第四章
あなたのこころ、わたしのこころ
〜
Recollection 〜
ただひとつ、願うことがあるのならば、それは……
今日も雨は止みません。
窓の外に見える景色はどんよりとしていて、世界を包んでいた明るい色だけがぽっかりと失われてしまったよう。
何だかとても悲しくて、寂しい。また、この雨をみつめていると何故か心が痛みます。
もっと本当のことを言えば、痛いのは心だけではありません。現実のものとして、背中につめたい痛みがはしるのです。
幸いなのは、我慢できない程のものではないということ。自分の意識を雨以外の別のものに向ければ、その痛みは消えてくれるからです。
でも、わたしは雨をみつめることによって、この痛みを自分から感じようとしています。
それは何故か?
やはりこの痛みこそが、わたしの記憶を取り戻すための手掛かりだと思うからです。
自分の背中に描かれた謎の模様といい、このまえ出会った女性が言っていた世界を滅ぼすという言葉といい、わたし自身の存在を不吉に感じることが沢山あります。
本当は記憶を思いだすのは怖いことですが、逃げてばかりもいられません。
一矢さんは無理に思い出さなくてもいいとは仰いますが、ただそれに甘える訳にもいかないのです。
自分が何者であり、何を背負っていたものなのか…………それを知らないことには、大好きな一矢さんにも迷惑をかけてしまうかもしれないのです。
一矢さんに守ってもらえることを自分の幸せにする以上、せめて何から守ってもらうのかくらいは明確にさせておきたい。
いえ、実際は全てを思い出すことによって、わたしが本当に守ってもらうに値する人間なのかを知りたいのかもしれませんが。
「瑞葉、退屈じゃないかい?」
ぼんやりと外の雨をみつめているわたしに、一矢さんは静かに声をかけてきました。
彼は同じ部屋で絵を描いていましたが、今はその手も止めています。
「そんなことはありませんよ」
薄く笑みを浮かべて、何事もないかのように振る舞う。記憶を思い出そうとしているなんて言えません。
以前、買い物に出かけた日より二日が経っていますが、一矢さんはわたしを気遣ってか、記憶のことやこのまえ出会った女性のことについては触れてきませんから。
むしろ、わたしから記憶の話題について触れようものなら、それも快く思っていないようですし。
だから、無用な心配をかけないためにも表面的には笑います。にっこり、にっこり。
「退屈でなければいいんだけど、気分は滅入らないか? 雨なんか見ていても面白くはないだろうに」
「そうでもありませんよ」
「そうかなあ。外を見つめている時の瑞葉の表情って、何か思いつめているように見えるときもあるんだよな」
「大丈夫。そんなことありませんから」
作った笑みと気の利かない受け答え。
こんなわたしは、一矢さんにどう見えているのでしょう。
そんなふうなことを思っていると、彼が側まで近寄ってきました。そしてわたしの髪に優しく触れます。
「嘘はいけないよ。本当は思いつめていることがあるのにそれを隠している。違うかい?」
やはり彼は見抜いているのでしょうか。わからないから、もうすこしだけとぼけてみます。
「どうしてそう思うのですか?」
「今日はずっと瑞葉を見ていたからだよ」
「え? でも、一矢さんは絵を描いていただけなのでは」
「そうだよ。ただ、俺がさっきまで描いていた絵は瑞葉……君だからね」
そう言われて少し驚いてしまう。知らないうちに自分の絵を描かれていたなんて思わなかったですから。
「許可なく君を描いたことは謝るよ。でも、君をみていて、何か思いつめているって感じたんだ。多恵さんが亡くなってからというもの、俺は人の心の機微には敏感になったつもりだぜ」
「こんな時、わたしはどう答えれば良いのでしょう」
「素直に答えてくれていいよ。怒ったりはしないから」
確かに彼は優しいから怒りはしないでしょう。けれど、すべてを話せば快く思わない部分もありそうです。
だから、言葉は慎重に選ばないと。
「…………わたし、やはり気になるんです。このまえ出会った女性との関係や、あの人の言っていた言葉などが」
「そうか。無理はないよな。瑞葉にしてみれば、あんなことを言われて平静でいられる訳ないだろうし」
