「俺、今日限りでこのバイト辞めますんで」
「いきなりなに? 時給なら上げないわよ?」
事務所着くなり、オフィスでくつろぐ美神さんにそう切り出した。
白竜寺から戻って幾日か過ぎた日曜日。
毎度のことながら、いざとなると「バイト辞めゆー」とは言い出し辛く、結局今日までぐだぐだと美神さんのところでバイトをしていたのだが、流石にまずい。
陰念には、日曜日に改めて訪れると伝えてしまっている。
そして今日は日曜日。タイムリミットだ。
「時給の不満も有り余ってはいますが、それとは別の理由で、マジで辞めます」
「…もう二度と再雇用なんてしないわよ?」
「うす。それでもいいっす」
答えた途端、不機嫌そうな表情になる美神さん…って、いつの間にかデスク越しに伸びた腕に胸倉つかまれとる。
相変わらず、美神さんが俺を締め上げようとする気配とか動きは全然読めん。
「あんた、なんかつまんないこと企んでるんじゃないでしょうねぇ?」
美神さんは掴んだ手をそのままに、がくがくと揺すって問い詰めてくる。あうあう。
「た、企んでません! 命賭けます!」
負けても損しないけど。
締め上げられ、喉に食い込んでいたシャツを放される。
「…一応理由くらい聞かせてもらいましょうか?」
息が詰まっていた俺は、咳き込みながら大急ぎで酸素を取り込んだ。
そうしつつも、舌は毎度のごとく用意していた言い訳をすらすらっと並べ立てる。
「げほっ、…将来のことを考えますに、このまま美神さんのところでバイトしてるのはマズイなぁと思いまして。はい」
美神さんは、座り心地の良さそうな革張りの椅子に座りなおし、顎の下で手を組んでこちらを見ている。
いや、睨みつけている。嘘か真か、ギラギラとした目で判断しようとしているのだ。
ぶっちゃけ怖えぇ…
「…続けて」
「うす。ですからその、このバイトって拘束される時間も長いですし、あんまり続くと学校の卒業もアレですし…」
「………」
だんだんと尻すぼみになる俺。それもしょうがあるめぇよ。
無言。ひたすら無言の美神さん。
じー、と穴が開くほどこちらを凝視してくる。
耐えられん。視線の圧力でぺしゃんこになりそうだ。
やめて、そんな目で見んといてっ!
「…まあ、いいわ。たしかにこの仕事は学生のバイトには向かないものね。
横島クンにしてはまともすぎる理由なのが怪しいけど」
「ほっといてください!」
なんでこう、余計なことを言うのか。
俺の抗議なんぞ普通に流し、椅子の上でう〜んと背を伸ばす美神さん。
引き出しから四つ折にされた俺の履歴書を取り出し、デスクの上を滑らせる。
つうか、履歴書折るの辞めてくださいよ…
「ああ、それからおキヌちゃんには私から伝えておくから、心配しなくても大丈夫よ」
「…はい。ありがとうございます」
懐に履歴書をしまいながら、美神さんの気遣いに本気の礼を述べる。
ありがたい。おキヌちゃんと会えば、たぶん泣かれるだろうから。
今までに何度か事務所のみんなと別れたが、おキヌちゃんだけはいつも泣いてくれる。
俺がどんな立場でも、それは変わらない。
ならちゃんとお別れしておけと思われるかもしれないが、それはそれで問題がある。
何度も何度もそういう場面を迎えていると、感動が薄れる。心がささくれ立ってくる。
終いには「びーびー煩いなぁ」なんて思うようになってくるのだ。
そんな心の貧しい人間にはなりたくない……いや、今の俺が心豊かとは言わんが。
「じゃあ、今までお世話になりました」
「ええ。落ち着いたら遊びにいらっしゃい。
それまではおキヌちゃんにも横島クンのところへ行くのは控えさせるから。
たぶん、冷静に話し合うのは無理でしょうからね」
「愛を感じる気遣いっすね!
