椎名作品二次創作小説投稿広場


ニューシネマパラダイス

風邪の名はアムネジア


投稿者名:UG
投稿日時:06/ 7/ 3

※甘い話にはなりませんでした_| ̄|○




 それは闇の中を彷徨っていた。
 日本近海に現れた一隻の貨物船は、予定されていた航路を大きく外れ数時間前に漁船とのニアミスを起こしている。
 即座に連絡を受けた不審船警戒中の巡視艇に発見されるも、それは別段逃走に移るでもなく幽霊船のように暗い海面をただ進んでいく。
 無線と音声の両方で呼びかけながら巡視艇は接近を試みるが、明かりを消した船内は沈黙を保ち続けた。

 ―――丸

 サーチライトで照らされた船名から日本船籍の貨物船であることが分かった。
 素早く情報を照会するが、別段怪しい事実は浮かび上がってこない。
 ごくありふれた貨物船。今回は中国からの貨物を運んでいる最中らしい。
 巡視艇は貨物船に対する行動を、不審船対応から海難救助に切り替える。
 併走した巡視艇から数名の海上保安員が乗り込んでも、貨物船はなんの反応も示さなかった。


 「誰か、誰かいませんかーっ!!」

 乗り込んだ男が装備したライトが船内を包む暗闇を切り裂く。
 油断無く周囲を照らし状況の把握に勤めるが、貨物船内部からは密輸や不法入国を行う船に感じられるヒリついた緊張感は感じられない。

 「乗組員に何かしらのトラブルが発生したってとこか?」

 「ああ、後ろ暗い連中ならとっくに逃げ出しているだろう・・・お、あった」

 共に乗り込んだ相棒に応えながら、男は壁際に見つけた照明のスイッチを入れる。
 眩い照明に貨物船内から闇が追い払われた。


 バサバサバサ


 男は鳥の羽ばたきのような音を耳にする。


 ―――海鳥にしては大きいな・・・


 『あるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜』

 「!」

 遠ざかる何かの鳴き声。
 照明に驚いた海鳥にしては大きすぎる羽音と耳慣れない鳴き声に、男は言いようのない胸騒ぎを覚える。
 積み荷の一角に置かれた空の檻がその胸騒ぎを一層大きくしていた。

 「いたぞ! やはり要救助状態だ!!」

 船員を見つけた相棒の声に、男の意識から結びつきかけた檻と羽音の関係が消え去る。
 すぐに相棒の所に駆けつけると寝台の上で意識を失っている乗組員の姿が目に入った。

 「伝染病の可能性もあるな・・・」

 「ああ、ただの食中毒ならありがたいんだが・・・」

 空気感染をする病気だと自分たちの身も危険だった。
 ただの食中毒であることを願いながら、男はマニュアルに従い無線で状況を報告する。
 だが、無情にも男の願いは叶えられる事は無かった。






 ――― 風邪の名はアムネジア ―――






 深夜
 港に隣接した倉庫群
 航空貨物の増加に押されているものの、中国など近隣からの輸入貨物の受け入れ口としてそこそこの好景気に潤う波止場の一角。
 係留用の突起に足をかけ横島は夜の海を見つめていた。

 「霧笛が俺を・・・・」

 「台詞以上にその足の無理さ加減が悲しいわね」

 ジージャンを肩に担ぎ、雰囲気に浸る横島の台詞をしらけた様子の美神が遮る。
 多分、頭の中ではマドロスパイプくらいは銜えているのだろうが、ストレッチと見まごうばかりに伸びきった足が無国籍映画の主人公と明らかに異なっていた。

 「いーじゃないっスか! シロタマが獲物を追い込んで来るまで自分の世界に浸ったって・・・」

 流石に自分でも無理を感じていたのか、ふて腐れたように横島が足を突起からどけた。
 なぜか昭和のイイ男像を演じたがる横島に美神は呆れたような表情を浮かべる。
 最初はギャグかと思っていたのだが、この男はタキシードを着てトランペットを吹きながら登場するのを真剣に格好いいと思っている節があった。

 「今回は急な依頼で相手の素性がよくわからないのよ! 油断大敵! 気を引き締めて!!」

 「相手は動物霊だそうですけど、どんな動物なんでしょう?」

 バックアップ要員であるおキヌが今回の除霊対象について口にする。
 余程緊急の仕事らしく、倉庫内で目撃された大型の動物霊という情報しかなかった。

 「それが、要領を得ないのよね・・・目撃者がみんな寝込んでるって話だし。大型の動物という事しか・・・」

 「大型で良かったじゃないっスか!」

 横島の言葉に美神は驚いたような顔をする。
 妙に変則的な相手より真っ向勝負を仕掛けて来る方が対処しやすい。
 それに小型の数で押してくるタイプの場合は、おキヌの笛に頼る部分が大きくなってしまう。
 少ないリスクで仕事を終わらせるには、自分が常にオフェンスの中心になるべきだと美神は思っていた。

 「そうね・・・いつもの様にフォロー頼んだわよ。横島クン」

 数多くの経験を積んだ横島が、除霊に対して適切な判断を出来るようになったことを美神は改めて気付く。
 極力意識しないようにしていたのだが、最近の美神は横島の能力をあてにしたフォーメンションをよくとるようになっていた。



 ―――ウォーン


 シロの遠吠えが聞こえる。
 事前に決めておいた獲物を追い込む合図だった。
 それから数秒後、倉庫の向こうから大型の草食獣のような姿が現れた。


 ―――貘?


 美神はその姿を見て夢を食べるという伝説上の生物を連想した。
 素早く神通棍に気を巡らせ戦闘態勢をとる。
 追い込まれたことを悟った【貘】は、速度をあげ美神に突進してきた。

 「跳んだッ!!」

 美神との接触まであと10mという距離で、【貘】は空中に身を躍らせる。
 着地の勢いを利用し美神に体当たりを喰らわせるつもりらしい。

 「私に真っ向勝負を挑むとは良い度胸じゃない!!」

 美神は落下のタイミングを計り、全力の一撃を【貘】に叩き込もうとする。
 その瞬間起こった驚くべき現象に美神の目が大きく見開かれた。

 バサッ

 それまで何も存在しなかった【貘】の背中に鳥類と覚しき翼が出現する。
 急激に生じた浮力にタイミングを狂わされ、美神渾身の一撃が空しく空を切った。

 「しまっ・・・」

 美神に迫る【貘】の爪は草食獣らしからぬ鋭さを備えていた。

 「危ない、美神さん!!」

 横島は抱え込むように美神を地面に押し倒す。
 その背中を【貘】の爪がかすめ傷跡を残した。

 「大丈夫っスか!?」

 傷は浅いらしく、横島は美神の上からすぐに離れようとする。
 背後に感じる羽音から【貘】が再び攻撃を仕掛けようとしているのが感じられた。

 「大丈夫、動かないで・・・横島」

 美神は離れようとした横島を抱きかかえるように神通棍を構え直した。
 いま立ち上がると横島は再び【貘】の攻撃に晒される。

 ズン!

 一見すると、横島を胸に抱いているような姿勢の美神。
 そのすぐ真上で巨大な質量が神通棍に激突し落下の勢いを止める。
 再度自分たちを押しつぶそうとした【貘】に、美神は地面に支えるようにした神通棍をカウンター気味に叩き込んだのだった。

 『ガァッ・・・・・!!!!』

 肩を貫いた傷口から大量の血液が迸る。
 その血は倒れ込んだままの二人に降り注ぎ、美神の顔にも赤い飛沫を散らしていた。



 『あるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜』



 突如生じた苦痛に【貘】は奇妙な鳴き声を上げる。
 全身から細かな霧が放出されていた。
 謎の霧に怯んだ美神は、突き出したままの腕に【貘】の攻撃を受けてしまう。
 その一撃は美神の手から神通棍をはじき飛ばしていた。

 「チッ! 急所を外したようね、シロ、タマモ、逃がさないで! 隠れ家を突きとめるだけでいいわ!!」

 「了解!!」

 「わかったでござる!!」

 逃走の姿勢をとった【貘】は翼を動かし何処かへ飛び去っていく。
 美神はシロとタマモに追跡を命じると、自分の胸に顔を埋めたままの横島を荒々しく放り出した。

 「何時まで抱きついてんのよっ! 全く、たまに役にたったと思えば・・・・おキヌちゃん、水とタオルお願い」

 美神はおキヌが手渡したペットボトルの水で腕の傷を洗い流す。
 かすり傷程度の傷だったが、傷口に【貘】の体液を浴びた事が心配だった。

 「アンタも何時までもボーっとしていないで、ホラ、あっち向いて!!」

 美神は胸の余韻に浸っている横島に背中を向けさせると、素早くTシャツを脱がせる。
 背中の傷跡に付いた血を自分と同様ペットボトルの水で丁寧に洗い流した。

 「アンタの方が多少傷が大きいようね・・・おキヌちゃん、横島からヒーリング頼めるかしら?」

 クシュン!!

 夜風にあたりすぎた為か、美神の言葉におキヌはクシャミで返した。

 「あら、風邪? それじゃ無理しない方がいいわね」

 自分の体力が十分でないときに、生命力に干渉するヒーリングは行うべきではない。
 美神は旁らに置かれたリュックから消毒液を取り出し自分の腕に振りかける。

 「え、ああ、急に寒気がしましたがこれくらい平気です・・・」

 おキヌは美神の腕を掴み傷口に霊波を送り込む。
 美神の腕から鈍く疼く痛みが消えていった。

 「ね、平気でしょ! 次は横島さ・・・」

 そう言って横島の方へ歩き出したおキヌは一歩目でよろけてしまう。
 凄まじいまでの寒気と倦怠感がおキヌを襲っていた。

 「大丈夫か! おキヌちゃん!!」

 倒れ込もうとした自分が横島の腕が支えられたのをおキヌは感じる。

 「おキヌちゃん、しっかりして!!」

 自分を心配する声に何とか応えようとするが思うように声がでない。
 深い闇に引きずり込まれるように氷室キヌは意識を失った。









 早朝
 美神事務所
 寝息を立てているおキヌの額に、横島は固く絞ったタオルをそっとあてがう。
 美神と共に行った徹夜の看病が効いたのか、おキヌの熱は徐々に下がりつつあった。

 「どう?様子は・・・」

 ほんの少し席を外していた美神が再びおキヌの部屋に姿を現す。

 「さっきよりも更に落ち着きました・・・譫言ももう殆ど出ませんし」

 「そう・・・」

 美神はおキヌの耳に体温計を当て、表示された数値に安堵のため息をもらす。
 ひのめ用に購入した物だったが今回はかなり重宝した。

 「もう、殆ど平熱・・・下がらなければ救急の夜間診療も考えたけど、白井のオヤジの所が開いてからでいいようね」

 「そうっスね。書き置きは残したけどシロタマの事も気になるし・・・」

 おキヌの発熱による急な撤退。
 【貘】を追跡中のシロとタマモから未だに連絡はなかった。

 「少し早いけど朝食にしましょう・・・食べられるウチに食べとかないとね」

 二人は既に小康状態となったおキヌを、一人でも大丈夫と判断しダイニングに向かっていく。
 除霊対象である【貘】は取り逃がしたままである。
 ハードな一日の幕開けを予感し、二人は体力回復に努めようとしていた。






