第二章

あたたかいばしょ。ふわふわしたもの

  〜 one's whereabouts 〜

 

 

 

 

 

 

こんなわたしが、人にすがることは罪だったのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 わたしは瑞葉といいます。

 わたしは、どうも昔のことを忘れていて、記憶喪失らしいのです。

 正直を言えば、ほんの少しだけ不安。

 でも、一矢さんという優しいお兄さんに拾ってもらえたので、記憶を失っていても行き場に困ることだけはなくなりました。

 一矢さん、本当にありがとうございます。

 あ、それと忘れてはいけないのが、白くてまぁるいわんちゃん。雨の中、ダンボールの中に捨てられていたらしいのですが、優しい一矢さんに拾って頂けた様です。

 そのわんちゃんにも口添えしてもらえたから、わたしは一矢さんにお世話になれるんですよ。

 だから、わんちゃんにも、とっても感謝なのです。

 こうして、わたしとわんちゃんは、一矢さんのお家に招かれました。

 雨の中、ひとつの傘に入る、二人と一匹。

 こうやって歩いていると、なんだかとても、仲良しな感じがしてなりません。

 そのうち、わたしたちは一矢さんのお家に到着します。

「わ〜。一矢さんの家も、外国のお家みたいなんですね」

 わたしは玄関などを見て、そんな感想をもらしました。

 このご近所は、一矢さんのお家も含めて、外国の家のようなものが多く見当たります。

 それだけでもわたしはびっくりしてしまいます。

 でも、一矢さんは、そんなわたしを不思議そうに見つめました。

「どうかしたのですか?」

「いや、外国の家みたいって言うからさ。そんな大袈裟なものかなって思って……」

「扉とか外国のお家みたいじゃないですか」

「……これぐらい今の日本じゃ当たり前のように見かけないかい? この家にしたって、少し洋風だけど、どこにでもあるような一戸建ての家だし」

「そうなんですか?」

 わたしにはあまりピンときませんでした。

「瑞葉はこういう家って馴染み無いのかい」

「多分、ないと思います」

「う〜ん。一体、どういう家なんだろうな。瑞葉の家って。純和風の武家屋敷みたいなものだったりしてね」

 瑞葉の家。

 つまりはわたしの家。

 家。

 そのことを考えると、急に不安が心を覆う。

 つめたくて、つめたくて、泣いても叫んでも、それすらも響かないような闇がのしかかってくる。

 わたしは無意識のうちに、また震えだしました。言い知れようも無い恐怖に。

 家。

 たいせつな場所。きっと、わたしが生まれ、暮らしてきた場所。

 なのに……。

 わたしは、そこに帰りたくない。

「瑞葉、しっかりして!」

 誰かが肩を揺さぶりました。少し痛いぐらいに掴まれたせいか、わたしは我にかえりました。

「…………一矢、さん?」

 気がつくと、肩を揺さぶっていたのは一矢さんでした。

「大丈夫かい。また、家のことでも思い出しちゃった?」

「……はい」

「ごめんな。嫌なこと思い出させるようなことを言って」

「いいえ。一矢さんは悪くありませんよ。気になさらないでください。わんちゃんも、心配かけたのならごめんなさい」

 わたしは、元気を振り絞って言いました。

 こうすれば心配をかけなくて済むと思いました。

 一矢さんたちも喜んでくれると思いました。

「無理には思い出さなくていいからね。何かを思い出すにしても、楽しいことから思い出していけばいいから」

「はい。そうですね」

 一矢さんの優しい言葉に、わたしは柔らかく笑うことができました。

 わんちゃんも、「がんばって!」と応援してくれます。

「うん。がんばりますね」

 わたしは、わんちゃんにもニコリとうなずきました。

「それじゃあ、家の中に入ろう。遠慮なく俺のあとについておいで」

 一矢さんは鍵をあけると、家の中に入っていきました。わたしもわんちゃんと一緒にお邪魔します。

 中に案内されると、更におどろきました。和風な一面もありますが、大半は馴染みの無いような洋風の家具がたくさん置かれていたからです。

 あっ、でも、ここであまりキョロキョロしていても、また一矢さんに不思議に思われそう。だから、できる限りの平静を装います。

「とりあえずは、そこにあるソファーにでも座りなよ。お茶とか用意するから」

 わたしは広い絨毯のある部屋に通されると、そこでふわふわした椅子を勧められました。

 これが、そふぁーというものですか。噂だけなら聞いたことがあります。

 おそるおそる座ってみたわたしは、あまりのふわふわ感にびっくりしました!