彼はそこまで言うと、急に頭を下げた。
「ごめんな。気遣ったつもりでその話題には触れなかったけど、かえって君一人だけを追い詰めてたみたいだな。ホント、ごめん」
「謝らなくていいですよ。一矢さんは何も悪いことはしていないのですし」
「そうはいかないよ。結局、俺のしたことは自己満足の配慮なんだから。君を守るなんて偉そうにいっておいて、こんな有様じゃ情けない」
「自らの過ちに気づき、それを正そうとする人に悪い人はいませんよ」
一矢さんの頭をそっと撫でてあげながら言うと、彼はちょっぴり恥ずかしそうに笑いました。
「ありがとう。俺も自分を責めるのは止めるよ。それよりも今は、今後の君をどう守っていくのか相談しないとな」
「お願いします」
「とはいうものの、どうしていいのかわかんないのが正直な所だよな」
「ですよね…………せめてわたしも何か思い出せれば良いのですが」
けれど、はっきりとしたことは何も覚えてはいません。
ただ、漠然とした不安や恐れのようなものが、心の奥底に根付いているような気がするだけ。
「とりあえず言えることは、このまえの女性はあまり良いやつには思えないってことかな。瑞葉のことを知ってはいるようだけど、君を大事に保護しようなんて雰囲気でもなかったし」
「そういうものなのでしょうか」
「そういうものだよ。まさか瑞葉は自分の方が悪いだなんて思ってるんじゃないだろうな?」
「それは…………」
自分が不吉な存在なのではないかという不安からか、どうしても歯切れがわるくなります。
「確かに君の過去に何があったかはわからないけど、むこうも瑞葉のことを物みたいに言うやつだ。人間的に正しいなんて思わない」
一見穏やかにみえて、一矢さんの憤りは伝わってくる。すべてはわたしを大事にしてくれての言葉だから、素直に嬉しい気はするのですが、頷くとなると微かな躊躇いがよぎります。
「でも、むこうにはわたしをそういうふうに見なすだけの理由があるのではないでしょうか。仮にわたしが本当に世界を滅ぼすような存在であったとしたなら、忌むべきものとして見られても仕方がない気もします」
「ならば逆に問うけど、もし俺の方が世界を滅ぼす存在であったのなら、瑞葉は俺のことを忌まわしいものとして扱うかい?」
「…………そんなことはできません」
「だろ。少なくともこういうのは人それぞれなんだ。でも、同じ人それぞれなら、俺は人として正しいと思える方を信じたい。そして俺は、君のことを信じている。君が何者であろうとも、君はちゃんと心優しい子なんだって。だから瑞葉のことを悪くいうやつなんて許せない」
こんなにも信用されているなんて、わたしは本当に幸せものです。
そんな彼の言葉は、ほんの少しだけでも勇気を与えてくれます。自分を信じてみようという勇気を。
「とりあえず、不自由かもしれないけれど瑞葉はしばらく外出するのを控えよう。こっちが何も思い出せないうちにもう一度あの女性たちと出会ったりなんかしたら、俺たちは余計に混乱するかもしれないしな」
「わかりました。わたしはわたしで頑張って、何か思い出せるようにしてみます」
「ああ。けれど、何度も言うようだけど無理はしちゃ駄目だよ」
「大丈夫です。どんなに怖いことを思い出しても、一矢さんが守ってくれると信じますから」
「勿論さ」
彼はそう言うとわたしを抱き寄せ、そっと背中を撫でました。
羞恥よりも安堵のほうが大きい抱擁。ふわふわしていてほっとする。大好きな人の腕の中にいる安心感。
さっきまで冷たい痛みに耐えていた背中も、一瞬で癒されていくような感じです。
「…………一矢さん」
そっと囁く名前。
「ん? なに」
「わたし、あなたに好かれる人間で良かった。あなたを好きになれて良かった」
素直な気持ち。こういった言葉を口にすると、不思議と自分の中で何かが満たされていく。
「そう改めて言われると恥ずかしいな」
「でも、言いたかったんです。甘えすぎですか?」
「そんなことないよ。嬉しいんだから」
絡み合うお互いの視線。わたしを抱く一矢さんの腕に、更なる力がこもった感じがしました。
「何となくですが、ひとつだけ思いだしたことがあります。わたし、昔にも誰かに好きと言って甘えたかったのかもしれません」
