2009.11.21

冬に向かうこれから 里山からの報告が少なくなります

来週から来年7月頃まで舞鶴の現場に出ることになり里山らんどが留守になることが多くなるのです。
もっとも留守ばかりの里山なのですが・・・。

現場での仕事は由良川に架かる橋の撤去
由良川は茅葺きの里美山町 芦生の森に源流を持ち日本海に注ぐ京都府有数の河川です。
5年前の台風23号では由良川の水位が普段より3m以上あがり、堤防が決壊し、
観光バスが動けなくなって屋根の上でたくさんの乗客が救助を待つニュースに流れましたが、
現場はそのすぐ近く
この22日に隣に出来た新しい橋の開通式があり、これまで地域の主役として働いてきたトラス橋をすぐに撤去します。

なぜすぐにかというと河川では梅雨時から台風の季節までは出水期として工事が出来ません。
これから冬にかけて両岸から桟橋を作り、春頃桟橋の上から半分ずつですが大型のクレーンでまるごと取り去り
GWのあたりでたくさんの杭を引き抜き、桟橋を解体しながらその月いっぱいで河を元に戻さなければならないのです。
次の梅雨まで渇水期として残った時間はあまりないのです。

現場を担当する人は他にいるのですが、
この工事に対して、現場を管理する技術者に要求された実績が人を限定するのです。 
公共工事ではこういうことが特にきっちりしています。
退役軍人の前線復帰、老兵が名乗りを上げなければ仕事が獲れないのでは仕方がない
そして会社にとっては幸運にも落札できました。

初めての単身赴任
この年(還暦)になってこんなことをすることになるなど考えてもいませんでした。
けれども、人生の大半を、橋の設計から製作、架設、補修と出来て使われるまでのそのままの順に関わってきて、
最後は撤去で締めくくる(れるかどうかはまだわからないけれど)のも
サイクルヒットの達成のようでおもしろいことかなとやりがいも感じています。

里山で思うこと は準備に時間を取られて報告が止まっています
孫のコウキ君が先々週の里山デビューから先週も来てくれたけれども
報告をupできないのは残念ですが
再び来てくれるときはだいぶ大きくなっているでしょう

もしできれば由良川での活動を報告しようかと
由良川の畔から というコーナーを一応設けておきます



2009.9.1


9月1日 防災の日に、娘に男の子が生まれました。
まことにわかりやすく憶えやすい誕生日
寺田寅彦は言いました 天才は忘れた頃にやってくる

私の誕生日は文化財防火デーのまさにそのもとの日ですが、
これを聞いてすぐ月日が出てくる人はあまりいないでしょう、でもこの日は違います。
この日の関心度は高くなる一方
そして育児のスタートとしてはまことにいい時候です

当日夜遅く産婦人科を訪れると看護婦さんが病室まで抱いてきてくれました。
生まれて6時間しか経っていないのにもうちゃんと一人前の手足、顔をしているのにジンときて思わず涙腺が緩みます

五体満足に生まれるというのはほんとうにありがたいこと
次はちゃんと歩ける、話せる、ということに感謝し・・・・・
なのにだんだん要求のかたちが変わってきて、 人よりも 、なんて考え始める
最初のありがたみを忘れないように、天に授かったことを感謝して育ててほしいものです


2009.7.4

今年、 会社の集団検診はGW連休明けの日でした。
もちろん連休はずっと里山
不思議な現象なのですが、なぜか里山ではいつも便通がないのです。
ナさん曰く、初めてのくみ取りを先延ばしにしたい気持ちが働いているんじゃない
そんなことはない
果樹・樹木に下肥として与えればひょっとすると驚異的に活性化できるかもしれないと楽しみにしているのです。
昔はぼっとん便所、自慢じゃないけれど子供のときにくみ取りの仕事はもう経験しているのです。

