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VISITORS FROM THE ABYSS

休息の時


投稿者名:ちくわぶ
投稿日時:06/10/23


 〜ここまでのあらすじ〜


 ベスパとジークの二人は絶海の孤島アルマスで行方不明になったワルキューレ率いる部隊の捜索に向かうが、現地でマリアを発見、直後に謎の生物群に襲われてしまう。
 ジークは休眠状態に追いやられ、霊力をほとんど吸い取られて弱体化したベスパは、生き延びるため決死のサバイバルを開始する。そんな彼女を『デュナミス』と呼ばれる生物群が執拗につけ狙うのだった。



 用語・人物解説


 デュナミス:アルマス島にはびこる生物群の総称。他の生物と同化して進化する。
       蜂の化身であるベスパが天敵。

 エネルゲイア:デュナミスの進化形態。姿、能力とも比較にならないほど強力。
         ベスパの能力をコピーしている個体が複数存在する。

 シード:魔族が開発した情報記録装置。魂を保管することも可能。

 マリア:現在ボディが大破、シード内にて保護され、視力を失ったベスパの目の代わりをしている。




 第5話終了時のベスパの能力


     霊波砲:回復(威力弱)
    飛行能力:消失
    物質透過:消失
    妖毒生成:回復(威力弱)
    身体能力:大幅に低下
 物理・霊的耐性:大幅に低下
    温度耐性:消失










 






 全身を優しく包まれるような、心地良いぬくもりを感じていた。馴染み深いとは言えないが、知らぬ感覚でもない。あれはいつのことだったか――。


「う……」


 遠い遠い昔のおとぎ話を思い出したような気分と共に、ベスパの意識は覚醒した。ぼんやりした視界には年季の入った天井が見える。視線を動かすと、アンティークながら仕立ての良い調度品が並べられた部屋であった。古すぎる訳でもなく、嫌味に高級でもない雰囲気は何故か落ち着く。そう、これはアシュタロスが生きていた頃、日本のに構えた基地の雰囲気とよく似ている――身体を起こそうとして鋭い痛みを憶えたベスパは、胸元の傷口に目をやってハッとした。身に着けていた戦闘服は脱がされ、代わりにパジャマを着ている。傷のある胸と腕には包帯が巻かれ、丁寧な手当が施されていた。少し不審に思いつつも、ベスパは自らを包むやわらかな布地に再び身体を預けた。

 ――ここはどこだ? 一体誰が、何のために自分をここへ連れてきたのだろう?

 状況を考えて整理しようとしたが、ひどい疲れと気怠さに襲われすぐに断念した。ともかく今は休息を取ることを最優先にした方が良い――そう思い目を伏せようとすると、静かに部屋の扉を開ける音がした。反射的に飛び起きて身構えたベスパを気にせず近づいてきたのは、柔和で母性的な雰囲気を漂わせる女性だった。


「あら、目が覚めたのねソフィー。気分はどう?」

「だ、誰だって……うッ――!」

「だめだめ、まだ寝てなくちゃ」


 傷口を押さえて苦しむベスパを寝かしつけると、女性は優しく微笑む。四十を過ぎたくらいと思われるが、笑顔には愛らしさと張りがあり年齢を感じさせない。腰まで伸びたブロンドの髪はゆるいウェーブがかかり、母性的な雰囲気と馴染んでよく似合っている。


「あなた、ひどい怪我をして家の前に倒れていたのよ。本当に心配したんだから――」


 娘に言い聞かせるような口ぶりから、この女性が自分を誰かと勘違いしているのだろうとベスパは理解し、ひとまず言われた通りにすることにした。この状態で別人だと名乗っても得は無いだろうし、それを弁明する気力も失せるほどに疲れていた。


「何か食べたいものがあれば、遠慮無く言うのよ」

「……蜂蜜」

「えっ?」

「蜂蜜があるなら持ってきて」

「えっ、ええ、わかったわ。ちょっと待っててね」


 小走りのパタパタした足音が遠ざかって静かになり、しばらくすると同じ足音が大きくなって女性が戻ってきた。その手にはどこにでも売っている、ボトル入りの蜂蜜が握られている。差し出されたそれをひったくるように受け取ったベスパは、キャップを外しそのままゴクゴクと蜂蜜を飲み始めた。