 「目玉焼きでいい?」

 ダイニングに辿り着いた横島は、中座した美神がご飯とみそ汁を用意していた事に気がついた。
 テーブルの上にはみそ汁の鍋の他に、香の物と焼き海苔が置かれている。
 いつもはコレにおキヌが作った卵焼きか何か別な一品がつくのが、美神事務所定番の朝食となっていた。

 「いや、時間も勿体ないし簡単に済ませちゃいましょうよ」

 横島はフライパン片手に卵を持った美神に近づき、その手から生卵を一つ受け取ると戸棚から小鉢を取り出す。
 卵を割りほぐす横島の姿に、美神は奇妙な表情を浮かべるとフライパンを足下の収納にしまい込んだ。

 「そうね・・・偶にはこういうのもいいかもね」

 美神も横島にならい小鉢で生卵をとき始める。
 チャカチャカという音が、炊きたてのご飯とみそ汁の香りで満たされたダイニングに響いた。



 「・・・なんか妙な感じですね」

 美神の作ったみそ汁を啜りながら、横島は香の物に箸を伸ばす。
 その言葉に美神は多少不機嫌そうな表情となった。

 「なに? 私の作ったみそ汁が気に入らないって言うの!?」

 「逆っスよ! 素朴でずっと食い続けたくなる味なんで・・・コレみたいに」

 横島はそう言うと、黄色く色づいた茶碗の中身をかき込むように口に放り込む。
 美神の作ったみそ汁は、その素朴な味に奇妙にマッチしていたのだった。

 「そう・・・一応、褒め言葉として聞いておくわ」

 その言葉に美神は少しだけ顔を赤らめ自分も茶碗の中身を口に運ぶ。
 お気に入りの味は、不思議なことにいつもの何倍も美味しく感じられていた。

 「いや、めちゃくちゃ褒めてますって! ホラ、美神さんパッと見、朝食にクロワッサンとか喰ってそうに見えますから」

 「もの凄くわかりやすい貧困なイメージね・・・要するに意外と家庭的って言いたい訳?」

 都合のいい女性像を頭に浮かべた横島を想像し、美神は気持ちが若干冷めていくのを感じる。
 味の好みとライフスタイルは別物だと美神は考えていた。

 「ん――違うかな・・・何ちゅうか説明が難しいんですけど、自然体って感じっス。こういう飯が好きな美神さんもアリかなって・・・」

 横島の言葉に美神の箸が止まる。

 「俺のお袋もバリバリのキャリアウーマンだったのに好きで専業主婦してますし。好きなことやるって格好いいじゃないですか・・・肩肘張らない生き方って何か憧れるんですよね最近」

 「マザコンは女に嫌われるわよ・・・・・おかわりは?」

 茶碗を空にした横島に向かって美神は手を差し出した。
 横島から茶碗を受け取ると、美神はわざと大盛りに盛りつけ横島に手渡す。
 それは照れ隠しと、私はアンタの母親じゃないというささやかな意思表示でもあった。

 「クロワッサンには出来ない芸当でしょ! 多分、今日は走り回って貰うから沢山食べときなさい」

 「うっ・・・しかし、昨日のヤツは何だったんでしょうね?四つ足のクセに翼が生えてましたし・・・・」

 大盛りのご飯に顔を引きつらせた横島は、数枚の海苔と香の物でご飯を消費する算段をたてる。
 みそ汁があれば何とかなる筈だった。

 「イメージ的には【貘】ね・・・」

 美神は横島の疑問に応えながら、自分の焼き海苔を横島の方へ差し出す。
 これで、ペース配分は相当楽になる。

 「【貘】ってあの夢を食べるってヤツですか?」

 「アレとは違うってことは確かなんだけど・・・」

 美神はそう言うと、腕に付いたひっかき傷を横島に見せる。
 数本の爪で擦られた傷が側腕部に走っていた。


 【貘】
 夢を喰う幻獣

 『山海経(せんがいきょう)』には、南方の渓谷に住み、牛ぐらいの大きさで、鼻は象のように長く、目は犀に似て小さく、牛の尾と虎の足を持つ。獅子を思わせる体毛は黄黒く、短い。と、記されている。
 美神と横島の体に残る傷跡は決して虎の爪痕では無かった。



 「どちらかというと別なキマイラ(複合生物)ね。草食獣の霊体をベースに鳥類の霊体が混ざって・・・結果的に動物園にいるバクにイメージが重なったって感じかしら」

 「なんか、あんまり怖くありませんね」

 「でも、昨日は危ない所だった。シロとタマモが居場所を突きとめてくれればいいけど・・・」

 未だ戻らない二人を思い、美神の胸に言いようのない不安が沸き上がっていた。
 その不安を確定させるように人工幽霊の声が響く。



 『オーナー、シロさんがお戻りになりました・・・ですが、どうも様子が』




 人工幽霊の言葉に、美神と横島は階下に走り出す。
 事務所のドアを開けたところで力尽きたのか、シロはその場に力なく座り込んでいた。

 「シロっ、一体どうした!!  熱っ!」

 シロに触れた瞬間、あまりに高い体温に慌てる横島。
 規模こそ違うが、昨夜のおキヌと同じ症状だった。

 「それに、タマモはどうしたのっ!?」

 美神の呼びかけに応えるように、シロはようやっとという動作で自分の懐を開く。
 そこには獣形態となり意識を失ったタマモの姿があった。

 「追跡している途中で・・・急に熱を出したで・・・・」

 「シロッ! しっかりしろ、シロッ!!」

 仲間の所にタマモを届け安心したのだろう。
 シロは緊張の糸が解けたように意識を失った。

 「美神さん、タマモを頼みます」

 スポーツブラがむき出しになった懐に手を突っ込むことになったが、気にしている状況ではなかった。
 横島はシロの懐からタマモを取り出し美神に手渡すと、自分は火傷するように熱いシロの体を背負って屋根裏部屋を目指す。
 そして、屋根裏部屋に向かうため事務所を通り抜けようとした美神と横島は、事務所の中央に立ちつくすおキヌの姿を目撃した。

 「おキヌちゃん! 意識が戻ったのね!!」

 未だ夢の中にでも居る様子のおキヌに、タマモを抱いたまま美神が近づいた。

 「・・・おキヌちゃん?」

 立ちつくすおキヌの様子に美神が感じた違和感は、おキヌの口にした言葉によってすぐに肯定される。

 「ここは何処なんですか?・・・それに変なんです私。何も思い出せない・・・あなたたちが美神さん、横島さんという人だとは分かるのに」

 その言葉は横島と美神を金縛りにした。










 「それじゃ、ドクター・・・分析よろしくお願いします」

 「うむ・・・報酬分の働きは約束しよう」

 美神事務所前
 美智恵に見送られ、カオスはマリアに抱えられ大空へ飛び立つ。
 おキヌに起こった異変を美智恵が知らされてから30分後の出来事だった。

 「さてと・・・先ずは2日前から確認され始めた【アムネジア】・・・記憶喪失症について説明しなくちゃね」

 ようやく美神たちに費やす時間が出来たというように、美智恵は背後の美神と横島を振り返った。
 美神からの連絡を受けた美智恵は、ドクターカオスを伴い驚くべき速度で美神事務所を訪れている。
 事務所に起こった状況を最初から知っているかのようなカオスは、事務所全員からサンプルを採取するとすぐに事務所を後にしていた。

 「この話は、おキヌちゃんにも聞いて貰った方がいいわ・・・二人とも、辛いだろうけど我慢してね」

 そう言うと美智恵は事務所にある応接用のソファに3人を集める。
 シロとタマモは未だに意識を取り戻していなかった。

 「まず、この地図を見てちょうだい」

 美智恵は東京23区周辺の地図をテーブルの上に広げる。
 所々マークされた赤い点の一つに昨夜の倉庫群があった。

 「おキヌちゃん、この地図が何処のモノかわかる?」

 「え、・・・東京の地図ですか?」

 自信なげな答えに美智恵は笑顔を浮かべ大きく肯く。
 その反応におキヌは心底安心したような笑顔を浮かべた。
 美智恵は何か言いかけようとする横島と美神を手で制し、地図から外れたテーブルのある点・・・海上に相当する場所をペン先で指し示す。

 「一番最初に確認されたのはこの辺り・・・中国からの貨物船が事の発端なの。海上を彷徨っていた貨物船の乗組員は皆、高熱を発した後に記憶を失っていたわ。そして、救助しようとした巡視艇の乗組員も同様に・・・」

 「という事は、他にもおキヌちゃんと同じような人が・・・」

 横島は驚いたように地図上にマークされた点を見つめる。
 美智恵は横島の問いに答えるように、確認された順に地図上の点を一つずつ指し示していく。
 最後の点は昨夜美神たちが訪れた倉庫群だった。

 「そう、Gメンに情報が知らされたのが昨晩のこと。感染者の記憶が失われるから感染経路や原因の特定が難しくてね・・・すぐにドクターカオスに相談し、情報を集めていた所にアナタたちからの知らせが入った。ドクターの分析待ちだけど、あなたたちの話から推測すると今回の原因は複合生物の霊体中で変異したウイルスの可能性が高い・・・ひょっとして伝説上の【貘】も似たような存在だったのかしらね」

 美智恵の言葉に、おキヌは訝しげな表情を浮かべた。

 「【貘】・・・夢を食べる動物ですよね。そんな事は分かるのに、何故私は自分の事がわからないのでしょうか?」

 「その辺は実際に体験して貰ったほうがいいわ・・・おキヌちゃん、お茶煎れてくれない?」

 「ちょ、隊長、無茶は・・・」

 美智恵は横島の言葉を無視し、おキヌを真っ直ぐに見つめる。
 彼女の要求は記憶を失ったおキヌの不安を理解した上のものだった。

 「私が・・・ですか?」

 「出来るわよ貴女なら・・・そうよね。令子」

 「ええ、おキヌちゃんなら大丈夫だわ」

 美神は美智恵の意図を理解したようだった。
 美神親子の笑顔に勇気づけられ、おキヌはキッチンに向かっていく。
 それはこの事務所に越してきて以来、一日に何度も見かけた光景だった。

 数分後
 一言も発さずにお茶を待つ美智恵たちの前に、良い香りを放つ緑茶が運ばれてくる。
 横島は美智恵を除くそれぞれの湯飲みが、使用者と一致していることに驚きの表情を浮かべた。

