椎名作品二次創作小説投稿広場


ばらの花

第五話:狂って候


投稿者名:ライス
投稿日時:06/10/12


「おキヌどの」
 それはシロだった。扉を開けると彼女は浮かない顔に目を少し潤ませて、絶えずこちらに視線を向けていた。その思いもよらぬ事態にキヌもただ驚くばかりである。なにかがおかしい。ここにいるのは間違いなく、シロなのだが。
「どうしたの?」
 少女の不可解なまなざしが張り付いている。部屋と廊下の境目で向き合う二人。足元には部屋から伸びる影と廊下からの影が交差していた。
「今、大丈夫でござるか」
 シロの重々しい声。それが突拍子もなかったので、キヌは思わず頷いてしまう。
「良かった。ちょっとお話ししたい事が」
 優しく微笑んだシロ。だがその表情に明るさはない。目にも戸惑いの色が見えている。いつもの彼女からしてみれば、一大事だ。どうしたというのだろう。キヌも困惑したが追い返すわけにも行かず、彼女を部屋に入れて、扉を閉めた。
 シロの顔はずっと曇り続けていた。彼女は机の前で立ち尽くし、動こうともしない。それに話があると言っていたのにもかかわらず、一向に話さないでいる。キヌはその佇む背中を目の前にして、悩んでいた。彼女がここまで思いつめているのを初めて見るからだ。
 もちろん、その容姿は普段とまったく変わりがない。片方の筒がないジーンズ。腕まわりと襟がびりびりのTシャツ、首には精霊石のペンダント。そして太ももに触れるくらい長く伸びた髪。口を開けば、鋭く尖る牙がこぼれ、やかましくも元気いっぱいの彼女が本来の姿なのだが、今は元気さのかけらもない。明らかに様子が違うのだ。この異様な雰囲気の中、話をどう切り出すべきなのか、難しいところだった。しかし、お互いに黙っていても埒があかない。
「シロちゃん」
 そこでキヌはさりげなく発言を促してみることにした。シロは振り向いてくれたが、やはり押し黙ったままで、喋ろうとしない。踏ん切りのつかない表情で、言い出すのをためらっているようだった。それでも彼女は深刻な目つきで、じっと見ている。キヌは視線を合わせてみたが、すぐに目を逸らされてしまった。
 シロがなにかを言おうとしているのは分かる。だが彼女の声は声にならず、口ごもった。彼女は同じ動作を何度も繰り返した。彼女が反復する度、言葉にならない重みだけがキヌに伝わってくる。これでは話が先に続くわけがない。
「と、とりあえず、座ろっか」
 結局、キヌも後の言葉が出ないまま、ひとまずベッドへ腰を落した。シロも同じくそれを受けて、床に正座する。背がぴんと立って微動だにしない、凛とした姿。自ら武士と言うだけのことはあり、さすがに礼儀正しい。けれど、状況はまったく変わらなかった。彼女はなにも言い出すことが出来ず、困っている。キヌはその姿を脇目に手で口を押さえながら、あくびをした。疲れているので出来れば手短に済ませて欲しいものだが。そう心に思いつつ、静かに彼女の言葉を待った。しばらくすると、シロはようやく口を動かした。
「その……さっき、タマモから聞き及んだのでござるが」
 この一言で急に昼の出来事へ引き戻された。やはり、タマモは見ていたのか。美神との一件があったせいで、キヌはその事実をひどく淡白に受け止めていた。忘れかけていた不安が的中した、嘘なんてつかなければよかった、とも考えた。でもそれだけで、他には何も感じなかった。
「ああ、その事」
 そして、キヌは冷静に相槌を打った。
「今日、先生と一緒に出かけていたというのは」
 答えを教えて欲しいという顔で、シロは見上げてくる。おぼつかない口調ながらも、毅然とした目つきだった。もちろん彼女は無知ではないし、美神が自分たちの関係を認識している以上、厄介な事にはするつもりはない。キヌは黙って頷き、それを認めた。
「そうでござるか」
 シロはしょぼくれた声で、落ち込んだ。よほどショックだったのか、会話もぷつんと途切れてしまう。再びの沈黙はキヌの眠気を誘い、彼女のまぶたは何度も落ちた。眠らないよう必死に我慢するが、どうも思考に意識が付いていってくれない。身体もけだるさを感じている。今すぐにでも眠り落ちてしまいそうだ。
 照明の乾いた光は輝き、部屋に時計の音が神経質に鳴り響く。秒針が一回りするまで六十回。時の進みは細やかに執拗で、じりじりと焦燥を駆り立てた。かち、かち、かち、と刻む音は決して止まず、何度鳴ったかすら覚えていない。果てしなく長い時間に思えたが、まだ十分も経っていなかった。それほどまで、部屋は静まり返っている。
 キヌはなにも言い出せずにいた。横島を先生と慕って、離れない彼女である。タマモからどの程度、聞いているのか判らないが美神以上に一筋縄でいかないだろう。考えただけでも気が滅入ってくる。
「拙者はとんだ間抜けでござるな」
