第二章  ささやかな時間  [菜穂]

 

 

 カーテンから洩れる日差しが、朝の訪れを告げている。

 佳奈ちゃんの家に泊めてもらって、一晩が過ぎ去ったのだろう。

 それにしても、何だか幸せな気分。

 暖かいお布団にくるまりながら、ぼんやりそんなことを思う。

 冬の朝は、こうやって惰眠をむさぼるのがたまらなく幸せでならない。ましてや、それが久しぶりのことだから、尚更心地よく感じてしまう。

 このまま昼過ぎまで眠っていたいなぁ。

 ふっかふかの枕に顔を埋めながら、ふにゃりと身体を丸める。

 そういえば、佳奈ちゃんはどうしたのかな。

 ベッドの上で、まだ眠っているのかな?

 もっとも、それを確かめる気は全然ない。お布団から出るの寒いんだもん。

 それに確かめるまでもなく、答えは自然と示された。あまり嬉しくない形で。

 部屋のドアが開かれ、誰かが入ってきたのだ。

「菜穂。そろそろ起きなよ。朝食できてるよ」

 佳奈ちゃんの声だ。

 うぅ、もう起きてるなんて反則だよ。しかも、お母さんみたいなこと言ってるし。

「佳奈ちゃん。あと十分だけウニウニさせて」

「何だよ。そのウニウニって」

 呆れたような佳奈ちゃんの声。もっとも、わたしだってウニウニが何なのかわかってる訳じゃない。故に説明のしようもないけど。

「できれば朝食、この部屋まで持ってきて欲しいな」

「あたしは、あんたの召し使いじゃないぞ。ホレ、お寝坊さん。とっとと起きろ!!」

「ひゅえ〜〜〜〜」

 まさにお約束。お布団をひっぺがされる。

 さ、寒い。わたしは自分の身体を抱きながら、佳奈ちゃんに恨めしげな視線を送った。

「ひどいよ、佳奈ちゃん。ショックで心臓止まったらどうするんだよ。準備体操だってしてないんだよ」

「寒中水泳をするわけでもないんだから、そんなのいらないだろ」

「本気なのに」

「はいはい。よ〜くわかったから朝食とりにいこうな」

 全然、本気にされてないよ。

 わたしは、諦めて佳奈ちゃんに従うことにした。

 二階にある彼女の部屋から、一階にあるキッチンへと下りると、テーブルには朝食が準備されていた。

 ベーコンエッグにトースト、それにサラダまで並んでいる。

「わっ、美味しそう。これって佳奈ちゃんがつくったの?」

「まあね。でも、驚くほどたいしたものじゃないだろうに」

「それでも昨日の夕食に比べれば、断然心がこもってるよ」

 昨晩食べたものはコンビニで買ったお弁当とインスタントの味噌汁。贅沢を言える立場ではないが、少しでも手の込んでいる料理の方が、わたし好みかな。

 特に目の前のサラダは、盛りつけからして綺麗なものだ。

「ご両親はもう朝食とられたの?」

「とっくに食べて、仕事に行ってるよ。それよりあんた、コーヒーと紅茶どっちがいい?」

「紅茶。できればミルクと砂糖はたっぷり」

 わたしは、即答した。

「まるでお子様だね。太るわよ」

「大丈夫。天使は太らない体質だから」

 そんな保証はどこにもないが、わたしは、あえてそう答えておく。

「羨ましいわね。殴ってやりたいくらい」

 佳奈ちゃんが冗談っぽく笑いながら、紅茶を置いてくれる。

「さてと、それじゃあいただくとしますか」

 わたしたちは椅子につくと、早速いただきますをした。

「ほい、ジャムも置いとくからね」

「ありがとう」

 わたしは、トーストにペトペトとジャムを塗ると、勢い良くかじりつく。

 ふんわりとした甘みが口の中いっぱいに広がり、たまらなく頬が緩む。

