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ばらの花

第四話:スカーレット


投稿者名:ライス
投稿日時:06/ 6/19


 ぱし。
 夜中、鋭く速い音が部屋に響いた。
 手の平が頬を叩く。手には叩いた感覚が残り、ぴりぴりしている。
 瞬時のことだった。いつ叩いたのかすらわからない。気が付けば、すでに手は頬を舐めていた。
 辺りは静かだ。ときどき自動車が家の前を通り過ぎていく。その度に、光が窓の下をかすめた。部屋の照明は昨日変えたばかりで、やけに明るくまぶしい。小さい虫も一匹、飛んでいるようでその些細な羽音がうるさく、気に障った。室温は暖かくもなく、寒くもなく適温だ。部屋には水を打ったような静けさが時間の流れを緩やかに止めていく。嫌な時間が生産されては、捨てられる。
 この中にいるのはたった二人。事が起きてから一言も口を開くことなく、両者とも立ち尽くしている。お互いに呆然とし、この状況を飲み込めないでいた。
「あっ……」
 目の前を通り過ぎていった腕を下ろし、漏れた一言。何を言っていいのかも分からないまま、突然の出来事は終わってしまった。顔が歪み、鳥肌が立ってくる。怖い、恐ろしい。負の感情が表情に現れ、当惑し始めていた。
 美神が頬に手を当てる。左頬をさすり、痛みを緩和させた。今の彼女の表情には驚きがない。しかめ面をして、無言で叩かれた箇所を触っているのだ。それが怖い。次の瞬間、彼女の平手打ちが返ってくるのではないかと気が気ではなかった。美神の一挙一動におどおどしながら、キヌは状況を見つめている。
 そんなつもりはなかったのだ。と、言っても無駄だろう。こうなってしまっては何を言っても、嘘になってしまう。キヌは振り上げた腕を恨んだ。彼女はまだ感覚の残る手の平を見つめ、美神の頬を見た。この手があの頬を撫でた。あのきめ細かな肌を叩いたのだ。じんじんと痛みが走ってきている。こちらがこの有様なのだから、むこうは推し量るべくもないだろう。
 何もしないまま、出来ないまま、二人は語ることもなく、視線を再び合わせることもない。逃げるわけにもいかず、キヌはただ不安でいっぱいだった。まだ頬を手で押さえている美神。ちらりと目線を向けたようにも思えたが、こちらの気のせいみたいだ。
「痛いじゃない」
 すると突然、美神が表情一つ変えることなく言い放つ。それはキヌにとってあまりに重く、胸に突き刺さるものであった。次第に彼女の手から痛みが引いていく。なのに、傷口はさらに広がり、痛みも増す。そして血の気が引く。
「ご、ごめんなさい」
 苦しまぎれに声を吐き出し、深々と頭を下げた。だが美神はにべもなく無視する。彼女は背を向けて、机に歩いていくと、椅子に寄りかかって腕を組み直した。そのうつむく後姿は寂しげに見えた。なにも喋ろうとしないところを見ると、居たたまれなくなってくる。こうなってしまうと過ぎた時をうらみながら、部屋を出て行くほかなかった。
 無言のまま部屋を抜け出して、自室に戻ると、すぐに鍵をかけた。今は誰にも会いたくない。キヌは持っていた手荷物を床に放り投げ、ベッドへなだれ込んだ。着替えもせず、彼女はうずくまる。頭の中もぐにゃぐにゃのばらばら。なんで、どうしてと繰り返すたび、思考はかき乱される。急に胸が苦しくなり、枕にうつぶせて顔を隠す。彼女の心からは歯止めの利かない悲しみが溢れ出ていた。昼間の時とは百八十度反対の気分である。
「美神さんの、ばか……」
 ぽつりとキヌは呟く。このまま眠り落ちてしまいたい。しかし、彼女の頭の中では先ほどまでのことを思い出していた。