 「湯飲み・・・合ってました?」

 不安げなおキヌに横島はコクコクと何度も肯く。
 自分のイメージしている記憶喪失とおキヌの症状は明らかに違っていた。

 「良かった・・・でも、不思議ですね。何で知っているのか?何時知ったのか?少しも思い出せないのに・・・私はお茶のある場所や煎れ方を確かに知っていた・・・」

 「ホントに不思議っス。いつものおキヌちゃんが煎れるお茶と全く同じ味です」

 旨そうに、そして懐かしそうにお茶を啜る横島の顔を見て、おキヌは安堵の笑顔を浮かべる。
 名前と除霊事務所の一員としか分からない少年が、おキヌは妙に気になっていた。

 「何となく分かって貰えたかしら? 今回の【アムネジア】で失われるのは思い出の記憶なの・・・機械的に覚えている無味乾燥な知識記憶や体で覚えた記憶は失われていないのよ」

 美智恵はおキヌが煎れてくれたお茶を見つめる。
 その表面には、何か悪い冗談の様に茶柱が立っていた。
 おキヌが今後、強く生きていくためには状況の把握は避けて通れない。
 肩の力を抜くように息を一つ吐くと、美智恵は努めて冷静におキヌに現状を伝え始める。

 「おキヌちゃん、今までの思い出を失って不安なのはよく分かるわ・・・多分、今の貴女には自分の事ですら、遠い歴史上の人物か、ドラマのキャラクター程度の認識しか無いのでしょうから・・・」

 「それに変なんです・・・300年前に生まれたとか、暫く幽霊だったとか・・・自分の事が何かのドラマと混ざってるみたいで・・・」

 おキヌの戸惑いに流石の美智恵も言葉に詰まる。
 思い出を失っている今、いたずらに混乱を深めるのは得策で無いように思われた。

 「その辺は追々説明するとして・・・救いはこれから新たに思い出を積み重ねる事は可能ってことなの。だから、不安なのは分かるけど微かに残る知識記憶を頼りに、少しでも思い出を積み重ねていけばそのうち・・・」

 「そのうち元に戻るんですか?」

 すがりつくようなおキヌの視線に、美智恵は応えることが出来なかった。


 ―――そのうち新たな思い出によって自己を認識することが出来る。


 美智恵はそう言うつもりだったのだ。
 そんな美智恵の気持ちを察したのか、美神はおキヌの前に座り直すとその手を握りしめる。

 「今は待つしか無いわね・・・カオスもそのために頑張ってくれているみたいだし。カオスって覚えてる?」

 「ヨーロッパの魔王って事しか・・・マリア・・・さっきのロボットを造った人ですよね」

 カオスについて伝聞レベルでしか記憶されていないことに、美神は安堵と一抹の寂しさを覚える。
 事務所の一員としての記憶は特別なものでないかと期待していたのは事実だった。

 「そう・・・それ程凄い錬金術師が何とかしようと努力している。もちろん私もね。アナタは独りじゃない・・・例え今、思い出を失っていてもね。さっき、私の事を覚えてくれてたわね」

 「はい、美神さん・・・この事務所の所長さんですね」

 「じゃあ俺は?」

 期待に満ちた目で横島が美神の隣りに割り込む。

 「横島さん・・・この事務所でアルバイトしている人ですよね。それで・・・・」

 おキヌは顔を赤らめ横島から視線を外す。

 「それで?それでどうしたの!?」

 期待に満ちた表情で横島は身を乗り出す。
 自分の存在がおキヌの記憶に色濃く残っていることを横島は期待していた。

 「凄くエッチな男の子だって・・・・」

 シリアスな空気を台無しにするかのように横島はずっこけた。

 「あーっ!ホントに俺ってヤツはよーっ!!!」

 横島は血の涙を流しながら床にガンガンと頭を打ち付ける。
 自業自得なのだから誰にも文句は言えなかった。

 「このアホはほっといて、他の事務所のメンバーは覚えてる?」

 美神の問いに、おキヌは記憶をさぐるためきつく目を閉じた。
 本人を目の前にするなどのきっかけがないと、思い出すのが大変らしい。

 「シロさん?・・・・・人狼の」

 「そう、その子以外には?」

 決して焦らそうとはせず、美神は辛抱強くおキヌが記憶を掘り起こすのを待った。

 「タマモさん?」

 「ちゃんと全部覚えてるじゃない! それが事務所のメンバーなのよ!!」

 無味乾燥な知識かも知れないが、おキヌの心にみんなが残っていたことを美神は純粋に喜んでいた。
 おキヌはその様子に違和感を感じながら、さらに脳裏に浮かんだ人物について口にする。

 「全部?・・・じゃあ、ルシオラさんって人は?」

 おキヌが口にした名前を聞き、美神の顔が一瞬で凍り付く。
 その名前が皆にどれほどの衝撃を与えるのかをおキヌは忘れていた。
 しかし、救いようのない程凍り付いた空気は、唯一それを溶かせる男の声によりすぐに打ち消される。

 「アイツはもう此所にはいないんだ・・・彼女の妹は覚えてる?」

 それは何のわだかまりも感じさせない、ごく普通の思い出話のような口調だった。
 おキヌは水を向けられるまま、記憶の奥底を掘り起こそうと意識を集中する。
 暫く後、なぞなぞが解けたような表情を浮かべ、おキヌは横島の質問に答えた。

 「パピリオさんで正解ですか?」

 「正解! 覚えていて欲しいっていうのがパピリオの願いだったからね。きっと喜ぶよ・・・ありがとう」

 横島はおキヌに満面の笑顔を向ける。
 それは正に心からの笑顔だった。



 ガタッ!!



 屋根裏部屋の階段から聞こえた物音に一同の視線が集中した。
 振り返った視線の先では、金色のキツネが一同の視線を受け止めている。

 「タマモ、気がついたか?」

 横島に声をかけられたタマモは、身を低くし威嚇の姿勢をとる。
 その姿から、横島たちはタマモも思い出を失っていることを理解した。

 「・・・タマモさんも思い出を?」

 「ああ、どうやらそのようだ。あの様子だと自分が九尾の狐という事も覚えているかどうか・・・」

 おキヌはソファから立ち上がると笑顔をうかべ、威嚇の姿勢を解かないタマモにゆっくりと近づく。
 急に訪れた事態に戸惑う気持ちは良く理解できていた。

 「かわいそうに・・・怖かったね。でも、もう大丈夫なのよ。私たち、敵じゃないの」

 近づきながら口にしたおキヌの言葉に、横島は強烈な既視感に襲われていた。
 おキヌが口にした言葉は、あの日の台詞と全く一緒だった。

 「大丈夫。怖くないから・・・!」

 そう言いながらおキヌはタマモに手を差し伸べる。
 あの時と同じ台詞に、同じ結果を予想した横島は緊張しながら成り行きを見守った。


 ペロ


 タマモはおキヌの指先を一なめしただけだった。
 良い方へ予想を裏切られた横島はその光景をみて胸が熱くなる。

 「美智恵さん・・・私にもなにか手伝える事はありませんか? 思い出を失って不安がる人のために何か力になりたいんです」

 タマモを抱きかかえたおキヌの目には強い意志の光があった。
 美神たちはその光におキヌの強さの根源を見る。

 「こちらの方からも協力をお願いするわ。おキヌちゃんには、私と共に病院に運ばれてくる【アムネジア】にかかった人たちのフォローを頼みます。ついでに、シロとタマモも同じ病院で治療に専念しましょう」

 「ちょっと!ママ、それって・・・」

 抗議のニュアンスを込めた美神の言葉は、おキヌの入れたお茶を飲み干す美智恵の姿に止められていた。
 感染拡大を防ぐため、感染者の隔離を行っているのは美智恵の意思ではないらしい。

 「・・・・・分かったわ。カオスとの協力体制と言い、全て段取りは出来ているって訳ね。で、いつ出発すればいいの?」

 美智恵の庇護下に置かれたまま、隔離の事実を知らずに過ごせるのならばそれに越したことはないと美神は判断した。
 なにより、自分と横島が【貘】を追跡する際、おキヌたちだけで事務所に残していくのは不安だった。

 「今すぐにでも・・・先程の検査結果次第では、令子、横島君にも入院して貰うことになるわ」

 敢えて考えない様にしていた現実を突きつけられ、美神の表情が微かに強張る。
 おキヌたちが感染しているのならば、美神たちにもその可能性があると美智恵は言っているのだった。













 「何か、エライことになっちゃいましたね・・・」

 ポルシェの助手席で、沈黙を恐れるように横島が口を開く。
 感染者の隔離が行われている病院を二人が後にしたのは、ほんの5分前の出来事だった。
 横島はその時カオスから受けた説明を思い出す。






 「現在分かっていることは、【貘】から感染したウイルスが気管周辺の細胞で増殖する際に風邪に似た症状を起こし、その後、一定量以上に増殖したウイルスが脳に移動し記憶障害を引き起こすということだけじゃ」

 病院の一室
 数名の患者を撮った脳の断層写真を指さし、カオスは美智恵、美神、横島の三人に状況を説明する。
 海馬周辺にあるほんの小さな部分から前頭葉にかけて点在的に、カオスが丸をつけないと分からないような変化が写っていた。

 「救いとしては、今のところインフルエンザほどの感染力は認められておらん。うがいや手洗い等の常識的な手法で【アムネジア】の二次感染は十分防げると考えて良いだろう・・・おヌシらが遭遇した【貘】からの感染を除いてな」

 「と言うことは【貘】を退治すれば、感染者の爆発的な増加は避けられるわけね」

 先程から無言でカオスの説明を聞いていた美智恵が口を開く。

 「早期の囲い込みが功を奏している間に退治できるという前提でじゃがな・・・しかし、できれば生きたまま捕獲したほうが良いじゃろう」

 「どういうこと?」

 美智恵の問いに答えようとせず、カオスは断層写真を蛍光板から外すと美神と横島の方を振り返る。
 そして、癌の告知を行う医師のような慎重さで二人に向かい口を開いた。







 「全く、冗談じゃないわよ! 自分の体にいつ発症するか分からない爆弾が埋まってるっていうんだからね!!」

 ポルシェのステアリングを切りながら美神は忌々しげに呟く。

 ―――お主たちは【アムネジア】に感染しておる

 カオスの言葉を聞き、取り乱しそうになった自分を美神はほんの少しだけ悔やんでいた。





 「でも、私たちに風邪の症状はでていないわ!!」

 美神はカオスに向かい声を荒立てた。

 「慌てるな・・・といっても無理だとは思うが。お主たちの体内にあるウィルスは不活性な状態にあるのじゃ・・・もう一度、詳しく昨夜【貘】の除霊中に起こったことを聞かせてくれ」

