第百十一回  キョウイはカコウハに 「トウガイは弱年ながら強敵でございます。これまでとは違います。」 と諌められたが、聞かずに自ら先鋒に出て隴西を攻めに行った。しかし、トウガ イの陣を見て、驚いて本陣に戻った。  トウガイはチンタイとともに陣を布いて待っていたが、蜀軍は仕掛けて来ない ので、蜀軍は武城山に進んだと考えてチンタイに隴西を守らせて武城山にまわっ た。  キョウイは武城山に向かったが、既にトウガイに待ち受けられて大敗した。ト ウガイ、チンタイに追い討ちをかけられて囲まれ、逃げ場を失った。そこにチョ ウギョクが囲みに斬り込んで来たのでキョウイは囲みをといて逃げることができ た。しかし、チョウギョクは矢を浴びせられて死んだ。キョウイはショカツリョ ウの例にならって自ら後将軍に降格して大将軍の職務を遂行した。  さて、魏ではシバショウが魏主に上奏せずに全てを取り仕切っており、カキの 子で腹心のカジュウに地方の長官が自分に従う者か否かを調べさせた。揚州刺史 ガクチンは彼に従ったが、鎮東大将軍ショカツタンは、大いに怒った。そして、 揚州のガクチンのもとに行って、 「父ガクシンが魏に大恩を受けたことを忘れたか。」 と言って彼を斬り殺した。そして、シバショウの罪状を上奏し、呉に加勢を求め た。  この時、呉の丞相、ソンシュンは病死し、従弟のソンチンが代行しており、彼 はブンキンを案内役にゼンソウの子ゼンエキとゼンタンを主将、ウセンを後詰め に7万の兵を出した。  シバショウは、カジュウの進言で魏主自ら謀反鎮圧に出るよう上奏した。魏主 は断れるはずもなく26万の兵をおこした。  ショカツタンは呉軍と合流し、ブンキンと子のブンオウ、ブンコと一手となっ て迎え討つ。  さて、この勝負どうなるか。それは次回で。
第百十二回  ショカツタンは魏軍を退けたが、呉の兵士達は戦うのも忘れて置き去りにされ た魏の牛馬に飛びついた。そこをシバショウの軍勢に襲われたので寿春に逃げ込 んだ。ゼンタンと子のゼンイはソンシュンに、 「魏を追い返せねば生きてわしの顔を見れぬと思え。」 と言われ、寿春に向かったが、ゼンイは魏軍に囲まれ引き返すこともできず降参 した。そして、ゼンイはシバショウに偏将軍に取り立てられ、恩を感じてゼンタ ン、ゼンエキを魏に投降させた。  ブンキンがショカツタンに、 「兵糧不足故、兵を出して食い延ばしを計ってはいかがでしょう。」 と進言すると、彼は、 「わしを兵から切り放して殺そうというのか。」 と怒ってブンキンを斬り殺した。これを見たブンオウ、ブンコ兄弟は魏に降った。  シバショウは全軍で攻め込み、呉のウセンと出会い、降伏を勧めた。 ウセンは、 「加勢を命ぜられて、役目も果たせせず降参などできるか。」 と怒って戦った。しかし、人馬とも疲れて乱軍の中で死んだ。  シバショウは寿春城に入城し、ショカツタンの兵に降伏を迫ったが、誰一人降 らず斬られた。  キョウイは周りが諌めるのも聞かず、魏の乱に乗じて北伐を開始した。長城の シバボウは討って出たが、破れて城に立てこもった。そこにトウガイが援軍に駆 けつけ救った。キョウイはトウガイと3、40合い打ち合ったが勝負がつかず、 兵を退いた。その後トウガイから挑戦状が送られ、戦いに出ようとするが、トウ ガイは出てこず時間が過ぎていった。  そうしているうちにシバショウが内乱を平定しこちらに向かっているという情 報が届いた。キョウイは仰天して兵を退こうとした。  さて、いかに兵を退くか。それは次回で。
