椎名作品二次創作小説投稿広場


太陽を盗んだ男

最終話


投稿者名:UG
投稿日時:06/11/19

 ソリスは後方に流れゆく景色を食い入るように見つめていた。
 石灰岩質の台地を奔るアッピア街道。ブリンディジの町は既に見えなくなって久しい。
 時折すれ違う荷馬車や巡礼以外に人の姿はなく、妖魔狩りが追跡してくる気配は感じられない。
 それでもソリスは片時も休むことなく、後方の見張りを続けていた。

 「あれは・・・!」

 空を飛ぶ何かの姿を捉え、ソリスは緊張に顔を強張らせた。
 窓に張り付くようにして目を凝らし、遠くの空を移動する何かを追い続ける。
 それが猛禽の一種と確認できたところで、ようやく彼女の顔から強ばりが消えた。
 先程から彼女は飛ぶ鳥の姿に反応し、緊張と弛緩を繰り返している。
 ブラドーから聞いたフライヤーの存在が、海岸上空を舞う鳥の姿すら追跡者に見せていた。
 安堵のため息をついてから、ソリスはようやく自分たちがイオニア海の近くまで辿り着いたことに気付く。
 後方ではなく進行方向左手の窓に視線を向けると、台地の端からイオニア海の青が目に飛び込んできた。

 「少し神経質になりすぎかしら・・・」

 視線の先には目的地であるブラドー島があるはずだった。
 未だ見えはしないが、ソリスは二人の安住の地であるその島の存在を確かに感じている。
 彼女が肩の力を抜こうとした時、馬車が急制動をかけた。

 「キャッ!」

  急停車し方向転換に移った馬車に、バランスを崩したソリスは軽い悲鳴をあげた。
 彼女はブラドーの棺にすがりつくように立ち上がると、御者座のマルコに声をかける。

  「マルコさん! 何があったんですか!?」

  「待ち伏せです! しっかり掴まっていてください!!」

  マルコは馬に鞭を入れ強引に馬車を切り返す。
 街道の縁石に乗り上げ激しく揺れる馬車に、ソリスは再び大きく姿勢を崩した。

 「チッ、暫くは立ち上がれないって言ってたのに・・・」

 マルコは猛烈な勢いで馬車に迫るピエトロに舌打ちをする。
 その姿はブラドーとの戦闘のダメージを全く感じさせていなかった。

 「ま、ある意味やりやすいとも言えるっスね!」

 「なに言ってるんです。マルコさん急いで!!」

 ソリスを安心させるための軽口も、今は場違いでしかない。
 窓から見えるピエトロと馬車は今にも自分たちに追い着こうとしていた。

 「静かに! 空飛ぶ機械が来なくてラッキーと思わなくちゃ」

 これくらいの危機は今まで何度も切り抜けてきた。
 マルコはそう自分に言い聞かせるように腰のポーチに手を伸ばす。
 彼は努めて冷静に馬車を操りながら追っ手との距離を測り始める。
 絶妙とも言えるタイミングで、彼のポーチから立て続けに二度淡い光が発した。




 「例の術か・・・」

 突如感じた目眩にカオスは昨夜の精神攻撃を思い出していた。
 目の前でUターンした馬車は、術の応用かその姿を二台に増やしている。
 一台は再びブリンディジの方向へ、もう一台は少し先で合流している海岸沿いの裏道に向かって逃走を始めていた。
 カオスは車内にいるテレサのことを思い浮かべたが、先程のことを思い出し彼女に幻覚の有無を問うのを諦める。

 「センサーの攻撃に切り替えればカタはつくが・・・」

 「いや、手出し無用。私の力で十分です」

 ブラムの尊大とも言える態度に、カオスはリモコンに伸ばした手を止める。
 幻覚に隠れた反撃を心配していたのだが、ブラムの様子からカオスはその可能性が極めて低いと判断した。
 ブラムのようなタイプは反撃の可能性がある場合、決して自分から矢面には立たない。

 「どちらが本物か分かっているという訳か」

 「ええ、奴らの手の内は丸見えです」

 自己の能力に余程自信があるのか、ブラムは不敵な笑みを浮かべた。






 ソリスは固唾を飲んで接近する馬車を見守っている。
 彼女たちを乗せた馬車は制止したままカオスの馬車が通り過ぎるのを待っていた。
 目の前をピエトロの騎馬が通過する時、思わずあげそうになった声を彼女は必死に堪えていた。


 ―――厄介なヤツはやり過ごせたか


 マルコは油断無く、続いて横を通り過ぎようとする馬車に意識を集中する。
 彼の放った幻覚は二つ。どちらの馬車を追ってももう一方を取り逃がす。
 敵が深追いする隙にターラントへ向かうのがマルコの考えた作戦だった。
 カオスの馬車はあと10m程でやり過ごすことができる。
 御者座に座る初老の男とカオスらしき男は幻覚に目をやり、こちらの方に気付いた様子はない。
 ステップでしがみついている男にはその余裕すら無いように見えた。


 ―――いいぞ、そのまま通り過ぎるんだ


 マルコは出発に備え手綱を握る手に力を込める。
 そんな彼をあざ笑うように、御者座のブラムが大声を出した。

 「ピエトロ! もういい」

 「チッ、バレていたかッ!」

 マルコは腰のポーチに左手を伸ばす。
 しかし、彼の手が再び術を発動させることは無かった。

 「クッ!」

 マルコは信じられないものを見るように、自分の左手に視線を落とす。
 彼の左手は、彼自身の影から現れた男の手によって押さえ込まれていた。
 そして、その男のもう一方の手が握る短剣が、彼の左脇腹から刺し込まれる。

 「近づきさえすれば、それなりのことが出来るのだよ・・・」

 影の中から聞こえてきたブラムの声はマルコの耳には届いていない。
 その声は車内で上がったソリスの悲鳴にかき消されていた。

 「ブラドー様、すみま・・・」

 逃走する二台の馬車が幻のように姿を消していく。
 与えられたダメージに、マルコの術は効力を失っていた。
 肋骨を擦るように刺し込まれたナイフの冷たい感覚に、マルコは己の死を直感した。







 「どうです。距離が近づけばこれくらいはできましてな」

 マルコの影から完全に姿を現したもう一人のブラムは、マルコの体からナイフを引き抜くと自慢げに胸を張った。
 彼はマルコの体を御者座から蹴落とすと、カオスと自分の本体によく見える位置に馬車を移動させる。
 引き返してきたピエトロは一瞬マルコに視線を向けたが、それっきり興味を失ったように視線を馬車に戻す。
 マルコの傷を見た彼は、とどめの必要が無いことに気付いていた。

 「ずっと影の中に潜んでいたというわけか」

 「ええ、影を介して移動することも出来ます。この様に!」

 カオスの呟きに二人のブラムが同時に笑う。
 そして再び影に沈んだもう一人のブラムは、芝居がかった仕草で馬車のドアを内側から開いた。

 「そして、本体である私との距離が近づけば、直接の行動が可能になるというわけでして・・・これよりブラドーと通じた女を捉えます」

 邪魔者を排除し余裕が出たのか、ブラムは本体の紹介に併せるように恭しく一礼し車内を振り返る。
 恐怖の相を浮かべ、ブラドーの棺にすがりつくソリスの姿に、ブラムは勝ち誇ったような表情を浮かべた。
 ソリスは棺で眠るブラドーに助けを求めるのではなく、何とかして彼を守ろうとしている。
 女に守られるまで落ちぶれた夜の一族に、ブラムは恐ろしさを感じていなかった。

 「全く、手を焼かせおって・・・」

 言葉とは裏腹にブラムは上機嫌だった。
 これでローマには、最終的に任務を果たしたのは自分だったと報告できる。
 カエターニから高い評価を得る己の姿を夢想し、ブラムはソリスにしか聞こえない声でそっと呟いた。

 「しかも、最も古い夜の一族をしとめることが出来るのだから感謝しなくてはな・・・お前の御陰だ」

 「イヤーッ!!」

 迫り来るブラムにソリスが絶叫する。
 ブラドーの棺にすがりついた彼女の左薬指で、紙の指輪が淡い光を放っていた。






 「なんだ、これはッ!」

 カオスは目の前に展開した光景に驚きの声をあげていた。
 陽光の下、何処からか現れたブラドーがソリスを見つめている。
 その口元に彼は微かな吸血の痕跡を認めた。

 「今のが余の本性なのだよ・・・人の血液から生を得、そして余に血を吸われた者は忠実なしもべとなり絶対の忠誠を誓う・・・」

  ブラドーは皮肉な笑みを浮かべた後、心情を吐露するように声を荒げた。

 「だが、それが何になると言うのだ! 陽光の下にも立てず、闇の中で永遠にも感じる時間を生き続ける一生など・・・ソリス、余はお前の中に日の光を見た。余はお前と共に在りたいのだ、人としてのお前と共に・・・」



 「そんな馬鹿なッ!? 奴が陽光に憧れているだと。そして人間の娘と共に暮らそうと・・・」

 カオスは目の前で展開したブラドーの告白を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
 バンパイアが人間の娘を気に入った場合、その殆どが本人の意志とは関係なく魔力で魅入らせてから略奪する。
 ブラドーはそれを行わないだけでなく、吸血の現場を娘に見せ自分の気持ちを真っ向から伝えようとしていた。

 「これではまるで・・・」

 カオスが口にしようとした言葉は、ブラドーの側に歩み寄るソリスの姿に止められていた。
 彼はその時ソリスが浮かべた表情に見覚えがあった。
 その優しく全てを包み込むような微笑みは、どれ程の覚悟の末に生み出したものか。
 カオスはソリスの微笑みに、かって自分に向けられたマリア姫の微笑みを重ねていた。


 「だからお前が余の本性を見て、それでも構わぬというのなら・・・」

 ブラドーの唇はソリスのそれによって塞がれていた。
 直前の吸血の痕跡を留める唇へのキス。
 それは、100万の言葉よりも雄弁に、ソリスの覚悟をカオスに伝えていた。
 





 「見ましたか! カオス殿!! これであの娘が自ら進んでバンパイアの元に下ったのは明白!」

 小躍りするようにブラムが御者座から飛び降りる。
 彼がキスを続ける二人の元に辿り着くと、二人の姿は幻のように消え去っていった。

 「ああ、そうだな・・・」

 カオスもブラムの後を追うように御者座を後にする。
 その言葉を聞き、ブラム本体は上機嫌で馬車内部の自分へ向き直った。
 これでカオスに気兼ねすることなく、大手を振ってソリスを異端者として連行できる。
 吸血されてないソリスの存在を、カオスが不審に思う心配はもうないと彼は思っていた。
 同時存在のブラムもそれに気付いたのか、抵抗を見せなくなったソリスを抱え込むようにして馬車の外に降り立つ。
 カオスはブラム本体の近くに連行されたソリスに目を向けると、彼女の目を真っ直ぐ見つめた。

