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ラブレター フロム ・・・・・・(リレー)

第1話 / あなたに逢いたくて! 〜Missing You〜


投稿者名:ロックハウンド
投稿日時:08/ 8/11

 昨晩から残る雨露が、窓枠と窓向こうの日陰を、鈍色にぼかしている。
 その分、日光を仰ぐ若葉がよけいにみずみずしく、葉に乗れたしずくは、むしろ幸運なのかもしれない。
 ふと目を壁紙に戻すと、染みに汚れ、剥げ、欠け落ち、朽ち。色んな形容がすべてネガティヴなものになる。
 築数十年、木造モルタルの安普請アパートがかえってみすぼらしく見えるくらいだ。

 自分の住まいを棚に上げ、横島忠夫は居住いを正した。―――必ずしも礼儀礼節を伴っているわけではなかったが。
 ジーンズにジージャン。赤地のバンダナ。
 色褪せたインディゴ・ブルーは、ところどころに雨の染みを濃くしている。


 「というわけで、用心と保険のために、まずは手紙の修復を考えた。で、ここが思い浮かんだ」

 「たまの休日に何の騒ぎかと思えば……まったく」


 卓袱台を挟み、対峙している老人、ドクター・カオスはあからさまに渋面を深くしていた。
 ステテコに腹巻き。なぜか捻り鉢巻。
 双方ともにくたびれたラクダ色は、老賢者というよりご隠居さんの風情が色濃い。

 大あくびに続き、胸元に手を差し込み、掻く。目元がしょぼしょぼと揺れている。
 眠気覚ましにと、マリアが入れてくれた麦茶の冷たさをグラス越しに受けながら、カオスは目を眇めた。
 ピンク色の封筒と一枚の便箋が、卓袱台上に広げられている。
 水気と乾燥にさらされた紙面は、引きつった皺の数々を残し、寂しげに固まっていた。


 「ここまで濡れてしまってはなぁ。なんとも不運な手紙よ」

 「だーかーら、そこを何とかして欲しいっつーとんのじゃ。爺さん、錬金術師なんだろ? このくらいちゃちゃっと元に戻せるだろ」

 「出来んことはないが、面倒じゃのう。諦めるという選択は無いのか?」

 「あるかい! オレの未来と、幸福と、青春と、恋と、愛と、プライドと、全人生がかかっとるかもしれんのやぞ。死んでもあきらめん!」

 「えらい盛り沢山じゃが、あまり欲をかくと早死にするぞ」


 若さとは良きものだが、妙に面倒くさいのう。
 熱意を半ばかわしながら、しみじみとカオスは心中にこぼす。
 寝起きの、しかも老身には、たぎる青春――というか、むしろほとばしる煩悩――の波動はいささか堪える。
 寝惚け気味の浮遊感と、事態への面倒臭さを隠すことなく、老賢者の口調はあっさりとこぼれた。


 「まぁ、数ヶ月は見とれ。わしも忙しい」

 「待てるかい! 下手すると話が流れて台無しやないか」

 「待たんかい。そもそもわしの都合はどうなるんじゃ」

 「むろん礼はする。一日分の食料を提供しようじゃないか。ある時払いだけど」

 「牛丼の並が一食分か、あるいはカップ麺が2個とか言うのではあるまいな」


 カオスの言が、しんとした静寂を呼び止める。
 横島の沈黙は、だが最も雄弁に肯定を唱えていた。


 「ええやないか! お互い貧困真っ盛りの仲だろ。貧しいモンの捧げる品は、金持ちがやるそれよりもすげぇ価値があるって、唐巣のおっさんが言ってたぞ」

 「マークとルークによる福音か。はなっからビジネスに走っとるお主に、あてはまるようなシロモンではないぞ、罰当たりめが」

 「元ネタはよくわからんけど、とにかく一生に一度あるかどうかわからんチャンスを棒に振れと!?」

 「では長生きする事じゃな。わしみたいに」

 「できるか、んなこと。先の命より今の愛じゃー!」


 卓袱台に突っ伏して号泣する少年にも、泰然とした姿勢を崩さず、カオスは茶を含んだ。
 乙女の嘆きと異なる、しかもまったく麗しくない光景に感情を乱れさす事は、大いに精神力の無駄である。
 両の眉がゆるやかに、八の字のカーブを描く。茶が少し温くなった気がした。