第百十三回  キョウイは援軍到着を恐れて、歩兵を退かせて騎馬に後詰めをさせた。  トウガイは笑って 「追撃すれば彼の計に落ちる。」 と言って追うのを止めた。  ここに呉主はソンチンの横暴に対して兵をおこそうとし、密詔を黄門侍郎ゼン キに与えた。しかし、ゼンキが妻に話すと、ゼンキの妻はソンチンに密告したの で事が露見し、ソンリョウは呉主から下ろされ、先帝に免じて会稽王にされた。  ソンチンはソンケンの6男、ソンキュウを呉主にし、永安元年と改元した。  ソンチンは丞相に封ぜられ、彼の横暴はますますひどくなった。ソンチンは呉 主に酒を奉って聖寿を祝おうとしたが、呉主は受け取らなかった。ソンチンは怒 って、兵をおこそうとしたが、呉主がテイホウと計って、ソンチンを誘い出して 斬り捨てた。そして、ソンチンに殺されたショカツカク達の墓を作って忠義をた たえた。  そして、シバショウが魏を乗っ取ったら呉、蜀に攻め入るであろうから用心す るように使者を出した。  キョウイはこの知らせを聞いて北伐の上奏をして20万の兵をおこした。キョ ウイはトウガイと陣比べをし、トウガイを打ち破ったが、そこにシバボウが斬り 込んできてトウガイを救った。  翌日、トウガイはシバボウにキョウイと陣比べをさせ、その隙に背後から襲い かかろうとしたが、これを読まれて大敗した。  シバボウの進言で、後主とキョウイの仲を裂くために、後主の寵愛している宦 官コウコウを抱き込んだ。そして、コウコウにキョウイが降参するという流言を 流させた。  キョウイは連日戦いを挑んでいたが、後主の帰朝の命に何事か分からぬまま、 兵を退いた。そこをトウガイは追い討ちをかけた。  さて、この勝負どうなるか。それは次回で。
第百十四回  キョウイはリョウカ、チョウヨクに後詰めを命じて追い討ちに備えた。トウガ イはこれを見て、 「ショカツリョウの兵法そのままじゃ。」 と嘆息して兵を退いた。  キョウイは後主に謁見し、トウガイの離間の計であることを告げると、後主は 黙り込んでしまった。そしてようやく、 「朕もそなたを疑ったことはない。ひとまず漢中に戻り魏に異変が起こるのを待 って攻めるがよい。」 と言った。キョウイは嘆息して漢中に去った。  この機にシバショウは自ら蜀攻めをしようとしたが、カジュウに、 「天子は殿を疑っております。今軽はずみに動けば朝廷に異変が起きましょう。」 と諌められた。シバショウは大いに怒って魏主に参内し、群臣一同がそれを迎え て、 「大将軍ほどの大功と徳功なれば、晋公に昇られて九錫を賜ってしかるべきと存 じます。」 と上奏した。魏主は異存はないと言って後宮に戻り、オウケイ達に計った。そし て彼らが諌めるのも聞かずにシバショウを討とうと兵を挙げた。しかし、カジュ ウが率いてきたセイサイに魏主は討たれ、遅れて駆けつけたオウケイも捕らえら れた。  シバショウは参内してソウボウの屍を見ると、わざと驚いて泣き、全ての罪を セイサイに着せて彼の一族までも皆殺しにし、オウケイの一族も処刑した。  シバショウは、カジュウに王位に即くよう勧められたが、ソウコウを帝に即け た。ソウコウはソウカンと改名しシバショウを丞相、晋公に封じた。  キョウイはこれを知って呉と兵をおこそうとした。トウガイの配下、参軍のオ ウカンが 「それがしはシバショウに殺されたオウケイの甥でございます。この度、将軍が 征伐の軍をおこされたとお聞きして、5千の軍勢を率いて参じました。お指図に 従って奸族を討ち滅ぼし、叔父の恨みを晴らしたく存じます。」 と偽って投降した。キョウイは偽りの投降を見抜いて彼に兵糧輸送を任せた。そ してオウカンがトウガイに送った密書を書き替えて、オウカンが兵糧を引き入れ た事を伝え、5日早く蜀陣を襲わせた。そして魏軍が押し寄せたところをフセン に襲わせて大勝し、オウカンの持っている兵糧を奪い返しに向かった。  オウカンはキョウイが来ると知ると、漢中に攻め入った。キョウイは、オウカ ンが魏に帰るものと思っていたので、慌ててトウガイを攻めるのをやめて漢中を 守りに行った。オウカンは四方を囲まれ行き場を失い、黒竜江に身を投げて死ん だ。  キョウイは再び返して出陣せんとした。  さて、勝負はいかに。それは次回で。