「わっ、わ〜、吸い込まれていきそうです」

 深くもたれると、身体が沈んでいきます。すごいすごいすごい。

 わたしが感動していると、わんちゃんが足元にやってきました。

「すごくふわふわですよ。わんちゃんも試してみますか?」

 訊ねてみると、わんちゃんもクンクン言ってうなずきました。わたしは、この子を拾い上げると、隣のそふぁーにのせてあげます。

「わんわんわん」

 わんちゃんの重みで、ほんの少しそふぁーが沈みました。驚いてはいるみたいですが、楽しい楽しいとも言ってくれています。

 わたしはしばらくの間、わんちゃんとはしゃぎあいました。

 そうするうちに、お盆にお茶をのせた一矢さんが戻ってきます。

「随分と楽しそうだね。奥まで声が響いてきてたよ」

「すみません。うるさかったでしょうか……?」

「そんなことないよ。家の中がにぎやかになって、俺としては新鮮な気分だよ」

 優しい一矢さんはそう言ってくれます。

 でも、人様のお家で、分別も無く大騒ぎするのは少し軽率だったかもしれません。

「とりあえずお茶をどうぞ。温かいし、あったまるよ」

「では、いただきます」

 わたしは一礼してから、湯のみを受け取りました。中身は緑茶のようです。

 飲んでみると、冷えた手や身体がぽかぽかと温まってきます。

「美味しい……」

「普通の緑茶のパックからとったものだけどね。でも、喜んでくれたのならよかったよ」

「おかげで温まりました」

「それならよかった。けど、お茶を勧める前に、シャワーでも浴びてもらえばよかったかな。瑞葉は、さっきまで雨とかで濡れていたしね」

「しゃわー?」

 わたしがきょとんと訊ねると、一矢さんは少し慌てたように手を振りました。

「あ、いや。別にヘンな意味で言ったわけじゃなくて、普通にお風呂とかに入ったらいいんじゃないかと……」

「ああ、なるほど。お風呂のことですか! それならわかります」

 しゃわーって、お風呂のことだったんですね。さすが外国みたいなお家は奥が深いです。

 でも、今の冷えた身体を温めるなら、お風呂は本当に良いのかもしれません。

 せっかくお世話になれるのですから、ここはお言葉に甘えてお借りすることにしようかな。

「わんちゃんも一緒に洗ってあげても良いでしょうか?」

「……まあいいけど、こいつ嫌がらないかな」

「訊ねてみればわかりますよ」

「また犬と喋るのかい?」

「ええ」

 わたしは頷いてから、わんちゃんにも訊ねました。一緒にお風呂で綺麗になりませんか?、と。

 するとわんちゃんは少し悩んだ様子でしたが、しばらくして「わんわん」と了解してくれました。

「一緒に入ってくれるそうです」

「そうなんだ。そいつは羨ましい……じゃなくて……良かったじゃないか」

「よろしければ、一矢さんも一緒に入りますか?」

 わたしとわんちゃんだけで借りるのも何なので、家主の一矢さんにも訊ねてみます。

 すると、一矢さんは何故か驚き、持っていた湯のみを落としました。その途端。

「うわぁ! あっちぃっ!!」

 湯のみに入っていた熱いお茶が、彼の太腿から足にかけてこぼれました。

「大変です。何か拭くものを……」

 慌ててまわりに目を向けるものの、それらしいものは見当たりませんでした。仕方が無いので、わたしは一矢さんの側まで近寄ると、自分の着物の袖でこぼれたお茶を拭き取ってあげます。

