劉岱公山 リュウタイコウサン
エン州刺史 董卓討伐軍第四鎮
出身地:??
生没年:??〜192年

司空刺史 曹操の列侯
出身地:沛国
生没年:??〜??年
容姿 :エン州刺史。董卓討伐軍第四鎮。

〜列伝〜  ソウソウのトウタク誅滅の檄に呼応して兵を起こした。第四鎮として洛陽に攻 めのぼった。トウタクが長安に遷都すると、諸侯は洛陽に駐屯した。そこで東郡 太守キョウボウに兵糧の借用を依頼したが応じてもらえなかったので、手勢を率 いてキョウボウを殺したうえその手勢も配下にした。  討伐連合軍が解散した後、諸侯は群雄割拠し、ソウソウにエン州を攻め取られ た時に降伏した。  そして徐州のリュウビ討伐の先鋒として後詰めのオウチュウとともに5万の兵 を率いて徐州へ向かった。徐州から百里あまりのところに布陣したが、河北の戦 況に注意していた。そこにソウソウから進撃せよとの使者が来ると、オウチュウ と先陣を譲り合った。結局籤でオウチュウが先に出て、リュウビに降伏を勧めた が、怒ったカンウが打ってかかりオウチュウは捕らえられてしまった。それを知 ってますます打って出ようとしなかったが、チョウヒが3千の兵を率いて出陣し てきた。ある夜、チョウヒに些細な罪を咎められて殴られ陣中に縛り付けられた 兵士が降参してきたのを受け入れ、夜討ちの策を聞き出した。そして、夜討ちに 対して火を放ったが、これはチョウヒの策で、逆に伏兵に合って散々に討たれて しまい血路を開いて逃げようとした。しかし、そこでチョウヒに出くわし、ただ 1合いにして捕らえられた。  チョウヒに縛られてリュウビのもとに引き出されたが、リュウビに、 「弟が思い違いをして、大変失礼つかまつりました。御容赦ください。」 と詫びられ、オウチュウともどももてなしを受けた。  そして、リュウビ曰く、 「シャチュウがそれがしの命を狙いましたので、仕方なく討ち取った次第で、謀 反の企ては一切ありませぬ。」 と、謀反の心が無いことをソウソウに伝えるように頼まれ、翌日軍勢もすべて返 されて送り出された。しかし、十里ほど行くとチョウヒが、 「捕らえた敵を逃がす手があるものか。」 と襲いかかってきたが、カンウに助けられて 「丞相にわれらの三族が殺されようと二度と参りませぬ。」 と言って逃げ帰った。帰ってソウソウにリュウビの謀反が無いことを伝えると、 ソウソウは怒って斬ろうとしたが、コウユウ曰く、 「あの両名はリュウビの敵ではなく、彼らをお斬りになれば将兵の心を失いまし ょう。」 と、とりなしたので爵録召し上げにとどめられた。  劉岱公山は演義では一人の人物の活躍として書いてあるが、正史では同姓同名 同字の人物が二人おり、この二人は全くの別人である。  董卓討伐軍第四鎮として活躍した劉岱公山は黄巾の乱で192年に落命してい る。もう一人の劉岱公山は、司空刺史として曹操の呂布討伐戦に参戦しており、 その功で曹操の列侯に封じられている。