 ◇

 
 がたんごとんがたんごとん、電車は揺れている。線路は終点にたどり着くまで、まっすぐと伸びて尽きることはない。車内はレールを渡る音と話し声だけで埋め尽くされていた。静かというにはやかましいくらいだが、それ以外の音はあまりなかった。
 次の到着駅を告げる車掌のアナウンス。ホームに止まれば扉が開き、乗客が乗り降りする。キヌが目を覚ました時、電車の扉はまた閉まり、その駅を遠ざかろうとしていた。彼女は窓の向こうの景色を見る。降りる駅はもうまもなくだろうか。外は真っ暗で建物の明かりだけが頼りだが、見覚えのある景色ならすぐ分かるはず。キヌもそう考えて、外を見渡したが、どうも様子がおかしかった。
「あれ、ここはどこ?」
 見覚えのない街並みが広がっている。次の駅も聞きなれない名前だった。キヌは一抹の不安を感じた。これは確認しなければと、彼女は周囲を振り向いた。
 車内は空席が目立つ。立っている人もまばらだった。しかし、どういうわけか視線をたくさん感じる。くすくすと笑い声も聞こえた。どうやらこちらを見ての反応のようだ。他の乗客たちがなぜそうするのか、理由は彼女にもすぐ理解できた。
「う〜ん……」
 横島が太ももを枕にして寝ている。恐らくは肩に寄りかかっていたのがずり落ちていき、結果、こうなったらしい。やけに足が重く思えたのはこれが原因だった。けれど、このまま寝られていても困る。第一、恥ずかしい。キヌは急いで彼をゆすった。
「横島さん、横島さんったら」
「ちち〜、しり〜、ふともも〜」
 寝言なのか、寝言なのだろう。うれしそうな顔をして、太ももに顔をすり寄せている。どんな夢を見ているのだろうか。この寝言だと、ろくな夢ではなさそうではあるが。
「みかみさ〜ん」
 夢の中に居るのは自分じゃないらしい。キヌは少しむっとした。夢を見るのは自由だが、これはちょっと許せない。無性に腹が立ってきたので、眠っているのをお構いなしに太ももから床に叩き落してやった。落ちると彼は痛そうに頭を抱えて、眠りを覚ます。
「あら、起きましたか?」
 彼女は優しい眼差しをして、笑顔を振りまいた。
「……なんで床に落ちてるんだ、おれ?」 
「さあ、なんででしょうね」
 問いかけを問いかけで返し、煙に巻く。横島は神妙な面持ちで首をかしげた。周りからまた小さな笑い声。今度は彼に向けられているような気がして、少しいい気味だと思った。
「それはともかく、横島さん」
「なに?」
「ここ、どこだか分かりますか」
 また車内アナウンスが聞こえる。次の駅が近づいているのだ。横島が暗くなった外の景色を見やると、辺りを振り向いて再び首をかしげる。
「どこ?」
「それは私が聞きたいですよ」
「おれだって分かんないって」
 結局、彼もどこなのかよく分からないらしい。
「ひとまず次の駅で降りましょう」
 列車を降りて、現在の場所を確認した所、二人の最寄り駅からだいぶ離れた場所だった。映画館のあった町からは十五分程度の距離なのだが、ここからだと一時間以上かかってしまう。知らず知らず、時間は浪費されていたのだ。今から急いで帰っても、夕飯時には戻れない。
「どうしよう」
「反対の電車に乗って帰るしかないよ」
 横島はそう言うが、キヌは急に戸惑いを見せた。心配に越したことはないし、美神ならどうにかするはずだが。でも、彼女には不安が拭えないのだ。夕飯に間に合わないという不安ではなくもっと別の不安。それはまだ美神には知られていないはず。だが、まさか。彼女は横島をちらりと見た。
「な、なに?」
 彼はいきなり見られて、目をむいている。たじろぐ姿は少し滑稽だった。
