幕間 揺れる心 [里美]
午後の四時。
遅い休憩をとるため、私は『赤煉瓦』という名の珈琲喫茶を訪れる。
カランカランカラン。
耳に馴染んだカウベルの乾いた響き。そして。
「いらっしゃい」
この店の若いマスター、正彦さんの優しい声。
「あ。里美さんか。今日はいつもより遅かったね」
「ええ」
正彦さんの言葉に頷いて、カウンターの席に座る。周りを見渡してわかったことだが、客は私一人だけのようだ。
「今日は何を注文する?」
「いつものでいいです」
「また、アメリカン? たまには別のものなんてどうだい。いい豆があるよ」
「アメリカンでいいです。あまり、味の違いなんてわからないし」
「あはは。味の違いがわからないなんて、里美さんもまだまだ子供かもね」
正彦さんは何気なく言ったつもりだろうが、私はつい黙ってしまう。
…………子供か。
何だかその響きだけが、心に残る。
私が智美の面倒を見ているのも、所詮は子供が子供の面倒を見ているだけにしか過ぎないのだろうか。
「里美さん。怒った?」
「え?」
「だって、里美さん。急に難しい顔して黙ってしまうからさ」
「ごめんなさい。少し考えごとをしていたから」
「そうか。ならいいんだけどね」
正彦さんは、それ以上踏みこむ様子もなく、てきぱきとコーヒーの準備にとりかかる。
私は、心の中で溜め息をついた。
できれば正彦さんに、もっと話し相手になって欲しいのに。
何か悩み事でもあるのかい? そんな風に訊いて欲しいのに…………
ここに来る前は菜穂さんとお話し、何とはなしに穏やかな気持ちにはなれた。私はその時のような空気を正彦さんにも求めているのかも。
もっとも、普段の私はそんな事を求めはしない。だから、これが自分のわがままであることぐらい十分承知している。
ついでをいえば、具体的な相談事も用意している訳じゃない。
『まだまだ、心にゆとりがない証拠ね』
結局、自分の中でそう落ちつかせる。
きっと適当な話し相手を求めて、気を紛らわせたいだけ。
「アメリカン、おまちどうさま」
目の前にコーヒーがさしだされ、香ばしいかおりが引きたつ。
私は一口くちをつけて、かるく息ついた。
「今日は忙しいのかい?」
正彦さんが、自分のコーヒーをいれながら訊ねてくる。
「どうしてですか?」
「遅い休憩だし、あまり元気がなさそうに見えるからね。疲れているんじゃないかなって」
「心配するほどのことはないですよ」
「ならいいんだけどさ。まあ他には客もいないことだし、時間の許す限りゆっくりしていきなよ」
いかにも正彦さんらしい気の遣い方。彼は自分から人の悩みを聞こうとするタイプじゃない。気にかけるそぶりをみせて、相手から言わせるタイプだ。
「…………今日のコーヒー、少し苦いですね」
「そうかい? いつもどおりだと思うけど」
「だったら、私の調子がよくないのでしょうか」
「熱でもあるの?」
またしばらく黙った。何だか苛立ちがつのる。
正彦さんの返事ひとつひとつが、自分の望むものではないと感じてしまう。
やっぱりただのわがまま。
それでも、時としてそのわがままを汲み取って欲しいと思うのは、贅沢なことなのだろうか?
私と彼の関係って、そんな想いすらも伝わらないほど薄っぺらいものなのだろうか?
