第四章 ずっと笑顔のままで [菜穂]
それは、あまりにも一瞬の出来事だった。
今、わたしの目に映ったものは、トラックに跳ねられ、地面に叩き付けられた幼い女の子の姿。地面には、夕陽よりも真っ赤な色をしたものが小さな池をつくる。
「智美ちゃんっ!」
わたしは叫び、彼女に駆け寄った。
「智美ちゃん、しっかりして。智美ちゃん!」
彼女の側に膝をつき、何度となく呼びかけてみるものの返事はなかった。
ぐったりとして何も言わない智美ちゃん。生きているのか死んでいるのか、それすらもわからない。
彼女を轢いたトラックは、どこかへ走り去っていた。
………………明らかに轢き逃げ。
犯人のトラックを追いかけたいという気持ちはあったが、智美ちゃんの元も離れられない。
近くでは騒ぎも広がり、誰かが救急車を呼ぶべく電話をかけている。わたしは一刻も早く、救急車が来てくれることを祈るしかなかった。
それから数分ほどで救急車は来てくれた。
智美ちゃんは緊急で病院に運ばれることになり、わたしも彼女の知人として同行を許される。
そして、今。
わたしは大きな病院の廊下にいた。
智美ちゃんはすぐに手術室に運ばれ、先生たちの手術を受けているという状況だ。
救急車で運ばれている間は、幸い智美ちゃんに息はあった。でも、それもかろうじてとのこと。
話を聞く限りでは、かなり危険な状態であるのは間違いないようだ。
「智美ちゃん。死んだりなんかしたら駄目だよ」
手術中と灯されたランプを見つめながら、ポツリとつぶやく。
手術室近くの廊下は静かだった。
なんとも嫌な静けさ。
一人きりでいると、息がつまりそうになる。
わたしのわかる範囲で智美ちゃんの家族のことは教えておいたから、里美さんにも既に連絡は入っていることだろう。
里美さんは、この事実をどう受け止めるのだろうか。
「このまま悲しい結末をむかえるのなんて、わたし絶対に嫌だよ」
あの姉妹が仲直りするのはこれからだというのに、こんな悲しい事件が起きるだなんて皮肉もいいところだ。
でも、その皮肉を運命のいたずらとして受け入れるわけはいかないよね。
わたしは、強くそう思った。
そのときだ。
廊下のむこうから、誰かがこちらに早足で歩いてくる音が聞こえてくる。
そして。
「菜穂さん」
わたしを呼びかける、悲しみに沈んだ声。
「……………里美さん」
やってきたのは里美さんだった。目には沢山の涙を溜め、その表情はくしゃくしゃに歪んでいる。
彼女は震える声で訊ねた。
「智美は…………あの子は大丈夫なのでしょうか?」
「今、病院の先生たちが頑張ってくれています」
「じゃあ、まだ手術は」
「終わっていません。かなり大変なようですから」
「…………そんな」
がっくりと膝を崩し、床へとへたりこむ里美さん。
そのまま両手で顔をおさえ、泣き出してしまう。
それは、見ている側にとっては痛々しい光景だった。
「嫌よ。智美ぃ……お姉ちゃんを…………一人ぼっちにしないでよぉ」
嗚咽とともに洩れる、そんな言葉。
まるで小さな子供のように里美さんは泣きじゃくる。
無理もない。大切な肉親が生死の境を彷徨っているのだから。けれど、こんなとき肉親に出来ることはあまりに少ない。それがかえって無力感を増し、悔し涙もまじってしまう。
「里美さん。元気を出してください。智美ちゃんはきっと大丈夫だって信じましょう」
わたしは膝を折って、里美さんと同じ位置まで視線を落とす。
大丈夫という根拠なんてありはしないが、最悪なことばかり考えてもいられない。
「…………でも、智美の手術は困難なのでしょう?」
「けれど、まだ生きてるんですよ」
そう言って、彼女の涙をそっと拭いてあげる。
