『ヴァンアレン帯』を皆さんはご存知だろうか。
地球の外周を取り巻く放射線帯であり、陽子と電子が引力により滞留している。
人体に有害だが上空2000kmから20000kmにあるので影響は極小だ。
それにとてもよく似た語感のお菓子イベントが2月14日におこなわれている。
そしてそんなお菓子イベントに振り回されているのが、我らが横島くんである。
本当にろくな目にあっていない。強制流入チョコ生命体、捏造自分チョコ疑惑。
しかし今年は違う。小鳩ちゃんはくれるだろうし、メドーサさんも射程圏内だ。
「今日は楽しいバレンタイン、チョコを……いや、なんでもない!ふんふんふふーん!」
「……あ、あのー、横島さん?もしかして、その、甘いものとかお好きなんですかね?」
「俺ってばこの時期カカオを食わないと調子が上がんないだけ!だから気にしないで!」
「は、はあ………」
はしゃぐ横島、呆れ気味の笑顔を浮かべる小鳩、気にも留めず髪を梳くメドーサ。
ちなみに流し台横に背の高い鏡、姿見が導入された。メドーサの髪の手入れ用だ。
書き物をする度に髪を纏めるので、身嗜みに必要だと横島くんが気を回したのだ。
無論、鏡を使って色々えっちな事も画策しているのだが、あまり成功していない。
「横島、ヴァンアレン帯ってのはカカオなんて一つも浮いてなかったと思うけど。」
「あーもう、ホントにメドーサは今時を知らなくて駄目だな。よーく聞いとけよ?」
バレンタインとは、女の子が男の子にチョコをあげる2月中旬のイベントである。
チョコをあげると男の子は凄く喜ぶ。女の子はチョコをあげる事で好意を示せる。
チョコの物量は男のステータスである。その数量で男としての器量が計れるのだ。
もちろん質もある。ただ、一個も貰えない男は駄目男としてレッテルを張られる。
横島大先生の講話の内容をまとめると、おおむねそのような感じである。
苦笑いをしながら聞いている小鳩と違い、メドーサは真剣に聞いていた。
所々で講師への質問も交えながら、手元のノートにメモさえとっている。
「なるほど、人間も中々どうして自然の一部なんだねえ。そういう動物は結構いるしね。」
「でさ、残念な事に毎年ろくにチョコが貰えない男もいたりするとさ、可哀想じゃない?」
「いや、それは自然淘汰かねえ。そういうオスは子孫を残すのに適してないって事だよ。」
「あ、うん、まぁ、そう言えばそうなんだけどさ……こいつはイケてるって思えばどう?」
「あたしの経験上じゃハーレム形成ができないオスってのは、消えるもんじゃないかね。」
彼女の分析はきわめて正論である。正論過ぎると言ってもいい。
どれくらい正論なのかといえば、横島先生は既に半泣きである。
先生は、目の前の生徒にひたすら駄目出しを出され続けていた。
そして遂に我らが人類最強のヒーローは最大の奥義を繰り出す。
「メドーサ、俺にチョコをください!何でもする!キリモミ三回転土下座もしちゃう!」
「いいよ。」
「くれたら逆立ちしてビールマンスピンする!玉ねぎ入りのウドンだって食べちゃう!」
「だから、いいよって。」
「こんだけ俺が頼んでもいいよって、そいつはヒド……え?本気の本当のマブのマジ?」
「あんたが人間のオスとして劣ってるとか思ってる訳じゃないしね。小鳩もやるだろ?」
急な振りに小鳩ちゃんが硬直する。目の前のコントに強制参加させられたのだ、無理も無い。
横島は小鳩を見詰めている。市場に行く荷馬車の子牛だってここまで悲しい眼をしていない。
小鳩はその視線に耐え切れず、うつむき赤面しながら、小さな声で小さく小さく返事をした。
