礼書

 周から漢までの礼について

 仲尼(孔子)の頃、周が衰えると礼はすたれて楽がくずれて身分の上のものを
下のものが踏越え、菅仲などは大夫の家柄でありながら3つの国からむすめを合
わせ娶った。法度に従い正道を守る者が世間から馬鹿にされ、分超えた振る舞い
をしている者が世にはびこった。
 孔子はこれを正そうとしたが、諸侯に受け入れられず、弟子達も世に出られな
かった。
 秦が天下統一した時、礼儀を取り入れた。
 孝武帝が即位すると、儒術の士を召し寄せて礼儀の制定を行ったが、10年経
ってもできあがらなかった。民の風俗をもとにして礼を制定すると言うものがお
り、これを取り入れて、太初元年、暦法を改正して、服の色を変えて、泰山で封
禅を行った。

 礼の起源

 人は生まれつき欲を持っている。欲から手に入れようするものが手に入らなけ
れば、憤りを持ち、言い争いとなり、乱を招く。古の君子は乱を憎んだので、礼
儀を制定する事で、欲と物の両方が満たされるようにした。これが礼の起源であ
る。
 よって、礼は養ということであり、衣食楽など君子は養うものを得た。君子は
これらに区別をつけて身分、年齢、貧富に差を付けてほどよく保たれるようにし
た。
 身の回りに香を置くのは鼻を養い、きらびやかな装飾は目を養い、音律は耳を
養うためである。士が身を捨てて節義を守るのがかえって生を養うことになり、
費えを惜しまない事が財貨を養う事であり、うやうやしく人に譲る事が身の安ら
かさを養う事であり、礼儀や文の修飾が人の情を養うという事を誰が知っている
だろうか。人がただ生きる事ばかりを考えていると、そんな人はきっと死ぬ。利
益にばかり目をつけていると身を損なう。怠けている事が安楽であるならば、身
に危機が迫る。感情のおもむくままに任せるのが安楽ならば、きっと自滅する。
聖人は全てを礼儀に一致させるから礼儀も性情も得られるが、もし、性情に一致
させるならば両方失ってしまう。儒者は2つとも人に得させようとするものであ
り、墨者は2つとも失わせようとするものなのである。

 礼の用

 王者が礼儀に寄り添う事こそ、天下を統一し諸侯を臣下とするもとであり、礼
儀に寄り添わない事こそは、社稷を失うものなのである。
 楚は武に優れ天然の要害に守られて屈強の兵がそろっていた。それにもかかわ
らず、秦の軍隊に侵入されひとたまりもなく陥落させられた。堅固な要塞がなか
ったためであろうか。その統率のしかたが礼儀の道ではなかったからである。
 紂王は、重く残忍な刑罰を考え、罪もない人を殺した。臣下はふるえおののき
威令が行き渡っていた。しかし、周の侵攻に対して威令が効果を持たず、自分の
民が使えなかった。命令が厳しくなく、刑罰が重くなかったからであろうか。そ
の統率のしかたが礼儀の道ではなかったからである。
 礼儀の道を明らかにして、民を均等に扱い、愛するものだから下の者は上の者
に応じるのである。命令に従わない者に対して初めて刑罰を加えるものだから、
民は罪を自覚する。そのために罰しても罪人は上を恨まない。罪が自分にある事
を自覚しているからである。かくして刑罰は省略しても威光は水の流れのように
行き渡るのである。ただ、礼儀の道によるものである。さればこそ、礼儀の道に
寄り添えば威光が天下に行き渡り、寄り添わねば威光は落ちる。昔、帝堯が天下
を治めた時、1人を殺して、2人を罰して天下が治まったという。威光ははげし
くとも使うことなく、刑罰は設けれど用いる事なしと古典の言葉にもある。

 礼の根本

 天地は生命の源、先祖は人類の源、君師は治安の源である。礼を持って天に遣
え、地に遣え、先祖を尊び君子を仰ぐ。これが礼の根本である。
 礼は粗略なところが始まりで、文飾が完成の姿であり、人の心を喜ばせるとこ
ろが行着くところである。