 「人間とバンパイア、寿命の違いを貴女はどう考える?」

 カオスの視線をソリスは真っ向から見つめ返す。
 彼の視線に込められた、真理を探究する者のみが持つ静謐な光をソリスは感じていた。

 「確かにブラドー様と比べれば私の寿命は短いでしょう。それでも私たちの子に命を繋ぐことが出来れば・・・限りある命でも、命を産み出し続ければ・・・」

 「汚らわしい! 化け物との間に子などと・・・異端の本性を暴くとはお手柄ですぞカオス殿!」

 「黙っていろ! ブラム!!」

 会話に割って入ったブラムにカオスが声を荒げる。
 遠巻きに二人のやりとりを眺めていたピエトロも、口元を強張らせていた。

 「すまない。気を悪くされたか?」

 「いえ、覚悟はしています」

 紳士的な態度を崩さないカオスに、ソリスはそれに見合った態度を取ろうとする。
 領主の娘としての矜持ではなく、ブラドーを愛したのが間違いではないという思いが彼女を支えていた。

 「私の拙い知識ではバンパイアと人間に混血の例はない。その場合、貴女はどうする?」

 カオスの言葉にソリスは顔を強張らせる。
 彼が口にした点を彼女は最も心配していた。
 ソリスは今の質問が、子供を作ることが叶わなかったカオスとマリア姫のことだとは気付いていない。

 「もしそうならば悲しいですが仕方ありません。でも私が一生分ブラドー様を愛せば・・・そうすれば少なくとも心は―――」


 ―――心はいつもブラドー様と共に


 遙か未来。
 カオスがマリアより聞かされるはずの言葉をソリスは口にする。
 その言葉を聞き、カオスは今回の出会いがマリア姫の導きであることを確信した。


 ―――姫、ようやく貴女の気持ちがわかりました


 カオスは近くにマリア姫の存在を感じていた。
 穏やかな微笑みを浮かべた彼は、その顔をそのままソリスに向ける。

 「ブラドーに伝えて下さい。いつか酒でも奢れと」

 カオスが発した言葉の意味をいち早く理解したのはブラムだった。
 彼はソリスとカオスの間に割り込むと、ひきつった笑顔を浮かべる。

 「カオス殿! ご冗談もほどほどにして下さい!!」

 「冗談は嫌いでな・・・動くな!」

 カオスは左手に持ったリモコンを掲げる。
 馬車の上部に現れた機銃が油断無く周囲を牽制しはじめた。
 カオスの裏切りを本気と判断したブラムは、視線をピエトロに移し彼の出方を窺う。
 ピエトロの方が脅威と感じたか、機銃はピエトロに向けその狙いを定めていた。

 「命が惜しければその娘を離し、大人しく引け・・・」

 「分かりました・・・しかし、教皇庁を敵に回すとは正気ですかな?」

 ブラムは分身を解除しソリスを解放すると、無抵抗の意志を示すように両手をあげる。
 分身を吸収したためか、地に落ちた彼の影は幾分濃度を増したかに見えた。

 「こうしている今も、あなたの行動をローマに伝えることができるのですよ。いまならまだ間に合います」

 「イノケンティウスに逆らった私が、死に体となった現在の教皇庁を恐れる訳ないだろう。それに言ったはずだ・・・動くなと」

 カオスのマントの中で銃の発射音が響く。
 自分の影に撃ち込んだ精霊石を加工した弾頭は、彼の影に潜んだブラムの分身を打ち抜きその存在を消滅させる。
 手をあげ影を伸ばしたブラムの行動が、自分の影に分身を送り込むための動きだとカオスは見抜いていた。
 炸裂した精霊石による眩い光に、周囲の者たちは軽い目眩を覚える。

 「ウッ・・・」

 分身のダメージは本体に伝わるのか、分身を打ち抜かれたブラムは苦悶の表情を浮かべその場に崩れ落ちた。

 「二人静かに暮らしなさい・・・」

 カオスは呆然と立ちつくすソリスを保護しようと、彼女の方へ足を踏み出しかける。
 ピエトロはその時に生じた隙を見逃さなかった。

 「危ない! ドクター!!」

 ドゥランテのあげた声にカオスは反応する。
 ピエトロの投じた白木の杭は、それを回避しようとしたカオスの左手から馬車のリモコンをはじき飛ばした。

 「そんな綺麗事は認めん!」

 間髪入れずに切り込んできた袈裟懸けの一撃。
 回避不能なはずの一撃は、迎え撃つ精霊石の銃弾によって相殺された。
 ピエトロの長剣によって弾かれた精霊石が周囲にエネルギーを放出する。
 その間隙を縫うようにピエトロの長剣が翻り、カオスの胴を横薙ぎに払った。

 「カハッ・・・」

 腹部を襲った衝撃に、はじき飛ばされたカオスは苦悶の表情を浮かべた。
 横隔膜が痙攣し肺の中に酸素が入ってこない。肋骨も何本か折れているようだった。
 マイルストーンを両断するピエトロの剣技を受けた腹部には、うっすらと裂けたような傷痕が奔っている。

 「変わった服を着ているな・・・」

 切れ味を確かめるように、ピエトロは長剣の刃先に視線を向けた。
 銃器の暴発から身を守るために開発した、防弾・防刃仕様のマントが辛うじてカオスの命を救っていた。

 「だが、首を切り離せばいいだけのこと」

 ピエトロは地に伏せ呼吸困難に喘ぐカオスに向かい、ゆっくりと近づいていった。







 「何でアイツがカオス様を!」

 銃声に驚きドアを開いたテレサは、ピエトロに斬りかかられたカオスの姿を目撃していた。
 彼女は慌てたように外に飛び出ると、馬車の近くに立つドゥランテに助けを求める。

 「お願い、カオス様を助けて!」

 「もうやってます! それよりあなたは急いでマリアを!」

 ドゥランテはそれが当然のことであるかのようにカオスに加勢していた。
 左手で支えるように持った彼の本には、数編の詩が書き込まれている。
 朗読を完了させれば、彼の使役する死霊が一斉にピエトロに襲いかかるはずだった。

 「時間をかけすぎだ」

 まるで五月蠅い虫を払うようにピエトロの左手が動く。
 そこから投じられた白木の杭は、朗読を終わらせようとするドゥランテの胸に彼の本を縫いつけていた。
 胸に本を抱いたまま前のめりに崩れ落ちるドゥランテ。その姿にテレサは言葉を失う。
 こともなげに仲間のドゥランテを斃したピエトロは、その刃をカオスに向けようとしていた。

 「このままじゃカオス様が・・・」

 目の前で繰り広げられる光景に、テレサの胸に絶望的なまでの無力感が広がっていく。
 自分にはカオスを助けられない。彼女の脳裏にドゥランテ最期の言葉が思い出された。

 「マリア・・・」

 押さえきれない衝動に駆られ、彼女は車内に駆け戻るとマリアが眠る棺にすがりついていた。

 「私じゃダメなの・・・お願い、目を覚まして! カオス様を助けてッ!!」

 彼女は機械人形であるマリアを必死に揺り起こそうとしていた。
 テレサの目から止めどなく流れる涙がマリアの頬を濡らし続ける。

 「あやまるからぁ・・・嘘ついてたことあやまるからぁ・・・」

 彼女はマリアの胸に突っ伏しテレサは号泣する。
 テレサがついた嘘。それは寂しそうに見えたカオスを慰めようとしたものだった。
 臨終の際、マリアに後を託したマリア姫の言葉を、テレサはそのまま自分に置き換えてカオスに伝えている。
 マリアの存在を知らないテレサには、作成途中のマリアはただの機械人形でしかなかった。

 「本当はアナタなのよぉ! マリア様から後を頼まれたのは・・・」

 テレサは声の限り絶叫する。
 まるで自分の魂を全てマリアに注ぎ込むように。

 「だからお願い! カオス様を助けてッ!!」

 トクン

 マリアの胸にすがりついていたテレサは、マリアの内部で起こった何かの音に気付く。
 それは油圧系統の起動音だったのかもしれない。
 しかし規則正しいリズムを刻み始めたその音は、テレサには心臓の鼓動に聞こえていた。







 「無駄だ・・・」

 カオスの目前でピエトロの刃が翻り、彼が構えた銃をはじき飛ばす。
 ピエトロはそのままカオスの胸板を踏みつけ、カオスの体を地面に押し倒した。
 そしてカオスの首筋に当てていた長剣を、ピエトロはゆっくりと振り上げていく。

 「何故だ? 何故、お前はそこまでバンパイアを憎む」

 カオスの問いにピエトロの動きが止まる。
 彼は表情を強張らせながらカオスの疑問に答えた。

 「奴らが邪悪だからだ・・・人の血を吸う化け物を憎んで何が悪い」

 「ブラドーはあの娘を噛んでいなかった。奴は必ずしも邪悪な存在という訳では・・・」

 「黙れッ!」

 刃先に生じた迷いを吹っ切るように声を荒げると、ピエトロは手に持った長剣に力を込める。

 「バンパイアは邪悪な存在でなくてはならんのだッ!」

 「クッ、マリア・・・」

 陽光をきらめかせ己の首に振り下ろされようとする刃先に、カオスは未だ目覚めぬマリアの名を呼んでいた。

 「イエス!」

 突如聞こえた聞き覚えのある声に、カオスの目が大きく見開かれる。
 彼だけが、その声がマリア姫を模した合成音声であることを理解していた。
 同時に聞こえてきたロケットの発射音。
 空を切り裂き飛来した鋼鉄の右腕に、ピエトロはカオスの上からはじき飛ばされていた。

 「まさかッ! あ、ああ・・・」

 カオスはすぐさま飛び起きると急いで馬車を振り返る。
 そこには棺から上体を起こし、右腕を突き出したマリアの姿があった。





 まぶしい光の中にカオスが立っている。
 視界の中に情報が表示されマリアは目の前の男が自分の創造者であることを理解した。

 「初めまして・ドクター・カオス」

 「マリア・・・」

 カオスの呼びかけにマリアは首をかしげる。

 「お前の名前だよ。よろしくなマリア・・・」

 「サンキュー・ドクター・カオス・マリア気に入りました」

 自分に背を向けたカオスにマリアは不思議そうな顔をする。
 その背が涙に震えていることに生まれたばかりのマリアは気がつかない。
 カオスの背後では、不意をつかれたピエトロが立ち上がろうとしていた。