「あの、私のなんかで本当に良ければ、その、もちろんあげますけど……」
「やたっ!ありがと小鳩ちゃんっ!逆立ちビールマンスピン練習するね!」
「あの、別に、それが見たいからあげるってわけじゃないんですけど……」
ビールマンスピンとは、片足を上げた状態で手で持ち回転するフィギュアスケート技。
それを逆立ちでするとなると、軸になる頭頂が摩擦熱で燃えかねない危険な技である。
将来ハゲが確定している横島くんには、別な意味でも危険であると言わざるを得ない。
ただ、それでも、過酷なリスクを背負い込んででも、横島忠夫はチョコが欲しいのだ。
「チョコねえ……魔鈴の所が料理屋だし詳しいかねえ?時間見つけて行ってこようか小鳩。」
「そんな高級なのじゃなくてもいいからなー!あ、ちなみにポッキー1本とかは勘弁だぜ?」
「別に毎日食わせるもんじゃあるまいし、それなりに奮発してやるさ。期待して待ってな。」
「ありがとおおおおおおおおおおおおお!2人とも愛してるちゅっちゅ!ひゃっほおおお!」
さっそく部屋の中で逆立ちしながら、首の力だけで跳ね回っている横島少年。
訓練は日頃の反復というメドーサの教えを守っているあたりに成長が窺える。
ただし、その方向性が果たして正しいのかどうかというのは、別問題として。
一方、鬼の哭く街カサンド……もとい、鬼の棲む島『鬼ヶ島』。
特に岡山県とは関係ない。鬼ヶ島自体は異次元に存在するのだ。
かなりの敷地面積を誇り、ゴルフ場や雀荘競馬場まであるのだ。
もちろん鬼が棲むわけなので、住宅地やマンションだってある。
『ねえ【娑婆鬼】君?私のバレンタインチョコ、受け取ってもらえる?』
「あー、こいつは水色の奴だか?受け取ってイベント発生のはずだべ!」
『オーッホホホホホ!引っかかったわね!コレで貴方は私の実験台よ!』
「ああー!こいつ青だっただ!顔が一緒でぜんぜん見分けつかねーべ!」
広い部屋に52インチ薄型テレビが壁面に鎮座し、ゲーム機がそこに繋がっている。
部屋の中は白を基調にした壁紙、セミダブルの二段ベッドと学習机が置かれていた。
壁には角の生えたアイドルのポスターが、そして本棚には厚薄織り交ぜた本が並ぶ。
「ぬがあああああ!やってられねえっぺ!こんなんどこが面白いんだっぺ!」
部屋の主はコミックケツァルコアトルで尻子玉勝負をした娑婆鬼くんである。
もっとも途中から、横島くんと美神さんの一騎打ちになってしまったのだが。
次回の同人勝負の為に『第三次スーパーギャルゲー大戦EXAM』プレイ中。
ゲーム大好き小学生も、総勢890人のヒロイン攻略に苦戦しているようだ。
「お、やってんなー?ねーちゃんが手伝ってやろかい?」
二段ベッドの上段の住人、姉の夜叉鬼が弟に後ろから抱きつきながら優しく問いかける。
年の離れた姉弟である。片や12歳、片や21歳だ。その差は9歳というから恐れ入る。
ちなみに鬼の寿命は幾年かとは結論の出ない話題だが、薄桜鬼が人間と一緒らしいので、
まぁ人間と同じだと思っていただきたい。
「べ、べたべたすんじゃねーべ!オラ忙しいだ!今度は負けられねえんだべ!」
「ん?今度は?……オメー、まさか、この前の勝負さ負けちまったんだか?!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
娑婆鬼の全身にどうと汗が浮かび上がる。無論温度や湿度が関係している訳ではない。
地熱自家発電機で電力を賄われている鬼族家庭では、常時適温適湿が保たれている。