「誰かって?」
「わたしを産んでくれた両親とか…………」
一矢さんの腕が少し緩みました。そして小さく呟かれます。
「…………両親か」
「でも、わたしはそういった人たちに好きという気持ちをぶつけてはいけないと言われていたような気もします」
あくまでも漠然とした記憶のかけら。一矢さんは少し心配そうに訊いてきます。
「それって、瑞葉の想いを両親たちが跳ね除けたってことかい?」
「それは違うと思います。わたしの両親は優しい人たちだった気がします。でないと好きという気持ちは芽生えないでしょうし」
「なるほど。たしかに一理あるな」
「でも、わたしは何らかの理由で、自分の気持ちを表に出してはいけなかったんだと思います」
「悲しいことだな。けれど、俺には素直な気持ちをぶつけてくれよ。遠慮なんていらないからさ」
「はい。できる限り、そうさせてもらいます」
わたしが頷くと一矢さんも軽く微笑んで立ち上がります。
「瑞葉。俺、ちょっと夕飯とかの買い物に出てくるよ。スノーと一緒に留守番していてもらえるかな」
「わかりました」
「悪いな。不自由をかけるかもしれないけど、まだあの女性がうろついていたら困るしな」
「…………一矢さんも気をつけてくださいね」
「ああ、慎重に動くとするよ。すぐに帰るようにもするし心配しないで」
こうして一矢さんは、傘を用意して買い物に出て行かれました。
雨はまだ止みそうにありません。
§
一矢さんがお買い物に出ている間、わたしはスノーちゃんとお留守番です。
スノーちゃんはわたしと一緒に一矢さんに拾われた小さなわんちゃん。いわばお仲間さんです。今はわたしの側で気持ち良さそうに眠っていて、無理に起こすのも可哀想に思えました。
でも、おかげで話し相手もなく暇だったりします。
再び雨をみつめることで記憶を思い出そうとしても良いのですが、少し疲れもあるのでそれを行う気力もわきません。
こんなときはどうすれば良いのでしょう。
一矢さんには、暇な時はテレビというものを見ればよいとは教えてくれましたが、そうしてみるべきでしょうか。
思い立ったらとりあえずは行動。わたし自身、テレビというものには馴染みはなかったのですが、この家にきてからは幸いにしてテレビの使い方を教わりました。
そんな訳で、手近にあるリモコンとやらを使って電源をいれます。こんな自分にでもできるほどのカンタン操作。機械の扱いは苦手だけに有り難いことです。
電源を入れて少しすると音と映像が流れ始めます。画面をみると、そこには雨の光景がうつしだされていました。
そして右上のほうには“異常気象。止むことの無い雨”という文字が。
どうもこれは、今の世間の状況を伝えるニュース番組というもののようです。その内容も、最近降り続く雨は原因不明の異常気象であるとか報じています。
テレビの中の人たちも何やら重い雰囲気で話し合っており、事の深刻さだけは伝わってきます。
このままでは農作物などへの影響はおろか、地域によっては洪水の恐れもあるらしいです。
大きな洪水となれば家を失う人も出るかもしれない。中にはそこで命を落とす人だって出るかもしれない。早急なる原因究明もさることながら、危険の予想される地域には早めの避難勧告を出したほうが良いとか。
そんな不安な話がテレビで交わされていく中、わたしの胸の奥では何か息苦しさを感じはじめました。
最初でこそ気のせいかと思いましたが、ニュースの内容を聞いているうちにその息苦しさは耐えがたいものとなってきました。
更には何か罪悪感のようなものがこみあげてきて、それが余計にわたしを苦しめます。
気がつくと無意識のうちリモコンを取り、慌ててテレビを消してしまいました。
部屋は一気にしんと静まります。同時に息苦しさもすっと引いていきました。
わたしは胸をおさえ、荒い息をはきます。
今のは一体なんだったのでしょう。
自分でも何故こうなったのか訳がわかりません。
…………怖い。
わたしの身体は一体どうなっているの。わからないことが一杯です。
あのようなニュースを見ただけで、なんともいえない罪悪感と息苦しさを感じるなんて。
やはりわたしは途方も無い何かを抱えている人間なのでしょうか?
そうだとしたら、わたしは一体何者なのですか?