「ちょ、ちょっと。大丈夫なの――?」


 目をまん丸にした女性の心配を他所に、空腹だったことも手伝ってベスパは一心に全て飲み干してしまった。彼女は空になったボトルを突き返すと、深く大きく充足のため息を吐いた。唇の端に付いた蜂蜜を指で拭って舐めると、濃い甘みと爽やかな香りが口の中に広がていく。
 蜂の化身である彼女にとって、蜂蜜は願ってもないエネルギー源であった。蜂蜜のカロリーは体内で素早く魔力に変換され、刃で貫かれた傷を癒す。もうしばらく休息を取れば、体力も元通り回復することができるだろう。
 空腹を満たしたことで急激な眠気が襲ってきたが、それに従う前に確かめておきたい事があった。


「……聞かせて欲しいことがあるんだけど」

「何かしら?」

「ここはどこかの……例えば軍の施設か何か?」

「いいえ、違うわ。ここはアヴィニオンにある私の家。街の中心からは少し離れているけど、緑が多いし眺めも良くて気に入ってるのよ」

「じゃあ、デュナ……黒くて大きな虫は?」

「あの変な虫はこの家には近づいて来ないわ」

「……なぜ?」

「私にも良くわからないけど、家の入り口にある古い魔よけが嫌いみたいね。見ただけで引き返していくのよ」

「そう。とりあえず、安全だと思っていいんだね」

「ええ、ここにはあなたを傷つけるものは何もないのよ」

「少し疲れた……もう少し寝ることにする」

「お休みなさいソフィー――」


 全てを信じたわけではない。だが、女性の言葉と眼差しは優しく温かかった。彼女は自分を誰と勘違いしているのか、何という名前でどんな人物なのか――危害を加えるつもりでは無さそうではあるが。そんなことを思うベスパの意識は、ゆっくりと深淵の闇に溶けていく――。









 ベスパとジークフリードがアルマス島に到着したのと同時刻――島の中央に位置する製薬会社サン・レオン社の研究施設内で、ドクターカオスはコンピュータのモニターに向かい機密情報へのハッキングを試みていた。カオスは指示を出し、キーボードやマウスを操作するのはマリアの役目である。
 アンドロイドの技術を応用した兵器開発の依頼を受け前金を貰ったカオスだったが、仕事の内容にいくつか不審な点を感じ取り、深入りを避けようという態度を取っていた。それがこのような自らを危険に晒すような行為をしているのは何故か。彼とて不死の術を極め、常人より遙かに長い時を過ごしてきた科学者である。直感や憶測だけで暴走するような若さはとうの昔に無くして久しい。
 研究に携わってわずか三日後。カオスは研究所が襲撃されるのを体験する。敷地の外に広がる荒野――大地に口を開けたクレバスの底から黒い生物の群れが絨毯のように広がって、研究所へ向かってきたのだ。その生物は、群生相によって黒色に変化したデュナミスに間違いなかった。兵士達によってデュナミスの群れは殲滅されたが、襲撃はその後も繰り返され、兵士達の被害も少なくはなかった。
 カオスは恐怖よりも、デュナミスが襲撃してきたという事実の方が気になっていた。何度か観察をした結果、飢えてエサを求めているのではなく、何らかの意志を持って行動しているのではないかという結論に達したからである。兵器の素材(マテリアル)となる怪生物デュナミスの生息地域や捕獲方法などについての情報は一切与えられず、それを依頼主であるアンリ博士に直接問いただしても、知る必要はないと口を閉ざすだけだった。
 近頃はより強力な個体が出現し、組織的に攻撃を仕掛けてくるようになったという。いよいよ異常な事態が迫ってきたと判断したカオスは、自ら真実を確認するため行動に出たのである。


