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雇われ式神使い

第四鬼 式神使いの覚醒


投稿者名:双琴
投稿日時:07/ 6/13




「げっ、もうこんな時間やないか!」

 二日目から本格的な仕事が始まるのだが、目を覚ましたのは朝の九時過ぎだった。夜中のごたごたもあり、冥子と二人揃って寝過ごしていた。
 飛び起きた鬼道はまだぐっすりと眠っている冥子を起こしにかかる。

「冥子はんもはよ起きぃ」
「うぅ…まだ眠い……」

 寝足りない冥子は頭を布団で隠した。
 布団の中に逃げる冥子を見た鬼道は布団を容赦なく剥ぎ取った。晒された冥子は急激な温度差に体を丸くする。

「ヤ〜、お布団かえしてー」
「もう朝や」

 鬼道の一貫した態度に冥子は抵抗するのを諦める。渋々と起き上がった冥子が目をこすりながら恨みがましく見た。

「マーくん、お母さまにそっくり……」
「そら光栄やね」

 寝起きで機嫌の悪い冥子を軽くあしらい、二人は洗面所へ向かった。



 朝の身支度を終えた二人が旅館を出た時、そこで二人を待つ天道兄妹と遭遇した。
 竜一は紺色のスーツを着用し、貴子は上下とも白のスーツを着用している。兄妹の格好はさながらビジネスマンのようだ。

「これは冥子さん、おはようございます」
「鬼道様、お待ちしておりましたわ」
「竜一さん、おはよう〜。それと、貴子さんですよね〜? おはよう〜」

 含みのない笑顔で挨拶を返す冥子。最悪の形で初対面を終えた冥子と貴子だが、冥子は全く気にしてないようだ。
 その様子を見た鬼道は場が荒れなかった事に安堵した。同時に、冥子の自分への想いがそれほどでもない事が知れたようで複雑な心境になった。
 貴子もわずかに驚いてから笑顔で挨拶を返す。

「おはようございます。妹の貴子ですわ。昨晩の非礼はお許しください。まさか、鬼道様と同室なされているとは思いませんでしたので」
「いいのよ〜。ちょっとびっくりしただけだから〜」

 にこやかに挨拶を交わす女性陣とは対照的に、男性陣の顔色は優れない。待ち合わせの約束をした覚えのない鬼道は怪訝な顔で兄妹を見る。そこで、竜一がここで二人を待っていた訳を話す。

「なんか用でもあるんか?」
「俺の妹には占いの才能があってな。その占いによると、この場の全員が一緒に行動した方がいいらしい。そういうことで同行させてもらう」
「鬼道様、よろしくお願いしますわ」

 貴子が両手を前方で揃えて律儀に頭を下げる。
 竜一が貴子を連れてきた理由はこの能力を使うためだ。探し物を見つけるにはうってつけの助っ人だ。
 自身が霊能者の鬼道も占いを信じない訳ではない。だが、竜一は冥子の事でも今回の事件の事でも競争相手だ。安易にそれを承諾するわけにはいかない。

「勝手に決めてもらっても困るんやけど」
「堅いこと言うな。どうせ手掛かりの一つもないんだろ? 貴子に頼った方が得策だと思うが」

 竜一の言うとおり、有力な手掛かりは何もなかった。オカルトGメンから依頼を受けた時、美智恵から授かった情報はこの地域の伝承だけだった。

「私もみんなと一緒の方がいいと思うの〜」

 図星を突かれ、冥子にまで賛成されては返す言葉もない。四人で行動する事を受け入れた鬼道は、貴子にこの先の行動を聞いてみた。

「で、次はどうしたらええの? 貴子はんは分かってはるんやろ?」
「少しお待ちになって。今から占ってみますわ」

 貴子は手提げ鞄から翡翠でできた勾玉を取り出すと、胸の前で両手で握り締め、目を閉じた。
 みんなが黙って見守る中、しばらくしてゆっくりと口を開く。

「……この村のどこか……鳥居の壊れた古い神社が見えますわ――」

 一言そう言って瞼を開ける。次を期待する鬼道と冥子は息を呑む。が、どれだけ待っても次の言葉はない。痺れを切らした鬼道が口を挟む。

「それだけなんか?」
「ごめんなさい。私の占いも万能ではありませんの。とにかく、頭に浮かんだ神社を見つければ、解決に向かうと思いますわ」

 鬼道の勝手な過度の期待にも貴子が謝るのを見て竜一が腹を立てる。

「それだけとは失礼な。かなりの的中率で具体的な目標を示せるのだから、占い師としては最上級の部類に入るのだぞ」

 鬼道は言われてようやく貴子の能力が大したものだと気付く。何も手掛かりが無い中でこれだけはっきりと道を示せるのだから、その力は予知に値する。

「よう考えたら貴子はんは凄いわ。謝るのはこっちやった。堪忍な」
「いいえ、お気になさらず。私の方こそ、昨日はとんだ失礼を働いてしまい、本当にすみませんでした」
「済んだことや。もう怒ってへんよ」

 片手を顔の前に持ってきて謝る鬼道を貴子は笑って許し、頭を下げる貴子を鬼道も笑って許した。それを見ていた冥子の表情が曇る。

「マーくん、その神社を早く探しましょ〜」

 冥子が鬼道の腕を引っ張って注意を引こうとする。
 二人が楽しそうに微笑み合う姿は冥子を苛立たせた。
 その苛立ちの理由を、冥子はまだ知らないままだった。




 その神社はすぐに見つかった。小さな村なので、住民に少し聞いて回っただけで神社の場所を特定できた。

「鳥居が見えてきた〜」
「この神社に違いありませんわ」

 坂の急な細い山道を上りきったところに倒れかけた大鳥居の頭が見えてくる。今にも倒れそうだが、村にこの鳥居を修復する計画はないそうだ。人もほとんど来ないので、安全面から鳥居を撤去することもないらしい。