 「ウェルテルよりも節操ないのう。まぁ、積極的といえば聞こえは良いが……」


 一時の感情が心身を吹き荒れ、自らも御し得ぬことは、確かに理解できる。
 ましてや色恋である。神々ですら意のままにならぬようなものを、どうして人が御し得ようか。
 お茶のお代わりをマリアに頼むと、カオスは数秒の黙考を経て、横島へと向き直る。


 「アイソトープと言うものがある。学校で習ったと思うが覚えておるか?」

 「知らん」

 「お主の無知無学っぷりは今更じゃからな。咎めはせん、続けるぞ」

 「な、なんか、すっげームカツク……」


 指摘した事実の重さを、カオスは薄紙のように、横島は重石のように受け止めていた。


 「つまり同列の原子番号でありつつ、原子量の異なる元素。これを同位元素(アイソトープ)と言うのだが……化学の初歩の初歩じゃな」


 聞いたことがあるようなないような単語が、耳から脳内へと飛び込み、ちらつく。
 取れたてのでかい鼻くそを丸めると、横島はゴミ箱へと放った。


 「で、波長の組み合わせを変えながら、光線を照射し、元素の位相を計測することで、紙面の表層部分の差異を読み取るわけじゃ。そもそもアイソトープとは、一例を挙げれば考古学上における遺物・文献の解析、年代の特定にも大いに貢献する技術であり、これを応用した新素材の創製や、もちろん医療のような自然科学分野でも大いに……」

 「つまり、この手紙が読めるようになるわけか!? い、い、今すぐやってくれっ」

 「話は最後まで聞かんかい!」


 話の腰を思い切り叩き折られ、今度こそカオスは語気を荒らげていた。
 未知に対する無関心・無教養・無視をそも忌むところの彼には、この世で最も講義のし甲斐のない生徒の一人であることは間違いない。
 グラスの中の氷を噛み砕きながら、憤りと共に麦茶を飲み込んだ。


 「というわけじゃ。機材関連は知り合いに頼むとして……やっぱり数ヶ月はいるか」

 「ダメダメ! 却下や、却下」


 横島は頭を抱え、うずくまった。
 時間こそが勝負の分かれ目であることを、今更ながらに思い知らされた。
 失ったものを取り戻す為の代償とは、なんと重く苦いものであるか。それが恋文であれば、なおさら切なさが募る。


 「では自分で動くが良かろう。心当たりの女子に聞いて回るとか」

 「とっくに考えたわ。別人に当たったらどうすんねん」


 手紙の主が誰であっても、また手紙の主に運良く当たったとしても、まずは当然、手紙の扱いのひどさを責められる。
 さらに間違っていたとすれば、面白そうだから、と邪魔したりちょっかいを出されることは必然である。
 特に雇い主にそのような気質が顕著である。僅かな迂闊さがいろんな意味で我が身の死を招いてしまう。
 古典の時間に習った『蟻の一穴、堤防を穿つ』とは、まさに言い得て妙である。

