第三章  喧嘩  [佳奈]

 

 

 楽しい日々がつづいていた。

 菜穂といる時間は、あたしにとって、もはやあたりまえともいえる日常になりつつある。

 一昨日は映画を見に行った。巷でも怖いと評判のホラー映画だ。

 ぎゃんぎゃんとオーバーなほどに怖がる菜穂は、とってもからかいがいがあった。

 ……もっとも、そのせいで映画の内容はほとんど覚えていないが。

 昨日は遊園地に行った。絶叫マシンで有名な遊園地だ。

 予想に反して、菜穂はあまり怖がらなかった。空を飛べる天使だけに、高いところへの抵抗は少なかったのかもしれない。

 ……結果、連れまわしたあたしの方が目を回すハメになった。

 そして、今日は。

 午前中に、またカラオケに行った。

 あたしは楽しかったが、菜穂にはあまりいい顔はされていない。

 今日は月曜日。本来ならば学校のある日。

 菜穂は、あたしが学校にいかないのが気になるらしい。

 今日は適当にごまかしてはおいたが、いずれ話したほうがいいんだろうな。あたしが学校に行かない理由。

 理由を語ったとき、こいつはどう思うだろう。

 あたしは、横を歩く菜穂の顔を見た。

「どうかした、佳奈ちゃん?」

 とぼけた表情で訊ね返される。

 こいつなら、あたしの気持ちを理解してくれるよね。

 根拠はないけど、そんな気がする。

「ねえ、菜穂。これからプリクラでも撮りにいかない?」

 あたしは、明るい顔で訊ねた。

「プリクラって何? ひょっとして、大人が入るようないかがわしい店」

「あんたさあ。どこをどう考えたら、そういう発想になるのさ」

「だって、佳奈ちゃんだからね。そういう店とか出入りしてそうだもん」

「その認識、今すぐ変えて」

「あはははは。冗談だよ。佳奈ちゃんもそうムキにならないで」

 本当に冗談だったのか。どうも疑わしい。

「それよりプリクラって、本当に何?」

「簡単に言えば写真を撮る機械」

「三分間でできる証明写真のようなもの?」

「違う! もっとかわいいやつ」

 誰がすき好んで、二人で証明写真なんか撮るんだよ。まったく。

 あたしは、財布を取り出すと、その中から実物をとりだした。ちょうど去年の冬に千歳と撮ったものだ。

「ほら。こういう写真がでてくるんだよ」

「うわあ。ちっちゃいんだぁ。でも、たしかにかわいいね」

「だろ」

「この佳奈ちゃんの隣にいる子って、以前に話していた千歳ちゃん?」

「あ……うん」

「佳奈ちゃんも、とってもいい表情してるね」

 あたしは、軽く唇を噛んだ。

 いい表情してる、か。

 確かにそうだろう。あの時のあたしは、とても充実していたんだから。

 でも、最近菜穂に会うまでは、充実とは無縁の生活をしていた。

「あのさあ、菜穂。ひとつ聞いてもいい?」

「なに」

「あたしの今の表情って、いい感じに見える?」

 唐突な質問に、菜穂は口許に指をあてて考える。

 それからしばらくして。

「悪くはないよ。……ただ、少しだけ翳りがあるかな」

「…………」

 言葉に詰まった。

 心の中が見透かされたようで。

 こんな質問するんじゃなかったと、少し後悔する。いつものようにとぼけた答えをかえしてくれる方が、よほど気が楽だったのに。

「わたし、余計なこと言った?」

 彼女の静かな声が、耳に染み入る。

 あたしは首をかぶり振った。

「別にぃ。そんなことよりプリクラ撮りに行こう。案内するし」

 早足で歩き出す。菜穂も慣れたもので、ピッタリとついて来る。