第百十五回  キョウイは準備が整うと後主に北伐の上奏を出した。  ショウシュウが諌めたが、後主が北伐を許したので、彼は病と言って 家に引きこもった。  キョウイはリョウカを守備に置いてカコウハに先鋒を命じた。しかし、カコウ ハはトウガイに攻めるのを読まれて、城内に攻め入った時にシバボウに矢を射か けられて射殺された。  シバボウが討って出たが、そこにキョウイが到着し彼を打ち破った。その後、 両軍睨み合ったが、チョウヨクが、 「魏の軍勢はここに集まっておりますゆえ、将軍はここで対峙され、それがしが 長安までの陣を奪って参ります。」 と進み出たので、キョウイは彼に急行するよう命じた。しかし、トウガイはこれ に気付いてチョウヨクを討ちに行き、キョウイもトウガイが陣から消えたと知る とチョウヨクの加勢に向かった。チョウヨクは、トウガイに襲われたが、キョウ イが駆けつけて来たので、魏軍は打ち破られた。  ここに後主は宦官コウコウの言葉を信じて、またもやキョウイを成都に呼び戻 した。キョウイは怒ってコウコウを排除しようと考えたが、後主が彼をかばうの でそのまま引き下がった。  キョウイは、漢中で屯田をする事を上奏し兵糧を確保し、兵権を外に置くこと にした。  シバショウは、トウガイ、ショウカイに蜀攻めを命じた。ショウカイは船を造 って呉を攻めるように見せかけて呉を牽制し、蜀攻めの準備を行った。  そして、ショウカイが出陣すると、ショウテイが、 「ショウカイは大望を抱く者で、彼一人に兵権を委ねるのは危険でございます。」 と、シバショウに言った。シバショウは笑って言った。  さて、その言葉は。それは次回で。
第百十六回  シバショウは、 「彼に二心があっても、蜀が彼を受け入れるはずがなく、兵も遠征で早く魏に帰 りたいと思うであろうから彼に従うはずはない。」 と言った。ショウテイは恐れ入って平伏した。  ショウカイはキョチョの子キョギを先鋒にして10万の大軍で蜀に押し寄せた。 トウガイも詔を受けて羌族と組んで隴西から進み出た。  キョウイは魏軍の侵攻を上奏し漢中を守った。後主はコウコウと計ったが、コ ウコウは、 「これはキョウイが功名を上げようとして申してきたもの。それほどお気にかけ ることはございませぬ。」 と言ったので気にかけなかった。その後もキョウイは上奏文を出したがコウコウ が隠してしまった。  先鋒のキョギは道を開いて橋を架け、関に押し寄せたが、連弩を浴びせられて 退却した。これを聞いたショウカイは自ら討って出たが、連弩を浴びせられて兵 を退こうとした。しかし、キョギの作った橋が落ち、蜀軍が押し寄せたので、シ ョウカイは命からがら逃げ戻った。そして、キョギを呼んで橋が落ちて死にそう しなったことをなじって打ち首にした。  そして先鋒をリホにして大軍を率いて押し寄せた。  ショウカイは陽安関を守るフセンに降伏を勧めたが、フセンは怒ってショウジ ョに城を守らせて討って出た。しかし、ショウジョが城を開け渡してしまい、フ センは奮闘して死んだ。  ショウカイは定軍山にあるショカツリョウの墓におもむいて祭りをした。  その夜、ショウカイに一人の男が訪れ、 「今朝は鄭重な挨拶を受けてかたじけない。漢が衰えたのは天命故仕方ないが、 蜀の領民は罪もないのに戦いに悩まされて、哀れでございます。そなたが蜀に入 ったなら、人民をみだりに殺さぬように心してくれい。」 と言って立ち去った。引き止めようとして、はっと目が覚めるとなんとそれは夢。 ショカツリョウの霊と気が付いて感嘆した。  ショウカイは「保国安民」と書いた旗を立てて行軍した。  キョウイは沓中にあって魏軍が来たと知ると、リョウカ、チョウヨク達を率い て討って出て、トウガイと対峙した。しかし、陽安関をショウカイに落とされた という知らせを聞いて陣を払って退いた。そして、リョウカ、チョウヨクと合流 し、チョウヨクからコウコウが軍を出さなかった事を聞いた。キョウイは剣閣に 兵を退いた。  キョウイ達が関に近づくと一軍が立ちふさがった。  さて、この軍勢は。それは次回で。