 身の回りの事には発想が隅々にまで及ぶものだ。
 呆れと感心を半々にしながら、カオスは懸念と決意に眼光を閃かせる少年を見遣った。


 「そこはお主の行動と機微で何とかせい。だいたい普段、ナンパとやらでさんざん口説いてまわっとるお主じゃろうが。話術や雰囲気の流れを読むには長けておろう」

 「いや、単に『姉ちゃん、茶ぁしばき行かへんか』って」

 「……お主、もう少し素養というものを身につけんかい。カザノヴァやベルジュラックが聞けば鼻で笑って見放すぞ」

 「んにゃ、知らんわ、そんなヤツ」


 『たわけ』と『無学者』の二声を、むしろ憐れみのこもった丁寧な口調で、カオスは投げかけた。


 「良い男には良い女、良い女には良い男。これが天下の法則じゃ。第一印象である外見も心許ない、お主が言えるセリフではないぞ」

 「つまり、結論としては?」

 「手紙は直せるが、今すぐにではない」

 「で、オレは良い男ではない、と言うわけか」

 「よく分かったのう。採点はAプラスをやろう」


 穏やかな笑顔の老教師と、思いがけず解答を得た驚きに目を丸める生徒の姿が、卓袱台の両端に生じた。
 雀の鳴き声が庭先から響き、穏やかな陽光が室内に注がれている。台所からは水を使う音がせせらぎのように2人の耳朶を打つ。
 次の瞬間、滂沱の涙と『どちくしょー』の叫びを残し、横島は部屋を飛び出していた。

 手についた水をエプロンの布地に吸い取らせながら、マリアはカオスの下へと足を向けた。
 真横を駆け抜けていったばかりの少年について、問うためであった。


 「横島さん・どう・なさったの・でしょう?」

 「なに、ありがちの葛藤よ。我が身を知ることとは、痛みを避けられん事象ゆえな」

 「ドクター・カオス。昼ご飯に・なさいますか?」

 「うむ。とんだ来客のせいで遅くなってしもうたが、致し方あるまい」


 日常生活を怠惰に過ごすのは論外であるし、予定調和を乱されるのも避けたいところである。
 青菜とほうれん草、茗荷を刻んだ和え物。ちりめんじゃこと胡瓜、タコの酢の物を盛り付けた小鉢等が卓袱台に並ぶのを眺めながら、カオスは、我知らず深々と溜息をこぼした。


 「それにしても、青春ゆえの盲目とは、実に面倒な病状じゃのう」

 「横島さんに・お手紙・ですか?」

 「本人は恋文なんぞと言うておったが、確立の高さから言えば、いまいち信用できんがな。彼奴を知るものの悪戯か、風俗関連の広告か、手紙の主か郵便配達が投函する相手を間違えたか、いずれかじゃろうて」


 よそった飯を湯漬けにしながら、大した感慨もなさげにカオスは淡々と評した。我が身ならともかく、他人の色恋に興味はない。
 正直なところ、宝くじや競輪・競馬よりも当選の確率は低かろう。
 また告白される――かもしれないと仮定して――相手の横島ときては、公約を掲げて選挙に臨む政治家以上に、信頼性を欠いている。
 およそ婦女子の好意を得るには、あまりにも悪条件が先立ちすぎている。

 一目会ったその日から咲く恋の花があるとは、到底思えない。
 まぁ、色恋沙汰で死ぬ度胸もなかろうし、失恋もまた人格を磨き得る要因のひとつである。
 婚約済みの女性に惚れ込み、最後は銃による自殺へと至った青年を思えば、ぬるま湯もいいところだ。
 ギャグ風味多かりし人生に、ややシリアスの辛味が効いたスパイスがあっても、それもまた背中を押す妙味である。

 千尋の谷へと向かう少年の背を見送る気持ちで、カオスは吐息をこぼした。
 気持ちを切り替え、我が身の渇望を満たすべく箸を取る。昼食が待っているのだ。


 「おーい、マリア。大家の婆さんから貰った茄子の古漬けは、まだあるかの?」

 「イエス、ドクター・カオス」


 声に反応した人工知能が、瞬時に3日前の頂き物とその保存状況、賞味期限を数値化する。
 カオスに声を返しつつも、古びた玄関先へと向いたマリアの視線は、静かに、動じぬままであった。