その愛に俺が応えるには、この体を捧げるくらいしかっ!」
無意識に口走ったお馬鹿な発言。次いで目の前のねーちゃんに躍りかかる我が肉体。
どんだけ精神が老成しても、ふとした弾みでついつい……まさに本能のなせる業だぁね。
「キサマ最後までそれか―――っ!」
だがしかし、相手は百戦錬磨の美神さん。
獣のような俊敏な身のこなしで椅子から跳び離れ、拳を握って引き絞る。
「ぎゃぁああ〜〜〜〜〜っ!!」
俺はそのまま、顔面に加えられた真逆のベクトルに悲鳴を上げながら、窓から叩き出された。
今生で、こうして美神さんとじゃれ合うのは、これが最後なんだろーなー…。
などと感慨に耽りながら、事務所の敷地にヒトガタの穴を開けた。
◆
「というわけで、やって来ました白竜寺」
痛む体を酷使して、長い階段をえんやこら。
精神的なブランクのせいか、美神さんにど突かれた傷の治りが遅い。
考えてみれば、美神さんと最後に会ってから『今回』会うまでに、三百年は経っている。
『前回』の体験記憶を消しちゃったから、その前の時に美神さんと会ったのが最後だからな。
回復力が落ちても仕方ない気がする。
「たのも〜、た〜の〜も〜」
例のごとく開けっ放しだった門を通り抜け、道場ではなく母屋の玄関で声を張り上げた。
「はいは〜い。どちらさま〜?」
「―――う゛……この声は……」
ぱたぱたと、ファンシーなスリッパを突っ掛けて現れた厳つい大男は、鎌田勘九郎。
俺のトラウマにして、ある意味、白竜寺最強の男。
「こ、こんちは〜。
……今日、白竜寺に入門する予定の横島ってもんですが〜」
愛想笑いを浮かべて挨拶をする。自分でも、頬が引き攣ってるのがわかる。
黒の胴衣にフリルのエプロンの勘九郎は「そんな話聞いてないわねぇ」と……って、あれ?
「聞いてないって……そんなはずないと思うんすけど。
先週、陰念ってヤツに伝言も頼んだし」
「陰念に? あらそう……
ちょっと待っててちょうだいねぇ―――ちょっと、陰ね〜ん?」
母屋の奥に消える、エプロン姿の厳ついオカマ。
しばらくすると、勘九郎の消えた方から言い争うような声が聞こえてきた―――
◆
「陰念! あんた今日お客様が来るって聞いてた?」
「あ〜? 聞いてねぇよ。
つうか、なんだよ藪から棒に?」
「いま玄関にお客様が見えてるのよ。入門希望の。
なんでも、先週あんたに今日入門しに来るって言伝を頼んだって」
「あん? ……あ、あ〜! あ〜!
そういやぁ先週あんたらが出掛けてる間に一人、入門希望者が来てた。
忘れてたわ、悪ィ」
「ちょっと、悪ィ、じゃないでしょ!
そういう大切なことはちゃんと伝えてって、この前も言ったじゃないの!
ぎりぎりになってから言われて、どうしようもないことだったら困るじゃないの!」
「うっせーなぁ…ちょっと忘れてただけじゃねーか。
あんたはいちいち細かいんだよ。
俺のオフクロかっての」
「あんたが何回言っても覚えないからじゃないの!」
「痛ぇっ! な、殴ったなテメー!?」
「殴ったわよ! 言って分からない子には拳骨でオシオキよ!
これでも反省しないっていうなら、もう一発殴るわよっ!?」
「テメー上等だよ! やってやんよちくしょー!」
◆
ドゴンッ! と、なにかを叩き潰したような音が、玄関まで響いてきた。
それまで言い争っていた勘九郎と陰念の声が途絶える。
「…………」
しゃなりと、廊下の奥から戻ってきた勘九郎。
「ほほほ……ごめんなさいねぇ。
ちゃんと連絡が行き届いてなかったみたいで……
いま、責任者の方を呼んでくるから、道場の方で待ってていただけるかしら?」
「……ハイ」
勘九郎は愛想笑いを浮かべる。
その顔に散った血痕とか、廊下の奥に広がってきている血溜りとかは、見なかったことにした方がいいのか。
―――なんか、二度と陰念には会えない気がしてきた。
陰念と勘九郎。なんだか勘九郎に愛を感じます(汗
女華姫といい、姿がまともならいい女だろうにってやつがやたら多いですなGSは。いや勘九郎は男ですけど (九尾)