それは精神的なストレスから来る発汗作用、いわゆる冷や汗という奴である。
「ねーちゃん、勝負には勝てっていつも言ってるべな?おぼえてっか?」
「う、うん、お、覚えてるっぺ。鬼族にとっては勝負事は絶対だべ……」
「黙ってたらバレねえって思ってたべ?そげなこと許されねえ事だべ?」
姉鬼が胸元を押し付け首を腕に絡ませたまま、弟鬼への締め上げを段々と強くしていく。
ここで横島くんならその感触に歓喜の涙を浮かべる所であろうが、弟君はそうならない。
圧倒的な強者に拿捕され生殺与奪を握られており、更に強者はすこぶる機嫌が悪いのだ。
娑婆鬼は生命の危機を回避せんと全ての脳細胞をフル活動し、死中の活を探しつづける。
そして、その記憶の奥底に一筋の光明を見つけた。
「りゅ、竜神だ!オラの尻子玉を竜神が邪魔しただ!オラ竜神には勝てねえっぺ!」
「竜神だぁ?寝言は寝てから言うべ。なんで竜神が小鬼の勝負に首突っ込むだ?!」
「本当だべ!ヘビ山ヘビ子って、こんな感じの竜神が―――――――」
娑婆鬼くんも勝負こそ負けたものの、同人屋としては一端の才能を持っている。
多少なりとデフォルメされているが、非常に特徴を捉えてメドーサを模写する。
姉鬼は脇目にそのイラストをまじまじと見つめて、拘束していた両腕を離した。
「たすかにこりゃあ蛇系独特の顔してっぺ。でも本当だか?オラ嘘が大嫌いだぞ?」
「嘘じゃねえっぺ!ほれ、この本に住所も書いてあっぺ?!実在スるんだっつの!」
「本当なら竜神とはねーちゃんが勝負するべ。小鬼の邪魔する竜神なんか許せね。」
「え?そ、それはやめといた方がイイべ!すっっっっっげえ強えぞ!あぶねえべ!」
言っている事に嘘はない。メドーサは多少なりと勝負に介入し成果も上げた。
だが、主体だったかと言えば必ずしもそうではない。弟は穏便に済ませたい。
しかし火のついた鬼というものは、他の言う事など全く耳を貸したりしない。
「ほれ、乗っかれ!今から出ればオメ、東京なんかあっちゅう間だべさ!」
「ね、ねーちゃん!これねーちゃんの全財産でねえか!やっぱやめっぺ!」
「勝負には張り駒が必要だ!鬼族は負けること考えちゃ駄目なんだっぺ!」
ご意見無用のイラストを側面背面に刻んだダンプカーが、唸りを上げはじめる。
ご意見無用の姉鬼が運転し、ご意見不要の弟鬼が諦め顔を助手席から覘かせる。
爆音と共に一路鬼ヶ島から人間界、そして豊島区池袋を目指していたのだった。
その後少々時間は進んで、横島くんのお部屋。
本日唯一の仕事だった午前の除霊が終わり、昼餉も小一時間が過ぎようとしていた。
湯飲みに注ぐ小鳩、それを受け取るメドーサ、器用に逆立ちで茶碗を差し出す横島。
そして炬燵の上も片付き幾らか休み終えた頃、竜神様が片膝を突いて立ち上がった。
「じゃ、あたしと小鳩はチョコ調達に行ってくる。戻って留守ならやらないからね。」
「はっ!この横島、地域限定核戦争が起きても一歩も出ませぬわ!ご安心めされよ!」
「あ、あの、核戦争のときぐらいは逃げてもいいですけど、出来れば居てください。」
逆立ちしながら二人を見送る横島くん。既に手なぞ使わずに倒立移動が可能となっている。
見送った後、地デジ化に非対応のテレビを点け、ビデオデッキにとあるテープを送り込む。
『悶絶チョコ地獄!隅から隅まで食べて嘗めて吸い尽くして!』とシールが張られている。
「ふっふっふ、メドーサも小鳩ちゃんもいないのは久々だ!さてさて、いざ再生をば……」
「ごめんくだせー。こつらヘビ山ヘビ子さんの御宅だべか?」