 「マリア・ドクター・カオス・助けます」

 マリアはテレサをどかし、棺から立ち上がると馬車の外へと足を踏み出していく。

 「新手かッ!」

 体勢を立て直したピエトロの左手が霞むと、マリアの胸部で白木の杭が粉々に砕けた。
 微かに揺らいだマリアは、呆然と立ちつくすピエトロへと視線を向ける。
 胸部に与えられたダメージが算出され、マリアはピエトロの攻撃に確かな殺意を認めていた。

 「危険度B+と認識・排除します」

 彼女の演算回路はピエトロを危険な存在として認識した。
 マリアは腕からマシンガンを出現させると、その銃口をピエトロに向ける。

 「何なのだアレはッ!」

 カオスの機銃を目にしているピエトロは、マリアから受ける銃撃を予想し遮蔽物を求めた。
 容赦なく撃ち込まれる銃撃をかわしながら、ピエトロはブラドーの馬車に向かっていく。
 その近くに倒れ込んでいるブラムと共に、彼は反撃の機会を窺うつもりだった。
 馬車の近くまで一気に走り込むピエトロ。彼を僅かに外れた弾丸が馬車の車体を貫通する。
 その弾丸が巻き起こした光景に彼はその場に立ちつくしてしまった。

 「グッ・・・」

 棒立ちになった彼に容赦なく撃ち込まれたマリアの弾丸。
 口から血を吐き出しその場に崩れ落ちるピエトロの目前で、ブラドーの馬車は幻の様にかき消えていった。

 「・・・逃げただと。あの男がまだ生きていたというのか・・・逃がさん。逃がさんぞ化け物」

 全身を容赦なく貫いた弾丸は、彼の体に致命傷ともいえるダメージを与えている。
 しかし、恐るべき執念が彼の体を支えていた。

 「ば、化け物・・・」

 立ち上がろうとした彼の耳に恐怖に怯える声が聞こえる。
 銃撃の音に意識を回復したブラムの声だった。

 「その牙、赤く光る目、ピエトロ・・・お前、お前まさか!」

 怯えた目で自分を指さすブラムに、ピエトロは恐る恐る自分の口元に手をのばす。
 ダメージによる影響か、それとも自分の血の味に反応したのか、彼の犬歯は二本の大きな牙に姿を変えていた。

 「何と言うことだッ! 化け物を狩る我々の中に化け物がいたとはッ!! このままではカエターニ様の名誉に・・・!」

 這うように逃げだそうとしたブラムの足がピエトロによって掴まれる。

 「ヒィッ!」

 足首を襲うねじ切るような痛みにブラムは必死に抵抗する。
 彼は先程分身がマルコを刺したのと同じナイフを引き抜き、自分の足首を掴んだピエトロの腕を出鱈目に突き刺した。
 しかし、ピエトロの手は一向に力を弱めず。逆にナイフを振りかざしたブラムの手を押さえつける。

 「そうだ・・・俺は化け物だ」

 ブラムは目の前に迫ったピエトロの牙に絶望の表情を浮かべた。




 





 アッピア街道から僅かに離れた海沿いの道を、6頭立ての馬車が疾走している。
 左手の方角にはイオニア海の透き通るような青と白い砂浜、見るもの全ての心を奪うと言われる美しい景色が広がっていた。
 しかし、馬車を駆るソリスにその景色を味わう余裕はなかった。

 「すげえ・・・何の変哲もない馬が」

 隣に座ったマルコが感心したように呟く。
 ソリスは負傷を理由に御者をしていないマルコに、逃走してから初めて口を開いた。

 「必死なだけです! それよりもマルコさんが言った通り、夜まで隠れる場所を探さないと・・・マルコさんも必死に探して下さい!」

 ソリスは先程のマルコの言葉を思い出していた。





 「イヤーッ!」

 迫り来るブラムにソリスが悲鳴をあげた瞬間、彼女の指輪が淡い光を発した。
 あらぬ方向を見始めたブラムに、彼女はマルコの術が発動したことを理解する。

 「ソリス様、落ち着いて!」

 「マルコさん! 無事だったんですか!!」

 何処かから聞こえてきたマルコの声に、ソリスは歓喜の表情を浮かべた。

 「霊薬の御陰で平気だったんすよ。あの味を我慢した俺を褒めてやりたいっス」

 ソリスは周囲を見回すが、マルコの姿は何処にも見えなかった。
 
 「術を何重にも発動させてますから俺は見えないッスよ! それよりも、チャンスは必ず来ます。ソリス様とこの男が馬車を離れたら、隙を見て俺が幻とすり替えますから・・・」

 「チャンス? どうしてそんなことが・・・」

 「気の強そうな美人のお姉さんが教えてくれましてね。カオスって人は悪いヤツじゃないと・・・時間がない、とにかく俺を信じて下さい」

 マルコの声が止むと馬車の外で展開していた幻が消え去っていった。
 ソリスは覚悟を決めた様に、ブラムに引かれるまま馬車を後にする。
 そして、マルコの言った通りチャンスはすぐに訪れた。



 「それに言ったはずだ・・・動くなと」
 
 カオスの撃った精霊石の銃弾がブラムの分身を貫く。
 炸裂した精霊石の輝きに合わせて、ソリスの姿は再び幻とすり替わった。

 「ね。言ったでしょ! 馬車はもうすり替えてあります。急いで!」

 「マルコさんも一緒に・・・」

 彼を探そうとするソリスに、苦笑混じりのマルコの声が届く。

 「言うと思いました。俺の乗っている方が本物です。大怪我で身動きとれないんで御者はソリス様に任せますから・・・」

 マルコの言葉にソリスは馬車を振り返る。
 そこには御者座のマルコ以外、寸分違わないブラドーの馬車が二台止まっていた。

 「わかりました!」

 自分の姿を認め元気を出したソリスに、マルコは益々苦笑の響きを深める。

 「気づかれないように静かに! そして、急いで海岸線の方へ、夜まで隠れられそうな場所が沢山ありますから・・・」

 ソリスはマルコの言葉に無言で肯いた。








 「わかりました・・・」

 必死に隠れる場所を探してくれという自分の言葉。
 その言葉に答えたマルコにソリスは回想を中断する。
 だが、奇跡とも言える脱出を可能にしたマルコは、ソリスに信じられない言葉を発していた。

 「だけど、それ程の腕前があるんじゃ俺を雇う意味は無かったんじゃ・・・」

 「何を言っているんです! アナタが居なかったら私とブラドー様は・・・冗談でもそんなことは言わないでください」

 その言葉の真意が分からないソリスは隣りに座るマルコを見据える。
 そして見てしまう。彼が苦笑を浮かべ、馬車のステップに降り立とうとするのを。
 彼の動きに先程のダメージは見受けられず、彼の着ている服には昨夜出来たはずの裂け目が無い。
 その姿は、ブラドーと共にソリスの追跡を開始した時のものだった。

 「あ、ああ・・・」

 ソリスは消えゆく幻を追うようにマルコに手を伸ばす。
 彼女の指が届く前にマルコの姿は消えていった。

 「マルコさん・・・」

 ソリスの目から止めどなく涙が溢れる。
 彼女はマルコが自分たちを逃がそうとあの場に残ったことを理解した。
 そして、それを良しとしない自分のため、わざわざ手の込んだ真似をした彼の気持ちも。
 ソリスは涙を拭いながら馬へと鞭を入れる。
 この場を逃げ切ることだけが彼の気持ちに報いる方法だった。










 「消えた! まさか・・・」

 消失した馬車を見て、カオスは慌てたように先程ブラムから解放したソリスに視線を移す。
 彼の予想通り、呆然と立ちつくしているように見えた彼女の姿も、いつの間にかその姿を消していた。
 周囲を見回すと、先程ブラムから蹴落とされたはずのマルコが、馬車のあった所からそう離れていない灌木にもたれ掛かっているのが見えた。
 術の発動が解けないよう、最後の瞬間まで霊力を出し続けたのだろう。
 本を手に満足そうな笑みを浮かべたその姿に、カオスは彼が最後の力を振り絞って二人を逃がしたことを理解する。

 「逃げたか・・・良い従者を持ったなブラドー」

 彼はマルコから視線を外すと、未だマシンガンを構え続けるマリアに歩み寄る。

 「やめるんだマリア」

 カオスは複雑な表情を浮かべながら、ピエトロに向けたまま静止したマリアの腕を下げさせようとする。
 しかし、マリアは構えを解かなかった。

 「もういい・・・もう死んでいる」

 思い人と同じ名と顔を持つ彼女に、誕生早々殺人をさせてしまった後悔がカオスの顔には浮かんでいた。

 「ノー・目標・まだ活動中・危険度B++に上昇」

 「なにっ!」

 自分の手を振り払いピエトロに歩み寄るマリアに、カオスの頭脳が目まぐるしく動き出す。
 マリアは完璧とも言える自信作だった。その彼女が威嚇でない銃撃を行った相手。
 今までのピエトロの言動や、今回ブラドーに感じた違和感が彼の中で実を結ぶ。

 「気をつけろマリア! ソイツは・・・」

 カオスが叫ぶとのほぼ同時に、硬質なものが砕ける音が響き渡った。
 彼の目の前でマリアがゆっくりと仰向けに倒れていく。
 マリアの胸には、先程効かなかったはずの白木の杭が深々と突き刺さっていた。

 「マリアーッ!!」

 地響きをたてて倒れたマリアの姿にカオスが絶叫する。
 彼女の向こうには幽鬼のように立ち上がったピエトロの姿があった。
  






 「お前、まさか・・・」

 「だったらどうだと言うのだ」

 自分を指さすカオスに吐き捨てるように呟くと、ピエトロは足下のブラムの死体を蹴りつける。
 転がった死体の首には小さな二つの噛み跡があった。

 「それならばどうして? 何故お前は・・・」

 「黙れッ!」

 ピエトロは人間とは思えない跳躍を見せ、カオスとの距離を一気に縮めると必殺の一撃を振り下ろす。
 しかし、その一撃がカオスに届くことは無かった。
 空中でバランスを崩したピエトロは、自分の右腕と左足を捉えた鋼鉄の腕に口元を歪める。
 胸の破損部分から火花を散らしながら、ワイヤーアームを放ったマリアがカオスに警告した。
  
 「危険度A・ドクター・カオス・避難を」

 「しつこいぞ! 木偶がっ!!」

 ワイヤーを巻き取り自分を拘束しようとしたマリアに、ピエトロは自分から突進した。
 たわんだワイヤーが彼を自由にし、ピエトロはマリアに向かい長剣を振り下ろす。
 袈裟懸けに切り下ろされた一撃がマリアの装甲の胸部から腹部をかすめ激しく火花を散らした。

