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絶対特急提供〜可憐の小箱(短編集)

猛犬注意


投稿者名:みみかき
投稿日時:08/10/16



 昨夜から続く11月の雨がすっかり山々の空気を凍てつかせていた。
 晴れた日にはまだ紅葉の美しい峠道からの景色が、沸き立つ霧と雨の飛沫ですっかり曖昧に映る。
 路肩がほぼせせらぎとなるほど雨に煙った道を、紫穂が時折しゃがんで掌を道に触れながら歩いている。
 この雨の中、彼女は傘も差さずに痕跡を追っているのだが、そばにいる皆本は彼女に合わせしゃがんだり立ち上がったりしながら、彼女

を傘の下に入れようとしている。
 それでも山に吹く風は、横から紫穂と皆本に滴を叩きつけるのだが。

 二人が追っているヤマは3日前起こった強盗殺人で、車で逃走、1人が死亡、追跡していた巡査が軽傷を負っている。
 その被疑者の中ににエスパーが混じっているらしいのだが、能力の種類も判らない以上B.A.B.E.Lに委任するのが賢明であると判断したの

だ。
 その犯人達がこの山岳路を使い付近に潜伏しているらしい。
 この道路に接続する幹線には検問が張られ、B.A.B.E.Lや所属警察の(能力は高くは無いにしても)感知能力者が加わり不審車両を探して

いる。
 だがこれだけの検問であれば、その情報は漏れて当然であり、行政上にも伏せるワケにはいかない。
 また大規模であるがゆえ、そう長い時間はこの検問を続けることもできない。
 だがこの状況こそ被疑者確保の機会でもある。
 この広くもない山岳地帯に入ったのは確かなのだが、現在検問にかかった情報はない。
 わざわざ高いリスクを冒して検問に向かったり強行突破をするほど馬鹿ではないだろう。
 なにせラジオや交通インフォメーションで大規模な検問の存在と、その規制期間を流しているわけだから。
 情報自体は全く嘘はない。
 その検問自体がデコイではあるが。
 検問が消えるまで息を潜めている被疑者をB.A.B.E.Lの予知能力班が感知、その区域の確率に応じて各人員を配置している。
 皆本と紫穂が担当している逃走してきた車の確保だ。
 ふもとの町に当該車両が降りてきた形跡はない。
 予知情報によればこの峠道のどこかに乗り捨てた確率が最も高い。
 逃走の際、真っ直ぐこの方向に向かったという事は、潜伏先も予め決めているとみていいだろう。
 とすれば、紫穂のレベルであれば発見した車からかなりの情報を読み取れる。
 薫と葵、ワイルドキャット達は確率の高い区域に配置し、紫穂の情報を待ちつつ足取りを追っている。
 そして現在、皆本達は峠道中腹の脇に捜査車両を停め、足と目と感覚で逃走車両を探している。

 もう1時間以上も雨になぶられながら逃走車の痕跡を追っている。
 紫穂のブレザーの端からは水が滴り、皆本のスーツもきっと絞れば水が落ちるだろう。
 小走りで峠道を駆け上がっては止まり、周囲を見回して思いついたものや道そのものに触れている。
 雨の飛沫の中で四つん這いになり、感覚を研ぎ澄ます紫穂をそばで見ながら皆本は思う。
 まるで猟犬の様だ、と。
 車を降りてから紫穂は一言も喋らない。
 ただ奥底に秘めた強い感覚を、さらに鋭敏に絞り込んで濡れたアスファルトを登っていく。
 その瞳は平静と力強さを織り交ぜた光を放っている。
 霧雨の奥にいる獲物を確信しているかの如く。
 だから皆本はこの1時間あまりの間、不安や迷いを全く感じていない。
 例え自分には何一つ見えなくても、猟犬は確実に匂いを捕らえ、獲物を追いつめていく。
 感覚の先にある獲物を見つめ、時に獲物の行動を手の内に入れ、ついにはその爪で引き裂く狩人だ。
 紫穂はこういう任務を進んで受け持つ。
 一心不乱に目標を追い続ける。
 そういう時、皆本は紫穂に眠る激しさを見つけるのだ。
 そして皆本は、そういう時の紫穂のそばにいることこそ自分の場所だと思う。
 彼女は必ず獲物の首を咥え自分の元へ帰ってくるはずだ。
 紫穂の父親が過酷な捜査の場に彼女を送る理由は、そんな彼女の内面を解って、あえて首輪を付ける真似をやりたくないからではないか