楽書  音は人心によって起こり生まれる。人心が動くのは物がそうしむけるのである。 物に感じて動くと声が現れる。声が現れると変化が生まれてくる。その変化のし かたが秩序をなした時、これを音という。音を並べて楽器にかけ、干戚・羽旄に 至った時、これを楽という。  喜怒哀楽敬愛の6つの心は、物に感じて後で動いたものである。先王は心に感 じさせるものを慎重に扱った。礼を立ててその志を導き、楽を立ててその声を和 らげ、政を立ててその行為を統一し、刑を立ててその悪事を防いだ。このように 礼楽刑政は窮極のところ一つである。  音は人心によって起こり生まれる。情が心の中に動くと声に現れる。声が文飾 を得た時、音という。故に治世の音は安じて楽しむ。なぜならその政が和らいで いるからである。乱世の音は怨んで怒る。なぜならその政が背いているからであ る。  音は人心によって起こり生まれる。また、楽は筋道を通すものである。故に声 を知っても音を知らないのは禽獣であり、音を知っても楽を知らないのは庶民で ある。ただ、筋道の通せる君子だけが楽を知ることができる。  楽は同調し、礼は差別する。同調する時相和睦し、差別する時相畏敬する。  楽は心の中から出て、礼は心の外から興る。楽は中から出るので、静かで、礼 は外から興るので飾られる。大楽は必ず平易で、大礼は必ず簡素である。楽が行 き及ぶ時、恨みがなく、礼が行き及ぶ時争いをしない。  大楽は天地と調和を同じくし、大礼は天地と節度を同じくする。  楽は天地の調和であり、礼は天地の序列である。調和がある故に百物が化生し、 序列がある故に群物がみな区別される。楽は天の道理、礼は地の道理で制定され る。天地の道理が明らかであって始めて礼楽を興すことができる。  王者は興行が成って楽を作り、政治が定まって礼を制する。  昔、舜は5絃の琴を作って南風の歌を歌った。また、キは始めて楽を作って諸 侯を賞した。このように、天子が楽を作るのは、それで諸侯の徳のある者を賞す るのである。  舜と紂。全て音は人心によって興る。舜は5絃の琴を弾じて天下は治まった。 紂は朝歌・北鄙の音を作り身を喪った。そもそも南風の歌は生じ長ずる者であり、 舜はこれを楽しみ好んだ。そこでその楽は天地と意を同じくし、万国の歓びを得 た。それゆえに天下は治まった。朝歌は時の必要に合うものではない。また、北 は敗で敗れることであり、鄙はいやしいことである。紂はこれらを楽しみ好んだ。 そこで、万国と心を別にし。諸侯は服せず、人民は親しまず天下は背いた。それ ゆえ身は喪われ国は滅んだ。
律書  王者が制度を作り。規則を立てるに当たって。度量法則の一切は六律に基づく。 六律は万物の根本である。  中でも、六律は兵法家に重視されている。ゆえに、敵陣の上の雲気を見て吉凶 を占い、音調を聞いて戦の勝敗を占うのである。  昔、黄帝は神農氏の子孫と戦ってその暴虐を鎮定した。殷の成湯は夏の桀を南 巣山で討ち、夏の乱を平定した。興廃相次いだが、勝者はいつも天の命を受けて 行動したにすぎない。  この後にも優れた兵法家が現れた。晋の咎犯、斉の王子成父、呉の孫武など、 いずれも軍令を明らかにして、賞罰を正しく行い、王を諸侯の覇者とした。  夏の桀王、殷の紂王、秦の二世皇帝など、決して武勇なく、権力がなかったわ けではない。きわめて満足する事を知らず、むさぼりの心がやむ事がなかったの で滅んだのである。  4世の孝文帝は、将軍の陳武達の臣下の南越、朝鮮が敵のなりうることを上奏 したが、孝文帝は匈奴の侵攻を防げない今に人民を疲弊させる事はできない。と 退け、治世をもたらした。  音階は宮から始まり角に終わる。数は1から始まり10に終わり、3は成数と なる。気は冬至に始まって一巡りして、再び生成する。神は形無きから生まれ、 形をとって存在となる。それから、数が形成され、数に基づいて音階ができる。 だから神は気を活用し、気は形をとって現われ、形が整うと類が立てられて類別 が可能となる。  聖人は、常に神の存在を望む。存在する事を望めばこそ神の方でも存するので ある。聖人は存する事を望む人だから、これほど貴い者はいないのである。