 自分の体内に存在するウィルスは、何かの要因で活動を休止しているらしい。
 微かな望みを胸に、美神は昨夜の様子をカオスに説明し始めた。

 「やはりな・・・コレはあくまでも憶測じゃが」

 美神の説明を黙って聞いていたカオスは、美神の説明が一通り終わると慎重に言葉を選びながら己の推測を語り始める。

 「お主たちの体内に侵入した【貘】の体液が血清のような働きをしていると考えた場合、風邪の症状に至っていない説明にはなる。尤も、それがどの様な物質によるものか、そして、その効果がずっと継続し続けるかは【貘】の体液を直接調べん事にはわからんがな」

 「つまり、私たちの体内には何時活性化するか分からない【アムネジア】ウィルスが存在する。【貘】を生きたまま捕獲出来れば、発症を抑え続ける方法が見つけられる可能性もあるって事?」

 「その通り、そしてソレは、【アムネジア】ウィルスに今のところ唯一耐性を持っているお主たちにしか出来ない・・・出来るか?」

 「出来るかと言うより、やらなきゃしょうがないでしょうね・・・」

 カオスの問いかけに応えたのは美智恵だった。

 「現在オカルトGメンのメンバーが全力で【貘】を捜索している・・・捕獲ではなく退治するためにね。これから生け捕りを優先する指示に変えられたとしても、あくまでも可能な場合のみ。逃走される可能性があれば抹殺は避けられないわ。おキヌちゃんたちの様な人をこれ以上増やさない為にも」

 「・・・記憶を失いたくなければ、先んじて生け捕れということ?」

 美智恵の言葉に美神の表情が険しくなる。
 理屈では十分に理解できていたが、自分の記憶がかかっているだけに感情面での納得は中々に難しい。

 「出来る限りのバックアップはする。【貘】の居場所が分かったらすぐに教えるわ・・・でも、万一の時は」

 「いざというときには俺たちもそうしますよ・・・」

 横島の呟きに美神は言葉に詰まってしまう。
 それは、事務所でおキヌが口にした名前が大きく影響していた。
 あの時と同様の場面に出くわした場合、横島が再び同じ選択をすると宣言しているように美神には聞こえている。
 しかし、その考えを打ち消すかのように横島は力強くこう続けたのだった。

 「尤も、ウチの事務所は諦めが悪いのが信条ですからトコトン悪あがきはしますけど・・・そうですよね! 美神さん!!」

 ”ウチの事務所”という響きに美神の胸が温かい何かで満たされ始める。
 一緒に足掻くという横島に、美神は自分に本来の強かさが戻ってくるのを感じていた。

 「え、ええ・・・そうね。誰よりも先に【貘】を捕獲すれば何の問題も無いのよね!」

 「そうっス! いつも通り、何の問題もないっス!!」

 いつも通り・・・今の美神には何よりも価値のある言葉を横島は口にした。
 美神は目を閉じその言葉をそっと胸の奥に染み込ませる。

 「おキヌちゃんたちをよろしくね! それじゃ、速攻で【貘】を捕まえてくるわ!!」

 美神はこれだけ言うと、横島を伴い何処か吹っ切れたように病院を後にした。









 「しかし、思い出を失うってどんな気分スかね?」

 まるで人ごとのような横島の言葉に、美神は若干アクセルを戻し唖然とした表情を浮かべる。
 美神の目には、自分の感じている焦りを横島が感じてない様に映っていた。

 「この前ウチで見ていった映画のこと覚えている?」

 美神はたまたま仕事が早く終わった日に、夕食と共に見たTV映画の事を口にする。
 普段は夕食後すぐに退散する横島も引き込まれ、ついつい遅くまで事務所に居残ることになっていた。

 「ああ、ニューシネマパラダイスっスか! ありゃあ、良い映画でした・・・特にあのラストシーンは泣けましたね」

 その映画は故郷を離れ映画監督として成功を収めた男が、慕っていた映写技師の男の死を知らされ葬儀に向かうところから始まる。
 30年ぶりの帰郷に様々な追憶に浸る男。初めて明らかになる未だ心に残る失恋の真相。
 そして、ラストシーンの映写技師が男の為にとっておいたフィルムは、見るものに強烈なノスタルジーを体験させる。

 「あのラストシーンを最初に見たらどうかしら?」

 「へ? そりゃ、訳の分からんキスシーンの連続にしか・・・成る程、よく分かりました」

 ラストに流れるフィルムは、男の少年時代、検閲でカットされたキスシーンの連続だった。
 劇中で描かれるソレに関してのエピソード無しでは、ただのキスシーンの寄せ集めでしかない。

 「思い出はその人の感情や感覚を作る上でとても重要な要素よ! 絶対に失う訳にはいかないわ・・・」

 「美神さん・・・」

 アクセルを踏む美神の横顔を見ながら、横島は美神が自分たちとの思い出を大切にしているのだと考えていた。

 「初めて億を超える仕事をやったときの達成感、時給にすると3億だったあのボロい仕事の満足感、エミの仕事を潰してやったときの爽快感・・・どれも、大切な思い出よ」

 「・・・・・・・」

 聞かなきゃ良かったと後悔する横島。
 横島はソレが美神の照れ隠しであることに気付かないまま、話題を逸らすためにずっと疑問に思っていた映画のワンシーンを口にする。

 「そう言えば、あの映画の中で一つだけ分かんなかったエピソードがあるんすよ! 美神さん、映写技師がした兵士と王女の話、覚えてます?」

 それは、恋になやむ主人公に映写技師が話した寓話だった。
 熱烈にプロポーズを続ける兵士に王女様が約束する。
 100晩の間、バルコニーの下で立ち続けたら貴男のものになると。
 兵士は立ち続ける。幾晩も、幾晩も、ぼろぼろになりながら。
 90日を越える頃には涙も枯れ果てていた。
 そして、99日目の夜。
 彼は突然バルコニーの下から立ち去っていく。
 映写技師の男は最後までその理由を語らなかった。

 「覚えているわよ・・・それがどうかしたの」

 何か含むものがあるのか、美神の返事は歯切れが悪かった。

 「映画の中で主人公が謎解きしてましたけど、どうもしっくりこなくって・・・」

 心を寄せる女と離ればなれになった主人公は、兵士の気持ちを映画の中で説明する。
 100日立ち続けた後に王女が約束を反故にすることを恐れた兵士は、99日目で王女のことを諦めたのだと。
 そうすれば、あと一日で王女は自分のものになったと思い続けることが出来る・・・・
 主人公はそう言うと、彼女の思い出が残る故郷を捨て新天地へ向かっていくのだった。

 「そんな事で納得できないっすよ普通・・・映画の主人公みたいに他所で成功したとしてもね」

 「そうね・・・アレが正解だと映画の中でも言っていないしね。私は・・・」

 何かを言いかけた美神の目が、サイドミラー越しに何者かの視線を感じ鋭い光を放つ。
 巧妙にローテーションを組んではいるが、霊能力者の勘を誤魔化すまでには至らない。
 アクセルを踏み相手の出方を確かめると、ある程度だが相手の規模が予想できる。
 病院を出てからずっと、2台のセダンがポルシェに張り付いていた。

 「さてと、【貘】の行方を捜す前にやることができたようね!」

 「尾行っスか・・・」

 美神の口調から尾行に気付いた横島は、ソレを相手に感じさせないように後部座席のリュックに手を伸ばす。
 尾行を排除することのみを考えれば、低級霊を吸引した札を何枚か破ればすむ話だった。

 「ダメよ! 折角向こうから情報を持って来てくれたんだから、このまま昨日の倉庫でおもてなしをしましょう」

 「何処の誰か分からないのに・・・リスクが高すぎませんか?」

 相手の正体が分からないうちに敵対行動をとるのは得策ではない。
 横島は【貘】以外の問題出現に頭を抱えたくなっていた。

 「いいのよ、後手に回った御陰で守りには入れない。何かしらの可能性があればソレにかけるのも一興よ!」

 美神はそれ以上スピードを上げることはなく尾行をつけたまま港を目指す。
 新たな事態に美神は覚悟を決めていた。









 美神と横島は倉庫群に辿り着く前に行動を開始した。
 倉庫群手前でポルシェを降り、コンテナが大量に積まれた港の一角を見鬼君片手に探索し始める。
 その姿は、昨夜【貘】が逃走したルートを逆に辿っているように見えた。

 「何をしているんだ?あの二人は?」

 遠巻きに停められたセダンの後部座席で流暢な英語が響く。
 初老のアングロサクソンが放つその声には、何処か苛ついた響きがあった。

 「彼女が手に持っているのは一種のセンサーです。おそらく捕獲対象の逃走経路としてあの場所を調べているのでしょう」

 助手席に座る東洋系の男が、双眼鏡から目を離さずに初老の男の疑問に答える。
 上司であろうアングロサクソンは、霊能関係の知識に疎いようだった。

 「全く、悪い冗談としか思えん悠長さだな・・・日本政府も、我が国も・・・衛星の使用許可はまだ下りんのか?」

 「すぐには無理でしょう、隣国で起こっているミサイル発射騒動の監視でフル稼働です・・・しばらくの間は人海戦術でやるしかありませんね」

 「人海戦術? すまんが私はその言葉の意味を長いこと誤解していたらしい」

 初老の男はすぐ後ろに停まっている同型のセダンに皮肉っぽい視線を向ける。
 今回、美神の尾行に付いたのは二台のセダンに分乗した6名だけだった。

 「広く都内に人員を配置していますからね・・・クリーチャーの目撃情報がありしだい、虎の子の霊能チームを急行させる体制は出来ています」

 「気長に待てる状況ではないぞ、我が国の抱える問題を一気に解決する可能性をあのクリーチャーは握っているかも知れんのだからな・・・不審船に関する無線傍受から手に入れた千載一遇の好機。手放すにはあまりにも惜しい」

 「しかし、初手を失敗した我々には待つしかない事も確かです」

 男の言葉には若干の棘があった。
 初老の男は焦りを抑えるため自身も双眼鏡で美神たちを監視する。
 微かな霊気片も逃さぬよう、ゆっくりとした足取りでコンテナの間をすり抜ける美神と横島。
 積み重ねられたコンテナが作り出した碁盤状の地形を、ときに消え、ときに現れながら二人は作業を続けていく。
 単調な光景の連続に監視者の神経が弛緩した頃、二人は監視者に対して驚くべき行動に出ていた。

 「チッ、どうやら気付かれていたようです」

 自分たちに向けられた「アカンベー」に東洋系の口元が歪む。
 それと時同じくして、運転役の男が美神のポルシェに起こった異変に気付いた。

 「大変です! 目標の車が移動を始めました」

 「二人が乗り込んだ形跡は!?」

 「ありません!!」

 男の頭の中でめまぐるしく現在の状況が駆けめぐる。
 先程まで観察していた二人が、実像か虚像かで撮るべき行動が変わってくる。
 しかし、男にはそのどちらかを判断することは出来なかった。

