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太陽を盗んだ男

第二話


投稿者名:UG
投稿日時:06/ 9/10

 前回投稿した「はじめに」についての記載を後書きに載せておきました。
 お手数ですがそちらからお読みいただけると助かります。

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 6頭立ての馬車が月の光に照らされ静かに佇んでいる。
 いつものように修道院を遠巻きに眺める場所にその馬車は停まっていた。
 近隣の村人に夜出歩く習慣があるのなら、それはお馴染みの光景となっていることだろう。
 しかし、この地域では未だ夜は人のものでは無い。
 ブラドーとソリスの逢瀬は人知れず重ねられ、今宵も二人は様々なことを語り合いながら夜の散策に出かけるはずだった。



 カリッ

 鋭利なペン先が、開かれた本のページに短い縦線を描く。
 馬車の御者座に腰掛け、マルコは先程から何かの記録を取っていた。
 修道院を遠巻きに見つめるその目には、明らかな退屈の色が浮かんでいる。


 「来んな・・・」

 「そーっスね」


 カリッ

 かき込まれた縦線の数が一つ増えた。


 「さっきから何をやっておるのだ?」

 「暇つぶしといいますか、記録作業といいますか・・・」

 「そうか・・・」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 「来んな・・・」

 「そーっスね」


 カリッ

 新たに引かれた斜線が、それまで書かれていた4本の縦線と交差する。
 ページには縦線4本と斜線1本のセットが8個出来上がっていた。
 不思議なことにその線を書く間、マルコは一度もインクを必要としていない。


 「たしか今日は水曜のはずだが」

 「ええ、水曜日ですね。もう木曜になってますが・・・」

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 「来んな・・・」

 「そーっスね」


 カリッ

 マルコの持っている本に41本目の線が引かれる。
 今日はソリスとの待ち合わせの日だった。
 最近、夜間外出が頻繁だったのを気にして1週間ほど間隔を空けたのだが、ブラドーには人生最長の一週間だったらしい。
 マルコは軽くため息をつくと、線をかき込んだページに左手の平を当てる。
 その部分が薄い光を発するとページは元の白紙に戻っていた。

 「ひとっ走りして呼んできましょうか?」

 そういうとマルコは持っていた本を腰のポーチにしまい御者座から降りようとする。
 完全に降りないのはブラドーが止めるのが分かっているからだった。

 口には出していないが、マルコは前回の逢瀬で二人に何かがあったことに気付いている。
 いつものように夜空に飛び立った二人は、いつもとは違う雰囲気を漂わせ馬車に帰って来た。
 修道院の近くまでソリスを送っていく車内でも二人はずっとその指を絡ませ、人目を気にしいつものように馬車で別れを済ませる時も、二人はなかなかその指を離すことが出来ないでいた。
 その日、二人は初めて唇を重ねていた。


 「バッ、馬鹿者! 貴族がそのようなまねを・・・しかしなマルコ」

 「なんです?」

 「ひょっとしたら水曜というのは、火曜から水曜に変わる時の水曜のことではなかったのか?」

 かなりの迷走を見せ始めたブラドーにマルコは苦笑を浮かべる。

 「それは無いっスね。先週の木曜日にお会いした時に確認しましたから」

 「なにっ!?」

 何気ないマルコの一言にブラドーの顔色が変わった。

 「お前は昼間、ソリスに会っているのか?」

 「偶然っスよ! ブラドー様の偶然とは違う正真正銘の!! 修道院に行ったときたまたまお会いしたんです」

 「なんでお前がわざわざ修道院に行くのだ!」

 イラつきを隠さないブラドーに、マルコはやれやれといった仕草を見せる。
 目の前の男は最も古く、最も強力なバンパイアにはとても見えなかった。

 「ブラドー様がいきなり薔薇園を作れって命令したからでしょ! 薔薇の苗木をかき集めるのに俺がどれだけ苦労したか・・・」

 「それが修道院とどんな関係があるのだ」

 「昔っから修道院には薔薇がつきもんなんすよ! 苗木を分けてもらいにいったら丁度其処にソリス様がいたんです・・・そう言えば」

 「なんだ?」

 やっと納得がいったのかブラドーの顔に落ち着きが戻り始めた。

 「薔薇園がブラドー様の命令だって話したらソリスさん嬉しそうでしたね。何かあるんスか? 苗木を分けて貰う間、ソリス様はブラドー様のことばかり話してましたが、そのことは教えてくれませんでした」