土日くらいはいいのですがGWの間も便通は同じようにない。
けれどそれは困るのです。
2回分の検便を連休明け検診のとき渡さなければいけない。
ガスばかりがでて焦り始めた5日の日にようやく便意が・・・
でもそれまでの間に水分は吸収され尽くしているようで、なかなか旅立ってはくれません。
きばって出たのはよかった(本当はよくはなかった)のですが、無理をしたそのとき落とし紙には赤い血が。
ちょっと気になったけれどもやはりもっと真剣に気にすべきことでした。
しばらくして結果がでるとやはり要再検査、同じような人が多いのか予約日は一月も先。

なぜこのような下ネタの話を書いておこうかと思い立ったのは、
検査までに準備すべきこと、なすべきことははきっちり手順書があって
その通りに行えばよいのですが、その過程で起こる排泄現象について何も説明がない。
準備のために入れる方の話は理解できても、出る方についてはどうなるのかまったくわかりません。
けれども当事者にとってはだいじな話なのです。
ですから貴重な体験として、どのような過程を経て腸のトンネルが空になるのかみなさんに伝えておきたかったから。
それも検査の結果がわかったから人に言えるのです。

再検査は月曜日の午後で、前々日の土曜日の夜9時に下剤を飲むことからイベントは始まります。
日曜日にも里山で粉末と液体の下剤を2回飲んで、
里山から自宅への移動 月曜日の午前中は通勤があり仕事があり会社から検査センターへの移動
気になるのはいつお腹のものがでるのか、移動途中だとたいへんなことになる。

日曜日の3食は予約のときにもらった専用のレトルト食品
選んだ朝食はおかゆとみそ汁、昼もほとんど同じでおかゆとすまし汁
2回目の液体の下剤を飲む時間が指定してあり、夕食はそれから遡ると、
里山から自宅に戻った時間ではもうだいぶ遅れています。夕食はポテトスープのみ、
その間にお腹がすいたら間食というのもセットされていますが、もともと小食でそんな状況にはなりません。
これらをすべて体に入れてその前からの分も当然まだお腹の中

明日は検査だというのに いったいいつ出るのだろう。
その不安は睡眠不足を伴ってようやく日曜日の深夜に急激に流されました。
ゆっくり寝る間もなく3度のトイレ通い、それぞれに大量の排泄結果をともなってようやく一安心
朝の通勤も心配でしたが駅のトイレでさらに一回これはほとんど液体、でもなんとかコントロールができて

午後検査センターへ
うしろに孔の開いた使い捨てパンツ、同じく孔が開いた検査着を着せられ順番を待ちます。
先に内視鏡検査から、 検査ベッドに横向きに横たわり肛門に麻酔薬を塗り込んで
カメラを突っ込むのはなんともありませんが同時に入れられるガスを我慢するのが大変
もう内容物はないはずですが緊張が緩むとオナラと一緒になにかが出てきそうで・・・

画像を一緒に見ながら説明を受けて検査は進みます
大腸のトンネルはきれいです。ときどき視界が遮られるのは曲がり角で内壁にカメラがぶつかったとき
このときは先を探しながら回し、力が入るのでやはり少し痛いのです。
トンネル探索はさらに少しずつ進み、検査技師のなんともありませんという声が続きます。
口から入れる胃カメラ(最近は鼻から入れるらしいけれど)は若い頃に体験しましたが、あれに較べるとどうということはありません。

次はバリウムとガスを同じく下から詰め込んで腸の造影検査
これは胃の造影と違って大変です。
胃ではシンプルな空洞にバリウムを貼り付けるのでレントゲン台での体を動かす指示は緩やかで単調ですが、腸は違います。
指示は忙しく、前後の傾けは急勾配、体をひねる方向、角度、順番も細かく指示が出ます。
たしかに曲がりくねった腸壁にうまく全体にバリウムをまくばるのは大変でしょう。体力がないととてもついていけないと思う。

検査が終わった後も大変
バリウムを抜くために下剤を飲んでから、トイレでガスを抜きなさいと指示されますが、ここでしっかり抜かないと帰りの行程が大変なのです。
ガスはかなり残っていて、おならを我慢して地下鉄のトイレに駆け込むとやはり白い液体がズズーッと。