暦書  大昔は正月は春であった。春は氷は溶け、地中から生き物が出てくる。草花も 芽を出す。一切の者はここに始まり、四季の順に巡って冬に終わる。そうして冬 が終わると、また鶏が3度鳴いて春が始まる。年は12ヶ月で、十二支の丑にあ たる12月で終わる。日と月の運行で1年が成り立ち、日と月で明である。昼の 明は孟であり、夜の幽は幼である。幽と明は雌雄である。雌雄は交互に現れて正 しい法則をしている。日は西に沈み、東に出る。月は東に沈み、西に出る。だか ら、暦の正月が天の法則によらず、人の道によらないと、万事これは正しくない。  王者が革命を起こして天命を受ければ、最初を慎重に行わなければならない。 暦を改正し、服の色を改める場合には、天体の運行の法則を考え、天の意を受け てそれに従わなければならない。  神農氏以前は古い事である。黄帝は、暦を制定し、陰陽五行の法則を立てて、 その動きを知り、閏月を置いた。そこで天地の神々から万物に至る全てを支配す る官が定められ、五官と称した。五官は秩序を持って治めてので乱れなかった。  ところが、少r氏の勢力が衰えると、南方の九黎族が乱を起こし、神と人の分 限が乱れて区別がたたず、厄災が次々と起こって、天寿を全うする者がいなかっ た。  センギョクは跡を継いで南正の重に命じて天の事を命じて神を次第させ、火正 の黎に命じて地の事を命じて次第させたので、治まった。その後、三苗も九黎と 同じように乱を起こし、南正、火正も職を失ったので、閏月もでたらめになり、 正月もわからず、月の置き方もでたらめになり、暦の法則も乱れた。  堯は、南正の重、火正の黎の後裔で旧制を忘れていなかった者を見つけ出して 登用し、再び暦を明らかにした。堯は舜に天子を譲った時、丁寧に天象の秩序を 正しく保っていくことを訓戒した。同様に舜が禹に天子を譲った時も訓戒した。  暦法はまことに王者が重視するものである。  夏は年の始めを1月とし、殷は12月とし、周は11月とした。夏、殷、周の 三代の年は始めは循環していた。周の幽王、脂、以後は、周王室が衰え、史官も 正しい季節を記録せず、天子は朔日の祭を行わなくなった。そのため暦法の官の 子孫は地方に分散して、中原諸国や夷狄の国に行ってしまい、統一がなくなった。  戦国時代、どうしてこの頃に暦法を考慮する余裕があろうか。この時雛衍とい う者が五行についての伝えを知っており、諸侯に名を知られていた。  秦は6国を滅ぼすために戦争を行い、天子も即位して日が浅く、暦を考慮する ことができなかった。そのため、秦は五徳の推移を究明して、秦は水徳の運を持 つと理解して、黄河に徳水と命名し、10月を正月とした。しかし、閏月などの 詳細についてはまだ真実を知るには至らなかった。  漢は高祖によって立てられたが、高祖の頃は国家の基礎がようやく定まった頃 であった。その後、呂后女帝が立ったりして穏やかであらず、暇がなかった。  孝文帝の時に魯国の生まれの公孫臣が陰陽五行の循環論を上奏したが、張蒼に 誤りとされた。新垣平が雲気に関する術を知っていたので重宝されたが、後に詐 欺をはかったので孝文帝は新垣平の論を廃棄した。  孝武帝が即位すると、方術者を招いて天の28宿を観測させた。巴郡の落下の コウ長公は天象を計算して暦を作り、1月を年始とする夏の暦と同じになった。 そこで、改元して官名も改称して泰山で祀った。