 「・・・また邪魔か」

 本当ならば、ピエトロは今の一撃でマリアの頭部を両断するつもりだった。
 ピエトロは忌々しそうに自分の足下に剣を振り下ろす。
 彼の足に絡みついた死霊がその一撃によって消滅した。

 「今度は間に合いましたね・・・」

 テレサに支えられるようにして立ち上がったドゥランテが、勝ち誇った様に宣言する。

 「ここはスパルタクス終焉の地とされている所。この中に彼がいるかも知れませんよ」

 ターラントからブリンディジに向かうアッピア街道。
 敗走を重ねたスパルタクスは、再起をかけてブィンディジに脱出する途中に戦死したとされている。
 ドゥランテの言葉通り、夥しい数の屈強な剣闘士の亡霊が出現し二重、三重にピエトロを包囲した。 

 「マリア・ドクター・カオス・守る・・・」

 彼の右手と左足首を握るマリアの手が一層圧搾を強めた。
 その手を切り払おうとしたのも一瞬、ピエトロは何かに気づいたように天を仰ぐ。

 「チッ・・・」

 ピエトロは忌々しそうに舌打ちすると、霧に姿を変えこの場を後にする。
 上空に制止する未知の物体からのプレッシャーが、彼に本来の目的を思い出させていた。




 「追いますか?」

 テレサに支えられたまま、ドゥランテがカオスに問いかける。
 彼はカオスがピエトロを追跡すると思っていた。

 「いや、手助けはここまでだ・・・」

 ソリスを見捨てるような言葉に、ドゥランテが意外そうな顔をする。
 先程命がけで逃がそうとした娘を、カオスはこれ以上助ける気は無いらしい。

 「どうやらバンパイアたちに大きな変化が起こっているようだ。後はブラドーが自分で何とかするしかあるまい・・・」

 カオスは自分の頭に浮かんだ仮説に、確信に近いものを感じていた。

 「尤も、これぐらいはしてやるがな」

 カオスは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
 その表面には、ブラドーの能力制限を行っている術式が細かに書き込まれていた。

 「私からの餞別だ。ブラドー、お前も男なら後は自分で何とかするのだな」

 カオスはそういうと手に持った羊皮紙をゆっくりと引き裂く。
 50年ブラドーを苦しめ続けた呪いは、その瞬間活動を停止した。

 「謎の多い奴とは思ってましたが、まさかバンパイアとは・・・しかし、それでは何故仲間を執拗に」

 「いや、バンパイアは陽光の下には立てん。あれは似て非なる存在だ・・・・・・ところでドゥランテ、お前はどうやってあの杭から逃れたのだ?」

 カオスの問いに穏やかな笑顔を浮かべると、ドゥランテは胸に下げていたペンダントを取り出す。
 そこに刻まれたベアトリーチェと呼ばれた女性の顔に、ほんの小さな傷が付いていた。
 ピエトロが投じた白木の杭は、彼の思い人によって防がれたらしい。

 「ベアトリーチェが守ってくれました。そして私にはまだやることがあると・・・」

 「そうか・・・」

 カオスは彼の言葉から、ドゥランテの下にベアトリーチェが降霊したことを理解した。
 彼は手の中で細かな紙片となった羊皮紙を辺りにばらまくと、懐のリモコンに手を伸ばす。

 「私もマリアに守られた。ならば私のやることは・・・」

 彼は振り返ると、ようやく両腕を回収し終えたマリアの元へと歩み寄る。
 その歩みに合わせるように、上空に制止していた物体が彼の近くにゆっくりと舞い降りていった。

 「ドクター、それは一体?」

 「カオスフライヤー(改)、50年前に作った対バンパイア兵器の焼き直しだ。念のために呼び寄せてあったのだが、どうやら無駄にはならなかったようだな・・・テレサ、お前は見たことがあるだろう」

 カオスの呼びかけにテレサはビクリと体を震わせ下を向いてしまう。
 彼を騙し続けていたテレサはカオスに会わせる顔が無かった。
 カオスはそんな彼女の様子に苦笑すると、体の所々から異音を発しているマリアに向き直る。
 起動早々の戦闘に、彼女の体にはかなりの負荷がかかっていた。

 「マリア、ご苦労だった。すぐに直してやるからな」

 「サンキュー・ドクター・カオス」

 カオスはよろけるマリアに肩を貸すと、カオスフライヤーへと運んでいく。
 マリア姫を乗せるため、カオスフライヤーは二人乗りに改造されていた。

 「さてと・・・」

 カオスはマリアを後部座席に座らせてから、自分の体を操縦席に潜り込ませる。
 そして、手早く計器の確認を行うと、急いでいるかのような態度で口早にテレサに向かって呼びかけた。
  
 「テレサ! 何をぼさっとしておる。マリアを一刻も早く修理しなくてはならん。早く乗らんか!」

 「え、でも・・・」

 一緒に来いと、当たり前のように声をかけたカオスにレテサは戸惑いを見せた。
 仕えていたマリア姫が亡くなり、身寄りのない彼女は別段どこに行くあてもない。
 しかし、彼女はカオスと供にはいられないと思っていた。
 




 「さっき、ベアトリーチェの他に、もうひとり懐かしい方が来てくれたんです・・・」

 テレサに支えられていたドゥランテが、彼女にしか聞こえない声でそっと囁く。

 「あの方は貴女のことを、少しも怒ったりなんかしてませんでしたよ。あの方は貴女に、ありがとうと言ってました。ドクターのことを愛してくれて・・・・・・そして、ごめんなさいと」

 「え、その方って・・・キャッ!!」

 ドゥランテはテレサの問いには答えず、召還したままだった剣闘士の霊に彼女をカオスフライヤーまで運ばせる。
 数名の霊体に抱え上げられ、テレサは抵抗する暇もなくカオスの所まで運ばれた。

 「ドクター! 貴男はどちらに向かわれるんですか?」

 彼の意図を察したのか、カオスはドゥランテに語りかけるようにテレサに行き先を告げた。

 「これからナポリ大学に向かう。私の研究施設は引き払ってしまったからな、早急にマリアを修理できる施設というと、そこ意外に思い浮かばん・・・ついでにな、そこでしばらくの間、マリアに様々なことを学ばせようと思っている」

 カオスは呆然と立ちつくすテレサに視線を向けた。

 「テレサ、お前に頼みがある。私たちと共にナポリに来て、マリアに色々なことを教えてくれないか?」

 それは、彼女がマリア姫から伝えられた様々なことを、マリアに伝えて欲しいという願いだった。
 カオスはテレサが自分に抱いていた思いに気づいていない。
 彼がテレサを連れて行くのは、彼女の行く末を案じてのことだった。

 「・・・・・・」

 彼女の沈黙を了承と受け取ったのか、カオスはテレサに向かい報酬を口にした。

 「報酬として、お前がナポリ大学で学ぶための協力は惜しまん。女だからどうこう言う奴は私が黙らせる、それに必要な知識は私自ら教えてやろう・・・どうだ?一緒に来てくれんか?」

 それはテレサにとって辛い申し出だった。
 彼女は自分の恋心を抑え、今後カオスの側に立ち続けるマリアに、マリア姫の思いを繋いで行かなければならない。
 躊躇を見せるテレサに、後部座席のマリアがそっと右手を差し出した。

 「ミス・テレサ・マリアに・いろいろ教えて下さい」

 テレサはドゥランテを振り返る。彼は無言でテレサに肯いた。
 彼女はその仕草からドゥランテの下に現れたのがマリア姫であることを理解した。そして自分に向けられたという、ごめんなさいという言葉の意味も。
 テレサは何かを諦めたような寂しげな笑顔を浮かべると、差し出されたマリアの手をしっかりと握りしめる。

 「マリア様と違って私の教え方は厳しいわよ! アナタにはずっとカオス様のお世話をして貰うんですからね」

 「サンキュー・ミス・テレサ・マリア・頑張ります」

 マリアの腕のモーターが軋むような音を立てつつ、テレサの体を後部座席に引き入れる。
 少し狭かったが、テレサの体はなんとか後部座席に収まった。

 「テレサさん。お二人をよろしくお願いします」

 テレサは深々と頭を下げるドゥランテに無言で肯いた。
 口を開くと泣いてしまいそうだった。彼女は意地でも泣かないとばかりに口を固く結び続ける。 

 「ドゥランテ、お前はこれからどうする気だ?」

 「故郷のフィレンツェに戻ります。もともと妖魔狩りは嫌々でしたし」

 「それがよい・・・しかし大丈夫なのか?」

 カオスはドゥランテの選択に心配そうな顔をした。
 一度教皇庁の闇を見た彼には、今後何らかの手が打たれるはずだった。

 「大丈夫でしょう。もうネクロマンサーとしての力を使う必要も無いでしょうし・・・妖魔狩りはネクロマンサーの私が異端扱いされない為の隠れ蓑でしたから。ですが、カエターニが手を出してくる様でしたら返り討ちにして、逆さまに穴に入れ燃やしてやります!」

 「ネクロマンサーの力を封じると?」

 ドゥランテは迷いのない笑顔をカオスに向けた。

 「ドクター、私は貴男と違う方法でベアトリーチェを永遠の存在にするつもりです」

 永続的な降霊による不死の存在。かれはその様な方法でベアトリーチェ復活を考えていた。
 しかし、誕生したマリアを見てドゥランテは自分の考えを改める。
 
 「すぐ死ぬ我が身には永遠の存在は荷が重すぎます。ベアトリーチェは私が作る詩の中で、私と共に永遠になるでしょう」

 「そうか・・・」

 カオスは自分と異なる選択をした男に笑いかけると、拾っておいた馬車のリモコンを放り投げた。

 「餞別だ・・・そろそろバッテリーが空になるが、しばらく日に当てておけばまた動くようになる」

 「ありがとうございます。ドクターのように放浪する時が来たら使わせて貰いますね」

 ドゥランテは冗談めかした表情を浮かべ、受け取ったリモコンを大事そうに懐にしまった。
 数年後、政変によりフィレンツェを追放になる彼は、この馬車で北イタリア中を放浪することになる。
 しかし、そのことをこの時の彼は知る由もなかった。

