三皇本紀 庖犠氏は風姓で、燧人氏に代わって、天位を継いで王となった。庖犠氏は蛇身 人首で聖徳があった。仰いでは天象を観察し、伏しては地法を観察し神明の徳に 通じた。書契をつくって結縄政治を変えた。はじめて婚姻制度を作り、網を結ん で漁猟を教えた。民は伏し、牛・羊・豚などを飼い、厨で料理し、神や先祖を祭 った。木徳王といわれた。 女カ氏もまた風姓であった。女カ氏は庖犠氏に代わって王位についた。そして 女希氏と称した。女希氏は庖犠氏の制度を用い、楽器を作った。女希氏も木徳王 という。 諸侯の共工氏が知謀に優れ、刑罰を用いたので強大になり、覇者になり自ら水 徳王を称した。そして、洪水をおこして木を押し流し、木徳王の天下を奪おうと した。しかし、火徳王祝融との戦いに敗れ、不周山に頭をぶつけて不周山を崩し た。天を支える柱が折れ、地をつなぐつたが切れて天地が傾いた。女希氏は五色 の石を練って天を補い、大瓶の足を切って地をつないだ。 女希氏が没した後、炎帝神農氏がおこった。神農氏は姜姓である。母は有カ氏 の女で、少典の妃であった。炎帝は牛首人身であった。火徳王であったので炎帝 という。炎帝は火の字を使って官名をつけた。そして、農耕道具を作り、耕作を 広め、百草をなめて医薬を発見した。市を開き、物々交換をして夕方帰る事を教 えた。はじめ陳に都し、曲阜に移した。王位について120年で崩じた。長沙に 埋葬された。
五帝本紀 黄帝は少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。当時は神農氏の時代であったが、諸 侯は互いに争っており、神農氏はこれを征伐できなかった。しかし、軒轅がこれ を征伐し諸侯は軒轅に従った。さらに、炎帝の子孫と争い、これに勝利し諸侯は 軒轅を天子とした。これが黄帝である。 皇帝は天下に従わないものを征伐し、平定すると立ち去った。そうして中国を 治めた。 帝センギョクは、高陽といい、黄帝の孫である。黄帝には25の子がおり、次 子の昌意の子、高陽が黄帝が崩じると帝になった。これが帝センギョクである。 センギョクは、鬼神を敬事する心を持ち、尊卑を明確にして徳をもって治め、清 潔な誠心で祭祀を行い、諸侯を従えた。 帝コクは、高辛といい、黄帝の曾孫である。黄帝の長子の孫である。帝コクは 天の義に従い、民の急務を知り、仁恵にあふれており、威信があった。暦を制定 して生活の秩序を立て、鬼神を明らかにして敬事した。 帝コクが崩じると、子の摯が即位したが、徳が弱く功がなかった。摯が崩じる と放勲が立った。 帝堯は、放勲といい、帝コクの子である。仁徳は万物に行き渡り、知は神のご としであった。また、質素な日常で九族を親しみ、人々の才能に応じて官職を与 えて規制した。 義氏、和氏に命じて天の理に従って日月星を数えさせて、四時の運行に則り、 種まき、収穫の時を人民に授けた。義仲を郁夷に移住させ、日の出の時刻を計っ て春耕の次第をたてさせた。義氏の三子、義叔を南交に移住させ、夏の農耕を定 めさせた。義叔は、昼の最も長い日を夏至と定めた。和氏の二子、和仲を西土に 移住させ、秋の収穫のてだてを導いた。和仲は、昼と夜の長さの等しい日を秋分 と定めた。和氏の三子、和叔を北方に移住させた。和叔は、昼が最も短い日を冬 至を定めた。 1年を366日に定め、3年に一回閏月をおいて四時を正した。 帝堯は、即位して70年たって舜を見出し、その20年後年老いて引退し、舜 に天子の政を行わせ、さらに28年後崩じた。 虞舜は、名を重華という。帝センギョクの父、昌意から7世である。重華の母 は早くに死に、父の瞽叟は後妻を娶り、その子象を愛し、常に舜を殺そうとして いた。