天官書  恒星について  中官  天極星、その中の一つの明るい星は太一といい、太一神がいつもいるところで ある。その傍らの三星は三公にあたり、また子の呼名のつく者の群であるともい う。太一の後ろで曲がって並ぶ四星のうち、末の大きな星は正妃、他は後宮の者 達である。天極星のまわりにを衛っている十二星は親衛している臣で、全て紫宮 という。  北斗七星の杓は竜角につながり、衡星は南斗に対応し、魁の部分は参の先端に 対応している。日暮れ時に寅の方向を指すのは杓の部分で、杓は土地でいえば華 山から西南の地である。夜半に寅をさすのは衡で、衡は中州、黄河、斉水の間の 地に当てられる。明け方になって寅を指すのは魁で、魁は代郡から東北の地にあ たる。斗は天帝の乗車で、天の中央をめぐり、四方を統一し、陰陽の区別を立て、 四季を分け、五行の活動を滑らかにし、二十四節気を動かす。このことは、みな 斗の役目である。  斗の魁の部分の上にある箱型の六星は文昌宮という。上将、次将、貴相、司命、 司中、司禄とそれぞれ名付けられている。  斗の魁の中の部分は貴族の牢獄である。  東官  青竜で、房、心の宿星がある。  心は明堂である。大きい星は天王、その前後の星は子の名ある群である。これ らが真直に並ぶと天王は政治に失敗する。  房は役所で、天駟という。  天市の中に星が多く見えれば豊年で、少なければ凶年である。  大角は天王の宮廷で、両側に三星がありこれを摂堤という。摂堤とは、斗の杓 の部分が指すので、その指す方向で四季や節気を決める。  南官  朱鳥で、権、衡の宿星がある。  衡の太微は日月五星が位置する。まわりを守る十二星は親衛の家来である。  火星が南北の河に入るのは、兵乱が起こり、五穀が実らぬしるしである。だか ら天子の徳は衡についての占いでわかる。  西官  咸池で、天の五廣とう。火星が五廣に入ると日照りとなり、金星ならば兵乱、 水星ならば水害が起こる。  参は白虎である。三星がまっすぐなものは衡石で、下に三星が鋭く光るものが あり、罰という。斬り尽くして絶滅させる事を支配している。  北官  玄武で、虚、危の星宿がある。危は家屋、虚は泣き叫ぶ意がある。  その南に多くの星があり、羽林天軍という。  杵と臼の四星は危の南にある。匏瓜に黒青の星が入って犯すと、魚や塩の値が 高くなる。  牽牛は、祭祀に用いるいけにえである。その北は河鼓で、大きな星は上将、左 右の星は左右の将である。  その北に織女がある。織女は天帝の孫である。  歳星について  太陽と月の運動を観測し、それによって歳星の順行と逆行を推定する。歳星は 東方のしるして、木にあたり、季節は春を支配する。義が行われないと、その報 いは歳星に兆候が現れる。歳星の運行の位置をそれぞれ国にあてはめて、歳星が 位置する国は征伐してはいけない。しかし、人は処罰してよい。暦上の位置より 進んでいると、その国に乱があっても鎮まらない。遅れると国に憂患があり、滅 亡に近づき、国運は傾く。  榮惑について  南方で火であり、夏を支配する。礼儀が行われないと、その兆候は榮惑星に現 れる。位置が狂うのである。現れると兵事があり、消えると軍が解散する。その 位置に国名を対応させ、その国の兵乱、賊の害、疫病、人の死、飢饉、兵戦を知 る。  填星について  斗星の会合する位置から填星の位置を定める。中央で、土のしるしである。夏 の末を支配する。日は戊己である。黄帝であり、徳を支配し、皇后の象徴である。 一年に一宿動く。それに相当する国は吉である。位置しないところにいると、そ の国は領土あるいは皇后を得る。位置すべきところにいないと、その国は領土あ るいは皇后を失う。事を起こし、兵を動かしてはいけない。  一名、地侯ともいい、1年を支配する。1年に13度と112分の5度動く。 日に28分の1度動くので、28年かかって天を一周する。  五星の動き  木星と土星が会合すると、内乱や飢饉が起こり、天子諸侯も為すすべなく、戦 に敗れる。水星の場合は、軍の謀を変更し、火星の場合は早害がおこり、金星の 場合は白衣会、または水害がおこる。金星が南側にあると牝牡と称して、その年 は穀が実り、北側にあると全く実りがない。  火星と金星が会合すると金属が焼け失せる意味が出て、喪失のしるしとなる。 どの場合も大切な事を行ってはいけない。軍事も大敗を招く。土星との場合は憂 の意味があり吉兆を支配する。木星の場合は飢饉があり、戦に敗れて困窮する。  