「ねえ、菜穂。今日はどうしようか」

 佳奈ちゃんの問いに、わたしは、きょとんと訊ね返す。

「どうしようって?」

「家の中にいたって暇だろ。どっか遊びにいこうよ」

「うん、いいよ! ……って、ちょっと待って。佳奈ちゃん、学校は?」

「んなもん、サボり」

 紅茶を飲みながら、佳奈ちゃんは平然といってのける。

「駄目だよ。そんな不良みたいな真似しちゃ。未成年のタバコやお酒は、身体に悪いんだよ」

「あのさ、タバコや酒をやるなんて、一言もいってないんだけど」

「でも、学校はサボっちゃ駄目。昨日だっておサボりしてたんだから」

「お寝坊さんのあんたには言われたくないわね」

 うぅ、痛いところを突かれてしまった。

「今から学校に行っても遅刻確定なんだから、行くだけ面倒ってもんでしょ」

「……わかったよ。でも、今度からはちゃんと行かなきゃ駄目だからね」

「おっけー、おっけー」

 佳奈ちゃんは、指でマルをつくって鷹揚にうなずいてみせる。あまり真面目にとらえているとは、とてもではないが思えない。

「それよりどこにいこうか?」

「わたし、あんまりこのへんのこと知らないし、佳奈ちゃんに任せるよ」

「そうだなあ。菜穂はお金持ってないから、ショッピングとか行っても仕方ないよね」

「そうだね。でも、佳奈ちゃんが行きたいなら付き合うよ」

「あたしも別段、欲しいものがある訳じゃないからいいや。別の案を考えよ」

 そう言って佳奈ちゃんは、腕を組んで悩み出す。

 悩み出すくらいなら、遅刻でもいいから、素直に学校にいけばいいのに。

 佳奈ちゃん、どうして学校に行きたくないのかな? わたしはそれが疑問だった。

 けれど、そんなわたしの疑問などよそに、佳奈ちゃんはポンと手をたたく。

「ねえ。菜穂ってさ、歌うの好きでしょ?」

「どうして知ってるの。ひょっとして佳奈ちゃんって、超能力者?」

「違うわよ。あんた、昨日の夜、風呂場で機嫌よさそうに歌ってたじゃない。外の方まで丸聞こえだったわよ」

「えっ、そうなの……」

 うわぁ、ちょっぴり恥ずかしい。わたしは、肩を竦めた。

「でも、聞いたことのない歌ばっかりだったけど」

「仕方ないよ。適当に作詞して、口ずさんでるだけだもん」

「どおりで。歌詞の内容が、どうもクッサイなあって思ってたのよ」

「ひどい」

 わたしは、トーストを頬張りながら拗ねた。

「あははははは。ごめん、ごめん。でも、歌声だけは綺麗だったと思うよ」

「そりゃ、どうも」

 とってつけたように言われても、嬉しくないよ。

「それでさ。提案なんだけど、カラオケにでもいかない?」

「カラオケ? カラオケっていったら、歌を歌う場所だよね」

「そうよ」

「オジサンが、マイク持ったら放さないって場所だよね」

「あんたのカラオケへの認識って、思いっきり偏見ない?」

 わたしは、うっ、と言葉に詰まる。

 だって、カラオケなんて行ったことないんだもん…………

「それよりどうする。昼間だったらカラオケ代だって安いし、たっぷりと歌わせてあげるわよ」

 なかなか魅力的な誘いかもしれない。

 確かに歌うのは大好きだしね。

「うん。わたしも、カラオケに行ってみたいよ」

「そんじゃ、決定ね。食事をとって準備したら、さっそくカラオケに行こう」

 元気よく宣言する佳奈ちゃん。

 わたしも、つられて笑みがこぼれる。

 こうして流されるまま、佳奈ちゃんとの新しい一日が始まったのであった。

 

 

 

 

