そこのベランダのガラスが割られているのに気づき、大きな溜め息をつく。
部屋には誰かが入った形跡がありありと見て取れた。それはつまり、佐山さんの言った通り、彼女の仲間が侵入して瑞葉を連れ出していったという証だ。
わかってはいたことだが、やはり手遅れだった。
俺は改めて、己の無力さに打ちひしがれる。
結局、俺なんかでは手に負えなかったということかもしれない。瑞葉を運命から救ってやりたいと思っても、その具体的方法すら思いつかないのだから。
心意気だけは立派にみえたとしても内実が伴っていない。
でも、それは仕方のないことだと、心の中のどこかが囁いている。
世界が滅ぶとか、神がどうだのと言われたって、普通に生きてきた俺が受け止めきれるものではないのだ。瑞葉と自分では生きてきた世界が違いすぎる。今はそのことが悲しいかもしれないが、いつか時が経てばその事実も受け止められるだろう。そう囁いてくる自分もいた。
けれど、本当にそうなのだろうか? もしこのまま世界が滅ぶことなく時が経ったとしても、それは俺の愛した女の子の犠牲によって成り立ったものだ。そんな世界で悲しみを忘れて、罪悪感もなく生きることが俺にはできるのか?
心が激しく乱れて、自分が一体どうしたいのかわからない。
「俺は情けないやつだ」
結局、最後に出てくるのは罵りの言葉。いくら考えたって堂々巡り。自分から動くことができないからたちが悪い。
家に戻ってからどれほどの時間が経ったのだろうか。俺の思考にこそ変化はなかったが、雨で濡れていた服は既に乾いていた。
その時だ。
「わんわんわんわん!」
急にそんな鳴き声をあげながら、小さな犬が部屋に入ってくる。スノーだった。
そういえば、こいつのことすっかり忘れていたな。今までどこにいたんだろう。
スノーに目を向けると、その姿はずぶ濡れの状態だった。しかも更によく見ると、怪我をしている様子でもある。
「おまえ…………一体、どうしたんだ」
俺はスノーを拾いあげて優しく撫でた。確かに怪我もしている。うっすらとだが、真っ白な身体に血が滲んでいたからだ。
もしかすると、瑞葉を連れ去って行った者にやられたのかもしれない。
「ごめんな、スノー。おまえまでこんな目に遭わせてしまって」
言葉なんて通じる訳はないのに、俺はこいつに語りかけ、謝ってしまう。少なくとも気持ちだけは伝わってくれるといいんだが。
しかし、スノーの様子は少し変だった。何か興奮しているのか、いつものような落ち着きがないのだ。
「わんわんわんわんわん!」
「落ち着け。もう大丈夫だからさ」
あんな騒ぎがあったのだから無理もない。俺はスノーの落ち着きのなさをそう解釈しようとした。
だが、スノーは腕の中で暴れ、吼えるのをやめない。抱かれているのが嫌なのだろうか?
さすがにどうすればいいのかわからないので、とりあえずは放してやる。しかし、今度は俺の服の裾をくわえ、一生懸命ひっぱろうとした。
「おまえ、何がしたいんだよ…………」
問いかけても「わんわんわん!」と返されるだけ。俺は瑞葉じゃないから、犬の言葉なんてわからないぞ。
けれど、こいつは俺の服をひっぱるのを止めない。まるでどこかへ連れていこうとするように。
「俺についてこいとでも言う気か」
小さく溜め息のように呟くと、スノーは簡潔に一言だけ「わん!」と鳴いた。偶然かもしれないが、俺にはそれが肯定の言葉に聞こえた。
そしてスノーは俺から離れると窓の外へ飛び出していく。
「わんわんわんっ!」
外へ出た途端、スノーは俺に振り返り、まるで「こっちだよ」と言わんばかりに吼える。
雨に濡れることも気にせず、一生懸命に吼える姿は、本当に何かを訴えたそうだった。
俺は立ち上がると、スノーを追って外に出る。すると今度はスノーが自宅の敷地を抜けて、公道をどんどんと走っていく。
「あ、おい。待てよ」
慌てて真っ白な小犬を追う。
スノーはまるで、俺が姿を見失ったりしないよう、適度に距離を保ちながら待ったり、走ったりを繰り返す。
一体、どこに行くのかが検討もつなないが、あいつの行動には何か意味があるようには感じられた。
………………いや、待てよ。もしかしてあいつは。
「スノー。おまえ、瑞葉を助けにいくつもりなのか?」
俺は立ち止まり、頭によぎった考えをスノーに問う。すると目の前の小犬はまた簡潔に「わん!」とだけ鳴いた。当たり前だろうと言わんばかりに。
「おまえ、俺の言葉がわかるのか?」
「わん!」
やはりスノーは俺の言葉に応えているような気がする。でも、最初こいつに会って話しかけた時は、言葉なんて通じてはいなかった。
これはまだ偶然と考えるべきなのだろうか。
瑞葉はスノーと話す時、犬の気持ちになって話しかけるみたいな事は言ってたが…………
「スノー。俺の言葉がわかるのなら、尻尾を二回振ってみてくれないか」
俺は指を二本立てて、そんなことを言ってみる。するとスノーは見事、その要求に応えた。
これはやはり通じていると見て間違いない。
正直、犬の言葉をしゃべれているなんていう自信はないが、俺はいま真剣にこいつに語りかけているのだけは確かだ。
以前までの俺は、犬と言葉が通じるなんて信じていなかったのが駄目だったのかもしれないな。
でも、こうやって話が通じているとわかると、スノーが何をしたいのかもはっきりした。この小さな小犬は、瑞葉を助けにいくつもりなのだ。俺を一緒につれて。
雨に打たれても、怪我をしても、ただ一生懸命に頑張ろうとしている。当然だ。スノーにとっても、瑞葉は大事な人なんだから。
まったく、何て純粋なやつなんだろう。スノーは瑞葉に課せられた運命も、世界が滅びるという危機も知らない。
知らないからこその純粋。知らないからこその無謀さ。
だが、彼女を助けにいくということが、自らの身を危険にさらすかもしれないことくらいは、スノーにもわかっていると思う。
それでも行こうというのだから、それだけでも大したものだ。
「なあ、スノー。瑞葉がどこに連れて行かれたかはわかっているのか?」
「わんっ!」
その返事が俺の心を決めさせた。
彼女が連れて行かれた場所さえわかれば、まだ俺に出来ることの可能性は残っている。
何が出来るかなんてまだわかってはいないけれど、出来る何かを見つけるために動かなければいけないんだ。
スノーだってそうしている。
俺だって、瑞葉が好きだという気持ちに、最後まで責任を持つんだ!
「よし。瑞葉の元まで連れて行ってくれ。そして俺たちに出来ることを最後まで諦めずにやろう」
俺の宣言にスノーも嬉しそうに鳴いた。
こうして俺たちは、大切な人のために雨の中を走り出す。