「セキュリティ・コード解読。機密ファイルへの・アクセスに成功しました」

「良くやったぞ。思った通り、聞かされていない事実がごまんとありそうじゃな――」


 画面には謎の生物デュナミスに関する記録が全て羅列されていた。そして、カオスはこの生物が最初に発見された時期まで遡って調べ始める。無言で記録を読み続けていたカオスだったが、ある記述を発見して蒼白となった。


「これはまずいことになった……マリア!」

「データの記録は・完了しています」

「よし、今すぐこの島を出るんじゃ。急がんと大変なことに――」

「もう手遅れのようですがね」

「むっ!?」


 振り返ると部屋の入り口に、黒いコートと帽子を被った男の姿があった。カオスをこの島に呼び、兵器の開発を依頼した男――アンリ・カジミール。彼は特に感情を露わにするでもなく、深く被った帽子の奥からカオスとマリアを見つめていた。その背後からは、無数の武装した兵士が雪崩れ込み、周囲を完全に取り囲む。


「勝手なことをしてもらっては困ります。しかも我が社の極秘情報を無断で持ち出そうというのであれば、見逃すわけにはいきませんね」

「アンリ博士よ。研究を続ければどんな結果を招くか……お前は理解しておるはずじゃろう」

「技術革命が起こり、あなたのアンドロイド技術も世界に認められるでしょうな」

「本気で言っておるのなら、正真正銘の狂人と呼ぶしかあるまい。あれは魔物なんじゃぞ」

「……」

「あれの正体を知っておいてなお、なぜ研究を推し進めようとする?」

「――ドクター・カオス。あなたを拘束します」

「ふん……」

「そちらのお嬢さんも、無用な抵抗をせぬように。乱暴は私の望むところではありません」


 兵士達が銃口を向け、カオスとマリアに近づく。


「わしは不死身じゃが……穴だらけにされるのはゾッとせんな」

「殊勝な心がけですね」

「だが、マリアは別じゃ。お前らごときには決して止められんぞ」

「!」

「行けマリア! わしは足手まといになる。お前一人で脱出し、GS協会にこの情報を伝えるんじゃ!」

「イエス・ドクターカオス!」


 命令を受けたマリアは包囲を強引に突破、部屋の壁を破壊し飛び出していく。カオスが一人で脱出しろと命じたのには様々な理由があったのだが、説明している時間はなかった。とにかくこの研究所で行われていることを外部に伝え、その抑止力を招くことが第一である。ならば年老いた自分がわざわざ同行する必要はない。それに、カオスには知っておきたいことがもうひとつ残っていたのだ。
 マリアの脱出を許してしまったアンリはさほど取り乱した様子もなく、兵士達に指示を出す。


「彼女を逃がすな。手に負えぬようならあれを使いなさい。実働データを得る良い機会にもなるでしょう」

「はっ」


 帽子を外して埃を払うアンリは不敵な笑みを浮かべている。真っ白な直毛の髪を肩の近くまで伸ばし、どこか偏屈そうな印象のある男だった。カオスは、鼻くそをほじりながらその男を見つめていた。


「ずいぶんと余裕ですね」

「こういう状況には慣れとるんでな。ジタバタしても始まらんじゃろう」

「達観と楽観が混同しているように見えますが」

「お前のやっていることは世界のバランスを揺るがしかねん。こう言う時にはな、奇妙な『運』というものが働くんじゃよ」

「……私には理解できない次元の話ですね。兵士達、ドクターカオスを連行しなさい」

(マリア……)


 マリアは走った。本当はカオスの傍にいたかったが、彼の命令には従わなければならない。一刻も早くこの事実を外界に知らせて救援を呼び、自分もカオスの救助に向かわなければならない。群がる兵士達と銃弾の雨の中をかいくぐり、マリアはついに研究所の外へ辿り着くが、研究所で生み出された戦闘機械の前に破れボディを失ってしまう。
 幸運にもマリアは救助されたが、彼女を救ったのは人間ではなく魔族の兵士達であった。その一人ジークフリードとは共同戦線を張った事もあるのだが、ベスパとは敵対関係であった記憶しかない。デュナミスの襲撃によって深手を負った魔族の二人は窮地に陥り、マリアはベスパの目の代わりとなって協力することになった。
 マリアにとって魔族は友人と呼べる存在ではない。人類の大半にとってもそれが共通の認識だろう。だからこそ発言や行動を警戒し、監視していた。自分が知る情報も、うかつに知らせるわけにはいかなかった。
 カオスは今、どうしているだろうか。協力関係にあるベスパは、魔族でありながら思考が人間によく似ているということは分かってきた。もう少しデータを蓄積し彼女の力を取り戻せたなら、自分の使命を果たすこともそう遠くないだろう。
 カオスの元へ戻りたい――それだけがマリアの願いだった。