第百十七回  さて、輔国大将軍トウケツは魏の軍勢が押し寄せたと思って関の前に陣取った。 自ら陣頭に立って軍勢を見るとキョウイ達の軍であったので喜んで迎え入れた。  さて、トウガイは息子のトウチュウを先鋒に乾飯や縄を持たせて密かに兵を進 めて、摩天嶺を縄を使って越えた。ここにはショカツリョウの碑があり、「2人 の士が功を争うが、どちらも死ぬだろう」と記されていた。トウガイは、士が自 分とショウカイの名であり、2人の事を指しているとわかり、仰天して慌てて額 ずいた。  さて、トウガイシは陰平を越え、江油城を襲った。江油城を守るババクは、キ ョウイが漢中を守っているので安心し、用心していなかったのでトウガイが急襲 して来ると慌てて降参した。  ショカツリョウの子ショカツセンは、宦官コウコウが大権を握っていたので病 と偽って家に篭もっていたが、これを知ると後主から7万の兵を与えられ長子シ ョカツショウを先鋒に迎え討った。  トウガイはババクから地勢図を手に入れ、綿竹に行って蜀の軍勢を食い止める ようトウチュウに言った。  トウチュウが綿竹に行けば、「漢丞相諸葛武侯」と記された旗があり、ショカ ツリョウが車に坐っているので、チョウチュウは、彼が生きていたと思って慌て て兵を退いた。そこを蜀軍に打ち破られ大敗した。このショカツリョウは木の人 形でショカツショウが率いていた軍勢である。  ショカツセンはショカツショウ、チョウホウの子チョウジュン達とともにトウ チュウの軍を押し返して、呉に加勢を求めた。呉主はテイホウを大将に5万の軍 勢を向かわせたが、ショカツセンは、その間に綿竹城に追い込まれ、 「もはや力尽きた。」 と言ってショカツショウと討って出て乱軍の中に死んだ。 そして、城を守っていたチョウジュン達も最後まで戦って討ち死にした。  トウガイは忠義の父子を厚く葬って成都に繰り出した。  さて、成都の守りはいかに。それは次回で。
第百十八回  さて後主は成都にあって、綿竹が破れたことを知り、大いに驚いて慌てふため き百官と評議した。ショウシュウは魏に降ることを勧めて、後主に降伏の文書を 起草させた。そこに後主の第5子リュウジンが諌めに入ったが、後主は聞き入れ ず彼を近臣に追い出させた。かくして12月1日に降伏に出ることにした。リュ ウジンは、 「臣は国家が他人の手に落ちるのに忍びなく、妻子を殺した後、一命を絶って祖 父にお詫び致す所存。」 と言って自ら首をはねて死んだ。  後主は太子や臣下60余名を従えて、自ら後ろ手に縛り、柩車をそなえて降参 した。トウガイは後主をたすけ起こして、自ら縄を解いて入城した。トウガイは 後主を驃騎将軍として、その他諸官も官に応じて任じた。そして、太常のチョウ シュン、チョウヒの子で別駕のチョウショウに軍民に降伏を伝えさせた。そして、 コウコウを国を誤らした事で斬って棄てようとしたが、コウコウはトウシの側近 に賄を送って死を免れた。  かくして遂に漢は滅んだ。  キョウイは降伏の知らせを聞いて呆然と言葉もなかった。キョウイは人々の心 が漢から離れていないのを見て、チョウヨク、リョウカ、トウケツらを率いてシ ョウカイに降参した。ショウカイは、 「今まで何をぐずぐずしておったのか。」 と言うと、キョウイが、 「それがしは国家の軍勢を預かる者。今でも早すぎるくらいである。」 と言ったので彼は胸打たれてた。そして、ショウカイは彼と兄弟の契りを結んだ。  トウガイは、キョウイがショウカイに降った事で手柄が減ってしまうため彼を 恨んで、シバショウに蜀で兵を休ませるという書面を送った。シバショウは、彼 に謀反の気配があると疑ってショウカイに彼を討たせようとした。  ショウカイは詔を受けてトウガイ討伐をキョウイと計った。そして、トウガイ の上奏文を取り押さえて偽の上奏文を洛陽に出した。  シバショウは、大いに怒ってトウガイを捕らえるようにショウカイに命じ自ら 軍をおこした。ショウテイはシバショウに、 「トウガイを捕らえるならショウカイの軍勢で十分にございます」 と言うと、シバショウは、 「そなたは自分でもショウカキはいずれ謀反しようと言ったのを忘れたのか。わ しが兵を出すのはショウカイのためじゃ。」 「そうとあらば、決して外におもらしにならぬよう。」 シバショウはうなずいて打ち立った。  長安にシバショウが来るのを知って、ショウカイは慌ててキョウイと計った。  さて、キョウイはどうやってトウガイを討つか。それは次回で。