 水分を吸い取るように、ゆっくりとごしごしごし。

「み、瑞葉。そっ、そんなことしなくても、いいから」

 うわずったような一矢さんの声。わたしは、小首をかしげた。

「でも…………」

「本当にいいから。君の着物だって汚れてしまうだろ」

「雨にも濡れて、もうかなり汚れていますから構いませんよ」

「とにかく、ズボンを着替えるからもういいよ。それよりお風呂場まで案内するから付いて来て」

 一矢さんはそれだけ言うと、慌てたように立ちあがりました。

 彼がそこまで言うのなら、世話を焼くのは控えます。

 こうして次は、一矢さんの案内でお風呂場まで行くことになりました。わたしは、わんちゃんを抱き上げてついていきます。

 廊下に出て、ほんの少しだけ奥に行くと、一矢さんは立ち止まりました。

「この奥がお風呂場だから、遠慮なくシャワーを使ってくれていいよ。あと、着替えやバスタオルは、あとでここの廊下の方に持ってきておくから」

「すみません。何から何まで」

「構わないよ。それよりも、こいつのこともしっかり頼むな」

 一矢さんはわんちゃんの頭をポンポンと撫でます。

「はい。しっかり洗って、きれいきれいにしてあげます」

 こうして彼と別れて戸を閉められたわたしは、脱衣場にわんちゃんを下ろし、自分の着物を脱いでいきました。

 雨に濡れた白い着物は、少しは乾いているとはいえ、まだ肌にはりついたところもあって脱ぎづらかったです。

 苦労して着物を脱いだ後は、お風呂場の中に入りました。

「わあ!」

 中に入ったわたしは、お風呂場を見て驚きました。小さくてこぢんまりとした空間は、ある意味で自分の知っているお風呂とはかけ離れていたからです。

「檜づくりのお風呂場じゃないんだ……」

 外国のようなお家だけに、それは仕方がないのかもしれませんね。

 でも……。

「湯船はどこにあるのでしょうか??」

 首をかしげました。

 なんとなく、湯船に思えるものもあるにはあるのですが、そこにはお湯が張られていません。どうすればいいのでしょう。

 一矢さんは、しゃわーなるものがどうとか言ってましたが、それはわたしの知っているお風呂とは違うのでしょうか……?

 でも、わたしがそうやって悩んでいると、急に足元にいるわんちゃんが鳴きだしました。

「うん? どうしましたか」

 わんちゃんが何かを言っているようなので、わたしはしゃがんで、その言葉に耳を傾けます。

「えーと、なになに。“その背中のものは、なあに”……ですか?」

 わんちゃんに言われたのは、そのようなことでした。

 背中のもの?

 何のことやらかわかりません。首を後ろにむけて背中をみようとしても、それにも限度があります。

 そのときわたしは、近くに鏡があることに気づきました。

 丁度いいので、その鏡に自分の背中をうつして、それを覗いてみることにします。

「…………なんでしょう、これ」

 鏡にうつったわたしの背中。そこには青い色で、何やら奇妙な模様が描かれていました。

 背中の中心に丸い円が二重に描かれ、その円から放射状にのびるようにして、ヘンな文字のような模様がつらつらと描かれているのです。

 少し考えてみましたが、よくわかりません。

 ただ、この模様をずっと見つめていると、その模様が描かれた箇所がひんやりとする感覚に襲われました。

「ひゃう!」

 背中に氷を押し当てられたようなゾクリとする状態。

 わたしは膝を崩して、うずくまります。

 ひんやりとしたものは、急速にその冷たさを増しました。ヘタをすれば痛みも伴うほど。

「い、いやぁっ」

 わたしは苦しみ、息が荒くなります。

 でも、背中の冷たさはひどくなる一方で、更には自分の中に何かが入りこんでくるような異物感がありました。

 それはまるで、とらえようのない虚無感。

 あるいは漆黒の闇。

 ちっちゃなわたしが受け入れるには、途方もないもの。

 つめたい。

 つめたいよ。

 苦しい。

 苦しいよ。

 でも、“助けて”とは言えなかった。言っちゃいけないと、心のどこかのわたしが叫んでいる。

 闇がわたしを飲み込もうとしている。もう自分の感覚は無きに等しいものでした。

 遠くで、わんちゃんの必死な声が響いているような気がします。

 心配してくれているのかな。

 でも、わたしは…………。

 意識が遠のいていくのがわかりました。深い深い闇の淵に落ちていくかのように。

 けれど、その時。

「瑞葉、しっかりして!」

 急に誰かの声がしたかと思うと、わたしはその人に支えられました。

「瑞葉、瑞葉、しっかりするんだ。どうしたんだい!」

「わんわんわんわんわん!!」

 耳に響く呼びかけの声。これはわんちゃんと…………一矢さん?