30の時に帝堯に見出された。帝堯は、女2人を舜に娶わせてた。20年 して舜が天子となり、帝堯の跡を継いだ。帝堯の臣、禹、皋陶、契、后稷、伯夷、 キ竜、垂、益、彭祖らが挙用されていたが、分担する職務が無かったので、舜は 彼らを12牧に命じた。 禹は、司空に任じられ、治水を行った。弃は后稷に任じられ、農事を司った。 契は司徒に任じられ、5常の教えを広めた。皋陶は蛮夷が侵入し逆臣がいるため、 士に任じられ、刑罰を司った。垂は百工を司る共工に任じられた。益は山林川沢 を司る虞に任じられた。そして、朱虎、熊羆を副官にした。伯夷は秩宗に任じら れた。キは典楽に任じられた。竜は納言に任じられた。みなそれぞれの官職で功 業を成就した。彼らの中では禹が最も功績を上げた。 虞舜は、帝位に即いて39年で崩じた。虞舜は、子の商均が不肖の子であった ので、禹に天意を授けたが、禹は辞退し、商均に譲った。しかし、諸侯は禹に帰 したので、禹は天子になった。
夏本紀 夏の禹は、名を文命という。禹の父は鯀、鯀の父は帝センギョクである。帝堯 の時に洪水があり、帝堯は治水のできる人物を求めた。群臣、四獄は、鯀を推挙 したが、9年たっても洪水はやまず、帝堯はさらに人物を求めて舜を得た。舜は 鯀の子、禹を推挙した。禹は鯀の後を継いだ。帝堯が崩じて帝舜が即位し、禹は 司空に任ぜられた。しかし、禹は、契、后稷、皋陶に譲った。 帝舜曰く、 「よい。そなたは出かけてそなたの仕事に力を尽くせ。」 禹は、ついに益、后稷とともに帝の命を奉じて、諸侯、百官に命じて人夫を集 めて、全土に配置して水土を治め、山々をめぐって木柱をたてて山名を表記し、 高山、大川の格式を定めた。こうして九州を開拓し、全土に道を通し、沢に堤防 を築き、山を調査した。益に命じて民衆に低湿地に植える稲を与え、后稷に命じ て民衆に食料を与え、食料の不足しているところは、余っているところから補給 させた。 また、禹は、九州を巡回した。そして、九山をおさめ、九川を導いて水路を定 めた。かくして九州は等しく治まった。天子はこの功績に土地を賜って諸侯を封 じ、その土地にちなんで姓を賜った。 帝舜は禹を天に推薦して後嗣にした。その17年後、帝舜は崩じた。3年の喪 が終わると、禹は舜の子、商均に遠慮して、朝を辞して陽城に退いた。しかし、 諸侯は商均のもとを去って陽城の禹のもとに入朝した。そこでついに禹は天子の 位に即いて、南面して天下の入朝を受けた。国号を夏后といった。姓はジ氏であ る。禹は、皋陶に政治を委ねようとしたが、皋陶が死んでしまい、益を挙げて政 治を任せた。その10年後、禹は会稽で崩じ、益に後を譲った。3年の喪が終わ ると益は辞して禹の子、啓に譲って箕山に隠棲した。啓は賢人であったので、天 下は啓によせていった。かくて、啓は天子の位に即いた。これが夏后帝啓である。 啓は、有扈氏が服従しなかったのでこれを討ち滅ぼし、天下の諸侯は皆入朝する ようになった。 啓が崩じて子の太康が立ち、次に中康が立ち、この時、義氏と和氏が酒に溺れ て職を勤めず、天時を廃して時の甲乙を乱した。胤が君命を受けてこれを征伐し 「胤征」をつくった。中康が崩じた後は、相、少康、予、槐、芒、泄、不降、ケ イ、キン、孔甲と順に帝が即位した。孔甲は、好んで鬼神に比し、淫乱をことと した。夏后氏の徳は衰え、諸侯が背いた。時に天が2匹の竜をつかわしたが、孔 甲はこれを養えなかった。帝堯の子孫、陶唐氏の劉累がこれを養った。その後、 1匹が死んだので、劉累が孔甲にその肉を差出した。これがおいしかったので、 孔甲はさらに肉を要求した。