椎名作品二次創作小説投稿広場


VISITORS FROM THE ABYSS

かすかな希望


投稿者名:ちくわぶ
投稿日時:06/ 7/ 3






 ピックアップトラックの運転席でベスパが吠えたのと、トラックとほぼ互角かそれ以上の体躯を誇る巨大カブト虫の角が向けられたのは同時だった。刹那、鋼鉄の杭のような角がフロントガラスを突き破り、運転席を貫いた。そのまま体当たりを受けたカブト虫は大きく仰け反って後退したが、まるで碇のようなかぎ爪を地面に突き立てて踏み止まると、貫いたままのトラックに逆襲せんとばかりに頭上に持ち上げて背後に投げ飛ばした。逆さまになって地面に落下したトラックの運転席はその自重で押し潰され、残っていたガラスも粉々になって砕け散った。空に向けられた車輪が弱々しく回転していたが、やがてそれも止まる。カブト虫はトラックの方に向き直ってそれを見届けると、勝ち鬨を上げるかのように関節を鳴らしていた。


「お前、少し気が早すぎるんじゃないのか――?」


 頭上から聞こえた声にカブト虫は身を強張らせる。しかし、硬い殻に覆われた身体は稼働域が狭く、顔を向けても声の主の姿は見えない。次の瞬間には、背中の上で何者かが装甲に衝撃を与え始めていた。
 トラックが激突する寸前、ベスパは携行用燃料タンクを手に車内から飛び出した。そしてカブト虫が気を取られ、トラックを投げ飛ばしている隙に背後から装甲の上によじ登っていたのだ。ベスパは装甲の境目を狙って力一杯ショベルを突き立ててみるが、隙間はぴっちりと閉じられていてまるで歯が立たない。数度それを繰り返したが、逆にショベルの歯が欠けてしまう有様だった。カブト虫は背中に取り付いたベスパを振り落とそうと、激しく身体を揺さぶって暴れ始めた。
 ベスパは揺れる背の上で必死にバランスを取りながら、燃料タンクの栓を外して中身をカブト虫の身体に撒き散らす。そしてライターを取り出すと、火を付けてニヤリと笑みを浮かべた。


「燃えちまいな、デカブツ野郎――!!」


 ライターを足元に放り投げると同時に、ベスパは思いきり跳躍した。直後、カブト虫の全身は一瞬にして炎上し、真っ赤な熱の塊に姿を変えた。苦しそうに悶えた後、うずくまって動かなくなったカブト虫を見つめながらベスパは額の汗を拭う。


「や、やったの?マリア、お願い」


 ベスパの要請に答え、体内のマリアがスキャンを開始する。ベスパの瞳は赤く輝きながら、敵の情報を映し出していた。


『霊圧が・上昇しています。ターゲットの生命反応に・変化は見られません』

「げっ!?」


 燃えさかる炎の塊が動いたかと思うと、一対の装甲が左右に跳ね上がり、内側に折りたたまれていた透明な羽根がうなり声のような音を立てながら羽ばたく。すると炎は全て飛び散り消えてしまった。悪寒を感じたベスパが慌ててその場から飛び退いた直後、収束した霊波の光線が放たれる。一瞬でも遅ければ、まともに直撃を受けて身体が蒸発していたに違いない。


『クリーチャーの活動が・一時停止したのは、酸欠状態による・混乱のためと思われます。装甲および体内に・ダメージを確認できません』

(くそっ、あいつは不死身なのか? いや、きっと弱点はあるはずだわ。もっと注意深く探すんだ――!!)


 ダメージを与えられなかったことに落胆しつつも、ベスパは諦めることなく敵の弱点を見極めようとする。しかし、文字通り火を注いでしまったカブト虫の怒りも相当なもので、考えるヒマを与えぬ程に光線を乱射してきた。どうにか動き回ってそれらを回避し続けるベスパだったが、生命力に等しい霊力を大きく失ったせいで持久力が底を付き、激しく肩で息をし始めていた。全身から汗が噴き出し、視界がぼやけてくる。


「はあ、はあ、はあ……も、もうダメ、限界……ッ」


 一方のカブト虫と言えば、まるで疲れた様子もなく無尽蔵のスタミナを見せつけている。そして、今度こそ止めを刺そうと角に霊気を集中し始めた。万事休すか――そうベスパが思ったとき、ある音が耳に入る。それは、勢いよく空気が流れる音だった。耳をすましてよく聞いてみると、それはカブト虫が息を吸い込む音だった。