「罰当たりやなー」
「どんな神社にも建てられた意味がある。それをないがしろにするのは感心できんな」

 この惨状では仲の悪い鬼道と竜一の意見も一致せざるをえない。
 四人は厳しい表情で坂を上り、傾いた鳥居を潜る。見渡した境内は狭く、中心に本殿があるだけだ。
 他に目立った物がないので、四人の足は自然と賽銭箱の前に向かう。

「何もありませんわね……」
「願掛けでもしてみるか?」
「それなら、お賽銭を入れないと〜」
「なに財布を出しとんのやっ」

 冗談を真に受けて鞄から財布を取り出そうとする冥子を鬼道が慣れたツッコミで制止する。天道兄妹には冗談に見えただろうが、ある程度の付き合いがある鬼道には本気にしか見えない。
 神様の面前でどうでもいい漫才を繰り広げていると、本殿の閉じられた扉の奥から野太い声が聞こえてきた。

「これは珍しい。人間にしては強い霊力を持った者が四人も集まるとは――」

 場の空気が一変し、四人に緊張が走る。一目で相手の霊力を量り知るのだからただ者ではない。全員が警戒して本殿から距離を取ろうとする。いや、一人だけ動かないマイペースな者がいた。

「もしかして、これって神様の声〜?」
「そんな都合よく神様が現れる訳ないやろ!」

 おめでたいのか、はたまた大物なのか、冥子は不意を突かれても動じない。逃げ遅れた冥子を連れ戻そうと鬼道が慌てて手を伸ばす。

「特に、そこの逃げなかった女。うぬなら見込みがありそうだ」
「私のこと〜?」
「そうだ」

 正体不明の声に指名されても、冥子はのん気な声を上げて自分を人差し指で指す。冥子の危険を感じた鬼道は夜叉丸を呼び出した。

「夜叉丸、出ろ!」

 影から召喚された夜叉丸は、冥子の前に立って守ろうとする。
 式神が現れた事で事態が動き出した。

「やはり術師だったか。ならば、男から実力を試してやろう」

 その言葉のすぐ後、派手な破壊音と共に本殿の屋根が吹き飛ぶ。中から大男が飛び出し、境内に地響きを立てて着地した。
 鬼道達は、はじめて大男の姿を確認した。

「こいつは鬼か……?」

 条件反射的にツクモヒメを呼び出した竜一が、驚きでぽつりと感想を漏らす。
 その大男の禍々しい姿に誰もが威圧された。全身はどす黒く、皮膚なのか鱗なのか良く分からない物で構成されている。目はギラギラと赤く輝き、口からは大きな犬歯が上下に剥き出しになっている。言うなれば、その姿は鬼そのものだった。
 これまで能天気だった冥子もこの迫力には怯えを見せる。

「お前は何者や?」

 鬼は問いかけた鬼道を見下ろし、フンと鼻を鳴らした。
 
「いいだろう。何も知らずに死ぬのは納得できぬだろうから教えてやる。我の名は黒鬼。世を平定するために人によって造られた鬼だ。もっとも、我を扱える術師はおらず、ほどなくして我を恐れた人間どもに封印されてしまったが……」

 この地域の言い伝え通り、黒鬼は式神だった。それも、誰もがその力を持て余すほどに強力な式神だ。
 早くもお宝を発見したのだが、話を聞いた全員の背筋が凍る。黒鬼が言う「試す」は「殺す」と同じ意味だったのだ。黒鬼に認められれば、或いは生き残れるかもしれないが、聞く限りではそれも難しそうだ。とてつもなく強そうな上、人間を侮蔑していそうだからだ。
 誰もが冷や汗を掻いて生き残る算段を必死に考える中、黒鬼の話は淡々と進む。

「それが何故か数日前に封印が解かれてな。長い年月で衰弱していた体をここで休めておったのだ」

 黒鬼は神社の結界を利用して疲弊した体を回復していたのだ。
 これでトンネル掘削現場での事件の犯人が黒鬼だとほぼ確定し、事態は最悪に近づいた。黒鬼は簡単に人を殺せるのだ。目の前にいる四人もいつ殺されてもおかしくない。
 鬼道は安易にこの依頼を引き受けた事を後悔した。人殺しを相手にするのは覚悟していたが、こんな化け物を相手にするとは思わなかった。
 同じく後悔している冥子が恐怖で竦みそうになりながら後ずさる。

「冥子は弱いから〜、帰らせてもらいますね〜」
「何を言う。うぬだけは絶対に試させてもらうぞ」
「そんなぁっ!!」

 一人だけ逃げようとしたが、目を付けられていては逃げられない。ここは情けない声を上げて泣く冥子に呆れる場面だが、周りにそんな余裕はない。逃げたい気持ちは他の三人も同じだった。
 最早、衝突を避けようのないところまで来てしまっている。そう感じた竜一は腹を括り、先に打って出る。

「やれ! ツクモヒメ!」

 命令と同時にツクモヒメが小袖を翻し、閉じた扇を振り回す。無数の見えない刃が黒鬼を目掛けて放たれる。

「ムッ!?」

 黒鬼はそれに気付いたようだが避けられない。竜一はカマイタチの命中を確信し、黒鬼が切り刻まれる姿を想像する。だが、結果は違った。

「な……当たったはずだ!!」

 無傷のまま仁王立ちする黒鬼を見て驚嘆する。カマイタチは確かに命中したはずだ。黒鬼はその場から一歩も動いていないのだから。
 しかし、現に黒鬼は何事も無かったかのようにそこに立っている。

