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第三の試練!

〜名も無き神様と失われたモノ〜


投稿者名:ヨコシマン
投稿日時:07/ 4/24

 どこか遠くで、何かが爆発したような音が聞こえる。僅かに感じる地鳴りと空気の振動。戦場の空気。
 高所ならではの強い風が、頬を擦るように通り過ぎた。

(ああ・・・、これは、夢だ。)

 夕暮れに沈む太陽を横目に、横島はぼんやりとそう思った。“あの時”から何度か見たことのある夢。同じものをまた見ているのだと、横島には確信があった。
 東京タワーの展望台の屋根の上に立ち、もうやり直しの効かない過去をただ見るだけの夢。そこに“彼女”は居らず、ただこの場所から壊れていく街並みを見つめるだけの夢なのだ。

(この夢だけは・・・、きついよなぁ・・・。)

 あの時の事をすっぱりと割り切ってしまった訳ではない。だが、いつまでも引きずって生きていく訳にも行かない。だから自分なりにこの悲しみを乗り越えたつもりではいた。けれどこの夢を見た朝だけは、いつも少しだけ泣く。
 目が覚めるとどんな夢だったのかあまり覚えていないが、夢の中ではこの夢の続きがはっきりと思い出せる。
 このまま自分は身動きする事無く、ただただこの景色をずっと見るのだ。現実の朝が来るまで。
 今まではそうだった。だが、今日は少し違っていた。
 いつもは延々と街の方を見ているはずの視界がくるりと反転し、横島の瞳はタワー中心部を映し出す。

(・・・まさか・・・。)

 いつもと違う夢の展開に戸惑いながら、恐る恐る目を凝らす横島の体が一瞬凍りついた。
 自分以外誰も居ないはずの夢の中、東京タワーの柱に寄りかかるようにして“彼女”は居たのだ。

「お、おい! しっかりしろ! 分かるか?!」

 反射的に横島は身体を“彼女”に向けて走らせると、精一杯の声で叫んだ。
 しかし奇妙なことに、全身の力を込めて走っているのにもかかわらず、まるで泥の中のように手足が重たく、亀の歩みのように遅々として近づくことが出来ない。
 辿り着けずもがき苦しむ横島に気が付いたのか、タワーにもたれた人影が僅かに顔を動かしてこちらを見た。その顔には幾重にも細かいひびが走り、今にも崩れ去ってしまうかのように見える。
 永劫にも感じられる時間を費やして、横島がようやく“彼女”の元へと辿り着いたその時、崩壊を押し止めていた彼女の肉体はついにその限界を迎えてしまった。
 まるで風化した陶器の様にひび割れて欠片が崩れ落ち、その欠片がさらに崩れてキラキラと夕日を反射しながら砂のように宙を舞う。

「ダメだ! ダメだダメだダメだ! しっかりしろ! しっかりするんだ!」

 触れただけで崩れそうな“彼女”の肩を柔らかく抱き寄せると、横島は必死に声を絞りだした。
 その叫びも虚しく、すでに半身以上が砕け散ってしまった“彼女”をゆっくりと抱き寄せた横島の表情が驚きのまま強張った。
 何故なら、その腕に抱き寄せた“彼女”の顔が、横島の想像していたものとは全く異なっていたからだ。
 横島は表情を強張らせたまま、その震える唇からゆっくりと搾り出すように呟いた。

「あ・・・、まさか、なんで・・・? み、みか・・・。」










「美神さん?!」

 喉の奥から搾り出すように呻きながら、横島は上体を勢い良く起こして掛かっていたタオルケットを跳ね飛ばした。
 荒い息遣いの中、暫くの間混乱したかのように呆然と辺りを見回すと、横島は始めて自分が寝ぼけていたのだという事を理解した。
 酷い夢を見た気がする。それがどんな夢だったのかはっきりとは覚えてはいないが、いつも見ている夢よりもっと酷かったという事だけは、全身をびっしょりと濡らす寝汗が証明していた。