「マリア、もう一度お願い!!」

『――スキャニング・および・動作パターンの解析完了。結果を表示します』




 ――エネルゲイア・ビートルタイプ――

 デュナミス進化形態のひとつ。
 重装甲と強大なパワーを持ち、高出力の霊波光線を発射する能力を持つ強敵です。
 霊波光線の発射直前に、腹部にある気門から大量の空気を吸い込む動作を確認。また、背面にある装甲内部の強度は非常に低く、ダメージを与えられる可能性大。ターゲットポイントにロックします。




(弱点は背中の装甲の下か……けど、どうする?どうすれば――)


 狙うべき場所が分かっても、それを可能にする手段がなければ何の意味もない。手にしているシャベルも装甲を貫くことは出来ず、太腿に巻き付けている手斧でもそれは変わらないだろう。残されたわずかな時間で必死に考えるベスパの目に、カブト虫の背後に横たわるスクラップと化したトラックの姿が映り込んだ。


(そうだ、もしかすると――!!)


 その閃きは、一気に形勢逆転を狙える最後の賭けだった。失敗したら最後、もうベスパに打つ手はない。しかし、黙っていても殺されてしまうのであれば、最後まで可能性を信じて行動するしかない。ベスパはわずかな望みに全てを託し、残された力を振り絞って駆け出した。
 カブト虫の赤い複眼に、真正面から走ってくるベスパの姿が映る。どんな感情でそれを見つめていたのか、あるいは感情など無いのか――確かな殺気だけをみなぎらせた昆虫の怪物は、躊躇うことなく止めの一撃を放った。
 光線が一条の軌跡を描き、虚空へと消えていく。跡には霊力の粒子が青白い光となって宙に舞い、その先には動くものの姿など見あたらない。


「運がいい方だとは思わないけど……悪運は強いらしいね!!」


 カブト虫の角の真下から腕が伸び、その角を掴んでベスパが姿を現す。角の真下はさっき乱射された光線によって地面がえぐられ、間一髪彼女はそこに滑り込んで――正確には落っこちたのだが――難を逃れたのである。突然の出来事に驚いたカブト虫は角を大きく振り回し、ベスパをトラックの方に投げ捨てた。荷台の横側に背中をしたたかに打ち付けたベスパは血を吐き、後輪の傍で座り込みうなだれた。
 もしかしたら、まだ小細工を弄してくるかもしてないとカブト虫は感じていた。感情も言葉も発しない怪物ではあるが、今までの抵抗からそれを警戒して様子を見る。しかし、仕留めるべき獲物が動き出す気配はない。
 今度こそ。今度こそ確実に仕留めるべく最大級の霊波を収束させ、大量の空気を吸い込むカブト虫。だが、その瞬間こそ怪物が致命的なミスを犯し、勝負の明暗を分ける事になる最後の一手だったのだ。


「勝負ってのはね……もっと鼻を利かせなきゃいけないんだよ――!!」


 うなだれていたベスパが突然顔を上げ、握りしめていたショベルを投げつけた。それはカブト虫の装甲に当たると硬い金属音を発し、火花を散らした。
 刹那、閃光があたりを包み込み、爆音と衝撃波が全てを吹き飛ばす。舞い上がった土と煙が風に流されていくと、外側に向けてひしゃげた一対の装甲と破裂した腹部を晒したカブト虫が横たわり、それこそ死にかけた昆虫のように痙攣を起こしていた。
 爆風によって浴びた墓土を払い落とすベスパの手には、トラックの給油キャップが握りしめられていた。彼女はトラックに叩きつけられた直後から死んだフリをして、傍らにある車の燃料タンクからガソリンを抜いて垂れ流していた。ガソリンは燃料の中でも揮発性が高く、すぐに気化する。そうして発生した空気との混合気を密閉し点火してやるだけで、大爆発を引き起こす。カブト虫は大量に混合気を吸い込んでおり、さらに炎を吸い込んでしまったために身体の内部で爆発が起こり、破裂してしまったのである。


「何の恨みがあるのか知らないけど……私にケンカを売るとこういう事になるんだよ。憶えときな」


 キャップを投げ捨てたベスパは吐き捨てるようにそう言い、命の灯火が消えかかる怪物をじっと見つめていた。
 能力を失いながらも仲間の言葉を信じ、考え、知恵を巡らせたベスパが掴み取った、大きな勝利であった。