 街の賑わいぶりは、いつもと大差はない。

 歳末恒例の福引きとかもやっているようだが、あたしたちには関係のないものだ。

 しばらく歩いているうちに、あたしたちはゲームセンターにたどりついた。

 こぢんまりとした街にしては、比較的大きな場所だ。プリクラの機械も何台か設置されている。

 今は時間が悪いのか、学生たちの姿が多い。勿論、あたしの学校の生徒もいる。

 あたしは空いている機械をさがした。

 その時だ。

「浅木佳奈……さん?」

 急にあたしの名前が呼ばれた。

 あたしは反射的に、呼ばれた方向を振りかえる。

 するとそこには、二人の女性がいた。ついでをいえば、その二人はあたしの通っていた学校の制服をきている。

「……あなた、浅木佳奈さんですよね?」

 おずおずと確認をとるかのように、さっき呼びかけてきたであろう女性が訊ねてくる。

 あたしは、しばらく黙っていた。

 少なくとも二人とも知らない顔ではなかった。あたしのクラスメートだった奴らだ。

 だからといって、親しい間柄でもないが。

「佳奈さん。覚えていませんか。私、クラスメートの野坂美紀です。あなたの後ろの席にいた」

「同じくクラスメートの森田 雪だけど、覚えてる?」

 あたしが黙っている間にも、この二人は勝手に自己紹介をはじめる。

 一体、どういうつもりだ。

 偶然に会ったから、ただ単に挨拶してきたのだろうか。

 でも、仮にそうだとしても、あたしは。

「ねえねえ、佳奈ちゃん。学校のお友達でしょ? 黙っていたら、相手の人に悪いよ」

 菜穂が、あたしの背中を遠慮がちに突つく。

「こんなやつら……」

 一度唇を噛んでから言葉をつづけた。

「……知り合いでも何でもないよ。行くよ、菜穂!」

「でも、この人たち佳奈ちゃんの名前を知ってるよ……」

「余計なこと言わずについてこいっ!!」

 あたしは菜穂に怒鳴りつけると、そのまま踵をかえしてゲームセンターを出る。

 だが、そんなあたしの目の前に、森田 雪が回りこむ。

「ちょっと待ってよ、浅木。私たち、あなたに用があるんだけど」

「あたしには何も用はない!」

「何を怒ってるんだよ。少しは私の……っていうより、美紀の話を聞いてやりなよ」

 森田は、あたしをなだめるかのように、やんわりと言う。

「美紀は浅木のことを心配してるんだから」

「勝手に心配されても迷惑だ。第一、あんたたち何だよ。わざわざゲーセンなんかで待ち伏せしてたのか? それともずっとつけてたのか?」

「そんな事してないって。確かに浅木に用件はあったけど、ここで出会ったのはあくまで偶然。クレーンゲームでこれを取りに来ただけだよ」

 そういって森田は、ウサギだかネコだかわからない、謎のぬいぐるみを見せる。

「可愛いでしょ。よければ浅木にもさわらせてやるよ」

「いらない」

「つれないなあ」

 心底残念そうに、森田は唸る。

 その間にも少し遅れて、菜穂と野坂美紀がやってきた。

「佳奈ちゃん。こっちの彼女、佳奈ちゃんに用事があるんだって。どういう事情があるかは知らないけど、逃げたりなんかしたら駄目だよ」

「か、佳奈さん。少しでいいんです。よければ、お話をしませんか?」

 菜穂に追随して、野坂があたしに呼びかける。おどおどと呼びかけてくる態度は、あまり良い印象を受けない。まるで、嫌々あたしに付き合おうとするようで。

 正直言って、苦々しい気分だった。

 だが、このまま沈黙していても、どうなるものではない。