先日結果を聞きに行ったのですが、1時間待たされて話は5分ほど
なんの問題もない、と
GWの採便時の状況を話し、来年も同じ状況でひっかかったらやはり検査を受けなければいけないでしょうか、と
医師は苦笑いしながら、医者としては(再検査を)やらなければいけないと言うでしょうが、もし自分だったらやらないだろうなあ、と
正直な先生でよろしい

今回検査を受けたことで大腸の内側を自らの目で見て馴染みのものになりました。
これまでも用便の時には健康でなんの支障もなくその行為を行えることに感謝していたのですが、
さらに状態をイメージできることでいっそう自分の体を大切にして労らなくてはいけないと思いを新たにしました。



2009.6.5

朝の通勤ウォークはまだ続いています
まもなく梅雨で雨のとき橋の上は風が強く、梅雨明けはもう暑いでしょうから、通勤ウォークは秋までお休み、ということになるのでしょう。
この日も雨だったのですが
前日、帰りのバスの中からあるものが見えたのでカメラをかばんに入れ、あえて歩いてきたのです。
なにが見えたかって、 新幹線

海上輸送してきてまだ台船の上に8両
小雨ですが強い風に傘を差して、撮影は大変です
(拡大しないと見えませんが)

雨が上がった帰りに、もっといい状況でと、この日は帰りもウォーキング
六甲連山の上に太陽が薄い雲にうまくかかって丁度良い明るさ、市内方向は雨上がりのすっきりとした景観になっています。
六甲山の方向には港大橋の向こうに夢洲舞洲連絡橋がうまくシルエットに浮かび

歩いてきて良かった、 とここでカメラを取り出して電源を入れると、バッテリーが切れています、のメッセージ
そして台船が見える場所までのぼってくると、 もういない
深夜に専用トレーラーで鳥飼車両基地まで運ぶはずなので、もう降ろしてどこかに待機しているのでしょう

なみはや大橋を下りてきて、赤煉瓦の倉庫が並ぶ岸壁沿いの親水公園へ
この中に ウォーターフロントのギャラリー CASO があり、入ります

朝は立ち寄れないけれど、以前からのぞいてみたいと思っていたのです
新幹線車両とデジカメはハズレでしたがこれは当たりでした。

母の個展の話の続き
個展を見て紹介してくれたブログがあるのでそれをまた紹介します。
山彦耀さんはご近所の、旅と山登りが好きな人でした。


2009.5.23

大阪枚岡神社で娘の結婚式
枚岡神社は生駒山地大阪に面した山麓、というよりはもう少し高みにある河内の国一之宮。
これまでは枚岡梅林のイメージしかなかったのですが、由緒ある立派な神社でした。
まったく完璧な神前結婚
拝殿で進められるおごそかな神事はゆっくり時間をかけ雅楽演奏、踊りと神官、巫女総動員でとり行われます。
披露宴は神社の和室大広間を貸してくれて料理は近所の仕出し屋さんから
提供されるものは直会の場所と仕出しだけ、
コマーシャルベースに乗せられる結婚式場、ホテルの結婚式と違ってお膳立てして進行を主導してくれるものはありません。
身内だけの結婚式で司会も進行役もいません。
司会といえば新郎がみずから口火を切り、最小限の舵取りを務め、
あとは段取りを理解した参加者がそれぞれ自己紹介をし、流れの中で自分の役割を演じていくのです。

お色直しというようなたいそうなことはなく娘は「ちょっと着替えてきます」と一度退場し白無垢角隠しからドレスに着替えて、
手伝いが入ったのはこの着付けと料理の配膳くらい
この神社での結婚式は一日一組ということで時間はゆったりと贅沢に流れます。

初めて体験するパターンで、最初はうまいこと(式が)運ぶのかなと少し危惧していたのですがまったく無用の心配でした。
これが本来の結婚式なのでしょう。
企画して段取りをした二人をほめてやりたい素晴らしい結婚式でした。