「最悪な結果も出ていないうちから泣いていたんじゃ、智美ちゃんが可哀相すぎます。それに、わたしだって本当は…………」
「菜穂さん?」
いつの間にか、わたしの声も震えていた。それと同時に我慢していた涙も、堰を切ったように溢れ出す。
泣き出してしまうと、あとは雪崩れ式だった。
事故を防げなかったことへの悔しさがよぎったり、天使なのに何の力もない自分が悔しかったり。
やはり、自称『天使』では、やれることに限りがあるのだろうか。
けれど。
そんなわたしを、里美さんはそっと抱きしめてくれた。
「ごめんなさい。菜穂さん。あなたも不安なのに、私だけ勝手に悲しんでしまって」
「…………里美さん」
涙は止まらなかったけど、少し嬉しかった。
里美さんは本当に良いお姉さんだとわかるから。
智美ちゃんも里美さんも、本当に良い姉妹だと思う。こんなに良い姉妹が、お互いにすれ違ったままだなんて絶対に勿体無いよ。
「もう泣かないで菜穂さん。あなたに言われたように私も智美は大丈夫だって信じてみます」
「は、はい」
「ならば菜穂さん、一緒に笑ってくださいな」
「え……?」
「素敵な笑顔を忘れない。笑って幸せになれたら、その幸せを少しでも智美に伝えられるかもしれないじゃないですか」
笑顔による幸せは周りにも自然と伝わる。これは今日の昼間、わたしが里見さんに言った言葉だ。彼女はしっかりとそれを覚えてくれていたんだね。
ならばわたしも泣いてなんかいられない。強引に自分の涙をぬぐった。
そして、里美さんと向かい合いお互いに笑ってみた。
でも、なかなかに難しい。
お互い泣き笑いのような表情になるばかりで、とびきりの笑顔とは言えなかった。
「笑うっていうのも、なかなか難しいですね」
「こんなときだから尚更ですよ」
わたしたちは苦笑しあう。
でも、そのときだ。
「ならばもっと頑張って笑おう。智美ちゃんのためにも」
廊下から知らない男の人の声が響いた。
「正彦さん!」
里美さんは、すぐに反応して立ちあがる。
わたしも声のした方向をむく。するとそこには、いつの間にいたのやら、温厚そうな若い男の人が立っていた。
「正彦さん、どうしてここが?」
「僕の店の常連さんが知らせてくれたんだ。智美ちゃんが事故に遭ってこの病院に運ばれたって。だから、急いで駆けつけたんだ」
「…………そうでしたか」
里美さんは、どこか安心したような表情を浮かべる。
でも、そのやりとりを見て理解できた。あの正彦さんという人が、里美さんの好きな人なんだと。
「里美さん、水臭いじゃないか。事故のこと、どうしてすぐに知らせてくれなかったんだい?」
「ごめんなさい。私も知らせを受けたとき動揺していたから」
「それにしたって水臭いよ」
「本当にごめんなさい」
「もう、いいよ。僕も君に不安を与えていたのかもしれないからね。でも、今度からこういう大事なことはすぐに知らせてほしいな。智美ちゃんは僕にとっても大事な子なんだから」
「…………正彦さん」
里美さんは、彼氏の胸に飛び込んだ。
わたしは少しホッとする。あの人が来たことで、里美さんは多少の元気を取り戻したように思えるから。
二人はしばらく抱擁を交し合ったのち、正彦さんと呼ばれた男性がわたしに向き直った。
「はじめまして。天使さん」
「え
?!」正彦さんにそう言われて、わたしは驚いた。
少なくとも、彼と出会うのは今回がはじめてのはずなのに…………
でも、よく考えてみれば、昨夜智美ちゃんを探しにきた里美さんと一緒にいた人だと気がつく。
とはいえ、この二人には羽はみられていない筈なんだけど。
そうなると智美ちゃんが正体を喋っちゃったとか?