「わあ〜! これがカラオケ屋さんなんだ!!」

 店に入って、個室に通された後、わたしは感嘆の声をあげた。

「そんな大袈裟に驚くもんでもないだろ」

 着ていたコートを脱ぎながら、佳奈ちゃんが苦笑する。

 けれど、わたしにとっては初めての体験だし、驚くなという方が無理だよ。

「さあ、ドリンクの方も注文したし、さっそく歌いまくるか。菜穂もこれを見て、歌いたい曲をさがすといいよ」

 そう言って佳奈ちゃんは、わたしに分厚い本を渡す。

「ここに書いてあるのって、みんな歌の題名?」

 パラパラっと本をめくって、わたしは目を丸くした。

「その中から歌えそうなのがあったら、あたしに言って。いれてあげるから」

「う、うん」

 こんなに沢山あるんじゃ、さすがに悩んじゃうよ。

 佳奈ちゃんの方は、もう何かを歌い出してるし…………

 しかも、これがまた上手かったりする。

 おそらく流行りの歌なんだろうけど、わたしには良くわからない。テンポも速いし、自分ではとても歌いきれそうにないなあ。

 そんなことを感心していると、佳奈ちゃんの歌は終わってしまう。

 わたしは、パチパチと手をたたいて感想を述べた。

「すごいよ佳奈ちゃん。本物の歌手みたい」

「おだてない、おだてない。これぐらいで歌手になれるんなら、世の中は歌手だらけになっちゃうわよ。そんなことより、あんたは何を歌うのか決まった訳?」

「うぅ、それがまだなの。どれを歌えばいいのかさっぱりわかんないの」

「まったく知らない歌ばっかりなの?」

「知ってるのもあるかもしれないけど、歌の題名までは知らないし」

「そりゃ、まいったなあ」

 わたしだって、まいったよ。

 歌うのは好きでも、世の中の歌には詳しくない。だから、わたしが口ずさむ歌は、いつも適当でデタラメな歌詞なのだ。

「菜穂。童謡とかなら、歌えるんじゃない?」

「童謡って?」

「子供とかが歌う曲だよ。今のクリスマスの時期だったら、赤鼻のトナカイとか」

「あっ、それなら歌えそう!」

「よしきた。子供っぽいあんたにはピッタリかもね」

 ……さりげなく、ひどいこと言われてるような。

 よし、こうなったら、わたしだってうまく歌って、佳奈ちゃんを見返してやるんだから。

 わたしは、彼女からマイクを受け取ると、大きく深呼吸をした。

「さあ、いれるわよ」

「いつでも来て!」

 身構えるようにして待つわたしを見て、佳奈ちゃんが大笑いする。

 少なくともわたしは真剣なのに、笑うなんてひどいよ。

 そう思っている内に、前奏がはじまる。

 うむ、いけそうだ。わたしは、マイクを握り歌い始めた。

 懐かしい歌だった。

 昔はクリスマスの時期になると、よくお母さんと歌っていたっけ。

 そうだ。クリスマスケーキを買って、その帰り道とかも歌っていたよね。あの時も暗い夜道だったけど、わたしの手をひいてくれるお母さんの存在は、トナカイさんの鼻よりも明るく温かかった。