第百十九回  キョウイは、監軍のエイカンにトウガイ、トウチュウを捕らえてくるように命 じ、夜明けとともに詔を奉じて彼らを捕らえた。トウガイ父子は洛陽に護送され た。  そこに、シバショウが軍勢を率いて来るという知らせが入り、キョウイはさら にショウカイに蜀で自立するように進言した。そして、密かに後主に、「なにと ぞもうしばらくご辛抱下さりますよう。必ずや漢を再興してお迎えに上がります。」 と書面をやった。  ショウカイとキョウイは、魏の大将達に連判状を強制して宮中に閉じこめ、自 分達に従わない者は殺して穴に埋めようとした。しかし、これをエイカン達に知 られて彼らの軍に攻め込まれた。  ショウカイはキョウイとともに迎え討とうとしたが、キョウイは胸の痛みにそ の場に昏倒してしまった。ショウカイは剣を振るうが押し寄せた兵士に首を斬ら れた。キョウイも、 「わが計略、破れたり。これも天命か。」 と言って自ら首を斬って果てた。59歳であった。  キョウイ、ショウカイが死ぬと兵士達はトウガイを奪い返しに行った。しかし、 エイカンは、 「トウガイはわしが捕らえたのじゃ。彼を生かしておけばわしが殺されてしまう。」 と言って、後を追ってトウガイ、トウチュウを斬り殺した。  チョウヨク達も戦乱の中で死に、魏軍のカジュウが一足早く着いて高札を出し て安堵させた。かくしてエイカンを成都において後主を洛陽に移したが、従う者 は、ハンケン、チョウショウ、ショウシュウ、ゲキセイら数人であった。リョウ カ、トウケツ達は病と偽って引きこもり、のちに心痛で死んだ。  呉のテイホウは、蜀の加勢に向かっていたが、蜀が滅んだと知って兵を退いて、 呉主に、 「魏が次に呉を攻めるのは遠くありませぬ。くれぐれも用心されますよう。」 と進言した。  洛陽で後主は安楽公に封ぜられ、住居と俸給が与えられた。  翌日、リュウゼンはシバショウの館に参って礼を述べた。シバショウは宴席を 設けて彼をもてなした。その席で蜀の旧臣は涙を流しながら曲を聴いているのに、 リュウゼンは一人楽しそうであった。  シバショウが、 「蜀が懐かしいでしょう。」 と問うて、リュウゼンは、 「ここは楽しいので、蜀のことは思い致さぬ。」 と平然と答えた。リュウゼンが席を立ったとき、ゲキセイが、 「泣きながら、祖先の墓があるので思い出されてなりませぬ。とこたえるのです。 そうすれば蜀に戻れるやもしれませぬ。」 と口添えした。  酔いが回ってきた頃、シバショウがまた、 「蜀が懐かしいでしょう。」 と問うて、リュウゼンは、 「祖先の墓があるので思い出されてなりませぬ。」 と言ったが、涙がでなかったので目を閉じて下を向いていた。シバショウが、 「ゲキセイの言葉にそっくりですな。」 と言うと、リュウゼンは、 「はい、さようでござる。」 と答えたので、皆は吹き出した。そして、リュゼンへの警戒心は完全に解けた。  さて、蜀を平定した功績を称えてシバショウは晋王に封じられた。シバショウ は長子シバエンを世継ぎとした。そして、王宮に戻って食事をとろうとしたとこ ろ、口がきけなくなった。翌日、シバエンを指さして死んだ。この日直ちにシバ エンが王位に即き、シバショウを文王とおくりなした。  翌日、シバエンは、カジュウにソウソウ一族の罪を示され、帝位に即くように 進言された。シバエンは、後宮に踏み行って魏主に譲位を迫り、魏主は泣く泣く 彼に帝位を譲った。そして魏主ソウカンは陳留王に封じられた。  シバエンは国号を大晋と改め、泰始元年と改元した。  かくして晋国の基盤も定まり、連日呉討伐の策を練った。  さて、いかにして呉を討つか。それは次回で。