「ジーク……やったよ……なんとか生き残ったよ――」


 苦しい戦いだった。マリアの協力と、ジークの言葉がなければ間違いなく死んでいただろうとベスパは思う。こんな時、いつもなら良き理解者である魔族の青年が『良くやった』と褒めてくれるはずだ。だが、その彼はいない。ここに立っているのは自分一人だけなのだ。これから先、戦いは続くだろう。はたしてそれを自分一人だけの力で切り抜けられるのか――勝利の喜びも束の間、胸に去来する不安に表情を暗くするベスパに、マリアが語りかけた。


『エネルゲイア反応・消失。霊力が分離しています。ミス・ベスパの、霊力の一部と確認。吸収可能です』

「私の霊力……そう、ひとつ取り返したんだね」


 巨大カブト虫が息絶えたと同時に、死骸から黄金の輝きを放つ霊力の塊が浮かび上がった。ベスパがそれに手を触れると、瞬時に熱を帯びた霊力が全身を駆け巡り、身体の疲れまでも癒してくれる。


『喪失した・霊力の一部を獲得。これにより・潜在能力の一部が覚醒。霊波砲の使用が・可能です」


 マリアの言葉に頷き手のひらに精神を集中すると、霊波が収束してゴルフボール大の球体となる。それを近くに転がっていた空き缶に向けて放つと、着弾と同時に霊力が弾け、空き缶を吹き飛ばす。しかし、ベスパは不満そうな表情を見せていた。


「全然ダメだね……とりあえず撃てるようになったってだけか」

『総合霊力値の低下が・出力に影響しているようです。連続発射時には・霊力の残量に・注意が必要です』

「それでも無いよりマシ、か――」


 頭上に高く登る太陽を見上げ、これからどうするか考えていたベスパの耳に、ふと誰かの声が聞こえた気がした。周囲を見回してみるが、人の姿などあるはずもない。気のせいかと思った瞬間、確かに小さな声が聞こえてきた。いや、正確にはごく弱いテレパシーのような、心に直接訴えかける声だった。それを確信した瞬間、ベスパは取り乱したように自分の身体を探る。そして胸元にしまっていたジークのシードを取り出すと両手の上に乗せ、茶色く硬い表皮に覆われた種子をじっと見つめた。すると手のひらからわずかな霊力を吸ってシードが発光し、その光の中から小さな男の上半身が姿を現した。


「……どうやら生き延びているみたいだな」

「ジーク!?」

「ああ……怪我はないか、ベスパ」

「う……」

「ど、どうした? どこか痛むのか?」


 うつむき、小さく震えるベスパを小さなジークは心配そうに見上げた。やがてベスパが顔を上げると、その眼に涙を滲ませて、ベスパは言った。


「し、死んじゃったかと思ったじゃない……生きてたなら、そう言ってよ……バカ」

「……心配をかけたな」

「ホントだよ……でも、よかった……」

「あの時、残されたわずかな霊力と記憶をシードに保存して消滅を免れたんだ。ちゃんと説明できなくてすまなかったな」

「でも、なんで今頃? もっと早くに出てきてくれたって」

「霊力がほとんど底を付いてしまっては、魂を維持するだけで精一杯なんだ。今こうして話せるのは、お前の霊力を少し吸収できたからだ」

「そっか、余裕が出来たから出てこれたんだね」

「だが、あまり長い時間は外に出ていられない。手短に状況を説明してくれないか」

「う、うん。わかったわ――」


 ベスパはクレバスに落ちてからのこと、そしてマリアから聞いたデュナミスと呼ばれる怪物のことなどについて説明し、それが進化したエネルゲイアという強敵に襲われたことも話した。一通りの話を聞いたジークはしばらく考え込み、傍らに横たわる巨大なカブト虫の死骸に目をやると彼女にそれを調べるように言うのだった。
 再び動いたりしないかと少し嫌そうな顔をしたベスパであったが、ジークには何か考えがあるのだろうと我慢し、死骸を調べ始めた。手近にあった木の枝で破裂した腹部の奥をつついてみると、破れて体液を噴き出す臓器の奥から小さな丸い物体が転がり出てきた。


