椎名作品二次創作小説投稿広場


ばらの花

第六話:ポケットに虹がいっぱい


投稿者名:ライス
投稿日時:08/12/ 7



 青空をぼんやりと見る。すると柔らかい日差しが目に入り込んでくる。外では風が木々を揺らし、砂ぼこりを起こす。よく晴れた日の緩やかな昼下がりだった。
 五限が終わり、キヌは窓際に立っている。外を眺めていた。すると急に、校庭の真ん中で風が渦巻き出した。砂のつむじがぐるぐる吹き荒れる。チャイムの音が鳴っても、構わずぐるぐると。
「うわ、ひでえ」
 気付くと、一文字が側に立っていた。
「私ら今日、体育なくて良かったなあ。風のある日ってこういうのがあるからやだよ」
「ほんとに」
 キヌは愛想笑いして、頷く。
「二人とも、先生来てるわよ」
 弓の注意が聞こえて、授業が始まっているのに気付いた。二人は急いで自分の席に戻った。
 授業の最中、風はまた強く吹き荒れる。キヌは視線を窓の方へ移した。ガラスが軋み、がたがた音を鳴らす。嫌な風。見えない風を睨み、黒板をまた見た。
 彼女は肘を突いて悩んでいた。あの夜の出来事が脳裏に浮かぶ。悪いとは思っている。が、自分の感情にも嘘はつけない。明確な答えが出てこないのだ。どうするべきなのか。三者三様に浴びせられた言葉。その端々に付いた棘が、思い返すたびにキヌの心へ突き刺さった。
『こういう状況になったのは、おキヌちゃん自身のせいじゃない』
 板書を書き取る手が止まる。タマモの言葉がふと耳に響いて、消え去らない。だめだ。眉間に皺が寄る。腹の底でもやもやした感情が淀む。授業に身が入らない。机の上の教科書へ目をやった。開かれているページを穴の開くほどにじっと眺め、何度も読み返す。目の焦点を本を合わせても、集中が出来ない。キヌは余計なものを振り払おうと、ペンを強く握り返した。けれど、彼女たちの声は湧いてくる。
『おキヌどのは先生を、横島先生を愛しているでござるか?』
『はっきり言いなさいよ!』
 忌々しい。キヌはついに目を細め、下唇を噛んだ。分かっている、分かっているからこそ腹立たしくもなる。好き勝手に言いたい放題されて、言い返すことも出来ない。歯痒さだけが残って、彼女は渦巻く頭の中で煮えくり返っていた。
 利き手ががくんと急に落ちた。シャーペンの芯が折れている。どうやら強く力を入れ過ぎたらしい。力負けして、バランスを崩したのだ。いけない。彼女は我に返って、姿勢を正した。それから折れた芯を軽く払って、シャーペンの頭をノックする。
 静かに息を吐く。
 キヌはその場での考え事を止めた。授業には案外、集中できた。
 しばらくして鐘の音が授業の終わりを告げる。
 放課後。ホームルームも済んで、昇降口の下駄箱まで何を考えるわけでもなくやって来ていた。周りの喧騒を尻目に、キヌが自分の靴を取り出して、履こうした矢先。
「おキヌちゃん」
 一文字と弓が追いかけてきた。彼女たちの姿を見て、足を止める。二人は下駄箱の中に手を入れながら、キヌに喋り続けた。
「どうしたのさ、何も言わずにさっさと行っちゃって」
「ごめんなさい、ちょっと急いでたの」
 それは本当だ。帰りがけに足りなくなった野菜とか果物とかを、スーパーに買いに行くつもりだったので、いつもより早足になっていたのだろう。
「そっか。なんだか授業中、おキヌちゃんうわの空だったから」
「ずっと居眠りしてた人がなに言ってるんですか」
 弓が一文字を小突く。キヌも思わず吹き出しそうになった。確かにさっきの授業、一文字はほとんど机に突っ伏して、身動き一つしていなかった。その姿を思い出すと、弓が口を挟みたくなるのもよく分かる。
「ちょっとおキヌちゃん、笑う事ないじゃないか」
「だってほら……間違ってはなさそうだなあって」
「ほら見なさい。氷室さんだって認めているじゃないの」
 得意げな弓に、ぐぅの音も出せない一文字。否定できない事実を彼女は悔しそうに舌打ちする。
「ちぇ、おキヌちゃんにまで言われたら、私の立場がないじゃないか。心配したのに損した気分だよ」
 一文字が拗ねながら言った。キヌと弓はお互いに顔を見合わせて、笑う。ちょっと気が楽になった。