 「そうか・・・」

 ブラドーの表情に優しいものが混ざる。
 出会った晩、血の代わりに吸い取った薔薇の精気。
 ブラドーはしばらくそれを糧に暮らそうと思っていた。

 「ソリス様は野バラの生えている所まで教えてくれました。最近、監視が厳しいから案内は出来ないって申し訳なさそうに・・・だから、今夜姿が見えないのはそのせいじゃないっスか?」

 「フン、体調を崩しているのでなければそれでよい」

 ブラドーが落ち着きを無くしていた理由に気付き、マルコは冷やかし半分だった己を反省する。
 先程から落ち着きが無かったのは、会えないイラつきではなくソリスの身を案じたためだった。
 思えば野バラの自生地を紹介したソリスもブラドーの身を案じていた。
 マルコはその時、ブラドーの身に刻まれた呪いの話を聞かされている。
 ブラドーは毎夜呪いの痛みに耐えながら自分を空へ連れて行ってくれると、その話を単にのろけ話としか聞かなかった自分にマルコは腹が立っていた。

 「あ、いけねぇ!」

 マルコはたった今大事なことを思い出したかのような声をあげる。
 わざとらしい物言いだが、人の良い主人にはこれくらいで十分だった。

 「どうした?」

 「薔薇の苗木を貰うとき、忘れもんをしちまいました。ちょっと取りにいってきます」

 マルコはそう言い残すと、御者座から飛び降り走り出す。
 会えない状況が生じているのならせめて伝言だけでも伝えたい。
 彼はそれに適した能力を持ち合わせていた。








 早暁の祈りを終え修道院は静まりかえっていた。
 夜半に睡眠を中断して行う早暁の祈りを終えた後、修道女たちは再び日の出まで眠りにつく。
 マルコはその隙を狙い修道院に忍び込んでいた。
 伝統的な形式を持った修道院には、聖堂、修室、図書室、厨房などがあり、修道女たちは原則としてその施設の中で一生を過ごす。
 このうち「禁域」と呼ばれる場所は部外者の立ち入りが厳しく禁じられているが、ソリスが暮らす巡礼用の宿はその外にあるため大まかな場所の見当はついていた。
 マルコは前に来たときの記憶を頼りに巡礼者用の宿をめざす。

 「見張りはいないようだな・・・とすると」

 マルコは周囲に人気がないのを確認すると、物音を立てないように巡礼者用の宿に接近する。
 見張りがいればそれをソリス健康の証としてすぐに帰るつもりだったが、嫌な胸騒ぎを感じたマルコはソリスの部屋をめざすことにしていた。
 前に聞いた話では、北イタリアの地方領主の娘だったソリスにはそれなりの部屋を与えられているらしい。
 マルコは一番端の個室に辿り着く。その部屋からは微かにランプの光が漏れていた。

 キイッ・・・

 マルコの接近はとうに察知されていたのだろう。
 その部屋から吐き出された人影を見たとき、マルコは自分の感じていた嫌な予感が的中していたことを理解する。
 部屋の中から現れた男が着込んだ独特の僧衣にマルコは見覚えがあった。
 その独特の僧衣。悪名高き異端審問官の登場にマルコの全身に緊張が走った。

 「こんな時間に何の用かな?」

 男が片手をあげると物陰からシャラシャラと音を立てながら僧衣の一団が飛び出してくる。
 その物音から、マルコは男たちが僧衣の内側にチェインメイルを着込んだ戦闘部隊であることを察知した。

 「・・・・・・」

 「どうした黙り込んで。まさかソリスという娘を拐かしにきたバンパイアという訳でもあるまい」

 黙り込んだマルコに、男はサディスティックな笑みを浮かべる。
 ある程度の事態を予想し敢えて危険に近づいたマルコだったが、事態はマルコの予想より遙かに悪いようだった。
 異端審問官。教皇庁の権威を知らしめるために組織された集団は、拷問まがいの方法で異端の疑いがかかった者を取り調べることで有名だった。
 そして極めて政治的な判断で下される異端の判決は、東方との交易で力をつけている自由都市にとって驚異となっている。
 マルコは密かに覚悟を完了させた。