 わたしは、うっすらと目をあけました。そこには心配そうな顔の彼がいます。

「一矢……さん」

「ああ、俺だ。瑞葉、いったいどうしたんだい。どこか具合が悪いのかい?」

「……背中が……つめたい…です」

 やっとのことで言えたのは、それだけでした。それを伝えるのが精一杯でした。

「背中がつめたいって、どういうことなんだい?」

 一矢さんは問いますが、わたしは言葉にできません。

 突き刺さるような苦しみで、思うように喋れないからです。

 でも、ふとした瞬間、痛みが和らぎました。いえ、正確には背中を襲っていた冷たさが引いて行き、その結果に痛みも消えていったと言えば良いでしょうか。

 わたしの背中は今、ほんのりとしたあたたかさに包まれていました。背中だけじゃありません、身体全体を包み込むようなあたたかさです。

「…………一矢……さん?」

 ようやく言葉を口にできました。そして、自分の身のことも理解できました。

 気がつくとわたしは、一矢さんの腕の中に抱かれていました。彼は、何度もわたしの名を呼びかけながら、背中をさすってくれます。

「大丈夫かい? つめたくないかい?」

 彼は涙目の顔で、見つめてきます。

 ごめんなさい。

 泣きそうになるほど、心配をかけてしまったのですね……。

 わるいことをしてしまいました。謝らなければいけません。

 でも、謝るだけではいけないような気がしました。だからわたしは、ゆっくりと微笑んでこう言いました。

「一矢さん、ありがとう。わたし、もう大丈夫ですよ」

 述べるのは感謝の気持ち。見守ってくれる彼に対する、配慮の気持ち。

 一矢さんの腕、とてもあたたかい。

 続けて、そう言おうともしたけれど、わたしの意識はまた遠のいてゆきました。

 けれどそれは、闇に呑まれて行くのではなく、どこかあたたかい場所に還ってゆくようなそんな感覚でした。

 

 

§

 

 

 次に目が覚めたとき、わたしはふわふわした場所に寝かされていました。

 うっすらと目を開けると同時に、耳に声が飛び込んできました。

「起きたかい?」

 声の主を辿って顔を動かすと、そこには優しい顔で見守る一矢さんとわんちゃんがいました。

「……はい」

 わたしは小さくだけうなずいて、身体を起こそうとしますが、それは彼に制されました。

「慌てて起きることもないよ。それよりも具合はどう?」

「今は……大丈夫だと思います。苦しくありませんし」

 答えながらも、自分の身に何があったのかはすぐに思い出される。

 つめたい背中。得体の知れないものが、自分の中に入ってこようとする感覚。

 何かに呑み込まれようとしていた、そんな恐怖。

 わたしは、それらのことも一矢さんに話しました。

「う〜ん。それは一体、何なんだろうね。瑞葉には覚えないのかい?」

「生憎とまだ、何も思い出せなくて」

「そうか。でも、辛いことなら無理に思い出さなくてもいいよ。俺は、君が元気でいてくれさえすれば、それでいいんだからさ」

「ありがとうございます。…………あっ、それよりも、わたしの背中って見ましたか?」

「え……」

 訊ねると、一矢さんは急に真っ赤になって、視線をそらしました。

「どうかしたのですか?」

「いや、その、見たといえば見たかも。でも、君をここのベッドに運ぶために仕方なく見えちゃっただけで……何もやましい気持ちなんて……ああ! 俺、何いってんだよ」

「良くわかりませんが、見たというのは間違いないのですね?」

「うぅぅ。ごめんな」

 どうしてだか、頭を下げられてしまいます。

「別に謝ることではないと思うのですが。一矢さんは、わたしを助けてくださったのですし」

「そう言ってくれると助かるよ。あ、でも、瑞葉に何かあったことを伝えてくれたのはこいつでもあるし、こいつにも感謝してやってくれよな」

 一矢さんはそう言って、膝に乗せているわんちゃんを撫でました。

「そういえばそうですね。薄れ行く意識の中で、わんちゃんが心配してくれる声も聞こえました。ありがとうね、わんちゃん」

「わんわんわん!」

 わんちゃんも嬉しそうです。

「それはそうと、背中を見たと言うことは、何か描かれているのも見ましたよね?」

 再び一矢さんに向き直り、そう訊ねてみます。

「……うん。模様みたいなものが描かれていたね」

「わたし、鏡であの模様を見てから、さっきのような苦痛に襲われたのですが、一矢さんはあの模様に心当たりありませんか?」

「ごめん。俺にもさっぱりわからないよ」

「そうですか。わたしの記憶に繋がる、手がかりになるのではと思ったのですが」

「仮にそうだとしても、それが瑞葉を苦しめたものであるのなら、そんなところから無理に思い出さなくてもいいよ」

「ですが……」

「焦っちゃいけないよ。どうせなら、楽しいことから思い出していこう」

 一矢さんはそう言ってくれるけれど、わたしの心は少し晴れませんでした。

 わたし、記憶を失う前、楽しいことなんてあったのでしょうか? 