と思えていた。
 猟犬を室内で飼うなぞ所詮無理なことなのだから。
 紫穂を知らない者は、彼女のその愛らしい容姿から室内犬に例える事もあるだろう。
 だが幼くても激しい気性が外に獲物を追い回すことを押さえきれはしない。
 彼女の魂そのものが、獲物を追うための知覚として彼女に力を与えたのかも知れない。
 それ故に、父親は愛する愛娘と距離を置いているのでは、とも思う。
 解き放ちたい愛情と繋ぎ留めたい要求に。
 だが父親代わりを皆本はする気はない。
 彼の幼い頃、親を含めた大人達に居場所を奪われたが、その代償行動でも同情というわけでもない。
 単純に彼は、紫穂のそういう激しさが好きなのだ。
 3人それぞれに激しさがあり、それぞれに優しさがある。
 だから皆本は紫穂と薫と青いと、いつもそばにいたいと思う。

 拾い集めていくごく小さな断片を、寄り集めて繋げて大きな断片を形にする感覚。
 それを紫穂はこの日も一つ一つに手にしている。
 指先に触れる数多の物質の中から一つのものを、数多の声から一つの声を、雑踏の中から一人の人間を。
 彼女が追い求める何かを叶えていくために。
 数え切れない人に触れて、多くの事件に立ち会って紫穂は知っている。
 人間の死というものを。
 肉体が機能を失っていく事、感覚が鋭く耐え難い衝撃を受けること。
 今生きているものが消え失せてしまう課程。
 無念、絶望、焦燥、悲哀、憤怒、呆然が混ぜられて一つになって。
 そこにある感情や経過してきた時間が存在しなくなる事実。
 この生き物の事実そのものを紫穂の感覚は、はらわたを素手で掴むように手にしてきた。
 紫穂自身も殺されかけたことがある。
 呼吸を止められより強い力で押し込まれ、体中の筋肉や臓器が悲鳴を上げる。
 全ての体液と骨格が、襲い来る死に対して激しい抵抗を続ける。
 意識が端っこからじわじわと消えていく恐怖。
 感覚が白濁していく怯え。
 あのとき悲しみと絶望の中、自分が世界から消えていく向こう側に誰かがいる事を知った。
 真っ白な、全てを打ち消す闇の淵から、その人が手を伸ばしてきた。
 その手を掴みたい。
 その人を抱きしめたいとひたすら願った。
 願いは紫穂を消えゆく世界から引っ掻きだし、しがみつく指先に力を与えた。
 そして幸運が彼女を護り、こうして紫穂はここに在る。
 彼女は唇を噛み締める。
 彼女の様に幸運が降りてこなかった人間の事。
 人間でありながらその知恵が、人の死というものに届かない者達。
 そういうものに対して、彼女の内側より熱く鋭い刃物を形作っている。
 冷えた筋肉を震わせる気力を産んでいる。
 必ず追い込んでやる。
 理不尽を行ったものが自分だけそれを負担しないでいられるなんて気色の悪い。
 死ほど平等で絶対な喪失でないにせよ、そういう輩をこの手で追いつめ、奪い、理不尽を与えたい。
 一見、社会的に正しいようで実は強烈なエゴが、彼女の頭をまた上げさせる。
 そしてもう一つの感情。
 自分を信じ、あえて離れて闘う仲間を、そばにいて自分を見つめる瞳を
 自分の群れが大したものだと知らしめたい。
 舐めるんじゃない、と。