 「クソッ、二手に分かれる! とにかくコッチはあの車を追うんだ!!」

 リーダーらしき東洋系の指示に従いセダンが急スピードで発進する。
 しかし、美神のポルシェは更に凄まじいスピードでその場から遠ざかりつつあった。





 その場に残った方のセダンからは若い白人と東洋人の二人組が飛び出し、美神と横島が消えた付近を探索に向かう。
 もし二人が隠れていた場合は、どんな手を使ってもクリーチャーに関する情報を聞き出す。
 それが男たちに与えられた最優先任務だった。

 ――― 汚れずに帰ってくればいいが・・・

 運転席に残った男は、先程飛び出した二人の性癖を思い出しうんざりした表情を浮かべる。
 必要以上に浴びた返り血で汚れた車内を洗うのは、何度やっても良い気分ではない。
 既に男たちが向かってからそろそろ20分が経過する。
 二人がその性癖を満足させるにはもう少し時間が必要だった。

 「ん?」

 自身の想像によって吐き気と共に分泌した大量の唾液。
 それを吐き出そうと窓を開けた運転手の目に、ゆっくりと近づくコブラの姿が映る。
 多くのカーマニア垂涎の的である美しい流線を供えたボディに、男はそのコブラが無人であることを失念していた。
 魅力的な女性を振り返る少年のように男は視線を泳がせ、すれ違うコブラのテールランプを見つめる。
 そして、急に開いたトランクから飛び出す無数の低級霊に襲われ男は意識を失った。









 「凄いッスね! アイツら低級霊相手に全然ビビってませんよ!!」

 「ビビるどころか喜々として斬りかかっているじゃない! 筋金入りの変態よ!!」

 至る所に霊的防御を施したコンテナ置き場の一角
 結界により無限ループと化したコンテナによる碁盤状の地形に尾行者を彷徨わせ、消耗させてから一人ずつ捕らえる作戦はなかなかに難航していた。
 姿を隠す結界内部で相手の消耗を待っていた美神と横島は、薄ら笑いのまま低級霊を切り裂き続ける二人の男に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
 打ち合わせ通り手持ちの弾丸は消費させたものの、二人ともナイフが得物らしく一向に隙を見せる様子は無い。

 「それにあのナイフ、妖刀になりかかっている。実際に何人かの命を奪っているわね」

 「マジっスか! まあ、何につけてももう少し消耗して貰わないと・・・」

 美神の作った結界内では低級霊はほぼ無尽蔵に波止場から補充される。
 しばし、待ちの姿勢に入ろうとした横島の背後で美神が小さく身震いした。
 その気配に振り返った横島は、やや青ざめた表情の美神と目が合う。

 「美神さんまさか・・・」

 「違うわ・・・気のせいよ横島君」

 美神は慌てて横島の想像を打ち消そうとする。
 突如感じた悪寒が、美神に【アムネジア】の発症をイメージさせていた。
 横島は美神に背を向けると、神妙な面持ちで美神に話しかける。

 「俺、向こう向いてますから気にしないでして下さい・・・」

 「?」

 その言葉はパニックに陥りそうだった美神の意識を現実に引き戻す。
 頓珍漢な想像をしているであろう横島に美神の拳が小刻みに震えていた。

 「我慢は体に毒・・・」

 「誰がトイレを我慢しているって言ったッ!!」

 美神は怒りにまかせ横島の背中を思い切り蹴飛ばす。
 体制を崩した横島は結界を飛び出し、低級霊を切り捨てている尾行者の前に転がり出てしまった。 




 「やっとお出ましか・・・」

 尾行者の一人が横島を見て残念そうな笑みを浮かべた。
 外見は日本人だったが、イントネーションからすると外国育ちなのかも知れない。
 男は横島と相棒を低級霊から守るような位置取りをすると、低級霊の撃退を一手に引き受ける。
 こういった場合の役割分担が、既に男たちの中では出来上がっている様だった。

 「君たちに聞きたいことがある。君たちが昨夜遭遇したクリーチャーについてなんだが・・・」

 もう一人の尾行者が金髪の外見に合わない流暢な日本語で横島に話しかける。
 穏和そうな笑顔に嫌なモノを感じ横島は尻餅をついたまま後ずさる。

 「えーっと、何でも聞いて下さい。出来る限り協力しますから穏便な方向で・・・!」

 いきなり恭順の姿勢を見せた横島の背中に小石の様なモノがぶつけられる。
 二人組に気付かれないように美神が横島にプレッシャーをかけたらしい。
 結界内にいる美神は、まだ二人組の目には映っていない。

 「・・・って言えればどんなに楽か。チクショー!!」

 目に涙を浮かべ反逆の意思を示した横島に、白人男は天使の様な微笑みを見せた。

 「良かった・・・つまらない仕事に当たったかと一瞬泣きそうになったよ」

 男はこう言うとズボンのポケットから青白い芋虫のようなモノを取り出し口づけをする。
 それを見て横島は嫌悪と恐怖の入り交じった表情を浮かべる。
 更に後ずさった手が、先程美神にぶつけられた何かに触った。

 「さて、君は何本目まで耐えられるかな。出来るだけ頑張ってくれよ」

 男はこれ以上はない優しさで微笑むと、防腐処理をした人間の指を大切そうにポケットにしまう。
 彼はコレクションのうち一番のお気に入りを持ち歩くのが習慣らしかった。

 「ち、近寄るな!」

 横島は尻餅をついたまま手に触れた小石を男に投げつける。
 男は手に持ったナイフで、易々とその小石を弾いた。

 「つまらない抵抗だな。GSって人種は人間相手は苦手なのかい?」

 そう言っている間にも、横島が投じる小石を男は次々に打ち落としていく。
 横島が浮かべる恐怖の相と必死の抵抗が男の嗜虐心を徐々に高ぶらせていった。

 「その調子、君が満足させてくれないと上司の女性に頑張って貰うことになる。尤も、女性はいつも相棒にまかせているんだが」

 男の言葉に横島の表情が変わった。
 既に横島は美神が隠れる結界ギリギリまで後ずさっている。
 その変化に男の背にゾクリとした刺激が走る。
 男にとって本気の抵抗を見せる相手を切り刻む快感は何ものにも代え難い、泣き叫ぶ女を切り刻むのが好きな相棒とはこの辺で住み分けが出来ていた。

 「このクソ野郎!!」

 「その手は無駄・・・ッ!」

 男が横島の投じた小石のようなモノをナイフで弾いた瞬間、眩い光の爆発が起こり男の視界を一瞬だけ奪う。
 最後に横島が投じたのは、先程美神が背中にぶつけた小石のようなモノ―――精霊石だった。
 それと同時に横島の背後から夥しい数の低級霊が飛び出し二人組へと向かっていく。
 美神が結界内部で札を破った結果だった。

 「チッ!」

 二人の男が手に持ったナイフで低級霊を斬りつけようとする。
 横島はその後に起こる反応を予想し、白人男を無視し東洋人の方へと飛び込んで行った。

 「!!!」

 横島は背後で、白人男が低級霊に取り憑かれ無力化したのを感じる。
 精霊石によって浄化されたナイフはもはやただの金属片でしかない。
 低級霊は斬撃をすり抜けあっけなく白人男を埋め尽くしていた。


 ―――頼みますよ。美神さん!


 横島は手に霊力を集め、低級霊を撃退中の東洋系の男に走り寄る。

 「サイキック猫だましッ!!」

 横島の迎撃に映ろうとした男は霊力の爆発に視界を奪われる。
 最後に映った横島の動きをトレースし刃先を向かわせるが、男のナイフが横島の体を傷つけることは無かった。
 一瞬の隙をついた神通鞭の一撃を受け、コンテナに叩きつけられた男は意識を失っていた。

 「私たちを相手にしたければもう少しマシな奴らを連れてくることね」

 結界から姿を現した美神は忌々しそうに呟く。
 見事なまでの連携が、打ち合わせ無しで行われたと知ったら男たちはどんな顔をするだろうか。



 「横島君、時間が勿体ないから覗いて!」

 美神の呼びかけに横島は文珠に念を込める。

 (覗)

 ダイジェスト版の映画を見るように、次々に男の記憶が横島に流れ込んでくる。
 (模)にしなかったのは男のコピーとなる事への嫌悪感からだった。

 「コイツら米軍ですよ!! しかも特殊部隊です」

 「そんなの装備を見た時点で想像できてるわよ! で、目的は何?」

 「コイツらも【貘】を追いかけています・・・BC兵器に転用する為に捕獲するつもりですね」

 横島の言葉に美神は苛立ったように吐き捨てる。

 「自分を嫌う国から思い出を奪おうって訳ね・・・最近、洒落にならない失策続きのあの国らしい発想だわ。私たちを尾行する位だから【貘】の居場所は掴んでいないわね」

 「ええ、しかし米軍も独自にGSを雇って・・・大変です!!」

 横島のあげた大声に美神は顔をしかめる。
 しかし、続く横島の声を聞いた美神も同様の声をあげるのだった。

 「米軍が雇ったGSってエミさんの事です!!」

 「何ですって!!」

 遠距離からの呪術を得意とするエミはその手の作業に適任と言えた。

 「それに、今朝方からオフィスに籠もり連絡が取れないそうです。情報を得るために踏み込んだ何人かがトラップに引っかかって撃退されていますね・・・多分、エミさんも【アムネジア】に・・・」

 美神は慌てて携帯を取り出すとエミの元へ連絡を急ぐ。
 電話が繋がりエミの声が聞こえると、美神はホッとしたような表情を浮かべた。

 「誰?」

 しかし、聞こえてきた声はいつものエミでは無い。
 普段含まれる敵意すら、その声には含まれていなかった。
 美神は軽く唇を噛みしめ己の名を名乗る。

 「忘れたの? 美神令子よ・・・」

 そして、その行為は呪術を行う者に対して決してやってはいけない行為だった。
 美神が名乗った瞬間、呪いにより生じた霊体が携帯から飛び出し無防備な頭部を襲う。

 「危ない美神さん!!」

 それにいち早く反応したのは、美神の横顔を見ていた横島だった。
 栄光の手を発動し、霊体ごと携帯電話をひったくると素早く地面に叩きつける。
 しかし、携帯が破壊される瞬間に呪いは次の依り代を見つけたようだった。


 プルルルル


 何の変哲もない呼び出し音が横島の携帯から聞こえる。
 表示を見るまでもなく、美神の携帯からの呼び出しであることを二人は理解していた。
 呪いは美神の携帯に残った発信履歴を通じて横島の携帯に移動していたのだった。

 「まだ出ちゃダメよ、横島君」

 「分かってます。タイミングはソッチで指示してください」

 横島は通話ボタンに指先をかけながら美神の指示を待つ。
 吸引札を一枚唇に銜えると、美神は両手で持った神通棍に気を巡らせる。
 精神が集中した瞬間が分かったのか、美神が目で合図を送るのとほぼ同時に横島の手から携帯が投じられる。
 実体化した呪いをはじき飛ばす神通棍、そのすぐ後に叩き込まれた吸引札によってエミから送られた呪いは完全に吸収されていた。
 破壊された携帯の隣で燃え上がる吸引札が、呪いの消滅を物語っている。