「ああもう!こんなタイミングで!……まてよ?!もしかしてチョコくれる女の子かも!」
逆さまに置かれたテレビの電源を器用に切り、首の力で玄関まで跳ねていく横島くん。
足だけで器用に扉を開ける。すると彼の目に飛び込んできたのは、ミニスカとパンツ。
褐色の肌に濃色のストッキングと、無地の白パンツのコントラストが彼の視線を奪う。
「おほおおおおお!こりゃビデオ見てる場合じゃねえ!なんという眼福オブ眼福!」
「おめえ、ヘビ山ヘビ子じゃねえべな?誰だ?!鬼に隠し事すっと痛い目見るべ!」
「ヘビ山ヘビ子なら今買い物中だよ。おねーさん、うちのヘビ山に何の御用だい?」
「先日はオラの弟が世話になったようでな、ぶっちゃけリベンジっつーやつだべ!」
半ズボンの少年小鬼が姉の手に耳を持たれながら姿を現す。
横島はその小鬼には確かに見覚えがあった。確か有明の即売会にいた小鬼だ。
ただし、彼にとっては非常に些細な出来事で、正直そんなに印象は強くない。
同人勝負が終わった後に、哲少年から小鬼が相手と知らされた程度だからだ。
「あー、うん、そういえばそんな事あったなー。で、おねーちゃんも同人勝負を?」
「そんな社会不適合者みたいな勝負はしねえべ!この中からくじ引きで決めるだ!」
ゴルフ、将棋、囲碁、マージャン、チンチロリン、バカラ、パチンコ、Eカード。
その他にも賭けと付く競技に関してはほぼ全て網羅されているボードが出てくる。
しかし、横島忠夫は目の前のパンツから一瞬も目を放すこともなく、言い放った。
「なるほど、イカサマ………」
「な、なんだと!?鬼はそんなズルしねえべ!」
「そこに出てる奴でイカサマが無い奴はあるか?自分の目でよく見な。」
もちろん勝負事とはどちらかが手心を加えさえすれば、イカサマになりうる。
更に賭け事となればイカサマの歴史は古い。グラサイなどはその有名な例だ。
語源は不明なのだが、サイコロに重りを入れて出る目を調整するイカサマだ。
「そ、そんな!オメー、オラがイナカモンだから煙に巻こうとしてるだか!?」
「ふ、勝負しないとは言ってない。勝負の題材は……チョコレートでどおだ!」
逆立ちを維持しながらも、器用に夜叉鬼嬢を指差した横島くん。
姉鬼は横島の意味不明の迫力に、2歩ほど後ずさりしてしまう。
よろけたところで弟が支えるあたり、姉弟の仲の良さが伺える。
「りょ、料理勝負だっぺか……オラ、弟のメシくらいしか作ったことねえっぺ……」
「なら弟にチョコをやるつもりになれ!食うのは俺だけどな!それとも諦めるか?」
「え?あ、あうー、うー、―――――――――おい、おめえオラのメシは旨いか?」
先程までの強気はどこへやら、上がっていた眉を下げ不安そうに弟を見つめる姉。
いつもとは様子の違う姉のその悲しげな表情に、弟は目線をふっと地面にずらす。
正直、子供にそこまでのグルメな判断は出来ないし、それ以外の感情も若干ある。
「そ、そーだべな。ねーちゃんは、料理とか裁縫とか、からっきしだべな………」
「――――ねーちゃん、そんなことねえだ!ねーちゃんの料理は鬼族一だっぺ!」
「そ、そうだか?おめえ、オラの料理さ食べてて、まずくはなかったんだか?!」
「そんなことねえ!うんめえっぺ!オラ、ねーちゃんの料理が一番好きだべ!!」
必死に力説する弟鬼の姿に、姉鬼はその頭を力いっぱいかいぐり回して答えた。
その表情に弱気も迷いも無い。弟の好きな、弟が好きな姉の表情に戻っていた。
パンツを覗きながらの横島も、その姉弟愛に首逆立ちしながらも器用に頷いた。