 あたしは仕方なく、野坂にこたえてやることにした。

「用件あるんだろ。とっとと言いなよ」

「あっ、はい。そうですね。ええと」

「美紀。落ち着いて。ノートだろノート」

 横から森田が口をはさむ。

「そうでした。ノートですノート」

 野坂は、自分の鞄の中から、授業でつかっているノートを数冊とりだした。

 そして、あたしの目の前に差し出してくる。

「これ授業でとっているノートです。佳奈さん、ずっと学校を休んでいたし、勉強のほうも大変ではないかなと思いまして。もしよければコピーでもとって……」

「誰に頼まれた?」

 野坂の言葉をさえぎるように、低い声でそう訊ねた。

 目の前に彼女は「え?」という顔になる。

「だから、誰の差し金でこんなことをやってるのか訊いてるんだよ!」

 あたしの厳しい口調に、野坂はびくっと萎縮する。周囲も一瞬静まり、自分たちに視線が向けられるが、そんなものはいちいち気にもしていられない。

「頼まれたって……私は、誰にも」

「嘘つけ! ほとんど交流もないあんたたちに、こんな親切をされるいわれはないぞ。どうせ担任の差し金で仕方なくやってんだろ!!」

「浅木、いい加減にしな! 美紀も私も、そんなので来たんじゃないよ。私たちは自分の意志で浅木に会おうと思ったんだから」

 森田があたしの肩をつかむが、乱暴に振り払う。

「気安く触るな。とにかく、あんたたちの親切なんてまっぴらだ! もう、あたしの目の前に姿を見せるな」

 あたしは、目の前の二人をキッと睨みつけると、そのままこの場を走り去った。後ろから、彼女らの制止の声が聞こえるが、そんなものには耳をかさない。

 考え無しの行動だっただろうか。

 でも、あの場にいたくなかったのは事実だ。

 あたしは、とにかく走った。嫌なことを忘れるためにも、ただひたすらに。

 今のあたしは、また一人だった。

 菜穂は、ついてきていないように思える。

『あたし、このまま、どこにいくんだろうな』

 見えてこない自分の行き先。自分の心。

 冬のある日。今日は、いつにも増して寒く感じられた。

 

 

 

 

 夜の公園。

 闇を照らす明かりは、数少ない街灯だけ。

 あたし以外に人はいない、音を無くした寂しい空間。

 公園の端にある大きな時計塔は、午後九時をさしていた。こんな時間ともなると、気温はぐっと下がる。

 寒く寂しい公園に人がいないのも、ある意味では当然といえた。

 それにしても。

 あたしは、こんな公園に何故いるのだろう。

 別に用があるわけでもないのに、馬鹿みたい。

 素直に家にでも帰れば、少なくとも寒い思いはしなくても済むのに。

 ま、あえて理由をつくるとするのならば、頭を冷やすためにここにいるのか。

 あたしは、コートの襟元を正した。首筋の隙間から入る冷たい空気が鬱陶しく思えたから。

 一体、夕方の出来事はなんだったんだろう。

 楽しかった午前中と比べて、不愉快な思いをした午後。

 野坂たちが現れなければ、菜穂と楽しい一日が過ごせたものを。

 かけがえのない時間も、壊れる時は一瞬なんだと痛感する。

 わかっていたことなのに。

「……………………」

 いや、本当にわかっていたことなのか?

 違うような気がする。

 かけがえのない時間が壊れたなんて、あたしはまだ思っていない。

 いや、思いたくない。

 菜穂は、またあたしに会ってくれる。

 そんな気がするから、あたしはここにいるんじゃないのか?