 お母さんの歌声は、今でも耳に残っている。何故か、そういうことだけは覚えている。

 わたしは、そんなお母さんとの思い出を懐かしみながら歌いつづけた。

 そして、いつしか曲は終わる。 

「どうだったかな……やっぱりヘンだった?」

 夢中で歌っただけに、上手く歌えたのかが自分でもわからなかった。

 佳奈ちゃんは、ポカンとした顔をしている。

 そんなに聞くに絶えない歌だったろうか。彼女の表情を見てると、不安になってしまう。

「ねえ、佳奈ちゃん。何か言ってよ」

「驚いた」

「驚いたって、何を?」

「あんたの歌声だよ。まさか、こんなにうまいなんて思わなかった」

「ふう、よかった。お世辞でも嬉しいよ」

「お世辞なんかじゃないって。本当にすごいって感じたんだから!!」

 佳奈ちゃんはそう言って、わたしの肩をパンパン叩く。

「風呂場での歌声も綺麗だとは思ったけど、実際にはここまでとはね。ちょっと甘くみてたわ」

「なんだか、くすぐったいよ」

「あんたの歌を聞いたら、こっちも負けられなくなったわね。こうなったら、ジャンジャン歌って、歌合戦よ」

 急に張りきり出す佳奈ちゃん。

 わたしも、勢いでそれに付き合うことになる。

 そこから先は、もう無茶苦茶だった。

 流行りの曲をどんどん歌う佳奈ちゃんに対し、わたしの方が歌える曲なんてたかだか知れている。

 結局、昔みていた時代劇やドラマの主題化を歌っては、古くさ〜いと爆笑され、演歌を歌えば、腹をよじって涙まで流される始末。

 わたしがまともに歌えたものって、童謡の類しかなかったのかもしれない。

「菜穂。あんたってば、もう最高だよ」

「笑いすぎだよ。佳奈ちゃん」

 むくれ顔をするものの、わたしも、心の中ではかなり楽しんでいる。

 たくさん歌って、たくさん笑って。

 佳奈ちゃんとのそんな時間は、わたしにとっても、かけがえのないものになりつつあった。

「もうそろそろ出なきゃ駄目な時間だな。最後に、一緒に何か歌おうか?」

「いいよ。でも、何を歌うの」

「そうだな。菜穂は、歌いたいものある?」

「赤鼻のトナカイ」

 わたしは、即答した。

「また、それ歌うの?」

「駄目かな。二人で歌うと、きっと楽しいよ」

「……まっ、いいか。じゃあ、いれるよ」

 こうして、わたしと佳奈ちゃんは、赤鼻のトナカイを再び歌った。

 お母さんとの思い出。

 佳奈ちゃんとの思い出。

 やはりこの歌は、この季節に二人で歌うに限るよ。気持ちよく合わさる声が心地よかった。

 それに佳奈ちゃんの歌声もとっても優しい。それは彼女の本当の優しさがあらわれているかのように。

 なんだか、とても素敵。

 わたしは佳奈ちゃんと目が合って、にっこりと微笑んだ。

 

 

 

 

「ああ、ホント、楽しかったぁ」

 佳奈ちゃんが、満足げに言った。

 カラオケ屋を出てから、わたしたちは駅前近くの商店街を歩く。

 時間はまだ午後の三時を過ぎたくらい。通りを歩く人の姿は、それなりに目に付く。

「ねえ、菜穂は楽しかった?」

「うん、とっても。でも、あれだけ歌ったら、さすがに喉が痛いね」

 少なくとも昼前には入って、四時間近くは歌っていたはずだ。

「同感。ついでを言えば腹も空いたことだし、何か食べようよ。菜穂はこれが食べたいっていう希望ある?」

「それだったら、あれなんかよくないかな?」

 わたしはそう言って、目の前のクレープ屋さんを指差した。

 結構流行っているのか、学校帰りの女学生たちが行列をつくっている。

「どうかな。何だか美味しそうだけど」

「………………」

 佳奈ちゃんは、じっとその行列を見つめた。

 そして。

 そのまま無視して、すたすたと歩き出す。

「あれ? 佳奈ちゃん」

 わたしは、慌てて彼女を追いかけた。

「一体、どうしたの?」

「あんな店、行くことない」

 わたしの顔も見ずに、佳奈ちゃんは言った。

「え?」

「あんな店、行くことないっていったんだよ!」

 怒ったように、佳奈ちゃんが怒鳴る。

 その声に反応してか、周囲の人々の視線が集まる。

「ちっ」

 佳奈ちゃんは、舌打ちした。

 何が何だかわからない。

 わたし、彼女を怒らせるようなこと言ったの?

「…………佳奈ちゃん、気に障るようなこと言ったんだったら、ごめんね」

「菜穂が謝ることじゃないよ。それにあたしも、怒鳴って悪かった。…………その、なんだ。あのクレープ屋、たいして美味しくないんだよ」

「そうなんだ」

「ああ。だから、その時のこと思い出したら、急に腹がたっちゃってさ。ははははははは」

 明らかに、無理している笑い。

 怒りの理由は別にある。

 そういえば、クレープ屋さんそのものよりも、並んでいた学生さんたちを見つめていたような気がする。

 嫌な人でも混じっていたのかな?

 それに、さっき並んでいた女学生たちの制服も、どこかで見たような。

 わたしは、記憶をたどった。すると、すぐ答えにいきついた。

 あの制服って、佳奈ちゃんの部屋にかけてあったものと同じだよ。

 ということは、あの学生たちは、佳奈ちゃんと同じ学校の子たちってことだ。

 わたしは、そっと彼女の顔を覗き見る。

「どうかした、菜穂?」

「ううん。なんでもないよ」

 とりあえず、とぼけておく。 

 これ以上、何かを話してくれるって感じではなさそうだ。

 今は深い言及を避けた。

 でも、さっきのクレープ屋さんでの一件。佳奈ちゃんが学校にいかない理由と何か関係あるのかな……。

 わたしの思い過ごしだといいんだけど。

 そんなことを考えながらも、佳奈ちゃんとのささやかな時間は、ゆるやかに過ぎて行くのであった。