「そこのおめえ!なんでも売ってるところはどこだべ!金棒とかもほしいべ!」
「え?金棒とかなんでも?うーん…………何でもだと、厄珍堂、かなあ?……」
「すぐに教えるだ!!オラが迷子にならないように、地図もちゃんと書くべ!」
「へいへい。」
逆立ちして地図を描く。普通は絶対不可能と思われる動作である。
しかし並みの人類なら、である。横島忠夫は不可能を可能にする。
頭頂のみで倒立し、空いた手で器用に紙を手繰り寄せ地図を書く。
縮尺100分の1、道路幅、建築物名、地名、信号名、出入り口。
航空写真を起こしてもこうはならないだろうという程の正確さだ。
「ここが厄珍堂だからねー。……あと、最後に俺の前でしゃがんでくれません?」
「???別にいいだが、なんかあるんか?」
「いやいやいや何も無い!!よし、地図代ごっつあんです!いってらっしゃい!」
「??????????????????」
視界一杯に広がる桃源郷を堪能した後、彼は慌てて手を振り会話を終わらせた。
しゃがんでいた姉鬼が怪訝そうな顔をしながら立ち上がり弟と共に扉から出る。
横島少年はいまだ倒立中。パンツが扉の向こうに消えた後、ふたたび跳ね回る。
「くっくっく!きれーなねーちゃんのパンツもチョコもゲットしたし!俺様すげえ!」
余人不在を確認した横島くんはリモコンを手に収め、ビデオの再生ボタンに指をかける。
だが、彼はそのリモコンをふいと投げ、再び部屋の中央に戻ってスピンの回転を上げた。
その瞳孔には古い昭和のアニメのような、炎のイメージが浮かんでいるかのようである。
「もはやエロビなぞ不要!ヴァンアレン帯の神様が最高のプレゼントをくれるに決まってる!」
生真面目な女竜神、ビールマンスピンと引き換えにチョコをくれる隣人、まんまと騙した鬼娘。
美女美少女から3個のチョコ、それはレギュラーとビッグがあるならビッグ確定といっていい。
横島少年は隠し切れぬ笑みを浮かべながら、約束の大技に向けて更に精進を続けるのであった。
一方、魔法料理店魔鈴。
いつもは落ち着いた雰囲気のビストロであるが今日は違った。
ひっきりなしに入り口をくぐる人波は途切れる事を知らない。
そう、魔法チョコレートを求める客でごった返しているのだ。
その入り口では、メドーサと小鳩ちゃんが立ち尽くしていた。
圧倒され気色ばむ小鳩ちゃんと対照的にメドーサは呆れ顔だ。
「魔鈴に作らせようかと思ったけど、これじゃさすがに頼みづらいかね。」
「忙しそうですから、一旦帰って時間を空けましょうかメドーサさん……」
「関係者なんだ、胸を張って挨拶すればいい。怖いなら目つぶっときな。」
「そ、そういうもんですか。……わ、判りました!胸はって進みます!!」
メドーサに促されるままに、小鳩ちゃんも申し訳なさそうな猫背をやめ、背筋を伸ばす。
そんな二人は並びながら、混雑する店内に向かって躊躇無く威風堂々と突き進んでいく。
すると何故か小鳩とメドーサの二人の前に、モーゼよろしく道が拓けていくではないか。
「戦いは数なのねお姉さま!」
「マルクス主義は死んだわ!ここにこのよーな富の偏在があるなんて!」
「巨大に敵に立ち向かうノミ、これを勇気だなんて呼べやしないわよ!」
堂々と胸を張る二人に恐れおののき崩れ落ちていく店内の女性客の面々。
なにせ102と110、衣服の分による些細な誤差などものともしない。
そのような周囲に一瞥もくれぬ竜神と、言われるがまま目を閉じる少女。
忙しさにてんてこ舞いの魔鈴であったが、流石にその光景に気がついた。
「あー!ヘビ山さん!ノートありがとうございます!すっごい助かってますよ!」