翌日曜日は前日からスタートした母の水彩個展に子、孫、ひ孫みんな集まって元気なこととたくさんの作品を披露できたことを祝福します。









2009.5.20


地下鉄の車内はマスクの人ばかりで、していないのはおそらく手に入らない人たち
滋賀県にも飛んで、関東でも、 これからまだ拡がりを見せるのでしょうが
感染ということがどのようなメカニズムで展開するのか、ひとつの巨大な実験のようなものにも見えます。

こんなときにこの土曜日は娘の結婚式
昨年一戸建て新居購入の話が進み、手に入れると家を出て二人の生活がスタート
今年になって入籍、そして5月
身内だけの神前結婚式で、この時期結果的にこの選択は最善でした

インフルエンザはちょっと心配なのですが
94歳の母も福岡から孫の晴れの日のために出てきます

近所に住む姉の発案でその母の個展を開きます
作品はまだまだ増えていますがホームページギャラリーへのupは追いついていません

2009.3.31






                                         画像は今後大きくなると思います

久しぶりの大型クルーズ船の入港
ドーンプリンセス 77,000t
プリンセス・クルーズは大型客船を多数保有しその頂点に立つのが三菱重工長崎造船所で建造したダイヤモンドプリンセスとサファイアプリンセス116,000t
今朝は入港に立ち会えます。
寒い中をたくさんのアマチュアカメラマンが三脚を据えて待ちかまえ、遠く離れた大阪港内に入ったあたりで横に水煙が立ちます。
消防艇が歓迎の放水をしているのです。もっと華やかなイベントであれば水煙に色が付くのですが。
ん、海を汚すと漁業組合がだまっていないはず、どう対応しているのだろう。
もっと近くでやればいいのに、スピードが遅いな、 は寒さに震える野次馬の評

3週間前、30、000tのアザマラ・クエストが入港したときは迎えるカメラマンも少なかったけれど乗船客も寂しかった。
今回も船が大きいだけ相対的に小さく見えるブラスバンドに手を振る乗船客も心なしか少ない。
食堂らしき窓には背を向けて並んで座る人達、入港シーンにはもうあまり関心がないのかも知れません。



2009.2.27−3.1

最終日

朝7時、新しいホテルは朝食バイキングも違います。
珍しいたくさんの料理にテーブルには空いたお皿がたくさん並ぶけれども、すぐに引き上げてくれるのはうれしいサービス。
だって回転寿司じゃないんだからお皿を積み上げるのはみっともない。
昨日よりだいぶ時間をかけてバイキングを楽しみ、あとOAルームで掲示板のチェックと書き込み。

今日はお昼の飛行機なので時間がコントロールしやすい首里城とやちむん通りの観光に絞ります。
三日目で那覇市内の裏道も頭に入って、さらにナビがあるのだから心強い。
首里城は戦後に復元されたそうですが、園域は広く城壁も建物も重厚で、復元作業はまだ続いていてリピーターが期待できる観光名所。
城内観覧ルートの途中にお茶を戴く(三百円)場所があり、ジャスミン茶と古来からの宮廷菓子4種のセットを白木の新しい部屋で戴きます。
落ち着いた雰囲気でお菓子も味わい深く、お勧めです。

焼物の町壷屋やちむん通りは石畳の落ち着いた通りにお店が並び、無人の駐車場(250円を自分で入れる)に車を止め散策と冷やかし。
沖縄は駐車料金がなぜか安くレンタカーで動くのには助かります。
閉まった店が多いのは日曜日に閉店する店が多いからだと、平日も観光客が来るから日曜日は休みということか。
明るく強い色彩の焼物とシーサー

帰りの那覇空港ではお昼の店を探しているとすぐ前に見覚えのある後ろ姿
毎月金曜日に飲み会があるので金曜会、のメンバー、二組の御夫婦
向こうはエスカレーターで下りる寸前で一瞬の偶然。同じように三日間の旅の終わりで、しばしお互いのルート紹介、違う便なので空港でお別れ。
お互い旅行がなければ初日の金曜夜は大阪で一緒に飲んでいたはずですが。