 「堪忍やぁーっ! ご主人様に言われて仕方なく忍びこんだんやーっ!!」

 マルコは目にも止まらぬ早さで土下座すると、ひたすら地面に額を擦りつけた。

 「ほう、ご主人様とやらがバンパイアという訳か」

 「違うっスよ! ご主人様は世間知らずの単なる遊び人っス!! ほら見てください」

 マルコは男の足下ににじり寄り自分の首筋を露わにした。
 そして、男の嗜虐心をわざと刺激するよう情けない泣き顔を浮かべる。

 「噛まれた跡がないでしょう! ソリス様にも跡は無いハズっスよ!!」

 「それは知っておる。既に調べたからな・・・」

 男の浮かべた好色そうな笑みに怒りが沸き上がったが、マルコはそれを無理に抑える。
 ソリスを取り巻く情報を仕入れるにはまだ行動に出るわけにはいかなかった。
 見苦しく泣き叫びながらマルコは男の足下にひれ伏す。
 素早く横目で周囲の状況を確認すると、松明を掲げた一人を覗いて全員がモーニングスターで武装している。
 イメージを考え通常は見た目のおとなしい戦闘槌を装備しているはずだったが、どうやら相手は最初から穏便にマルコを捕らえるつもりはないらしい。

 「それにそんなことは関係ないのだよ。ソリスはこの修道院の会員ではないのでな、バンパイアに連なる異端だと認めるまで容赦なく審問にかけられる」

 己の足下で固まったマルコを抵抗の意思を無くしたと見たのか男の口が軽くなる。
 マルコは情けない表情で男を見上げ、慈悲を請うような仕草を見せた。

 「そんな・・・ソリス様に会わせて下さい。会ってきちんと話せば無実だと証明できます!」

 「ソリスは2日前、ローマに向けて移送されたよ。お前と近くにいる主人もすぐに後を追わせてやる。ソリスが2日間審問に耐えれば生きて会うことも可能だがな」

 「何故なんです! ソリス様が一体何をしたというんですか!」

 「何をしたのかは問題ではないのだよ。強いて言えばソリスの出自が問題なだけでな」

 男との会話で得た情報がマルコの頭の中で目まぐるしく処理される。
 商人として生まれ各地を渡り歩いた彼の経験や知識が、今の会話から一つの仮説を導き出していた。

 「ギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)・・・」

 マルコが口にした言葉に男の表情が強張る。
 その反応からマルコは自分の仮説が正しいことを確信した。




 「貴様、何者だ・・・」

 核心を口にしたマルコに驚き、男が数歩後ずさった。
 彼は自分がマルコに乗せられていたことにようやく気付いたのだった。
 男の動きと反するように僧兵たちの包囲が狭ばる。
 マルコは不敵な笑顔を浮かべると腰のポーチに左手を伸ばした。

 「図星だったようだな。ソリス様の実家は小さいとはいえ十字軍に貢献し、古くからギベリン(皇帝派)に組する家系。その家系にバンパイアに通じる異端者が出たとすればゲルフ(教皇派)には格好の攻撃材料だろう。それに正式会員でないソリス様が異端と認められても修道会には傷がつかない」

 「先程の狼狽は芝居だったというのかッ!」

 男は手玉にとられた怒りのためか軽い目眩を感じていた。

 「偉ぶったヤツを油断させるには土下座が一番っスからね」

 マルコはふて腐れたようにその場に座り込む。
 その手に握られた本の存在に何人の者が気づいたことか。

 「ふざけおって・・・貴様、ギベリン(皇帝派)の回し者かっ! 全て白状するまで楽にはなれんぞ!!」

 「・・・いいっスけど長い話っスよ」

 「そうだ、素直に吐けば楽にあの世に送ってやる」

 男の言葉にマルコは思案顔になる。

 「そうっスね・・・手短にまとめても昼ぐらいまで。聞きますか?」

 「ふざけるなっ!」

 男は隣りに立っていた僧兵からモーニングスターを奪い取ると、渾身の力を込めてマルコに殴りかかる。
 しかし、振り下ろされた鉄球はマルコをすり抜け空しく地面にめり込んだのだった。

 「消えたッ!」

 消失したマルコの姿に、周囲を取り囲んだ男たちが口々に驚きの声をあげる。
 今の姿がマルコとブラドーが初めて会話を交わした場面であることを、男たちは知る由も無かった。

 ドサッ!!