 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 絶望には慣れっこのはずだ。
 古びた袖口で涙を拭いながら、横島は商店街を駆け抜ける。
 泣いたらひまわりに笑われる、とは聞くが、店先に並ぶ鰯や車海老、バナナにパイナップル、キャベツやレタスがほくそえんでいるように思えるのは、自らの精神状態の反映であろうか。
 ああ、天恵と呼ぶに相応しい恋文が届いたにもかかわらず、放置スルーをかました己の精神は、海産物や果実類からも嘲笑を受け得るものなのか。

 横島は走った。
 日光の直射にさらされながら、気付けば、商店街は既に過ぎ去っている。
 タクシーやバスのロータリーを、さらに喫茶店、ファストフードショップ、スーパーマーケット等が囲む光景は、見慣れた駅前の眺めである。
 寸刻を置いて目端に捉えた人影もまた、見知った人物のものであった。


 「あれ、横島?」

 「おう、タマモか。なんだ、またおやつのきつねうどんか? ブルジョアだな」


 九房に結わえた金色の頭髪と、僅かに切れ上がった眼差し。
 薄いピンクの半袖Tシャツと、細い肩紐で吊るしたターコイズブルーのワンピースとが、少女の夏らしさを演出している。
 ベルクロのサンダルは細足をしっかりとカバーし、コンクリートの無骨さと熱気を弾き返していた。

 もらった小遣いのほとんどをタマモはきつねうどんに費やしているらしいと、美神が笑いながら語ったのはつい先日のことであった。
 料理番組かバラエティで見られるような料理屋訪問さながらに、美味なるキツネうどんの探求に勤しんでいるのか。
 金銭の多少よりも、まず好きなものを食せる時点で、なかなかに羨ましいものだ。
 時折、牛丼の持ち帰りパックへと走る横島には、好物を存分に欲する気持ちが良く理解できた。


 「お揚げは別。特別なの」

 「わーったわーった」


 恥ずかしいのか、ちょっと顔を膨らませたタマモの、半ば予想通りの返答に、横島はふやけた笑いを返す。
 せっかくの憩いの時間を妨げれば、ただ機嫌を損ねるだけだ。はっきりいえば、自分よりもお揚げの方に存在価値があるかもしれぬ。

 ふと手紙の事が脳裏に浮かんだ。
 さりげなく聞いてみようかとも思ったが、すぐに横島は考えを改めた。
 あの文面から判断するに、タマモが手紙を――それもオレに――書くようなことはなかろう。


 「じゃ行くわ。またな」

 「あ、せっかくいいこと教えてあげようと思ったのに。それじゃしかたないわね」


 懸念よりも先に、好奇心が足元を掴んだ。タマモが自分を呼び止めるなど、珍しい事もあるものだ。
 振り向いた横島がまず認識したのは、タマモの笑顔だった。
 ひまわりのように溌剌と輝くそれを、横島の思考回路は瞬時に判断した。――『うさんくさい』と。
 口に出せば張り倒されるか燃やされるだろうが、予測はタマモの次の行動で確証を得ていた。

 右手を伸ばし、しなやかに伸ばした指先が静止する。
 追いかけた横島の視線は『麺所・裏飯庵』の看板を見出す。
 タマモの笑顔も態度も無視して、さっさと踵を返しても良かったが、できなかった。
 無言の圧力というのか、押し寄せる波動は、横島の心にこう語りかけていた。


 ――ここで帰れば、情報も与えないし、いろいろと言いふらしてやる。


 今度、じっくりと『たかり』と『奢り』の違いについて考証する必要があると、引き戸を潜りながら横島は思った。
 これも取材費とか情報料とかいうやつだろうか。横島はしぶしぶ財布を開くと、小銭を機械へ放り込む。
 すばやく『きつねうどん』を押したタマモは、吐き出された食券を掠め取り、配給口へと並んだ。
 もはや自分など意にも介していない。体の良い財布扱いである。『かけそば』のボタンを押しながら、我が身の切なさを横島は思った。