「良ければまた一冊送っとくよ。それより今日はチョコ作りに来たんだけどね。」
「いいですよ!あ、使い魔のルーチン入れ替えるんでちょっと待ってください!」
包み紙を目の前の女性客に渡し終えると、魔鈴と猫が入れ替わる。
そして魔鈴が右手の指先を何度か振り上げて口元を小さく動かす。
すると店内の使い魔が動きを止めて、レジを中心に配置を変える。
「おや、真言使えるようになったのかい。意外と筋がいいみたいじゃないか。」
「あのノートのおかげです!さ、お店はこの子達に任せたんで、奥へどうぞ!」
多忙の最中に連絡も無しで現れた珍客だが嫌な顔どころか満面の笑みでの厚遇だ。
もちろん理由はメドーサのくれたノート。そこには真髄と奥義が満ちていたのだ。
厨房の奥の扉を開けると、そこは白い壁に囲まれた無限の空間が広がっていた。
扉を閉めると、空間は無音になる。そして機材がある一角を目指し魔鈴は進む。
そこは不思議な鳴き声も不気味な唸り声も無く、怪鳥も瘴気も存在していない。
「……へえ、魔界にでも繋げてるのかと思ってたけど、結界とは恐れ入ったねえ。」
「風水の結界技術ってすごいです。その分消費は激しいんで地獄炉頼りですけど。」
「なるほど、地獄とつないでエネルギーを取ってるってわけだ。勉強になったよ。」
無論神族であり魔族裏事情にも精通しているメドーサが地獄炉を知らぬはずもない。
しかし、ヘビ山ヘビ子さんとしては、ちょっと魔法に詳しいだけの人という設定だ。
設定の整合性を取る為に、こういう細かい所でわざと底の浅さを演出しているのだ。
「うわー、外国の本がこんなにたくさん……す、すごいですね。」
「確かにね。こりゃ原書とか一次写本ばかりだよ。流石は魔鈴。」
「背表紙だけで判るヘビ山さんのほうが凄いと思いますけどね。」
そして本棚を抜けると、そこは実験室となっていた。機材は多岐にわたっている。
フラスコ、ビーカー、蒸留器、アルコールランプ、鉄鍋にオーブン、圧力釜まで。
理科室と厨房が合体したような状態である。薬棚も遥か視界の先まで続いている。
「ある程度の食材も薬品もストックあるんで、色んな事出来ますよ!さ、どうします?」
「あたしは自分でやるから気にしないでいいよ。それより小鳩の世話してくれないか?」
魔鈴めぐみが視線を移すと、そこには気弱そうな少女が水道の蛇口に触れたりしていた。
魔女は小考する。ヘビ山さんの付き添いということは、それなりの術者と見るべきだと。
そして業界に多少なりと見聞のある彼女は、見た目が判断材料にならぬ事を知っている。
「では小鳩さん。どのような魔法薬が欲しいです?ヘビ山さんに内緒でお作りしますよ?」
「ま、魔法薬?!……じゃあ、目の前の相手が好きになるようなの、とか出来ますか?!」
魔鈴は洗脳の類の魔法薬も研究はしている。だが倫理的な問題もあり外部には出してない。
しかし、魔法の大家であるヘビ山女史の付き人の依頼。その力量を試されていると感じた。
手元にある『摂取した人間が眼前の人間に惚れる薬』を惜しげもなくボール容器に入れる。
「それだけでいいですか小鳩さん?他にもいろいろ出来ますよ?」
「え?!えと、他にもって……そんなに入れて大丈夫なんです?」
魔鈴めぐみは確信する。この少女は見た目と違いやはり魔法に精通していると。
魔法薬の類はそのバランスの難しさから複数の効能の混合は御法度なのである。
よく知らない素人なら欲張って色々混ぜて失敗する。しかし、小鳩は拒絶した。
「そうですね、色々入れちゃいけません。魔法とはストイックであるべきです。」