 根拠なんてどこにもないが、そんな希望にすがりたい自分がここにいる。

 だから。

「佳奈ちゃん」

 その呼び声が目の前から聞こえた時、あたしは嬉しさのあまり勢い良く顔をあげた。

「菜穂。遅いよ」

 あたしは、白い息を吐き出しながら、いつもの調子で言った。

「どこに行ったのかわからなかったんだもん」

 答える菜穂は、あまり表情が明るいとはいえなかった。

 もっと明確な表現で言えば。

 翳りがある。

 昼間、あたしが菜穂に言われた表現が、ピタリとくる。

 あたしは、そんな彼女に違和感が覚えずにはいられなかった。

「横、座るね」

 菜穂はそう言うと、あたしの隣に腰をかけた。

 そして。

「佳奈ちゃん。どうして逃げたりなんかしたの?」

 あたしの顔も見ずに、そう訊ねてくる。

 正直、聞かれたくもない質問だけに、言葉は簡単にでない。

「野坂さんも森田さんも、とってもいい人だったのに、あんな風に逃げるなんてひどくないかな」

「…………………………」

「もう一度ちゃんと会って、謝ったり、話し合ったりした方がいいよ。ね!」

 菜穂が、あたしの顔を覗きこんで優しく言う。

 でも、あたしは。

「嫌だ。誰があんな奴らに謝るもんか」

 ほとんど条件反射で言ってしまった。

 もっとも後悔はない。こっちにだって、譲れないものはある。

「どうして? あの二人、佳奈ちゃんの事をとっても心配してたんだよ」

「そんなのはあいつらの勝手だ。あたしは心配してほしいだなんて、頼んだ覚えは無い……」

 苦々しく吐き捨てる。

 菜穂の表情が曇る。

 そんな顔しないでくれよ。あたしは、心の中で唸った。

 もう、こんな嫌な会話は止めよう。でないと、あんたもあたしも傷つくだけじゃないか。そう願わずにはいられなかった。

 けれど、菜穂の次の言葉は。

「佳奈ちゃん。あの人たちと……ううん、学校で何があったのか教えてくれる?」

 どうやら、まだ嫌な会話をつづける気のようだ。

 あたしは、軽く目を閉じて唇を噛む。

 いつかは話さねばという覚悟はあったが、ここまでくれば話すしかないのだろうか。

 あたしは迷った。

 目の前の天使は、決して急かしたりはしてこない。ただ、じっと真摯に見つめてくれる。

 菜穂の瞳にあたしが映る。

 翳りがあると言われた、あたしの表情。

 すべてを話したら、翳りは消えるのだろうか?

 あたしはじっと考えた末、とりあえず話してみることにした。

 こいつなら、きっとあたしを理解してくれると信じて。

「以前、千歳の話をしたよね」

「うん。…………空の上に行ったという、佳奈ちゃんの友人でしょ?」

 黙ってうなずいた。

「千歳はね、交通事故で亡くなったんだ。でも、あいつが天国に行った後さ、同じクラスメートだった奴らは、どんどん千歳のこと忘れていってさ…………あたし悔しかったんだ」

 ぽつりぽつりと話し出す。

 思い出される嫌な光景。

 千歳の死後、クラスメートが神妙な顔つきをしていたのは、ほんの数日だけ。

 ついでをいえば、その神妙な顔つきでさえ上辺だけのもの。

 千歳が亡くなったのは、期末試験を数日後に控えた日のことだった。

 葬式に参列した担任の、心無い一言は今でも耳に残っている。

『千歳も迷惑な時期に亡くなったもんだ。これでは皆のテスト勉強がはかどらないじゃないか』

 葬式の裏でそんな冗談を言って、一部の生徒の笑いをとる担任教師。

 いくらなんでもあんまりすぎる。

 言ってよい冗談と、悪い冗談がある。

 そんなことを言う担任の神経も疑ったが、それに従って笑うクラスメートもどうかしている。

 千歳の家族が聞いたら、どんな気持ちになるかわかっているのか。

 人として、どれだけ最低なことを言っているのか、わかっているのか。

 あたしは、怒鳴ってやりたかった。

 でも、出来なかった。その時のあたしは、千歳を失った悲しみで一杯だったから。

 あたしはしばらくの間、家で塞ぎこんだ。昼も夜も問わず、ずっと泣いた。

 そして、数日が過ぎ去った後には、怒る気力も失せていた。

「……それからは、ほとんど学校に行っていない。あんな最低な教師やクラスメートと接するのは御免だったからね」

 あたしはそう言って、菜穂への話を締めくくった。

 彼女はあたしに手を重ねてきた。

 温かい手だと、素直に思う。

「辛かったんだね。佳奈ちゃん」

 優しく澄んだ声。

 あたしは目を閉じて、彼女の優しさに甘える。

「でもね」

 ゆっくりと言葉を紡ぐ菜穂。

「やっぱり、逃げるべきじゃなかったと思うよ」

「え?」

 あたしは目を開けて、菜穂を見た。

 相変わらずの穏やかな表情。けれど、その顔にあるのは優しさだけじゃない。

「これからは、ちゃんと学校にいくべきだよ」

「どうして!」

 あたしは、叫んでいた。

「千歳ちゃんがクラスメートから忘れられるのって悔しいでしょ? だったら、佳奈ちゃんは学校に行って、そういう過った人たちを正さなきゃ」

「あんな最低な連中に何を言っても通じやしないよ。千歳が亡くなった事にも何の感慨も抱かないやつらなんだぞ」

「でも、全員が最低であるとは限らないでしょ?」

「あの最低な担任に従ってる事自体、みんな最低なんだよ」

「だったら、余計になんとかしなきゃ。逃げてるままじゃ、佳奈ちゃんだって、その人たちとなんら変わらないじゃない」

 何を言い出すんだよ。こいつは。

 あたしの頭の中は、ひどく混乱していた。

「考えてもみて。クラスメートの人たちにも、佳奈ちゃんと同じで、担任の先生の言葉が許せないって人がいるかもしれないよ。ただ、そういう人たちは、佳奈ちゃんと同じで何も言えない人なのかもしれないでしょ」