 「で? 良い事って何だよ。早く教えろ」


 タマモが横島の問いに答えたのは、キツネうどんを受け取り、間近の席に座し、箸を手に取った後であった。
 喜色満面の彼女には、皮肉はもちろん、たかられた当人の呆れも眼中にないらしい。
 麺を5口、汁を2口、揚げを1枚の流れで、すばやくメニューが食されていく。


 「ああ、手紙よ、手紙」


 予想外の言葉に横島は眼を瞠った。危うくコップを取り落とすところだ。 
 メニューを受け取っていれば、まるごとひっくり返していたかもしれない。
 やたらと手紙に振り回される今日とは、占いでキーワードにでもなったのだろうか。


 「妙神山ってとこから手紙、来てたわよ」


 呆けから歓喜へと、一瞬で転じた横島の表情に、むしろタマモの方が驚きを見せていた。
 一口、水を含むと、横島は視線をカウンター奥で吹き上がる鍋の湯気へと向ける。
 心から嬉しげであることは、誰であろうとも知れる雰囲気を放っている。


 「へぇ、アンタみたいなやつでも、手紙って嬉しいんだ」

 「こら、アンタみたいなたぁどういう意味だ」


 カウンターに背を預け、抗議を投げかけるものの、声音が言葉の荒っぽさを裏切っている。
 鼻歌まで飛び出す彼の姿を、どこか物珍しげに眺めながら、タマモはうどんへと意識を戻す。
 物が置かれる音と、おまちどうとの呼びかけが背を打ち、横島はすぐに振り返った。


 「あのー、オレ、かけそばなんスけど……」

 「ああ、兄ちゃんのはラッキーチケットだな。きっかり100枚目。今日のサービス・メニューだよ」


 店主の言葉を耳朶に受けながら、横島の嗅覚・視覚はフル稼働で、眼前の存在を確認していた。
 焼いた鶏肉をタレにつけ、ご飯の上に乗せ、細かく刻んだ油揚げを散らした小振りの鳥丼。
 メインの蕎麦には、汁がよく染みた油揚げがてんこもりである。
 ほかほか、と湯気を昇らせるメニューに、横島は己を取り巻く世界を忘失していた。

 これはまたなんとも幸先が良い。
 いちばん安価なメニューを選んだはずが、倍率増しの更に倍となって、手元へとやってきたのだ。
 やはりこれは天からの恵みである。人生に一度あるかないかの幸運が舞い降りる日だ。
 席に腰を下ろすまで、一ミリ単位の振動すら許さぬように、横島はお盆への注意力を振り絞った。


 「いただきます」


 割り箸は、まず鳥丼へと向かう。
 技巧派ギタリストも驚く16ビートのテンポで箸が動き、10秒とかけず、どんぶりの中身は消えていた。
 蕎麦がメインのサービスメニューとしては、付け合せならこんなものだろう。
 爪楊枝で歯間をほじり、水を含む。四肢に行き渡ろうとする栄養の躍動を、横島は満足の吐息と共に感じていた。

 すでに揚げを食べ終えていたタマモは、動体視力の全力を駆使して、横島の手元へと視線を向けた。
 見開かれた両目、箸と手元が小刻みに揺れている。
 なによ。なんなのよ、あのお揚げの山は。蕎麦の表面すら見えないじゃないの。
 今、食べたばかりのお揚げと比べたら、まるで象とアリじゃないの。

 タマモは噛み締める奥歯をさらに押し込んだ。
 横島が100枚目ということは、自分が手にしたチケットは99枚目であるということ。
 急ぎすぎた。急ぎすぎたのだった。余裕を持って臨まなかったが故に、大魚を逃がしてしまった。
 お小遣いの無駄遣いを防ぐためにと、運良く出会った横島を店に誘い込めたまでは良かったが、最後の一歩でつまづいた。