「あ、ごめんね。驚いたかな。勝手に天使さんって呼んじゃって。でも君は昨日の夜、智美ちゃんを保護してくれた人だろう?」
「…………ええ。でも、どうして天使だなんて」
「智美ちゃんがね、君のことを天使だ、とか言ってたものだからさ。まあ、その理由はわかんないんだけどね」
「そうでしたか」
どうやら智美ちゃんも、完全には正体をバラしていないようでホッとする。
「よければ、ちゃんとした名前を教えてくれるかな?」
「わたし、菜穂っていいます」
「菜穂さんか。僕は遠野正彦っていうんだ。よろしくね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
わたしと正彦さんは、お互いに頭を下げた。
「僕も智美ちゃんが無事に手術を終えるって信じるよ。だから、彼女を笑顔で迎えられるよう僕らも頑張ろう」
「はい」
今度は嬉しさで涙が溢れてきた。
里美さんも正彦さんも、とても智美ちゃんのことを想っている。
こんないい人たちに想われるなんて、智美ちゃんは幸せものだよ。
だから。
………………絶対に戻ってこなきゃ駄目だよ。智美ちゃん。
わたしは手術室の扉を見つめて、心から呼びかけた。
*
智美ちゃんの手術がはじまってから、既に四時間が経過する。
手術中の赤いランプは、まだ消えない。
まるでそれが永遠に続くかのように。
手術室を行き来する先生や看護婦さんも慌ただしいまま。それは、まだまだ予断を許さぬ状況であることを意味していた。
時間が経つにつれて、里美さんや正彦さんの顔にも疲れの色が見て取れる。
無理はないよね。
いくら信じて待つとはいえ、不安は消えないままなのだから。
途中、里美さんたちの叔父さんも病院に来ていた。その叔父さんの話では、智美ちゃんを轢き逃げしたトラックの運転手は警察に自首したらしい。
わたしは、それを聞いて少しは安心する。
でも、そうなると智美ちゃんの生死は、ますますもって重要になった。
智美ちゃんにもしものことがあれば、その運転手さんだって更に大きな罪を背負わなければいけない。
轢き逃げしたことは決して許されるものではないけれど、せっかく自首をして罪を感じているんだもん。これ以上、悪いことになるのは可哀相だよ。
沈黙の時間は永劫に続くかと思われた。
でも、そのとき手術室の扉が開き、先生の一人がこちらの方へとやってくる。
「先生! 智美の容態はどうなんですか?」
「…………全力は尽くしています。ですが、最悪の場合も覚悟してください」
里美さんの問いに、沈痛な面持ちで返事をかえした先生は、一礼したあと手術室に戻ってゆく。
無慈悲な宣告。
智美ちゃんがかなり危険な状態であることを強調されたようなもの。
「……そん…な。智美ぃ、智美ぃ」
再び泣き崩れる里美さん。
彼女を支える正彦さんも、どう言葉をかけてよいのか悩んでいる様子だった。
わたしも、うつむいて泣き出しそうになる。
でも、泣いたりなんかしたら駄目だ。
例え笑顔は見せられないとしても、悲しみに泣いてしまっては絶対に駄目。
悲しんで泣いてしまえば、それは智美ちゃんを信じている自分への裏切りのように思える。
そんなの嫌だよ。
わたしは、わたしにできることをしたい。
誰もが悲しくなるのは嫌。
…………………今のわたしに、できることはなに?。
…………できることは?
……できること。
わたしはしばらく考えた後、この場から走りだし病院の階段を駈け上がった。
そして、屋上までくると扉を開く。
外はもう夜だった。さすがに屋上にも誰もいない。
「飛ぶよっ!」
わたしは自ら気合いを入れ、背中に羽を広げた。
そして、大空へ高くへふわりと舞いあがる。
目指すべき場所は空の彼方。
雲より高みに存在する、不可視の楽園。
夜の風は、春とはいえ冷たかった。でも、そのようなものに負けてはいられない。わたしは一生懸命に空をのぼった。
やがてには、雲より高い位置へとその身を舞わせる。
飛ぶにはもはや限界の高さだ。
わたしは小さく息をはくと、その場で大きく手を広げた。
そして。
「神様。もし、この世界に神様がいるのなら、わたしの願いを聞いてください」
心からの願いを口にする。
「わたしの大切な友達が、生死の境をさまよっているんです。だから、助けてあげて!」
その願いが通じるかはわからない。
誰も、返事などはしてくれないから。
けれど、言わずにはいられなかった。わたしには、こんなことぐらいしかできないもの。
わたしが本当に天使ならば、神様だっていていいはずだ。
神様がいるのなら、神様のいるという天にまでのぼり、直にお願いする。
それが、わたしにできること。
空の上は風が強い。
風の音以外は、重苦しい沈黙が漂う世界。
沈黙が永く続くに従い、わたしの心に不安と疑問がのしかかる。
わたしの願いって、むしのよい願いなのだろうか?