「ああ、そうか。昨日あの孔雀から話を聞いて、気分悪くなって・・・。」

 靄が掛かったように混濁していた意識が次第にはっきりとするにつれて、段々と昨日の事が思い出される。確かに昨日、大蛇の事件の経緯を孔雀から聞き、その上馬鹿げた選択肢を唐突に突きつけられたのだ。
 しかし本当はもう一つ、その選択肢とは別に横島に突きつけられた残酷な事実があった。

「・・・。」

 昨日の事をゆっくりと思い出しながら、横島は右の掌をみつめて意識を集中した。
 今までなら当たり前のようにそこに現れていたはずの蛍の霊体が、そこには無かった。

「くそっ・・・! なんで・・・。」

 どんなに祈ろうとも、決して彼の望むものが現れることの無い掌を睨みつけながら、横島は毒づいた。
 あの孔雀との通信で彼だけに知らされた真実。横島は唇を血が出そうな程に噛み締めながら、その時の孔雀の言葉を思い返していた。













「これにて此度の通信を終了します。私の依頼を受けるかどうか、返答は三日後、同じ時刻同じ回線にて聞く事とします。」

 孔雀明王の通信シンボルである孔雀は、ヒャクメと小竜姫に対してそう宣言すると、視線で回線を遮断するようにヒャクメに促した。
 その意図を理解したヒャクメが手際よくキーボードを叩き、回線切断作業に取り掛かる。
 その姿を少し困惑した表情で、横島は何気なく眺めていた。

(文珠で時間移動つったって、そんなもん俺に出来んのか? ましてやあのバケモンと一対一なんて・・・。)

 過去に戻り、横島の手であの大蛇を倒す。それが孔雀からの依頼であった。

(五年間死ぬ気で修行したからって、正直俺にそんな才能あるとは思えん。普通に考えたら、この依頼は受けない・・・よな?)

 受けなければ美神は確実に死ぬ。だが受ければ、自分もほぼ確実に死ぬ。少なくとも、現時点での情況で考えれば、誰でもこの予測に至るのは必然だろう。
 だが、だからと言っておいそれと依頼を断る選択肢を選ぶというのは、人としてどうなのだろうか。そもそも、あの美神令子がこの依頼を断る事を許可してくれる、などと言う生温い希望的観測はまず望めないと考えて良い。
 横島は事務的に作業を進めるヒャクメを眺めながら、義理と人情と保身のトライアングルをどう切り抜けるかを必死に思案していた。

「・・・お?」

 ふと気が付くと、目の前のヒャクメの様子がおかしいという事に横島は気が付いた。ずっと今回の依頼の件を悶々と逡巡していたので気にも留めていなかったのだが、どうも先程からヒャクメの動きが止まっているように思える。
 何かに気が付いて動きを止めた、という訳でもなければ、金縛りのように動けなくなってしまった、といった感じでもなく、まるで時間そのものが停止したかのように、周囲の空気や気配そのものまで固まってしまったようだ。

「ど、どうなってんだこれ?」

 ようやく事の異常さに気が付いた横島が慌てて周囲を見渡すと、ヒャクメだけではなく、この場に居る横島以外の全ての存在が同じように停止していた。
 ただ一つ、ゆらゆらと揺れる孔雀の尾羽を除いては。

「・・・横島よ、驚かしてしまいましたか?」

 揺れる尾羽を軽く震わせて整えると、孔雀は驚く横島の目を見据えながら語りかけた。

「そ・・・そらもちろん。一体何が起こったんすか?」

 とんでもなく異常な状態ではあったものの、この事態の原因が孔雀の何らかの行為のせいだと理解した横島の表情には、若干ではあるが冷静さが戻っていた。

「私達の時間の流れを少しだけ周囲とずらしました。・・・どうしても、貴方にだけには伝えておかねばならない事があるからです。」
「お、俺にだけ伝えたい事・・・?」

 言い難そうに言葉を紡ぐ孔雀から滲み出る不吉な気配が、反射的に横島の本能を刺激した。所謂、嫌な予感、と言うやつだ。
 その予感を奥歯で噛み潰すように恐る恐る、ゆっくりと横島は声を出した。

