――昔から夢見はいい方ではなかった。
――そしてそれは年をおうごと、戦場へ立つごとに重苦しく心へのしかかるものへと変わっていった。
北西の地でデュナン統一戦争が勃発たころから、バレリアは同じ夢にうなされるようになっていた。
だが、目が醒めるとその夢の内容は憶えておらず、ただじっとりと気持ちの悪い汗だけが寝巻きを濡らしている。
「またか・・・」
ここは同盟軍本拠地であるランカ城で与えられた自室。
こちらに来てからというもの、前にも増して悪夢がバレリアに纏わり付く。
「・・・・・・・・・」
彼女は上体を起こし、じっとりとした額に手をあて、半ば開いた瞳で薄暗い部屋の中を見回した。
窓辺から差し込む薄明かりから、日の出の近いことを知る。
まだ体の芯に残る染みるような熱を押さえて、掛け布団の上に広げて置いたショールを肩に巻き、ベッドから降りた。
足元に置かれた部屋履きを無視して、裸足のままで窓に歩み寄る。
そっとカーテンを押しのけると、ちょうど朝日が顔を出したところだった。
バレリアは飛び込んできた陽光に目を薄め、光と共に満ちてくる安堵感にゆっくりと息をはいた。
いつもどおりの時間に部屋を出て道場に顔を出し、しばらく様子を伺ってからレオナの酒場へむかう。
ここ数日はこれといって変わったこともなく、戦争をしているとは思えないほど穏やかな日々が続いていた。
しかし、さすがに道場を出るまで聞こえる熱のはいった訓練の声が、嫌でも現在の状況を解らせてくれる。
軍人なのだから戦って当たり前・・・戦がなくとも我々は国を守るという点で、いつも何かと戦っているのだ。
いまさら悟ったことではない、剣を学び、志を持って国に仕えたころからそんなことは覚悟の上だった。
しかし、たまに感じる物悲しさ、空しさは何だろう・・・
前線で一個師団の指揮を取り何人のも兵士の命の導べとなるべき者が、迷いの感情を戦場に持ち込むことは許されない。
強い意志と、決断力、さまざまな要因が何百人の命を左右する。浮ついた考えでは他人どころか自分の命すら守るこのできない苛酷な場所。
解っている・・・
・・・解っている。
(・・・でも・・・・・・)
バレリアはふと階段の手前で立ち止まり、向きを変えて再び歩き始めた。
守護神の前を横切って船着き場の方へ降りて行く。
城の屋根の下から桟橋に出ると、目の前にはいっぱいの湖が広がる。
遠くには薄く霧がかった向こう岸が見えた。
天気のいい日はもう少しはっきりと見えるらしいが、彼女はいまだにそれを見たことがない。
何時も霧がかってはっきりとしない向こう岸・・・
「間が悪いのか・・・それとも運がないのか・・・」
まだこちらの国に来てから日が浅いため、たまたま薄いベールをまとった湖ばかりに遭遇するのかもしれない。解ってはいるのだが、なんとなく皮肉めいた言葉が口をつく。
ぼそりと一人でそんなことを呟きながら、バレリアはしばらくその光景を眺めていた。
霧のデュナン湖も嫌いではない。ただ先日、自分よりも少しばかり先にこの城に入った、マチルダの元赤騎士団長に『晴れた日のデュナン湖も格別な物だ』と酒のつまみに聞かされてから、少し気になっているのだ。
(・・・トランに帰るまでに、一度くらいは晴れた湖が見られるだろうか・・・)
湖面をなでる風に吹かれてなびく髪を押さえながら、彼女は目元に薄笑みを浮かべた。
広い湖を見ていると心が落ち着く。
波打つ水を眺めていると、ささくれだった心が不思議と穏やかな物に変わっていく。
見るものの心の中に優しい波を送り込み、労り潤して引いて行く・・・そんな感じがして、トランでもよくこうして湖を眺めていた。
「ひゃっほ〜!大漁だぜ!!」
横の桟橋の先にある小屋の方から、騒々しいはしゃぎ声が聞こえる。それは聞き覚え・・・と言うか、聞き慣れた声だ。
「・・・・・・・・・」
バレリアは短い息をはいて、静にその場から退散しようと踵を返した。が・・・
「あ、何だ〜バレリアさんも来てたの?ねね!見た?今の俺の魚の引きっぷり!ほ〜ら、こんなにデカイ魚!」
釣り場の方から、金色の短い髪の青年がさもうれしそうに、まだ活きのいいふぐを振り回しながら叫んでいる。
「あぁ!シーナさん、そんなに騒いだら魚が逃げちゃいますよ。他の人の迷惑になるから静にしてください」
シーナの大声に、小屋の方で竿の手入れをしていたヤム・クーが慌てて彼に注意する。
言われた本人は『まぁまぁ』と悪びれてあやまって見せた後、ヤム・クーのビクの中にふぐを放り込むと、全力でバレリアの方に駆け寄って来る。
迂回して来るのかと思ったのだが、シーナはそのまま勢いに乗って2メートル程間の空いた桟橋を飛んだ。
「?!」
思わずその勢いに気圧されて、バレリアもつい飛んでくるシーナを躱すように身を引いた。
彼は見事にバレリアの横に着地はしたのだが、つけ過ぎた助走の勢いに押されて桟橋から水面の方へ倒れかかる。
「うぉっ!?」
「シーナ殿!!」
慌てて伸ばしたバレリアの手が、一瞬早く彼のミスルトーの上着をつかんだ。