土星と水星が会合すると、五穀は豊かだが事はうまく行かず敗軍することにな る。その位置に相当する国は大事ができない。  三星が会合すると、その位置の国は内外に乱が起こり死人がある。その国の君 主が新しく立てられる。  四星が会合すると、兵乱がおこり、死人が出て庶民は離散する。  五星が会合すると、万事が実行しやすいしるしである。徳のある者はめでたい ことがあり、天下が治まるが、徳の無いものは災害を受ける。  五星が大きく見えると、以上の事が大掛かりとなり、小さいと小規模である。  太白星について  太陽の運行を観測して太白の位置を決める。太白は西方のしるしで秋にあたり 軍事を支配する。殺すと失うの兆候は太白に現れる。  五星がすべて太白に従って一ヶ所に集まるとその国は武力によって天下を平定 することができる。  太白が月の位置にはいると将軍は誅伐され、木星と同じところにあって光が合 わさればその下の国は互いに争う事がなく、兵が動いても戦には発展しない。  太白が他の星と互いに侵し合う時は小さな戦がある。五星とならば大きな戦が ある。侵し合う時に太白の出た方向の国が敗れる。  辰星について  太陽と辰星の会合を観測して、辰星の位置を決める。冬を支配し、日は壬葵に あたる。刑罰が誤って行われると、その兆候が現れる。  辰星が太白と共に東方に出て赤くて光りの角があると外国は大敗し、中国は勝 つ。西方にあって赤くて光りの角があると外国に利益がある。  辰星が太白の周りを巡って戦うように見えれば、大きな戦乱が合って敵軍が勝 つ。  日について  両軍が衝突した時、太陽に笠がかかり、その笠が等しい形ならば、両軍の力は 同等である。厚く長く大きい時は勝利で、薄く短く小さい時は敗北である。  太陽の笠は勝運を左右する。近くは30日、遠くは60日である。  食となる場合、食の始まる方向の国は不利で、再び光が生じる方向の国は有利 である。完全に食してしまうのは天子の位に不吉な事である。日食に相当する方 向、その太陽の位置、日時を合わせてその国の運命を占う。  月について  月が中間を運行すると天下は平和である。北よりの陰の道を行くと水害があり、 陰に関した事件がある。さらにその北三尺のところの陰星の道を行くと、天下に 多くの乱がある。  南よりに行くと、驕慢で勝手な振る舞いがなされる。さらに南の陽星のところ を行くと、天下に乱があり、刑獄関係の事件がある。さらに陽に片寄ると、大早 害や死人がある。  月食がはじまる周期は121ヶ月である。だから、月食は恒常のものであり、 日食は不吉とされる。  雲気について  雲気を観測するに当たっては、仰いで観測すると、3、4百里、平らに望むと 西の果て、千余里から2千里、高地に登って眺めると、下方は地にふれて3千里 に及ぶ。  雲気が獣形をしていると、その軍が勝つ。  雲気が出現したら、5色の色合いを合わせ考えて占い、さらに光沢と、円さと 密度を考える。雲気が現れて動けば必ず占う。占って戦う事は正しい事である。  1年の占いについて  1年の作柄の善し悪しを知るには、心して年始に観測するのである。年の始あ るいは冬至の日は、万物が生まれ育つ気がもえそめる時である。正月の朝は、歳 、時、日、月の4つの始めの時であるから、占うべきである。  また、正月の朝から降雨の日数を計る。降雨が一日あると、1升の収穫がある とする。7升を極限とし、これ以上は占わない。このようにして12日まで計り、 日をそれぞれ1年の12ヶ月に割り当てて、その年の大水や早害の有無を占うの である。  また、王城をめぐること1千里以内の地で天候を占うには、それが天下の侯を 占うのだから、正月いっぱいこれを続ける。月が位置している星宿によって、日、 風、雲についてその国の運命を占う。  冬至は日が極点にまで短くなる。この時、秤の両端に土と炭をかけて平均させ る。炭は重くなって下がり、鹿の角は落ち、蘭は根を出し、泉はわきあがる。こ れでほぼ冬至の日は定まる。完全には日時計の影で決められる。