 三人は昇降口を出て、校門の方へゆっくり向かう。外の風は先ほどとは違い、そよぐ程度。周りの生徒たちはみんな、和気藹々にかしましく下校している。
「賑やかですね」
「まあ相変わらずでしょ、この位なら」
 楽しそうな風景。ちょっと前までは素直にそうだと感じられたのに、今は距離を感じてしまう。その理由はあまりにも明白だった。その感情が冷ややかに通り過ぎていく。さすがにうんざりして、キヌはひっそりため息を吐いた。
「氷室さん」
 弓が話しかけてきた。ため息をしていたところを見られたのだろうか。
「まだなにか、私たちに隠し事してません?」
「え……」
 彼女の問いに一瞬、言葉を失いかけたが。
「大丈夫ですよ。本当に、大丈夫です」
 キヌはまた笑顔を見せて返した。
「本当に? 本当にないの?」
「ええ」
 嘘。キヌは嘘をついた。二人を心配させたくないがために、淀みなく言葉を吐き捨てた。その満面に張り付いた笑顔を友人たちに見せつけて。
「嬉しいです。弓さんも一文字さんも、私を心配してくれるなんて。でも、本当に何もないんですよ? だから安心してください」
「……辛い事があるのなら、相談なさいな。私たちの仲なのですから」
「そうだよ、おキヌちゃん」
「うん、二人ともありがとう。けど」
 仮に話したとして、聞いた話を二人はどう思うだろうか。かえって迷惑なのでは、とキヌは逡巡した。洗いざらい話してしまえば、どんなに楽だろう。それをしないのは、ひとえにキヌの相手を思いやる気持ちが働いていた。ましてや美神は弓が尊敬して止まない人物であるし、横島が原因で彼女と喧嘩しているとなると、とてもでないが言える気がしなかった。
「バス、来ましたから。急がないと」
 校門の前をバスが通り過ぎ去ってゆく。少し先の停留所へまもなく到着するようだった。
「じゃあ、また明日っ」
「あっ、氷室さん」
 キヌは急いで校門へ走った。遠ざかる二人を背にして、バスを急いで追いかけなければならない。
「おキヌちゃん!」
 すると一文字が大声で呼び止めた。キヌがすぐに振り返ると、彼女が何か放り投げる。
「これは……?」
 手に受け取ったのは一本のリップクリームだった。まだ買ったばかりらしく、コンビニのテープが張り付いたままである。キヌは足踏みしながら、一文字を見た。
「それ、あげる! 何があったか知らないけどおキヌちゃん、ずっと唇ががさがさだしさあ。塗っときなよ?」
 一文字が大声で言うのを聞きながら、キヌはそっと唇に触れた。確かにがさついている。言われるまで気づきもしなかった。普段は服装や身だしなみなど、ちゃんと心がけているはずなのに。こんな些細な事を忘れていたなんて。
「すみません、明日返しますね!」
「いいって。それより早く行きな!」
 バスは長く待ってはくれない。バス通学の生徒が多くいるとはいえ、乗客が全て乗り込んでしまえば、発車してしまう。キヌは大きく手を振って、見送る二人をあとに大急ぎで停留所に向かった。


 ◇


 バスのつり革にぶら下がり、十分。電車に揺られて、二十五分。気付けば、キヌは最寄り駅の改札口に立っている。下校時間はあっという間だった。かさかさだった唇も一文字からもらったリップクリームを塗ったおかげで、元に戻っている。また指で唇に触れると、今度はぷるんとした感触があった。
 さて、買い物を済ませなければ。キヌは駅を後にして、事務所近所の商店街に向かう。横断歩道を横切り、駅前にある飲み屋の通りを過ぎて、しばらく歩くとアーケードが見えてきた。中には店屋が立ち並んでいる。スーパーはその一角の外れに位置していた。
 店内に入って、キヌはかごを手に取ると売り場に向かう。少なくなっていた野菜や牛乳、予備のバターやジャムを放り込んでいった。
 今日の夕飯はどうしようか。魚にするか、肉にするか。この問題は彼女にとって、わりに悩む所だった。献立を考える身としては、バランスよく栄養を取らなければと思うし、なるべく昨日の夕飯と被らないようにしなくてはならない。これが結構難しいのだ。
 キヌはおもむろに豚肉のパックを手に取った。
「…………」
