対戦物語

〜第1章〜
世家
聖地湖畔中原平原世家  聖地  神が生まれた地で、大きな山と湖に囲まれ北には河が流れている。約50戸余 りの規模であったらしいが、神が農耕を伝えた頃には400戸余りに膨らんでお り当時としては最大であった。  その後、湖畔、中原、平原と勢力を拡大し、より豊かな地であるその3地方に 人々は移り住んだ。そのため人はこの地にほとんどおらず、わずかに数戸点在し ていた。  神没後、この地を聖地と称して神末子が山に巨大な墓陵を築いた。  湖畔  湖畔は湖と森に囲まれた大自然の地である。歴史は聖地に次いで古い。神が聖 地にて農耕を伝えると、最初に湖畔の住民に広まった。当初は大く2つの勢力に 別れていたが、これを統一した。その時は数十戸の集落であったが、聖地の農耕 技術を受け入れ、多くの聖地の民が移り住んだ。  神没後、次女の神娘が治めることとなった。この時、約140戸余り。神娘は 内務に長けこの地を平和に治めた。  15年、神子が天下を拡大し、中流地域と激戦を繰り広げた。中流地域と親交 が深かったために援軍を派遣したかった。しかし、これは実の弟と戦うことを意 味している。中流地域は神子を破り、神子は湖畔に落ち延びようとした。しかし、 道中討たれて落命した。下流地域で神子の後詰めをする神子の子はこれを聞いて 殉じた。湖畔は神子が落ち延びる際に刺客を送り込んで討ったと平原をはじめ属 国に広まり、全てを敵に回す事となる。  中原  中原は聖地の東に広がり、豊かな地である。神が聖地にて農耕を伝えると、湖 畔に広がり、さらに中原に広まった。当初は大きく3つの勢力に別れていたが、 これを統一し、さらに聖地の民も移り住んだ。  神没後、長子の神長子が治めることとなった。この時、約200戸余り。神長 子は内務軍務に長けこの地に確固たる基盤を作った。  15年、神子が天下を拡大し、中流地域と激戦を繰り広げるも大敗し湖畔の姉 の所に落ち延びる途中に刺客に討たれて落命した。この刺客は神子の勢力に恐れ を抱いた神娘の手の者と伝わり、これに大いに怒り湖畔に敵対した。  17年、平原を治めることとなり、平原に向かう道中、神長子は病没した。  平原  平原は中原の東に広がり、豊かな地である。神が聖地にて農耕を伝えると、湖 畔に広がり、さらに中原に広まった。その後平原にも広まり、当初は大きく3つ の勢力に別れていたが、これを統一し、さらに聖地の民も移り住んだ。  神没後、次子の神子が治めることとなった。この時、約200戸余り。神子は 軍務に長け、平原四天王と呼ばれる勇者、智者、猛者、治者を得ると、この地を さらに拡大した。  15年、神子が天下を拡大し、中流地域と激戦を繰り広げるも大敗し湖畔の姉 の所に落ち延びる途中に刺客に討たれて落命した。これを聞いた子も殉じたため、 平原の後継はおらず、兄の神長子によって中原との併合で治めることとなったが、 神長子が平原へ向かう道中病没した。このため、平原には統治者はいない時が流 れた。それにも関らず、以前と変わらぬままで平原が乱れることがなかった。
中海北海世家  中海  平原の海岸を北に進むと海岸に90戸余りある。  5年、神子が天下を拡大に乗り出した際、最初にこの地を見つけた。海の物を 食べ暮らしており、神子に従属して初めて農耕というものに巡り会った。農耕に よる平原の恩恵を大いに受けたために、平原によく従った。そして平原の命によ り北海に攻め入ったが敗北し、平原に加勢を求めた。  15年、神子没、後独立の傾向が強くなるも表向きは平原に従った。  21年、北海より急襲されて滅亡した。  以後、北海世家に続く。  〜完〜  北海  北海は中海をさらに北に進む中海と100戸余りある。  中海が神子に従うと、中海から共に平原に降るように再三の使者が来た。しか し、それに従わず、兵を持って抵抗した。中海はおよそ兵40を送って鎮圧に乗 り出すが破れなかった。  6年、平原より勇者、猛者の率いるおよそ兵250により破られた。この一戦 で勇者と猛者の精強さと平原の巨大な軍事力が天下に広まった。同時に、北海の 多くの有能な人材が討たれた。  以後、北海は平原の治者によってしばらく治められ、平穏を取り戻すと再び北 海に戻された。  21年、平原からの独立傾向の強い中海を攻めて得た。
