第三章
まもりたいもの。ささやかなもの
〜
prayer 〜
もし守れるのであれば、今度こそは…………
俺にとって家族とはなんだろう。
最近、そんなことを考えることが多い。
両親は仕事で海外に赴任していて、家に帰ってくることは年に数える程度だ。昔から忙しい両親であっただけに、子供の頃の俺は祖父の家か、親戚の家に預けられることも多かった。
殆ど出会うことのない俺たち家族。血のつながりこそあっても、正直、“家族”と思えたことは少ない。
別に両親のことを嫌っているわけではないが、俺を産んでくれた人々という認識ぐらいしかなかった。
むしろ俺にとっての家族とは、赤の他人にこそ感じることの方が多いほどだ。
「…………………ふう」
絵筆を置いて一息つく。
どうも絵を描いていると、さっきのようなことばかりを考えてしまう。
無理もない。いま俺が描いている絵は、俺がむかし“家族”だと感じた人の絵なのだから。
目の前のキャンバスには、自分より少し年上の女性が描かれている。
川辺多恵。それが絵の女性の名前。
俺に絵を教え、その道を勧めてくれた人だ。
彼女は先生であり、姉であった。多恵さんに支えられて、どれほど救われたことかわかならい。
でも俺は、彼女を守ってあげることができなかった。
彼女のことを何も知らなかったのだ。悩みや苦しみを持っていたことすらも。
だから気づいた時には、真っ白な世界で倒れている彼女を、無力に看取ることしかできなかった。
雪の日に訪れた悲しい別れ。多恵さんは雪のように儚い存在に思えた。
いま俺は、記憶に残る彼女の姿を絵に描き残そうとしている。しかし、思うように描けなかった。何度も何度もやりなおしたが、納得のいく形に仕上がらないのだ。
もどかしい。
どうしてうまく描けないのだろう。
多恵さんは俺にとって大切な人だった。それなのに、その姿を絵に残すことすらできないなんて。これではまるで、彼女のことを忘れていくかのようで嫌だった。
いや、案外そうなのかもしれない。俺は多恵さんのことを忘れたいのかもしれない。彼女の死を思いだしたくはなかった。現実に起きた悲しい出来事から、目を背けたかったから。
その結果、俺の中に残る彼女の姿はおぼろげになる。ゆえに絵だってうまく描けないのかもしれない。
「段々と虚しくなってくるな」
ひとりつぶやいたその時。部屋をノックする音が響いた。
「一矢さん、お邪魔しても良いでしょうか?」
鈴のような控えめの声。瑞葉のものだった。
「いいよ。入って」
「それでは失礼しますね」
「わんわんわん」
瑞葉と一緒に白い子犬、スノーも入ってくる。
「なんだ。おまえも一緒だったのか」
俺は人懐っこく寄ってくるスノーを抱き上げると、軽く撫でてやった。
「スノーちゃんも一矢さんに会いたそうだったので連れてきちゃいました。あと、お茶をいれましたのでどうぞ」
「サンキュー。そのへんに置いといて」
何気ないやりとり。会話のよそよそしさをのぞけば、家族とのやりとりにも近い。
けれど、瑞葉もスノーも別段、俺の本当の家族というわけではない。
なりゆきからこの家で保護しているにすぎないのだから。
特に瑞葉は名前以外の記憶を失っている。自分の住んでいた家のことを思い出すのが怖いみたいで、かなり訳ありの少女だった。
本来ならば警察に届けるのが筋なのだろうが、どこか躊躇うものがあった。彼女が実家で虐待を受けているような子だとすれば、さすがにそんなところには戻したくないのもある。
とはいうものの、それは俺の勝手な想像であり、このままでいいとは思っていない。けれど、今しばらくはこの生活を続けたかった。
「この絵、一矢さんが描いたのですか?」
スノーを下ろし、お茶を手に取ったとき、瑞葉が部屋にあるキャンバスに興味を示した。
「そうだよ。まだ中途半端な状態だけどさ」
「お上手に描けてますね。この絵の女性は誰なのですか?」
「俺に絵を教えてくれた人だよ」
「それじゃあ、先生なんですね」
「ああ。そうなるかな」
「綺麗な先生ですね。でも、少し寂しい感じのする絵です」
絵を見つめながら、瑞葉はつぶやく。
「どのへんが寂しいと思う?」