 美神とシロ。二人の顔が浮かんでくる。
 あの晩、キヌは降りかって来た問題の引鉄を引いた。同時に、その問題は後に引けないものとなった。縄はもつれ、こんがらかる。丁寧に解くのはとても難しい。そして彼女自身も身動きが取れない。自縄自縛。真っ向から受けるのも無謀だ。では、どうするのか。憂鬱は深まるばかりだった。
 さらに弓と一文字の顔が浮かぶ。友人に迷惑をかけまいと思って、強がって見せた笑顔。キヌにとっては逆効果だった。胸の奥に刺さり、心が痛む。いまさら動揺し、血の気が引いた。ぞっとするほどの罪悪を身に感じ、苛まれ、苦しみを覚える。
 ぐるぐると頭の中が回り、考えが混沌としてきた。止めたくもなるが、それは無責任だ。どうも焦点がぼやけてくる。今、考えていた事がふっと思い浮かんだ考えとくっつき、移り変わっていく。思考が鍋の中で溶け合うように煮詰まって、ぐつらぐつらと湯気が出そうだった。
「今日はカレー、……かな」
 ふっ、とキヌは息を吐いて、かごに豚肉を入れた。それは情念と懊悩の入り混じったポークカレーか。違う、と今はそう願いたい。カレールーを最後に手にとって、カウンターに並ぶ。
「ありがとうございましたー」
 金を支払って、自動ドアをくぐり抜けると店員の声に重なって、キヌは追い出されるように店を後にした。
 とぼとぼと家路に着く。夕闇に影がのびて、誰しもが影絵の住人。地上に映ったシルエットは手足は細長く、胴体も縦長だった。鞄と食料のたくさん入ったスーパーのビニール袋を携え、ゆらゆら足が前後に動いた。日が落ちていく。空が暗くなるのに彼女は気付くと、目を上に向けた。風に流れてきたのか、いくつもの雲が悠然と浮かんでいた。その押し寄せる雲の群れからひょっこり夕日が見える。
 綺麗な夕日だった。雲の多い、その透き間からキヌが垣間見たのは沈み行く太陽。光があの円の中に燻ぶっていく。昼間のぎらぎらと輝く様子とは打って変わり、穏やかに内へと吸い込むように自らの色を濃く染めた。橙からこげ茶へ、こげ茶から黒へ。そして周りは青く濃く塗りたくられて、幕が下ろされた。舞台を下りた太陽の代わりに、月がぼんやり光る。その頃にはキヌも事務所へとたどり着いていた。夕飯の支度が待つ、ここに例の二人がいる。
「おキヌちゃん」
 すると背中越しに親しげな声。振り返れば、横島がいた。
「これから晩飯? よかったあ、間に合って」
 駆け寄ってきた彼の姿を見て、キヌはどきりとした。口を真一文字にして、玄関の方へ少し後ずさりする。ごくりとつばを飲み込んでから心を落ち着けて、彼を見返した。いつの間にやら、頑なに身構えてしまっていることには気付いていない。
「ごめん、夕飯食べさせて!」
 手を合わせて、頼み込む横島。ああ、もう給料日前か。キヌはこの光景を見るたびに思い返す。時期が来ると、決まって拝む彼の姿を見ている気がする。
「もう、またですか」
 苦笑いを横島に送った。すると彼は申し訳なさそうに、頭を下げる。
「私はいいですけど、ちゃんと美神さんにも言ってくださいね」
「はははは……」
 少しばかり皮肉を利かせて、彼を中に招き入れた。キヌも後を追って、扉を閉める。
 帰ってきてしまった。横島の背中を見ながら一歩一歩、慎重に階段を上がる。忍び寄る不安に訳もなく駆られて、心が落ち着かない。彼と部屋に入ってくるのを見たら、二人はどう思うだろうか。彼女たちの嫌な顔が目に浮かんできた。こちらに鋭い視線を向けて、睨みをきかせる。針のむしろを踏みしめるような心持ちで、台所まで歩かなければならないかと思うと辛い。しかし、そこまで露骨な態度を二人が取るとも思えず、キヌは頭の中からかき消した。
 ふっ、と小さく嘲笑う。なんてばかばかしい。
「ん、どうしたの?」
 横島がこちらを振り向いた。今のが、声に出ていたらしい。
「いえ……なんでもないですよ」
 小さく笑って、キヌは横島に顔を向けた。彼は訝しむ様子もなく、ふうんと鼻を鳴らして何も言わなかった。
 二階に上がると、応接間でくつろいでいた美神がこちらに気付く。
「あ、おかえりなさい。おキヌちゃん……と、横島クン」