北原北地世家  北原  北原は聖地の北を流れる河の下流に位置し、100戸余りである。  まだこの国の領域がはっきりとしたなかった何年か前、この北原、そして東の 地は蒼家という北方民族がいた。この蒼家、人に恵まれ。そして馬の産地であり 100戸余りを保っていた。しかし、平原からの領地拡大政策により、侵略され 蒼家は苦肉の策として降伏従することにした。しかし、蒼家の者が太守としてい るのではいつ謀反されるのかと疑われるかもしれないと考えた当時の君主蒼天斉 は身を隠してず若き籠範に後を託した。  神子軍が攻めてきた際、順々的に接し、まだ貧しき北原の地を豊かにすること に重点を置いて平原の幕下に加わり、平原の農耕技術を組み入れた。  9年、神子軍は北原より北地、東山に向けてさらに軍を進めた。北地は平原の 四天王の一人猛者、東山は平原の四天王の一人勇者が軍を率いたという。籠範の 父、籠称は神子軍に従軍し勇者とともに東山を討った。  11年の河口、12年の入江、13年の下流、15年の中流への神子軍進軍に 籠称とその子籠礼が従軍した。  19年、北地に勢力を拡大し、北地を従えた。  北地  北地は北原のさらに北に位置し、40戸余りである。  平原の参加になるまでは、北地の領主水紀に治められていた。  9年、北原より平原四天王の一人猛者軍に攻め込まれ及ばず陥落した。その後、 猛者によってしばらくの間治められ、水紀は一介の民になった。平原の農耕技術 によって豊かさがもたらされるはずが、猛者は内務に長けておらずいくつかの不 備が生じていた。  13年、猛者が神子軍の下流への進軍に従軍したため、北地は水紀に戻された。 しかし、北地の不備は解消されるのに時間を要した。  19年、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった北地に北原の籠範が攻め入り、 北地は北原に従った。  以後、北原世家に続く。  〜完〜
東山世家  東山  東山は聖地の東方にそびえる山の東に位置し、約100戸余りである。  東山は強大な1勢力と中小の数勢力からなっていた。数ある勢力の中でも最も 弱小の勢力の長に国府(こう)がいた。国府(こう)には安濃(あのう)という 息子がいて自勢力の平和を得るために最大勢力に人質に出されていた。  石鏡は食をえるために東山の最大勢力の傭兵となり、安濃(あのう)の見張り 役で次第に心安くなっていった。ある日、最大勢力は無理な要求を他の中小勢力 出し、諸勢力は連合を組み最大勢力に対抗しようとした。各勢力も人質を取られ なかなか踏み出せなかった。それに怒りを感じた石鏡は安濃をはじめ各勢力の人 質の脱出を計画し成功した。息子の帰還を大変喜んだ国府は安濃の脱出の恩人の 石鏡を将として迎え娘の壬生の許嫁(いいなずけ)とした。  かくして中小勢力連合は最大勢力に戦いを挑み、戦いは長期におよんで泥沼化 したが勝利した。戦後は国府が東山の盟主となり栄華を極めた矢先、最大勢力の 残党の手に掛かり死亡した。その後国府の後を継いだ安濃も戦いで受けた傷がも とで若くして死亡し、義弟(妹の夫)であった石鏡が跡を継いだ。  8年、平原の神子軍が天下を拡大した際、北原を得た。  9年、北原より平原四天王の一人勇者軍に攻め込まれるも大奮闘する。しかし、 平原属国となった北原軍の加勢により敗北。以後、平原の属国となる。属国とな るも、自治権など全ては元の東山と変わりはなく、平原の農耕技術が東山にもた らされた。  11年の河口、12年の入江、13年の下流、15年の中流へのそれぞれの神 子軍の進軍に配下の的矢が付き従った。
河口入江世家  河口  河口は聖地から流れる河と海の交差する地にあり、70戸余りである。  この地の対岸は平原であるが、この河はたびたび氾濫をするので両岸で大いに 困っていた。そこで、入江との統合を推し進めてきた。  11年、平原の河口進軍に当たって大いに恐れたものの、河の氾濫を鎮めると いう条件で争うことなく従うことを示した。神子はこれに同意し河口を従えた。  15年、その平原が河の氾濫を鎮める前に神子が中流で落命した。このため、 河は今も氾濫を続けている。  21年、再び入江との統合が持ち上がり、ついに入江に統合され、平原から独 立した。  以後、入江世家に続く。  