 夢を見ていた。
 その情景も言葉にも憶えはない。ただ、そこに見える映像と共に、かすかな感情が流れ込んでくる。


 戻りたい、戻りたい……自分があるべき所へ――。


 電波が途切れかかったラジオのような、かすかでどこか哀しい思いだった。胸の奥を締め付けられるような切なさと共に、ベスパは再び目覚めた。


(ヘンな夢……)


 身体を起こして胸元の包帯を外すと、刃で貫かれた傷はほぼ塞がっていた。腕の方も元通り動かす事ができるようで、痛みはない。傷跡はまだ残っているが、時間が経てばこれも消えるだろう。


(あのカマキリ野郎、よくも女の柔肌に風穴開けてくれやがって……次にやり合うときは三倍返しにしてやる)


 こみ上げてくる怒りをどうにか抑えて深呼吸をすると、ベスパはベッドから降りる。はだけたままになっていた胸元を直し、部屋の外へ出た。窓の外に目をやると日は傾き始め、太陽は水平線の上で真っ赤に燃え上がっていた。リビングに出ると例の女性がキッチンに立ち、鼻歌混じりで夕食を作っていた。


「おばさん、あんたって……よっぽどのんきなのか根性座ってるのか」

「まあ、目が覚めたのねソフィー!」

「その事なんだけど――って、うわっ!?」

「元気になって良かったわぁ。あなたにもしもの事があったら、ママ泣いちゃうんだから」

「いや、だから……」


 しがみついて泣き出した女性に困って視線を泳がせていると、煉瓦造りの暖炉が目に入る。その縁の上に写真立てがあり、飾られた写真にはこの女性と夫らしき男、そしてベスパにそっくりな若い女が写っていた。おそらくはこの夫婦の娘なのだろう。写真立ての縁には『愛する妻ジョゼフィーヌ、我が娘ソフィー』とサインが刻まれていた。


「それにしても髪が汚れちゃってるわねぇ。まずはシャワー浴びていらっしゃい」


 けろりとした表情でその女性――ジョゼフィーヌ――は顔を上げ、ベスパを半ば強引にシャワールームへ連れて行った。一方的に背中を押されて満足な会話も出来なかったが、これは嬉しかった。海に流され、戦いに次ぐ戦いですっかり身体は汚れており、気持ち悪いのをずいぶん我慢していたのである。そんなわけで、ここは素直に言葉に甘えておくことにした。
 衣類を脱ぎ、浴室に入ったベスパは蛇口をひねる。熱いシャワーを浴びると疲れも流れ出していくような気分だ。髪を洗っていると、脱衣所の方から声が聞こえた。


「着替え、ここに置いておくわね」

「ありがと」


 ベスパが曇りガラス越しに返事をすると、さらに彼女は言った。


「それからこの丸いの、何か大事なものなんでしょう?」

「ああ、そこに置いといて――」


 シャワーにすっかり上機嫌になっていたベスパは、その丸い物体のことをすっかり忘れていた。植物の種のような、胡桃に似た物体。それは見た目通りの種子などではなく、魔族が開発した情報記録装置『シード』である。ジョゼフィーヌがキッチンに戻った後、三つあるシードのひとつがかすかに蠢いた。


「こ、ここはどこだ……?」


 シードからひょっこりと顔を出したのは、手のひらに乗るくらいの大きさしかないジークである。ある異常を感じて姿を見せたのだが、ベスパの姿が見あたらない。周囲を見回してみても、何か壁のような物に囲まれてしまっている。天井は無いようなので、ジークは編み目のある壁をよじ登ってみることにした。