改めてこの疑問を感じた瞬間、今度は耳の奥で本来聞こえる筈のない声が響き始める。
『他に逃げることは許されない。それがおまえの運命ゆえに』
響く声は、この場にいる筈のない老人たちのもの。幾人もの老人の声が同じ言葉でわたしを諭す。
その言葉は呪縛。絶対的な強制力があり逆らえないもの。
耳鳴りがひどさを増します。失われた記憶が、わたしに何かを思い出せと告げているかのように。
けれど今は、苦しみばかりが先立ってそれどころではありません。
「いやっ…………わたしは、わたしだって本当は…………」
自分が何を口走っているのか、理解もできない状態。実際、今の言葉も声がかすれて音にすらなっていない。
止まない耳鳴り。混沌のように渦巻く自分の中の何か。
それに耐え切れなくなった時、現実世界でのわたしの意識は・…………
…………闇に落ちた。
今度は一矢さんやスノーちゃんの助けもなく、ただただ落ちていくばかり。
けれど、落ちた世界は闇ではありませんでした。そこはただ真っ白で何もない世界。
真の闇と真の白は表裏一体。結局は虚無ということにかわりありません。
現実感のない場所。澄み渡った白は綺麗である反面、冷たすぎます。でも、この白い世界はわたしに不思議と馴染む。
何もかも浄化されて、そこにあるものは消えてなくなりそうな世界だというのに。
そう思った時、声が響きました。それは耳にきこえるものでなく、わたしの中に流れ込んでくる形で。
そしてその声は、わたしが忘れていた記憶のひとかけら。
『歪みは正さねばならぬ』
『それがおまえの生まれた意味であり、おまえの使命でもあるのだ』
感情も抑揚もない老人の声。一人ではない。それは複数いる“長老”たちと呼ばれるものの声。
わたしは自然と頷いていました。
わかっています。長老さま。何度も言われなくても理解はしていますから。
『神子たるものとして穢れなく生きよ』
『わかるな? それがおまえにとって正しいという意味なのだ』
そう。長老さまたちが仰ることは、いつだって正しい。
しかし、今度は別の声が流れ込む。それは高まる感情を抑えきれない女の人の声。それでいて懐かしい声。
『そのようなこと承服いたしかねます。我が子を死の淵に追いやるために、わたしはあの子を産んだのではありません!』
『黙れ俗物めが。あの子には成すべき使命があると何度申せばわかる』
女の人と長老さまたちの口論。長老さまたちの声音もいつもと違って厳しい。
『人が抱え込むには途方もない使命です』
『あの子は人ではない。神子なのだ』
『違います! あの子……瑞葉は人です。わたしの産んだ大事な娘なんです』
『ならば貴様は世界が滅んでもよいと? この世が滅べば、我らもあの子も生きてはおらぬ』
『それは…………』
『あの子はこの世界に起こる歪みを鎮める存在だ。神子が使命を果たすことによって、多くの者が救われるのだぞ』
『ですが、あの子は救われないではありませんか。もっと別の手段はないのですか』
女の人は尚も訴えました。けれど長老さまたちがそれに応ずることはありませんでした。
『どうして……どうして瑞葉がこんな運命を背負わねばならないの。わたしの大切な子がなぜ』
もはや誰に言うでもなく、ただひとり泣き崩れるかのような女の人の声。
それはあまりにも悲しい響きを帯び、わたしの気持ちをざわつかせます。
泣かないでと言ってあげたかった。あなたに泣かれたらわたしまで悲しくなります。
だって、あなたはわたしの大切な…………お母さんですから。
物心がつく前に離れ離れに暮らすことになったとはいえ、お母さんとお父さんの声は不思議と覚えていました。長老さまたちにはない温かさがあり、わたしはそれが好きだったから。
でも、長老さまたちにはそんな温かさを好きになってはいけないと教えられ、ずっとそれがいけないものだと思ってきました。
ただ甘えることは堕落に繋がり、それは穢れの原因ともなる。
それが長老さまたちの教えでした。
けれど、わたしはお母さんに泣き止んで欲しいと思いました。お母さんにはずっと温かくいてほしかったから。泣いているお母さんは悲しくて冷たそうです。
なのに、その時のわたしには何もできませんでした…………
そして、それからいくつか日も流れたある夜のこと。まわりが寝静まった時間に、お父さんとお母さんがわたしに会いにきました。