しかし、劉累はそれ以上竜の肉を得られなかったの で、恐れて立ち去った。 孔甲が崩じた後、皋、発、履癸と順に即位した。履癸は、桀である。孔甲の時 代から、夏后の徳は衰え、桀に至っては徳を治めず、武力を持って百官を傷つけ た。そのうちに湯を召し寄せて夏台に捕らえたが、後にこれを釈放した。湯は徳 をおさめたので、諸侯が皆湯についた。湯は、ついに兵を率いて夏の桀を討った。 桀曰く、 「あの時、湯を夏台で殺してしまわなかったので、このような事になり後悔して いる。」 かくて、湯が天子となり、夏に代わって天下の諸侯を入朝させた。
殷本紀 殷の契は、簡狄という。有ジュウ氏の女で、帝コクの次妃であった。 契は、禹をたすけて治水に従事し、商に封ぜられて、子という姓を賜った。契 の子孫で、天乙がたった。これが成湯である。 成湯の時代は、夏の桀が暴虐な政治を行い、酒色にふけっていた。そして、諸 侯の昆吾氏が反乱した。湯は討伐軍をおこして諸侯を統率し、昆吾を征伐し、桀 を征伐した。伊尹が勝利を天下に報じ、諸侯は湯にことごとく服従した。 湯の子孫は徳をもって治めたので、諸侯は殷に帰した。 しかし、中丁以降の帝は嫡子を廃して弟や子を立てたので、弟や子は帝位を争 って帝位に即いたので殷は衰えた。帝武丁の時代に武丁が傅説を召し出して重く 用いた。殷は大いに治まった。 しかし、帝乙の時代には殷は衰えた。帝乙が崩じ、少子の紂が立った。紂は優 れた才能を持っていたが、その才能を誇って人々は自分以下であると思っていた。 酒を好んで淫楽し、兄の微子啓の諌めも聞かず、国を乱した。 周の武王は諸侯を率いて紂を討ち、周の天子となった。殷の後裔は諸侯に封じ られて周に属した。 武王が崩じると、紂の子、武庚が反乱したが成王に誅滅された。微子啓は宋に 立てられて殷の後を継いだ。
周本紀 周の后稷は弃という。その母は有タイ氏の女で、姜原という。姜原は、帝コク の正妃であった。帝舜は弃を挙げて農師に任じた。弃は号して后稷といった。別 姓は姫氏である。 弃の子孫、古公亶父は徳を積んで民を治めた。古公の少子季歴の子、つまり古 公の孫は昌といった。昌には聖端があったので、古公は昌を立てたかった。それ を知った長子の太伯と次子の虞仲は亡命した。古公が死んで季歴が立った。季歴 は父の遺言に従って徳を治めた。季歴が死んで昌が立った。これが西伯である。 西伯は后稷の業に従い、古公、季歴の法にのっとって治めた。人々は西伯のも とに帰属した。殷の帝紂は、諸侯が西伯に従うのを恐れて西伯を幽囚した。しか し、諸侯が美女や文馬、珍品を献上した。帝紂は喜んで西伯を釈放した。 西伯が崩じると、太子の発が立った。これが武王である。謚して西伯を文王と した。武王は太公望、周公旦等とともに文王の後を継いだ。殷の紂の暴虐がはな はだしくなると太公望に命じて討伐した。紂は敗北して自ら焼死した。殷は武王 の弟管の叔鮮、蔡の叔度に命じて滅んで治めさせた。 武王が崩じて太子の誦が立った。これが成王である。成王はまだ年少であった ので、周公が摂政となって治めた。しかし、これに疑いを持った管の叔鮮、蔡の 叔度が、殷の紂の子武庚等と反乱した。周公は成王の命でこれを征伐した。そし て、微子啓に武庚に代わって殷を治めさせた。成王が成長すると、周公は政権を 成王に返した。 脂、の時代、脂、は利を好んだので周は衰え、王は諌められても聞かなかった ので国内には政治に発言する者がいなくなった。 脂、が崩じ、太子の静が立った。これが宣王である。宣王は文王、武王等にの っとり政治を行ったので、周は回復した。 しかし、宣王の子、幽王の時代に地震や洪水が起こり、伯陽甫が周が滅ぶこと を予言した。