「うまくいえないのですが、どことなくお人形のような絵に見えるのです。生身の人間がモデルにしては、その方の人柄を想像させるものに欠けるといいますか」
なるほど。鋭い指摘だ。彼女に言われてみて、改めてそう思う。
「ごめんなさい。わたし、失礼なこと言ってますね。絵のことなんて全然わからないのに」
俺が難しい顔をしていたからだろう。瑞葉は遠慮がちに謝ってくる。
「気にしなくてもいいさ。何かが欠けていることには、俺も気づいていたから。この絵の彼女……多恵さんっていうんだけどさ、もうこの世にはいない人なんだ」
「お亡くなりになった……ということですか?」
「飛び降り自殺なんだ。色々と思いつめていることがあったらしくてね」
「そんな・……」
「俺は亡くなっている彼女を発見した。でも、最初は信じられなかったよ。多恵さんの死を認めるのにも時間がかかったし」
「……………」
「この絵を描くことに関してもさ、正直を言うと悩んでいる。彼女のことをもう忘れたいと思う反面、忘れられないっていう気持ちもあってさ。そんな曖昧な気持ちがあるから、絵も中途半端になるんだ」
自嘲気味につぶやく。だがそんな俺に、瑞葉は思いもしない言葉をかけてくれた。
「一矢さんは素直な方ですね。それと同時にお強い方です」
「おいおい。いきなりなんだよ。俺のどこを見て、そう思うんだ?」
「先程の一矢さんの話を聞いてそう感じました。この絵には、一矢さんの今の気持ちがすごく反映されているんだなって。それが素直だなって思うところです。あと、強いなって思ったのは、一矢さんは自分の絵の欠点に気づいているということです。普通は欠点など、気づきたくないものでしょうから」
「欠点に向きあえるのは強いって言いたいのかい?」
「ええ」
「でも、欠点と向きあえたからって、それを克服できていないんじゃ、強いなんていえないよ」
「わたしはそうでもないと思いますよ。自分の欠点を認める勇気があれば、他人の言葉も素直に受け取ることができると思いますから。そうなれば一人で悩むことも減って、問題を克服することも楽になりませんか」
予想もしなかったしっかりとした返事。こういうと何だけど、瑞葉ってもう少し子供っぽい考えのイメージがあったから、このやりとりは少し意外だった。
ついでをいえば、彼女は俺を誉めてくれているのに、わざわざ反論するようなことを言っている自分の方が、よほど子供っぽく思えた。
「なるほどな。瑞葉の言うことも一理あるな」
「わかっていただけたのなら嬉しいです」
そう言って微笑む彼女を見て、俺の気持ちは妙に安らぐものがあった。一人で悩んでいるのが馬鹿らしくも思えてくるほどに。
ここ数日間、瑞葉と暮らしてみてわかったことがある。彼女を守ってあげたいと思うと同時に、彼女に支えられたいという思いが自分の中に存在することを。
多恵さんが亡くなってからは、人と深く接したことなどなかった。いや、昔からそうだ。俺は人の輪に溶け込むのが下手で、自分にとって都合の良さそうな相手としか付き合えた試しがない。
それはそれで不満があった訳でもないが、人付き合いの幅はおのずと限られるために、誰かと長い間一緒にいることなど少なかった。
でも、いまこうやって瑞葉が側にいて、自分は寂しがり屋な人間であることを知った気がする。なんだかんだいっても、一人でいるよりは、誰かといるほうが気は紛れるのだから。
警察に彼女のことを届けないでいるのも、半分はそういう気持ちがあるからなのかもしれない。
「あ、それはそうと、一矢さん。今夜の夕食はどうしましょう。冷蔵庫の中、もうなんにも残っていないようなのですが」
瑞葉の言葉で我にかえる。
「そうか。買い溜めしてた物もなくなる頃だったしな。あとで買い物にでも行ってこないと」
言いながらも、窓の外を見やる。
雨だった。
瑞葉と出合った日からずっと、この天気が続いている。外に出るには少し億劫だった。
「なかなか晴れの日にはなりませんね」
彼女も俺の視線の先を追って、寂しそうにつぶやく。
ただ、それは寂しそうというより、どこか悲しげに聞こえたのは気のせいだろうか?