封禅書  太古には天命を受けた帝王で、封禅をしなかったというようなことはない。特 に兆しもないのに取り行なってしまった帝王もあったし、瑞祥が現れたのを見な がら泰山に出かけないような帝王はなかったかからである。  しかし、後世では天命を受けはしても、治績がゆきとどかなかったり、徳が広 く伝わらなかったり、そういう暇がなく、実行に移されたことがほとんどない。  世が盛んな時は封禅を行い、天地の神々に報いるにも関らず、世が衰えると絶 えてしまい、それが千年余り、近くても数百年開いたので、封禅の儀式はまるで 滅びてしまい、その詳細を知る人はいない。  舜は北斗七星の運行を観測して、日月五星が整っているのを確かめて、上帝、 六宗、山川に祭をし、群神にまでいきわたっていた。  禹もこれにならったが、14代で帝甲孔の世になると、淫乱で鬼神を好み、鬼 神の徳がけがされ二竜が立ち去った。その後、3代で湯が桀を討伐した。湯から 8代の太戊が徳を修めたが、草木は枯れてしまった。その後14代で、帝武丁が 徳を修めたので傾きかけていた殷は安泰になった。しかし、その後5代の帝武乙 が神をあなどって雷に打たれて死んだ。その後3代で帝紂が淫乱の振る舞いをし て周の武王が討伐した。始めのうちはかしこんでいるが、後には次第に怠って侮 るようになるものである。  周が殷に勝ってから14代、世はますます衰えて、礼楽はすたれて諸侯は勝手 に振る舞った。周室は東に移ることとなった。秦の襄公が犬戎を攻めて周を救い はじめて諸侯に加えられた。襄公が西方の辺境を治める事になると、少rの神を 司るものと自分で考えて、白帝をまつった。  秦の文公が夢に黄色の蛇が空から垂れ下がって地面をはうのを見た。文公が史 敦に問うと、史敦は 「それは上帝の仮の姿なので祭ください。」 と申し上げ、白帝に郊の祭をささげた。  おそらく黄帝の時に何か行われた事があり、周の晩年にも郊の祭をしたのであ ろうが、そのような言葉が経書に見えるという事実もないので、有識者は語らな いことである。  秦の始皇帝が帝位について3年経つと、儒者を召し寄せて封禅を行おうとした が、その方法について問うと儒者達の意見が食い違うので、当てにならないとし て自分で道を開いて登って、碑を立てて秦始皇帝の徳を称えた。  漢の高祖が漢王となった後、 「4帝、白、青、黄、赤の帝の祠があるが、天には5帝いるのに4つだけとはど ういう事か。」 と、問うが、誰も答えられず、高祖は、 「これこそ、私のおかげで5つ揃う事になるのだ。」 と言って、黒帝の祠を建てた。  孝武帝は、鬼神のまつりを大切した。天下は治まり、みなは天子が封禅を行う 事を望んでいたが、天子は儒術に目を向けていた。しかし、竇太后が儒学を嫌っ ていたので、士が不正の利益を得ているなどと探りを入れて罪を正した。このた め、儒術の類いは廃止された。竇太后が崩じた後、孝武帝は鬼神をまつり、儒を 貴び、数々の方術を行った。  また、方士をやって蓬莱にいる仙人の安期生のともがらを求めさせ、また、丹 砂やいろいろな薬剤を作る事に専念した。  その後、天子は泰山で封禅を行おうとしたが、儒者達はその方法を正確に知ら ず、器具を作らせても古の物と同じではないと言ったので、天子は儒者を罷免 して用いないことにした。  泰山で封禅を行ったが、それは太一神を祀る礼と同様に行われた。黄帝のころ 奉られた崑崙を再建し、礼を行った。  天子は封禅のまつりをおこなった。  方士は海に出て蓬莱を探し、あいかわらず弁明をするが、神に会えたためしが ない。天子は方士達の回りくどい言葉に嫌気がさしているものの、縁を切らない でいる。今後、方士達の語る神のしるしが現れる事こそみものである。