 戸惑いを見せる僧兵のうち、松明を持っていた男がその場にゆっくりと崩れ落ちる。
 幻に気を取られていた男の両首筋に加えられたマルコからの攻撃―――左右から挟み込むように打ち下ろされた手刀に気付いたものはいなかった。
 そして、消えたマルコの代わりに残された、松明の炎を点火された握り拳大の球体にも。
 男たちは狐につままれたような心境で、既にその場を遠く走り去っているマルコの背を見つめていた。 

 「逃がすな! アンドレ!!」

 逃走に移ったマルコに気付いた審問官がそう叫んだ瞬間、足下に残された球体が爆発する。
 轟音とともに襲いかかる爆風と破片に、男たちは意識を失っていた。

 「カーン様、感謝します・・・」

 背後で起こった爆発に、マルコは以前仕えていた元の皇帝への感謝を口にする。
 炸裂した火薬玉は、元の皇帝クビライから譲り受けたこの時代における最新兵器だった。
 クビライは自分のことをカーン様と呼ぶマルコを殊更かわいがり、格闘術を始め東西貿易の粋である最新技術までも分け与えている。
 振り返りもせず逃走を続けるマルコ。ソリスを助けるためには僅かな時間も無駄には出来なかった。
 しかし、彼の逃走を妨げようと門の前にはアンドレと呼ばれた巨漢が立ちはだかる。
 逃走防止の役割なのだろう。2メートルを超える大男がマルコの行方を阻もうとしていた。

 「このまま逃げられると思うな・・・」

 「ゆっくり相手をしている暇はない!」

 マルコはそのままスピードを落とさず巨漢に突っ込んでいった。
 自分を掴まえようと低いタックルの姿勢に入った巨漢を踏み台に、マルコは大空を飛ぶ鳥のように宙に舞う。
 マルコに背中を蹴られ前のめりに倒れ込んだ巨漢。そこをめがけ膝を折り曲げた姿勢のマルコが急降下していった。
 無防備な巨漢の大腿部にマルコの膝がめり込み、大腿骨の砕ける感触がその膝へと伝わる。
 苦痛に喘ぐ巨漢に一瞥も与えずに立ち上がると、マルコはブラドーの元へ走り出した。
 マルコに傷つけた相手に対しての同情は無い。他人を傷つけようとする以上、自分も傷つく覚悟が必要だと彼は永い旅の間に学んでいた。
 それだけに受けた善意に対してはマルコは全力でそれに応えようとする。バンパイアであるブラドーに忠誠を誓ったのはそのためだった。
 既に彼の頭の中には、ソリスを奪い返すためのプランが練られていた。



 「なんだ、今の音は!」

 事態の変化に気付いたブラドーは修道院の近くまで飛んできていた。

 「ブラドー様! 急いで馬車にお戻り下さい!!」

 「一体何があった! ソリスは無事かッ!!」

 血相を変えて修道院へ向かおうとするブラドーをマルコは必死に止める。
 ソリスに本物のバンパイアが関係していることを今は知られたくなかった。

 「修道院にソリス様はいません、車内で説明しますからとにかく馬車へ」

 「一体何が起こったというのだ! 今すぐ説明せよ!!」

 マルコは状況説明を求めるブラドーを無視するように馬車へと急ぐ。
 今は、一分、一秒でも時間が欲しかった。
 そんなマルコの様子に何かを感じ取ったのか、ブラドーはマルコの後を追う。
 彼の胸にはかって一度も感じたことのない感情。不安が渦巻いていた。





 馬車に辿り着いたマルコは御者座に飛び乗ると、急いでブラドーの居城に進路を取る。
 ブラドーは珍しくマルコの隣りに降り立った。

 「ブラドー様、落ち着いて聞いてくださいね」

 マルコは慎重に、しかし早急にブラドーに真実を伝えようと口を開いた。

 「ソリスさんは異端審問にかけられるため、二日前にローマに連行されました・・・待ってください!!」

 空に飛び立とうとしたブラドーは、マルコの必死な叫びにその動きを止めていた。

 「あと僅かで夜明けです。それに、俺、ソリス様から聞いてるんです。ブラドー様にかけられた呪いのことを・・・仮に、ブラドー様が全力でソリス様に追いつけたとして、それからどうするんです!」