 上目遣いで、タマモは横島を窺う。
 贅沢品と言って良い食材を、久しぶりに胃に収めたことで、なんとも呆けた面構えである。
 まさにチャンスの到来だ。タマモの脳裏は即座に指令を出した。
 繊細と隠密を束ねた動作で、そっと箸先を伸ばす。

 どん、と机が鳴った。
 瞬間、手を引いたタマモは、髪の毛先まで花火のように四方へと房を飛び跳ねさせた。
 驚愕に見開いた眼は、卓上に振り下ろした横島の、震えている両の拳を映している。
 やはり奢らせたあげく、食事までかっぱらおうというのは、いくらなんでも仁義を欠き過ぎていた。


 「ご、ごめんなさ……!?」


 謝ろうとしたタマモは、だがすぐに彼の違和感に気付いた。
 お揚げ山盛りの蕎麦を意識している風ではなく、またタマモの方を向いてもいない。
 卓上に留まった横島の視線は、明らかに己が内面へと注がれていた。


 「妙神山からの手紙……まさか!?」


 おっかなびっくりで横島の表情を覗き込もうとしたタマモは、突然漏れ聞こえた声に、上半身を軽く引いた。
 双方とも一挙手一投足が、食事どころにそぐわぬ不安定さかつ不審さである。
 周囲の客が何事かと横目を走らせているのにも気付いていない。

 指摘されればタマモは急いで改めたであろうが、横島は意に介するところではなく、またどうでも良いことと一蹴したに違いなかった。
 不意に浮かび、いまや心中を席巻するひとつの発想に、身も心もかき回されていたからである。
 摂取したばかりの栄養が、普段だらけ気味の脳細胞を、珍しく活性化させたのかもしれなかった。




 ―――まさか、『あの手紙』は妙神山の女性陣から!?




 ふと思いついた事柄に、横島は混乱と狂喜のあげく、店の中で乱舞するところだった。
 可能性からいえば、望み薄であっても仕方が無い。
 だが。だがである。横島は緩みそうになる口元を必死で引き締めた。

 もしもパピリオからの手紙だとすれば、近日中に人界にやってくることを告げる内容だとしよう。
 となると、ひょっとすれば保護者が着いてくるかもしれない。
 なんといってもパピリオは――聞こえは悪いし、当人達も意識していないだろうが――保護観察の身分である。
 自然、小竜姫かヒャクメ、あるいはワルキューレといった面子の来訪も考えられる。

 この予想が正しいとすれば、相手は女神である。
 女神といえば、性別は当然女性だ。しかもそろって別嬪だ。
 女神と称して実は男神という話であれば、誠意を込めて張り倒すだけだが、この際は考えなくて良い。

 ご都合主義にして、極めて自己中心的な思索活動の結果であったが、横島は蒸気機関も真っ青な勢いで鼻息を噴出した。
 こうしてはいられない。愛が呼んでいる。愛が待っている。それも至上で特上のシロモノが。
 顔を上げた横島は、機敏な動作でいきなり立ち上がった。目に宿った輝きは、食欲以外の何かを突き動かしている。


 「ち、ちょっと、横島。おそば………ひゃうっ!?」


 呼び止めたタマモは、突然湯を浴びた魚肉のように身を縮めた。
 力強く両肩を掴み、眼を覗き込んでくる横島は、真摯さの権化であった。ともすれば仕事時以上に。
 金魚みたく口は開閉し、胸腔の奥から頭頂部へ突き抜けるように、血流がうねるのをタマモは自覚した。
 畳み掛けるように更なる驚きは、横島の口から飛び出て来ていた。


 「全部やる」

 「……え、え?」

 「遠慮はいらん。これは全てお前のものだ。お前だけのものなんだ、タマモ」


 そう。誰しも、人生に特別な瞬間がやってくる。
 今のオレには愛がある。与えられるべき、注がれるべき愛が。
 蕎麦は確かに惜しい。しかも特典付きとあっては尚更である。
 しかし、人は蕎麦のみにて生くるにあらず。今は愛なのだ。