「どーも。すみません……また夕飯、たかりに来ました」
 頭をかきながら、彼は申し訳なさそうに会釈を繰り返す。一方の美神は大きくため息をついて、うんざりとした目つきで睨んだ。
「あんたねえ」
 苦笑混じりの表情が彼女に浮かぶ。けれども、わざわざ頼って来ている横島をほっとくわけにも行かず、渋々ながら夕飯を許してしまうのも毎度の光景だった。美神さんも甘いなあ、とキヌも苦笑する。彼女は台所に回って、スーパーの袋を床に置いた。
「ただし、おかわりはなしよ?」
 キヌは立ってる場所から二人を覗き込むと、美神が先回りして、予防線を張る声がした。それを聞いた横島は少し不満そうだったが、文句も言わず二つ返事で頷く。
「で、今日は何なの?」
 カレーですよ、とキヌは教えた。すると横島から、えっ、という声が漏れる。彼にとって、予想外の答えだったのだろう。彼はすぐさま美神の方へと視線を向けた。だが彼女はまったく意に介さなかった。そればかりか男が一度頷いたことに文句言うな、と威嚇している。
「お願いしますよー、美神さん。一回だけでいいですから」
 横島はあきらめず、彼女にすがり寄る。
「そう言って、何回もするんでしょう? 今日という今日は絶対に駄目よ。シロだっているんだし、食費だって馬鹿にならないんだから」
「カレーですよ、カレー! おかわりせずにいられないものをおかわりなしだなんて、そりゃないっすよ。あんた鬼ですか、美神さん」
「だれが鬼だ!」
 美神と横島の姿を見ていて、キヌは身をつまされていた。阿吽の呼吸というべきか、入る隙間のないほど、自然体な関係。そんな二人を見ている間、彼女は対岸に立っているもどかしさを感じる。向こう岸に渡って側へ寄りたいが、足元には大きな溝があって近づけない。だから眺めるしかなかった。観客は目の前の舞台に入り込めないのだ。他愛のない喜劇にキヌは眉をひそめて、唇をきゅっと引き締める。唇はまた乾き始めていた。
 二人を尻目に、キヌはコンロに火を付けた。火はすぐに鍋の下に隠れ、青々と燃え続けている。彼女は台所に振り返り、夕食の準備を始めた。


 ◇


「ごちそうさまでした」
 夕食の時間は終わって、キヌはテーブルから食器を片付けている。穏やかな食卓だった。普段通りだったと言ってもいい。結局、横島はシロに引っ張られる形で何遍もおかわりして、美神の頭を悩ませた。今はソファに腰を下ろして、シロと一緒にテレビを見ている。タマモは部屋に戻って、くつろいでいるようだ。同じく美神も自分の部屋に戻っていった。
 キヌは台所へ戻り、流し台に食器を置く。水に浸けてから、スポンジに食器洗剤を染み込ませて洗った。カレーは油汚れがしつこい。特に鍋などは念入りに洗わないとこびりついてしまう。泡立つスポンジを食器類に擦りつけて、丁寧に洗い流していった。余った福神漬けやらっきょう、サラダのドレッシングなどは冷蔵庫にしまう。食器は水が切れるまでしばらく乾かした後、棚へ戻した。
 あらかたのことが済むと、キヌはエプロンを解いて元の場所に掛けた。これから風呂に入って、宿題と予習をして、明日に備えないと。
 彼女は自分の部屋に戻り、鞄から教科書とノート、それと筆箱を出して、机のスタンドに電気をつけた。予習と復習、それと今日出た宿題。問題を解いて、ノートを見返し、そして気になった箇所は書き込む。その作業を黙々とこなしてゆく。部屋が静かなので、勉強は随分とはかどった。時たま、横島とシロの笑い声が小さくこだましたが、気に掛けるほどでもない。むしろそれが聞こえなくなるほど、彼女は集中して机に向かっていた。勉強を終えると、彼女は腕を伸ばし、椅子へともたれかかる。今日も何事もなく、一日を終えることが出来た。あとは明日の準備をして、入浴するだけ。彼女は寝間着を取り出して、風呂に向かおうとした。が、部屋の扉を前にして、はたと足が止まった。
「そういえば、林檎」
 急にキヌの頭の中で、赤い林檎の姿が浮かび上がる。先ほど買い物に行ってきた時に買っただろうか。気になって彼女は台所へ戻り、冷蔵庫を開いた。いつも朝食の彩りに重宝しているので、買ってないとなると困ってしまう。ちょうど今日、買い置きの林檎がなくなったからだ。買い物のメモには書いたはず。けれど買ったのか、記憶が曖昧だ。