「いえ、別に」
 キヌは目線をホームに戻し、電車が来るのを待つ。杞憂であってほしい。するとプラットホームの奥から光が近づいてきた。
「ちょうどいいところに来た。さ、おキヌちゃん、早く」
「ええ」
 彼女たちはやってきた扉の向こうにまた足を踏み入れた。今度もまた席に揺られて、無為な時間を過ごす。
 少し焦っていた。暗闇を突き進む細長い箱の中で、彼女はデートの余韻そこそこに早く帰宅したい気持ちに駆られている。言い知れぬ不安がひしひし感じられた。反対車両が横切り、テールライトが通り過ぎてからしばらくして、二人はようやく最寄り駅にたどり着いた。すると降りた途端、彼女は横島の腕を引っ張る。
「電話してもいいですか。美神さん、心配してるだろうし」
 キヌは横島と改札口を通って、すぐに駅前の電話ボックスに駆け寄った。テレホンカードを入れて、事務所へかける。しかし、大丈夫だろうか。受話器ではコール音が続いている。
「はい、こちら美神除霊事務所……」
「あ、美神さん。私です」
 電話線のはるか先、美神はこちらの声を察すると急に黙り込んだ。
「もしもし?」
「ああ、おキヌちゃん。なんでもないわ、どうしたの」
「それなんですが、実は」
 キヌはかいつまんで事情を説明した。美神は耳を傾けるのみで、何も語ろうとはしない。受話器越しの相手に嘘の事情を取り繕いながらも、彼女は話を終えた。
「つまり、三人して寝過ごしちゃって、今ようやく駅に着いたわけね」
「ええ、まあ。そういうことです」
 またしばらくの間があって、ようやく美神の口が開いた。彼女の声は一定の調子で、特に驚いた様子もない。
「夕飯の心配なら安心して。ちゃんと食べたから」
 やはり。心配する必要はなかったようだ。
「すみません、こうなるとは思ってなかったので」
「いいわよ。それより夜道に気をつけてね、うちにいるバカみたいな輩が襲ってくるとも限らないんだから」
 キヌは軽い動揺を覚えた。少し離れた脇にはそのバカ、もとい横島がいる。
「分かってます。もう、あんまり脅かさないでくださいよ」
「その割には、声が震えているようだけど」
 また。美神のツッコミが釘を刺すようで胸に痛い。彼女の声は先ほどから感情が表に出ていないようで不気味だった。事務的というか、あまりにも素っ気ない受け答えだ。
「じゃあ、切るわね。気をつけて帰ってくるのよ」
「はい」
 キヌは受話器を置いた。
「どうだった?」
 電話ボックスから出ると、横島が歩み寄ってくる。駅前はバスのロータリーを中心に、街灯が立ち並び、だいぶ明るい。
「大丈夫でした。美神さんたち、夕飯食べたみたい」
「そっか」
 横島はほっとして、少しうつむいた。夜の街で車は相変わらず、道路を流れている。
「暗いし、送ってこうか」
「いいですよ、帰り道が逆ですし」
「じゃあ、途中まででも」 
「大丈夫」
 わずかに首を左右に振って、キヌは遠慮深そうに断った。
「今日は楽しかったです。またいつか一緒に出かけましょう」
「ああ、今度は遅刻しないようにするよ」
「きっとですよ、約束ですからね」
「もちろん」
 お互いに笑いあって、約束する。
「じゃあ、また明日」
「うん、お休み」
 キヌは横島と別れ、自宅へと一目散に向かう。早足で、次第に速度を上げてゆきながら雑踏の中を抜けていった。デートの余韻も残っているが、一刻も早く帰宅したいという気持ちが強い。それもこれも美神が気掛かりなのだ。どうも不安が肥大しはじめている。早く、はやく帰らないと。気付けば、彼女はおのずから地を駆っていた。