幽王は、申后と太子宜臼を廃して襃ジを皇后にし、その子伯服を太 子にした。申侯は怒って兵を挙げ、諸侯は申侯に従ってともに宜臼を太子にした。 これが平王である。 平王が立つと周室は衰退し、諸侯の強い者が弱い者を併合した。特に斉、楚、 秦、晋らが強大になり、政治の影響もこれらの国に左右されるようになった。 顕王の時代、秦の恵王は王と称し、その後、諸侯もみな王を称するようになっ た。 赧王の時代、東周と西周に分かれて治めることになり、赧王は西周にうつった。 秦が強大になり、諸侯をことごとく征圧していった。秦の荘襄王が東西周を滅ぼ した。かくて周王室は絶えて秦のものとなった。
秦本紀 秦の先祖は帝センギョクの後裔である。大費は禹とともに治水を行った。その 功で帝舜から、エイ氏という姓を賜った。大費は2人の子を生んだ。1人は大廉 といって鳥俗氏の祖で、もう一人が若木といって費氏の祖である。 大廉の子孫の蜚廉は、優れた走者で、その子悪来は剛力の持ち主であった。父 子ともに殷の紂に仕えた。しかし、周の武王が紂を討ったときに悪来も殺された。 蜚廉は他にも子がおり李勝といった。 李勝の子孫の造父は徐の偃王の乱を収拾し、その功で周の繆(穆)王に趙城に 封じられた。かくして趙氏とになった。悪来の子孫も造父の功のおかげで趙氏を 称していた。悪来の子孫で非子は功によって周の孝王より秦の地を与えられ、ふ たたびエイ氏の祭祀を継いだ。号して秦エイといった。 穆公の時代、晋を討ち晋君夷吾を捕らえ、夷吾の太子圉を人質にして夷吾を返 した。また、戎王を討ち、その領土を併合し西戎に覇を唱えた。 視、公の時代、晋が乱れ、その領土は趙、韓、魏が三分して得た。 孝公の時代、天下は強国、斉の威王、楚の宣王、魏の恵王、燕の悼公、韓の哀 侯、趙の成侯の6国があった。また、小国10余りがあった。周王室は衰弱し、 諸侯は互いに争って領土を併合していた。秦は雍州の地にあり、中国諸侯の盟に あずからず、夷狄と同様の待遇を受けていた。 孝公が崩じ、子の恵文君が立った。斉の威王、魏の恵王が王位を称した。魏と 戦い、魏はことごとく領地を秦に献じた。韓、趙、魏、燕、斉が匈奴を率いて共 同で秦に攻めて来たが、これを破った。また、楚を攻めて漢中を得た。 恵文君が崩じて、その子武王が立った。韓、魏、斉、楚、越が秦に服従した。 武王には子がなく、武王が死ぬと異母弟の昭襄王を立てた。昭襄王は燕に人質 に出されていたが送り返されたので王位に立つことができた。昭襄王は西周を攻 め、西周の君を周に帰した。周の民は東に逃亡し、周の宝器は秦に搬入され、周 は滅びた。天下の諸侯はみな来朝し服従した。魏がそれにおくれ、秦は魏を討ち 魏は秦に服した。 昭襄王の死後、子の孝文王が立ったがまもなく死に、孝文王の子、荘襄王が立 った。荘襄王は徳を施した。東周の君が諸侯とともに秦に謀反を謀った。しかし、 呂不韋に命じて誅罰を加えその領土を没収した。 荘襄王が死んで子の政が立った。これが始皇帝である。始皇帝は天下を併せて 36郡とし、始皇帝を称した。 始皇帝が死んで、その子胡亥が立った。これが2世皇帝である。その3年に、 諸侯は秦に背いた。趙高が2世皇帝を殺して子嬰を立てた。子嬰が立って1ヶ月 後、諸侯がこれを誅殺し、秦は滅んだ。