 「カオス様! マリアさんの様子が!!」

 マリアの変化を感じ取ったテレサが会話に割って入った。

 「ドクター・カオス・マリア・電圧低下中・・・」

 「む、いかんな・・・マリアほんの少しの辛抱だ! ナポリにはすぐにつくからな」

 電圧の変調は生まれたばかりのマリアにどのような影響を与えるか分からない。
 カオスは慌ただしく操縦桿を握るとフライヤーを浮上させる。

 「達者でな」

 「ええ、貴男も」
 
 カオスはドゥランテに小さく手を振る。
 それに応えようと手を振り続けるドゥランテから、カオスフライヤーはあっという間に見えなくなった。

 「さてと、私も行きますか・・・」

 ドゥランテは早速馬車の方へと歩き出す。
 しかしその足はすぐに止まり、彼はブラムの死体へと踵を返した。

 「あなたは大嫌いでしたが弔いぐらいはやってあげますよ・・・それと向こうの従者も。おや?」

 ドゥランテは狐につままれたような表情を浮かべ周囲を見回す。
 先程もたれ掛かっていた灌木から、マルコの姿は見えなくなっていた。







 柔らかく温かな闇にマルコは包まれていた。
 幼い頃に抱かれたであろう母親の胸はこんなものではなかったか?
 彼は漠然とそんなことを思いながら、闇に溶け込もうとする自分の存在を客観視する。
 父親に連れられ幼い頃より各地を回っていた彼に、鮮明な母親の記憶はない。
 彼は幼い頃に母親と死別していた。
 女と肌を重ねるとき、胸に強く執着してしまうのはそのせいだと彼は思っている。
 彼は自分がマザコンであることを自覚していた。
 何か重要なことを忘れているような気がするが、今はただこの温かく柔らかな感触に身を預けたい。
 彼は自分から進んでその感触に身を埋めようとする。
 しかし、その温かく柔らかい何かはマルコに休息以上の安らぎを与えようとはしなかった。

 「まだ逝くには早いわよ。マルコちゃん」

 自分を包む闇に一条の光が差し込む。
 その光にマルコは産み出された赤子が何故泣くかを理解した。
 温かく柔らかな世界。全能感にも等しい安らかな世界から現実に産み出され、不安に襲われた赤子は声の限り泣くのだろう。
 そして、少しでもあの安らぎを得ようと赤子は母親の胸を求めるのだ。
 差し込む光が徐々に明るさを増していくにつれ、マルコの胸に堪らない寂寥感が広がっていく。
 温かく柔らかな世界との決別。生まれ落ちた赤子と同じ感覚が彼を襲っていた。

 ―――行かなくちゃ・・・

 しかし、彼はその感覚をねじ伏せ、自らその光の中に飛び込んでいく。
 彼は思い出していた。自分には現実世界でまだまだやりたいこと、見たいものがあることに。
 そして彼には見届けなければならない運命があった。

 「う・・・」

 薄目をあけたマルコは自分を見下ろす先生の姿を目にする。
 彼女はマルコを胸に抱きかかえたまま、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。

 「ブ・・・」

 ブラドー様は?
 そう言おうとした彼の口をしなやかな先生の指先が塞ぐ。

 「喋っちゃダメ。もうとっくに霊薬の効き目は使い果たしているの」

 マルコは先生の手から霊力が注ぎ込まれていることに気付く。
 そして、自分の体に刻まれた致命的な傷からその霊力が漏れ続けていることにも。

 「ダメッスかやっぱり・・・それじゃ最後はせめてその胸の中で」

 マルコは彼女の胸に顔を埋めるようにもたれ掛かる。
 弱音とは裏腹な彼の行動に先生は苦笑を浮かべた。

 「同情引こうとしてもダメよ! 生きる気満々なのはわかっているんだから」

 彼女はマルコが自分の意志で安らかな闇から抜け出してきたことに気付いていた。
 自分の胸に顔を埋めさせたまま、彼女は一層強い力でマルコの体を抱きしめる。

 「ホント面白い子。だから今回は特別に依怙贔屓・・・最近、デタントとかで五月蠅いからこの姿になってたんだけど、この姿のままじゃマルコちゃんを助けられないからね」

 「なっ!・・・」

 マルコは自分を抱きしめている先生が、その存在を根底から変えつつあるのを感じていた。
 自分を包む圧倒的な力が、ブラムのナイフに切り裂かれた臓器を再生させていく。

 「何者なんスか、貴女は・・・」

 「さあ? 何者なんでしょう」

 驚いたマルコに笑いかける先生の髪は、青に近い濃紺から美しく輝く青にその色を変えていた。
 彼女はカオスフライヤーが飛び去った方向に目をやり、少しだけ残念そうな顔をする。

 「あのお人形ちゃんのコト、もう少し知りたかったけど仕方ないわね。今はブラドーちゃんの方が優先、バンパイアに大きな変化が表れているらしいの。行くわよマルコちゃん」

 「大きな変化って・・・」

 自分を抱きかかえたまま移動を始めた先生にマルコは質問をぶつける。
 彼女に起こった変化も含み、一連の出来事は彼の理解できる範疇をとうに超えていた。

 「マルコちゃんには教えときましょうか。呪われしアトランティスとバンパイアの関係を・・・・・・」

 マルコは急に出た自分の目指す土地の名に目を見開く。
 そして続いて語られた一夜にして海に沈んだアトランティス消失の理由に、彼はいつしか声を震わせていた。

 「そ、そんな・・・それじゃあまりにもブラドー様たちが哀れじゃないっスか」

 彼の目には滅多に見せない涙が浮かんでいた。










 「ゴフッ!!」

 突如体内に生じた異物感に、ブラドーは眠りを妨げられた。
 こみ上げる吐き気と共に、彼の口腔内には指先程度の銀の銃弾が無数に現れている。
 堪らず夥しい量のそれを吐き出すと、彼は以前のような鮮明な感覚を取り戻していた。

 「呪いが解けた・・・どういう風の吹き回しだ。ドクター・カオス」

 ブラドーはソリスを逃がしたカオスの行動に気づいていない。
 50年もの間自分を苦しめ続けた銃弾を手に取ると、ブラドーはそれをまじまじと見つめる。
 カオスが羊皮紙を破った瞬間、彼の体に溶け込んでいた銀の銃弾はたちどころに実体化し、異物として彼の体から排除されていた。

 「こんなものだったのか・・・」

 彼はしばらく銃弾を見回した後、興味を失ったようにソレを投げ捨て周囲に感覚を広げていく。
 昼間ではあったが、彼は御者座にいるソリスの存在を感じ取っていた。
 そして彼女があげる嗚咽をブラドーは耳にする。

 「ソリス、何故泣いている。それにマルコはどうした?」

 ブラドーは意識を飛ばし、ソリスとの会話を試みようとする。
 しかし、その試みは背後から接近する気配に止められていた。

 「何だアレはッ!」

 彼は背後から猛スピードで追いかけてくる何者かの存在を感じていた。

 「馬鹿なッ! これではまるで・・・」

 陽光の下にはいるはずのないその存在に、ブラドーが驚愕の表情を浮かべる。
 背後から追跡してくる存在は霧に姿を変えていた。

 「逃げろ! ソリスっ!!」

 しかし彼の警告も空しく、その存在は御者座で実体化を始めようとしていた。







 ―――逃げろ! ソリスっ!!

 泣きながら馬車を駆っていたソリスの意識にブラドーの声が響き渡った。

 「ブラドー様!?」

 ソリスは驚いたように周囲を見回す。
 左手から前方に向かってイオニア海の砂浜が続き、前方に見える入り江の向こう側には港町ターラントが姿を現している。
 入り江に存在する洞窟を目指しソリスは馬車を走らせていた。
 涙で歪む視界を気にしたソリスは、袖口で涙を拭ってからもう一度周囲を見回す。
 しかし、周囲に人影は見られなかった。

 「今確かにブラドー様の声が・・・起きたのですか? ブラドー様?」

 ソリスは後ろを振り返り車内のブラドーに話しかける。

 「奴と話ができるのか・・・」

 背後から急に声をかけられソリスは慌てて前に向き直った。
 そして自分の手首を握るように実体化をはじめた霧を目撃する。
 抵抗も空しく左手が大きく引かれると、馬車は大きく道を外れ砂浜に向かって走り出していった。

 「キャッ!!」

 急な方向転換にソリスの体が大きく体勢を崩す。
 しかし、彼女の体は馬車から放り出されることなく、実体化を終えた腕によって御者座に固定されていた。

 「なんで? なんでアナタはブラドー様と同じことが・・・」

 ソリスは目の前で起こっている現象に呆然とする。
 彼女の目の前では実体化した妖魔狩りの黒衣の青年―――ピエトロがその姿を表していた。
 
 「まさか、まさかアナタも・・・!!」

 ソリスは彼の口元から覗く牙と、周辺に残る吸血の痕跡に気付き震える指先を向ける。
 実体化を終わらせたピエトロは、ソリスの言葉を無視し砂浜の半ばで馬車を停止させ彼女を引きずり下ろす。
 彼はこれから起こることをブラドーに見せつけるように、開けっ放しだったドアの方向にソリスを引きずっていくと、彼女を荒々しく砂の上に突き飛ばした。

 「そろそろ下らん茶番は終わりにしようバンパイア・・・」

 ピエトロはそう言うと背負った長剣をゆっくりと抜き放つ。
 幾人ものバンパイアを滅ぼしてきた刀身が、陽光を反射し眩い光を放った。

 「それはアナタもでしょう! アナタも同じバンパイアなら・・・」

 突きつけられた刀身にソリスは言葉を失っていた。
 ピエトロは冷ややかな視線をソリスに向ける。

 「俺はバンパイアではない・・・」

 ソリスはピエトロの言葉に困惑の表情を浮かべる。
 ブラドーと同じ、霧に姿を変える能力に加え、吸血の痕跡を残す牙。
 しかし冷静に考えれば、彼は陽光の下に存在していた。
 陽光の下での行動。それはブラドーが何よりも求めたものではなかったのか?
 それでは彼は何者なのか?
 ソリスの疑問は、続いて語られたピエトロの言葉によって氷解する。

 「・・・そして、人間でもない」

 「あ、あなたは人間とバンパイアの・・・出来るのね。人間とバンパイアの間にも子供が」

 ソリスは感極まったように涙ぐむ。
 彼女が感じていた最大の不安は、皮肉なことに自分たちを狙う人物によって解消されていた。

 「良かった・・・私とブラドー様の間にも・・・」

 「ふざけるなっ!!」

 差し出された刀身がソリスの喉に僅かに食い込んだ。

 「望まれずに生まれ、バンパイアからも人間からも受け入れられない・・・そんな存在が生まれることの何処が良いというのだっ!」

 「違います! 私はブラドー様との子を何よりも望んでいる。 あなたの御両親もきっとあなたを望んでいたはずです」

 突きつけられた剣にソリスは一歩も引かなかった。
 しかし、真っ向からピエトロを見つめた彼女の視線は、冷ややかに見下ろすピエトロの瞳に絡め取られ、たちまち気概を失っていってしまう。
 彼女は自分では推し量れない悲劇を、目の前の男が体験していることを察していた。