「もしかして・・・ルシオラの・・・?」

 孔雀はその言葉に対して何も言わずに、ただ小さく頷く。僅かに沈黙を保った後、孔雀は一度目を閉じ、意を決したように語り始めた。

「横島よ。貴方の半身であった魔族の女について、貴方は知っておかねばなりません。」

 横島は孔雀の言葉に相槌を打つように頷くと、何も言わずに孔雀の言葉を待った。

「かの大蛇との戦闘の折、貴方は致命的な攻撃を受けて瀕死になった事は覚えていますね?
 その時、貴方は最後の力で文珠を放ち、次元に穴を開けて私を呼びました。ここまでは、貴方が須弥山に居た時にお話したはずです。」

 そう言われた時、霊体になって須弥山にいた時の記憶が洪水のように横島の脳裏に浮かび上がった。

「あー! そうだ! 俺、アンタに会ってますよね!?」

 霊体の時の出来事は記憶に残りにくい。かつておキヌが肉体を取り戻し生き返った時も、一時的ではあったが同じようにその時の記憶を失っていた。横島はその時の事を思い出して一人頷いた。
 そんな横島の様子を見て、孔雀は一言よろしい、と呟くと、姿勢を正して再び言葉を続ける。

「横島よ。貴方は私を呼ぶのに文珠を使いました。その時使った文珠の数を覚えていますか?」
「・・・七・・・、いや、八かな・・・?」

 記憶を辿りつつ横島が答えると、孔雀は小さく頷いた。

「私の真言を文珠で現したのですから、八個の文珠を貴方は使ったのです。さて、その時貴方は文珠を幾つ持っていましたか?」

 孔雀から繰り返される意図の分からない質問に少々戸惑いながらも、横島はその時の情況を懸命に思い出そうとしていた。

「た、たしかあんまりストックは無かったから・・・美神さんの怪我を治した時に使ったのが多分最後の・・・あれ?!」

 指折り数える姿勢のままで、横島は明らかな矛盾に辿り着いた。
 もともと無駄遣いが多くて文珠のストックは少なかった。あの時、大蛇との戦闘で何個か使用し、その上美神の怪我を治すのにも使ったはず。確かにその事で美神にお説教を喰らった記憶があるのだ。
 今思い返せば、あの美神の治療に使った文珠が最後の一個だったかも知れない。どちらにしても、あの時点で文珠を八個も所持してはいなかった事だけは確かだ。
 だとすれば、死の直前に放った孔雀明王の真言を刻んだ文珠は一体どこからやってきたのか。
 ここまで考えて、横島の脳裏に一つの仮説が浮かび上がった。
 冷静に考えたらすぐに分かる事だった。何故なら、この会話の最初にその答えを孔雀が言っていたのだから。
 当たり前の事ではあるが、何も無い状態から脈絡も無く文珠が生まれる訳が無い。あの八個の文珠の“素”が間違いなくあるのだ。
 そう気が付いた時、横島は全身からヘドロのような脂汗が湧き出してくるのを感じた。

「う・・・、嘘だよな? 違うよな? そんなわけ無いっすよね?!」

 横島の視界がぐるぐると廻る。立っていられない程の眩暈と吐き気に襲われ、横島は無意識にその場にうずくまった。
 須弥山で会った天女に言われた最初の一言、“ようやく塞がった”と言う言葉の意味、魂の修復をしなければならなかった程に魂が“破損”していたその理由。
 あの大蛇の攻撃によるものなどでは無かったのだ。それは、無意識だったとはいえ、自らの半身を自らの手で切り離した結果だったのだ。

「嘘と言って欲しいのならば言っても構いませんが、言った所で真実が変わる訳ではありませんよ。」

 眼を背けたくなるほどに打ちひしがれ、うずくまる横島に対して孔雀が放った一言は、酷く残酷で温かみの感じられないものであった。
 しかし、今の横島にとってそれは、いい加減な生易しい慰めの言葉よりも遥かにましな言葉に思えた。
 奇妙な事ではあるが、孔雀のまるで他人事のような言葉と眼差しが、今まさに崩壊しかけていた横島の精神をギリギリの所で繋ぎ止めていた。