「面白い技を使うものよ。だが、これしきの攻撃では我の肌は裂けぬ」

 黒鬼は避けられなかったのではなく、避けなかったのだ。黒鬼はそれほどまでに己の体の頑強さに自信を持っていた。
 それを聞いた一同に絶望の念が走る。特に、あのカマイタチに痛い目に遭っている鬼道は力の差に愕然とした。

「そうか、うぬから試して欲しいか――」

 薄ら笑いを浮かべた次の瞬間、黒鬼の姿が残像を残して消え、鬼道が急いで目で追う。

「行ったで!!」

 目で追うのがやっとの速さで黒鬼が一直線に向かう先には、竜一とツクモヒメがいた。
 すでに構えていたツクモヒメは扇を広げて大きく一振りする。すると、黒鬼を追い払おうと風が吹き荒れる。

「きゃあ!」

 台風並みの突風に煽られ、冥子は捲れたスカートを押さえ、夜叉丸は冥子が飛ばされないように守る。
 黒鬼に向けられた突風は台風の比ではない。後ろの木々は暴風に耐え切れず、根っこから飛ばされるものもあった。
 だが、それほどの強風の中で黒鬼は立っていた。足は止まっているものの、山のようにどっしりと二本の足で直立している。

「手を緩めるなッ!!」

 ツクモヒメは扇を振り続け、暴風が絶え間なく黒鬼を襲う。しかし、黒鬼が飛ばされるような気配は微塵も無い。

「これが限界か……」

 風に当たるのも飽きたのか、黒鬼はおもむろに体勢を低くして両足で地面を蹴る。
 蹴られた地面が抉られて大きな足跡を残し、黒鬼が逆風の中を平然と駆ける。

「お兄様!!」

 貴子の叫び声と同時に竜一が吹き飛ぶ。
 難なく風の壁を突き抜けた黒鬼は、ツクモヒメに見向きもせずに竜一を片手で薙ぎ払った。
 軽く吹き飛ばされた竜一は大鳥居の柱をへし折り、血を吐いてその場に倒れ伏せる。何もできずに見ていたツクモヒメは倒れた竜一の影に消える。そして、元から傾いていた大鳥居は自重を支えられなくなり、ミシミシと腐った木を割いて倒壊した。
 その凶悪なまでの強さに唖然としていた鬼道と冥子だが、貴子が血相を変えて駆け寄るのを見て二人も竜一の状態を気に掛ける。
 見ると、倒れた竜一に動きは無く、意識を失っているようだ。あの攻撃を受けたのだから、大怪我を負っているかもしれない。
 鬼道は夜叉丸と一緒に黒鬼の前に立って天道兄妹を守る。

「ここはもうええ。貴子はんは怪我人を病院に連れてったりぃ」
「でも……!!」
「内臓をやられとったら一大事や。遊んどる時間なんてあらへんよ」

 怪我を治すだけなら冥子の式神のショウトラでもできる。だが、鬼道の狙いは竜一の治療ではない。足手まといになるであろう貴子をここから逃がす事だ。

「……わかりましたわ。このご恩はいつか必ずお返ししますわ」
「楽しみにしとるよ」

 貴子は苦渋に満ちた顔で考えたあげく、役に立てそうにないと判断し、竜一を背負って境内を後にする。
 黒鬼の前に立ち塞がったのはいいが、鬼道は動けなかった。どうやっても黒鬼に勝てそうにない。
 黒鬼の脅威は桁外れの腕力と打たれ強さだけだ。しかし、その純粋な力の強さ故に死角が見当たらない。
 鬼道はやむなく冥子の助けを借りる事にした。

「冥子はん、クビラで奴の弱点を探してや!」
「う、うん、やってみる〜」

 激しい戦闘を唖然と見ていた冥子も気を取り戻して式神を呼び出す。出てきたのは目玉だけの姿のクビラで、霊視に秀でたサポート役の式神だ。

「う〜、特に変わった所は無いよぉ〜」

 冥子の情けない声の報告で鬼道の思いつきは失敗に終わった。
 いよいよ追い詰められた鬼道が焦りから頬に冷や汗を垂らす中、一部始終を静観していた黒鬼が失笑を漏らす。

「クックックッ……我に付け入る隙は皆無! 勝ちたかったら我を力で捻じ伏せてみよ!」

 無理難題を課しながら黒鬼が突進する。遂に攻撃が再開し、今度は鬼道が狙われる。
 あっという間に距離を縮めた黒鬼は、まさに鬼気迫る威圧感を持って腕を振り上げる。

「ムリ言うなやっ」

 そう言いながら鬼の一振りを紙一重でかわす。かわされた黒鬼は大振りした腕をそのままにして次の動作に移らない。

「人間がこれをかわすとは面白い」
「体だけは鍛えられとるんでな」

 鬼道は幼い頃から父親に式神使いとして鍛えられていた。その修行は父親の私怨が入り、度を過ぎた内容が多かった。おかげで、肉体的には人並み外れた能力を手に入れていた。
 構え直した黒鬼は嬉しそうに口を歪めて攻撃を再開する。

「これはどうだ?」

 今度は黒鬼の足が飛んでくる。それもきれいにかわした鬼道は一定の距離を保つ。
 しかし、所詮は鬼道もただの人間。攻撃を避ける事はできても、こちらから攻撃する事はできない。黒鬼の体に攻撃を当てたところで、こちらの拳が砕けるだけだ。夜叉丸の攻撃でもダメージは期待できない。
 苦境に立つ鬼道だが、冥子は怯えて傍から見るだけだ。

「私はどうしたら……」

 逃げの一手がいつまでも通用するはずが無く、鬼道と黒鬼の距離がどんどん縮まっていく。疲労から鬼道の足が取られそうになる場面が多くなり、冥子が何度も声を上げる。

「あっ!」

 黒鬼の攻撃が当たりそうになるたび、先程の竜一の無惨な姿が冥子の脳裏を掠める。

「イヤ……マーくんが傷つくのはイヤ!」

 その想像に計り知れない恐怖を感じる。そして、その結末だけは迎えていけないと心の底から激しく警鐘が鳴らされる。
 いつしか恐怖が勇気に変わり、臆病な冥子を突き動かす。