「ええと林檎、林檎……」
 彼女は野菜室を漁り、林檎を探す。冷気が漂う引き出しの中を掻き分けて、奥の方まで見たが林檎は出てこなかった。やっぱり買っていなかったみたいだ。
「どうしよう、お店はもう閉まってるし」
 時計は十時を回っている。近所のスーパーの閉店時刻はとうに過ぎ去っていた。この時刻では商店街も期待出来ない。なんで買い忘れたのだろう。キヌは深くため息をついて、冷蔵庫を閉じた。
「あれ。何してんの、おキヌちゃん」
「横島さん」
 声に気づいて、台所の入り口を振り向くと横島がいた。その隣にはシロもいる。
「まだいたんですか」
「ん、長居しすぎたんで、今から帰るところ」
 するとシロが彼の腕を強く掴み、まだ帰って欲しくないと体を摺り寄せた。彼女の瞳はこちらを睨んでいるようにも見える。牽制のつもりだろうか。キヌはその視線を相手しないように、目を逸らす。
「林檎、買い忘れちゃったみたいで。まだあるかどうか、冷蔵庫を覗いてたんです」
「ああ。で、あったの?」
 キヌは首を振った。彼もそれを見て、冷蔵庫の中を把握する。
「もうお店も閉まってるし、仕方ないですね。明日買いに行かなくちゃ」
「待って」
 諦めて冷蔵庫を閉め、台所から立ち去ろうとするキヌを横島が止める。
「俺の家の近くに、最近ショッピングモール出来たんだよ。確か、そこは二十四時までやってたはず……」
「本当ですか?」
 彼女は思いがけず大きく声に出した。
「うん。急げばまだ間に合うんじゃないかな」
 時計は二十二時半を過ぎようとしていた。この間も時間は刻々と進む。
「そうですね……横島さん、場所分かりますか?」
「ん、分かるけど。一緒に行く? どうせ俺、帰り道だし」
「せんせい!」
 シロが急に声を出した。横島を諌めるような口調で、さらに腕をぎゅっと抱きしめる。彼を見上げて、彼女はなにか言いたげな顔しながら、心配そうにじっと視線を送った。
「なんだよ」
「べ、別になんでもござらん……でも」
 横島がすこし驚いた顔でシロを見ると、途端に彼女は目を伏せて、言葉を濁した。一体なにがなんやら、と彼は息を吐く。キヌはその二人の間の沈黙を見て、次の行動に移すことにした。
「じゃあ、すぐに支度しますね。ちょっと待っててもらえますか?」
「オッケー。玄関の方で待ってるから」
 一旦、部屋に戻って、財布と上着を取り出し、キヌは玄関へ向かった。辿り着くと、横島とシロが玄関先で待ち構えている。
「お待たせしました」
 来たか、と横島は壁に寄りかかっていた背中を起こし、姿勢を直した。シロの方は仏頂面をして、睨んでくる。そんなに入り込んでくるのが気に障るのか、はたまた敵意の表れなのか。彼女の視線はずっとキヌに向けられて、逸らされる事はなかった。キヌは自分に当たる鋭い視線に耐えつつも、彼女の脇を通り過ぎた。
「じゃあ、行こうか」
 横島はすでに扉に手をかけて、外へ出ようとしていた。キヌも急いで靴を履き、彼に続く。
 だが。
「……拙者もお供するでござる」
 その声に振り返ると、シロが横島の側へ近づいてきていた。
「シロちゃん」
 彼女はこちらに脇目も振らず、ただ横島の方をじっと見つめる。一緒に行きたい。その瞳が頑なに訴えた。こうなると、梃子でも動かない。
「そう言って、また家まで付いてくるつもりだろ。今日はおキヌちゃんがいるし、また今度な?」
「イヤでござる」
 シロは力強く、言い返した。
「お願い、でござる。拙者も一緒に……」
「別に今日じゃなくてもいいだろ? 散歩だったらまたいつでもしてやれるし、俺ん家だって逃げやしないんだから」
「拙者は今日がいいんでござる」
 一瞬、彼女の視線がキヌの方を向いた。わずかではあったが、確実にこちらを意識したものが突き刺さる。気付いた頃にはまた横島を見て、口惜しそうに下唇を噛んだ。眉をひそめ、寂しそうな目。彼女の荒涼とした面持ちを感じる。手の細かな震えが握り締められた。瞬間、シロは彼に勢い良く抱きついた。
「こ、こら、いきなりなにすんだよ!」