「・・・ルシオラは、どうなったんですか・・・?」

 暫くの沈黙の後、横島は体に残る精一杯の力を振り絞って、掠れる様な声で尋ねた。
 孔雀は横島の言葉に即答することはせず、精気の失せた眼前の男の瞳を見つめながら深呼吸二回分程の間を取った後、静かに口を開いた。

「彼女は貴方の能力を利用して自らの霊体を文珠に変換した後、その力を使い果たして消滅しました。」

 ここまで言って孔雀は一旦言葉を休め、僅かに視線を上げると横島の顔を窺った。当然と言うべきか、横島は強いショックを受けて愕然としてはいたが、意外にもその表情に絶望の二文字は浮かび上がってはいなかった。
 衝撃が強すぎて精神に支障をきたした、といった類の表情ではない。それは絶望的な状況の中に、僅かに希望の光を見出したような、そんな人間が作る表情だ。

「で、でもそれは、ほら、俺や美神さんのように、孔雀様が何とかしてくれたんですよね?
 何とかしてくれたからこそ、今こうやってわざわざ俺だけに話してるんですよね? そうっすよね?」

 必死、と表すに相応しいジェスチャーを取り混ぜながら、横島は孔雀に詰め寄った。
 彼が絶望的な状況下でどうにかその精神を保っていられたのは、まさに“孔雀明王が何らかの手を打ったはずだ”という希望的観測のお陰だったのだ。
 しかし、そんな横島の藁をもすがるが如き問いかけに、孔雀は口をつぐみただ横島の瞳を悲しげに見つめるだけであった。

「黙ってないで、何か言ってくれよ!」

 無言を貫く孔雀に横島は詰め寄ると、懇願するように跪いた。

「横島よ。私は真実を貴方に伝えています。真実以外の事を言う気はありません。」

 四つん這いの体勢から孔雀を見上げる横島の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、孔雀はそう言い切った。
 そして、ゆっくりと羽を動かして姿勢を整えると、もう一度横島に宣告した。

「消滅、したのです。」

 孔雀がその一言を言い終わると同時に、横島は突然立ち上がると孔雀に掴み掛った。

「ふざけんな! 何で、何で助けてくれなかったんだ! 何で俺と美神さんは助けて、あいつは見捨てるんだよ! いくらなんでも酷ぇじゃねえか!」

 横島は半ば狂ったかのように、鬼気迫る相貌で孔雀を揺さぶり叫ぶ。それは普段の彼からは想像もつかない姿であった。
 しかし次の瞬間、孔雀の体から眩い光が放たれると同時に衝撃が走り、それを至近距離で受けた横島の体はまるでゴム毬のように吹き飛び転がった。

「もうお止めなさい。貴方の苦しみは理解しているつもりです。ですが、どうにもならない事もあるのです。」

 吹き飛び、うつ伏せに倒れたまま動かない横島に向けて、孔雀は取り乱すことも無く静かに告げる。
 孔雀の耳には横島のすすり泣く声が僅かに聞こえていた。

「ルシオラを見捨てた訳ではありません。彼女は自らの意思で、貴方達を救う道を選んだのです。貴方は、その彼女の意思を否定するのですか?」

 横島の両腕が僅かに動いた。しかし、起き上がろうとはせずに、そのままの姿勢で掠れた声を出す。

「じゃあ、じゃああいつは・・・俺達のせいで最後の力を使い果たしたって・・・言うのかよ・・・。」

 うつ伏せに倒れたまま、咽び泣く横島の姿を見つめていた孔雀は、音も無く歩み寄ると横島の体をその両翼でやさしく包み込んだ。

「人も、例え神族魔族であっても、いずれは最期の時が来ます。大切なのは、その時までにどう生きたのか、という事です。
 かの魔族の女の時間は確かに、あまりにも短く儚いものでした。ですが、その生き方は誰にも恥じる事の無いものであったはずです。
 大切なのは“どれだけ生きたか”ではなく“どう生きたか”なのです。」
「だ、だけど! あいつはもっともっと色んな事やったり、色んな所行ったり、そういう事やれるはずだったんだ。
 なのに、なのに俺のミスで・・・。べスパの攻撃を受けたときも・・・、あいつを文珠に変えちまったのも・・・!」