「ねえ、これ……もしかして」

「間違いない。我々が使っているものと同じ……シードだ」

「まさか……!!」

「こいつの正体は、失踪した特殊部隊のうちの一人だろう。そのシードに、何かデータが残っているかも知れない。ベスパ、これから教えるコードで解読してみてくれ」


 ジークから解読コードを聞いたベスパは身を屈め、カブト虫のシードに指先を触れて霊波の波長を合わせた。すると、ノイズに混じった音声が聞こえてきた。




 ――ワルキューレ大尉を含む俺たち八名の任務は、この島で調査活動を行うことだ。人間どもに混じってそれぞれ島の各地に散らばっているが、大尉が定期的に巡回して連絡を取り合うことになっている。この教会の近辺では、めぼしい情報は得られなかった。そろそろ連絡の時間だが……ん? 何だ、あの黒い生き物は――




 記録はそこで途絶えていた。ジークの言う通り、この巨大なカブト虫が元は特殊部隊の兵士だったことが裏付けられた。しかし、なぜこんな怪物に姿を変え襲いかかってきたのか、その理由を知ることは出来なかった。ジークはそのシードを回収しておくようにとベスパに指示を出し、ベスパは先程のガレージから持ってきていた小さな布袋に入れて腰に結びつけた。


「――でも、どうして分かったの?」

「姉上の帽子だけが見つかったときから、ずっと気になっていたんだ。もし彼らが死亡したなら、死体や血痕、遺留品がもっと見つかっても良いはずだ。ところがあのクレーターの周辺には、それらしいものは何ひとつ見あたらなかった。ということは、死んだのではなく別の原因で消息を絶った……つまり――」

「ワルキューレ達は、あの黒い虫に身体を乗っ取られたってこと?」

「この事実を見る限り、その可能性が極めて大きいな。」

「じゃあ、あの昆虫人間たちはまだ他にもいるってことじゃない――!!」

「苦しい戦いが予想されるな。それに、ヘタをすればお前も彼らの仲間入りをしかねない。マリア」

『イエス、ミスター・ジークフリード』

「ここから一番近い人間の居住区はどこだ?」

『現在地より・北に約二キロメートルの地点に・小さな村があります』

「よし、ベスパはまずそこに向かえ。出力の落ちた霊波砲だけでは危険すぎる。村に行けば、少しはましな武器が手に入るはずだ。生存の確率は出来るだけ上げておくんだ」

「了解」

「それからマリア、君の協力には感謝している。この島から脱出できたなら、必ずドクター・カオスと引き合わせることを約束しよう」

『サンキュー、ミスター・ジークフリード』


 その時、ふいにジークの姿がブレ始めた。身体が半透明になり、シードの輝きも鈍くなっていく。


「ジーク、身体が……」

「そろそろ時間だ。私は再びシードの中で休眠状態に入る。次に姿を見せるのは、お前がさらに力を取り戻した時になるな」

「ちょ、ちょっと待ってよ、まだ聞きたいことが……!!」

「……死ぬなよ、ベスパ」

「ジーク――!!」


 その言葉を最後に、ジークの姿はかき消えた。手のひらの上には、物言わぬシードが転がっているだけだった。黙ったままそれを胸元にしまうベスパだったが、その表情には吹っ切れたような明るさが蘇っていた。
 ジークは死んでいなかった。肉体を失いはしたが、その魂はマリアと同じくシードに保存されていたのだ。ほんのわずかな邂逅――それでも、見知らぬ土地で力を失い放り出されたベスパの不安を和らげるには充分だった。嬉しさに再び滲みかけた目元を拭うベスパの胸に今、希望の光が宿っていた。










 北へ向かってベスパが歩いて行くと、草原の中を走る道路が姿を現した。痛んだアスファルトの上をしばらく進んでいたが、その間に自動車や人間とすれ違うことはなかった。やがて道路の遙か先に、民家が並んでいるのが見えてきた。
 目的地の村に足を踏み入れたベスパを出迎えたものは、時が止まったかのような静寂であった。建物などはつい最近まで人が住んでいた雰囲気があり、傷んでいる様子は見えない。しかし、どこをどう見ても人間の姿は見あたらなかった。


「誰もいない……住人がみんなどこかに行っちまうなんて、偶然なんだろうか」


 不審に思いながらも足を進めるベスパは、わずかに並ぶ商店を覗いていた。そして、海沿いの街にふさわしい漁具店の中を調べていると、レジカウンターの横にある物が立て掛けられているのを見つけた。年季の入ったポンプ式のショットガンであった。狩猟用かあるいは防犯、護身用に置いていたのだろう。それを手にとって各部の状態を確認してみると、手入れもきちんとされていて充分使えそうだ。レジの下にある引き出しの中には弾丸もいくらか入っており、現在のベスパにとって非常に心強い武器が手に入った。
 念のため鉄製の銛も失敬して表に出ると、どこかから物音が聞こえてきた。音のする方に向かい交差点の角を曲がると、通りの先にある民家の庭先に一匹の年老いた犬が杭にロープで繋がれたままになっており、その周囲には数匹のデュナミスがうろついていた。ただし、その身体は黒くはなく、黄土色をしていたが。ベスパは老犬が襲われているのかと思ってぎょっとしたが、デュナミスは特に興味を示すでもなく、それどころか老犬に近づきすぎて吠えられ逃げるという有様だった。