〜完〜  入江  入江は河口を海岸に沿って南に下った所にあり、80戸余りである。  かねてより河口との間で統合の話が持ち上がっていたが、11年に河口が平原 に従ったのでその話が流れた。  12年にはその河口を手にした平原軍が押し寄せた。東山・北原などの従属勢 力も加わりその兵数350余り。入江の人口に近い軍勢に為すすべなく軍門に降 った。 介子嬰は、入江領内の翻の地の小領主の子 睦月の父が翻の地を訪れた際に領主の娘との間に生まれた。 その後領主は、その娘に養子を迎え家を継がせ、介子良をもうける。 父は介子嬰に辛くあたり、介子良を溺愛する。しかし、介子良は介子嬰に なつき、介子嬰も介子良をかわいがった。 介子嬰20歳の時父親に毒殺されそうになり、出奔し、血縁の睦月を頼る が、睦月は庶子である介子嬰を快く思わず、冷遇し、一兵卒として扱い 常に最前線においた。 介子嬰は、最前線で常に生き残り、武功をあげ、周囲の信頼を勝ち取る 介子嬰34歳の時、睦月はにわかに病を発し床に伏せる。 容態は思わしくなく、薨じた。 跡継ぎのいない睦月は、はっきりとした形で後継者を指名せず薨じたため 家臣は、市を後継として迎えようとする派と河口に入江を支配されるのを嫌う 派とに分かれて争った。 しかし、河口に入江を支配される派は、シンボルとなる人物がいなかっため、 劣勢に立たされた。そこで河口に入江を支配されることを嫌う派は、庶子で ある介子嬰をたて劣勢を挽回しようとした。 市後継派は、焦り介子嬰暗殺を企てるが、事前に計画は露見し、介子嬰率いる 兵に急襲され壊滅し、介子嬰が後継となる。 市後継派は河口に逃走し、介子嬰の後継に反対するよう洲良を説得した。 洲良は早速兵を起こすが、いち早く介子嬰は、河口軍の進撃路を特定し 陣を構え、洲良の軍を待った。 洲良の軍は介子嬰の軍を視認したところで陣を構え始めたところを 介子嬰は、洲良の後方に潜ませていた兵に一斉に幟をあげさせ、包囲 した形をとらせたうえで洲良と会談し、後継を認めさせた。 介子嬰は、入江の領主となり翻の地より介子良を呼び寄せ副将とした。
中流下流世家  中流  中流は聖地から流れる河に接しており、湖畔の東南にある。100戸あまりで ある。湖畔、下流と親交が深かった。  13年、平原が下流を従えたことで大いに警戒を強めた。湖畔の神娘は平原の 神子の姉であり、援軍を要請することは実の弟と戦うことを意味しているため、 大きな期待が持てなかった。  15年、平原の神子が先陣に立って中流に押し寄せた。  河口はかねてより河の氾濫を鎮める条件で降ったものの未だにその着工すら行 われていないことに目を付けて援軍を要請し、さらに下流を通して入江と河口に 平原から独立して統合問題を推し進めるように提言した。ここで、下流に神子の 子が拠点を置いて後詰めを荷っているいることから下流にその足止めを願い出た。  かくして、いざ中流と平原軍が矛を交えると、先陣を切った神子の猛攻が始ま るも、後に続くはずの下流、河口、入江の軍勢が神子の子を足止めしたために孤 立した。神子は湖畔の姉を頼って落ち延びようとしたが、道中刺客によって討た れ落命した。  中流は神子を討ち破り、平原の勢力拡大を止めた。  下流  下流は聖地から流れる河の下流で平原の対岸にあり、90戸余りである。  親交の深かった河口、入江が平原に従ったことを聞き、次は下流が的にされる のは必定と考え、13年、先手を打って使者を送って従属を願い出た。神子はこ れを大いに喜んで従えた。同時に親交の深かった中流にもこの事を伝え警戒を促 し、機があれば中流に加勢することを約束した。  しかし、下流は国力が思わしくなく、再三にわたる中流からの申し出に応える ことなく年月を費やした。  27年、大いに怒った中流領主龍奈の進軍によって降伏し、中流に統合された。  〜完〜
山麓深森世家  山麓  山麓は中原の北にあり50戸余りである。  隣国との関係は特にない。平原の進軍の対象にならなかったことからも、特記 する事項はない。  深森  深森は湖畔の南にあり30戸余りである。  隣国との関係はなく、戸数からも少数であり、特記する事項はない。

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