 本線から脇に入った細道にその車はあった。
 山陰と繁る樹木でここは日中でも薄暗い。
 紫穂は駆け寄ると濡れたボンネットに両手をついた。
 確かにこれだ。
 明確な情報が紫穂の脳裏に流れ込んでくる。
 それを言葉に変換して傍らの皆本に伝える。
 紫穂に傘を差し掛けつつ、皆本が携帯電話で皆に伝える。
 「…そうだ、3人だ。薫達は葵の方へ合流、サイコキネシスを使える者は1名、レベルは3程度だからECMを標準で使用しておけば薫達の

突入には支障はない。護送の手配や予備戦力は谷崎主任にお願いしろ。あと…」
 一通りの情報と指示を伝えると電話を切った。
 「よくがんばったな、紫穂」
 紫穂は緊張の糸が切れたのか、車に手を付けたまま大きく肩で息をしている。
 白い息を小刻みに吐き続けている。
 気力で塞き止めてきた疲れと寒さが、じわじわ全身に回り始めてくる。
 それは皆本も同じだ。
 「あとは薫達に任せて、僕らは車に戻ろう。服をどうにかしないと」
 紫穂がぼんやりと顔を上げる。
 ウェイブのついた髪が雨の重さで伸びて顔に張り付いている。
 「…みんなのところへは?」
 彼女はまだ追うつもりでいるらしい。
 「あとは任せよう。僕らの仕事は奴らの情報を掴んでみんなに伝えることだ。みんなを信頼しよう。それに、君は疲れ切っている。今は

ゆっくり休むのが君の仕事だ」
 「そう」
 ふらりと紫穂は皆本の脚にしがみつく。
 スラックスは冷たいが、その奥から伝わる体温が嬉しい。
 脚を抱くようにして体重を預けると、まぶたと身体がゆっくり重くなってくる。
 いっそこのまま眠ってしまおうか。
 そう思ったとき、皆本はかがみ込むと紫穂を抱き上げた。
 いわゆるお姫様抱っこだ。
 紫穂に傘を持たせると、重そうな感じもなくそのまま山道を降り始めた。
 「疲れたならそのまま少し眠っててもいいから」
 傘も自分が差せなくはないと皆本はいう。
 紫穂はくすりと笑った。
 自分を支えている腕がこんなにも暖かくて、彼の顔がこんなにも近い。
 今はこれが紫穂だけのものなのだ。