「先生、ダメでござるか? 拙者もっ……だいたいおキヌどのだけなんて、ずるいでござる」
「わがまま言うなって。散歩じゃないんだし、ついて来ても家には連れていかないからな」
「ヤでござる、ヤでござる、ヤでござる……」
 首を横に振りながら、シロは引き下がらない。彼女としては二人きりにしたくないのだろう。横島は彼女を振り払おうとするが、必死にしがみつかれてなかなか離れてくれない。キヌはその光景をずっと何も言えずに見ていた。止めようとはしたのだが、その度にシロの牽制が邪魔するなとやって来る。それに対抗する術がキヌには少なすぎた。力ずくに止めるにせよ、なだめて止めるにせよ、今のシロには彼女の言葉は通用するわけがなかった。ましてや、力では全く敵わない。手が出せないのだ。出来てしまった溝を目の当たりにして、彼女はどうしようもなくもどかしい気分に陥った。悔しい。シロに対して、諌めることも出来ない。彼と自分は付き合っているはずなのに、どうして。
「さっきからうるさいわねえ……何してんのよ?」
「美神さん」
 騒ぎを聞きつけてやってきたのか、美神がうんざりしながら玄関に現れた。
「……見ての通りです」
 彼女は一瞥して、はぁ、とため息をつく。
「シロ、わがまま言うのもいい加減にしなさいよ? おキヌちゃん、困ってるじゃないの」
「イヤでござる、一緒に行かせてくれるまで放すもんでござるか」
「ったく、駄々っ子ぶっても無駄なの分かってるでしょ? 朝ごはん抜きにするわよ?」
 横島にしがみついたシロを、美神はひっぺがそうとした。けれど、いくら美神がシロの服を強く引っ張っても、彼女は余計に手に力を込めて、彼から離れるとはしなかった。
「痛たたたた!? こら、シロっ。そんなところに力を入れんな、息が詰まる……」 
「では、拙者を一緒に連れてってくだされ……弟子の願いを聞き入れてこその先生でござろう?」
「くどい!」
 横島が声を張り上げて、シロを強引に振りほどいた。今までの聞いたことのない声色に気圧され、シロはひどく戸惑い、驚きを見せる。
「何度言ったって、ダメなものはダメだ!」
「けど……」
「本当に怒るぞ?」
 まだ納得の出来ないシロに対して、横島は押し殺した声で制した。彼女はなにも言い返せなかった。彼はやっとか、と溜息を大きくついた。
「明日も学校なんだし、今日は勘弁してくれよ、ほんと……」
 そして横島は頭を掻き、シロに背を向ける。
「先生……」
 怯えたようなか細い声で、シロは呻く。だが、その後の言葉はなく、周りに沈黙が広がった。美神は腕を組み、ただ状況を見守る事に終始している。キヌもまた横島とシロの間を、黙って目配せするしかなかった。頭を垂れたシロの表情は読み取れない。しかし彼女から滲み出てくる感情は、キヌにも読み取ることが出来た。
「おキヌちゃん、行こう。店、閉まっちゃうよ」
「でも……」
「ここはいいから。早く行ってきちゃいなさい」
「すみません、美神さん」
 シロを気に掛けていたキヌだったが、美神に背中を押されて玄関を出た。
「それじゃ、行ってきますね……後、お願いします」
「ええ」
 美神は素っ気無く、頷いた。
 そして苦笑いして、二人を見送る。
「おやすみなさい、横島クン」
 いつになく穏やかな声で美神は囁く。遠巻きに私たちを見ながらも、落ち着き払った表情で、壁面に肩を寄りかからせていた。
 横島ははい、と会釈してドアの向こう側に出て行った。
 キヌも彼女に軽くお辞儀を返してから、ドアを閉める。
 空は星一つなく、雲に覆われていた。横島がガレージから自転車を引っ張り出して、キヌに乗るよう催促する。彼女は急いで彼の乗る自転車のサドル後ろにまたがって、座った。ペダルは漕ぎ出され、二人は夜の中を進んだ。
 美神のひどく醒めた目を見ることなく。


 ◇


 二人は夜の街を一台の自転車で走り抜け、閉店間際のショッピングモールに辿り着いた。
「良かった、ありました……!」
 食料品の青果売り場には真っ赤な林檎が陳列されていた。それを幾つかかごに拾い上げて、レジに向かう。会計が終わると、店内に蛍の光が流れ始めた。穏やかに終わりを告げる曲に押し出されて、二人は店を後にする。