死は誰にでも訪れる。納得のゆく死もあれば、納得のいかない死も存在する。
でも、その両方をまとめあわせても、結局は「死」という概念に変わりない。
智美ちゃんがこのまま亡くなれば、納得のいかない死ということになるだろう。けれど、彼女の両親だって事故という納得のいかない死を迎えている。
ここで、智美ちゃんだけを助けてって願うのは、ある意味、他の不幸な人へ対する差別ではないのか?
ひょっとして、わたしのしていることって自己満足?
わからない。
…………けれど。
けれどだよ。
わたしは、自分にしかできないことをしたかったからここに来たんだよ。
たしかにわたしの願いは、むしのよい願いかもしれない。
でも、この願いに対して神様が何らかの試練を課すというのなら、それを受け入れる覚悟だってある。
どんなにむしがよくったって、いまは智美ちゃんの為に何かしたい。その気持ちが悪いものだなんて思わない。
「神様、わたしたちに奇跡は起こせるかな?」
両手を握り合わせて強く祈った。
その時、心の奥から返事が聞こえた気がする。
『わたしが幸せな結末を望むのなら、きっとその幸せは他の人たちにも伝わるよ。だから、素敵な笑顔を絶やさないようにね』
心の声は、わたしの声だった。
これが神様からの返事かはわからないけど、それは自分にとって一番大事なこと。
「そうか。そうだよね」
笑顔で信じ続けることこそ、わたしが本当にしなければいけないこと。周りの悲しみに流されるばかりではいけないんだよね。
もし、笑顔でいることが不謹慎な場面だとしても、幸せを信じて、笑顔をむけれるくらいの心の余裕は保たないと。
わたしは願うよ。
奇跡が起こることを。
そして。信じるよ。
もう一度、笑顔で智美ちゃんと会えるって。
…………それから奇跡は起きた。
それもわたしが、病院にもどってきた直後に。
手術中の赤いランプが消え、手術室から先生や看護婦さんたちが出てくる。
そして先生たちは、にこやかに告げた。
「手術は成功しました。もう、心配はいりません」
その言葉の直後、里美さんたちは涙を流して喜んだ。
わたしも思わずもらい泣き。
よかったね、みんな。
ささやかにして大いなる喜びは、わたしの心にも心地よく伝わる。
とても嬉しいよ。
これなら、しっかりした笑顔で智美ちゃんに会えそうだね。
*
智美ちゃんの手術が成功してから、二日が経った。
しばらくは入院生活を強いられるらしいが、経過は順調で意識の方も回復したと聞く。
そんなわけで。
今日はわたしと里美さんの二人で、彼女のお見舞いにやってきた。
「智美、おはよう」
「元気かな〜、智美ちゃん?」
病室に入るなりの挨拶。わたしも里美さんも、とびきりの笑顔だ。
ベッドに横たわる智美ちゃんも、わたしたちの顔を確認するなり笑ってくれた。
「いらっしゃい」
まだまだ弱々しい笑みではあったが、完全に怪我が治ったとはいえないから仕方はない。
「智美ちゃん、ミイラ少女だね」
彼女の身体には、まだ包帯で巻かれたところなどが多い。
「いくらなんでもミイラ少女っていうのは、ちょっと嫌かな」
「でも、今の智美の姿って、その言葉がピッタリ当てはまる姿よ」
「…………里美お姉ちゃんまで、意地悪なこといわないで」
「意地悪じゃなくて、事実を言ったまででしょう」
むくれる智美ちゃん。
でも、やがてには。
三人して笑いがこみあげてきた。
特別な言葉こそは交わしていないが、里美さんも智美ちゃんも険悪な空気はない。
「そうそう、これはお見舞いの品だよ」
わたしはそう言って、智美ちゃんにクマさんのぬいぐるみを渡す。
「…………あ、このクマは」