第百二十回  さて、呉主はシバエンが魏を奪ったと聞いて呉が心配なって病となり、丞相ボ クヨウコウを呼んで太子のソンワンを世継ぎと指さして息絶えた。しかし、ソン ワンは弱年であったのでバンイク、チョウフの進言でボクヨウコウは、ソンコウ を帝位にした。そして、元興元年と改元し、ソンワンを豫章王に封じ、テイホウ を左右大司馬とした。  呉主は日増しに凶暴になり、中常侍シンコンを寵愛した。これを諌めたボクヨ ウコウ、チョウフを打ち首にした。そして、さらにリクソンの子リクコウに襄陽 攻略を命じた。晋はヨウコに襄陽を守らせた。  リクコウがヨウコの人格を敬って酒を送ると、ヨウコは疑わずにそれを飲み、 リクコウが病にかかると、ヨウコは薬を届けさせ、リクコウはそれを疑いもせず 飲んで病を治した。  呉主からはやく攻め落とすようにと使者が来るが、リクコウは、今は敵の守り が固く攻められないので内政に専念すべきであると上奏した。呉主はリクコウが 晋と内通していると疑って、彼を司馬に降格し兵権を剥いだ。そして、左将軍ソ ンキに軍の指揮を命じた。  ヨウコはリクコウの代わりにソンキが来たと知って呉攻めの上奏をした。しか し、晋主はカジュウ達に諌められて兵を出さなかった。ヨウコは上奏を取り上げ られなかったと聞いて嘆息し、都に帰って病と言って暇を願い出た。そして、彼 はドヨを呉討伐に推挙して死んだ。  ドヨは、荊州の都督に任じられて襄陽で練兵し、呉討伐に備えた。  この時テイホウ、リクコウが死に、呉主の横暴さに国民は恐れおののいていた。  そこに晋の益州の刺史オウシュンから、呉討伐の上奏文を奉った。そして晋主 は呉討伐に兵をおこした。これを聞いた呉主は慌ててこれを退ける策を練った。 丞相チョウテイの策でソンキンに夏口を守り、チョウテイ、ショカツタンの子シ ョカツセイらの軍を出した。さらにシンコンの策で鉄鎖で長江を封鎖した。  さて、ドヨは江陵に兵を進め、先鋒のソンキンの軍を討ち取り江陵を奪った。 すると広州各郡の太守、県令達は戦わずして帰順した。さらにドヨは建業に向け て進撃させた。すると長江は鎖で封鎖されており、ドヨは笑って大きないかだを 作らせて上流から流して松明で火を付けて鎖を溶かした。そしてその勢いでチョ ウテイ、ショカツセイらの軍を打ち破った。チョウテイは戦乱の中で死んだ。  さて晋主はこの事を知ってカジュウの諌めるのも聞かずにオウシュン達にも進 撃を命じた。晋軍の行くところ呉軍は戦わずして降伏し、呉主はこれを聞いて大 いに驚き、臣下に問うと 「何故戦わぬのか。」 「今日の禍は全てシンコンの罪にございます。」 「宦官一人如きに国を誤ることなどできるものか。」 「蜀のコウコウをお忘れでございますか。」 と叫ぶなり宮中になだれ込み、シンコンを斬り刻んだ。トウシュンが呉主より2 万の軍勢をもらい受けてチョウショウとともにオウシュンを迎え討ったが、大敗 してチョウショウがオウシュンに降って城門を開けさせて晋軍を入城させた。  呉主はもはやこれまでと自ら首をはねようとしたが、セツエイが、 「安楽公リュウゼンにならわれたらよいではございませぬか。」 と進言したので、これに従って柩車をそなえて自らを縛って文武諸官を率いてオ ウシュンの陣に降参に行った。  かくて東呉は大晋に帰した。翌日トウシュンの軍は戦わずして壊滅し、その後 晋軍が到着し、その翌日にはドヨも到着した。  そして呉の穀倉を開いて呉の人民に振る舞ったので安堵した。  オウシュンは呉平定の上奏文を奉って勝利を知らせると、晋王は杯を手にして 涙を落とした。  呉主は洛陽に移され天子に謁見した。カジュウが呉主に、 「聞くところによれば、常々人の眼を伺ったり、顔の皮を剥いだりしたとか。こ れはいかなる刑か。」 と問うと、呉主は、 「臣下の身でありながら、君主を殺したり奸佞の不忠には、この刑を加えたので ござる。」 と答えた。するとカジュウは恥じ入って返す言葉もなかった。かくて帝は呉主ソ ンコウを帰命公となし、子孫を中郎にし、従った大臣もみな列侯に封じた。  これより三国は晋帝シバエンに帰し、統一された。  これ「天下大勢は、合すること久しければ必ず分かれ、分かれること久しけれ ば必ず合する。」というものである。  のち後漢皇帝リュウゼンは泰始7年(271年)に、魏主ソウカンは太安元年 (302年)に、呉主ソンコウは太康4年(283年)に、それぞれ終わりを全 うした。