 「流石ッスね・・・同時に複数の道具を使用するなんて」

 跳ね返した呪いを同時に吸引する。
 送り主であるエミや、メモリに存在する他のアドレスに呪いが移動する事を防いだ手腕に横島は純粋に感動していた。

 「無理に褒めなくってもいいわよ。最初に名乗ったのは明らかに私のミス・・・ダメねこんな初歩的なミスをするなんて」

 美神は冷静さを失いかけている自分を戒めるように頬を両手で叩く。
 気持ちを切り替えるときのスイッチのようなものだった。




 『お待たせいたしましたオーナー』

 結界内部の二人にコンテナのすぐ前に停まったコブラから声がかけられる。
 人工幽霊の声はどこか弾んでいた。

 「なんか、嬉しそうだな人工幽霊」

 『ええ、今のポルシェもいいですが、お二人にはやはりこの車がしっくり来ます』

 特別な意図は含まれていないようだったが、横島の問いに人工幽霊は確かに美神ではなく二人と言っていた。
 美神はその言葉に微かに顔を赤らめると急いで運転席に乗り込む。

 「なに下らないこと言ってんのよ! 運転手の無力化はしたの?」

 『命じられたとおり、低級霊をたっぷりと・・・3日以内に救助されれば命は助かるでしょう』

 美神は人工幽霊の手際に感心する。
 結界内部に残してきた2名と併せ、救助に時間がかかればかかるほど敵戦力の分散にはなる。
 それに、こっちの情報を掴むために相手は必死に救助を行うはずだった。

 「ポルシェの方はどう?」

 『首都高の適当な所で放置しました。尾行者は今頃渋滞に巻き込まれ身動き出来ない筈です』

 「少しは時間が稼げたようね・・・悪いけど、エミのオフィス近くにある大きな下水道を探してそこまで運んでちょうだい」

 「下水?」

 美神の発言に疑問を浮かべたのは横島の方だった。

 「多分、エミのオフィスは米軍に見張られているわ。邪魔をされないように下水の抜け道から侵入するのよ」

 これで会話を打ち切ると、美神はコブラの運転を人工幽霊にまかせたまま瞑想を始めた。
 ヨガの要領で意識を体の隅々に広げ体調の掌握に努める。


 ――― やっぱり体温がいつもより高くなっている。急がなくちゃ


 美神は免疫力を少しでもあげるため呼吸を深く、ゆっくりとしたものに切り替えていった。











 人工幽霊が探し出した河川に繋がる大きな下水道。
 二人は先程から無言でエミのオフィスを目指していた。

 「でも、良くエミさんの秘密の通路なんて知ってましたね」

 30分程歩き回り臭いにも慣れたのか、横島は前を歩く美神に声をかける。
 方位磁針片手に地図と格闘中の美神は極力口で息を吸い込まないよう手短に答えた。

 「知らないわよ! そんなモン」

 「憶測でわざわざ下水を歩かしたんスかっ!!」

 あまりにも雑な美神の行動に、横島がその場でツッコミの声をあげる。
 コケなかったのは下水という場をわきまえての事だった。

 「憶測じゃないわ、確信よ!」

 美神は真顔で横島の顔を見返した。
 その顔に満ちた圧倒的な自信に、横島はそれ以上の不満を口にする事は出来なくなる。

 「あのクソ女がいざというときの抜け道を作っていない訳ないでしょ!」

 「・・・・・・美神さんが言うともの凄く説得力がありますね」

 僅かな疑問すら挟み込む隙のない論理的な説明に、横島は黙って美神の後ろを付いていく。
 そして、次の曲がり角を折れた瞬間、横島は美神の確信が100%正しかった事を理解した。


 ―――我が抜け道を侵す者に呪いあれ
             小笠原エミ


 エジプト調の派手な彫刻を施された金色の門扉が、何かの冗談みたいに下水の風景に存在していた。

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!」

 呆れた表情で立ちつくす横島の右手を、美神の左手がしっかりと握る。
 普段から握り慣れていればその体温が僅かに高まっていることに気付いたかも知れない。
 手の平に感じた美神の体温に、横島はただ胸の高まりしか感じていなかった。

 「ここから先はエミが施した防御機構が何重にも張り巡らされているはず・・・横島、この手を離さないでね」

 美神の口調から緊張を感じ取った横島は美神以上の力でその手を握り返す。

 「任せてください! 俺、どんなことがあっても美神さんを守りますから!!」

 「んじゃ、防御は全部任せたわよっ!!」

 「へ?」

 横島の反応はお構いなしに美神は扉を一気に蹴破る。
 たちどころに襲いかかってくる防御機構は最強の盾である横島に任せ、美神は一気にエミの元に走り出した。






 「エミ! 一体何処にいるの!!」

 カーテンを閉め切った薄暗い室内
 数々のトラップをくぐり抜け、美神はエミの寝室にまで辿り着いていた。
 ベッドの上で毛布をかぶった人影を見つけると、ようやく安堵したように左手の力を緩める。
 ボロボロになった人のような影がその足下に力なく崩れ落ちた。

 「ヒィッ!」

 傷だらけの男の姿に、毛布にくるまった人影が恐怖の叫びをあげる。
 女の声だった。

 「・・・・・・・エミ、アンタ、本当に忘れちゃったの?」

 美神の言葉に含まれる寂しげな響きに、毛布内部の震えが僅かに弱まる。
 その反応を見た美神は一歩だけエミの方へ歩み寄る。

 「近寄らないで!!」

 激しい叫びと共に沸き上がる力。
 技術もなにもない霊力の攻撃が美神に向けられ、その目前で霧散する。
 素早く起きあがった横島のサイキックソーサーが美神の前に展開していた。

 「親友に対して随分な挨拶じゃない」

 美神は更に一歩進み横島の前に回り込む。
 エミを安心させる為と、横島に表情を見られない様にする為だった。

 「親友・・・? 美神令子と私が・・・」

 毛布が僅かにずれ、エミが顔を覗かせる。
 その涙を浮かべた不安げな表情に美神はきつく唇を噛む。
 出来れば一生見たくない表情だった。

 「そうよ! アンタと私は数少ない手加減無しにつきあえる友だち、だから私はアンタの防御機構を無傷でくぐり抜けてきた」

 美神は無傷な自分をアピール擦るように両手を大きく広げる。
 その足下でうずくまる男が、全ての攻撃を受けきった事は敢えて伏せていた。

 「私に友だちが・・・」

 「冥子の事は覚えている?」

 「冥子・・・六道家の跡継ぎの?」

 エミの言葉に美神は心からの笑顔を浮かべた。

 「良かった・・・アンタに忘れられたら、あの子悲しくてプッツンしちゃうわよ!」

 冥子のはた迷惑な行動も知識記憶にあったのか、エミの口元が微かに緩む。
 毛布をずらすとエミは完全にその姿を露わにした。

 「友だちならば教えて。私がどんな人間で、何でこんな風になってしまったのかを・・・」

 その手に握られている写真を見て、美神は胸が締め付けられる気がした。



 美神は慎重に言葉を選びながらエミに説明する。
 エミが凄腕のGSであり、呪術のスペシャリストであること。
 現在【アムネジア】という病気が蔓延しそうになっていること。
 米軍からの依頼を受けてエミが【貘】を探索していたこと。
 そして、【アムネジア】に感染し思い出を失ったこと。



 「それで情報が欲しい米軍が包囲を・・・・・・・私はてっきり」

 「【貘】について何か情報はない? 残された資料でもなんでも構わないから」

 何か言いかけたエミは美神の質問に小さく首を振った。
 落胆の表情を浮かべる美神に、エミは恐る恐る質問する。

 「高額な賞金がかかっているの?」

 「・・・アンタに記憶されている私に興味があるわ」

 エミの中の記憶に美神は苦笑する。
 背後の横島は余計な一言を言いそうになる自分を必死に抑えていた。

 「いや、だから心強いのよ! 今のオタクと私の記憶はかなり異なる。思い出ってヤツがないと正しくものが見れないのならば私は・・・」

 慌てて弁解するエミに調子が狂うのか、美神は自分と横島に起こった現状を口にする。

 「私たち二人も感染してるのよ【アムネジア】にね、だからそのウチ私たちも思い出を失うかも知れない・・・【貘】を捕獲すれば何とかなりそうなんだけどね」

 「オタクたちも思い出を・・・」

 エミはそれが耐え難い喪失のように思えていた。
 先程までの不安を弱めてくれたのは、美神の中にある自分の記憶だった。


 ―――何か私にできることは?


 エミは自身の中に残る呪術に関しての知識を総動員する。
 師匠の思い出は失っていたが、彼が授けてくれた知識はエミの中で脈々と息づいていた。
 それを得たときの思い出がないため非常に奇妙な感覚であったが、エミはこの現象に身をゆだね自分のオフィスを難攻不落の要塞と化している。
 現在置かれた状況に最も相応しい呪術がエミの脳裏に浮かび上がった。


 「何とかなるかも知れないわ」

 エミはそう言うとベッドから抜け出し、東京の地図を足下に広げる。

 「何をする気?」

 「呪うのよ【貘】を・・・」

 そう言うとエミはいきなり自分の手首を呪術用ナイフで切り裂いた。
 血液に含まれるウイルスを依り代に、エミは【貘】に呪いをかけようとしているのだった。

 「美神さん!」

 「黙って!!」

 目の前の光景に息を呑む二人。
 地図の上に飛び散った大量の血液が、エミの口にする呪文に従うように蠢きながら地図上のある一点へ移動していっていた。

 「この場所は・・・」

 血の指し示した場所は自分にも多少縁のある所だった。
 恐らく、そこの屋上で【貘】は傷が癒えるまでじっとしているつもりなのだろう。

 「もういいわエミ、本当にありがとう」

 美神は素早くエミの腕をとると血管の上を圧迫する。
 素早く止血シートを傷口に張り付け、きつめに包帯を巻いて応急処置を完了させた。

 「じゃあ、報酬にあと一つだけ教えて」

 エミの顔が青ざめているのは出血の為だけではなかった。
 彼女は記憶を失ってからずっと気になっていることをようやく口にする。

 「・・・私が殺し屋だったって本当なの?」

 記憶を失ってまず最初に浮かんだのが、自分は殺し屋だったという事実だった。
 それは理由や経緯を含む思い出の記憶ではなく、ただの知識としての記憶である。
 それだけに、呪術の記憶と相俟ったソレはエミを恐慌状態に陥らせていた。
 何重にも防御陣を張り要塞化を行ったのは、米兵に備えたのではなく過去を恐れた故の行動だった。