「うん。この前、智美ちゃんにプレゼントしたものを、少し手直ししたんだよ。かなりボロボロになってたからね。でも、どうかな? かなり男前になったと思わない」
「そうだね。少しはスマートになったかもね。でも、このクマは男の子なの?」
「どうして?」
「だって今、菜穂お姉さんがこのクマを男前だって」
「じゃあ、きっと男の子なんだよ」
我ながら適当なことを言っていると思うけど、性別までは考えたことなかった。でも、智美ちゃんにはそれが重要なことらしく「う〜ん」と少し考え込む顔をする。
「そうなると、このクマに考えていた名前を少し変えないといけないね」
「どんな名前をつける気だったの?」
「『菜穂ちゃん』」
「う。ひどい。そんな不恰好なクマさんに、わたしの名前つける気だったの」
「…………このクマを私にプレゼントしたのは、菜穂お姉さんでしょう。ひどいと思えるほど不恰好なクマをプレゼントするのもどうかと思うけど」
「あはは。まあ、それはそれ。心がこもっているってことで」
何気ない会話のやりとり。
でも、ここまで話ができれば智美ちゃんの回復も順調な証拠。
わたしにはそれが嬉しかった。
「智美、これは私からのプレゼントよ」
今度は里美さんが小さな箱を持ち出して、それを開けた。
「これって」
智美ちゃんが驚いたようにつぶやく。何か心あたりがありそうだ。
わたしも箱をのぞきこむと、そこには小さな天使の人形があった。
里美さんは人形を箱からとりだすと、頭にある天使の輪を軽く回した。
すると、優しい音色が、その天使の人形から流れ出す。
「わ。オルゴールですか」
「ええ、そうです」
里美さんはうなずき、その優しい音に耳をかたむける。
「…………これって昔、里美お姉ちゃんが大事にしていたものだよね」
「そうよ。私がお母さんに買ってもらって、それを途中で晴美に譲って、今度は智美に譲るの。私たち三姉妹、このオルゴールの音が大好きだったでしょ」
「私なんかが譲りうけていいの?」
「勿論よ。晴美とも昔、話していたのよ。智美が大きくなったら譲ろうねって。そうすれば姉妹三人に受け継がれたオルゴールになるって。だから、これは天国にいる晴美からのプレゼントとも言えるわよ」
「…………晴美お姉ちゃん」
智美ちゃんは、嬉しそうに言葉を詰まらせる。
オルゴールの音色は限りなく優しい。人それぞれの想いが、柔らかな調べにのって心の中へと染みてゆくように。
「よかったね。智美ちゃん」
「…うん」
目を伏せてうなずく彼女の瞳には、大きな涙。
それは、込められた想いが伝わった証拠。
それからしばらくして。
智美ちゃんは、唐突にポツリと言った。
「…………里美お姉ちゃん、正彦さんと結婚するんだよね?」
「どうしたの。いきなり」
突然の言葉に、里美さんも少し戸惑いの表情を浮かべる。
「結婚したらいいよ」
「え?」
「結婚したらいいって言ったんだよ。お姉ちゃんは私のために、今まで一生懸命頑張ってくれたんだから、そろそろ自分の幸せのために頑張ればいいよ」
「…………智美」
「もっと喜んだらどう? せっかく認めてあげたんだよ。それに私だったら大丈夫。もう大人なんだから、お姉ちゃんに苦労はかけないよ」
「そんな寂しい言い方はしないで。そんな言い方されたら、私たち他人になるみたいじゃない。例え私が結婚しても、智美が大人になっても、私たちが姉妹であることは永遠に変わらないのよ」
優しく諭す、里美さん。
「大丈夫。それもわかって言っているから」
小さく微笑む智美ちゃんは、やがてわたしの方に向き直り。