 「俺もそう思っていた。だからこそ名も与えられず、主の間に近寄ることも許されない。ただ昼の護衛としての境遇を受け入れ・・・」

 ピエトロは言葉に詰まる。
 彼は自分で言いかけたように、望んで城に留まっていたのでは無かった。

 「いや、正直に言おう。俺にはそこにしか居場所が無かった。死人のようにずっと眠り続けた母が死んだとき、子供だった俺は母の亡骸を村へと運んだ・・・物言わぬ母が望んだ訳ではない。そこならば俺を受け入れてくれる・・・俺はそう思い、そして、自分の居場所が人の世に無いことを思い知った」

 ソリスの喉元からピエトロの長剣が外される。

 「だから俺はこう思うしか無かった。俺を身籠もるまで母は確かに人間だった。奴と母には少なくとも吸血以外の関係があったと・・・結局、母は血を吸われていたが、それには何か特別な事情が・・・奴が俺を近づけないのはそのことと関係があるのだろうと・・・」

 ソリスはピエトロの視線から目が離せなかった。
 彼の凍てつくような瞳がソリスを金縛りにしていた。

 「最も美味い血を知っているか?」

 ソリスはその答えを聞きたくはなかった。
 両耳を塞ごうとするが、体は石になったように動かない。
 ピエトロの声はまるで呪詛のように彼女の耳に染み込んでいった。

 「奴が言うには、それは処女ではなく絶頂に達した女の血らしい・・・信じられるか? 俺の母はそんな下らない理由の為に犯され続け、そして俺を身籠もった」

 ピエトロの脳裏に悪夢で見た光景が蘇る。
 バンパイアとのハーフと知りつつも、彼の存在を唯一受け入れてくれた少女。
 税として収められた彼女を助けようとしたピエトロは、吸血の現場を目撃し、そして自分の出生の秘密に気付いてしまっていた。

 「それを知った時、俺は悟った。バンパイアはどうしようもなく邪悪な存在だと・・・そして、それに関わる者全てを滅ぼすのが、俺がこの世に生を受けた存在理由なのだと。俺の名はピエトロ・・・邪悪なバンパイアを滅ぼすのが俺の使命」

 「ブラドー様は邪悪な存在などではありません」

 蒼白な顔でソリスは訴える。
 ピエトロの生い立ちを知って尚、これだけは譲れなかった。
 彼女は救い出された晩に聞いたブラドーの告白を信じている。

 「ならば、それを証明して貰おう・・・お前たち二人が奴と母のようにならないことをな。聞いているな! バンパイア!!」

 ピエトロは再びソリスの首筋に長剣を突きつけると、馬車の内部に向かって叫んだ。

 「そこから出て俺と勝負しろ!」

 「そんな・・・出られる訳ありません! ブラドー様は陽光の下では滅んでしまうのですよ!!」

 「できるはずだ・・・本物のバンパイアが奴のように邪悪でないのならばな。出てこなければこの女を殺す! 出てこいっ、バンパイアッ!!」

 首筋に食い込む刀身にソリスはピエトロが本気であることを悟る。
 どうしようもない絶望感が彼女の胸に広がっていった。

 「どうして? どうしてそっとしておいてくれないの? 本当はとっても良いことなのに・・・あなたはただブラドー様を殺したいだけじゃない」

 涙を浮かべたソリスに、ピエトロは凍てつくような声で答える。

 「そうだ。俺はバンパイアを殺したい。呪われた生を生き続けるバンパイアは言わば生ける死人・・・死んでいる者を殺して何が悪い」

 キィッ・・・

 ピエトロがそう言った瞬間、ソリスの耳が木の軋む音を捉える。
 その音の意味を理解し、ソリスは絶叫した。












 激しい痛みと倦怠感が彼を襲っていた。
 露出した手や顔からは、気化した彼の体が陽炎のように辺りに拡散し始めている。
 凄まじい速度で起こっている組織の滅びと再生。夜の一族としての生命力が尽きるとき、彼は完全に消滅する。
 カオスの呪いによって使われずに蓄積していた50年分の魔力が、辛うじて彼を滅びから救っていた。
 彼はゆっくりと馬車の外に足を踏み出す。
 直射日光に晒され、経験したことのない激痛が彼を襲った。
 しかし、彼は何処か人ごとのようにその痛みを感じている。


 ―――海とはこの様な色をしていたのか・・・

 
 彼は周囲の光景を見回してから、その視線を上空に向ける。
 そこには彼が長い間求めた存在。太陽の姿があるはずだった。
 初めて目にする太陽のまぶしさに彼は目を細め右手をかざす。
 そして、すぐに視線を外した。


 ―――こんなものか・・・


 不思議と感慨は無かった。
 確かに太陽は眩しく温かい。だがそれだけだった。
 それによって与えられた激痛を加味したとしても、日の光は彼の心にそれほど響いてはいない。

 「イヤーッ! ブラドー様、早く棺に!!」

 絶叫するソリスの声が、彼の意識を泣き叫ぶソリスに向けさせる。
 ソリスにその様な顔をさせてしまったことの方が、彼の心に耐え難い痛みを与えていた。
 だから彼は精一杯不敵な笑みを浮かべる。ソリスがこれ以上泣かないように。




 「望み通り参上した・・・余がブラドー伯爵だ」

 ブラドーは呆然と自分を見つめるピエトロに名を名乗る。
 その声に誘われるように、ピエトロはソリスの首筋から静かに剣を引き上げ青眼に構えた。
 
 「わざわざ殺されに出て来るとはな・・・」

 ピエトロはブラドーが現れないことを期待していた。
 自分の父親とは異なる生まれながらのバンパイア。彼はそのブラドーが邪悪であることを証明してから滅ぼそうと考えていた。
 彼にとって、バンパイアは邪悪でなければならない存在だった。

 「お前なんぞに殺されはせん・・・それとやる前に一言だけ言っておく。たとえ人間とバンパイアのハーフといえど、お前は何処へでも行けたし、何にでもなれたはずだ」

 ブラドーの言葉にピエトロの表情が険しくなる。

 「お前に俺の何がわかる・・・」

 ブラドーの言葉が引き金となり、ピエトロの脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。
 彼の目前で凌辱を受け吸血された少女。ピエトロは彼女に淡い恋心を抱いていた。
 彼女を助けようと重傷を負ってしまったピエトロは、失いそうになる意識の中、彼女の言葉を耳にする。
 少女は壁に打ち付けられた彼ににじり寄りこう言ったのだった。

 ―――吸って・・・

 その一言はピエトロの精神を粉々に打ち砕いていた。



 「分かりたくもないな。だが、これだけははっきりと分かる・・・お前が一番殺したがっているのはお前自身だ」

 「だまれ! 化け物っ!!」

 激昂したピエトロが着ていたマントを投げつける。
 ブラドーの言葉は、ピエトロが認めたくなかった深層を抉っていた。

 ―――吸って・・・

 それを口にした少女の真意が何処にあったのか、今では知る術はない。
 単なる欲情だったのか、それともピエトロを助けようとしたのか・・・
 事実として言えることは、ピエトロは彼女の血を全て吸い尽くし、そして自分の父親を滅ぼした。
 少女の命を奪ったのは自分の意志ではなく、邪悪なバンパイアの本能・・・
 ピエトロにはそう思いこむことしか残されていなかった。


 バサッ!

 投げつけたマントがブラドーの手前に舞い降り、彼の視界からピエトロの姿を一瞬だけ隠す。
 それだけで十分だった。ピエトロはその一瞬で間合いを詰め、渾身の力を込めた突きをブラドーの心臓に突き入れる。
 切っ先がマントを貫き確かな手応えが手に伝わってきた。
 勝利を確信した彼の目前でマントが地に落ちる。
 自分とブラドーの心臓を繋いでいるはずの刀身はなく、目の前には何かを投じたように両手を自分に差し出したブラドーの姿があるだけだった。
 その姿を見て、ピエトロはようやく自分の長剣が半ばから折られていることに気づく。
 そして、折られた切っ先が自分の胸に突き刺さっていることにも。
 バンパイアの弱点である心臓。特に彼らしか知り得ない再生不可能な一点をその切っ先は貫いていた。
 マリアの銃撃に耐えたタフネスを発揮することもなく、ピエトロはその場に崩れ落ちる。
 
 「紛い物は本物に敵わぬということか・・・」

 急激な脱力感に襲われながらピエトロはブラドーを見上げた。
 自ら陽光の下に現れた強靱な精神力。
 そして、陽光に全身を激しく焼かれながらも、自分の全力の突きを軽々とへし折った力量。
 何故自分はこのような存在になれなかったのか・・・
 彼の口元が自嘲気味に歪んだ。

 「たしかピエトロと言ったな・・・」

 僅かによろけたブラドーを、駆けつけたソリスが支えていた。
 馬車へと急ごうとするソリスを制し、ブラドーは滅び行くピエトロに最期の言葉をかける。

 「同情はせん。だが最初に生まれたバンパイアハーフに、これだけは約束しよう。余とソリスの子はお前のようにはならん。人間とバンパイアの架け橋として、必ず幸せを手に入れる・・・余が太陽を手に入れたようにな」

 「・・・勝手にしろ。俺は疲れた」

 そう吐き捨てたピエトロの口元には、自嘲でない笑みが刻まれていた。
 踵を返し馬車へと向かうブラドーとソリスの後ろ姿を見送りつつ、彼は疲れた様に目を閉じる。
 そして彼がその目を開けることは二度と無かった。







 「ブラドー様、急いで馬車に・・・」

 馬車までの10メートル足らずの距離が、ソリスには果てしないものに感じていた。
 肩に感じるブラドーの重みは徐々に重さを増し、二人の歩みは遅々として進まない。
 
 「すまんな・・・」

 無念そうな呟きと共に、鉛のように重くなるブラドーの体。
 ソリスはその重さを支えきれず、共に倒れ込んでしまった。

 「もう少し保つと思ったのだがな・・・」

 襲い来る猛烈な倦怠感に、体が言うことを聞かなくなっていた。
 ピエトロの最期の攻撃を凌いだとき、彼は残された魔力のほぼ全てを使い切っていた。
 痛覚が麻痺をしてしまったのか、先程まで感じていた激痛はもはや感じない。
 自分という存在が周囲に拡散していくような感覚。微睡むような感覚が彼を支配し始めていた。

