《旅行記の目次へ戻る》

 2010年 平城遷都1300年を迎えます。710年平城京に都が移り 平城宮はその中心にありました。中央を幅約70mの朱雀大路が南北に通り その南端にあった門が「羅城門」そこから3,7キロ真っすぐ北に向かうと「朱雀門」に着きます。羅城門は 朱雀門とほぼ同じ規模の間口31.6m.高さ20m 両翼に高さ6mの羅城を築いたと記されています。


  
    1998年「再現された朱雀門」 復原記念イベントの時に
 朱雀大路の東は左京、西は右京と呼ばれ 家々や寺院、市などが建ち並んでいました。平城京の中心は宮殿と役所のある平城宮で 高い土塀の中には儀式を行う 大極殿、朝堂院、天皇の住まいである内裏がありました。東南隅の張り出した部分には池のある東院があり 北側には松林苑という自然をとり入れた広い庭園もありました。
朱雀門は 南側中央に立つ正門で朱雀大路に面し 二階建て風にみえる建物で 他の門よりひときわ大きかったとされています。当時、この門の前では 外国使節の送迎、大勢の人が集まっての歌垣、天皇による新年のお祝いなどが行われました。復原された門は間口約25m 奥行約10m 高さ20mです 朱雀とは南を守る中国の伝説上の鳥(鳳凰=四神(白虎、玄武、青龍)の一つ)をいうそうです、羅城とは大きな城の城壁(築地)で そこに設けられた門を羅城門といい ここを出ると外界であるという意味で 私の住む大和郡山市の北端にあり 今は看板が一つあるだけで訪れる人も殆どありません。佐保川の底に 礎石らしきものが昭和10年に見つかり 昭和47年に発掘調査で基壇の西端が確認されたそうです。川を隔てた所に 羅城門公園があり石の碑があります 何時だったかTV中継がありましたが 夏は草が生い茂り台風が来ると木が倒れたり 人を殆ど見かけない公園です。 

 
   羅城門公園の碑(平城京羅城門跡) 
「和銅3年 藤原京から奈良の地に遷され羅城門は国門として開かれ 賓客はここに迎えられ入京した」と碑に記されている。
  この来世橋の北の川底に門跡の礎石が残っている
 
       
   佐保川の西側に建つ「羅城門跡」の説明板
 
この東に来世橋が架かっていた(写真左)が橋脚が1本なくなって 
  立ち入り禁止になり 羅城門橋が架かり 取り外された
現在はこの来世橋の北側に 車も通る大きな橋が架かり 名前も「羅城門橋」となり 佐保川とJR線を跨ぎ 国道24号線からこおりやま城ホール、郡山城へと続く。

 * 羅城門は朝の太鼓がなると開かれ 夜の太鼓とともに閉じられて都の玄関口としてきびしく守られていた。714年12月新羅の使者が来て この羅城門から都に入るので 大野東人などが家来170人をつれて 門の外の三橋まで出迎えたという記録が残っている。
  
   郡山城の石垣に使われていると伝えられる礎石
門外の大溝川に三つ並んだ橋が架けられていたので「三橋」の地名になった(「続日本記」に記載)とも 下水橋村といわれた(「奈良県の地名」下三橋村欄に掲載)とも 伝えられている。






右の地図は 現代のもので不鮮明であるが黄色い線の部分が 朱雀大路があった所、その真上が朱雀門、真下が羅城門、そこから左へ(地図の左下)行くと郡山城、その間 ピンクの線の部分はJR大和路線、地図の上 真ん中から右端へのピンクの線は 近鉄奈良線である。
又JR線と交差したブルーの線は右折部分が 佐保川、左から上(北)へ伸びたブルーの線は 秋篠川である。
 
     2004年6月5日朝日新聞夕刊に「よみがえる朱雀大路」という記事が掲載された
記事によると「平城京をかつて南北に貫いていた朱雀大路を、奈良県が歩道として復活させる。世界遺産の平城宮跡に立つ朱雀門(奈良市)と羅城門跡(大和郡山市)を結び、往時と同じ約3・7キロを整備する。05年度中に策定する県の長期計画に盛り込み、約30年後に全区間ができる構想だ。奈良時代の朱雀大路は幅約75メートルの直線道路で、唐の都・長安の大通りを模したとされる。現在は朱雀門から約220メートルが復元されているだけで、ほとんど痕跡は残っていない。
県は2010年に平城遷都1300年祭を開催する。それを機に古都の歴史や風情をゆっくり楽しんでもらえる観光資源として歩道の整備に乗り出すことにした。
構想では「緑の大路」と名付け、両側に公園をつくるほか、世界の宗教について学べる博物館も建設。歩道の建設費などはこれから検討する。」というものです。
30年後か?私は幾つになるのでしょう?この3、7キロを歩きたいものです。
 余 談