始皇帝本紀 秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子である。荘襄王は趙の人質になっていた。その ころ呂不韋の妾をみて、その美しさに悦んで娶った。その子が始皇帝である。始 皇は、秦の昭王48年正月に邯鄲で生まれた。生まれると、政と名づけられた。 姓は趙氏である。13歳の時、荘襄王が死んで政が秦王となった。 当時の秦は、西は巴・蜀・漢中、南は宛・郢、北は上郡以東・河東・太原・上 党郡、東はケイ陽まで至り、東西周を滅ぼしていた。呂不韋が宰相となり、李斯 が舎人で、蒙ゴウ・王キ・ヒョウらが将軍であった。蒙ゴウ・王キ・ヒョウらは 斉・魏・韓・楚・趙・燕を攻め、その領土をことごとく秦のものとした。 王の弟、長安君が反旗をひるがえしたが、これを鎮めた。ロウアイが封ぜられ たが、ロウアイも乱を起こした。乱は鎮められたが、これに呂不韋が坐して罷免 された。呂不韋は秦王12年に死に、密かに葬られた。 燕の太子丹が秦王の暗殺を謀ったが失敗し、斬られた。 秦王の26年、李斯ら曰く、 「むかし五帝が支配した領地は千里四方にすぎずませんでした。そして、諸侯を みな入朝させることもできませんでした。今、陛下は天下を平定し、海内を郡県 とし、法令をしかれました。これは五帝の及ばぬところでございます。」 王曰く、 「上古の帝位の号をとって、皇帝と号する。」 と自ら始皇帝と称した。そして、荘襄王を上皇とした。 郡県制度、文字書体統一、貨幣の統一、度量衡の統一、交通網の完備など統一 政策を完備した。阿房宮、趙・燕などが匈奴防衛に築いた長城建築を推し進めた。 そして、天下を巡遊して各地に石碑を立てた。 厳しい規律を和やらげるように進言した学者を殺し、書物を一部を除いて焼き 払った。始皇帝はすべてを一人で行い、丞相や諸大臣はその命を受け入れるだけ であった。さらに、不老不死を求めて諸国を探索させた。 始皇帝37年、死去した。始皇帝は沙丘で崩じたが、李斯は国都の外で崩じた のでこれが知れ渡ると天下が乱れる事を恐れて喪を隠して咸陽に至った。 太子胡亥が2世皇帝となった。陳勝の乱をはじめ、各地で乱が起こり燕・趙・ 斉・楚・韓・魏も独立した。2世皇帝は丞相趙高に殺された。趙高は子嬰を立て て秦王としたが、子嬰に刺殺された。子嬰は沛公に降ったが、項羽は子嬰や秦の 一族を殺し、秦は滅亡した。
項羽本紀 項籍は下相の人で、字は羽である。はじめて兵を挙げたのは24歳である。叔 父の項梁に学んだ。始皇帝が巡遊して会稽にいたったとき、項羽は一行を見物し、 「あいつにとって代わってやる。」 と言った。 秦の2世皇帝の元年7月、陳勝(陳渉)が反乱を起こした。会稽の守、殷通が、 兵を挙げようと項梁にいった。梁と籍は、殷通を斬ってその兵を得て兵を挙げた。 項羽、項梁は次々と秦軍を撃破し、またその兵を吸収した。 項梁は、陳渉が敗れると、楚の懐王の孫、心を楚王に立てて懐王とし、楚を独 立させた。そして自ら武信君と号した。項梁は、項羽・沛公に秦軍を破らせた。 秦軍はことごとく敗れたが、項梁は秦の章邯に敗れた。 その後、項羽は懐王に上将軍を任じられた。項羽は楚の軍を率いて章邯を破っ た。章邯は、趙高が秦の2世皇帝に責められるを恐れて罪に陥れようとしている ことに気づいて、項羽と盟約を結んだ。 項羽が函谷関まで秦の地を攻略したころ、沛公が咸陽を破った。これを知って 項羽は大いに怒って戯西まで攻め上った。そして、沛公の司馬、曹無傷の使いか ら、子嬰を宰相に取りたてて珍宝をことごとく保有したことを聞かされて、項羽 は大いに怒って沛公を攻めようとした。しかし、沛公にしたがっていた張良が、 仲を取り持って、項羽を迎え入れた。そして、祝宴を開き、沛公はその隙に軍陣 に帰って曹無傷を誅殺した。 項羽は数日後、秦王子嬰を殺して秦の宮室を焼き払った。懐王を尊んで義帝と した。項王は沛公が反旗をひるがえし天下を取ることを恐れ、沛公を、秦時代の 流亡者の地、巴・蜀・漢中を領土として漢王とした。