「どうなってるんだ……?」


 ベスパはこめかみに左人差し指と中指を当ててマリアに合図を送ると、うろついているデュナミスの分析を試みた。


『――スキャン終了。対象の・デュナミスに、凶暴性・および攻撃性を・確認できません。個体密度の・違いによる・相変異、孤独相であると・推測します。驚異レベルは・低位です』

「相変異って?」


 聞き慣れない言葉に首を傾げるベスパに、マリアは説明した。
 相変異というのは、ある種の昆虫が生息する密度によって違った成長を遂げる現象を指す。孤独相と群生相という二種類の様相があり、孤独相というのは密度の低い状態での、普段よく見かける姿を言う。そして群生相というのは密度が高い状態で成長し、体つきや体色に変化が起こっている姿である。基本的には身体が大きく、黒っぽい色に変色する。


「じゃあ、そこの虫どもは大して怖くないのか。それなら……」


 ベスパはそう呟くと、老犬の方へと近付いていく。そして銛を数度振り回して威嚇すると、デュナミスは予想通り反撃すらせず、一目散に逃げ出してしまった。ふう、と息を吐いた後、ベスパは老犬の傍に近付きしゃがみ込んだ。えさ入れにはもはや何も入っておらず、水も無い。すっかり痩せた老犬は寂しそうな声を上げて見つめ返していた。


「……お前も、ひとりになっちまったんだね」


 ベスパは太腿に括っていた手斧で首輪に繋がったロープを断ち切り、老犬を解放してやった。老犬は不思議そうな顔でベスパを見上げていたが、やがてどこかに歩いて行ってしまった。
 老犬の姿が見えなくなるまでそれを見届けたベスパは、ふっと口の端を上げて笑う。置き去りにされた犬に境遇を重ねるなど、魔族にあるまじきセンチメンタルな感情だ。それでも何故か気分が清々しいのは、自分がどこか魔族として『らしくない』からなのだろう。そう結論づけて歩き出そうとしたとき、マリアが尋ねた。


『……質問があります、ミス・ベスパ』

「ん、なに?」

『なぜ、犬を解放・したのですか?』

「なぜって……放っておいたら死んじゃうでしょ」

『……』

「わかってるよ。してることがらしくないのはね。けど……こう生まれたんだからしょうがないのよ」

『こう・生まれた……?』

「アシュ様に作られた私達はね……他の魔族に比べてずっと自由なんだ。ずっとね――」


 父であり創造主であるアシュタロスは、かつてこう言った。『作品には作者の心が反映される。意図しようがしまいが』と。ベスパは自分が作品などと思ったことはなかったし、道具として働けることに満足していた。滅びゆく運命を共にすることも、いとわなかった。しかしアシュタロスが倒れ、自分の暮らしを続けていくうちにあることに気が付いたのだ。自分達は道具として作られはしたが、決して縛られてはいなかったということに。もちろん霊的ゲノムコードという安全装置はあったが、彼女達の心は自由だった。その証が人間を愛して反旗を翻した姉ルシオラであり、滅びの道を知ってなお彼の人に付き従った自分自身でもあった。
 それらの事実と、現在の自分を重ね合わせてベスパは思う。きっとアシュタロスは、魂の牢獄にあって渇望した自分の望みを、私達姉妹に託したのではないかと。


「だからきっと、私は浮いちゃうんだろうね。魔族ってのはキッチリ役割決まってる奴が多いから」

『犬のこと・マリア・安心・しました』

「ふふっ、そりゃ良かったわ。私もあんたとは仲良くしておきたいからね」

『サンキュー、ミス・ベスパ』


 ひとつの身体に同居するベスパとマリアは、この出来事によって少しだけ心を通わせる。取るに足らないことに思えるかもしれないが、互いの理解は激しくなるであろう戦いを生き抜くのに不可欠なものである。そして、彼女達はまだ知らなかった。村を出てわずか東の地点、入り江を望む灯台に不吉な黒い影が集結し、蠢いていることに――。
  


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