二人が言うには、長老さまたちには内緒で来たとのことでした。
本当ならばこんなことはいけないのでしょうが、わたしは不思議なくらい嬉しかったのを思い出す。
『瑞葉、いくらでも甘えてくれていいんだよ』
お父さんはそう言いました。それは長老さまの教えとは反しています。
わたしは訊ねました。甘えることによって穢れはしないの?と。
すると今度はお母さんが言いました。
『瑞葉はわたしたちの子供なんだから、甘えるのは自然なことよ』
とても温かい声。大好きだったもの。
気がついた時には、わたしは両親に抱きついて甘えていました。
長老さまたちの教えに反しているという戸惑いもなくはありませんでしたが、自分の気持ちを止めることはできませんでした。
それからは、数日おきに両親はわたしに会いにきてくれました。
そこでは二人の温かい優しさに触れると共に、人らしく生きるということ、本当に大切な気持ちなどを教えてもらえました。
物語を読んできかせてもらったり、外の世界のことを教えてもらったり。自分の知らないことをたくさんたくさん知ったのです。
そして、わたしもいつしか外の世界に出て、自分の目で色々と見たり感じたりしたいと望むまでになりました。
けれどもある日、わたしが長老さまたちにふと自分の望みを言ってしまった時、彼らは激怒しました。
『おまえはそんなことを望んではならない。それは穢れた者の考え方だ』
口々に投げかけられる批難の言葉。
どうしてなのですか? わたしは何も望んではいけないのですか?
この時、自分は初めて長老さまたちに疑問をぶつけました。しかし彼らはただひたすらに。
『おまえはその使命を果たすことのみを望めばいい。他に逃げることは許されない。それがおまえの運命ゆえに』
そんな言葉を繰り返すばかりです。
今まではその言葉が正しいものだと信じていましたが、わたしはふと怖くなりました。
わたしの使命。それは世界に起きる歪みを鎮めること。それによって沢山の人が救われる。長老さまたちはそう言っていました。
でも、世界に起きる歪みって何なのでしょう? 使命を果たすことによって沢山の人が救われるというのは悪くありません。ですが、わたし自身には救いがもたらされるのでしょうか?
お父さんやお母さんに色々教えてもらったわたしは、自分の今おかれている環境が普通とは違うことを知りました。
わたしは、自分の望むことを何一つ許されない。つまりそれは自由がないことだと、お父さんたちは教えてくれました。
「人は人である以上、悪いことでなければ多少の自由を求めても構わないんだよ」
そう教えてくれた両親の言葉と長老さまたちの言葉は対極にあるものでした。だから、わたしの心も揺れました。
そして、この一件から数日後。
また両親たちが自分の元へ訪れた時、長老さまたちにこの密会がみつかってしまいました。
もはや言い逃れなどできず、激しい口論が両者の間で繰り広げられました。わたしは怖くて震えることしかできません。
やがて、業を煮やした長老さまたちは、若い人を呼んで力ずくで自分たちを抑え付けようとしました。けれどそうなる前にお父さんが身を挺してわたしとお母さんを庇い、そのまま逃げるよう叫びました。
わたしはお母さんに手をひかれ、必死にその場を離れることになりました。
真っ暗な闇の中、ただひたすらに走り、住んでいた“山”を離れます。
道なき道を進むのは不安なことでしたが、お母さんがしっかり手を握ってくれるおかげで迷うことはありませんでした。やがてには、闇に目も慣れてきます。
一体、どれほど走ったことでしょう。もはや息もきれぎれになった時に、お母さんはようやく止まりました。
「ごめんね、瑞葉。このようなことになってしまって」
お母さんはわたしを抱きしめながらそう言いました。
「いえ。それよりもお父さんは大丈夫なのでしょうか?」
「わからないわ。でも、お父さんもあなたを守りたくて必死だったのよ。こんな形になったことが正しいのかはわからないけれど、あの場に残っていたら何もかも終わっていたのは確かよ」
「わたし、長老さまたちの所に戻らなくていいのですか?」
「それは駄目よ。あんなところに戻ったら、あなたは殺されてしまうのよ」
「殺される? それって死んでしまうということでしょうか」
唐突な言葉に、わたしも実感のない返事をかえしてしまいます。