また、秦の降伏した将軍を 王として各地に封じて漢王の東への道を塞いだ。 漢王元年、項王は義帝討ち、天下を取った。しかし、斉・趙等、各地で反乱が 起きた。この時、漢王は関中を平定し、東へ進軍しようとしていた。項王は、斉 ・趙を平定しようとし、漢を重視しなかった。しかし、漢が楚を討ちにかかると、 軍を分けて、自ら漢を迎撃した。項王は漢軍を次々と討ち破り漢王を敗走させた。 この時、漢軍は兵力・食料は多く、項王の兵は疲弊していた。漢王は好機とばか りに、陸賈を使者に項王と盟約を結び天下を2分し、互いに兵を退いた。しかし、 漢王は、張良・陳平の進言で項王を追撃した。そして、韓信・彭越と協力して楚 を攻略した。項王は城を追われて揚子江まで逃げたが、 「天がわしを滅すのに、どうして渡ったりするのか。」 と、その場で戦った。そして、追跡してきた呂馬童を見て、 「お前はわが旧知の者ではないか。お前に恩賞を施してやろう。」 と自ら首を刎ねた。王翦がその頭を取った。 項王が死んで楚は漢に降伏し、全ての領土は漢のものになった。 漢王は項氏の一族は存続させた。また、劉姓を賜った。
高祖本紀 高祖は沛の豊邑の中陽里の人である。姓は劉、名は邦、字は季といった。父を 大公といい、母は劉媼といった。 容姿は、鼻が高く竜顔で美しい須髯をしており、左の内股に72のほくろがあ った。 壮年になってから、試みに用いられて亭長という役人になった。 かつて夫役で咸陽にいった時に始皇帝が車駕でおでましの時に拝観して、 「大丈夫たるものこうありたいものだ。」 と嘆息した。 単父の呂公が沛の県令と親しく、皆は祝賀を開いた。その時高祖は呂公の目に とまり、娘を与えた。この娘が呂后である。 高祖は亭長という役で、県の命で人夫をリ山に送りとどける役であったが、人 夫は逃亡していく人夫を見て、このままではリ山へ行くまでに一人も残らないと 考え、 「お前達はここを去れ。私も逃げよう。」 と言って逃亡した。 秦の二世の元年の秋、陳勝が兵をあげ、陳に至って王となって張楚となった。 沛の県令は高祖を呼び寄せて迎え撃とうとしたが、高祖は県令を殺した。秦の暴 政に苦しんでいたため、一同高祖を立てて沛公とした。 秦の二世の2年、燕、趙、斉、魏が独立し、皆が王となった。項氏が呉に起っ た。秦が沛を攻めてきたので高祖はこれを破った。高祖は豊を攻めるが、苦戦し 項梁に会い、兵を与えられた。項梁は後に楚の子孫である懐王の孫を立てて楚王 として己は武信君と号した。そして、高祖と項羽に命じて城陽を攻めさせた。高 祖と項羽は大いに秦軍を破り西に攻め進んで雍丘にまで至った。項梁は勢いに乗 っていたが、配下の宋義の諌めを聞かずに攻め進み、援軍を送りつづける秦軍に 撃たれて戦死した。 秦の二世の3年、楚の懐王は項梁の死後、恐れて項羽と呂臣の兵を併せて自ら その将となった。そして、高祖を武安侯に、項羽を長安侯に封じた。 項羽は項梁を殺したのを怨んで、秦軍と大いに戦ったが、その勇猛さに危うさ を感じる諸将が楚の懐王に告げたので、楚の懐王は項羽の代わりに高祖を派遣し た。高祖が西に兵を進めるとこぞって皆が降伏した。項羽は代わりに趙の救援を 命じられた。 さらに、秦の趙高が2世を殺して秦を得ると、高祖は張良の計で秦の将を味方 に引き入れて秦を破り、秦王子嬰は高祖に降伏した。高祖は漢王に封ぜられた。 一方、高祖が関中を平定したと聞いて大いに怒った項羽は兵を関中に進めた。 しかし、兵力で劣る高祖は樊カイ・張良の計で戦うことなく項羽に兵を退かせて た。項羽は西に兵を進めて秦の痕跡がなくなるまで破壊し尽くした。 