 なんとか声を絞り出すシロ。太ももに乗せた両手を握り締め、うつむく。キヌは彼女の言葉一句一句に聞き耳を立てて、固唾を呑んだ。
「まったく馬鹿らしいというか。どうして気付かなかったのでござろうなあ」
 苦しそうに自嘲を吐き捨てる。シロのらしくもない姿に、キヌは自分に痛々しさを感じた。
「先生とおキヌどの、おキヌどのと先生……か」
 シロがぽつり呟くと、また言葉が止まる。しかし、話が再始動するのはさほど時間がかからなかった。
「ところで、おキヌどの」
「なに」
「先生とは、いつごろから?」
「うーん、二、三週間くらい前かしら」
「それはまた随分と最近のことでござるなあ」
「ええ、まあ」
 大したことない会話にもかかわらず、キヌは言葉を濁した。力の抜けた顔して、ぎこちなく笑う。シロも同じ顔だった。二人の座っている間隔は一メートルに及ぶか及ばないくらいだ。この妙な状況で二人はお互いの距離を確かめたが、無理に近づこうともしない。その様子がなおさらおかしかった。近いようで遥かに遠い。いつの間にかまた会話は途切れ、時計の音が目立ち始めていた。
 するとまたシロがおもむろに話し出す。
「一体、どうすればいいのでござる」
 それはか細い声だった。
「ずるいでござるよ、おキヌどの」
 姿勢は崩さないでいたが、彼女の横顔は脆く、崩れ落ちそうになっている。
「拙者は先生と一緒に散歩したりするのが楽しいし、それがいつまでも続けばいいと思ってた。けれどそれはもう無理になってしまったのでござる」
「なぜ? いつでも散歩は出来ると思うけど」
 それは違う、とシロは首を振った。
「今の先生にはおキヌどのがいるではござらぬか」
 穏やかに言い放たれた言葉はキヌへ降りかかり、なおも続く。
「拙者、先生の幸せを邪魔する事はしたくはないし、おキヌどのにだって先生との仲を引き裂くような事はしたくないでござる。でも!
「納得できないんでござるよ。どうして隠したりしたのでござるか? おキヌどのがこんなことをするとは思わなかったし、おキヌどのにはちゃんと言って欲しかったでござる。これでは拙者、悔やんでも悔やみきれず……」
 うなだれるシロの姿を、キヌは静観するほかなかった。
「気付いたらいつの間にか蚊帳の外で、今までと同じように先生に無理言って、散歩に連れてってもらうことはおキヌどのに迷惑をかけてしまう……これからどう接すればいいのでごろうか」
「いつも通りで大丈夫よ、きっと」
「そんな馬鹿な。たとえ先生が良くとも、おキヌどのは先生が別の相手とずうっと一緒にいるのを見て、我慢できるのでござるか? 拙者だったら気が狂ってしまいそうでござる」
 確かにシロの言う事ももっともだった。
「現に拙者は我慢できそうにない……」
 彼女がそう言いかけたのに、キヌは戦慄した。身体的な力の差は歴然としている。戦うことになれば、ひとたまりないだろう。
「でも、その気持ちはぐっと抑えているから、安心してくだされ」
 苦笑交じりの悔しそうな声だった。見ると、シロの拳は腿の上で震えていた。
「おキヌどの、今ここではっきりとお聞きしたい」
 立ち上がり、シロはその声を途絶え途絶えに絞り切った。
「おキヌどのは先生を、横島先生を愛しているでござるか?」
「えっ」
 瞳を潤ませ、顔を真っ赤にして、彼女は目の前に立ちはだかる。
「おキヌどのが愛してるというのなら、拙者も諦めが付く。さあ、その口で言うてくだされ!」
 空間が歪みそうになった、今すぐに天地がひっくり返ってもおかしくない。眠気が混ざり、考えが宙に浮いては消え、脳の奥底へ埋もれてしまう。キヌは言葉に詰まった。シロの問いに答えたくとも答えが見つかっていないのだ。
「おキヌどの、さあ!」
 思い悩む中、シロの甲高い声が迫り来る。
「さあ!」
 それがキヌにはとても、とても耳障りに聞こえた。
「おキヌどの!」
 ひどく眠い。だんだんシロの声がただの喚き声にしか聞こえてこなくなってくる。キヌは答えををしつこく求める狼に我慢できず、すばやく立ち上がった。
「出てって」
 もうなにもかもがうんざりで、キヌはシロの背中を強く押し始めた。彼女の抵抗などは一切合財無視して、強引に扉の方へ押し切る。
「な、なんでござるか、おキヌどの」
「お願い。出てって」 
「でも、まだ答えを」
「出てって!」
 廊下にシロを追いやって、強く扉を閉めた。そして鍵を掛ける。
「おキヌどの、おキヌどの!」
 するとすぐ、扉は何度も強く叩かれた。理不尽に追い出されたシロの必死に抵抗する音が部屋の中に響く。キヌは聞く耳持たず、ベッドに乗って、顔を枕に潜らせた。これ以上は全てが煩わしく、苛立ちも抑えられない。とにかく休みたい、眠りたい。それが今、彼女の一番行いたい事だった。そしてベッドの上で意識が沈んでくると、同じように音も遠のいていった。