 車にたどり着くと、後ろのハッチを開け二人は滑り込んだ。
 とりあえず雨と風から逃れて安堵する。
 ワンボックスの車内は捜査車両なので後部窓にフィルムが貼ってあり、雨模様もあって殆ど陽は入ってこない。
 その薄暗さが疲れた身体には優しい。
 後部座席は倒していて、二つのバッグがある他は多少ゆったりと空間がある。
 シートの背中が床になっているので座っても不快はない。
 皆本はバッグの中から自分の宿直用のタオルを取り出すと、紫穂に渡した。
 飾り気のない白のタオルをオジン臭いと笑いながら、紫穂は顔と髪を拭きだした。
 皆本はスーツのポケットからハンカチを探し出したが、想像通り雑巾みたく湿っていたのでそれで拭くのを諦めて上着を脱ぎだした。
 一旦前の座席を覗き込んでエンジンを回す。
 エアコンを入れたので、車内の空気も次第に暖まり始める。
 後部座席へ戻ろうとして身体を捻ると、顔にタオルを押し当てられた。
 紫穂は眼鏡を取り上げると、少し雑に皆本の顔をタオルで撫で回す。
 自分と違う肌の匂いがタオルに染み付いて鼻をくすぐる。
 「僕はいいから、君がもっと使ったらいいよ」
 「こんな濡れ鼠じゃタオル一枚じゃ焼け石に水よ。皆本さんも一緒だけどね」
 「でもこのままじゃ風邪引くからさぁ」
 ふと皆本に選択肢が浮かんだが、あえて口には出さなかった。
 これは危険すぎる。
 「じゃあ…」
 にやりと紫穂が微笑む。
 「服を脱がなきゃね」
 きたか。
 やっぱりそうきたか。
 確かに車内の温度が上がったところで、こんなに濡れた服のままでは体温が奪われっぱなしだ。
 特に紫穂は疲れている。
 できるだけ早く温めて休ませてあげたい。
 どのみち服を脱がなきゃいけないのだが、しかし。
 あまりにも「お約束」じゃないのか?
 最近では「よくある」とさえ言えない状況のドラマが脳裏に浮かぶ。
 雪山とかで都合良く人気の無い山小屋とかがあって。
 このままでは二人とも凍えてしまうからとか言って。
 産まれたままの姿で二人抱き合ってとか。
 暖炉の火をバックにしてるのに、そこまでする必要が果たしてあるのか?
 服だって大して濡れている様にも見えないのに。
 あ。
 それなら僕らの状況は、より切迫してるわけで。
 皆本がそんな事を考えている間に、紫穂は座り込んで靴下を脱ぎ始めている。
 「重いし冷たいし、何より気持ち悪いんだもの。脱がなきゃやってらんないでしょ?」
 全く同感だ。
 とりあえず皆本もジャケットを脱ぎ始める。
 外からの目隠しを兼ねて、窓際に脱いだものを順に引っかけて干す。
 その間皆本は紫穂の方を向かない。
 背中越しにしゅるしゅると湿った服を脱ぐ音が聞こえているからだ。
 それでもぐちょぐちょのカッターとTシャツを脱ぐとホッとする。
 ほのかに暖かい空気が冷えた皮膚の上を流れていく。
 残りがパンツ一つになって気が付く。
 確かにこれは冷たくて最悪なのだが、これだけは駄目だ。
 例え他人の目がなくても紫穂と二人きりでそれは駄目だったら駄目だ。
 「あの、皆本さん?」
 不快感とどう折り合おうと悩んでいるとき、紫穂に呼ばれた。
 できるだけ角度を小さく紫穂の方に顔を向けると
 紫穂は自分で皆本の前に歩み寄った。
 「んいッ!」
 一糸纏わぬ紫穂の姿が視界に入ってきた。
 右手の人さし指で、先程まで彼女の腰を包んでいたものをくるくると回している。
 白く薄めの肌がなだらかなラインを描いている小さな身体が一瞬視界に入って焼き付いた。
 眼を背けているのはきっと倫理とかそういうものはない。
 思いのほか綺麗で驚いたからだ。
 「そんなかっこでお前っ!」
 「あらだって、コレが一番冷たくてイヤなんだもの。皆本さんも脱がないと風邪引いちゃうわよ?」
 「僕はこのままでいいの!」
 真っ赤な皆本の耳たぶをを紫穂は見つけている。
 「脱がないと乾かないし、何より臭いわよ?私、皆本さんに暖めてもらうんだから、臭いのはいやよ」
 「そりゃ臭いのは僕だっていやだけど、なんで君と裸で暖め合わなきゃならないんだよ」
 「一つの理由は服が乾くまで脱いだままじゃさすがに寒いから。もう一つは頑張った紫穂ちゃんへのご・ほ・う・び」
 「だからって裸で抱き合うなんてそういうのはなぁ」
 くすくすと笑い出す紫穂。
 「誰も抱き合うなんて言ってないじゃない。こうするの」
 背中全体に弾力のある人の温もりが伝わる。
 皆本より少し高めの紫穂の体温は抗えない心地よさがあった。
 「こうやって背中をくっつけて、座っていればだいぶ違うでしょ?」
 「そりゃ…まあ…」
 「だから、湿ったパンツがお尻に触れたら、せっかく私も気持ちいいのに台無しなのよ。脱がなかったら後ろからずり下ろしちゃうんだ

