プロフィール (というより自分本位な自分史)

血液型 A型

生年月日=法隆寺金堂焼失の日  団塊の世代

幼稚園 泣き虫という言葉はまだ生きているのでしょうね、入園式でごねて、いってません。
そのかわりにまっとうに通っている子供たちに砂をかけて嫌がらせをしていました。
(娘のコメント うわっ、いやらしい子供やったんや、 でもね石でなくて砂っていうところはまだかわいくない)

小学生 福岡県糟屋郡古賀町立古賀西小学校 やはり泣き虫で通信簿の連絡欄はどれもあまりいいことは書かれていません。
落ち着きがありません。向かっていってよく泣かされます。
(向かっていって、ってなんか失礼じゃないでしょうか、尊重されるべき一つの人格に対して)
たしかに勝てないのによくけんかをしていました。、むかしは皆けんかをしていた。
学校裏は玄界灘に面して左右見渡すかぎりの白砂青松、ここでまい春浜の運動会をやっていましたが、相撲で勝った記憶はほとんどありません。
     
中学生 福岡市立香椎中学 越境入学、今もこの言葉はあるのでしょうか、福岡の進学校に行くために朝早くからSLが引く汽車で通っていました。
スロープのホームを駆け上がり、走る客車のデッキにようよう飛び乗るとそのしばらく後から女の子がひょいと飛び乗ってくる。
要領は同じ速度で走ること。
一年の時、平凡パンチが創刊され(今はもうない)、初めてのエロスの世界との遭遇に胸をときめかせる少年でした。
入学したすぐの頃は張り出される試験の順位は全学年でもひと桁の中にいたのに、いつのまにか桁が増え・・・・、
努力することに向かない子供でした。
 
高校生 結局本命の進学校に落ちて、パブテストの西南学院高等学校へ、今は男女共学になっていますが、
当時は男子校で毎日赤煉瓦にツタのからまるチャペルで賛美歌を歌っていました。遠足のバスの中でも歌うのは賛美歌だけでした。
やはり男子校では思い出も無彩色。

浪人時代  思い起こせばまともに受験勉強を始めたのはこの時、予備校はできたばかりの修猷学館に合格(試験があったのです)。
修猷館といえば九州で知らない人はあまりいない?進学校。その附属みたいな予備校で(いまはもう無いようです)、
そこにはほとんど行かず、福岡市役所の裏の図書館で独学に励んでおりました。

大学 
団塊の世代は競争率も並ではなかった。小さい頃から、水の流れがあればせき止め、”子供の科学”を愛読し、
工作が好きでドライブゲーム機(路面がくねくね動く、ね、わかるでしょ)を自作する子供は、工学部という進路選択より他あたまにありませんでした。
長崎大学、1年生の半分まで卓球部、
こんなスポーツを大学に入ってから始めようなんてことがもともと無理な話で、やったのはフットワークと素振りだけ、
友達の下宿で電気ポット酒を飲み、吐血して救急車で運ばれ入院したのを機にやめました。
次はサイクリング部と自動車部に所属、こちらは未経験者でも対応可、坂の町長崎では地元の女の子には自転車の乗り方から教えます。
自動車部の車はしばしばセルが廻らくなるのですがエンジンを切るときは坂道に停めて対応していました。佐賀県ではできないこと

2軒の下宿にお世話になりましたがどちらも普通の家庭。最初の家は階段を上がって右の三畳一間が私の部屋、
洗濯物干し場が続いているのでおばあちゃんが毎日部屋を通過します。
左は二間続きの和室の奥に薬学の女の子、手前に経済の男の子、部屋はふすまで仕切られ、女の子は男の部屋を通らなければ出入りできない、
こんなのどかでありえないような風景がありました。
二番目の下宿は市場で天ぷらやをやっていて、まかないは魚市場で仕入れた新鮮な魚、山盛りの天ぷら、
夜は定時に家族と一緒にティータイム団らん、井上順之の歌の文句通り お 世 話 に ぃなりました。

就職
時はオイルショック前、いざなぎ景気の余韻がまだ残っていたのか、
学科36人の卒業生に約800社(たしか?でもけっして××800ではありません)の求人があった、入学試験はこの逆だったのに
大手ゼネコンに面接で落ちて(その企業は見る目があったのか)、二回り目の橋梁会社に決定
高校受験から何度の挫折があったのだろうか、けれども人間万事経験を踏めば感度が鈍くなる、学習効果による環境適応能力
しかしこの先にはまだ大きな挫折が待っている

堺市で寮生活が始まり、隣は脳病院とその看護婦寮、寮では盆踊りをみっちり仕込まれました。
河内音頭、江州音頭、炭坑節、etc、そして看護婦さんを招いて盆踊り大会、今でもお囃子を聴くと手足が自然と反応してしまう

平日は橋の設計作業に遅くまで残業、休みの日には自転車で熊野、伊勢、京都へ
風邪を引き、咳をし、血を吐きながら大台ヶ原へサイクリング、信じたくない自分と合理的判断からくる予測との齟齬、葛藤
後から考えるとこの行動はやはりおかしい

集団検診の後だったので結論は自ずから出ようと・・・・・
結果は、肺病の宣告(肺結核とも言います、その昔は労咳とも言いましたな)、入社一年で一年半の闘病生活へ