 ◇

 
 どんどんと音がする。断続的に何度も聞こえる。それが扉を叩く音であるのに気付くと、目が覚めた。
「おキヌちゃん、おキヌちゃん」
 誰かの呼ぶ声がして、鍵のかかったノブを回す音がせわしなく響いた。眠たい身体をベッドからひっぺがして起きる。すると体内の骨がなにか不自然だった。糸で吊られた操り人形のように実感が湧かない。
「起きてる? 返事して」
 キヌは時計を見た。二時間ほど寝ていたらしい。視界がぼやけていたので、目を少し擦ってから、せわしなく瞬かせた。声はまだ続いている。扉の向こうにいるのはどうもシロではない。では、美神だろうか。だが声の雰囲気は彼女でもなかった。となると、残りは一人。
「タマモ?」
 キヌは視線を扉に向けて、反応した。ノックは止まり、扉の向こうからまた声が聞こえてくる。
「起きたの、おキヌちゃん」
「ええ」
 声はとうとうと話す。部屋越しなので普通の声でも聞こえづらく、キヌは耳を澄まして聞いた。
「お風呂、みんな入っちゃったから。あとはおキヌちゃんだけよ」
「そう……分かったわ」
 ベッドから立ち上がって、絡み合っている髪をかき上げた。それから腕を天井に伸ばして、起きぬけの身体をしゃんとさせる。その間、数十秒の開きがあった。話が途絶えるだけでも、時間は長く感じるものだ。タマモに対しては、なんともばつの悪い反応だっただろう。
「……じゃあ私、部屋に戻るから」
「待って」
 キヌはタマモが立ち去ろうとするのを、急いで引き止めた。どうしても聞きたいことがあるのだ。
「どうかしたの」
 すると扉の向こうで歩き出したスリッパの音が止まる。キヌは続けた。
「今日の事、シロちゃんに話したって本当なの」
「ああ、それがなにか?」
 素っ気ない口調だった。タマモはなにがいけないのといった風で、その様子が声に現れている。どうやら悪意で行ったのではないらしい。だがあの時、こちらから口止めすることはしていないので、タマモからシロへそれが伝わったのはキヌ自身の責任だった。タマモに悪気がないからなおさら悔やまれる。彼女は唇を甘噛みし、苦々しさを味わった。だが、それだけでは心が治まるはずもない。
「どうして?」
 我慢できなかった。感情に任せ、彼女は口を動かす。
「さっきまでそこにシロちゃんが立ってたわ。私に問い詰めて、追い出されて。扉を何度も強く強く叩いていたの。聞こえたでしょう」
「ええ」
 タマモが頷くのを聞いて、キヌは扉へ近付いた。 
「じゃあ、私たちに何があったか、あなたは分かってるはずね。もちろん誰のせいで起こったのかも」
「そうね、私だわ」
「だったら答えて。なんで言ったの」
「別に。たいして理由があったわけじゃないし」
 表情は見えないが憮然とした声で話すタマモ。キヌは困った。これ以上、聞きようがないのだ。彼女の行為が意図的ではないため、理由を求めようにも本人にも答えることが出来ない。
「話の流れからついぽろっと出ちゃっただけよ」
「それがいけないのよ、どうなるか予想が付かなかったわけじゃないでしょう?」
「私には関係ないわ」
 一瞬、耳を疑った。タマモの言葉が事も無げに通り過ぎていく。剣に貫かれたような感覚がキヌの全身に走った。
「なん、ですって」
 思わず声が震えた。動揺が隠しきれない。
「だってそうでしょう。おキヌちゃんやシロにとっては大事かもしれないけれど、私には意味がないわ」
「だからって、人に話すこともないわ」
「うっかり口に出ただけなのに?」
「そうよ!」
 キヌは荒らげて、タマモに叫んだ。
「変なの。なんでそこまで隠さなきゃいけないのか、よくわからないわ」
 タマモはため息交じりに言った。
「おキヌちゃんが好きでやっている事なんでしょ? その事に対して、私はなにも言うつもりはないし、関わりあう気もないの」
「勝手にしたらって言うの? ずいぶんとひどい言い草だわ」
「別にそういうことを言ってるわけじゃないんだけど。こういう状況になったのは、おキヌちゃん自身のせいじゃない」
 また彼女の言葉がざくりと来る。キヌはなにも言い返せなかった。振り返れば、振り返るほど、自分の下した決断で影を落としている。自分が作った状況でがんじがらめになって、言い知れぬ不安を感じていたのかと思うと、息が詰まりそうだった。
「もう、行くわ。それと言い忘れてたけど」
 タマモのうんざりとした口調が耳に響いた。
「洗濯物、取り込んでおいたわ」