河渠書  夏の禹は洪水を鎮める事13年、九州の区画を定めて山勢に添って川筋を通し、 土質に従って貢物を定め、九道を貫き通し、九沢を堤で固め、九山を切り開いた。  黄河の水害を治める事を第一として水を導くために、二渠に分けて高い土地に 導き、降水を通り、大陸沢に至り、さらに分けて九河とし、さらに合わせて逆河 とし、渤海に流し入れた。こうして中国は治まった。  秦は治水が好きで、隣国の韓は、これで疲弊させようと水利技術者鄭国を秦に 派遣したが、事が露見した。しかし、鄭国は、 「私は始めは間者でしたが、渠ができれば、それは秦の利益となります。」 と言った。秦は鄭国を用いたので、秦は潤い、ついに諸侯を併せることができた。  漢は、孝文帝の時に黄河が決壊し、補修した。  その後、孝武帝の元光年間に黄河が決壊し、補修しようとしたが、水害は天意 で、それを治めるのは天意に背くと上奏され、それを認めた。そして山東から西 への輸送が困難であるため、渠を引いて灌漑をしようとしたが、うまく水が流れ ず、越人が移されてきたので、そこを与えて僅かばかりの税を納めさせた。  黄河が決壊して20余年、雨が少なく、土が乾いたので、人夫数万人を徴発し て決壊を防がせた。
平準書  漢の始めは、秦時代の疲弊が回復しておらず、財力に乏しく労働も激しかった。 天子もゆとりが無く、人民にもなんの蓄えもなかった。秦の銭は重くて使いにく かったので、改めて鋳造した。黄金一個の重さを1斤とした。法令を減らし禁令 を除くと、民は財貨を積んで買いだめしたので、物価は急騰した。高祖が天下を 平定して後、商人は絹着物を着ることができないなど禁令を敷き、税を重くして 身の程を知らせた。  孝恵帝、高后の時、天下が安定したので再び禁令を緩めた。しかし、商人が官 史等になる事はできなかった。  孝文帝の頃は莢銭が多くなったので、改めて四銖銭を鋳造した。そして、民が 思いのままに鋳造しても良いことになり、銅山を持っていた呉が鋳造したため、 富は天子と等しくなり、これを持って反逆した。かくして、呉の銭が天下に流布 したため、鋳銭を禁止した。  孝武帝の頃は、災害が起こらない限り、誰もが家を持ち、満ち足りていた。そ して皆、贅沢を競い、住居や乗り物、衣服などを身分の上の者にならった。その 後、匈奴が侵攻してきたので、民は兵役に着いたが、長期に渡る戦いに疲弊し、 困窮していった。  匈奴の地を取ると、朔方に城塞を築いた。その頃、西南夷への道を作っており その食料の輸送も遠く、十余鐘を費やして1石が届くような有り様であった。蛮 夷はそれにつけ込んでしばしば侵攻してきた。そこで、奴婢を国家に納入できる 民を募り、その者には力役を免除したり、羊を納める者は、郎とした。このよう な例はこの時から始まった。  黄河が決壊し、その補修を行ってもしばしば決壊するので、その費用はどれだ け使われたか解らないほどである。また、渠を作り水を導こうとしたが、水がう まく流れず、失敗に終わった。経費も巨額に上った。一方で、商人は財貨を貯め て、値が上がれば売り、時が来るまで買いだめした。財貨を貯えているのに国家 の危急に見向きもしないので、民は苦しめられた。  そこで、天子は協議して銭を改め、幣を作って埋め合わせた。銀と錫を合わせ て白金を作り銭を新たに作った。盗鋳は死罪であるにも関らず、盗鋳する民は後 を絶たなかった。白金と五銖銭を鋳造して5年、盗鋳して死罪を待つ者数十万に 登り、大赦があった。罪が発覚しないうちにうやむやになった者は数え切れない。 自首したもの百余万人を赦しているが、半分以上が自首しているとは考えられな いので、天下のみんなが盗鋳したことになる。犯罪者があまりにも多いと処罰を 加えられなくなる。  結局、私財を裂いて国家を助ける者が無く、白金の価値も下がり、すたれてし まった。御史大夫の張湯は身分が高く、政治を切り盛りしていたが、彼が死んで も民は知らぬ顔であった。  郡国で銭を作らぬように禁令を敷き、三官の銭でなければ通用しないようにし、 以前に鋳造した物は全て回収した。銅を三官に送らせる事で、新しい銭の鋳造は 民が行いにくくなり、鋳銭の費用も割に合わなくした。