しばらく飛ぶと雲がなくなった飛行機では窓側、航路図を見ると北行きは九州、瀬戸内海の上に線が引かれている。
その景観を楽しみに目をこらして見ていると一度だけ海岸線が見え、すぐ消え、あとはずっとまた海
かなりの時間が経過していきなり見えたのは人工島のプラント、御坊の火力発電所か、しばらくすると山の尾根にプロペラが並んでいます。これは日高町の風力発電。
そうです。太平洋からいきなり和歌山県に入ったのです。
航路図は嘘っぱち、直線で結ぶエコフライトは資源保護に大事なことですが、こんなことを楽しみにしている小市民もいるのだから正しい情報を提供してほしい。
伊丹に着いて、航空会社、店舗、リムジンバス、タクシー、そこに働いている人々を見ると、空港廃止と簡単に切り捨てられるものかと。




二日目

朝食は7時からなのでそれまでに出発の準備を済ませて沖縄料理も並んだバイキングを相手にします。
30分で済ませて、Tシャツ、ジーパンでいざ出発
今日は北部を目指しますが具体的にどこを見るとか、どこまでとかは決めていません。成り行きまかせは性分の人生観。

東シナ海に面した広い道を走ると土曜日の早い時間で道はあまり混んではいません。
浦添を過ぎ、宜野湾では左手に米軍基地、道の両側に米軍払い下げ家具の店などが並び、
ナさんは強い関心を示すけれども駐車場がない、それにもし本当にほしいものがあったらどうするの。
鉄腕ダッシュの電気自動車海岸巡りのような走りでひたすら北へ。
残波岬では結婚式用のチャペルにまた強い関心、まもなく始まるらしい結婚式を、見ていこう、って人の結婚式見てどうするの
娘の結婚式は沖縄で、という話もありました。

ムーンビーチはふたつの緑に囲まれた三日月形のきれいな砂浜、少し黄みがかった細かい砂は珊瑚の遺骸?
端境期なのかホテルは改修中、落ち着いたいいホテルでした。
ここのチャペルもいい雰囲気で、中も見せてもらいました。

許田の道の駅でタンカン(沖縄のミカン)、スターフルーツ、パッションフルーツ、アテモヤなどトロピカルフルーツその他を箱に詰めてもらい宅配に。
料金は意外と安い、翌日はまだ沖縄だけれど宅配はもう不在の自宅に送られていました。
本部町では海洋博公園へ、美ら海水族館は時間がかかりそうなのでまたの機会にして、民俗住宅、海洋文化館、植物園などを歩きます。
何しろ広くて100円の場内循環電気バスが頻繁に走り回っています。

北上はそこまでにして戻りは横断して反対側の海岸へ
途中、パイナップルガーデン、トロピカルフルーツランドは入り口を覗いただけでパス
貸切バスは少ないけれど駐車場には同じような小型の車がずらりと並び、みな違うレンタカー会社のシールが貼ってあります。
あらためて沖縄は米軍と観光の島だということを気付かされます。

太平洋側の道沿いはわりあい地味で、観光客相手の店はあまりなくひたすら走るだけ。
米軍払い下げ家具の店へ、の願いを叶えてあげようかと嘉手納基地付近で再度東シナ海側へ、車があれば簡単に横断できるのが沖縄
ところが反対側は渋滞、疲れたナさんは、もういい

そんなにひどい渋滞には遭わず場所がわかっているホテルの駐車場にはすんなりと入れます。
今日のホテルは国際通りと県庁に面した一等地、しかもきれいです。昨年の9月にオープンしたばかりだから当然といえば当然
最上階、大画面の液晶テレビ、広いバス、エレベータにも使うカードキーシステム、OAルーム、設備も☆☆☆☆☆。

国際通りを冷やかして公設市場に再挑戦、もうわかっているので市場からスタート。
ここのシステムは下の市場で伊勢エビ、魚などを買い一人500円(3種の調理)で上の食堂で調理してもらうのです。
ここに来たら当然の下から上へのつながり、流れができていて、買った店で上の食べる店が決まる。