 ふと不安になる。

 でも、わたしが何も言えないままでいると、一矢さんが気を利かせて、次のような言葉をかけてくれました。

「ねえ、瑞葉。お腹すいてないかい?」

 その質問の後、わたしは自分のお腹をおさえてみます。

 すると、くぅ〜っと、小さな音がなり、一矢さんは微笑みました。

「その様子だとお腹は空いていそうだね。夕飯の用意してあるんだ。ここに持ってきてあげるから、具合がいいんだったら食べたほうがいいよ」

「……ありがとうございます」

「美味しいもの食べたら、不安な気持ちも少しは和らぐかもしれないしね。とはいっても、俺の作ったものだし、あまり期待できるようなものじゃないけどさ」

「そんな! 食べさせて頂けるだけでもどれほどありがたいことか」

 わたしは一矢さんに拾っていただいた身。贅沢など言えません。

「それじゃあ、台所から取ってくるよ。おっと、その前にこれ渡しておくね」

 一矢さんはそう言うと、何かお洋服のようなものを渡してくれました。

「これは?」

「着替えだよ。さっきの着物をずっと着ている訳にもいかないだろ。あれは洗濯してあげるから、それまでの間はこれを着ているといいよ」

 目の前にはクリーム色のセーターと、それに合わせたスカートがある。

「……これ、一矢さんのものですか?」

「そんな訳ないだろ。それは、おふくろのものだ。ちょっと地味だけど背丈的には合うんじゃないかな。おふくろの背もそんなに高くはなかったし」

「よろしいのですか。お借りしても?」

「いいよ。おふくろとか、仕事でずっと留守だしさ。しばらくの間、借りておいてよ」

「何からなにまでありがとうございます」

「気にしなくていいさ。じゃあ、食事とってくるから、それまでに着替えておくんだよ」

 一矢さんはそう言って、この部屋を後にしました。

 わたしも起きあがって、もそもそとセーターの袖に腕を通し、スカートなども履いてみます。

 こういう服はあまり着なれていないせいか、少し違和感がありました。

 あと大きさに関しても、微妙ながら服のほうが大きい気もします。

 似合っているのかな?

 自分ではわからないので、近くにいるわんちゃんに訊ねてみました。

 けれど、わんちゃんもあまりわからないみたいで、困ったような顔をされてしまいます。

 その時、部屋の扉がノックされ、一矢さんが戻ってきました。

「瑞葉、中に入ってもいいかい?」

「どうぞ」

 返事すると、一矢さんがお盆に食事をのせて入ってきました。そして、わたしを見るなり一言。

「う〜〜ん。微妙に大きかったかな。その服?」

「似合っていませんか……」

「あ、いや、そんなことはないよ。むしろ、かえって可愛いとも思う。服としては地味だけど、君のような子が着ると、おしとやかな感じが増しているしね。あと、大きさが合わなくて少しだぶついているのも、かえってポイント高いかも」

「はあ」

 後半の意味はよくわからないけれど、誉められているのはわかる気がします。

「さあ、それよりも食事の時間だぞ。俺と犬は先にとっちゃったけどさ」

「わたし、長い時間、気を失っていたのでしょうか?」

「うん。倒れてから四時間ほどね。最初は医者を呼ぼうかなって考えたんだけど、呼吸とかも落ちついてきたし、少し様子を見てからにしようと思ってさ」

「そうでしたか。心配かけてごめんなさいです」

「いいよ。それよりも、冷めないうちに食べて」

「はい。頂きます」

 わたしはお盆を渡され、お箸を手にとりました。お盆の上には色々な食事がのせられています。白ご飯に豆腐のお味噌汁。あとはたまご焼きにお野菜……それと、これはなんだろう?