 前略、山の上より。
 妙な神様たちの山と書いて、妙神山。
 天下の険たる箱根の山も、越えてみせます、愛のため。
 富士なんぞより遥かに霊峰。気分はヨーデルよろれいほー。

 横島はどんぶりを両手に取った。
 聖体拝領のような厳かさで、捧げ持つ。
 誰しも見間違えようのない貴さが、横島の所作には在った。

 少し、冷めてますけど、伸びてますけど。
 でも、とても、暖かい。


 「さぁ、これはオレの気持ちだ。どうか受け取ってくれ」


 愛は万人に与えられるものである。イエス・キリストよ、使徒たちよ、賢者達よ、ご照覧あれ。
 慎ましやかにして荘厳たる聖歌隊の合唱が、蕎麦屋の店内に響いた。


 「よ、横島……」


 彼の名前しか、タマモは口に出来なかった。
 湯気を顎に受けながら、ひたむきな眼差しでどんぶりを見つめる。
 これは本当の事なの? 現実なの?

 横島は頷いた。
 心配は要らない。恐れる事など何もないんだ。眼差しは、確かにそう言っていた。
 だって、お揚げはいつもそこにあるのだから。


 「じゃあな、行って来る」


 手渡した蕎麦を、タマモを一瞬だけ見つめると、横島は踵を返した。
 引き戸から差し込む陽光を受け、逆光に黒く消えゆくのは、まさに男の背中であった。
 悔いもなく、引かれる後ろ髪もなく、全てを託して、横島は戸の向こうへと去った。

 油脂に汚れた擦りガラス越しに、注がれる陽光の、なんという暖かさにして美しさよ。
 冷房から降り注ぐ冷気の、なんという心地良さよ。
 イワシのすり身から香る、なんという生臭さよ。
 これが、これこそが生命なのだ。

 店主は静かに、敬意すら込め、帽子を取った。部下たちも沈黙の中、涙を頬に注いでいる。
 鍋にこぼれていくのは、この際気にしない。――誰も気付いていないし。
 塩味だから良いじゃないか。煮立っているから良いじゃないか。
 いや、それ以上に、愛じゃないか。

 他の客たちも、心の中に広がる理想郷を見出していた。
 俺、今度教会に行ってみよう。
 そうだ、唐巣神父という人の教会に良い評判を聞いている。


 「お、おじさん……」


 店主に向けたタマモの表情は、歓喜に震えていた。
 2,3度頷いた店主は、だがすぐに口元を押さえる。
 嗚咽を堪えているのか、白の作業着が小刻みに震えている。部下たちも同様であった。

 よかったね。やぁ、よかったねー。
 たべてたべて、わたしをたべてー。
 ねぎだよ、おふだよ、わかめだよー。
 おあげもいっぱいだよー。しるでぷくぷくだよー。


 「いただきます」


 箸が蕎麦を持ち上げ、彼女の口へと送り込む。
 うどんも良い。揚げが入っていれば尚の事良い。
 だが今日こそ、自分は新たなる地平を見出した。
 緑の海藻と、大地の産物と、揚げ物のコントラストは、蕎麦と言うフィールドに私を迎え入れてくれた。
 あの少年の、横島忠夫の手に誘われて。

 拍手が、聞こえた。
 さざなみのように広がり、店の中を埋めたそれは、客たちの涙と共に在った。
 サラリーマン、学生、労働者、近所のおばさん、犬にネコ。
 託した者、託された者への賛辞こそが、打ち鳴らされている音の語りであった。

 お蕎麦ってしょっぱいんだね。お揚げって甘いだけじゃないんだね。
 鳴り止まぬ拍手の中、タマモは繰り返し、繰り返し、麺をすする。
 歓喜と至福の時間を、お揚げの1枚1枚と共に、途切れることのない涙の中で、タマモは迎え入れた。

 こうしてタマモは、キツネそばも大好物となった。
 ただし、お揚げはてんこ盛りで。











                  続く


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