刺身は調理費不要で、おばさんに提案されたハリセンボンのみそ汁、赤魚の唐揚げ、甘酢あんかけの三品はコースみたいで選択指導にいやおうはない。
ちょうど下りてきたお兄ちゃんに連れられて2階へ、舟盛りの刺身は下から上がってきて、今日は車はないので、オリオンビールの生ジョッキ
おにいちゃんも含めて働いている若い男女は全て中国人、昨夜の店もそうだった。
台湾からかどうかは確認しなかったけれど、おそらくそうなのでしょう。

帰り道で、食べたかったという沖縄の氷ぜんざいを食べたのは良かったけれど、カップを捨てる屑箱がない。
完璧です、そしてゴミも落ちていない、民度の高さを感じます。
結局ホテルまで持って帰りフロントに渡す、 ナさん、 部屋で捨てればいいのに、 ごもっとも。



沖縄旅行 初日

先週、里山はお休みして金曜日から沖縄旅行
娘とムコ殿が飛行機・ホテル・レンタカーを予約してプレゼントしてくれました。
私は初めて、ナさんは三十四年ぶりの二度目
彼女はその頃福岡で沖縄系の設計事務所に勤めていて、ムーンビーチ(恩納村)のホテルの建設に関わっていて竣工に立ち会ったのです。
そのホテルは沖縄のリゾートホテルの草分けだったそうで、その今の状態を見るのも彼女には今回の大きな楽しみの一つ。

お昼の出発便で、レンタカーの手続きが完了してスタートしたのはもう3時
空港が那覇より南なので南部から回ります。
平和祈念公園にはたくさんの人の名前が刻まれた県ごとの慰霊碑が並び、全国から連れてこられ遠く離れた地で無念の死を迎えた人達が眠ります。
摩文仁の丘、ひめゆりの塔、では沖縄戦の状況が脳裏に浮かび涙腺を押さえて手を合わせずにはいられません。
やはりこのような悲惨な歴史は風化させてはいけません。
これからこのたくさんの悲しみをどのように残し伝えていくかを考えなくてはいけない。
今は平和な時代であっても過去にも戦争の狭間には平和な状態があり、それがかならずしも永続的なものでなかったことも教えておくべきでしょう。

ガイドブックを見ながら走りますが、教えてもらわないと見所がわからない反面、旧跡、市場、ショッピングスポット満載の情報は取捨選択の眼が必要です。
奥武島をぐるっと回り、玉城城跡は小さな棒状の碑が立っているだけで「本当にここ?なの」とまったく野の中の遺跡、
サトウキビ畑を抜け海縁を走り斎場御嶽には入場終了後10分で遅刻、こちらは広い駐車場に資料館が入り口になっていて完全にシャッタウト
扱われている状況が違いすぎてどちらもちょっと極端ではないのか

南部をぐるっと回り終えて那覇市中心部のホテルに向かう道は情報通りの渋滞
ホテルに着いてから公設市場に食事に出かけよう、と思っていたけれどもだんだん時間が無くなって直接向かうことにします。
レンタカーはナビが付いていて目的地設定は手こずりましたが、やはり自分の位置がわかるのは便利、すごく助かりました。

公設市場では到着がちょっと遅かった(8時まで、の情報にもう7時を過ぎていた)ので2階の食堂で食事を済ませてから下を回ろうとしたのが間違いでした。
いくつかの店に分かれたたくさんのテーブルにびっしりの周りの人を見ると、舟盛りの刺身、魚の料理がテーブルに満載、それにジョッキのビール。
下の市場で魚などを買い、上の食堂で料理してもらえることは知っていたけれども手続きがややこしそうで、もう時間がないと判断したのです。
豚の角煮中心の食事を済ませて下りると、魚やのおばさん「食事まだでしょ」に「今食べてきた」
とたんに不機嫌あらわ、写真撮るだけなら向こうに行って、みたいなことを言われます。
この沖縄の市場で観光客が生ものを買うことは基本的にあり得ない。そうすると冷やかしでしかないのです。