 もうそろそろ日付が変わりそうな時刻。横島とキヌは歩きながら、駅の方面へと進んだ。横島は自転車を押しながら、キヌは彼の側に付いて、歩く。先ほど買った林檎は袋に詰められて、自転車かごの中で揺れている。車輪がちきちき回転するのが彼女たちの耳に入った。
「横島さんのおかげで助かりました」
「そんなことないさ」
 しばらくすると、二人は交差点に差し掛かった。信号は赤。立ち止まって、青になるまで待つ。間もなく、最寄の駅と横島のアパートへと行く道が分かれる。多分、彼は心配して駅まで送ってくれるだろう。
「自転車、明日返すんでも良い?」
「いつでもいいですよ。私たちそんなに使わないですし」
「そっか。そういえばそうだなあ」
 横島は少し空を見上げる素振りを見せる。キヌはそれを見ていて、思わず笑みがほころんだ。自転車なんて、あの三人はまずめったに使わない。キヌもキヌで用事は、歩きか電車で済ませてしまうのであまり使うことはなかった。事務所の自転車の一番の利用者はほかならぬ、横島だった。だから、ほとんど彼の私物のようなものなので、そこを気にするのがちょっと面白かった。
「あ、青だ」
 赤から青へ。いつの間にか信号の色が変わっていた。歩いている道が大通りではないせいか、待っている間、車は一台も通らなかった。道路は物音もなく、静かなものである。
 二人は横断歩道を渡った。
「シロちゃん、大丈夫かな……」
「心配ないって。明日になりゃ、元に戻ってるさ」
「だと、いいんですけど」
 キヌは言葉を濁した。玄関先に立ち尽くすシロの姿が目に浮かぶ。普通だったら、あれは他愛のないやり取り。だが、状況はそんなに優しいものではない。あるたった一点の変化。横島はキヌの彼氏であり、キヌは横島の彼女である。つまり、二人が付き合っているという事実。
 それが分かってるからこそ、シロは自分を押し殺すしかない。あの場で彼の執った行為はこれといって裏のないものではあったが、キヌと付き合っているという事実を前提におくと、見違えるほど歪んでしまう。シロの心ははずたずたに引き裂かれる思いだったろう。だから彼女の気持ちは痛いほど伝わってきた。
(きっと辛いだろうなあ……)
 好きな人に無碍にされる気持ちというのは。
 キヌは隣にいる横島を見つめた。街灯のまばゆい光を通り過ぎて、また暗がりの中へ。横顔を見ながら、そっと溜息をつく。シロの気持ちを何一つ知らない横島。もっとも彼を巡る問題は表面に出てこないのだけれど。
「んっ」
 鼻先に冷たいものが当たる。なに、と見上げた瞬間、雲から堰を切ったように勢いよく雨が降って来た。驚く声も上げる暇もなく、あっという間に地面は濡れ、二人も大粒の雨にびたびたと打たれる。
「早くどこかで雨宿りしないとびしょ濡れに……!」
「一旦、俺んちに避難しよう」
「は、はいっ」
 右を行けば、駅。左に行けば、すぐ目の前にボロアパートが建っている。選択の余地はない。二人は一目散に走り出した。そして着くと、自転車を置き、階段を駆け上がり、鍵を開けて、扉を閉めた。
 絶え間なく響く雨音に、途切れる二人の吐息。酸素を深く吸い込む。
 キヌの手にはしっかりと袋が握られている。自転車のかごから急いで持ってきたので、心配になって中身を確認した。幸い、林檎はひび一つなく、雨に濡れただけだった。
 彼女の方はいうと服が少し湿っていて、顔や髪もそこそこ濡れていた。
「なにか拭く物、取ってくるから待ってて」
 横島は靴を脱ぎ、勝手知ったる自分の部屋を漁り出す。乱雑に散らかった六畳一間。至る所に衣類、ゴミや雑誌、教科書とか色んなものが無造作に置かれている。相変わらずだな、とキヌは呼吸を整えながら思った。
「おキヌちゃん」
 すると押入れの中から引っ張り出された綺麗なタオルを彼からもらう。ふかふかで柔らかい。キヌは手っ取り早く、顔と頭のてっぺんを拭いてから、中に上がった。
「お、お邪魔します」
 横島の作ったスペースにぺたんと床に腰を下ろして、キヌは濡れた髪をゆっくりとまた拭く。横島は軽く頭を拭いてから、再び立ち上がった。台所へ向かうと、何かを取り出したみたいだ。すぐに蛇口から水が出る音がした。