「菜穂お姉さん。私、自分に無理はかけていないよ。今は素直な気持ちで里見お姉ちゃんに幸せになってもらいたいんだ。正彦お兄さんになら安心して任せれそうだしね。私の手術中もずっとお姉ちゃんを支えてくれた男の人だし…………なによりも」
「うん?」
「私のこともかなり心配してたって看護婦さんに聞いたの。お姉ちゃんが病院にこれない時間でもお見舞いにきてくれてたらしいよ。そんな優しいお兄さんなら、私も大歓迎だもん」
「正彦さんの本当の良さに気づいたってことだね」
「うん。そんな感じ。だから里見お姉ちゃんにはあの人と幸せになってほしい。そうすれば私もそのおこぼれとして優しい二人に甘えれそうだし」
「…………もう、智美ったら」
また病室に笑い声が広がる。
もうこの二人の姉妹に、すれ違う想いはない。二人とも自然に、自分のあるべき場所をみつけている。
「これで二人とも仲直りだね」
わたしは、ポンッと手をたたいた。
「そうですね」
「うん。とりあえずはね」
里美さんも智美ちゃんも、小さくうなずきあった。
そのときだ。
この病室をノックする音が響いた。里美さんは扉を開けに行く。
そして入ってきたのは、正彦さんだった。
「やあ。智美ちゃん。意識が戻ったって聞いたから、改めてお見舞いにきたよ」
「正彦お兄さん」
タイミングよく登場した彼に、智美ちゃんは少し照れたような赤い顔をする。
「はい。これお見舞いのお花。あとで里美さんに飾ってもらうといいよ」
「………………」
「ほら智美。正彦さんにお礼は?」
里美さんは優しく促すものの、智美ちゃんの声は出なかった。その表情を見ると単純に照れているというよりは、どこか戸惑っているようにも感じさせる。
もしかすると、彼を認めると割り切りをつけたものの、どう接していくかまでは心の準備ができていなかったのかも。
そうだとすれば、ここはちょっぴり助け舟を出すのがわたしの役目。
「智美ちゃん、恥ずかしがりやさんだもんね。男の人にパジャマ姿を見られて照れているんだよ」
「な…な……なに言い出すのよ。菜穂お姉さんってば」
更に真っ赤になり、うつむく智美ちゃん。
少し強引なやり方だったのかもしれないけど、この場の空気は少し和んだ気がする。
「たしかに智美ちゃんも女の子だもんね。あまり恥ずかしがられるのも大変だし、僕は早々に退散することにするよ」
「…………待って。まだ…帰らなくていい……から」
うつむいたまま、智美ちゃんは小さくつぶやく。
「でも、いいのかい? 智美ちゃん、恥ずかしいんじゃ」
「正彦お兄さんにお願い事があるの。だから、それを聞いてもらうまでは……帰っちゃ駄目」
「なんだい、お願いって」
正彦さんは彼女のベッドの側にかがみこむ。
「…………あのね、里美お姉ちゃんを幸せにしてあげて欲しいの」
小さな声で、緊張しながらの一言。
「智美」
里美さんは泣き笑いのような表情。
正彦さんも穏やかにうなずいた。
「うん。わかったよ。里美さん、幸せにさせてもらうね。それと智美ちゃん。僕からも君に大事なお願いがあるんだけど、いいかな?」
「なにかな?」
「智美ちゃん、僕の妹になってくれるかい」
「え? それってどういう。…………里美お姉ちゃんが結婚すれば、私だって正彦お兄さんの義理の妹だよ」
「それはそうなんだけど、もっと直接的な意味で。僕たちが結婚したら、智美ちゃんにも僕たちと一緒に暮らして欲しいんだ」
そこまで言いきってから、正彦さんは里美さんにも向き直る。
「いいよね。里美さんも?」
「正彦さんがそれでもいいっていうのなら、私は」
口許を手でおさえながら、静かにうなずく里美さん。本当に嬉しそうだった。
けれど、智美ちゃんは何とも言えない表情をしている。