食事の後国際通りを散策、歩いているのはみんな観光客に思えます。だって面した店はみんな観光客相手の店みたいだから。
いろんな銘柄の泡盛を買い宅配で送ってもらいます。
ホテルに向かう道、国際通りの端を曲がる目印は地図ではB電器、でも見あたらない。
その場所は翌日泊まるホテルになっていることはまだわかりません。


2009.2.9

昨年12月からの朝の40分ウォーキングはまだ続いていますが、今朝は久しぶりに少し早めに天保山埠頭へ
7時入港予定ですがそのころ駅に到着、大通りの終端、ロータリーの向こうに船体と歓迎演奏が終わった様子の赤い服のブラスバンドの人達が見えます。

しかたがない、海遊館側のデッキに回り後ろ姿と横顔を眺め、それからマーケットプレイスと大観覧車の下を大きく回って天保山側から船首を見る。
ここでのポイントは限られアングルが選べないのが残念なところです。
時間があれば天保山渡船に乗って全体が掴めるのですが





船はアザマラ・クエスト 総トン数30277t 全長181m 全幅29m 乗客定員694名
下で待っている貸し切りバスは4、5台ほど、どう見ても乗客定員にはおよびません。
ゆったりした旅をさらにゆったりした人数でやってきたのでしょう。
今年初めの入港に待ちかまえたアマチュアカメラマンは多く、これから続く入港に春の訪れを感じます。

2009.2.2

先週60回目の誕生日を迎えました。

今年は団塊世代の後方集団が還暦ゴールになだれ込み、高齢化社会の模様はいよいよはっきりしてきます。
1929年世界大恐慌以来の不景気だそうで雇用はやはり若者が優先
団塊世代の大半が職場を離れるのはもう時間の問題でしょう。

日本のうた こころの歌、安土城をつくる、まいどおなじみの週刊シリーズ開始のCMが繰り返し流れ、
書店では鉄道模型の入門書がやけに目に付きます。
あきらかにおせっかいな「あんたたちすることないんやろ」の客寄せ、呼び込み
団塊世代のふところを狙ったビジネス攻勢はこれからますます激しくなるのでしょう。

クラブOB会の掲示板で、これからどんどん若くなりますね。うらやましい、
と還暦を祝福してくれましたが、若くなるとはどういうことなのだろうと気になり調べてみました。

還暦60年は干支からくるもの
干支はこれまで十二支のことだと思っていましたが半分違っていました。
干支の干(かん)は十干(甲乙丙丁・・・)という十のワードのサイクルがあって、
それと十二支の支(子丑虎・・・)との組み合わせで干支になるのだそうです。
私の場合は己丑(つちのとうし)、これが60年に一度巡って元に戻る、それで還暦に若くなるのは納得です。
要するにリセットでありゼロクリア。
丙午(ひのえうま)問題が顕在化するのは60年に一度のことなので次の時代はもうわからない世代ばかりになっているかもしれない。

ここで疑問が浮かびます。10の干と12の支の組み合わせは120通りあるはず、
それなのに61年目に再現するのはなぜ
これはどうも干と支が一緒に進むのがミソ、干を固定して12支を回せば121年目にしか再現しないのですが。
干支−Wikipediaにあった10と12の最小公倍数60というのはこのことか
もし12干12支であったとすれば13年目に同じ組み合わせが現れもう還暦ということ。
ということは半分の60の組み合わせはこの世に現れることはないのです。
なんだかかわいそうな気がします。

今年は娘がおめでたの予定ですが、そうなれば本当に孫と同じ干支

2009.1.7

新年あけましておめでとうございます
今年もまた母の絵(年賀状)を紹介できることをうれしく思います。
一枚ずつ全部手書きですが、所要枚数を書き終えてさらに別の絵に挑戦したところそちらが納得できたと2枚送ってくれました。
年末から正月は友人と温泉宿でのんびりお湯と料理を楽しみ、
今年も展覧会に発表する絵を描かなければ、とはりきっています

おまけでむすめのアートクラフトとホームページも紹介しておきましょう
もっとも下回りは父親の工作で支えているのではありますが