「コーヒー、いる?」
 コンロに火をつける音。その上に水を入れたらしい小鍋が置かれた。キヌはすぐに帰るつもりだったが、もらいます、と返事をした。横島は頷いて、カップを二つ用意する。大雨が降り続けているので、勢いが弱まるまでここでしばらく雨宿りした方がいいかもしれない。
 それにしても、さっきから妙にどきどきする。
 なにか変。キヌはタオルを畳んで、そっと床に置く。思えば、ここに入った時からだ。感覚がおかしいのは。その証拠に声が上擦っていた。良く分からないが、緊張している。彼女は服の胸元をぎゅっと握りしめた。
 美神も、シロもいない。二人きりだ。
 邪魔者はいない。やかましい言葉が聞こえてくることもない。
 二人きりなのだ。
 雨が降り続けている。ざあざあ降る音ともに、胸がざわつき始めた。鼓動が大きく響き出す。握りしめた手の平から、それが伝わってくる。どきどきしている。キヌはなんとかして落ち着こうとしたが、胸の高鳴りは抑えが効かない。
「お待たせ」
 ふいに横島の声がした。彼は湯気の立つカップを両手に持ってきて、キヌの側に一つ置いた。中は真っ黒いコーヒーの水面が見える。独特の香りも匂ってきた。ごめん、砂糖もミルクもないんだ、と横島が謝っているようだった。だが、今はそれどころではない。
 どきまぎしながら、キヌはカップの縁を唇に寄せた。苦い味が口に広がる。酸いも甘くもなく、ただ苦い。熱いコーヒーを彼女は口で冷ましながら、少しずつ飲む。横島も熱がりながら、コーヒーをすする。特に話すこともなく、二人とも雨の音を聞いていた。
 キヌは半分飲んだところで、ふと唇に触れた。ぷにっと柔らかい感触がして、指先を弾く。かさかさにはなっていない。リップクリームは必要ない位、潤った唇だった。けど、と彼女は言葉を漏らした。
「横島さん」
「ん?」
「私、渇いてるんです」
 言った途端、鳩が豆鉄砲食らったような顔で横島に見つめられた。
「……コーヒーならまだあるけど」
 違う。そうじゃない。
「横島さんっ!」
 堪らなくなって、キヌは彼の側へ身体を近づける。
「おキヌ……ちゃん?」
「わからないんですか?」
 彼女は横島の顔をじっと見た。息のかかる距離で、真っ直ぐに。なのに、彼は気付いていない。とても切なかった。胸の奥がきゅっと絞めつけられる。
「こんなに、こんなに渇いているのに……」
「どうしたんだよ、おキヌちゃん」
 美神は言った、はっきりしろと。
 分かっている。
 シロも言った、彼を愛しているのかと。
 それも分かっている。
 お願いだから。
 二人とも邪魔をしないで。
 キヌは頭の中に巣食う彼女たちを振り払った。この恋は私のものだ、と。
「横島さん……」
 キヌは横島の頬を両手で覆った。指先から彼の体温が伝わる。ほっぺたは柔らかく暖かい。
「私を潤してください。からからに渇いて、たまらないんです……」
 まるで唇が乾くように。キヌはさらに顔を横島に近づける。激しく高鳴る鼓動で、なにもかも全部吹っ飛んでしまいそうだった。
「ちょっ待っ……おかしいって! 一体、何が渇いてるって言うんだよ?」
「……私の心」
 彼女の唇が動く。同時に、横島の顎が強く引っ張られた。
「えっ……」
 キヌの手が彼の顎に添えられ、お互いの唇が重なり合う。その一瞬、まるで時が止まったように思えた。ひどく緩慢になった時の感覚が、仮初めの永遠へと変える。
 降り続いていた雨の音は次第に弱くなっていった。しばらくして音は消え、部屋は静まり返る。無音の中で、がさっ、と後ろで音がした。続いてごろん、という音。真っ赤な林檎が一つ、袋からこぼれ落ちたらしい。だが、キヌはそれに気付かない。まるでイヴの犯した罪のように。
 横島を愛している。
 今はただ、それだけを思って、キスを交わす。
 なんともほろ苦く、そして不思議な甘さを味わいながら。


 
 続く

 


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