から」
 「むぅ…」
 確かにエアコンがついているとはいえ、服が乾くまでこのままではもたないかもしれない。
 紫穂の疲労を考えると、できるだけ楽な状態で休ませたい。
 以前皆本は薫が同じ様なことを言ったのを思い出した。
 あの時はタチの悪い冗談だと思って相手にしなかったら、本当に薫は凍えていた。
 皆本は唇を噛み締める。
 薫を辛い目に遭わせただけではない。
 あの時自分は、どこかで子供という言葉で見下してはいなかったか。
 今でははっきりと解る。
 自分と三人は互いに与えあって、埋めあっているのだ。
 そこは年齢など関係なく同じ場所に立っている筈なのに。
 むしろ自分の方が常に居所を求めてはいなかったか。
 キャリーの時も、兵部とひとつになろうとした時も
 否、もっと昔から自分は誰かにしがみついて泣き続けていた。
 そんな自分の弱さを受け止めたいから、あえて言ってみる。
 「まぁ…僕もこれは、気持ちいいかな…」
 紫穂の指先が背中に触れた感じがする。
 「だから私、皆本さんが好き」

 実際に背中を合わせてみて気が付いた。
 体温保持としては、そんなにこれは効果的じゃない。
 人間の背中は丸みを帯びているから、ぴったりくっつくワケじゃないし膝を抱えているにせよ、身体の前は暖まらない。
 だけど
 安心感と頼られる優越感が心を解きほぐしてくれるというか。
 紫穂の小さな背中の温もりと穏やかな弾力が嬉しかった。
 静かになったエンジンのアイドリングと、エアコンの吹き出し口の風の音だけが室内に響いていた。
 「皆本さん」
 声が背中に伝ってきた。
 「皆本さんは嫌じゃないの?こうやって私に触れていること。その気になれば今だって皆本さんの中、全部覗けるのよ?」
 ああ
 考えてもみなかった。
 普段からこういうことを不安に思っていたのだろうか。
 考えてもみなかったので、分析をしながら言葉を探す。
 「あんまり考えてた訳じゃないんだけど、たぶん紫穂だったら本当に必要な時しか奥まで覗かないんじゃないかって。
 他人の心の奥底なんて、きっとそう面白いわけじゃない事は君は一番知ってるだろうし。それと…」
 「それと?」
 今感じてる安心感が答えを教える。
 「…まあ、紫穂だったらいいや、って」 
 背中に紫穂の頭が軽く触れる感触がした。
 たぶん自分は紫穂や薫や葵に甘えきっていたいんだ。
 彼女達に頼られる一方で、温もりと同一化を望んでいる。
 互いに全てを晒して、全てを認めて同じになりたいと。
 だから今、日頃想ってる小さな不安を尋ねてみる。
 「紫穂はその…不安にならないのかい?僕の中の見えない部分が」
 そう遠い先の事ではない未来。
 悲しい薫の笑顔。
 悲しい世界の光景。
 伊−九号中尉がプロテクトを掛けているので紫穂には見る事ができない。
 今の僕にはそれを伝えることができない。
 あんな悲しい笑顔の未来を認めるわけにはいかないから。
 結局誰も救えなかった事が怖いから。
 「気にならないって言えばうそだと思う。でも私は、教えてくれない悲しさよりも、教えた事で皆本さんが苦しむ方が、きっと悲しいん

だと思う。」
 紫穂が気持ちと一致する言葉を探しながら呟く。
 「だからね、うそついていいよ。うそつかないとやりきれない事だってあるし、うそつく事で穏やかに生きていられる事だってあるもの