瑞葉には謎が多い。彼女の背中に描かれた謎の模様にしてもそうだ。それらはどこか不安をかきたてる要素があるだけに、俺は彼女の過去にどんなことがあったのか、気になって仕方なかった。
その反面、知ることが怖くもあったが…………。
「そうだ。瑞葉、一緒に買い物に付き合ってくれないかい?」
俺は不安を払うようにして彼女に訊ねてみた。
「お買い物……ですか」
「ずっと家にこもりっぱなしだと息も詰まるだろ。瑞葉が一緒に来てくれるんなら、君の欲しいものだって買ってやれるよ」
「そんな! ただでさえお世話になりっぱなしなのに、これ以上は」
「いまさら遠慮しなくてもいいよ。それに一緒に来てもらえたら、荷物を持つのも楽になる」
「それは一矢さんのお役に立つことですか?」
「もちろん。二人で荷物を運べば、それだけ沢山のものを買って帰れるだろ」
瑞葉はふむふむと頷く。そして、やがてには。
「わかりました。一矢さんと一緒にお付き合いさせてもらいます」
愛らしい笑顔で承諾してくれたのだった。
「OK。そうと決まれば、準備したら行こう」
俺がそう言うと、足元にスノーが「くぅんくぅん」と擦り寄ってきた。
「スノーちゃんも連れて行って欲しいって言ってますよ」
瑞葉が通訳する。
「う〜ん。連れて行ってやりたいのは山々だが、かえって荷物になっちゃうしな」
「駄目なんですか?」
「今回は悪いが留守番してもらおう。瑞葉、スノーにお土産買ってきてやるから、良い子で留守番をしてろって伝えてくれるか」
「わかりました」
彼女は頷くと、スノーと同じ目線にまでしゃがんで、さっき俺の言ったことをそのまま伝える。
いつみても思うことだが、よく日本語で話しかけて通じるな〜と感心する。そのくせ、俺が日本語で話しかけてもスノーには通じないときている。あれってなにかコツがあるのだろうか。疑問だった。
「一矢さん。スノーちゃんは留守番してくれるそうです。でも、早く帰ってきてね、とのことです」
「了解。美味しそうなドッグフードを土産に、とっとと帰るようにしよう」
本当は瑞葉と二人きりでゆっくりともしたかったが、スノーも大切な家族みたいなものだし、今回は素直に買い物だけにしておこう。
こうして俺たちは準備を整え、傘をさして外に出た。
§
紺と赤の傘が並んで歩く。
雨が振る中の買い物。一人でいくには億劫なものだが、今は話し相手となる子もいるだけに少しは気分も紛れる。
俺たちは家から十五分ほどの距離にある、駅前のスーパーに行くことにした。
晴れていて時間もあれば、隣街の大きなデパートにも行きたいところであったが、さすがにそれだけの余裕はなかった。早く買い物を済ませて、夕飯の準備だってしなければいけないから。
「一矢さん。今夜の夕飯はどんなのにしましょう」
歩きながら瑞葉が訊ねてくる。
「昨日は魚だったし、今日は別のがいいよな。瑞葉って好物の食べものって何かないのかい?」
「わたしは食べられるものであれば何だって。一矢さんのお料理はとっても美味しいですから」
「嬉しいけど、一番困る返事だよな」
「そうなんですか?」
「何でもOKっていうのは、ある意味で悩ましい」
「それじゃあ、もうすこしはっきりさせた方がいいですね。……だったら、グラタンなどいかがでしょう」
「グラタンかあ。確かに悪くはないな。瑞葉は好きなの?」
「あ、いえ。まだ食べたことありませんから。一矢さんの家でテレビをみていたとき、グラタンが紹介されていて、美味しそうだなって思って」
なるほど。そういうことか。
瑞葉はコロッケすらも知らない子だったから、グラタンの名前がでたときは少し驚いた。でも、そう説明されると納得はいく。