「…………そんなことになったら、私、お姉ちゃんたちの邪魔になるよ」
「僕も里美さんも、智美ちゃんを邪魔だなんて思わないよ。みんな揃って幸せになりたいんだよ。それにね、僕が里美さんを好きになった理由も、智美ちゃんが関係しているんだよ」
「え?」
智美ちゃんばかりではなく、里美さんも意外そうな顔をする。
「僕はね、一生懸命智美ちゃんのことを想ってる里美さんが好きなんだ。何て妹想いの優しい女性なんだろうってね。そして、こういう優しい人と一緒になれたら僕も幸せだろうなって。だから、僕の好きな里美さんと出会えたのもみんな智美ちゃんのおかげなんだよ」
「……………」
「智美ちゃん、正彦さんのお願いにのってあげたら?」
わたしは、彼女の耳元でそっと囁いた。
きっとそれで、みんなが幸せになれるだろうから。
智美ちゃんはしばらく考えた様子ではあったが、答えはやはり決まっていたようだ。
「私、本当に正彦お兄さんたちと暮らしてもいいの?」
「ああ。勿論だよ」
正彦さんは笑顔で力強く頷いた。
その一言をきっかけに、全ては丸く収まった。
少なくとも、わたしが見届ける部分は終わったといえる。
これから先に智美ちゃんたちがどうなってゆくかは、また別の問題だ。
なんにしても仲直りできて良かったね。智美ちゃん。
わたしは心の中でそれだけ告げると、そっと病室を抜け出した。
挨拶もしないで出ていくのは申し訳ないけど、これ以上残って別れが辛くなっても嫌だしね。
でも、わたしが病院から出ようとした時、背後からわたしを呼びとめる声がした。
「菜穂さん!」
振りかえると里美さんがいた。
「どこかに行ってしまわれるのですか?」
「そろそろこの街を出て、別のところにでも行こうかと」
別に隠す必要もないので、素直に答える。
「そんな! もう少しゆっくりしていってはどうです? 智美もその方が喜ぶでしょうし、私もあなたにお礼がしたいです」
「わたし、お礼をされるほどのことはしてませんよ」
「そんなことありませんよ。菜穂さんのおかげで、私たち姉妹は素直になれたようなものですから」
「でも、わたしのやるべきことはもう終わった感じですし、これ以上はとどまっても別れのタイミングを逸しそうだし」
「それでもいいじゃありませんか」
「里美さんたちの好意はありがたいけれど、もう決めたことなんです」
わたしは首を横に振り、さわやかに微笑んだ。こういう方がさっぱりとしている。
里美さんは、穏やかに息をついた。
「やっぱり菜穂さんの笑顔って素敵ですね」
「そうですか?」
「ええ、そんな笑顔で『もう決めたことなんです』なんて言われたら、引き止めるのも悪い気がします」
「すみません」
「もう、構いませんよ。でも、最後にひとつだけ質問してもいいですか?」
「なんですか?」
「今日の私は、幸せそうに笑っていますか?」
優しく微笑む里美さん。
とっても素敵な、晴れ晴れとした笑顔。
「はい。合格点です。わたしも思わず幸せになれそうなぐらいに」
「ありがとう、菜穂さん」
里美さんは、そっとわたしの手をとった。
そして。
「また遊びにきてくださいね。智美も私も、待ってますから」
「はい」
わたしは小さな声で、でも、はっきりと返事をかえした。
わたしが病院を去るとき、病室の窓から正彦さんに抱かれた智美ちゃんが見送ってくれている姿が見えた。
智美ちゃんは別に怒っている様子もなく、にこやかに微笑んでいた。
ずっと笑顔のままで。
言葉のない別れ。
でも、笑顔であるからこそ、そこに寂しさはない。
わたしにとって、それは一番幸せな別れ方だった。
だって、笑顔の別れは、お互いの気持ちが正しく伝わっている証拠だもの。