項羽は楚の懐王が高祖とともに西に進んで関中に入ることを許さず、趙の救援 をさせられたことで天下に遅れをとったことを怨んで、楚の懐王を義帝として即 位させ、傀儡にして自ら西楚の覇王と名乗った。 漢と楚は互いに封国になっていき、2国が両立していった。 韓信は高祖に、 「項羽と互いに天下の権を争われた方が良いでしょう。」 と進言した。 一方、項羽も義帝に遷都を勧めて、その道中の江南で暗殺した。 漢の2年、高祖は韓信の計を用いて楚に進軍し、黄河を渡って洛陽に至った。 その頃、項羽は北方の斉を撃っていたので兵を返して漢軍を討ちに行った。項羽 は漢軍を破って沛を得て、高祖の父母妻子を人質にとった。諸侯は漢が敗れたの で楚についた。高祖は敗れて西に逃げる時、家族を求めたが、逃げ延びて見つか ったのは孝恵だけであったので、孝恵を立てて太子とした。 漢の3年、漢は趙を破り、高祖は張耳を趙王に立てた。 高祖と項羽は黄河に接して再三対峙し、ついに項羽が高祖を包囲した。漢軍は 食料が底をついて戦えなくなり、高祖は城から数十騎を率いて落ち延びた。 高祖は関中に戻って兵を整え、袁生の計に従って宛へ向かった。項羽は高祖が 宛にいると知って兵を進めてこれを破った。高祖は張耳、韓信のもとに落ち延び て、韓信に斉を攻略させて、自分は楚と戦わずに守りに徹した。 漢の4年、韓信は斉を破ったが、そのまま斉王になろうとしたので、高祖は大 いに怒ったが、張良は、 「これを機に韓信を斉王に立てて自力で斉を守らせましょう。」 と言った。高祖は張良を使者に送って韓信を斉王に立てた。 漢の5年、高祖は諸侯の兵とともに30万の兵を率いて項羽と争った。この戦 いで楚軍は大敗して項羽は逃走したが、追撃され東城で殺させた。 その後、高祖は皇帝となり、韓信は楚王となった。天下が平定され高祖は洛陽 に都した。
呂后本紀 呂后は高祖の妻である。孝恵帝と魯元太后を生んだ。 漢の12年、高祖が崩じて太子の孝恵が即位した。 高祖は孝恵が自分に似ていないので、常に太子を廃して寵愛していた戚姫の子 趙王如意を後継に立てようとしていた。呂后は戚夫人と趙王如意を最も怨んでお り、孝恵帝が狩りに出た際に、趙王が幼少で早起きできず1人になったと聞いて、 人をやって毒を飲ませた。戚夫人の手足を切って目をくりぬき、便所に置いて孝 恵帝に人豚といって観させた。孝恵帝は、見て質問して戚夫人であることを知り 大いに泣いて、そのために病気になり、起きることができなくなった。そして、 孝恵帝は毎日酒を呑んで政治を行わなかった。 2年、孝恵帝の兄斉王が来朝した際、孝恵帝は斉王が兄であったので家族の礼 式ととって上座に据えた。呂后は怒って、杯に毒を持った。孝恵帝が飲もうとし た杯をひっくり返したので、斉王は怪しんで飲まずに酔ったふりをした。 7年、孝恵帝が崩じた。孝恵帝には成人した子がいなかったが、太子が即位し て帝となり呂后がすべてを取り仕切った。 元年、諌めた右丞相王陵は帝の大傅を命じられて丞相の権限を剥奪された。王 陵は病と称して官を辞して国へ帰った。呂后に寵愛された人物で朝廷が牛耳られ、 呂氏一族が侯に取り立てられた。かくして、呂后は権力を欲しいままにした。 4年、孝恵帝の太子は帝になったが、母の宣平侯の女が孝恵帝の皇后であった が、子がなく、偽って妊娠したふりをして後宮の美人の子を引き取って子と称し、 実母は殺して太子に仕立てたとう事実を知り、怨んだ。 呂后は、この事を知って、帝を幽閉し病と偽ったので、誰も帝に謁見すること ができなかった。その後、帝は廃され、幽閉されたまま殺された。そして、常山 王義を立てて帝として、名を弘と改めさせた。