「なら今夜はグラタンで決定だな。マカロニとかのでいいかな?」
「色々あったりするのですか」
「まあね。でも、わかんないならマカロニとかポテトでいいと思う」
「わかりました。わたし、グラタンとか初体験ですし、そのマカロニとやらでいいです」
スーパーに着く前にメインとなるおかずは決定した。
あとは他のおかずのことを相談するうちに、駅前のスーパーにも辿り着いた。今は夕方ということもあり、主婦たちの姿も大勢目に付く。その大半は夕方からのタイムセールなどが目当てなのだろう。
「人が沢山いますね……」
都会の喧騒と比べれば、こんなのまだ序の口と思えるが、瑞葉はかなり驚いているようだった。
「あまり人のいるところって来ないほうだった?」
「多分、そんな気がします。そもそもお買い物だって、ほとんど来たことないような気が……」
う〜〜ん。やっぱり彼女って、どこかの箱入りお嬢様なのかな?
買い物とかすべて使用人任せならば、そういう発言にも納得いくのだが。
「なあ、瑞葉。君はお金ってものを知ってるか?」
「お金ならわかりますよ。物を買うときに必要なものですね」
よかった。それぐらいはわかるようだ。
「ならば、お金の使い方はわかるか?」
「………………………」
難しい顔をして黙られる。
どうやらわかっていないと考えるべきだろう。
「ま、そんな難しい顔しなくていいよ。わかんないことは俺が教えてやるから」
「ごめんなさい。役立たずで」
悲しそうに伏し目がちに呟かれる。こんなことを思うと不謹慎かもしれないが、ちょっとグッとくるものがあった。
瑞葉は少しかわっているところもあるが、繊細で可憐だ。そんな彼女にこんな表情をされたのでは、男としては守ってやりたくなるというのが人情だろう。
「気を取り直して行こう」
俺は彼女の肩をポンと叩いて、共に店の中に入ってゆく。
まずはカゴをショッピングカートにのせて、グラタンの材料などを購入。その後はスノーのためのドッグフードも買い、最後に日用雑貨のコーナーに向かう。
「瑞葉用のハブラシとかタオルも買わないとな」
まずは陳列棚に飾られたハブラシを指差して訊ねてみる。
「いろいろな色があるんですね。でも、本当に買ってもらって良いのですか?」
「ないと困るだろ。俺のを使うわけにもいかないだろうし」
「一矢さんがよければ、わたしは別に…………」
「いやあ、さすがに俺もそこまでは困る」
可憐な女の子とひとつのハブラシを使う。歪んだ思考のやつなら喜びそうな気もするが、生憎と俺はそこまで変態じゃない。
「とにかく遠慮なんてするなよ。ハブラシとかなんて安いものなんだから」
「では、お言葉に甘えてこれを」
瑞葉が選んだのは、女の子らしい無難なピンク色のハブラシだった。
「よし。次はタオルだな」
他に必要な日用雑貨を詰め込んだら、少し移動してタオルもみつける。普通のそっけないタオルが大半だが、一部には可愛らしい絵柄がプリントされたものも置かれている。
「瑞葉にはこういうのがオススメかもな」
ピンク色のタオルに愛らしい白クマの絵柄がプリントされたものを指差す。
「確かに悪くないですね。でも、どうしてオススメなんですか?」
「瑞葉みたいに可愛い子には、こういう可愛いのが似合いかなと」
………………あ。
俺は言ってから固まった。条件反射で思ったことをそのまま口にしてしまったからだ。
瑞葉の方は、肩を竦めて少し顔を赤くしている。ちょっと意外な反応だった。彼女のことだから、すっと流してくれるかとも思ったのに。
しまったな。このままではちょっと気まずい。
ここは笑って「冗談だよ」とごまかすか? いや、それはもっとマズい。それでは瑞葉に失礼すぎるってものだ。
彼女は本当に可愛い。