「ふむ、どうやらバスルームの近くらしいな」


 壁の上に辿り着いたジークの目の前には曇りガラスがあり、その向こうには鼻歌を歌っているシルエットが見える。声を聞いてみれば間違いない、ベスパの声である。少し安心して気を緩めた瞬間、足元がグラリと傾く。壁だと思っていたのは衣類を入れる籠で、スチール製のフレームで三段に分かれているタイプの物だ。その一番上にいたジークが身を乗り出したせいでバランスが崩れ、派手な音を立てて籠はひっくり返ってしまった。


「うわっ、ま、前が見えないぞ――!?」


 布のような物が体の上に覆い被さり、視界が真っ暗になる。必死にもがいていると蛇口をひねる音がし、続いて浴室のドアが開く音がした。


「なんだ、猫でもいるのか?」


 声がして、視界が明るくなる。覆い被さっていた布から這い出したジークは、それが女物の下着であることに気が付いて血の気が引いていく。ハッと気が付いて正面を見上げると、目の前には桜色に色づいた女の柔肌が。豊かなふたつのふくらみ、しなやかにくびれたライン。視線は降りて行き――しかも彼女が座り込んだ姿勢だったおかげで、ジークは『それ』を目の前で拝む位置。まさに言い訳ご無用待ったなしの状況であった。


「あっ、いや、違ッ……あああ――!?」

「い……」


 天国と地獄が足並み揃えて行進してくるのをジークは確かに感じ、心の中で絶叫した。


(姉さん事件ですッッッ!!)

「イヤぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 こうして、絹を裂くような悲鳴が盛大に響き渡るのであった。
 ジークは本体のシードもろとも力一杯投げつけられ、壁にめり込んでいた。ベスパはパジャマを両腕でかき集めてへたり込み、裸体の正面を隠しながら『見られた見られた見られた……』とひたすら呟いていた。




 食事の並べられたテーブルの上で土下座するジークを、ジトッと睨みつけているベスパがいた。額には井桁が貼り付いており、顔もまだ少し赤い。


「……最低」

「なんかもう、とにかくすいませんでした」

「どう責任取ってくれるわけ?」

「ひ、秘密は墓まで持っていく。ベスパが○○○○だったとは口が裂けても――」

「それ以上喋るなぁぁぁぁぁッ!!!!」

「ぐはぁぁぁぁッ!?」


 両手でギリギリと締め付けられるジークの姿をしげしげと見つめていたのは、ジョゼフィーヌであった。手のひらサイズの人物に初めは驚いていた彼女も、二人のやりとりを見てクスクスと笑い始めていた。


「それにしても変わった友達がいるのねぇ、こんなちっちゃいなんて」

「いや、そーゆー問題じゃないっていうか……」

「いつまでもボーイフレンドいじめてないで、席に着きなさいソフィー」

「……」


 幾度となく呼ばれたその名前に、ベスパは動きを止める。そしてゆっくりと振り返り、ジョゼフィーヌの眼を見つめて言った。


「……違う」

「えっ?」

「何度も言おうとしたんだけど――私はベスパ。ソフィーってのは別人だよ」

「あら、難しい冗談を言うようになったのねぇ」

「色々と面倒見てくれたことは感謝してる。だけど見たはずだ、私の傷と血を――」

「……」

「あれだけの傷を受けて死なず、紫の血を流す人間なんているはずない……そうだろ?」


 とぼけようとしていたジョゼフィーヌだったが、これには言い返すことが出来ず黙り込む。やがて彼女は顔を上げると、寂しい笑顔で呟いた。


「……ええ、わかっていたわ。あの子に会えるはずがないのに。ソフィーはもう――」


 寂しそうな表情でうつむいたジョゼフィーヌの姿を見ると、さすがにベスパも心苦しさを感じずにはいられなかった。


「悪かったね、嫌なこと思い出させちまったみたいで」

「いいのよ、本当に娘が帰ってきたみたいで嬉しかったわ。それにね――」


 ジョゼフィーヌは優しい母の眼差しを向け、ベスパの頬に手を差し伸べて微笑む。


「たとえ別人でも……あの子と同じ顔をしたあなたを放っておけるはずがないでしょ」


 胸の奥に突き刺さるような、不思議な衝撃をベスパは感じた。この気持ちをどう表現すればいいのか、言葉は出てこない。しかし、心の中を温かいものが満たしていくような気がしていた。