 かつてアシュタロスとの戦いの折、東京タワーでルシオラとべスパの決闘に割って入った横島は、べスパの放った妖毒によって魂を破壊されかかった。
 その時はルシオラの咄嗟の判断による応急処置で、横島は辛うじて一命を取り留めることに成功したのだ。
 しかし、その代償として彼女は自らの霊体を削り取り、結果として彼女自身の存在自体を保てなくなってしまった。
 横島にとってその出来事は、大きな心の傷跡になっているのだ。
 それでも尚、彼が普段通りに振舞っていられるのは、ルシオラの転生という僅かな望みがあったからだ。
 自らの霊魂に残る彼女の霊基構造と彼女の姉妹がかき集めた霊体の欠片を注ぐ事によって、いつか生まれるであろう自分の子供に彼女を転生させる事ができるはずだ、と横島は思っていたのだ。
 だが、今この瞬間に、その希望すら無残に砕けてしまった。

「誰のミスでも、誰のせいでもありません。貴方も彼女も、皆も、自分の成すべき事を精一杯やっただけなのです。
 そして今まだ、貴方は生きているではありませんか。彼女の成すべき事が貴方を生かす事だったのならば、貴方もまた成すべき事があるはずです。」

 横島の上半身を羽で柔らかく包んだ状態のまま、孔雀は優しく言った。
 その言葉に横島は顔だけを上げて孔雀の瞳を見つめると、かろうじて落ち着きを取り戻したような顔で聞き返す。

「それはつまり、今度は俺が命を賭けて美神さんを助けなきゃいけないって事ですか?」

 問われた孔雀は目を瞑り、静かに首を振った。

「そうではありません。貴方が成すべき事は貴方が創り、選び、決めるのです。
 どのような決断であろうとも、人は皆だれも自分自身で決めるのです。その決めた事こそが、貴方の成すべき事なのですよ。
 貴方が美神令子を救うのは無理だと思うのであれば、そう決めればよいのです。その決断は誰にも否定できません。
 その為に、貴方に三日の時間を与えたのです。そして貴方がどのような決断を下そうとも、それを否定することは私が許しません。」

 そう言うと孔雀は、そっと横島の涙を羽で拭い、そのままやさしく頬を撫でた。

「・・・もう時間が余りありません。さあ、立つのです。
 これから三日の間、貴方の心は千々に乱れ、冷静に考える状態には無いかもしれません。それでも、貴方は決めねばなりません。」
「む、無理っすよ・・・。そんなん、無茶苦茶だ・・・。」

 孔雀に促され、ゆっくりと立ち上がる横島の顔からは完全に血の気が失せていた。

「よいですか、横島。きっとこの三日間、貴方は延々と迷いの中を彷徨う事でしょう。そこで、私から一つだけ助言を与えます。」
「助言?」

 孔雀は鸚鵡返しに聞き返した横島に軽く頷く。

「この世には様々な神が存在します。その中でも誰も名を知らぬ神の話です。」

 助言と言いながら、全く見当違いな話を振られた横島の眉が不機嫌そうに上がった。
 しかし、それを無視して孔雀は続ける。

「その神は誰も名を知りませんが、この世界の全ての人の心に必ず一人居るのです。
 この世に生を受けたその日から、天に還るその日までずっと共に。
 その神には特別な力は何一つありません。他の神や悪魔のように天を割り地を裂く力など持っていないのです。
 ですがその神は常に人の心の中に居て、善き事も悪しき事も、その者の行いを全て見ています。
 例え全知全能の神がその者の行いを見落とそうとも、心に居る神だけは絶対に見ているのです。」
「・・・。」