「一矢さん、これは何ですか?」

 食事の中で、どうしてもわからないものが一品あり、思わず訊ねてしまいました。

「それはコロッケだよ」

「ころっけ?」

「そうだけど、まさか瑞葉はコロッケ知らないの?」

「ええ。見るのも聞くのも始めてのような気がします……」

「コロッケも知らないなんて意外だな。まあ、それは俺が家で揚げたものだけど、美味しいから食べてみなよ」

「それでは、つつしんで頂いてみます」

 まずは例のころっけなるものをお箸で割り、つまんだ一部を口に運んで食べてみました。

「…………あ」

 わたしは目を大きく見開いて、一矢さんに向きました。

「どうだい?」

「とても美味しいです。こんなのはじめて食べました!」

 お世辞なんかではありません。本当に美味しいのです。

 口にいれるとアツアツで、一口噛むとサクサクで、もう一口噛むと溶けるように。

 一矢さんの言いようではありませんが、こんなに美味しいものを食べたら、不安な気持ちなど本当に消えてなくなりそうです。

「コロッケは俺の得意料理のひとつなんだ。喜んでもらえてよかったよ」

「すごいです。こんなに美味しいお料理がつくれるなんて、一矢さんはいいお嫁さんになれます」

「おいおい。俺は男なんだから、お嫁さんにはなれないよ」

「うふふ。それもそうですね」

 わたしたちは顔を見合わせて笑いました。

 そうすると、わんちゃんが拗ねたように「くぅん」と鳴きました。

「あ、ごめんなさい。わんちゃんのことを忘れているわけではないのですよ」

「うん? こいつもしかして、俺たちが楽しそうにしているから、疎外感を感じているのか」

「それっぽい感じですね」

「そいつは悪いことしたな。じゃ、おまえも一緒に笑い合おうな」

 一矢さんは言って、わんちゃんを抱き上げました。わんちゃんは嬉しそうに彼にじゃれつきます。

「そういえば、そのわんちゃんの名前も決めてあげないといけませんよね」

「そうだな。何か呼び易い名前をつけてやるか。……太郎ってのはどうだい?」

「呼び易いかもしれませんが、それはちょっと似合わないような」

「う〜ん。やっぱりそうか。それ以前にこいつ、オスなのかなメスなのかな?」

 確かにそれは疑問です。

 でも、わからないことは当人?に訊ねるのが一番です。

「わんちゃんは男の子ですか〜? それとも女の子ですか〜?」

「わんわんわん」

「ふむふむふむ〜。なるほど」

 わたしはわんちゃんの声を心の中で聞き、何度もうなずきました。

「で、こいつは何て言ってるんだい?」

 やはりわんちゃんの言葉はわからないのか、一矢さんが訊ねて来ました。

「わんちゃんいわく、かわいいかわいい女の子らしいです」

「自分で自分のこと可愛いって言ってるのか、こいつ」

 一矢さんは吹き出しました。

「以前の飼い主さんに、よくかわいいかわいいって言われていたそうです。でも、そんなにかわいいって言われてたのに、なぜ捨てられたのでしょうね……」

 わたしの後半の一言に、一矢さんは急に笑うのを止めました。そして。

「人間って案外、身勝手なところあるからな。仕方のない事情もあったにせよさ。……何にせよ、笑って悪かった。おまえも色々と苦労はあったんだろうしな」

 そう言って一矢さんは、わんちゃんに謝りました。

 わんちゃんも彼の気持ちがわかったのか、気にすることないよって言ってくれてます。

「あと、そのわんちゃんなんですが、名前は“すのー”って言うらしいです」

「すのー??」

 一矢さんが復唱すると、わんちゃんは嬉しそうに鳴きました。どうもその名前を気にいっているようです。

「その名前って、以前の飼い主がこいつにつけたものなのかい?」

「そのようですよ」

「ふーん。でも、すのーっていうのも、また妙な名前だな。何か意味あるんだろうか」

「さあ、わたしにもあまり。でも、大事な名前だそうです」

 一矢さんは腕を組んで、考え込まれました。

 わたしは邪魔するのも何なので、静かに食事をとりつつ、彼の考えがまとまるのを待ちます。

 それからしばらくして。

「あっ、ひょっとして!」

 一矢さんが、ポンッと手を叩かれました。

「何かわかりましたか?」