「???あ、そ、そうなんですか……お詳しいんですね。さすがです魔鈴さん。」
ちなみに小鳩ちゃんは非常に良い子ではあるが、魔法には精通していない。
単に控え目なのだ。『大丈夫』も向こうの都合を考慮しただけの事である。
多少の行き違いこそあったが、小鳩ちゃんは惚れ薬をゲットしたのだった。
「よっし、これで細工は完成っと。魔鈴、ここでチョコってのは一から作れるのかい?」
「あ、うちはグロスでパティシエさんから買ってます。その辺は流石にプロでないと。」
「まぁそうだろうね。悪いんだけどさ、あたしと小鳩にいくらか分けて貰えるかねえ?」
冷蔵庫を開けて布に包まれた30cm四方のブロックを取り出す魔鈴。
湿った布を丁寧に開くと、そこには濃い茶色の艶のある塊が顔を出す。
市販のチョコではなく、いわゆる生の状態の業務用原材料という奴だ。
「小鳩、チョコってのはどう加工するんだい?削り出しってのも面倒だしねえ。」
「湯煎をして、一回溶かして型に入れるんです。……あの、湯煎って判ります?」
「馬鹿にするんじゃないよ。ユセンくらい聞いた事あるさ。ユセンは得意だよ。」
魔鈴は茶色いブロックを適当に三等分して、メドーサ、小鳩、自分に分ける。
小鳩はオーソドックスに包丁で刻んで、受け取った薬液ボールに移していく。
魔鈴も小鳩とほぼ同様ではあるが、入れる容器は薬液の無い空のものである。
そしてメドーサさんは、というと。
「あ、あの、メド………ヘビ山さん、湯煎ですよ?」
「知ってるって。鯛茶漬けなら結構食べたからね。」
「ああー……あの、そ、それは、湯霜造りです……」
魔鈴からもらったチョコレートに、何のためらいもなく熱湯をかけているメドーサさん。
ボール内のチョコレートは即座の溶け落ちて、お湯と混ざりあった茶色い液体と化した。
武芸百般文武両道スーパーチート神様ではあるが、世界中どの時代にも居た訳ではない。
欧州でチョコレート研究が盛んな時代であった頃には、アジアで神業を営んでいたのだ。
ちなみに湯霜作りとは、魚の切り身の皮の部分に熱湯をかけて鱗を硬化させる技。
硬化した鱗の食感と魚の身の食感のコントラストが嬉しい日本料理の技法である。
ただし、かけ過ぎても身が固くなるし少ないと鱗が硬化しない。匙加減が難しい。
「んー、こりゃあ飲み物だねえ。ま、いいか。横島も別に文句は言わないだろ。」
「ですね。ホットチョコレートで控え目に伝える、なんてけっこう今風ですよ?」
「これが今風かい魔鈴?ふふん、そーだろそーだろ、あたしは今風だからねえ。」
うれしそうに照れるメドーサと対照的に、2人のセリフを聞いて手を止める小鳩。
手際も流石なもので、おさげ少女は既に型に入れて冷蔵庫に仕舞おうとしていた。
その型は一番大きなハートの型枠。デコレーション用のチューブも用意していた。
「おや、小鳩さんはハート型ですか。なるほどー、心臓は生命の源泉ですもんね。」
「し、心臓?!あの、別にこれは内臓とかを意識したわけじゃないんですけど……」
「マヤとかインカじゃ心臓を捧げてたしね。横島も信仰されれば嬉しいだろうさ。」
実際控え目とは無縁な鉄板のシンボルなのだが、小鳩ちゃんは特に反論しない。
さすがに『どう考えたってコレは好きです(はーと)だろがコラ』と叫ばない。
チョコを仕舞うと同時に、その出かかったセリフも心の中にそっと仕舞うのだ。
こうして、小鳩ちゃんとメドーサさんのらぶらぶチョコは完成に向かっていた。
一方姉鬼と弟鬼を乗せたダンプカーは、特に迷うこともなく無事に厄珍堂へと到着した。