 未だ孔雀の言わんとする事を理解できない横島であったが、それでも話の腰を折らないよう沈黙を保っていた。

「その神には特別な力は何一つ無いと言いましたが、実は一つだけ出来る事があるのです。」
「・・・それは?」

 横島の顔から苛立ちが消え、孔雀が何を伝えようとしているのかを考える様な顔つきに変わる。

「それは表情です。」

 孔雀はそう言って、呆けた表情の横島をちらりと見るとそのまま続けた。

「その神は心の奥底に居て、その者が善き行いをすれば笑顔に、悪しき行いをすれば泣き顔になります。」
「そ、それだけ?」

 拍子抜けした横島の両目に、孔雀が小さく頷く姿が映る。

「そうです。それだけです。その者を助けることも罰する事もありません。しかも心の奥に居る訳ですから、普段その顔を見ることは出来ないのです。」
「意味有るんすか・・・その神様。」

 そう呟いた横島に向かって、孔雀は僅かに微笑んだように見えた。

「意味が有るか無いか、それは貴方次第ですよ、横島。取り敢えず、それを視る方法は教えておきます。」

 横島の返答を待つことも無く、孔雀は説明を続ける。

「目を閉じ、呼吸を整えて、心を静かに。自分の心を深い湖の如く想像して潜って行くのです。
 深く、深く潜って行った先で、きっとその神は貴方にその顔を見せてくれるでしょう。」
「ど、どんな顔してるんですか?」
「それはその人次第です。自分自身の顔かもしれませんし、母親、父親、大切な人かも知れません。
 その神様の顔形が問題なのではなく、どんな表情なのかが肝要なのですよ。」

 そこまで言うと、孔雀は横島に背を向けると先程まで居た机の上に再び登った。そして美しい尾羽を大きく広げながら両翼を広げて姿勢を整える。

「さて、もう時間のようです。横島よ、三日後再び会いましょう。」
「え、ちょ、今のが助言なの?! まるっきり分からんぞ!?」

 一方的に会話を打ち切った孔雀に対し、思わず手を伸ばそうとした横島の体が急激に重くなっていく。まるで空気が突然コールタールにでもなってしまったかのように、体全体に纏わり付いて彼の動作を封じ込めた。
 同時に机の上の孔雀の姿がぼやけ始めると、段々と周囲の空気に滲み出すように消えていった。
 次の瞬間、周囲の空気が始めビデオの早送りのようにめまぐるしく動き出し、その後徐々に速度を緩めて、横島自身の体感速度と周囲の時間の進み具合が重なるように一致した。

「よし、回線切断問題なく完了っと。」

 不意に背後から聞こえてきたその声に横島が振り向くと、そこには先程動きが止まっていたはずのヒャクメが少し疲れた様子で背伸びをしている姿が見えた。
 先程孔雀が言っていた“ずらされた時間”が元に戻ったのだと、横島は一人頷く。
 そして同時に、俄かには信じられない事ではあったが、ルシオラを完全に失ってしまったという衝撃に再び心が砕け散りそうな感覚に襲われた。

「いやー、これは参っちゃったわねー。大蛇はこの世にもう居ない、そんでもって横島クンに過去に戻れなんて・・・。」

 孔雀との通信を終え、その場に居た全員が困惑の表情を浮かべる中、少しでも重い空気を何とかしようと令子はわざと軽い口調と苦笑いで振り向いた。
 しかし、その目に飛び込んで来たのは顔面蒼白で両膝を地に付けた横島の姿であった。

「ちょ、よ、横島クン?!」

 思わず令子が発したその声に、その場に居た全員が俯いていた顔を上げ、一斉に横島に視線を送った。

「横島さん! 大丈夫ですか?! 顔が真っ青ですよ?!」

 いち早くおキヌの体が動き、ぐったりと力なくうなだれる横島の傍に駆け寄ると、その弱々しく揺れる身体を抱き寄せた。
 幸い、横島の意識はしっかりとしていて、力強さは無いもののおキヌの声にきちんと返答を返している。
 その様子を確認した美神は小さく安堵のため息をこぼすと、天井を見上げて何も無い空間に告げた。