「確証はないけど、こいつの名前、雪の“スノー”からきてるんじゃないかな。白いし、まん丸だし、雪だまみたいだろ」

「ゆき?」

「瑞葉は雪も知らないとか? 冬の寒い日とかに、空から降ってくる白いものだよ」

 説明されても、今ひとつ実感がわきませんでした。ということは、わたしは“ゆき”というものを知らない可能性が強いです。

 寒い日に、空から降ってくる白いもの……。

 わんちゃんに似たものが、空から降ってくるのでしょうか?? 想像するだけでも興味がわいてきます。

「“ゆき”って、他にはどんな特徴があるんですか?」

「つめたいかな。あと、夜の光に照らされているのを見ると、きらきらしてて綺麗だったりね」

 つめたくて、きらきら。ますます素敵そうです。

「今、“ゆき”とか降っていませんか? 今日は少し寒いですし、いまは夜です」

「残念だけど、雨しか降っていないよ。それに雪は冬に降るものだから、季節的にもまだ早いしね」

「そうですか……」

 少し期待したのに残念です。

「見たかったです、“ゆき”。一矢さんやわんちゃんと」

「いつか、一緒に見れるといいな」

 一矢さんは言いますが、言葉の最後で何故か寂しそうな表情を見せました。

「どうかしたのですか? 一矢さん、もしかして“ゆき”って嫌いですか?」

「……そんなことないよ」

「でも、何だか寂しそうな顔でしたから」

「あはは。それは気のせいだよ」

「ならよいのですが」

 わたしはこれ以上、問うのは止めました。

 彼の顔からは寂しさも消えていましたし、本当に気のせいかもしれませんから。

「それよりも、こいつの名前“スノー”でいいのかな?」

 話題を戻すように、一矢さんがわんちゃんを見ました。

 すると。

「わんわんわん!」

 わんちゃんの方が喜んだように鳴きました。

 それは同意の合図でした。

「どうやら、その名前がいいみたいですね。大事な名前みたいですし」

「そうか。……でも、こいつ俺の言葉がわかるのかな。それとも“スノー”って名前だけに反応してるだけかな?」

「半分はわかっていると思いますよ。お利口そうですし」

「そっかあ。けど、こいつには俺の言葉がわかって、俺はこいつの言葉がわからない。何だか、俺のほうがバカみたいだな」

「そんなことありませんよ。一矢さんも今にきっと、わんちゃんの言葉がわかりますよ。大事なのは気持ちを通わせることですから」

 自分の手に胸をおいて、そっと笑顔で伝えてあげる。

「一生懸命に何かを伝えようとすれば、それは言葉の壁すらもこえて、きっと心に交わるはずです。一矢さんは優しい人だから、大丈夫」

「そんなふうに言われると、やはり照れくさいな」

 苦笑して、頬を掻く彼。

「照れている一矢さん。何だか可愛いです。ね、スノーちゃん?」

 わたしは早速、わんちゃんを名前で呼び、同意を求めました。それに対するスノーちゃんの返事は。

「わん!!」

 短く簡潔な、同意の返答でした。

「……瑞葉といいスノーといい、俺をからかってないか?」

「そんなことありませんよ。思ったことを言っているだけですから」

「でも、なんか恥ずかしいな」

 弱ったような一矢さんの様子が、ますます可笑しい。わたしは口許に手をあてて、クスクスと笑ってしまいます。

「おい、瑞葉。どうして笑うんだよ?」

「ごめんなさい。自分でもどうしてかわからないのですが、可笑しくて」

 彼を見ていると、自然に笑いがこみあげてきます。

 ここはあたたかいばしょ。ふわふわしたものが心の中をつつんでくれるばしょ。

 ただ素直に笑うこと。

 それは、なぜだか、ひどく懐かしい気もして。

 それでもわたしは、いまここで笑っていて。

 まるで、今まで笑えなかった分を、取り戻すかのように笑っている。そんな気がします。

 そして、そんな楽しいばしょを与えてくれる人。

「一矢さん」

 ひとしきり笑ってから、あらためて彼の名を呼ぶ。

「うん?」

「ありがとう」

 気持ちをこめて伝える、心からの言葉。

 そして。

「これからもよろしくお願いします」

 それは挨拶。

 わたしが新しい生活をはじめるうえでの、ちゃんとした礼儀でした。