 「・・・・・・」

 ブラドーは言葉に詰まる。
 ソリスを抱え一晩で居城に帰るのは不可能だった。
 ここまで考えたとき、ブラドーの中で多少の楽観論が頭を持ち上げる。

 「余はソリスを噛んでいない。異端審問で無罪となることは考えられんのか?」

 「無理です・・・問題は本来の異端審問とは別な次元で動いています」

 マルコは重いため息をつくと、ソリスがギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)の権力闘争に使われたことを説明する。
 領主であった父親が失脚し、ソリスが故郷を追われた身の上であることはブラドーも聞かされていた。
 しかし、その血縁に纏わる権力闘争の系譜は、政治に疎い彼の理解の範疇を越えている。
 マルコの説明を聞きブラドーの表情が嫌悪に歪んだ。

 「我らより余程恐ろしいではないか人間というやつは・・・」

 「だけど其処に望みがあります。ソリス様がローマに辿り着く前に・・・まだ、ソリス様が本当にバンパイアと関係があることを奴らが知らないうちに・・・」

 「知らないうちに?」

 「横っ面を思いっきりぶん殴ってソリス様を奪い返すんです! ブラドー様、俺を信じてください!」

 マルコは隣りに座るブラドーに自分の計画を打ち明けようとする。
 それはブラドーの命を自分に預けろと言ってるに等しい計画だった。

 「これから、昼夜問わず全力で追跡すれば奴らがローマにつく迄には追いつけます。馬が疲弊したらその都度俺が調達します。だからブラドー様・・・」

 ブラドーはこれだけでマルコの計画を察していた。
 馬車での昼夜を問わない救出劇。それはブラドーが無防備な状態で昼間を過ごすことに他ならない。
 バンパイアにとって、守りを固めた居城以外で日の出を迎えるのは自殺行為に等しかった。
 しかし、彼は敢えてマルコの計画に乗ることにする。
 ソリスと出会った晩から、ブラドーは徐々に自分が変わり始めていることに気がついていた。
 ブラドーは不敵な笑みを浮かべるとマルコに手を差し出す。

 「お前を信じよう・・・城へ戻り余の棺を馬車に積み込んでからソリスを追う」

 「感謝するっス! ブラドー様」

 ブラドーは苦笑を浮かべ、自分の手をしっかり握りしめたマルコの手から手綱を奪い取る。

 「コラ、何を勘違いしておる。余は手綱を貸せと言っておるのだ」

 マルコが手を握りしめたのは、自分への感謝の表現であることにブラドーは気付いている。
 苦笑はソリスと初めて会った晩に自分がやってしまった勘違いを思い出してのことだった。
 ブラドーは手綱を緩めると馬たちに向かい一言だけ呟く。
 

 ―――走れ・・・


 ブラドーの呟きが起こした現象に、マルコは驚きと感動が入り交じった表情を浮かべる。
 限界以上の疾走を見せた馬によって、馬車はかってないほどの速度で走り出していた。
 世界有数の騎馬軍団や、イスラム社会の洗練された競馬を見たことがあるマルコにもこれ程の走りは見たことが無かった。

 「すげえ・・・何の変哲もない馬が」

 「明け方まで保てばよいと此奴らに伝えただけだ・・・馬を代える時は手厚い世話を頼んでやれ」

 「わかりました・・・だけど、それ程の腕前があるんじゃ俺を雇う意味は無かったんじゃ・・・」

 「馬鹿なことを言ってないで日の出まで車内で休め、昼間に命を預ける男が寝不足ではかなわん」

 台詞とは裏腹に馬車の速度を緩めようとしないブラドーに苦笑すると、マルコは器用に御者座からステップに移動し車内に体を潜り込ませた。
 そのまま棺の横に置かれた長椅子に身を横たえ、腰のポーチから先程の本を取り出す。
 何かを記録しようとした彼の右手が、聞こえてきたブラドーの呟きにその動きを止めた。

 「お前を雇った意味は十分あった。たった本二冊で思わぬ拾いものだ・・・」

 慌てて窓越しに声の主を振り返ったが、ブラドーはずっと背を向けたままだった。
 マルコは浮かぶ笑みを堪えようとはせず、右手に持ったペンに気を巡らしはじめる。
 そのペンは一度もインクを必要とすることなく、疾走する馬車の様子を本に刻んでいった。