平城京は 長安の都城に法り作られたようであるが 中国のような立派な城壁はなかったとしても この様子を見ていると漢字の「衆」の成り立ちを彷彿とさせるものです。衆は 囗(い)と3人の人の形とを組み合わせて出来た字で 囗は都市を囲む城郭の形です 城郭の下に3人(大勢という意味)が並んで立つ形を加えて 都市の中に多くの人がいることを示した文字なのです。囗の下に巴(は)〔跪く人を横から見た形〕を加えた字は邑(ゆう)で みやこ、まち、むらの意味になります。
    甲骨文字「衆」
金文では囗を目の形に書くが
「おおい、多数の人、たみ、庶民」の
意味に用いる
   甲骨文字「邑」
囗と巴からなる 巴は人の跪居(ききょ)するさま
城中に多くの人のあることを示し 城邑、都邑をいう

               字統より
    

下三橋遺跡発掘

2005年2月より、大和郡山市教育委員会が地下遺構有無確認のため試掘調査を実施してきた現時点での(調査50%終了)現地説明会が、9月3日開催されました。
その結果 平城京が従来知られていたものより南に拡大することが明らかになりました。

今回の調査で発見された平城京条坊遺構は、左図の右下赤い線で書かれた部分です。
平城宮(中央上オレンジ色)の真下(南)に羅城門、下ッ道、右(東)へ東一坊大路、東二坊大路、東三坊大路、中ッ道、東四坊大路。
これまで平城京の外と考えられてきた場所に条坊遺構が存在したという大発見がありました。
東半分が東西4坊(約2.1km)にわたって南に3坪分(約400m)ほど広かったことになります。
                                         説明会資料より
今まで明確に見つかっていなかった羅城が 幅約3,6mの九条大路南側溝と、幅約4.5mの濠に挟まれた幅約16mの空間に、2列の柱穴が並ぶもの(写真左)がみつかり、築地の跡か門のような施設か これからの検討課題のようですが平城京の南限であると考えられています。これまで羅城門周辺は東西約133m分が九条大路から南に張り出すと考えられてきたのが、今回の発見で東西520m分張り出していたこともわかりました。写真右手は羅城外溝で 東から西向きに撮影。人の立っている部分より左に九条大路南側溝があります。
今回みつかった道路遺構の交差部分(写真右 帽子の人が立つ所)に動物の歯が埋められていた。祭祀土坑といい何かの呪いかという説明でした。その他 密集土坑といい粘土を取った跡や 3〜4mの深さの井戸2基から遺物が多く出土したそうです。


普段は静かな下三橋も 先日からヘリコプターが飛び回り賑やかでしたが新聞各社が取り上げた解説も様々で 識者の考えも色々。夢は広がるばかりですが良い勉強をさせてもらったと同時に歴史ある町に住んでいることを実感しました。
 
羅城門は どんな規模でどんなものであったのだろう?この写真は中国西安の城壁であるが、平城京はこれに法り創られたものであるから羅城門も こんな感じのものだったのだろうか?

下三橋遺跡第2回現地説明会

2006年3月12日 第2回説明会が開催されました。


 
 朝日新聞より
11日付け朝日新聞によると、羅城は古代中国の堅固な土壁で出来た羅城とは違い、簡易な瓦葺の板塀だった可能性が高いということです。
第1回説明会から ずっと夢見ていた西安の城壁(上の写真)のような と、までいかなくても 立派なものだったかと勝手に想像していたが そうではなかった。羅城跡は、九条大路中央の羅城門から東520mで下の写真の辺り(人が立っている辺り)までのようです。

         
西安の都城は高さ10m以上あるが、それに必要な基礎工事の跡がなく 出土品は瓦だけで 柱の太さから2〜3m程度で、築造は750年頃だろうという説明でした。
この羅城が防御を目的としたものでなかったからではないかと思われているようですが、これは平和だったということになるのでしょうか。

詳しくは 大和郡山市のHPをご覧下さい。
右の写真 左の白い線の部分が羅城の幅のようです。柱列の南北に東西方向の外濠と内濠が掘られていました。
今回の調査で平城京遷都当時には十条大路があったことが解りました。又、荒れた路面を人や動物が往来した痕跡があり(写真中ほど人が立っている辺りのデコボコした白線の所)「波板状凹凸(なみいたじょうおうとつ)」というそうです。古代都城で明確なものが見つかったのは はじめてだそうです。
さらに ここより南に続いているかも知れないとも説明されていました。
発掘品の中から「人面墨書土器」
人の顔を描き罪や汚れを払うため川や側溝に流したもので この顔はユニーク!
馬の頭蓋骨
発掘現場の南の方から馬の骨が多く出たそうです。
橈骨・尺骨
甲骨文字の彫られた獣の肩甲骨に似ている?