 「諦めてはダメです! 立って、お願い!!」

 ソリスは必死にブラドーを起きあがらせようとする。
 しかし、彼女の力ではブラドーを起きあがらせることは叶わず、ただ彼の姿勢を仰向けにしただけだった。

 「死なないで! ブラドー様!!」 

 ソリスは彼に浴びせられる日光を何とか遮ろうと、ブラドーの上に覆い被さる。
 そんな彼女の姿をブラドーは眩しそうに見上げていた。

 「お前は眩しいな、ソリス・・・最期に・・・」

 最期に笑顔が見たい。
 泣きじゃくる彼女の涙を顔中に受けながら、ブラドーは最期の希望を口にしようとする。
 しかし、激しい目眩の後に起こった変化が、彼にその言葉を言うのを止めさせていた。

 「これは・・・」

 ブラドーの上に覆い被さったまま、ソリスが驚いたように周囲を見回す。
 二人を取り巻くのは先程までの陽光眩しいイオニア海の景色ではなく、夜の静寂に沈む、運河が縦横に走る水の都の風景だった。
 運河に浮かぶ月がアドリア海最深部の湾に面した町を優しく照らしていた。

 「ああ、どうやら我が友に救われたらしい」

 ブラドーの体は気化を止めていた。
 先程まで感じていた倦怠感は徐々に弱まり、彼の体に残ったなけなしの魔力が僅かずつではあったが体の再生を始めている。
 幻覚であるはずの周囲の景色は、本物の陽光を遮り彼に仮初めの夜を与えていた。

 「じゃあ、これはマルコさんの・・・」

 陽光を遮るのにかなりの密度を必要とするのか、周囲の光景は目まぐるしく変化を重ねていく。
 船から見上げた地中海の星空。月明かりに照らされた巨大な石仏。広大な草の海。

 「そう、これはマルコちゃんの旅の思い出・・・どうやら間に合ったようね」

 「先生!」

 突如虚空から出現した先生の姿にソリスは驚きの声をあげる。
 彼女の髪は見覚えのある青みがかった濃紺ではなく、輝くような青に変わっていた。
 横たわったまま彼女を見上げたブラドーは、昨晩、彼女に感じた違和感の正体にようやく気付いた。

 「青の妖精・・・聞いたことがある。青く美しい髪をもった・・・」

 「そんなことは後回し。私の力を貸しているとはいえ、マルコちゃんにそれ程長くこの地の全てをだまし続けることは不可能よ」

 周囲に展開する光景は、彼が記録した旅の半ばまで達しようとしていた。
 青の妖精はブラドーの体を軽々と持ち上げると、ソリスを伴い馬車へと向かっていく。

 「酷いダメージね・・・」

 棺にブラドーの体を横たえながら、青の妖精はブラドーの体に刻まれたダメージを丹念に調べる。
 だが、ヒーリングが逆効果にしかならないブラドーには、彼女が出来ることは僅かしか無かった。

 「暫くは人並みの体力に落ちちゃうみたいだから、代わりに誰も島に近づけないよう結界を張ってあげるわ。デタントに引っかからないよう手加減するからどれくらい保つかわからないけど、その頃にはブラドーちゃんの魔力も元に戻っているでしょう?」

 「何故、そこまでしてくれる。余が聞いた話では青の妖精は・・・」

 「ブラドーちゃんだけでなく、他のバンパイアにも変化が訪れているの。多くは、それ程魔力を持たないバンパイアから徐々にだけど・・・これから各地で人間とバンパイアの間に、ブラドーちゃんたちのようなことが起こり始める。バンパイアハーフとでも呼ぶべきかしら・・・そういう存在の居場所が必要なのよ」

 「そうか・・・」

 ブラドーは複雑な心境だった。
 このことがもう少し早く分かっていれば、ピエトロの運命は全く違ったものになっていたかも知れない。
 ブラドーはソリスとの未来を守る以外に、自分がやらなくてはならないことを理解する。

 「何故、その変化が強力なブラドーちゃんに起こったのかは私にも分からないわ。ドクター・カオスの呪いの影響なのか? ブラドーちゃんが変わり者だからなのか? それとも、ソリスちゃんとの相性なのか・・・ブラドーちゃん。初めて見た太陽はどおだった?」

 「・・・ふん、大したことはなかったな。あれならソリスの方が何倍も眩しく、温かだった」

 自分を覗き込む青の妖精に、ブラドーはこともなげに答える。
 その姿に彼の覚悟を感じ取り、青の妖精は口元に笑みを浮かべた。

 「じゃあ、最後の相性ってことにしておきましょう。ブラドーちゃんにとって本当の太陽はソリスちゃんだったってことね。だけど、その太陽は―――――――――――」

 青の妖精は急に真顔になり、ブラドーにだけ聞こえるように彼の耳にそっと囁く。
 その言葉を聞いたブラドーの顔に不敵な笑みが浮かんだ。

 「・・・望むところだ」

 「ブラドーちゃんならそう言うと思ってたわ」

 その顔を見た青の妖精は心からの笑顔を浮かべた。 
 馬車の周囲の光景は、上都から中国各地を経て、インド洋海上に達している。
 そろそろ棺の蓋を閉めた方がよい状況に、青の妖精は黙って会話を聞いていたソリスを軽々と抱き上げた。

 「キャッ! 先生、何を・・・」

 「何って、ソリスちゃんも一緒に入るのよ。ブラドーちゃんを元気にするのにはソリスちゃんの添い寝が一番なんだから」

 「ちょっと、ちょっと待って下さい! マルコさんは、マルコさんは無事なんですか?」

 ソリスは一度も姿を現していないマルコのことが気になっていた。
 先程の脱出時に騙されたことが、彼女には未だに負い目となっている。

 「無事っスよ! 術の発動中なもんで姿は見せられませんが。今度は正真正銘本物です」

 「本当ですね!」

 どこかから聞こえてくるマルコの声。
 それに念を押すソリスに、マルコの声が苦笑混じりになる。

 「さっき嘘ついたことは謝ります。向こうに着いたら土下座でもなんでもしますから勘弁して欲しいっス」

 「マルコさんの土下座は信用できません! でも、本当に生きていてくれて本当に良かった」

 ブラドーはソリスの目元に浮かんだ安堵の涙を複雑な心境で見上げている。
 彼の手はマルコによってしっかりと握られていた。
 マルコの姿は見えないが、彼はマルコがどのような顔をして自分の手を握っているか容易く想像がついている。
 しっかり握られた手は別れの挨拶だだろう。多分、マルコはブラドー島にはついてこない。
 結界に閉じこめられる島よりも、マルコには広い世界が似合う・・・報酬のヘルモクラテスは自分が結界を引き継いでから渡せばいい。
 そう思ったブラドーは彼の手をしっかりと握りかえした。

 「マルコ。またな・・・」

 「ええ・・・」

 別れの挨拶が済んだのが分かったのか、青の妖精がソリスの体を棺に下ろしてくる。
 ブラドーは少し体をずらすと、しっかりとソリスの体を抱きしめた。




 




 5頭立てとなった馬車がその車体を海の中へと進めていく。
 御者座に人の姿は無く、まるで馬は自分の意志で進んでいるように一歩、また一歩と海の中に体を沈めていった。
 車内にはブラドーとソリスが眠る棺と、島での生活の為に持ち出した様々な道具、それと向こうで弔うために積み込まれたピエトロの遺体があった。
 棺の蓋を閉める直前、二人は青の妖精とマルコにそのことを頼んでいる。
 遠浅の海岸を進み行く馬車は、やがて海上をたゆたうように漂い始め、器用に泳ぎ始めた馬たちに引かれながら更に沖へと進んでいった。

 「本当に船じゃなくていいんスか?」

 これからの旅路のために、一頭だけ馬を拝借したマルコが心配そうに沖を目指す馬車を眺めていた。
 流れ水を嫌がるブラドーが見たら卒倒しそうな程、馬車は不安定に波間に漂っている。

 「ええ、島への渡し役は別な子に頼んだから・・・ほら、来たわよ!」

 「うは、すっげぇ!!」

 マルコは目の前で起こった光景に歓声をあげる。
 海中から現れた巨大なクジラは、ブラドーの馬車を一飲みするとそのまま海中深くに姿を消していった。

 「なんスか? あれは?」

 「あら、マルコちゃんはクジラちゃんを見たことがないの? 尤も今の子はもうこっちの世界にはいない子なんだけど・・・」

 マルコは今の光景を記録しようと、腰のポーチに手を伸ばす。
 そして、そこに自分の見聞録がないことに気付き軽く苦笑を浮かべた。
 青の妖精の力を借りた術の発動。本来の術を遙かに超える出力によって、彼の見聞録はボロボロに崩れ去ってしまっていた。
 マルコは軽く自分の頭を小突く。後悔はしていないが、一瞬未練を感じた自分への戒めだった。

 「さてと、俺もそろそろ行きますね・・・本当にお世話になりました」

 マルコは青の妖精の手をしっかりと握り別れの挨拶をする。
 二度も命を救われた青の妖精には感謝の言葉もない。
 だからマルコは、彼女に対して感じた気持ちを素直に口にする。

 「それと、さっき抱かれてたとき、お袋のことを思い出しました」

 「私には最高の褒め言葉よマルコちゃん」

 青の妖精は握られた手を離すとマルコを強く胸に抱きしめる。
 彼女はマルコのことを心底気に入っていた。
 マルコがブラドーに付いていかなかった理由を青の妖精は察している。
 彼女からバンパイアという種族について聞かされた彼は、共に島に行くよりもやるべきことを見つけていた。
 
 「・・・だけど、他の娘に言っちゃダメよ! マザコンは女の子から嫌われるから」

 そういって自分を解放した青の妖精に苦笑すると、マルコは馬に飛び乗り街道の方に頭を向けさせる。  

 「マルコちゃんはこれからどうするつもり?」

 「新しい見聞録も必要ですし、先ずは急いでジパングを目指そうと思います」

 「それからは? マルコちゃんならすぐに着いちゃうでしょう?」

 青の妖精は重ねて彼に今後の予定を尋ねる。
 彼女は旅の道々でバンパイアを探そうとするマルコの意図に気付いていた。
 マルコは結界で島を封じようとした青の妖精に、真剣にブラドー島を探そうとするバンパイアには見つかるよう、抜け道をつくることを提案している。

 「そうっスね。ジパングに辿り着いたあとは・・・」

 「あとは・・・?」

 マルコは不敵な笑みを浮かべると大きく鞭を振り上げる。

 「エルフの国でも探します。それじゃあ!」

 人を喰った答えを残し、マルコを乗せた馬は猛スピードで走り出す。
 その後ろ姿を見送った彼女は、声をあげて笑っていた。
 マルコはあくまでも自分の旅を行いつつ、そのついでにバンパイアたちをブラドー島に導くというのだろう。
 彼を友と呼んだブラドーに負い目を感じさせないためにも、それは理想のスタンスだと彼女は考えていた。