元年と唱えなかったのは、呂后が 政事を仕切っていたからである。 8年、趙王如意に祟られていると卜われた。そして、呂后は病むようになった。 7月には呂后は病重くなり、呂産、呂禄を呼んで、 「高帝が先に天下を平定された時、劉氏以外のものが王となれば天下は協力して これを討て。と盟約されました。呂氏が王となっており、帝も幼少ゆえに乱が起 こるでしょう。軍隊を掌握して宮廷を守るように。私の喪にかまけていてはいけ ません。」 と言って崩じた。 朱虚侯劉章と弟の東牟侯興居はともに斉の哀王の弟で、長安に住んでいた。呂 氏の専横に乱を起こそうとしていたが、高祖のもとの臣下が呂氏についているの で事を起こせなかった。斉王は、呂后が崩じて諸侯に不当に王になっている呂氏 を誅殺しようと檄を飛ばした。諸侯は呂氏が乱を起こすのを待って誅滅しようと したが呂氏は諸侯を恐れて乱を起こさなかった。呂禄は軍を去り、それを知らず に呂産は乱を起こそうとしたが宮中に入れず、大尉周勃も呂氏一族に勝てないこ とを恐れて朱虚侯劉章に宮中の帝を護衛するよう言った。朱虚侯劉章は宮廷に入 った所で呂産と会い、呂産の軍は散り散りに逃げて戦うことはなかった。朱虚侯 劉章は、追って郎中府の便所で呂産を殺し大尉周勃に報告した。大尉周勃は、 「呂産を誅殺したからには天下は定まった。」 と言って、呂氏一族を捕えて斬り捨てた。 大臣達は相談して代王を帝に立てようとした。東牟侯興居と汝陰侯滕公は宮中 に入り、帝に、 「あなたは劉氏ではありません。天子に立つべきではないのです。」 と言って立ち去らせた。 かくして代王を帝は帝に立ち、23年で崩じた。孝文皇帝と謚した。
孝文本紀 孝文皇帝は高祖の中子である。高祖の11年春に代王に即き、高后の8年に高 后が崩じ、丞相陳平、大尉周勃らに迎え入れられて即位した。 孝文皇帝2年、丞相陳平が死に大尉周勃が丞相になった。 孝文皇帝3年、丞相周勃は丞相を免ぜられて領国を巡回した。漢は匈奴と盟約 を結んで辺境を侵害しないようにしたが、匈奴の右賢王がそれを侵したためこれ を丞相灌嬰に討たせた。 孝文皇帝13年、斉の太倉令淳于公が法に触れ長安の獄につながれた。その末 女が父の罪をあがない、新生の道を歩めるように上奏した。孝文帝はその心意を 憐れんで、有虞氏の時代を習って、手足を切ったり、肌を傷つけるような生涯消 えぬ刑罰である肉刑を廃止した。 また、農には天下の本であるとして、田に関する租税を廃止した。 孝文皇帝14年、匈奴が侵攻したので衛将軍周舎、車騎将軍張武が迎え撃った。 帝自らも将として出陣しようとしたが、皇太后が止めた。 孝文皇帝17年、後元元年と改元して天下の民に酒食を賜うて祝宴を開いた。 後元6年、匈奴3万と戦い、張武を北地に駐屯させたが、匈奴が兵を解いたの で撤収した。 蝗の害があり、恵みをたれて人民に利を図り、国庫を開いて穀物を貧民に与え 民に爵の売買を認めた。 孝文帝は常に民の利を図り、質素な服をまとい、寵愛していた慎夫人にも衣服 を引きずって歩かぬよう誡めた。宮殿も金銀銅で装飾せず墳も築かなかった。節 約して民を惑わす事をしなかった。 後元7年、崩じた。その遺詔は、3日で喪をとり喪服を7日で脱げとし、墓穴 を掘って埋葬するのは将軍張武の任とした。 太子が即位して孝文皇帝と謚した。 孝景皇帝元年、孝景帝は 「初めて天下を取った功ある者を祖とし、初めて天下に治世をもたらした者を宗 とするといわれがある。実に帝の徳厚は天地と等しい。帝の美徳を明らかにすれ ば、祖宗の功徳は記録に残り永久に窮まりないであろう。そして、その舞楽の礼 式をつぶさに定めて奏でさせよ。」 と詔を下した。