 そう言い残して、足音は去っていく。部屋が静まり返り、キヌは扉を前に立ち尽くした。と、同時になにかがすっぽり抜け落ちていった。感覚としては亀裂が割れて穴が大きく出来るというよりも、間に埋まっていたものが元から存在などしていなかったように穴がくり抜かれている、という妙なものだった。
 足音が消えると、決まりきったようにキヌはベッドの上に用意していた寝巻きやタオルなどを拾い上げた。時刻はとうに日付が変わり、明日は学校が控えている。鍵を解き、扉を開けて、暗くなった廊下を一人歩いた。浴室へ向かっている。大きな喪失感を抱えながらも、彼女は普段どおりの生活を過ごすのに努めようとしていた。
 着くと、キヌは身に付けていた衣服を脱ぎ去って、浴室の扉を開けた。目の前にはタイル張りの部屋の中央に白いバスタブがあり、側面の壁には鏡とシャワーが取り付けられている。以前の浴室とは違い、ここの住居人が増えたため、美神が洗濯場と脱衣所と一緒に増築させていた。バスタブからは濃い湯気がもやもやと立ち込めている。
 シャワーの蛇口をひねると、湯が雨のように噴き出してくる。軽く全身に湯を浴びた後、彼女はシャワーを手に取って体全体に降り注がせた。胸、腹部、背中、肩、首筋、手足、そして髪。まんべんなく浴びると、風呂椅子に座り込んだ。シャンプーで髪を丹念に洗い、バスタブの湯を湯桶で掬い上げて、髪を洗い流す。リンスも忘れずに髪に浸透させた後、もう一度湯を頭から被る。
 スポンジに石けんを染み込ませ、泡立てた。白い泡でいっぱいになると、いつもどおり腕からこすり始める。肌色の見えるところはくまなく。背中は手の届くところまで、残りは柄のついたブラシでごしごしと。そして、またシャワーの蛇口をひねって、全身についた泡を落とした。密閉された空間は濃密な湯気で埋め尽くされ、室内の湿度は高まっていた。排水口に泡が流れてゆき、溢れた。
 最後に顔を洗い終えると、シャワーの蛇口を締めなおして、ようやくバスタブの中に身体を沈める。三人が入った後なので湯は溢れ出ることなく、キヌが肩まで入るとちょうどの水位を保った。
 ぽたぽたと、髪から滴り落ちてゆく水を見つめる。落ちた水は水面で波紋になって、広がっていく。静かなものだった。波紋が広がりきって、また水粒が落ちる。
 キヌはバスタブに寄りかかり、顔を見上げた。照明の白い光がまぶしい。すぐ横の壁にある窓の外は暗くてなにも見えない。伸ばしていた足をちゃぷりと動かし、膝を曲げる。彼女は窓をしばらく見つめていた。行き場のない暗闇は語りかけようともしない。するとまた足を伸ばして、彼女は大きくため息をついた。
 実体を帯びている身体。こうして、湯の中で熱を感じている事自体、幽体であった時には感じられなかった感覚だ。物に触る事は出来ても、皮膚に伝わってくる温度や感触というのは得られないものだった。生身と幽体ではこうも違うものだろうか。
 湯に浸かる身体をうずくまらせて、目を閉じた。静かな浴室には彼女だけがいる。外から聞こえる音もなく、ずっと沈黙する。湯が少し冷めるまで、キヌはしばらくそのままだった。
 風呂を出て、タオルで身体を良く拭くと、下着を身に付け、寝巻きに着替えた。濡れた髪はドライヤーで乾かす。そのあと、洗面所で歯を磨いた。浮かない顔をした自分を見つめながら、やるのも億劫であるが仕方なかった。コップに用意した水で口をすすぎ、風呂場の電源を全て切ってから、部屋と戻る。
 引き出しからブラシを持ち、姿見の前で椅子に座りながら、髪をとかし、ゴム止めで束ねた。やはりここでも映る表情は優れない。いい加減、嫌になってくるが相手は自分なのでどうしようも出来なかった。明日の授業の教科書を鞄に詰め込み、時計の目覚ましをセットする。ベッドに座り込むと、静かな部屋を見回した。机や本棚、クローゼット、カーテン、窓、やや広い空間を一人、ぼんやり視線を泳がせる。
 視線が中央に来ると、シロがそこにいたことをじっと思い出した。扉に目が行くと、さっきまで向こう側にタマモがいたこと、上の階で美神と言い争いの果てに手を上げた事を天井を見上げて思い返した。そして、なによりも横島とのデート。全て、今日一日の間にあった出来事である。とても長い一日だった。複雑な気分だ。やるせない心だけが残る。キヌは部屋の明かりを消して、ベッドへ仰向けになった。布団を被り、瞳を閉じる。眠りに付くのは案外、早かった。睡魔がほどなくやって来たので、ぐっすりと眠れた。夢は見なかった。