 マルコとブラドーの追跡開始より数時間前。
 アッピア街道を使いローマを目指す一行は、あと残り2日という所まで行程を消化し、今夜の宿を街道沿いにある修道院に求めている。
 巡礼用に用意されていた宿坊は、ソリスと彼女を連行する異端審問官でほぼ満員となっていた。
 逃走と奪還への備えとして、ソリスの周辺には厳重な警備体制がひかれ常時数名の見張りが張り付く。
 しかし、それはあくまでも人間に対しての備えだった。
 彼らはソリスの相手を、ゲルフ(教皇派)にもギベリン(皇帝派)にも属さない単なる田舎領主としか思っていない。

 ソリスが監禁されている部屋の前を嘲笑を浮かべた女が通り過ぎる。
 女はドアの前に立つソリスについた警護に一礼すると、そのまま廊下の端にある彼女に与えられた室内に入っていった。
 裕福な巡礼者用に作られた個室に入ると女は目深にかぶったフードを外す。
 修道院でソリスの世話役をしていた修道女―――ルナだった。
 見る者に冷たい印象を与えていた切れ長の目は、今では狂気に近い光を放っている。
 ソリスを異端者として告発した彼女は、自分の計画が全てうまくいっていることに一種の全能感を味わっていた。
 ローマの教皇庁に直接ソリスの告発を行った彼女は、ローマから派遣された異端審問官に信仰心を絶賛され、重要な証人としてソリスと共にローマを目指している。
 今回の件で高い評価を受ければ、修道会の中である程度の地位が保証されるとルナは思っていた。

 トントン
 
 控えめなノックが扉を叩いた。
 用件を理解しているルナがノックに応じると、下働きらしき少女が桶とお湯を持ち部屋に入ってくる。
 無言でベッドに腰掛け靴を脱いだルナは、至極当然のように少女に向かって足を差し出した。
 少女はルナの足を桶に導くとお湯をかけながら清めてゆく。
 聖書に因んだ習慣であったが、長旅で汚れた足でベッドを汚さないようにという合理的な理由もあった。
 ルナは官能的な何かを感じながら少女の奉仕を受け続ける。
 思えばソリスが初めて修道院に訪れたとき、少女の役割をしていたのは自分だった。
 その時感じた屈辱にルナは一瞬顔を歪めるが、すぐに立場の逆転を実感しその口元に笑いを浮かべる。
 少女を見下したようなその笑いは過去の自分に向けられたものか。
 ルナは自分の運命の扉が開かれたように感じている。
 しかし、退出した少女が部屋の扉を閉めたとき、彼女の運命も閉じられることとなった。

 「これで、もう人は入ってこない・・・」

 突如現れた何者かに背後から口を塞がれ、ルナは叫ぶことも出来ず恐怖の相を顔に浮かべた。
 何とかして廊下に立つ警護に知らせようとするが、抱きすくめられた体は身動きすら出来ない。

 「先ずは礼を言っておこう・・・・・・ギベリン(皇帝派)の連中は証拠隠滅に金に糸目はつけんそうだ。この地に拠点を移したのは正解だった」

 証拠隠滅という言葉にルナの背筋に恐怖が奔る。
 背後の男が告発した自分を暗殺しやってきたとルナは思っていた。

 「殺しはせん。ただ、言うことを聞いて貰うだけだ・・・」

 ルナの目は、自分の口を塞いだ男の手が変化している様子を捉えていた。
 見えているのは親指と人差し指の根本。だがそれ以外の指も急速に成長を始め蛇のように、いや、ヒドラやイソギンチャクなど腔腸動物の触手の様にのたうちはじめる。

 「!・・・・・・」

 口元を押さえていた右手の人差し指がルナの口腔に滑り込み食道まで一気に貫く。
 拒絶反応にルナの全身が痙攣するが、すでに全身は触手に絡め取られ身動きすらままならない。 

 「クッ・・・・・・」

 食道を蠢く触手に耐えきれぬほどの吐き気がルナを襲う。
 耐えきれず漏れたうめき声は、口腔内を埋め尽くす触手によって止められていた。
 苦痛と全身を絡め取る触手のおぞましさにルナの全身に鳥肌が立つ。
 思わず流れた涙を、いつの間にかルナの前に回った男が淫猥な笑みを浮かべその舌で舐め取った。

 「安心しろ、苦しいのは最初だけだ・・・・・・人は快楽で狂わした方が言うことを聞く」

 男の口にした言葉に恐怖し、ルナの目が大きく見開かれる。
 やがて触手から分泌された液体が彼女の粘膜から吸収され始めると、ルナの意識は白濁していった。


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