 「私がアンタと知り合ったのは18歳の時。それより前のアンタが何やってたかなんて知らないし、知ったところで関係ないわ」

 美神はそれが下らない話題であるかのように吐き捨てた。
 そして、足下の地図を拾うと、血で汚れていない余白を小さく破り唐巣の電話番号をメモした。

 「いい! 其処に電話をかけて助けを求めなさい。多分、アンタの知っているバンパイアハーフが霧に姿をかえて防御陣をくぐり抜けてくるでしょう・・・どうしても記憶が気になるならその男に抱きついてみれば! アンタが握ってる写真みたいにね」

 美神の言葉にエミはずっと握りしめたままの写真に目を落とす。
 何かの集まりの写真なのか、着飾ったエミが金髪の男に抱きつき笑っている。
 男の照れたような、困ったような表情を見るとエミの胸に温かいものが満ちた。
 この写真の御陰で、エミは絶望的な過去の記憶に辛うじて潰されずにいたのだった。

 「アンタはそんな風に笑えてたのよ。殺し屋には出来ない顔だと思わない?」

 美神はそういうと血まみれの地図を大事そうに畳みポケットにしまう。
 自分に残された時間が僅かなのを美神は感じていた。

 「またね、エミ」

 美神はそう言い残すと【貘】の潜伏している場所へ向かっていく。
 サンシャイン60
 そこは美智恵が自身の運命と戦った場所でもあった。










 下水を出る頃には辺りはすっかり闇に包まれていた。
 美神はコブラを駆り、一路サンシャイン60を目指す。
 その顔に悲痛な表情が浮かんでいるのは、先程公衆電話からかけた一本の電話が原因だった。




 「あ、ママ?」

 下水を出てすぐ美神は近くの公衆電話から美智恵に連絡をとる。
 万一の時の情報伝達と、声を聞くのが目的だった。
 エミの部屋からかけなかったのは盗聴が確実だったからだ。

 「令子! 何度も連絡したのに!!」

 受話器の向こうから美智恵の慌てたような声が聞こえた。

 「携帯壊れちゃったのよね。米軍と揉めちゃって・・・」

 美神は万一の盗聴に備え美智恵に釘を刺す。
 これで美智恵は情報漏洩に気を遣って話すだろう。

 「分かったわ、そっちの方はママが出来る限りの手を打つ。だから令子、落ち着いて話を聞いてちょうだい。おキヌちゃんが・・・」

 予想もしていなかった一言に、美神は危うく受話器を落としそうになる。

 「おキヌちゃんが・・・発熱して意識を失ったの。今はもう譫言も止んでいる」

 その後聞かされた、ヒーリングのしすぎによる影響や、300年前の体による免疫力不足などの理由は正直頭に入ってこなかった。
 ただ、初期に発見された患者たちもおキヌの後を追うように次々と発熱をはじめ意識を失っているらしい。

 「カオスは何て・・・」

 美神はようやっと声を出すことに成功した。
 頭の中では最悪の想像が渦を巻いている。

 「カオスの予想では発病後の記憶も失われるそうよ。おキヌちゃんは譫言であなたたちの名前しか口にしていなかった」

 美神は悲痛な表情をコブラで待つ横島に見られないよう体の向きを変える。
 最初の発症の時、おキヌの譫言には様々な人々の名が登場していた。
 事務所のスタッフ、六道の同級生、氷室家の人々、そして女華姫を始めとする美神たちの知らない過去の知り合いたち。
 今にして思えばその譫言は失われる思い出の最後の抵抗なのかも知れない。

 「【貘】は絶対に捕まえなくてはダメ。こんな事を繰り返さなくちゃならないなんて悲しすぎる」

 「指令が変わったって事?」

 その後に続いた沈黙に、美智恵の思いがGメンの意思では無いことを美神は理解する。
 しかし、被害者を増やさない事を考えれば【貘】はすぐにでも抹殺すべきなのも理解できていた。
 【貘】の体を研究すればウィルスを抑えられるというのはカオスの推論でしかない。
 美神は発熱を始めた自分の体調を隠し、努めて不敵に美智恵に語りかける。

 「親子二代であの場所で人生をかけた勝負をするとはね」

 これで、美智恵には【貘】居場所は伝わった筈だった。

 「令子、最後まで諦めちゃだめよ! 諦めなければあの時のように・・・」

 美智恵は珍しく何かに祈るような声を出した。






 ――― 分かってるわママ、私も美神の女なんだから。でもね



 「美神さん・・・」

 助手席に座る横島の声に美神は回想を中断した。

 「まだ、エミさんの事、気にしてるんですか?」

 助手席で無言を通していた横島は遠慮がちに口を開いていた。
 横島は美神の沈痛な表情を、エミの事を考えていると思っている。
 美神は、おキヌの発熱を横島には伝えていなかった。

 「大丈夫ですって! ピートなら旨くやりますよ。アイツなんだかんだ言ってもエミさんの事好きみたいだし」

 自分を元気づけようとしての発言なのは良く分かった。
 他人の機微には敏感な横島の言葉に美神は口元を緩める。
 それはどことなく悲しげな笑みだった。

 「さっきの兵士と王女の話だけどね・・・こういうのはどうかしら?」

 唐突に切り出された話題だったが、ようやく口を開いた美神に横島は黙って耳を傾ける。

 「兵士は99日目に気付いたのよ。自分では王女を幸せに出来ないって・・・だから自分から身を引いた」





 ――― 私は一度諦めているのよ。宇宙の卵の内部でね


 自分が横島のことが好きだと気付いたのはだいぶ前の事だった。
 しかし、宇宙の卵に捕らえられていた2ヶ月に相当する時間の中で、美神は横島を諦め芦優太郎に心を許そうとしている。

 『ま、いーか』

 あの時、自分は確かに横島を諦めたのだ。99日目の兵士の様に・・・
 その結果起きてしまった悲劇が、全て自分のせいだと思いこむほど美神は子供でも殊勝な人間でもない。
 ただ、恋愛に関してエゴを貫き通せなかった事が、それに関して尚一層美神を臆病にしていたのは確かだった。
 周囲の目や状況をお構いなしに、公彦を追いかけた美智恵の強かさを美神は持ち合わせていない。


 「うーん。ありそうっスけど救いがありませんね」

 美神の意見に横島は腕を組んで考え込む。
 映画の中の説明より共感できる部分はあったが、救いが無さ過ぎる点が気になっていた。

 「恋愛は全員が救われる訳ないからね・・・」

 美神はコブラを停車させ、決戦の場となる高層ビルを見上げる。
 その姿を衛星軌道上から見下ろす機械仕掛けの視線に美神が気付くことは無かった。





 サンシャイン60屋上
 普段は閉鎖されている屋上への扉を横島は難なく開く。
 仕事柄、この手の技能は否が応でも上達していた。

 「いましたね・・・」

 「シッ! 気付かれないうちに結界を張るわよ」

 美神に負わされた傷が癒えるまでじっと耐えているのだろう。
 【貘】は体を丸め、屋上の隅に隠れるように眠りについていた。

 「慎重にね、物音を立てちゃダメよ」

 美神と横島は【貘】に気取られないよう、慎重に屋上の隅3カ所に結界作成用のお札を設置していく。
 残り一枚を【貘】の背後にある金網の支柱に打ち込めば逃走を妨げる結界が完成する。
 唯一心配するべきウイルスも既に感染している二人には無意味である。
 退路を断った後は呪縛ロープで【貘】を捕らえれば任務完了だった。
 美神はお札を縫いつけた霊体ボウガンの矢をセットし、慎重に狙いを定める。


 ―――どうやら間に合いそうだわ


 記憶を失わずに済みそうな予感。
 はやる心を抑え、美神はボウガンの引き金に人差し指をかけた。


 バラバラバラバラバラ


 美神の希望を打ち消すかのように突如ヘリのローター音が響く。
 今まで気付かなかったのは特殊な消音機構のせいなのだろう。
 国籍マークを偽装した3台のブラックホークが、サンシャイン60上空を包囲していた。

 「ご苦労様! 後は我々が引き受けよう」

 防護マスクをかぶった男が、先程ポルシェで一杯食わせた尾行者であることに美神は気付いていない。
 男の声と同時にブラックホークに搭載されていた結界発生装置が起動音を轟かせる。
 高出力の結界装置を扱える霊能力者が、3台それぞれのヘリに乗っているらしかった。


 『あるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜』


 眠りから目覚めた【貘】が独特の雄叫びをあげた。
 放出されたウィルスによって周囲の光景が微かにぼやける。

 カチン!

 美神は視界の隅でヘリの機銃が自分に向けられるのを目撃する。

 「横島!逃げて!!」

 美神の叫びと共に発射される機銃。
 それは【貘】を空に飛び上がらせる為の威嚇と、美神たちの口封じの二重の意味を持っていた。
 記憶を失わせる兵器を手中にすれば、このくらいの無茶は何とでもなると考えているのだろう。

 「待て! 目標に当たる」

 男の指示によって機銃の掃射が収まる。
 横島と美神は盾にするために【貘】に向かって飛び込んでいたのだった。

 「逃がさないわよ!」

 飛び立った【貘】を神通鞭で絡め取ろうとする美神。
 しかし、彼女のウエイトでは足止めにすらならなかった。
 美神の体は軽々と持ち上げられ、金網の外に放り出されていた

 「美神さん!!」

 横島は霊波刀で金網を切り裂くとビルの端に向かって突進する。
 金網を乗り越えていたのでは間に合わないタイミングで、美神はビルの外へ姿を消していた。







 ビルから放り出された美神は不思議とクリアな思考で自分の過去を振り返っている。
 死の瞬間に訪れる人生の走馬燈。思い出す数々の場面に懐かしさを感じる美神。
 不思議なことにその殆どの場面に横島の姿があった。



 ―――私、死ぬのかしら?