でも、そんなことを思ってしまう自分は、やはり瑞葉に気があるんだろうな。出会って間もない少女にこんな感情を抱くのもなんだが、俺はこの子のことを好きになってしまっている。それは自覚できた。
「そんなに赤くなることないだろ。言った俺まで照れくさくなってくる」
とりあえずごまかすのは止め、普通に流すことにした。
「ごめんなさい。男の方にそんなことを言われたのは……多分、はじめてのことだと思うので」
「そ、そうか」
無難な返事しかできない俺。だが、次に彼女がしてきた質問は、俺の予想を超えたものだった。
「一矢さんがわたしのことをそう思ってくれるということは、わたしのことが好きだからですか?」
いきなりの直言。しかも、じっと瞳をのぞきこんで真顔で訊ねられる。
変わった子とは理解していたが、突拍子のなさも相変わらずだ。
でも、そんなところに惹かれているのも事実。
俺は瑞葉が好きだ。これをはっきり口にしたら告白になるのだろうか? しかし、こんな場所で告白っていうのも、なんともしまりのない話だ。
それでも真顔で訊ねられている以上、はぐらかすのもどうかと思えた。だから俺は。
「好きになってしまった」
今の自分の気持ちを伝えるには一番の言葉。
そう。最初から好きって訳でもなかったんだ。短い付き合いの中で惹かれていったのだから。
瑞葉は俺を頼ってくれた。可愛い女の子に頼られて嬉しくない男などそういない。我ながら単純だと思うが、それが彼女を意識するきっかけではあった。
俺は彼女を見た。どんな返事がかえってくるのか、少し怖い。
そして瑞葉は口を開いた。
「嬉しいです。わたしも一矢さんのこと……好きだから」
そう言った後、何故か彼女は泣き出した。
「お、おい。どうしたんだよ。いきなり」
「ごめんなさい。本当に嬉しいんです。自分でもどうしてかわからないけれど、泣き出すほど嬉しいんです」
口元に手を当てて必死に涙をこらえようとする瑞葉。ぎこちなくではあるが、笑おうともしてくれている。
正直、胸が熱くなった。俺まで嬉し泣きしそうだ。
「わたし、今まで誰からも好きになってもらったことがなかった気がします。一矢さん、本当にありがとう。まるで夢の中か、物語の中にいるみたいです」
おいおい、それは大袈裟だろう。だが、それを言うより先に、聞きなれない声が俺たちの世界に割って入った。
「よかったわね。最後に誰かに好きになってもらえて」
氷のような冷たい声。俺の胸に広がった熱い気持ちをも凍てつかせるほどの。
声のほうをみると、サングラスをかけたグレーのスーツ姿の女性が立っていた。一見するとやり手のキャリアウーマンって感じだ。あと、そんな彼女に従うようにして、スーツ姿の若い男が二人控えていた。
「誰です。あなたたちは?」
俺は警戒して訊ねた。
「瑞葉の所有者よ」
淡々と何の感情も混ぜることなく、サングラスの女性が答えた。
「ちょっと待って。所有者ってどういうことです。保護者というならいざ知らず、そんな言い方じゃ、まるで瑞葉が物みたいじゃないか」
「彼女は物みたいなものよ。本来なら誰を好きになることもなく、誰からも好きになられることなんてない存在だもの」
「それどういう意味だ?」
俺の言葉から徐々に丁寧さが消える。目の前の女性の物言いに怒りがこみあげてきたからだ。
「部外者にこれ以上答えるつもりはないわ。第一、あなたこそ瑞葉の何なのかしら?」
「俺は……この子の彼氏だ」
今なら少しはそう名乗ってもいいよな。俺は胸を張った。
だが、サングラスの女性は素っ気無く頷いただけ。
「あ、そう。ならば彼氏さん。ラブシーンはここで終わりよ。瑞葉は返してもらうわね」
「断る。瑞葉の気持ちを確かめるのが先だ」