「そういうことよ。瑞葉、よく聞きなさい。あなたに課せられた使命は、あなたの命を代償とする危険なものなのよ。母さん達はそんなの耐えられない」
「でも、わたしが使命を果たせば、多くの人が救われるって」
「確かにそうかもしれない。けれど、瑞葉は救われないのよ。親として、愛する我が子が犠牲にされるのを黙ってみているなんて出来ないわ。あなたには生きていて欲しいの。それが母さん達の気持ちなのよ」
「でも、わたしが使命を放棄したら、救われない人が沢山でるのでは…………」
「…………瑞葉。あなたのその優しい気持ちも大切よ。だけど、誰かが犠牲になって得るような救いなんて、本当の救いにはならないのよ。奇麗事かもしれないけれど、本当に救いをもたらしたいのであれば、誰も犠牲にならない方法を最後まで諦めずに考えること。あなたが使命を放棄しても、それに変わる救いの方法を母さん達だって一生懸命考えてあげるわ」
「そんな方法あるのですか?」
「それはまだわからないわ。けれど、瑞葉が犠牲になるなんていうのは絶対に間違っていると思うの。死ぬことは怖いことなのよ」
「……………………」
そういえば今まで“死”についてなんて、あまり考えたことなかった。
人は生まれた以上、いつかは死ぬ。それはわたしでも知っていることです。
けれど、死ぬことが怖いなんて、そんなこと。
「死んでしまったら、こうやって話すこともできない。抱きしめてあげることもできない。もう誰とも会えないかもしれないの」
お母さんの言葉はわたしの心を震わせる。
今まで感じたことのない何か…………いえ、もしかすると封じてきた何かが、ふつふつと自分の中にわきあがってきます。
気がつくと、わたしの頬には雫のようなものが流れていました。それと同時に堪えきれない感情の波が溢れ出し、わたしはお母さんにしがみついて大声で泣き出しました。
死んだらお母さんたちとも話せない。抱きしめても貰えない。
こんなに温かくて心地のよいものがなくなってしまうの?
そう考えると、本当に怖くてたまらなくなります。
「お母さん、わたしまだ死にたくありません……」
「それでこそ人というものよ」
泣きじゃくるわたしを抱きしめながら、何度も何度も頭を撫でてくれるお母さん。
長い間こうされていると、段々と不安な気持ちが消えていくのが不思議です。
けれど、そんな落ち着いた時間は長く続かないのでした。わたしたちを追って、長老さまたちの遣いがやってきたのです。
まだ見つかっていないとはいえ、このままでは発見されるのも時間の問題。そんな時、お母さんは言いました。
「ここは母さんが時間を稼ぐわ。あなたはこのまま先に進んで“山”をおりなさい」
「そんな……。わたし、お母さんと離れたくありません」
「大丈夫。すぐに後を追うわ。だから勇気をもって」
お母さんはそれだけ言うと、そのまま追っ手のいる側へと飛び込んでいきました。
こうなったらわたしもお母さんを信じて、先に“山”をおりるしかありません。お母さんが大丈夫と言ったのだから、それを疑うなんてできません。
でも、わたしの考えは甘かったのです。
どんどんと“山”をおりたまでは良かったのですが、お母さんは一向にやってくる様子がありませんでした。
どれほど先に進めばいいのだろう? お母さんは何故すぐに来てくれないのだろう? 大丈夫って言ってたのに。
わたしは気がつくと、お母さんを捜しに戻っていました。いてもたってもいられなかったのです。
いつしか雨が降ってきました。叩きつけるような大雨です。
地面がぬかるんで歩きにくかった。闇に目が慣れたとはいえ、少し先も見えにくいほどの雨量。
けれど、そんな中でわたしは遂にお母さんを見つけました。ただ、その姿はさっき別れた時とは随分と違うものでした。
「…………お母さん?」
わたしは駆け寄りました。お母さんは木にもたれかかり、全身傷だらけの痛々しい姿です。
それでもまだ意識はあるのか、弱々しく笑いかけてくれました。
「どうして戻ってきたりしたの」
「だって、お母さんが全然来なかったので心配で」
「そう……ごめんなさいね。追いかけるのが遅れて」
「それはいいんです。でもお母さん、どうしてこんなに怪我を…………」
「瑞葉を逃がすためには、わたしが身を張って時間を稼ぐしかなかったのよ。でも安心して。追っ手の人たちには、あなたが逃げた方角とは違うほうを教えておいたわ」