 ◇

 
 朝。平日通りに起きて、キヌは制服へ着替え終わると、鞄を持って、食卓の方へ向かう。テーブルの自分の椅子に鞄を置いて、台所にぶら下げていたエプロンを身に付けると早速、食事の支度を始めた。
「おはよう」
 今日は珍しく起きていたらしい美神が新聞を持って、台所に入ってきた。
「おはようございます、美神さん」
「なにか手伝う事、ある?」
 彼女を横目に、キヌはフライパンの目玉焼きがじゅうじゅう悲鳴を上げるのを聞いていた。頭上では換気扇が回り続けている。
「じゃあ、食器をお願いできますか」
「はいはい」
 頷いて、美神は入り口脇の食器棚を開き、皿を取り出すと脇に置いてくれた。その後、彼女はコップとフォーク、バターナイフを持ち、冷蔵庫から牛乳やらオレンジジュースやらを出して、テーブルへと運んでいった。
 ばさりと新聞を置く音がしてから、テレビが点いた。その音が徐々に大きくなって、ニュースを読み上げている。キヌはレタスを割き、トマトと玉ねぎ、きゅうりを切って、サラダボウルに盛り合わせた。
 しばらくして、タマモとシロが起きてくる。
「あれ、珍しいでござるな。朝から美神どのが起きているなんて」
 シロのきょとんとする声が聞こえた。
「なによそれ。私が早起きしちゃいけないみたい言い方だわね」
「いや、そういうわけではござらんが……」
「雨が降ると、散歩できないものねえ」
「タマモ!」
「へえ、よく分かったわ。シロ、おやつ抜きね」
「そんなあ。拙者、そのような事は一言も」
「だーめ」
 向こうが他愛のない会話をしている間、オーブントースターでパンが焼きあがり、目玉焼きも人数分、出来上がった。それらを美神の用意してくれた皿へ、ゆでたウィンナーと一緒に乗せた。
 コンロの火を止めて、換気扇も止めると、キヌはエプロンを脱いで、元の場所にかけた。最後にコーヒーセットのスイッチを入れた後、盆にボウルと皿を並べて、台所を出る。
「ほんと、シロは引っ掛かりやすいわねえ」
「二人揃ってひどいでござる」
「だまされるのが悪いのよ」
「まあ今のはいいけど、仕事の時は気をつけなさいよ? そうやってだましに掛かる奴だっているんだから」
「それは肝に銘じておくでござるが……やっぱり納得いかんでござる」
 ぷうっと顔を膨らませて、シロは少し怒っていた。
「さっきから三人とも笑ってたけど、どうしたの」
「あっ、おはよう。おキヌちゃん」
 キヌは苦笑しながらやって来て、盆をテーブルの上に置いた。
「別に……」
 シロがそれに気付くと、急によそよそしくなった。キヌも彼女の態度に気付いていたが、やり過ごす事にした。
「ほら、おキヌちゃんが朝ご飯持ってきたんだし席に着いたら?」
 美神にたしなめられて、席につく二人。目玉焼きの乗った皿をそれぞれに渡した後、キヌはテーブルに置いてあったドレッシングを手に取った。何度かその瓶を振ってから、サラダに振りかけ、かき混ぜた。そして、用意した取り皿に分けるとまた三人に渡す。それが終わると彼女は席に座った。
「いただきます」
 朝食が始まると、食器がわめく。コップにはおのおのの好きな飲み物が入った。キヌは牛乳を入れ、パンにマーガリンを塗りたくっている。