「お人好しな人間を一人知ってるけど……おばさんもかなりのもんだね」

「褒め言葉として貰っておくわね、うふふ」


 そんな彼女達のやりとりを微笑ましく思いつつ、ジークはテーブルの上から尋ねた。


「ジョゼフィーヌさん。いくつか聞きたいことがあるのですが」

「ええ、何かしら」

「この島にうろついてる虫の化け物。奴らがいつ、どうして現れたのか――知っていることがあれば教えてもらえますか」

「なぜそんなことを知りたいの?」

「私が連中にしつこく狙われてるからだよ。だから、奴らのことは何でも知っておきたいのさ」

「わかったわ、役に立つかどうか解らないけど……あれは確か――半年くらい前かしら。地下の洞窟から新種の生き物が見つかって、騒ぎになったことがあったの。これが世間に発表されれば大発見だって」

「地下の洞窟?」

「ずっと昔この島は海賊の隠れ家に使われていて、連中が作った地下道が今でも残ってるの。集めた財宝をそこに隠していたのね。それで、サン・レオン研究所の人達が洞窟を調べに行ったんだけど……戻って来るなり探索を打ち切って、洞窟も立ち入り禁止にしちゃったのよ。もちろん新聞にもニュースにも、あの生き物の話は出てこなかったわ」

「――変だね。あれだけゾロゾロ涌いてきたら、隠そうとしても無駄な気がするんだけど」

「最初は二〜三匹くらいしかいなかったらしいわ。だけど、あの日――あの生き物が見つかって丁度一ヶ月後、島に隕石が降ってきて、その直後からあの生き物がいっぱい、ワァーッて出てきたのよ」

「地下の洞窟……そこが奴らの巣なのか。だからあの時もクレバスから――」

「あの生き物は、群れになると凄く凶暴になって……それで多くの人が別の土地に避難していったのよ。他所からの船や飛行機も、立ち入り禁止になったわ」

「あなたは避難しないのですか?」

「……他に行く場所がないの。ここが私の家だから」

「しかし、危険では……」

「大丈夫よ。魔除けのおかげで無事に過ごしてきたし、蓄えもまだあるし。それに――」


 ジョゼフィーヌはかすかに哀しそうな表情を浮かべたが、にこやかな表情を取り戻して笑った。


「こんな状況、いつまでも続いたりしないでしょ。きっともうすぐ解決するわ」

「どーゆー根拠でそんなこと……」

「女の勘、ってやつ?」

「使いどころが間違ってるよーな……まあ、どうでもいいか」


 脳天気に笑うジョゼフィーヌにベスパも苦笑する。ジークは今までの情報を頭の中で整理しながら、さらに尋ねた。


「ところで、この島に空港は?」

「ここから北に進んだところに小さな空港があるけど……もう飛行機は残ってないんじゃないかしら」

「そうですか……」

「上手くは行かないもんだね……」


 わずかな期待も露と消えた二人は、残念そうに肩を落とす。しかしすぐに気を取り直し、ジークは顔を上げた。


「では、最後に――ベスパをここに運んできた人物をご存じですか?」

「えっ?」

「ベスパが意識を失ったのはここからずいぶん離れています。誰かが彼女をここまで連れてきたはずなのですが。あなたが怪物だらけの街を通り抜けたとも考えにくいですし」

「知らないわ。物音がして表を見たら、この子が倒れていたのよ。他には誰もいなかったわ」

(例の……マリアがベルナールと名付けた、奇妙なスーツの人物の仕業だろうか。しかし、何のために?)