「人工幽霊壱号、シロとタマモを呼んで貰える?」
『畏まりました』

 令子の声に反応して、何も無い空間から命令を了承した旨の返答が帰ってくる。それは美神令子の事務所である建造物を体とする人工幽霊からの返答であった。

「どうするつもり?」

 その様子を見ていた美智恵が問いかけた。

「あの子達に横島クンをアパートまで送って行ってもらおうと思って。あの調子じゃ今日はもう休ませた方がいいわ。」

 そんな令子の意見に美智恵は同意の表情で頷くと、もう一度酷い顔色の横島に視点を合わせた。

「あ、あの、私も心配ですから付いていきます。」

 横島を抱き寄せたまま、おキヌが不安げな顔で令子と美智恵を見つめてそう告げると、令子は少し申し訳なさそうに首を振った。

「ゴメンね、おキヌちゃん。悪いけどこれから手を貸してくれそうな連中を呼んで打開策を練ろうと思ってるの。
 出来ればおキヌちゃんもここに残って力を貸して欲しいのよ。」
「で、でも・・・。」

 意外にも、令子が自分の事をちゃんと戦力として見ていてくれている事に、おキヌは少し驚いていた。しかし、それでも今自分の腕の中で力なく目を閉じている横島の事が心配で仕方が無かったのだ。
 そうして暫くの間逡巡した後、おキヌは横島をシロ達に任せ、自分はここに残る事を決めた。

「大丈夫よ、シロちゃんはもうしっかりしてるから。その代わり後で様子を見に行ってあげて。ね?」

 それから暫くして、シロに肩を借りながら家路に着いた横島の姿を廊下の窓から眺めていたおキヌに、美智恵がそっと声を掛けた。
 そんな美智恵の心遣いに小さく頷くと、おキヌは振り返って事務所の扉を開く。
 扉の向こうには、もう既に西条やエミ、唐巣達がおキヌを待っていた。













「何だってんだよ・・・、クソッ! 畜生!」

 二度と現れることの無い蛍の姿を右手に思い浮かべながら、横島は思わず悪態を吐いた。
 あの通信の後の事は殆ど覚えていない。何となく、シロが心配して色々話しかけていたような記憶はあるのだが、それも現実だったのか夢だったのか判然としなかった。

「・・・あ。」

 ふと、万年床の隣にあるちゃぶ台に目をやると、散らかっていたはずの台の上が綺麗に整頓されていて、そこに美味しそうな朝食の準備が整っていた。

『心配だったので様子を見に来ました。良く眠っているようでしたので、今日は帰ります。
 朝ごはんを用意しておきます。目が覚めたら食べてください。何も食べないと身体に毒だから、少しでも食べてくださいね。 キヌ』

 ラップに包まれた焼き魚の皿の下に、おキヌの手紙が挟まっていた。手に取ると、ふわりと彼女の使っている制汗剤か何かの良い香りが横島の鼻をくすぐった。

(おキヌちゃん、来てくれたのか。)

 女の子らしい可愛らしい文字で書かれた手紙を眺めながら、ぼんやりと視線をその朝食に移した時、突然喉の奥から強い酸味のする液体がこみ上げてくるのを感じた。

「ぐっ・・・!」

 危うく吐き出しそうになるのを堪えながら台所に駆け込むと、勢い良く流しに口中のものを吐き出す。それは胃液だった。
 美味しそうな食べ物を前にして、こんな事は普段の横島では考えられない事であったが、この事が逆に今の横島の状態を如実に表していた。
 あの時孔雀から突きつけられた事実が、横島に信じられないほどの精神的ダメージを与えていたのだ。

「おキヌちゃんには悪いけど・・・、これは喰えないや・・・。」

 視界に入ってしまうとまたこみ上げてくるかも知れない。だから極力料理を見ないように、そっと上から布を被せると、横島は疲れた表情で再び万年床に寝転がった。
 薄汚れた天井が、窓から差し込む午前の光にぼんやりと照らされているのを眺めながら、呟いた。

「俺にどうしろって言うんだよ・・・。どうしたら良い? なぁ、ルシオラ。」

 寝転がったままの姿勢で右手を眼前に持ってくると、今はもう現れる事の無い蛍の幻影をただじっと見つめていた。


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