「だからってこんな無茶は」
お母さんがこの状態ということは、お父さんだって無事なのかが気になります。
「瑞葉。本当にごめんなさいね。こんな形でしか守ってあげられなくて」
「…………謝ることなんて何もありません」
「そう言ってくれると嬉しいけれど、あなたを余計に苦しめているんじゃないかって本当は不安なの」
「…………………」
何を言えばいいのかわかりませんでした。お母さんは何を思ってこんなことを言っているのかわからないからです。
「でも、母さんはこれで良かったと思っているわ。自己満足かもしれないけれど、瑞葉には少しでも人らしく生きてほしかったの。長老さまの言いなりのまま人生を終わらせるなんて、それは人としての生き方ではないと思うの」
「お母さん、わたしにはまだ何が正しいのかなんてわかりません」
「無理にわからなくてもいいの。母さんの勝手な独り言だから。でも、瑞葉。これだけはよく聞いて。人は生まれてきた以上、いつか死を迎えるわ。それはいつ訪れるか誰にもわからない。それでも人として生まれた以上は、人らしく死ねることが一番大事だと思うの。幸せに生きたうえで迎える死も、不幸な事故で迎える死も同じ。死ぬことは怖いことだけど、だからこそ出来るだけ悔いのないようあがくの。どんな結果になろうとも人として最後まであがくの」
「それが……大切なことなのですね」
「うん。そうよ。あとは瑞葉がわたしたちから感じた温かいものを大事にして。それはきっと瑞葉の優しさになるわ」
「…………はい」
「いい返事。願わくはあなたの優しさが、あなたの幸せに繋がりますように」
その言葉がお母さんの発した最期の言葉でした。そのあとのお母さんは、わたしがどんなに呼びかけようとも動きません。
何が起こったのか理解しました。
でも理解したら、今度は様々な感情が入り乱れて訳のわからない状態になりました。
あまりにも切なく、それでいて空虚なものが、波のように押し寄せたり引いていったり。
それに耐え切れなくなった時、わたしの中で何かが壊れた。
いえ、本当は壊れたのではなく、その壊れそうな何かから、わたしの心を守るものが働いたのが真実。
わたしは認めたくないもの、恐ろしかったものに蓋をしてしまったのです。
それはお母さんの死や、己に課せられていた筈の使命。
そして、わたしが成すべきであった世界の歪みを鎮めるという内容も…………
「………………!」
すべてを思い出した瞬間、今度はわたしを現実に引き戻す音がはっきりと耳に響きました。幻聴でも何でもないしっかりとした音。
何かが激しく割れるような音の後、スノーちゃんの吼える声がします。
わたしは目を覚ましました。部屋の様子を見ると、外に通じるベランダのガラスが割られているのが目に入りました。そこから雨が激しく吹き込んでいます。
そして、その割れたベランダからスーツ姿の二人の男性が侵入してきました。
「あなたたちは…………」
二人には見覚えがありました。以前に出会ったサングラスの女性に従っていた人たちです。
「瑞葉さま、お迎えにあがりました。このように手荒な形とはなりましたが、ご容赦願いたい」
男性の一人がそう言い、近づこうとします。わたしは突然の事態に動揺して動けません。
その時、スノーちゃんが男性を阻むように飛び掛ります。けれど。
「邪魔をするな犬畜生が!」
怒声と共に鋭い蹴りが繰り出され、スノーちゃんは撥ね退けられました。
「スノーちゃん
!!」床に叩きつけられた小さなわんちゃん。弱々しい鳴き声で「痛いよ、痛いよ」と呻いています。
わたしはスノーちゃんに駆け寄ろうとしましたが、今度は別の男性によって取り押さえられます。
「いやっ、離してください」
「残念ですがそれはなりません。おとなしく我々と共に来てもらいます」
「一体、何が目的だというのですか?」
「瑞葉さまには“山”へ戻っていただき、本来の使命を成し遂げてもらわねば困るのです」
やはりそうなんだ。この人たちは“山”から来た、追っ手だったのですね。
記憶を取り戻したわたしは、自分が狙われている理由がはっきりとわかりました。
でも、このまま素直に“山”へ戻されてしまっては、お母さんたちの想いが無駄になってしまう。どんなに苦しいことになろうとも、わたしは人らしく生きるためにあがかないといけません。
「“山”へは帰りたくありません。どうかお願いです。離してください」