気まずい静けさが店内を支配する。
そして、しばらくしてから。
「…………ねえ、正彦さん。私のこと愛してくれていますよね?」
私は、いきなりそんなことを訊ねた。
正彦さんは少し驚いて、照れたように頭を掻く。
「どうしたんだい。いきなり」
「いいから答えてください。今の店内には誰もいません」
「………そりゃまあ、里美さんのことは……愛しているよ」
またしても沈黙する私。
愛している。今はそう言われても、なぜかピンとこない。
はじめて正彦さんに告白された時はとても嬉しかったというのに。自分から告白する勇気がなかっただけに、彼からの告白は夢のようっだったもの。
なのに今の私は素直に喜べていない。
愛されるということはどういうことなのだろう。何が基準になっているのだろう。
本当はそんなことを理屈で考えるべきではないのはわかっている。
人は神様じゃない。だから何もかも受け止めてわかってほしいなんていうのも無茶なんだということも。
正彦さんと目があった。彼は心配そうな顔で私を見ている。
「ごめんなさいね、正彦さん」
「一体、どうしたんだい。今日の里美さん、何か変だよ」
「少し疲れているだけです。気にしないで」
「でも、気になるよ。…………ひょっとして昨晩、智美ちゃんを連れ帰った後、何かあったのかい?」
私の態度に煮え切らないものを感じたのだろう。ついに正彦さんから、踏み入った質問がなされる。
智美の名前が持ち出された途端、胸のどこかが締め付けられる思いがした。
「どうなんだい。里美さん?」
「いえ、昨晩は別に何もありませんでした。ただ、あの子のことで少々悩んでいるのは事実ですけどね」
「どんなこと?」
「智美も、もう少し正彦さんの事を慕ってくれればいいなと」
整理がついていないのか、思いついたまま言葉にしている状態。
こういう話もしたかったのは確かだが、タイミングを逸したせいもあってか、もはや今さらながらという感じ。こんな気まずくなってからするのではなく、もっと早いうちにしてほしかった。
「正彦さんは智美のことどう思ってます?」
「里見さん同様、大事に思っているよ。大丈夫。智美ちゃんも、そのうちきっと馴染んでくれるよ」
「だとよいのですが」
正彦さんは簡単に言うが、その言葉に根拠はあるのだろうか。
でも、どうやって馴染んでいくのだろう? ただ、時間が解決させるだけ?
先ほど出会った菜穂さんと比較してしまうのも何だけど、正彦さんは彼女と同じようなニュアンスのことを言っていたとしても、いまひとつ言葉が足りない気がする。
そこは性格の違いなのだろうが、菜穂さんは智美に対する一生懸命さも伝わってきて、彼女になら任せられるっていう安心感がどこかにあった。
正彦さんも言葉だけでなく、もっと行動で示してくれるものはないのだろうか。
私は、少し冷めたコーヒーを一気に飲み干した。そして。
「今日はもう帰ります」
そう言って、コーヒーの代金だけカウンターに置く。
「もう帰るの?」
「お店忙しいから、早く戻らないといけないんです」
忙しいというのは嘘。でも、今日は店長不在だから早く戻った方がいいのも事実。
「大変だね。頑張りなよ、里美さん」
「ええ」
私は返事もそこそこに、この店を出た。
「逃げちゃいました・・・・・・ね」
つい独り言のように、つぶやく。
なんだか正彦さんといるのが辛かった。これ以上、あの店にいると、正彦さんへの不満しか出てこないのだから。
勿論、半分は自分のわがままだ。それはわかっている。
だから、自分勝手に正彦さんへの不満を鬱積させるよりは、逃げて心の整理をつけたほうがよいと思った。
でも。それはただの言い訳。
いっそのこと、正彦さんと喧嘩でもして、お互いの気持ちをぶつけあった方がよかったのだろうか?
わからない。どうすればいいのか、わからない。
とぼとぼと歩きだす私。通りかかった店のショーウィンドウに、その姿がぼんやりとうつる。
硝子にうつる私は、寂しそうだった。
客観的に見てもそう思えるのだから、何だか悲しい。
「元気をだして笑ってください」
ショーウィンドウにうつる自分に、そう呼びかけてみる。
けれど、目の前にいる「私」は笑わない。
馬鹿みたいだ。いい年齢の大人が、何をしてるのだか…………
再び歩き出した。
結局、私が抱えている悩みは沢山あるんだなと思い知る。
智美のこと、正彦さんのこと、そして何より自分自身のこと。
菜穂さんが言っていたように、素敵な笑顔を忘れず、自信を持って幸せになることなど、私にできるのだろうか?
私はもう一度、彼女に会ってそのことを訊ねてみたかった。
彼女の笑顔こそ、本当に素敵な笑顔だと思ったから。