 ゆっくりと遠ざかるサンシャインの屋上を見ながら、自分の目的が果たされなかった事を悔やむ。
 美神は横島に一切の苦悩を感じさせずに、今回の事件を解決しようとしていたのだった。

 『いざというときには俺たちもそうしますよ・・・』

 病院で聞いた横島の台詞は多分本心だろう。
 美神は誰かを犠牲にするような選択を、二度と横島にさせるつもりは無かった。
 だから美神は自身の発熱やおキヌ二度目の発熱を横島に隠していたのだった。
 しかもそれは、横島の為だけの行動では無い。
 美神はそれを行えたとき、自分の気持ちに素直になることを決めていたのだ。


 ―――お姫様を幸せにする自信が湧いたら、兵士は再び立ち続けることが出来たのに。100日でも1000日でも



 「美神さーん!!」

 自分の名を叫ぶ横島の声に美神の思考が中断する。

 「横島! 来てくれたのね!!」

 自分へ向けて落下してくる横島の姿を見て、美神の胸に安堵の感情が広がっていく。
 迫り来る男は何時までも年下の頼りない少年ではなかった。


 ―――アンタって本当に不思議なヤツよね。出会った頃はただのガキだったのに


 美神は両手を広げ自分にかかる空気抵抗を増やす。


 ―――ホラ、ほんの少しのんびりするだけでもう追い着かれちゃった。


 美神と横島が抱き合った瞬間、横島の手の中で二つの文珠が眩い光を放った。  


 「美神さん! 何で熱が出ているのを黙ってたんスか!!」

 合体による浮遊。
 着地を決めた横島は美神の体温が高くなっている事に気付く。
 過度の霊力を消費する合体は、お互いの体調が万全でないと維持が難しい。
 横島は焦ったようにビルの屋上付近を見上げる。
 飛び立った【貘】がヘリの結界に捕らわれているのが見えた。
 このまま放置すれば、【アムネジア】は核以上の戦略兵器となりうる。
 血の出ない戦争を実現するのではなく、血を出させたことを忘れさせる戦争の道具として。
 横島は躊躇せず自分のとるべき行動を選択した。

 「殺します」

 横島は【貘】に向けて霊波砲の構えをとる。
 あと数秒で合体が解けるのを横島は理解していた。

 「ちょ、ちょっと待って横島!」

 合体が解けそうなことを知らない美神は、横島の行動に慌てたような声を出す。
 美神はそれが避けられないのならば、せめて横島が後悔の念にかられないよう自分の手で【貘】を抹殺するつもりだった。

 「大丈夫ですよ」

 不思議と横島の声は落ち着いていた。
 そして、高出力の結界を易々と突き破った霊波砲は【貘】を地上から消滅させた。







 合体を解除した横島は、美神の隣りに立ち上空を見上げる。
 米軍のヘリは慌てたように撤収を開始していた。

 「大丈夫ってどういう事よ・・・アンタ、思い出を失うのが怖くないの!」

 美神の心の中で様々な感情が渦巻いていた。
 記憶を失うのが確定した事もそうだったが、それを行った横島が平然としているのがショックだった。
 横島は記憶を失いたがっているのではないか?
 そう思えてしまうほど横島は自分の記憶に執着していないように見えた。

 「生きていれば思い出は作れます。それに、思い出を失っても、俺は俺だと思ってますからね。俺はルシオラが好きでした」

 横島が口にした一言に美神は心臓を鷲掴みにされる。


 ―――横島君はルシオラの事を忘れるために・・・


 考えないようにしていた想像が頭をよぎる。
 美神は慌ててその考えを頭の中から振り払おうとした。

 「アイツとはあんな終わり方をしましたが、俺がアイツを好きだった事実は無くならないんです。たとえ、俺の記憶が無くなったとしてもね。忘れてしまったとしても俺の命がアイツに救われたこと、俺の命がアイツに繋がることは変わらない」

 「・・・・・・・・・・・・」

 「アイツはもう俺の一部分なんです。この先俺がどんな風に生きていこうとね・・・だから大丈夫なんです」

 美神はこの言葉を聞き、おキヌが口にしたルシオラの名に横島が平然と対応した理由を理解した。
 横島の中では既に気持ちの整理がついているのだ。
 それも、過去にこだわり続ける自分とは比べものにならないほど強く、前向きに。
 それだけに今のまま記憶を失うのは美神にとって耐え難かった。

 「ナニ勝手なこと言ってんのよ! そんなの単なる自己完結じゃない!!」

 「無くした思い出はまた拾い集めましょう。隊長や事務所のみんな、エミさんたちと一緒にね・・・大丈夫、心配しないで。美神さんは独りじゃないんですから」

 美神は横島にしがみつき感情的に叫んだ。

 「私はそんな風に割り切れない! 私は忘れたくない、だって、私はアンタにまだ何も伝えていないもの。今回の事件が無事に終われば勇気を出そうと思ってたのに・・・忘れたくない。アンタのこと忘れたくないのよ、横島ぁ!!」

 横島は突然の告白に驚きの表情を浮かべた。
 そして、目を閉じ一瞬の沈黙の後、美神の体をきつく抱きしめる。

 「大丈夫、忘れちゃっても何も変わりませんよ。絶対にこうなります・・・記憶を失った美神さんに、突然男が抱きつくんです『一生ついてききます、おねーさまーッ!!』って」

 「横島・・・」

 顔を上げた美神と横島の目が合う。
 横島は笑っていた。美神を勇気づけるように。

 「だから、その時はちゃんとした時給で雇ってくださいね」

 「何度でも?」

 美神は笑顔の横島に問いかける。
 【アムネジア】の症状は一回の記憶喪失で済みそうに無いことを横島は知らなかった。

 「ええ、何度でも変わらずに・・・兵士と王女の話ですが、こう言うのはどうです?」

 横島はずっと気になっていた寓話の答えを見つけ出したようだった。

 「兵士は王女を恋人として幸せに出来ない自分に気付いてしまった・・・ただ、どうすることも出来ず漠然と立ち続けるばかり。だけど、99日目に兵士は気付くんです。そんな自分を好きになってくれる女の人がいたことに。そして自分もその人のことがずっと好きだったことに。それは王女の事を忘れる訳でも、裏切る訳でもない・・・王女は別な方法で幸せにすればいい。そう考えた兵士は自分が幸せになるためにバルコニーを後にするんです・・・美神さん、一つ賭をしませんか?」

 横島は美神を抱きかかえると近くに待機しているコブラに向かって歩きはじめる。
 美神の沈黙を了承と受け取り、横島は賭の条件を美神に伝える。

 「これから、ゆっくり美神さんの思い出の場所を周りながら帰りましょう。そして、事務所に着いたとき美神さんの熱がまだ今くらいで意識がハッキリしているようなら・・・」

 横島はここで一旦言葉を切った。
 続けて横島が口にした言葉に美神は小さく肯く。

 ―――俺に抱かれて下さい

 横島と美神をのせたコブラはゆっくりと夜の街を走り出した。











 賭は横島の勝ちだった。
 二人が出会った最初の事務所を始め、都内の様々な場所を巡り二人は事務所にたどり着いていた。

 「最初もこんな事やってましたね」

 横島は美神を抱きかかえると事務所の扉前に立つ。
 美神は相変わらず無言だった。
 その顔が赤いのは熱のせいだけではない。
 確かにあの時と同じ体勢ではあったが意味合いは全く異なっている。
 これから二人は初めて結ばれようとしているのだった。

 「いいですね・・・美神さん」

 美神の肯きを合図に横島は扉をあける。
 横島は背後のコブラを振り返り人工幽霊の所在を確認した。

 「人工幽霊!」

 『何です。横島さん』

 人工幽霊はまだコブラに憑依したままだった。

 「ちっとは気を遣えよ」

 『?』

 二人の逢瀬を覗くつもりはもとより無い。
 人工幽霊には横島の言っている意味が分からなかった。
 しかし、その後すぐに聞こえたドアの開く音とそこから漏れる光、パタパタという足音に、人工幽霊は事態の変化があった事を理解する。





 「美神さん!横島さん!一体何処行ってたんですか!!」

 「「おキヌちゃん!!」」

 二人を出迎えたおキヌの姿に、横島と美神は驚きの声をあげた。
 多少取り乱してはいるが、その仕草は記憶を失う前のおキヌそのものだった。

 「目が覚めたら病院で、急な除霊に行くはずだったのにその後の記憶は無くなってるし、二人を待っている間ずっと不安だったんですよ!!」

 一気にまくし立てるおキヌに美神はだんだんと状況を理解し始めた。

 「おキヌちゃん、ママは何だって?」

 「よく分かりません! ここまで送ってくれた後、【アムネジア】は二回目の発熱で消えるから心配ないとだけ言ってすぐに出て行っちゃいました! 後は帰ってくる二人から聞けって、一体、私に何があったんですか!! あっ!!」

 ここまでまくし立てて、おキヌはようやく美神が横島に抱きかかえられているのに気がついた。

 「ひょっとして美神さんもシロちゃんたちみたいに風邪に! ちょっと待って下さいね、すぐベッドの準備しますから!!」




 「・・・・・・プッ!」

 慌ただしく階段を駆け上がっていくおキヌを見送り、美神は堪えきれないように吹き出した。

 「一体どういう事です?」

 状況を把握し切れていない横島が怪訝な顔をする。
 おキヌの記憶が戻ったことは理解できていたが、現状までのプロセスが全くと言っていいほど理解できていなかった。

 「アンタには黙っていたけど【アムネジア】は二回発熱するらしいの。カオスの見立てではその時に更に記憶を失うって話だったけど、あの藪! 結果は今見た通り・・・二回目の発熱時に抗体でも出来るのかしらね」

 「って、事は・・・」

 美神は多少気まずい様子で呟く。

 「【アムネジア】で失うのは発熱する少し前から二度目の発熱までの記憶だけって事ね。で、どうするの?」

 クシュン!

 美神の問いに答えたのは言葉では無かった。

 「俺もどうやら熱が出てきたみたいです。次回に期待って事にしましょう・・・」

 苦笑いを浮かべ身震いした横島に、美神は何処かホッとしたような表情を浮かべた。

 「悪いけど、そんなに残念って訳じゃないんです」

 「分かっているわ、忘れても何も変わらない・・・そうでしょう?」

 お互い好きだと認め合った記憶は失ってしまう。
 しかし、お互いが心の底で引かれあっていることは変わらない筈だった。

 「次はアンタから言いなさいよね。あんな恥ずかしい告白はもうこりごり・・・」

 「善処します・・・でも、コンプレックスの塊だからな、俺」

 美神は何処までも鈍い男に何かを言いかけるが、激しい悪寒にその言葉を諦める。

 「横島・・・そろそろ最後が近い」

 美神は横島の腕の中で目を瞑った。
 横島はそれに応えるように顔を近づける。
 初めて触れた美神の唇は柔らかく、そして悲しいまでに熱を帯びていた。






 『よかったら送っていきましょうか?』

 事務所を出た横島をコブラに憑依したままの人工幽霊が迎えた。
 横島は美神をベッドに寝かすとすぐに事務所を後にしている。
 今更だが、譫言を聞くのはルール違反のような気がしていた。

 「いや、お前は美神さんについていてくれ、それにおキヌちゃんへの説明を頼めるか?」

 「わかりました。横島さんはどうするんですか、これから?」

 その問いには幾つもの意味があるように思えた。
 人工幽霊の問いには答えず横島は夜の街へと歩き出す。
 微かな不安を胸に抱きながら、横島はいつしか微笑を浮かべていた。

 ―――俺は俺らしく

 そう。答えは既に出ていた。
 横島は美神の感触が残る唇を軽くとがらせ口笛を吹き始める。話題となった映画の挿入歌だった。
 その姿が夜の街に消えてからも、横島が吹いた曲は、いつまでも風のまにまに漂い、夜の街をどこまでも流れていくようだった。
 風に吹かれて。



 ――― 風邪の名はアムネジア ―――



      終


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