「ビカラ!」

 冥子の前に「ビカラ」と呼ばれた式神が現れる。手も足も無く、ずんぐりした体に大きく裂けた口しかない。

「ハァハァ、しんどいわ…」

 息を荒くして疲れを隠せない鬼道に攻撃は絶え間なく続けられる。その時、黒鬼の動きが急に止まる。

「グゥ……新手の鬼か!」
「ビカラか!」

 鬼道の前に割って入ったビカラが、黒鬼を正面から受け止めた。
 初めて見せる黒鬼の気張った表情から、ビカラが力負けしていないのが分かる。いくら黒鬼でも、怪力自慢のビカラには苦労しているようだ。

「こしゃくな……!!」

 同じく力自慢の黒鬼は意地になってビカラと押し相撲を繰り返す。だが、力は互角なのか、そのまま岩のように動かない。
 この状況を利用しようと鬼道が冥子に命令する。

「今のうちに他の式神で畳み掛けるんや!」

 だが、それが大きな失敗だった。
 それを聞いた黒鬼はさっさと不毛な力比べを放棄し、目標を冥子に変更する。
 手足の無いビカラから容易に離脱すると、冥子に向かって疾走する。

「しもうた!!」

 ミスに気付いた鬼道も全速力で助けに行く。修行どころか普段から運動もしない冥子が襲われたら一巻の終わりだ。それを一番分かっている冥子は全身から血の気が引く。

「ヤぁ…あ……」

 迫る敵が大きく見えてくるにつれ、隠れていた恐怖心も大きくなっていく。そして、血を吐いて倒れた竜一の姿を思い浮かべた時、ついに冥子は正気を失った。

「痛いのはいやぁああッ!!」

 大声で泣き叫ぶ冥子の影から残り全部の式神が飛び出す。ここにきて冥子がプッツンしてしまったのだ。
 だが、暴走した式神で倒せる相手ではない。泣いて突っ立っているだけでは格好の的になるだけだ。

「アホ! ちゃんと奴を見いやっ!!」

 冥子は泣きじゃくるだけで、ろくに目も開けていない。
 鬼道は夜叉丸で暴走する十二神将をどうにかいなし、冥子の元へ向かう。
 黒鬼は統率の無い十二神将の攻撃を軽々と受け流していく。

「これほど多くの鬼を率いておるとは、大した女だ」

 易々と暴走の中心に辿り着いた黒鬼は腕を振り上げて敬意を払うように狙いを澄ます。なのに、いまだに冥子は現実を見ずに泣き続けるだけだ。

「冥子はん!!」

 ここからは無我夢中だった。
 暴れまわる十二神将の回避に夜叉丸を当てていた鬼道は、生身で冥子の前に庇い出る。
 黒鬼の腕が振り下ろされ、鮮血が飛び散った。
 生温かい液体が冥子の顔に飛沫となって噴きかかる。
 その気持ち悪い感触で冥子は泣き止み、夢うつつの思いで目を開いた。

「――マーくん?」

 初め、冥子は目の前の光景を信じられなかった。
 前に立つ鬼道の背中から、有りえない物が生えているのだ。
 よく見ると、それは赤黒い腕だった。
 その先端からは赤い雫が滴り落ちる。
 鉄の匂いが鼻を突き、次第に冥子は現状を理解した。

「嘘……でしょ?」

 鬼道の腹部に深く貫かれた手刀が、ズルズルと引き抜かれた。
 支えを失った鬼道は、声もなく崩れ落ちる。
 うつ伏せに倒れた鬼道から血の海が広がった。
 もう鬼道は死んだに違いない。そう思うしかないようなあまりに凄惨な光景に、冥子は泣き叫ぶ事もできなかった。
 その代わりに、冥子の中であらゆる感情が爆発し、振り切った針は、途端に麻痺したように静止した。

「ショウトラ、マーくんをお願い」

 低くて冷たい声で式神に命令する。冥子の顔からは表情が消え、その冷め切った目からは恐怖すら感じる。
 今の彼女は違う形でプッツンしていた。
 冥子の様子が激変したのと、その威圧感から、黒鬼は慎重に後ろに跳んで距離を取った。
 その間に、呼ばれたショウトラが横たわる鬼道をくわえて安全な場所に退避した。
 ショウトラは犬の姿の式神で、病気と怪我の治療ができる。ショウトラは鬼道の腹部に開いた風穴を懸命に舐め始めた。

「メキラ、来なさい」

 虎の式神が瞬間移動で冥子の元に現れる。その背中に乗り、黒鬼を指して全ての式神に命令する。

「あの鬼を消します。負けは認められないわ。死ぬ気でかかりなさい」

 冥子とは思えない言葉が飛ぶ。あの優しくて式神を大切にしている冥子なら、こんな事を口にしない。
 やはり、今の冥子は正気ではない。それでも取り乱してはなく、むしろ普段よりも冷静に見える。
 命令を皮切りに全式神による総攻撃が始まる。
 アンチラが刃のような長い耳で斬りつけ、サンチラが雷を落とし、アジラが火を吹き、ハイラが毛針を撒き散らす。
 暴走とは違い、全ての攻撃が的確に黒鬼を狙い打つ。
 これだけ多くの式神を一度に操る事は不可能に近い。それを容易く使いこなしているのだから、冥子は周りから言われるように、本当の天才だった。