判り辛さでは都内屈指の池袋界隈で地図だけで着けたのは横島の才能の成せる業である。
いかがわしい店構えも怪しげな店内も、鬼にとって特に気に留めるほどのものではない。
「ごめんくだせー、誰かいねーべかー?何でも有るって聞いて来たっぺ。」
「アイヤー、お客さん御目が高いネ!ウチには何でも揃ってるアルよー!」
「ええっとな、すげえチョコくれろ!どんな奴にも負けねえのがいいだ!」
「ねーちゃん作るんじゃなかったのけ?いきなりインチキでねーか………」
「勝負は勝ってナンボだっぺ!使える手は全部使うのがオラの流儀だべ!」
「おーけーアルヨ、チョット待つヨロシ!」
サングラスにナマズヒゲの小さな中年が、店の奥に駆け出した。
数秒後には両手に山盛りの箱を抱えて、店先に飛び出してくる。
接客商売は応対時に歩かないという鉄則をキッチリ守っている。
「これなんか凄いアルよー!生きているチョコ!可愛いアルよー!」
「あー、オラは嫌いじゃねえがよ、人間はこういうの食えんのか?」
「ねーちゃん、コレは鬼でも気が引けるべ。人間はもっと繊細だ。」
妖精の形をしたチョコが可愛らしく動きながらアピールしている。
数年前に失敗したと言って断念したかと思えば、そこは厄珍堂だ。
今年もしっかり作り、売りつけるタイミングを計っていたらしい。
「じゃあこれなんかどうアル!食べると超能力が芽生えるチョコ!無敵になれるアル!」
「オラそういうのは欲しくねえ。こう、『コイツが一番』って思えるチョコがいいべ!」
「うーん、そう言われても困ったアルな……おお、そうだった!あれがあったアルよ!」
小さな中年が店の奥の棚の上から、陶器製のツボを一つ取り出す。
『取り扱い注意』と手書きの札には書いてあったが、破り捨てた。
中を見ることは出来ないが、運ぶ時の水音から中身は液体の様だ。
「コレは強烈ネ!コイツかければ相手はイチコロよー!石像だって動き出すアル!」
「買った!あと一番いいチョコと洋酒もくれろ!金ならたくさん持ってきたっぺ!」
「売った!その代わり代金は山ほど置いてくヨロシ!」
「わかっただ!そんじゃあ、好きなだけ受け取るべ!」
ダンプカーの荷台が厄珍堂の店先に突っ込み、その荷が流し込まれる。
金銀財宝。昔から鬼退治でもらえるとされるクエストアイテムである。
厄珍堂では円ドルユーロに重金属から小豆にいたるまで支払い可能だ。
「うはははははははははは!まいどありー!また贔屓にするヨロシー!」
「やっぱ都会は何でもあっぺ!これで勝ちは決まったようなもんだべ!」
「あ、う、うん、オラも多分ねーちゃんが勝つとは思うけんどもよ……」
口を濁す弟鬼の前にしゃがみこむ姉鬼。その顔はやさしげで真剣だ。
弟の顔をじっと見つめる姉に、その視線をやはり逸らしてしまった。
しかし今度は姉が弟の頭を掴み、強制的にその目線を合わせてくる。
「オメ、オラのことがそんなに心配だか?オラが負けると思ってんべか?」
「そ、そうじゃないんけんど、オラ、ねーちゃん勝てると思うけんど……」
「鬼族はな、勝負事は大事だ。でもな、それ以上に家族はもっと大事だ。」
「ねーちゃん………」
「弟の為ならオメ、実力なんか倍になるってもんだ!ねーちゃん信じろ!」
姉は弟をひょいと持ち上げるとダンプの助手席に投げて、自分は運転席に向かう。
やがてディーゼル車独特の低い音が響き、大型の土砂運搬用車両が発進していく。
これで三人のチョコは揃った。あとは主役のテイスティングを待つばかりである。
(後編につづく)