必死に暴れながら訴えますが、男性の力にかなうはずもなく、身動きはとれません。
「瑞葉さま。わがままを申されては困る。あなたが使命を果たさねば、この世界は滅びるかもしれないのですぞ」
「でも使命を果たしたら、わたしはどうなるのです? 命を失うのではないのですか?」
「確かにそうなるやもしれません。しかし、それによって多くの命が救われるのです」
「ならばわたしが使命を放棄したら?」
「当然のこと、誰もが死に絶えていきます」
男性にきっぱりとそう言われ、わたしは目を伏せました。
わかってはいたことだけれど、そのことが今ほど残酷に理解できたことはありません。
わたしが使命を放棄するということは、大好きな一矢さんを失ってしまうということでもあるのです。
いえ、一矢さんだけではありません。この外の世界に来て、色々な人たちがいるのをみて、少しずつ楽しいことを知って。そんな素晴らしいものを全て失わせてしまう結果になるのです。
“山”にいた時は漠然としか理解できなかった。世界が滅びるということがどういうことなのか。
でも、外を知ったわたしには、世界が滅びるという重みがどういうものなのかわかってしまいました。
…………………どうすればいいの。
死ぬことは怖い。だからあがいてでも生きたい。
けれど、世界が滅びることも怖い。
やはり何が正しいのかなんてわからない。
「もし世界が滅ぶとしたら、いつ滅びるのでしょうか?」
わたしは無意識のうちにそんな質問をしていました。
「そう時間はないのかもしれません。歪みの原因である雨はもう降っておりますゆえ」
なるほど。やはりこの雨は普通のものではないのですね。
もう世界の滅びは始まりかけているのですね。
わたしは心を決めました。
「……………わかりました。わたしは“山”へ帰り、自分に課せられた使命を果たします」
何が正しいのかなんて、本当はまだわかりません。でも、迷っている時間がないのであれば、少しでも皆が救われるほうを選ぶしかないのです。
お母さんたちが望んだように生きることはかないませんが、それでもわたしが“人”として考えた答えがこれなのです。
決して長老さまたちの言いなりになったのではなく、わたしが自分で望んで出した答え。これが悲しい結果だとしても、わたしはわたしなりにあがいたということにはなりませんか?
“人”として考えて、多くの人を助けたいと願ったのです。ならばそれは誇らしいことではありませんか?
…………死ぬことに対する恐怖への言い訳かもしれませんが、そうでも思わないとわたしの心は救われません。
「とりあえず、離してもらえませんか?」
「それはなりません」
「逃げたりなどしません。信じてください」
男性たちは少し迷った様子ではありましたが、やがてには離してくれました。
自由になったわたしは、ぐったりとしたスノーちゃんにそっと近づき、その身体を抱き上げて優しく撫でてあげました。
「ごめんなさい。痛かったですよね。もうこんな真似はさせないので大丈夫ですよ」
「くぅ〜ん」
「それと、もうひとつだけごめんなさい。わたし、スノーちゃんや一矢さんとお別れしないといけません」
この言葉に対し、スノーちゃんは小さく「そんなのダメだよ。いかないで」と言ってくれます。
心が痛みます。知らず知らずのうちに涙がこぼれます。でも、わたしはもう決心したのです。
「本当にごめんね。これからも一矢さんと仲良く暮らしてくださいね。そして彼の悲しみを埋めてあげてください」
わたしからの最後の願い。スノーちゃんは何度も反対します。
けれどわたしは無言で首を横に振り、スノーちゃんを柔らかい座布団の上に置きました。
さようなら、スノーちゃん。
さようなら、一矢さん。
短い時間ではありましたが、誰かに想われる幸せを感じれただけ、わたしは生きていた意味があったと思います。
こんなわたしを保護して守ってくれた一矢さん。本当にありがとう。
今度はわたしがあなたたちを守りますね。
……………この世界におきようとしている歪みから。
「行きましょうか」
わたしは静かにそう言い、あとは男性たちに従います。
部屋の中からはスノーちゃんの弱々しい鳴き声がずっと響きました。
このときのわたしは、既に自分のことで一杯で、本当に大事なことをもうひとつ忘れていることに気がつきませんでした。