「効かぬ……効かぬぞお!!」

 猛攻の中、黒鬼が攻撃を受けながら咆える。全ての攻撃が命中しているのだが、黒鬼に目立った傷は見えない。黒鬼の防御力は考えた以上にずば抜けていた。
 正攻法では埒が明かないと判断した冥子はアジラに指示を与える。

「アジラ、あれをやって」

 トカゲのような式神のアジラが火を吹いていた口を閉じ、額の宝石を黒鬼に向ける。
 その宝石が光ったと思ったら、奇妙な光線がほとばしる。

「ン!?」

 危険を肌で感じた黒鬼は咄嗟に避けようとする。だが、慢心が祟ったのか、遅れた左腕が怪光線の餌食になる。

「ぬおおっ!!」

 みるみる左腕が固まって動かせなくなる。色も灰色に変わり、腕が石のように重い。アジラの怪光線には石化の作用があるのだ。
 これは強力な技だが、あまりに危険な技なので普段は多用しない。切り札的な存在だった。
 石化が全身に広がるのを恐れた黒鬼は自ら左腕を切り落とす。地面に落ちた左腕は簡単に砕けてバラバラになる。

「おのれぇ……!!」

 黒鬼が憤怒の形相でアジラを睨む。
 その先を読んだ冥子はメキラの瞬間移動を使ってアジラを回収しに行く。黒鬼が跳びかかろうとした場所に冥子が現れ、右拳が届く前にアジラと共に消え去った。
 淡々と戦いを進める冥子とは対照的に、黒鬼はどんどんヒートアップする。怒りで肩を震わせる黒鬼の目には冥子とアジラしか映っていない。

「ええい! ちょこまかと小賢しい」

 冥子に向かって猪突猛進を繰り返す黒鬼をあざ笑うかのように、メキラの瞬間移動で翻弄する。
 その最中、黒鬼の目の端に目標の影が横切る。

「そこか!」

 黒鬼が見る先には冥子と違う場所にいるアジラの姿が見えた。
 アジラさえ葬れば他に脅威は無い。そう考えた黒鬼は疑いもせず、アジラに向かって突進する。

「何!?」

 だが、それはアジラではなかった。
 突進する黒鬼の目の前でアジラの姿形が崩れていく。このアジラはマコラが変身したものだったのだ。
 普通に考えれば、冥子が切り札を手放すはずが無いのは当然だ。だが、冷静さを欠いた黒鬼にその判断力は無かった。
 そこで黒鬼は罠だと気付いたが、全ては決していた。すでに黒鬼の背後を取っていた本物のアジラから石化光線が放たれる。
 黒鬼の足から石化が始まり、膝まで石化した所で立っていられなくなる。前のめりに倒れた黒鬼は敗北を認めるしかなかった。

「……我の完敗だ。名は冥子と言ったか。其方の力量、しかと確かめさせてもらった――」

 石化が胸まで広がり、黒鬼の声も小さくなっていく。

「――其方なら、我を自在に扱えよう……」

 黒鬼が黙る頃には頭まで石になっていた。
 冥子はメキラの上から全身が石と化した黒鬼を見下ろす。その頬には鬼道の血がこびり付き、瞳は氷のように凍て付いたままだ。

「踏み潰して」

 メキラが踏み砕こうと前足を上げた時、触れてもいないのに黒鬼の体に亀裂が走る。
 勝手に砕け散り始め、最後は砂粒の大きさまで砕かれた。そして、地面に残った砂が光となって消えていく。
 その美しい光景を見つめる冥子の瞳に光が戻る。

「私……なんて事を……」

 正気を取り戻した冥子は先程までの自分の言動に恐れ慄く。あんなに冷徹で残酷な一面を持っていたなんて信じたくない。
 震える冥子の周りを囲むように式神達が集まってくる。メキラから降りて心配してくれる式神達を順番に抱き寄せる。そして、ショウトラがいない事に気付く。

「――マーくんは!?」

 肝心な事を思い出した冥子は血相を変えながら境内周辺を走って鬼道を探す。
 そして、この神社に来る時に通った山道で鬼道を発見して青ざめる。

「まだ治ってないの〜?!」

 怪我の状態は衣服でよく見えないが、今も目を閉じて寝ている鬼道をショウトラが必死に舐め続けている。
 まだショウトラが治療中だから、怪我は完治していない。
 心配で仕方がない冥子は、苛立ち混じりの視線をショウトラに向ける。

「ちゃんと治してるの〜?」
「キュウゥ〜ン」

 舐める舌を休ませて、情けない鳴き声が返事として返ってくる。ショウトラの耳は伏せられ、見るからに頼りなさそうだ。焦りを覚えた冥子は、強い口調で治療を続けさせる。

「いいから、ヒーリングを続けなさい〜……!!」

 叱られたショウトラは死に物狂いで舌を動かす。
 乱暴に見えるほど舐めまわされ、鬼道が意識を取り戻す。

「……あ……奴は、どこや……?」

 気が付いたようだが、鬼道の声はとても弱々しく、目も薄っすらとしか開けてない。
 それでも、冥子は大喜びで鬼道の顔を覗き込むように膝を着いて声を掛ける。

「冥子が頑張ったから、もう大丈夫よ〜。うん、頑張ったんだから〜」

 手を振ったり、大きく頷いたりしながら話す冥子の姿は、どこか痛々しくも見える。冥子は不安を隠すのに必死だった。

「そか……ほんま、よう頑張ったわ……」

 鬼道は微笑んだつもりだったが、その表情は疲れ切ったものから変化しない。それほど衰弱していた。

「――ごほっ……こほ、ごほ……ぐぷっ――」
「マ、マーくん?!」

 不意に咳き込んだ鬼道の口から、大量の血が吐き出される。
 ショウトラでも腹を貫通するような致命傷では、わずかな時間の延命しかできなかった。
 治療の効果が全くないのを見てしまっては、冥子のなけなしの強がりもここまでだった。ついに、冥子は謝りながら大泣きしてしまう。