 四人の間に、これといった会話はなかった。美神は新聞を読みながら食べているし、シロはテレビに夢中だ。タマモも横目で同じ画面をのぞき見ながら、もくもくと食べていた。割とよく見る光景である。特に話すわけでもなく、時間が過ぎていく。
 今の状況を眺めながら、キヌは順調に食事を進めていた。目玉焼きやサラダなどにフォークを踊らせて、トーストをひとかじりする。テレビを見て、美神の読んでいる新聞の第一面の大きな見出しをのぞいて、また自分の食事を続けた。淡々と目の前にある食べ物を口に運ぶ作業を繰り返し、全て終わると牛乳を飲み干した。
「ごちそうさまでした」
 彼女は自分の食器を片付け、台所の流しに置いた。食器を水につけた後、食卓の床に置きなおした鞄を持ち、洗面所で身だしなみを整える。櫛でさっと髪をとかして、制服の弛みを直した。定期は持ったか、ハンカチ、ティッシュはあるか、リップクリームは入れてあるか。あれこれ手短にチェックし、確認する。全て終わって、時計を見るとちょうど出る頃合となっていた。
「じゃあ、行ってきますね。美神さん、洗い物お願いします」
 洗面所から戻って、後のことを頼んだ。三人の食事も大体終わっていたが、美神の新聞読書はまだ終わっていないらしい。
「はいはい」
 新聞をめくりながらの生返事。とりあえず、聞いているようではある。
「お願いしますよ?」
「うん、分かってるって。いってらっしゃい」
「いってきます!」
 ちょっと不安なので念を押してから、キヌは元気良く食卓を後にした。階段を下りて、玄関を出ると、朝日を浴びた。太陽はまぶしいくらいに輝いて、この地を照らしている。今日も青空が出ていて、気持ちのいい天気だ。
 そんな快晴の中、背後の建物を彼女は見上げた。中では三人がまだ食卓にいるのだろうか。賑やかに話しているのだろうか。そういう風に考えるだけで胸が苦しい。見え上げながら、彼女には微妙な表情が張り付く。笑みのような、泣き顔のようなどっちとも取れない顔が現れていた。すでにキヌの心の奥と別に、身体は動き出している。いや、動かなければならなくなっている。昨日の出来事は彼女を揺り動かしたが問題は何一つ、解決していない。
(私は……)
 さっさと行かなければ、電車に間に合わなくなる。まだ一日は始まったばかりだ。何もかもが、うかうかしていられないのだ。
「行かなきゃ」
 心の影が落ちたまま、キヌは駅に向かって歩き出した。その背後には大きな影を作って、レンガ造りの建物がそびえ立つ。その中でかみ合っていた歯車はいつの間にか軋み、止まりつつある。ここに住む人々の誰もが気付いているが、気付かない振りを装った。つまり動き続ける事を選んだのだ。それがどれだけ危険を孕んでいるかは知る由もない。ただ日常と時間は人の思惑とはまったく関係なく、あるがままに過ぎ去っていくだけだ。 
 キヌは取り繕った日常をなにも分からないまま、心と身体をばらばらに動かせながら、今日を過ごす。自らの心に大きく穴が空いたのにもかかわらず、それでも前を見て、進む。そして何一つ不自由なく、静かに崩壊し続けるのだった。

 

 続く
  


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