 「頑張ってねマルコちゃん! 向こうで会えることを期待してるわ」

 青の妖精はそう呟くと異空間へのゲートを開き始めた。

 「さて、結界も張ったことだし、デタントを監視する五月蠅いのが来ないうちに私も姿を隠すとしましょうか」

 近くに開いた妖精界へのゲートに体を潜り込ませると、しばらく見納めとばかりに周囲を見回す。 

 「次に来たとき、会えるのを楽しみにしているわよ・・・お人形ちゃん」

 青の妖精はそう呟くとその姿を消していった。









 エピローグ



 石造りの古風な城の一室。
 リフォームされ、蛍光灯の光で照らされたダイニングでようやくブラドーは長い思い出話を終わらせていた。
 最初は興味深く聞いていた長男と次男は、昼間の疲れも手伝いテーブルに突っ伏すように寝息を立てている。
 ブラドーの膝の上に座った長女も、彼の胸にもたれ掛かるようにいつしか寝息を立てていた。

 「本当に太陽を見てたとは・・・」

 想像だにしなかった両親のなれそめに、ピートは驚きを隠せない様子だった。
 自分がこのように存在していること自体が、途轍もない奇跡なのではないか?
 父親の動揺を察知してか、彼の腕の中で眠る次女がむずがった。

 「色々大変だったんですね・・・」

 乳飲み子を胸に抱きながらエミがしんみりと呟く。
 多分、義父と義母はこれ以上、傷つくことも、傷つけることもしたく無かったのだろう。
 時代が違うとはいえ二人が結ばれるまでに流れた血の量を考えると、島に籠もった二人の決断は良く理解できた。

 「それじゃお義父さんとお義母さんはこの島でずっと二人っきりで・・・」

 「いや、それがの・・・」

 ブラドー島での孤独な暮らしを想像したエミにブラドーは苦笑する。

 「マルコの奴のせいで、二人っきりの新婚生活は半年くらいしか続かなかったのだ。どうやって広めたのか知らんが、噂を聞いたバンパイアたちが次々とやって来おって・・・ピートが生まれる頃には城の麓にそやつらの村が出来てしまった」

 初めて聞く話に、ピートは長年の謎が解けた気分を味わっている。
 自分の幼い頃、時折あったバンパイアと人間の流入。
 彼らを受け入れる際、母は懐かしそうに何処でこの島のことを知ったのか聞いていた。

 「あの時来た人たちはマルコと言う人が・・・」

 「全く・・・この島にやってくる者たちから聞いたが、アイツは最後まで訳がわからん」

 ジパング、エルフの国、イス、ムー、クワスチカ・・・
 中には良くわからないものもあったが、それらを口にするブラドーは妙に楽しそうだった。
 ブラドー島を訪れるバンパイアたちから聞くマルコの目的地は、呆れるくらい多岐に渡っていたらしい。
 最後までらしさを失わなかった友人を思い、ブラドーは一口ワインを啜る。
 その姿を見て、ピートは先程聞いたカオスの話を思い出した。


 ―――いつか酒でも奢れ


 ソリスを助けた時、カオスが言った一言はブラドーに伝わっていた。 

 「そう言えば、カオスさんが助けてくれたなんて初めて聞きましたよ。今までお礼らしいお礼もしてないし・・・おみやげにワインでも買って帰らなきゃ」

 「何を言っておる。奴には既に酒を奢っておるぞ・・・お前たちも飲んだであろう」

 意地の悪い笑顔を浮かべたブラドーに、ピートとエミは驚きの声をあげる。
 ブラドー島に最初に訪れた時、先回りしていたカオスは確かにワインと食料を手にしていた。
 
 「まさか、カオスさんもグルだったなんて・・・」

 カオスさん”も”グル・・・
 ピートとエミはあの騒動が、ピートが人間社会に受け入れられるかを試す島ぐるみの狂言であったことを聞かされている。
 青の妖精の結界が消えてからも、ブラドーは人間とバンパイアが共に暮らせる時代まで島を人目から隠し続けていた。
 
 「奴はすぐに狂言に気付いたからな。事情を話し巻き込むことにした」

 ピートとエミは力なく笑っていた。
 先に島にたどり着き食料を入手したこともそうだったが、横島を小用に誘ったり、いち早く地下室の存在に気付いたりと、今にして思えばカオスの行動には不自然なことが多かった。
 
 「・・・みんなが自分の思い通りに動くのは楽しかったでしょうね」

 「おお、マルコの気持ちが良く分かったぞ・・・世界征服の野望など、本気で信じた息子には流石に呆れたが」

 「ボ、僕以外にも沢山信じてたじゃないですかっ! 唐巣先生や、ヘルシング教授だって・・・」

 ピートの抗議はテーブルの上に差し出された二枚の写真に止められていた。
 それぞれの写真には、若き日の両名がブラドーと並んで写っている。

 「まさか・・・」

 「ヘルシングとは初代とちょっとした縁があってな・・・そのつてで孫に優秀な教え子を紹介して貰ったのだが、破門を恐れぬところが気に入ったよ」

 予想だにしない展開にピートは愕然となる。しかし、そう考えれば納得のいくことが多すぎた。
 出来過ぎとも言える神父の結界に、地下通路の発見・・・なにより最後の決戦を見届けたのは、他ならぬ神父とカオスの両名ではなかったか。

 「極希にだが、村の者に結界を張るのを交代して貰っていたのだ・・・気付かんかったろう?」

 呆然と肯く息子に、ブラドーは楽しそうに笑った。
 島の内外で念入りに進めた下準備。
 そして、彼は息子が連れてきた面子を見た瞬間、息子が人間界に居場所を作れることを確信していた。
 エミが噛んだ横島という男には何処かマルコの面影があった。 
 
 「もう秘密はないでしょうね?」

 ビートは若干非難のニュアンスを込めて父親に話しかける。
 700年も蚊帳の外だったことを腹立たしく思う反面、父をはじめ村の人々がそれだけ長い間、自分を世間の冷たい風から守ってくれていたことを、ピートは申し訳なくも思っていた。

 「ああ、今ので全てだ・・・」

 ブラドーは負い目を感じているらしい息子に微笑む。
 彼にはまだ息子に内緒にしていたことがあった。墓地の一角にある名も無き墓標。
 そこに眠る最初のバンパイアハーフが彼と同じ名であることを、ブラドーはまだ息子に語ってはいなかった。
 ソリスとの間に授かった息子に、その名をつけたのが正しいことなのかブラドーにはまだ判断がついていない。
 しかし、最愛の妻はブラドーの思いを汲み、その名に賛成してくれていた。

 「ピエトロ・・・お前は今、幸せか?」

 ブラドーは遠い昔、あの男に約束したことが守れたか気になっていた。
 息子はあの男と同じように妖魔を狩る仕事―――GSに就き、あの男とは全く異なる活動をしている。
 良い仲間に恵まれたこともあり、息子は立派にバンパイアと人間の架け橋となっていた。

 「幸せですよもちろん!」

 揃って微笑む息子夫婦に、ブラドーは安堵の表情を浮かべる。
 ソリスを失ってからの長い年月。自分のとった行動はどうやら間違いではなかったらしい。
 逃げて逃げて逃げまくって―――遙か以前に聞いた友の言葉が思い出される。
 人間とバンパイア、双方のしがらみからブラドーは逃げ続けた。

 「じゃなかったら、700年も守ってくれた人たちに申し訳ないですし・・・そう言う父さんは今」

 「当たり前であろう!」

 ブラドーは息子の質問に先んじ、胸を張って答える。
 寿命の異なる伴侶を持った先輩として、彼が息子夫婦に伝えることはまだまだあった。

 「余は人の世からソリスという太陽を盗み、そして、今、大勢の太陽に囲まれておる」

 ブラドーはそう言ってから、周囲で寝ている孫たちの頭を順番に撫でていく。
 眠い目をこすり、目を覚ました孫たちをブラドーは満足そうに見つめた。

 「ソリスという陽は沈んだが、その命を繋いだ太陽が再び余を照らしている・・・これを幸せと言わずして、何を幸せというのだ」

 「あら、それじゃ、来年の夏前には太陽が増えますよ」

 突然のエミの発言に、ブラドーとピートの表情が固まる。

 「え、それって・・・」

 「ええ、日本に戻って検査してからと思ったけどね。この子たちの時と同じだから・・・」

 突如聞かされた懐妊の知らせにブラドーは笑いをかみ殺す。
 彼は何のことか分からない様子の孫たちに、家族が増えることを教えてやった。

 「お前たち、また家族が増えるらしいぞ! 弟がいいか? 妹がいいか?」

 「わたし、おねえちゃんがいい!」

 膝の上で大声をあげた長女に、ブラドーは吹き出してしまった。
 娘の発言に息子夫婦も楽しそうに笑っている。  
 本当はたいして意味など分かっていないのだろうが、孫たちも大きな声で笑っていた。
 それを言った本人まで。

 「しかし、そんなに太陽が増えたのでは体が保たんな・・・」

 ひとしきり笑った後、ブラドーは嬉しそうに呟く。
 こんなに笑ったのは久しぶりだった。
 目尻に浮かんだ涙を拭き取ろうとしたブラドーは、驚いたように自分を見つめるピートに気付く。

 「父さん・・・皺が」

 息子の指摘に、彼は恐る恐る指先を目尻に触れさせる。
 そこには深い皺がはっきりと刻まれていた。
 ブラドーの脳裏に忘れて久しかった青の妖精の言葉が蘇る。
 ソリスのことを太陽と評した彼女は、続けて彼にこう伝えていた。



 ―――その太陽は、貴男に緩やかな滅びをもたらす


 
 愛すべき者たちの笑顔。
 自分が太陽よりも眩しく感じたそれは、バンパイアの不死性を徐々に薄めていくらしい。


 ―――望むところだ・・・


 ブラドーはあの時と全く同じ言葉を胸の中で呟く。
 そしてブラドーは、何の心配もいらないとばかりに息子夫婦に不敵な笑みを浮かべた。
 ピートはその笑顔を見て、父が自分の人生に心から満足していることを確信する。
 そして彼は今後も続く長い人生で、時折その笑顔を思い出し、それを浮かばせた父の生き様をいつまでも誇りに思い続ける。
 それは、そんな微笑みだった。





 ――― 太陽を盗んだ男 ―――


     終


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