「ごめんなさい〜っ! 私がしっかりしてなかったから、マーくんがぁ……」

 冥子は罪の意識から鬼道の顔を見れず、地面で丸くなって両腕で顔を隠す。
 もう長くない事を悟った鬼道は口に残った血を吐き捨て、泣き崩れる冥子を宥める。

「……気にせんでもええよ」
「私の、私のせいでぇ……」
「冥子はんを助けたんやあらへん。ボクが困るから勝手にやって、自滅しただけや……」

 もし、鬼道の言うように野望のためだけに自分の命まで投げ出したのなら、それは狂っているとしか言いようがない。冥子との式神対決で負けより死を選んだ鬼道だ。それも有りうるところが恐ろしい。
 まだ冥子は泣き止まないが、話すのも辛くなってきた鬼道は、残った力を振り絞っておやすみを言う。

「疲れたから……少し寝るわ……」

 ここで目を閉じたら、もう二度と目が覚めない。冥子はそう直感する。そして、慌てて顔を上げて鬼道を見る。強い霊能の力を持つ冥子の直感は嫌な予感も非常によく当たってしまう。

「眠っちゃダメええッ!! マーくんがいないと冥子も困るのぉ〜……!!」

 必死の形相の冥子が鬼道の肩を持って激しく揺さぶった。しかし、鬼道の表情は薄く目を開けたまま何の変化も見せない。死が現実に見えてきた冥子は、形振り構わずに命令する。

「ショウトラ、早くマーくんを治してぇ!」

 命令されるまでもなく、先程からずっとショウトラは治療に専念していた。だから、命令しても何も変わるはずもなく、鬼道の容態はどんどん悪くなっていく。顔色も白さを増し、肩を揺さぶる手から伝わる体温も冷たくなっていく。

「いやああぁっ! ヒーリングが追いつかないよおっ!!」

 鬼道が最後に見たのは、蒼白な顔で半狂乱になりながら叫ぶ冥子の顔だった。






 六道女学院の職員会議中、紀黄泉の手持ちの携帯電話に着信が入る。待ち受け画面をを見て相手を確認すると冥子だった。

「ちょっと失礼しますね〜」

 他の職員に会釈をして会議室を退室し、すぐに通話ボタンを押す。

「もしもし――」
「マーくんが、マーくんがぁ!」

 有無を言わさない口調で冥子が同じ言葉を何度も繰り返す。
 その異様な取り乱し様から、ただ事ではないのを察する。

「ちゃんと聞いてるから、落ち着いて話しなさい。今、どこにいるの?」
「だから、マーくんが死んじゃうのよぉ!」
「すぐに私が行くから、場所を教えて」

 気が昂ぶっている冥子を何とか宥めながら、現在いる場所を聞き出す。
 そのまま会議を抜けた紀黄泉は、大急ぎで自家用ヘリコプターで現場に向かった。



 電話から三時間弱の時間が経過し、紀黄泉は静かな山道を足早に歩いていた。
 背中に汗がにじみ出てきた頃、坂道を見上げた先に冥子の姿を見つける。冥子は何かの前で地面にお尻を着いてへたり込んでいた。
 泣くのも疲れたのか、冥子は人形のように動かず、前に転がる何かを眺めていた。

「冥子、政樹ちゃんはどこなの?」

 近づいても反応のない冥子の頭の上から、紀黄泉がその何かを覗き込む。そして、その正体を知って絶句した。

「これ……政樹ちゃんなの?」

 冥子の前に転がっているのは全身を石にされた鬼道だった。服も髪も肌も目も、全部が灰色の石になっている。
 鬼道は落ち着いて寝ている格好で石化されており、紀黄泉には何があったのか見当がつかなかった。
 その石と化した鬼道を冥子は虚ろな瞳で眺めていたが、背後から声が聞こえたのでゆっくりと振り返った。そして、またも紀黄泉は絶句する。
 冥子の衣服は乾いた血にまみれており、その汚れ具合からおびただしい量の出血があった事を想像できた。
 すぐ後ろに立つ紀黄泉を生気の欠けた瞳で見上げながら静かに口を開く。

「マーくん、私のせいで大怪我をしたの。ショウトラでも治せなくて……。だから、死なないように私が石に変えたの」

 話を聞いて紀黄泉も鬼道のこの状態を理解した。鬼道は冥子の式神のアジラによって石にされていたのだ。
 死なないように石化したのだが、はたして今の状態が生きていると言えるのかは甚だ疑問だ。
 何故ならアジラは石化はできるが、石化を治す事はできないのだ。冥子はその事について縋るように尋ねる。

「ねえ、お母さま。マーくんは死んでないよね?」
「え、ええ、生きてるわよ〜」

 自信は無かったが、冥子の思い詰めた顔を見ては生きているとしか言えない。

「こんな所じゃ政樹ちゃんもかわいそうだし、屋敷に運びましょう〜」

 野ざらしにしておけないので石化した鬼道を安全な場所に運び、それから考える事にした。
 六道家に仕える者が大勢呼ばれ、石の鬼道を壊さないように大袈裟と思えるくらい慎重に運ばれた。






 大きなベッドの中で、石のままの鬼道が静かに眠っている。石の重量のために鬼道はベッドに沈み込み、シーツに深い皺を作っていた。
 枕元にはかわいい人形や動物のぬいぐるみが一緒に寝かせてあり、部屋のあちこちにもたくさんのぬいぐるみが置かれていた。
 ピンクの壁紙のこのかわいらしい部屋は、冥子の自室だった。冥子のたっての願いもあり、鬼道はこの部屋で安置される事になったのだ。