ドサッと音を立ててシーナは引っ張られた方へ倒れ込んむ。バレリアも彼に押され、バランスをぐずして桟橋の板に臀部を強かに打った。
「いったた〜・・・ん?」
「・・・・・・っ、全く・・・シーナ殿、もっと落ち着きのある行動を選んでください。レパント様がご覧になったらどう思われるか・・・」
彼女はじんと響く痛みに目を閉じ腰に手を当てて耐え、早口でシーナを咎めた。
やっと痛みが治まったころに目を開きシーナの顔を見ると、反省の色どころか、叱られているのに満遍の笑みを浮かべている。
「聞いているのですか!?シーナ殿!」
痛みとシーナの態度に、バレリアは顔に出して怒りを表した。
これにはさすがのシーナも、神妙な面持ちでうつむいて見せる。
まるで子犬のように反省して見せるので、彼女も仕方なく表情を和らげてやる。するとシーナがボソボソと何やら話始めた。
「いや・・・その・・・何かこんなこと滅多に無いから、ちょっとうれしくて・・・」
思い当たらない言葉に彼女は首を傾げる。
一体何が滅多に無いことなのだろう・・・シーナの無茶な行動は今に始まったものでも無い。
一転して不思議そうな顔になったバレリアを見上げながら、シーナがぽそりと先の言葉にこう付け加えた。
「だから〜・・・バレリアさんのひざ枕なんてめーったにしてもらえることじゃ無いな〜と・・・」
「・・・・・膝・・・枕?」
そう言われ今の状況を落ち着いて見ると、自分の方に倒れ込んできたシーナの頭が確かに自分の膝の上にある。
「・・・・・・・・・。」
バレリアの表情があからさまに固まる。
それを見てヤバイと判断したシーナは、すぐさま起き上がり腰を落としたままバレリアから離れて、べたな弁解を始めた。
「ちょっと、これは事故だよ、そう!事故!!引っ張ったのバレリアさんだし・・・いや、その前に俺が飛び過ぎたのが悪いんだけど、あんなに勢いつくとは思わなくて。あ、助けてくれてありがとうございました!バレリアさんが助けてくれなかったら、今頃俺濡れ鼠だし、あんなおいしい思いもできなかったわけだし・・・って、あやっ、そういう事じゃなくてだね!!」
必死の言い訳をするシーナを薄く開いた目で見つめ、何か腑に落ちない・・・といった感じのため息をついてバレリアは湖を振り返った。
湖は先ほどと変わらぬ表情でバレリアたちを眺めている。
(所詮、あなたにすればちっぽけなことか・・・)
また、心に流れ込む波がもやもやとうっとうしい感情をつれ去ってゆく。
シーナの方は、そっぽ向いたまま一向に動きを見せない彼女の態度に、腹をくくって、その場に両手をつく。
「バレリアさんゴメン!これからはもっとちゃんと考えて行動するから、もう許して。このとおり!」
正面で頭を下げ、本気で謝罪をしているシーナの声に気づき、バレリアは彼の方に視線を戻す。
その姿からは、懸命な思いがひしひしと感じられた。び
彼女の伸ばした手が、シーナの金色の髪をなでる。
ゆっくりと頭を上げると、なんとも言えぬ表情のバレリアがほほ笑みかけていた。まるで子の悪戯を許すような、そんな笑顔・・・
シーナは心の何処かで、許された安堵感ともう一つ、なんだか解らない思いをその笑顔に抱いた。
「本当にこれからは気をつけてくださいますか?」
優しい声にぐっと心をつかまれる。
・・・・・・裏切ってはいけない・・・
「約束・・・します・・・」
思いついた言葉がそれだけだった。
「約束ですよ」
最後にポンッとシーナの頭で手を弾ませてから立ち上がって彼の横を通り、去って行く。
彼はしばらく、バレリアのいなくなった景色を呆然と眺め、風の運んだ飛沫を頬に受け我に返った。
振り返ると城の中に入って行く彼女の後ろ姿があった。
「あのっ!」
シーナの声に立ち止まり、振り返ったバレリアは、いつもと変わらぬ凜とした雰囲気の彼女に戻っていた。
呼び止めたはいいが、その後の言葉が続かない。
彼は、しばらく考えてから、力無くバレリアに手を振った。それしか思いつくことが無かったのだ。
バレリアは笑顔でそれに答え、再び歩きだした。
なんとなくすっきりしたような気がして、とても晴れやかな気分だった。
(・・・なんだか先程までの鬱がウソのようだ。)
昼間でも少し薄暗い階段を上りながらバレリアはふと微笑んだ。
(考え過ぎていたのかもしれない・・・少しはシーナの楽天的な所を見習わなくてはならないかな)
先程、慌てながら必死に誤っていたシーナの顔を思い出して、含み笑いを漏らす。
階段を上りきってホールに続く廊下に出たとき、ヒラヒラと黒いものが頭の横を掠めた。
ギクリと肩を震わせ、バレリアはゆっくりと振り返る。が、そこにある物はいつもと変わりない、先程上ってきた階段があるだけ。
「・・・・・・・・・」
きっと暗いところから明るいところに出てきたので、陰が見えたのだろう。
彼女はそう自分に言い聞かせながら、歩を進めた。
隠し切れない、逸物の不安に締め付けられる胸を静めながら・・・・・
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