俺は瑞葉を引き寄せた。彼女は声も出せないほどに怯えているようだった。
サングラスの女性は、瑞葉を見て訊ねる。
「さ、もういいでしょう? 恋愛ごっこは終わりにして、あなた本来の役目をこなすためにも私たちと帰りましょう」
「…………嫌。帰るの怖い」
消え入りそうな声で呟く瑞葉に、サングラスの女性は口元を微かに歪める。
「あなた、覚悟はできているって言ってたじゃないの。今さら逃げるつもりなの?」
「そう言われましても。わたし……あなたの仰る事がよくわかりません」
「とぼける気? ふうん。そうなんだ。ま、それもいいけどね。私たちがあなたを連れ戻さねばならない事実には変わりないのだし」
「嫌……帰るのだけは嫌」
泣きながらすがりついてくる瑞葉。俺はサングラスの女性に対して言った。
「おい。あんた、いい加減にしてくれ。彼女は今、記憶喪失なんだ」
「記憶喪失? また都合のいい嘘を」
「嘘じゃない! …………多分だけど」
「まあ、記憶喪失だろうが何だろうがこのさい構わないわ。瑞葉を返却なさい」
「改めて断る。彼女は帰りたがっていない。そんなに瑞葉を返して欲しいのなら、彼女をどうするか教えろ。それで納得できれば、俺だって説得に力を貸すかもしれない」
「それは時間の無駄ね。あなたはこの子のことが好きなのでしょ。きっと納得なんてできないと思う。仮に納得できたとしても、その時のあなたは瑞葉を見捨てたことになるでしょうから」
「どういう意味だよ!」
「これ以上の問答は無用よ。世の中には知らない方が幸せなこともあるの。世界を滅ぼしたくないのなら、彼女を返しなさい」
は?
世界を滅ぼす? なんだよ、それ。あまりに突飛すぎやしないか。
だが、そんな俺の戸惑いなどをよそに、サングラスの女性は控えているスーツの男性に命じて瑞葉を拘束しようとする。
「そんなことはさせるものか」
俺はショッピングカートを連中に向けて押しやると、そのまま瑞葉の手をとってこの場から走り出した。
「待ちなさいっ!」
女性の声が背後から響くが、勿論従う気などない。
店にいる他の客たちは、何事だろう?って顔で走り抜ける俺たちを見る。そこへ、巡回にきている警察官の姿をみてとった俺は、すかさずこう叫んだ。
「お巡りさん。助けてくれ。ヘンな大人に追われているんだ」
「なに?」
駆け寄ってきた警察官に対し、俺は後ろから追いかけてくるあの三人を指差して言う。
「あっちのサングラスの女たちがこの女の子を連れ去ろうとしたんだ」
「わかった。私から話を聞いて確認しよう。君たちもここを動かないで」
警察官は女性の方へ近づいてゆく。自分たちは動かないようにと言われてはいるが、さすがにそうも言ってられなかった。サングラスの女性たちが警察官に足止めされているうちに、再び瑞葉の手をとってこの店を全力で抜ける。
俺たちはとにかく走った。
傘もささずに無我夢中に走った。
外に降る雨は激しい。滝のような雨が、さながら銀の矢のように俺たちを打ちつける。
服も靴も最悪なまでにびしょ濡れだ。このまま雨の天気が続いたのでは、靴などはかわかすのが大変だな。そんなことを思える余裕ができてきた頃に、俺はゆっくりと立ち止まった。
とりあえず駅前の繁華街は抜けきり、住宅地の公園までには辿り着いた。
全力で走ったこともあり、しばらくは二人して荒い息をはく。こんなに運動したのは久しぶりだ。
「瑞葉。大丈夫かい?」
「…………ええ。なんとか」
息が落ち着くのを待ってから、俺は改めて瑞葉に訊ねる。
「さっきの女性に心当たりはないか?」
怯えていた彼女には酷な質問かもしれないが、訊いておいたほうが良いように思えた。