 そのベッドサイドに、焦燥し切って疲れ果てた冥子がうつ伏せでもたれ掛かっていた。助けようと石にしてみたものの、ここからどう救えばいいのか分からなかった。
 鬼道がここに運び込まれてから、冥子はひと時もこの場を離れようとしなかった。
 そのため、冥子は血まみれのまま着替えもしてないし、シャワーも浴びていない。

「マーくん、ごめんね……」

 冥子は何度も謝罪を繰り返す。その大きな自責の念から、寝言のように無意識に口から謝罪の言葉が漏れるまでになっていた。だから、もう何度謝ったのか数え切れない。
 このまま、もう話しもできないかもしれない……。そう思ったとたん、冥子は言い知れない恐怖に襲われた。
 どうしてこんなにも胸が張り裂けそうになるのかを考えてみる。
 除霊の仕事で窮地に追いやられた時、いつも鬼道が手を貸してくれた。それが無くなるのは心細い。

「違う。そんなんじゃない……!」

 打算的な考えをした冥子は首を振って否定する。
 事実、それだけではこれほどの恐怖を感じたりしない。もう一度、よく考えてみる。
 しかし、どれだけ考えても単純な答えしか出ない。ただ、鬼道が消えてしまうのが純粋に怖いだけ。
 他の誰かが消えてしまうよりも、自分が消えてしまうよりも恐ろしく思えるほどに……。
 そして、冥子は一つの想いに気付き始める。

「私……マーくんのことが好きだったんだ」

 失いかけて気付く事もある。
 目の前の無機質に横たわる鬼道を見ていると、もう聞けない鬼道の声や、もう感じられない鬼道の体温がむしょうに恋しくなる。
 今すぐにでも鬼道を力いっぱいに抱き締めたい衝動に駆られる。
 だが、石の鬼道を壊してしまいそうでそれはできない。

 そんな冥子の目に鬼道の唇が映る。
 冥子はベッド上に身を乗り出し、唇に顔を近づける。瞼を閉じ、そっと口付けをする。
 ほどなくしてキスをする冥子の瞳から涙が溢れ出す。

「……冷たいよぉ」

 鬼道の唇は硬く冷たく、何の味もしない。
 いくらキスをしても悲しくなるだけだった。



 何時間も悲嘆に暮れていた冥子だが、おもむろに立ち上がる。
 その表情は少し疲れているようだが凛々しく見える。心の整理がついたようだった。

「マーくんを助ける方法を探してくるね〜」

 鬼道に優しく声を掛ける。想いに気付いた冥子は、何をしてでも鬼道を救おうと決意した。
 部屋を出ようと鬼道に背を向けた時、ちょうどドアをノックする音が聞こえる。

「冥子、入るわよ〜」

 返事をする間もなくドアが開き、紀黄泉がスタスタと部屋に入ってくる。その足取りは軽く、表情もいくらか普段の笑顔に戻っていた。
 紀黄泉は早足で冥子の前に行き、握った手を出す。

「頂いてきたから、使ってみて〜」

 受け取ろうと出した冥子の手を両手で握るようにして手の中の物を渡す。
 紀黄泉が手を離し、冥子は手の平に残された物を目にする。

「これって――」

 手の平の上にはビー玉のような物が一つあった。
 冥子はこれに見覚えがある。この玉は文珠と言い、万能に近い力を持つ霊能アイテムだ。
 今現在、これを作り出せる者で知られているのは一人だけで、かなり貴重な物だ。紀黄泉はこれを譲ってもらいに行っていたのだ。
 文珠が凄い力を持っていても、鬼道を蘇生できるとは決まっていない。もし、すでに命を落としているとしたら、文珠の力を以ってしても、生き返らせる事はできないだろう。

 冥子は手の平の文珠を凝視してから、決心したように握り締める。
 そして、ベッドの鬼道を見つめ、その握った手を鬼道の胸に置く。ゆっくりと指を開いていき、体に文珠を直に当てる。

「マーくん、元気になって……」

 冥子は目を閉じ、文珠にイメージを送る。
 微笑んでいる鬼道、困っている鬼道、怒っている鬼道。
 どんな姿の鬼道も今の冥子には愛しく思える。
 冥子の強い想いに反応するように文珠から眩く暖かい光が放たれ、鬼道の全身を包み込んだ。
 手の平の硬い感触が徐々に消え、代わりに温もりが伝わってくる。
 そして、光が収まるのと同時に、冥子が聞きたくてたまらなかった声が聞こえてくきた。

「……あれ、生きとる」

 その声を聞いても信じられなくて、冥子は恐る恐ると閉じていた目を開ける。
 目の前では、傷も癒えて元の姿に戻った鬼道が混乱で目を白黒させていた。
 無事を確認した冥子は、極度の安堵と嬉しさから感情のままに身を任せる。

「よかったぁ! よかったよぉ〜……!!」

 冥子はベッドに飛び込むようにして抱きつき、大声でわんわん泣き始めた。彼女は鬼道の体温を確かめるように強く何度も抱き締める。

「こ、こら、何するんや」

 ベッドの上で抱きつかれ、鬼道は赤面して恥ずかしがる。だが、冥子は必死にしがみついて離そうとしない。
 鬼道は諦めて気が済むまで好きにさせる事にした。
 紀黄泉は微笑みながら溢れそうになる涙をそっと拭い、部屋を後にした。



「寝てもうたわ……」

 鬼道に抱きついて離れなかった冥子は安心して疲れが噴出したのか、そのまま眠ってしまった。仰向けの鬼道に乗っかる形で眠る冥子の顔は幸せそのものだ。
 下になっている鬼道は少し息苦しいが、これはこれで悪い気はしない。
 しかし、恋人でもない男女がベッドで、しかも女の自宅で抱き合って寝るのは女の家族に悪い印象を与えかねない。鬼道は冥子をベッドに寝かそうとする。