「あたしが……何も言えない人?」

「そうだよ。逃げてる佳奈ちゃんは、担任の先生に自分の気持ちをぶつけてないでしょ。そのままじゃ、何も伝わらなくて当然だよ」

「…………」

「もっと人と言葉を交わさなきゃ。このままじゃあ、佳奈ちゃん寂しいままだよ。人を信じられない、嫌な人間になっちゃうよ」

 菜穂の言葉は、胸に痛い。

 あたしだって自覚はしているつもりだ。自分が正しくない臆病な人間であることぐらい……。

 けれど、人との付き合いが無くなったって、あたしには。

「あたしは、菜穂が側にいてくれればそれでいい」

 自然と口にでた言葉。

 でも、菜穂は。

「……嫌だよ、わたしは。人の気持ちも理解できない佳奈ちゃんといるなんて」

 聞きたくはなかった一言。

 その言葉を引き金に、あたしの冷静さは完全に奪われた。

 

 

 

 

 あたしは、やっぱり馬鹿だ。

 結局、また逃げてしまったのだから。

 菜穂に拒絶されたあたしは、自宅にまで逃げ帰り、ベッドの中でうずくまりながら自分を責め続ける。

 涙が止まらない。

 後悔だらけの涙。

 あたし、菜穂に何てことを言ったんだろう。

 嫌われて当然のことを言った。自分勝手なことを言った。

 挙句の果てには、手痛い言葉を突きつけられ、また逃げ出した。

 結局あたしは、自分の手でかけがえのない時間を壊したことになる。冷静になればなるほど、己の愚かさが身に染みる。

 菜穂の言っていたことは、あまりにももっともすぎた。

 あたしは、担任やクラスメートのことを最低だなどと罵っているが、自分自身、それを批難できるようなものではなかったのだ。

 ぶつけなければいけない気持ちも己の中に抱え込み、何も言わないから、誰にも気持ちは伝わらない。

 本当は誰かに気づいて欲しかったのかもしれないが、仮にそんな機会があったとしても、自分自身でそれをぶち壊しにしている。あたしは周りの全てを最低と決め付け、心を開こうとはしなかったのだから。

 情けない話、自分は人に気持ちをぶつけるだけの勇気なんてなかったんだ。

 担任の心無い言葉を許せない気持ちは正しいとしても、それに異議を唱えることのできないあたしは、正しくもなんともない。

 ただ、ひとつだけ言い訳だけさせてもらうとすれば、やっぱり怖いのだ。

 平気で相手を傷つけるようなことを言える人間に意見して、もっと自分が傷つくような一言をかえされるのが怖い。

 ああ、ホント情けない。

 千歳がいた時は、もうちょっと普通だったろうに。クラスメートとも最低限は普通に接していたはずだし。

 それなのにいまは、いつのまにか自分で壁をつくって、必要以上にすべてを恨んでいる。

 勿論、すべてがすべて、あたしだけが悪いなんて思いたくはない。けれど、自分だけの勝手な価値観にとらわれすぎて、本当なら味方になりえたかもしれないものまで悪く見て…………

 …………ああ、やっぱり馬鹿だ。

 自分の高慢さが生んだ、しっぺ返し。

 あたし、いつまで逃げつづけるんだろう。

 どこまでこんな馬鹿をつづければ気が済むんだろう。

 もう、こんなに泣くの……嫌だ。

『菜穂。あたし、あんたに謝りたいよ。仲直りしたいよ』

 逃げ出した報い。後悔と自責の念が、あたしを押しつぶす。

 もう、どうすることもできないのだろうか?

 菜穂に会って謝りたい。

 でも、その一歩を踏み出すのが怖かった。

 泣いているあたしは、これ以上傷つきたくなかった。

 何が大事かを考えれば、おのずと答えなど決まっていそうなものなのに。

 結局は何の進歩もない大馬鹿者のあたし。

 薄暗い部屋の中。

 今夜は、泣く以外に何もできそうになかった。