だが、瑞葉は力なく首を左右に振った。
「あまり思い出せません。あの人、わたしのことを知っているみたいでしたが」
「わからないなら無理はすることないよ」
「でも…………」
「あいつらは確かに君を知っているかもしれない。けれど、瑞葉のことを物みたいに言うやつらだ。まともな連中とは思えないよ」
「わたし、怖いです」
「あいつらに戻されることかい?」
「それもありますが、自分が何者であるのか余計にわからなくなって。背中にあるヘンな模様だってよくわからないし」
瑞葉は肩を震わせて泣き出した。雨のせいもあって、彼女がどれほどの涙を流しているのかはわかりにくい。
気がつくと次の瞬間、俺は瑞葉を抱きしめていた。
その動作が少々荒々しかったためか、彼女が驚いた顔をしたのがわかる。だが、それはそれで良かったと思う。得体の知れないものに怯える彼女を現実に引き戻すことができたのだから。
俺は彼女の頬に自分の頬をおしあてるぐらいにまで密着した。そして耳元で真面目な声で囁く。
「瑞葉が何者であっても、俺だけは君の味方でいたい」
「どうして…………」
そっと呟く瑞葉。その声はやがて大きなものとなり。
「どうしてそんな風に言えるんですか? わたし、一矢さんにだってご迷惑かけてるのに。あなたはわたしのことが怖くないのですか? わたしは自分のことが怖いです。本当の自分はものすごく危険な存在なのではないかって!」
「それは考えすぎだ」
「だけど、さっきの女性の方は世界を滅ぼすとかどうとか言ってませんでしたか?」
世界を滅ぼしたくないのなら、彼女を返せ。サングラスの女性は確かにそう言ってはいた。
「あんなのでまかせだよ。いまどき子供だってあんな脅し文句は使わないぞ」
「本当にそうでしょうか…………。残念ながらわたしには、あの言葉が気になって仕方ないんです。わたし、昔にも何度かあの言葉を聞かされたような感じがして」
鎮痛な面持ちの瑞葉。見ている俺も辛くなる。
「今は無理に思い出すな。それにもう一度言うけど、君が何者であっても、俺は君の味方でいる」
雨に濡れた彼女の長い髪に触れる。水分を含んだ髪はしっとりとし、黒い色にも深みがかかっていた。
純粋に綺麗だと思った。
そういえば、初めて瑞葉と出合った時も、彼女は雨に濡れていたんだったよな。あの時から俺は、彼女の姿に惹かれていたのかもしれない。
「瑞葉は俺にとって大事な女の子なんだ。大好きで愛おしくて、守ってやりたい子なんだ。それじゃあダメか?」
自分がどれほど大胆なことを言っているかは承知の上だ。でも、恥ずかしくはなかった。いまはその言葉が何よりも必要と思えばこそ。
瑞葉は泣き笑いのような顔をする。
「ありがとう一矢さん。まだうまくはいえませんが、とても嬉しいのだけは確かです」
「俺、君を守る。幸せにしたい。だから不安があっても一人では抱え込まないでくれ」
「幸せ…………」
その言葉を噛み締めるように目を伏せる瑞葉。やがて彼女は目を開いて、再び俺を見つめる。
「………わたしは、あなたに守ってもらえることを自分の幸せにしていいですか?」
「勿論」
そこまで言って、俺と瑞葉は自然と唇を重ね合わせた。
雨に濡れて冷えた身体には、互いの唇の温かさが心地よい。長い長いキスは互いを理解しあうように続く。
俺は瑞葉自身のことは怖くない。こんなにやわらかくて、愛らしいのだから。
過去を知ることは少し怖い気もするが、俺はそれ以上に怖いものも知っている。
それは何も知ることがないままに悲劇が起き、その結果を後で悔やむことだ。
多恵さんが死んだ時に味わったような苦しみは、もう御免だった。
だから俺は、今おきていることに目を背けない。大切な人を失いたくない以上。