。皆本さんが伝えたいことを、伝えたいときに私に教えて」
 本当に、どちらが子供だというのか。
 自分が持っていた空虚な世界を どれだけ彼女たちが照らしてくれたというのだろう。
 その輝きに遠く及ばなくても、僕は。
 だから一歩、踏み込んでみよう。
 皆本は座ったまま身体を右から身体を捻って、寄り添う紫穂の頭を左腕で抱え込んだ。
 彼女の肩がぴくんと一瞬跳ね上がるが、抱かれるままに頭を擦り寄せていく。
 そのまま指で髪の感触を確かめるように撫でていた。
 紫穂の髪のやわらかな匂いをかいでいたら、皆本はこてんと床に倒されてしまった。
 脇に回った紫穂は、左腕で皆本の胸板を押しつけて、右手をまねき猫の手でこいこいした。
 「にゃあん」
 雨で崩れてしまったけど、ふわふわの髪が小さな肩にこぼれている。
 小さな胸板は淡い白と桃を混ぜ込んだ色のゆるやかな線を描いて腰へと流れている。
 腹部と肩は細かく大きく上下してて、彼女の興奮を表現している。
 妖精の様だとか、神話の世界だとか、陳腐な例えをごみ箱に放り込みたいような、妖しい美しさを目の当たりにしている。
 皆本の鼓動が高くなるのが解る。
 「ちょっさすがにヤバ…」
 猫手で軽く口を押さえられた。
 「私もね、『皆本さんだったら、いいや』なの」
 紅潮した頬を優しくゆるませた。
 「少しの間、私にじゃれさせて、ね?」
 「ふにっ」と一声、彼女は胸に飛び込んでくると、両腕を首に回した。
 うすぼんやり目を閉じると、胸板に頬を当て指で周りの肌の感触を確かめている。
 薄くて暖かい紫穂の背中の肌が心地よいので、少しだけ、ゆっくりと背骨の辺りをさすってみる。
 「んっ…」
 鼻にかかった声が漏れたので、皆本は腕を肩に回し寄せて、やや強めに抱いた。
 紫穂の猫手見えない爪で皆本の首筋をかりかりと掻く。
 なんというか、これは。
 猫というより猛獣の子供だよなぁ。
 すると紫穂はするりと上体を起こし、彼の身体にまたがり、両の猫手で肩を押しつけて身動きがとれないようにした。
 うわ、聞かれた。
 「猛獣だったらしょうがないよね、皆本さん食べちゃっても…」
 でも、そういう紫穂の顔は耳まで真っ赤で、瞳はとても穏やかな慈愛に満ちている気がした。
 皆本は彼女の両腕ではなく、その瞳で動けなくなった。
 紫穂の手が皆本の頬を包むと、ゆっくりと瞳が近づいてきて、鼻と鼻がちょうど触れたあたりで


 ムムムムムムムムムムムムムムムムムムムムム


 マナーモードにしている携帯が鳴っている。

 ムムムムムムムムムムムムムムムムムムムムム

 2秒ほど無視しようかどうしようかと逡巡してたところ、つまらなそうな溜息と共に紫穂が身体から降りた。
 身体を起こし、座席の携帯を手にする。
 無事怪我人もなく、被疑者を確保したらしい。
 合流する時刻を伝えて電話を切った。
 薫と葵の明るい声が二人を日常に戻した。
 窓から外を覗くと、雨は少し小振りになっていて、明るくなった木立が見えた。

 まだ湿気を帯びているがこの際仕方がない。
 二人はいそいそと着替え始めた。
 少し重ためのカッターに袖を通したところで、紫穂が声を掛けてきた。
 「ねぇねぇ、こうやって二人で着替えてると『終わったあと』って感じするよね?」
 「何が終わったんだよ!」
 赤面して応えると彼女はころころと笑う。
 まだ水の抜けきってない上着と靴下は勘弁してもらおう。
 それにしても
 僕はロリコンの気があるのかなぁ。
 まだ少し動機の収まりきれない鼓動を感じながら考える。
 すると、後ろから手が伸びてきて、皆本のほっぺたをむにーっと引っ張る。
 「皆本さんはロリコンなんかじゃないわよ?」
 白い歯をこぼして微笑む。

 「皆本さんはね、私達のことが好きなのよ」


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