ミハエルが、好きだ。
 時々、たまらなくなる。

 笑顔、髪のにおい、やわらかな、小さな身体。考え方、しぐさ、すべてが、俺をとらえる。こんな気持ちを、もう何年も持て余している。力ずくで抱いてしまうのは簡単なことだったが、それをすれば、ミハエルを永遠に失ってしまいそうな気がしていた。無邪気になついてくるミハエルを、俺はただ受けとめることしかできない。そこから先へ、進めない。手に入れたいと焦っているくせに…。俺には、勇気がないのだろうか。
 …いや。
 それは、「勇気」などではない。そんな、向こう見ずな好奇心めいたものではない。俺は、ミハエルが好きだから、笑っていてほしいから…。
 欲しいのは、身体ではなく、その心。
 だから、傷つけるだけのこんな欲望は、気づかれたくない。

 それでも、抑えきれない思いが、涙になってこぼれる夜がある。
 ………時々、たまらなくなる。



「………シュミット?」
突然呼びかけられた。驚いて振り返ると、同じく驚いた様子のミハエルが、俺を見つめていた。
 月夜のテラスで、ミハエルの金の髪が、静かに輝く。少し大きめのショールが、とても似合っていて可愛らしい。羽根のないのが不思議なくらい、ミハエルはいつも「天使」だった。
「…まだ起きていたんですか?ダメじゃないですか、夜風は身体に悪……。」
「シュミット。」
言いかけた俺の言葉を遮って、ミハエルがゆっくり近づく。俺のすぐ前に立つと、澄んだ翠の瞳で真っ直ぐ見上げてきた。
「………泣いてたの……?」
「えっ。」
俺はあわてた。振り向く前に、ちょうど涙は拭ったはずだ。それに、この夜闇…。分かるはずがない。
「どうして……です?別に俺は……。」
ごまかそうとした。それを知ってか知らずか、月光をたたえたミハエルの瞳が、俺の目をのぞき込む。
「うそ。泣いてたね。」
言い切られて、俺は言葉に詰まった。理由を尋ねられたら最後、ミハエルを納得させられるほど器用ないいわけなど、出来るわけがない。本当のことだって、言えるわけがない。
「どうして…?」
言えるわけがない…。
「…泣いてなど…。あなたこそ、どうしてここへ?」
「そんな気がしたから。」
「え?」
「…ここに、シュミットがいるような、気がしたから。」
「………。」
一瞬、心臓が高鳴る。やはり、この天使にはかなわない。
「……もう、夜も更けました。そろそろ寝ましょう。俺も、帰ります。」
テラスの入り口に向かって歩きかけた俺を、再度ミハエルが呼び止める。
「シュミット!」
俺は、わざとため息をついて、背を向けたまま立ち止まった。
「………どうして、って、訊いたよ、シュミット?」
「………。」
「僕には、言えないこと?」
「………。」
「…僕じゃ、頼りなくって、ダメ…?」
「………。」
「……やっぱり、そういうことは、エーリッヒの方がいいのかな…。」
「どうしてそこでエーリッヒが出てくるんです?!……」
思わずミハエルを振り返る。真剣なミハエルの瞳とまともに目が合って、内心たじろいだ。
「…シュミット。」
「………。」
きまりが悪くなって、目をそらした。そしてそのまま、歩き出す。
その時だった。
「………っ?!」
ミハエルが、風のようにやってきて、俺を背後から抱きしめた。
「…ミハエルッ………?!」
「話したくないなら、話さなくていい。だけど、僕、心配なんだよ!」
「………。」
「シュミットが泣いてるってことも、そのわけも心配だけど、」
「………。」
「いつも君は、全部、自分一人だけで解決しようとしてしまうから、」
「………。」
「今までにも、君はこうして、独りで泣いてたんじゃないかって……。」
「………。」
「それが………。」
やばい。そう思ったときには、もう遅かった。
俺は腰にしがみつく細い腕を捕らえると、その小さな唇に噛みついた。

「………。」
しばらくその感触を味わってから、ゆっくりと唇を離す。ミハエルは、何が起きたか理解しきれていないように、ぼんやりと放心している。
甘い暖かさが胸に湧く。俺は、小さく破顔した。
「…ありがとう、大丈夫ですよ、ミハエル。」
「………でも……。」
「いえ。本当に、もう大丈夫です。」
いぶかしげに小首を傾げるミハエルに微笑みかけ、夜風に少し冷えた、さらさらの金の髪をなでる。
「あなたのおかげですよ…。」
「…だから、何がさ…?」
「安心、したんですよ。」
「………。」
ミハエルが、口ごもってうつむく。それは、良かったけど…と、小さくつぶやくのが聞こえた。
「さあ、寝ましょう。部屋まで送ります。」
「あ、…うん……。」
手を差しのべると、ミハエルは素直にすがってくる。
つながれた手を通して、何かが通い合う。
「……また、」
「何です?」
「一人で解決しちゃったみたいだね…。」
ミハエルが小さくほほえむ。
「ちょっと寂しいけど、でもそんなとこが……君らしくって、好き。」
ぎゅっと手を握る。
「ミハエル………。」

月明かりが、俺たちを照らしている。
俺のうずきが癒えたわけではないけれど、さっき唇が離れた瞬間、俺はひとつの答えを見つけた。
 
 心は、きっとつながる。
 今よりも、もっともっと。
だから、急がなくても良いのだと。心を手に入れるためには、むしろ焦ってはいけない。
不純な衝動がないわけじゃないけれど、それよりも、もっと大切なことがあるから。

 愛しい小さな天使に、俺はもう一度口づけた。 

  


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