「んん…マーくぅん……」
「こら、離れろや」

 眠っても離そうとしない冥子を起こさないように引き剥がし、最後に寝顔を見てから部屋を出た。
 ドアを閉めた時、すぐ隣から声を掛けられた。

「身を挺して冥子を守ってくれたそうね〜。本当にありがとう〜」

 振り向くと紀黄泉が深々と頭を下げていた。娘を庇って死にかけたのだから、どれだけ感謝をしても足りない。
 頭を上げる気配がしないので返事をして頭を上げさせる。

「当然の事をしたまでや。冥子はんの面倒を看るのがボクの仕事やから」
「あらあら〜、まるで冥子の父親みたいね〜」

 笑いながら顔を上げた紀黄泉が冗談半分で冷やかし、鬼道も冗談半分で返す。

「ほんまに世話が焼ける子やで。ま、駄目な子ほどかわいいなんて言うけどね」

 皮肉にも聞こえそうなこの言葉を紀黄泉は笑って受け止める。

「フフッ、その世話が焼ける子は今どうしてるのかしら〜?」
「あのまま泣き疲れてぐっすり眠ってはりますよ。ほんまに子供みたいやわ」

 それを聞いた紀黄泉は閉じたドアを見て鬼道にお願いする。

「政樹ちゃん、もう少しだけあの子を甘えさせてほしいの〜。起きるまで一緒にいてあげてくれないかしら……」
「ええけど、なんで?」

 冥子と一緒にいるように頼まれ、断る理由がないので引き受ける。
 だが、その意図が全く読めない。冥子に変な噂が立つのは紀黄泉も嫌うはずだ。
 旅館の件は仕事だと言い訳ができるが、ここは六道家の屋敷だ。親公認の仲だと噂されてもおかしくない。
 紀黄泉はドアの向こうの我が子を想って憂いを帯びた顔をする。

「そばにあなたがいないと、冥子が目を覚ました時、きっと必死になってあなたを探すとおもうの〜」
「ボクを?」
「石になっていたから知らなくて当然だけど、あなたが息を吹き返すまでの冥子は酷いものだったのよ? 死んだような目で水も飲まなかったの……。それは痛々しくて見ていられなかったわ」

 塞いでいた冥子の様子を聞いても、あの天真爛漫で悩みもすぐに忘れそうな冥子がそんな姿になるなんて想像できない。
 だが、それなら鬼道が助かった時の冥子の大変なな喜び様も納得できる。

「だから、お願いね〜」

 紀黄泉は念を押してから長い廊下を去っていく。
 話を聞いた鬼道は悪いと思いながらも、そんな優しい冥子がかわいく思えて仕方がない。

「ほんま、世話の焼ける子やて……」

 子供を持ったらこんな感じになるのか。鬼道はそんな事を考え、思わず微笑みながら部屋に戻った。



 よほど疲れていたのだろう。冥子は朝日が昇るまで熟睡していた。
 南向きの大きな窓から日が差し込み、壁にもたれて眠っている鬼道の顔に日が当たる。

「……なんや、もう朝か…」

 目を覚ました鬼道は眩しさに顔をしかめながら手でひさしを作る。一晩中、付き添いをしていて知らないうちに眠ってしまっていた。鬼道も疲れているのは同じなので仕方がない。寝起きで気だるそうに立ち上がり、ベッドで眠る冥子を見に行く。

「無邪気なもんやわ」

 冥子は猫のように丸まって小さな寝息を立てている。
 無防備にベッドで眠る姿を見ていると、床で寝た自分と比べてしまい、何かいたずらをしたくなってくる。
 ほっぺたを突付こうとして手を伸ばした時、冥子が寝ぼけてその手を引き込んだ。

「――おっと……!」

 バランスを崩した鬼道はベッドに倒れ込んで固まる。その視界は冥子の寝顔のアップで占有されていた。
 ほっぺたを指ではなく口で触れようかなどとよからぬ考えが横切った時、タイミング悪く使用人のフミに目撃される。

「し、失礼しました! お気になさらず、つづきをどうぞ」

 冥子の寝顔で頭が一杯だった鬼道はノックの音も耳に入らなかった。
 若いメイドのフミは思わぬ光景に出くわし、赤面して頭を下げる。余計な事まで口走っているのはご愛嬌だ。
 フミが運んできた朝食を机に置き、鬼道がキス寸前の体勢で動けない中、これもタイミング悪く冥子が目を覚ます。

「……んぅ、マーくん……――!?」

 寝ぼけ眼で鬼道の顔を見ていた冥子だが、この状況を理解して目を見開く。

「キャアアッッ!!」
「ダハァッ!?」

 驚いた冥子は反射的に手を上げる。拳が顔面にめり込み、鬼道は厚いカーペットに大の字で倒れた。
 真っ赤な顔で肩で息をする冥子が、醜態を晒す鬼道を見て慌ててベッドから降りる。

「ごめんなさい〜! こんなつもりじゃなかったのよ〜?」
「いや、悪いのはボクやから」

 涼しい顔で起き上がる鬼道はだてに体を鍛えてない。
 一連の動作を見て唖然としていたフミだが、自分なりに解釈して笑みを漏らす。

「お嬢さま、朝食をお持ちしましたが、お風呂の準備も整っております。どちらを先になさいますか?」

 冥子は血で汚れている着衣を見下ろす。

「そうね〜、お風呂にしようかしら〜」
「かしこまりました。鬼道さまはどうなさいますか?」
「ボクも風呂をいただこうかな。服も替えなあかんし」
「はい、かしこまりました」

 鬼道と冥子は昨日から同じ服を着替えるためにお風呂を選んだ。
 こうして黒鬼の起こした事件は無事解決し、いつもの日常に戻るのだった。




 第四鬼 終


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