「あ、その目は信じてないわね?」


 冗談めいた口調で言うジョゼフィーヌだったが、ジークもベスパも押し黙って考え込んでしまっていた。急に沈んでしまった空気を振り払おうと、ジョゼフィーヌはベスパを強引に椅子に座らせた。


「さあ、難しい話は後にして。冷めないうちに食べましょ」

「あっ、ちょっと――」

「いいから、いいから! 食べないと元気でないわよ」




 食事を終えた頃には、すっかり日も暮れて夜の闇がアルマスを包み込んでいた。夜も更けてジョゼフィーヌが寝静まったのを見計らい、ベスパは寝室のベッドに腰掛けてジークと話し合っていた。


「これからどうするつもり?」

「ある程度予想はしていたが、人間の乗り物には期待できなくなったな。我々の選べる選択肢は二つ。助けが来るのを期待して逃げ回るか、あるいは――」

「こっちから攻めていく」

「虎穴に入らずんば虎児を得ず、とも言うからな。失った能力を取り戻し、状況を改善していく方が賭ける価値はあるだろう」

「そうだね。逃げ回るのは私の趣味じゃないし」

「今の我々に必要なのは、敵をもっとよく知ることだ。連中の弱点が分かれば、対策も立てられるだろう」

「古い魔除けが嫌いだって話だけど」

「ああ、夜が明けたらそれも見せてもらおう。少し気がかりなことがある」

「どんな?」

「この家の周辺は強い霊気に満ちている。私がこうして長話をしていられるのも、お前の傷が短時間で回復したのもそのおかげだ」

「確かに……なんだかここにいると調子が良いわ」

「因果関係は調べてみないことには解らないが……とにかく、今夜はゆっくり休もう。明日はさらに激しい戦闘があるかもしれない」

「それで、次に向かう場所は――?」

「サン・レオン研究所だ。全ての発端はあそこにある」

「了解」

「その際にドクター・カオスも救助しよう。彼は事情を詳しく知っているはずだ」

『感謝・します。ミスター・ジークフリード。ミス、ベスパ』

「お互い様だからね。魔族は必ず借りは返すのさ」


 ベスパはベッドに潜り込み、窓の外を眺める。煌々と輝く月に照らされて、庭園が静かにその姿を浮かび上がらせている。風にそよぐ茂みの奥で、赤く燃える瞳が窓を見上げていたが、やがて音もなく姿を消した。


「ところで――ジークはそっちで寝て」

「ど、どうしてクローゼットに放り込む?」

「……寝ている間に覗かれちゃたまんないからよ、スケベ!」

『ミスター・ジークフリードは、スケベ・ですか?』

「あーゆーのをムッツリスケベっていうんだよ」

「あ、あれは事故なんだーーーッ!」


 ベスパはぷいっと顔をそむけながら乱暴にドアを閉め、念入りに鍵を掛ける。恥ずかしい出来事を思い出してかあっとなった頬を両手ではたくと、ベッドに戻っていくのだった。









 カオスが拘束された後、サン・レオン研究所は大規模な襲撃を受けていた。突如パワーアップした個体が率いるデュナミスの猛攻を受け、戦いが終わったのは日が暮れた後のことであった。始め物置のような部屋に押し込まれていたカオスだったが、アンリ博士の指示によって別の部屋に移された。質素な部屋であったが、生活に必要な物は一通り揃っていてカオスのアパートよりも快適である。


「当分の間、ここで大人しくしてもらいましょう。身の回りの世話は、私の秘書に任せてあります」

「サラと申します、ドクター・カオス様。必要な物があればお申し付け――」

「同居人じゃと?」


 一瞥した若い女性秘書には目もくれず、カオスは部屋に足を踏み入れる。奥に目をやると、薄暗い部屋の中心で椅子に腰掛け、本を読む男の姿があった。背中を丸めているためか、顔がよく見えない。確かめようともう一歩踏み出したとき、カオスはその異様な風体にぎょっとした。男は顔面を丸ごと覆う、不気味な鉄のマスクを被っていたのだ。


「それ以上近付かない方が良いですよ。心を読まれたくなければね――」




 


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