 ◇

 
 近道をすばやく通り抜けてきたので、息が落ち着かない。あれから大急ぎで帰ってきた。すでに玄関の前で、キヌは呼吸を整えている。目の前にそびえ立つ古めかしい洋館。ここは自宅でもあり仕事場でもある。
 彼女はごくりと息を一飲みした。慣れ親しんだ場所なのに、どうしてこうも不安が襲ってくるのだろうか。気持ちは困惑している。わけのわからない心配だと認識していても、避けることは不可能である。ここが自らの帰るべき巣なのだ。
 キヌは大きく深呼吸してからドアを開く。玄関は静まりかえっていた。彼女はきしむ廊下を少し進み、側にある階段に向かう。美神は恐らく最上階の所長室だ。
 家の中はどこもかしこも穏やかである。途中、二階の居間からテレビの音がわずかに聞こえてきた。この時間帯ならシロが時代劇を見ているのだろう。腕時計を見て、そう思った。廊下は真昼のように、照明が輝いている。対照的に窓の外は夜闇に覆われ、静寂を絶やさない。
 が、なんにせよ先に美神の所である。階段を上りきり、そこへ一歩一歩近づく。迷うことはない、遅れて帰ってきたことを告げるだけ。扉を目の前にして、キヌは平常心を保つ。勘繰る必要はどこにもないのだ。さっさと済ませてしまおう。キヌはノックした。
「遅くなってごめんなさい、美神さん。今、帰りました」
「ああ、お帰りなさい。入ってきて」
 また素っ気ない美神の声。キヌは言われるがままに部屋へ入った。美神はその仏頂面に頬杖を付き、椅子に腰掛けている。ドアがばたんと惰性で閉まった後、二人はわずかに沈黙する。
「色々とすみませんでした」
「べつに気にしなくていいわよ」
 そう言う美神の視線は机の上にある本に注がれていた。読書中のようである。
「どう、楽しかった?」
「はい、とっても」
「そう」
 ぱらりと一ページめくられる。美神の表情は変わらなかった。キヌは彼女の目の前に立っていたが、向こうは視線を合わせることもない。それだけ読みふけっている証拠だ。いつまでも邪魔しては悪いだろう。
「それじゃ、部屋に帰りますね」
「ええ」
 ぺこりと頭を下げ、キヌはゆっくりドアへ近づいた。音を立てずに、そっと出て行こう。美神に気を利かせ、彼女は静かにノブに手を伸ばす。すると、後ろでぱたんと本が閉じる音が聞こえた。
「いつまで私に黙っているつもり?」
 いきなり美神の声が鋭く遮った。キヌの手が止まる。振り返ると、美神はこちらをじっと睨みつけていた。眉間にしわを寄せ、こちらを痛いほど直視する。
「なんの、ことですか」
 キヌは動揺のあまり、上手く声が出なかった。
「とぼけないで欲しいわね」
 美神は本を置いてすっと立ち上がり、静かに近づいてきた。キヌはその何気ない動作にすら緊張を覚える。彼女からにじみ出す威圧感。その重圧に心身ともに押しつぶされてしまいそうだ。背丈はあまり変わらないはずなのに、とても大きく感じてしまう。キヌは視線を貼り付けられて、じろじろと釘刺しを喰らった。
「おキヌちゃん。私はただ聞きたいの」
 美神の言葉に対し、キヌは必死に口を閉じている。
「あなたの守り通している真実をあなたの言葉で喋って。私の思っている通りなら、そう言って。もし違うのであれば、それを教えてちょうだい」
 キヌは身が砕け散りそうだった。美神は恐らく知っている。彼女のことだ、むしろ知らない方がおかしい。となると遅かれ早かれ、こうなることは時間の問題だったといえよう。美神からさらに重圧が強くのしかかり、キヌの顔はこわばる。彼女は追い詰められていた。
「そ、そんな。私は、別に」
 自分を睨みつけている視線から目を逸らすと、つい口を漏らしてしまった。
「この期に及んで……あなた、私を馬鹿にしてるの?」
「そんなつもりは」
「じゃあ、どんなつもりなの。言ってみなさいよ」
 キヌは口をつぐんだ。いつかは言うつもりだった。でも、いつなのかははっきりしなかった。美神に勘付かれることが分かっていたのに。キヌは迫り来る彼女から逃げるように後ずさりする。美神の口調はきつくなり、事態はさらに悪化した。
「ねえ、答えて」
 キヌの背中が壁に当たった。逃げ場はもう無い。
「もう我慢の限界なの、分かる? おキヌちゃん、あなたのしでかした事でこんなに苛立つのは初めてよ」
 美神の感情が露わになってゆく。彼女の中に淀んでいたものが言葉となって、吐き出されたのだ。その剥き出しにされた敵意は容赦なく、キヌに襲い掛かってくる。
「横島さんとは私、なにも……」
 だが彼女も後に引かず、ぼそりと声を出した。顔を伏せながら、視線をわずかに合わせ、少し反抗的に。すると美神がほくそ笑んでいる。
「ふん、どうだか」
 彼女はキヌの言葉を鼻で笑った。その不敵な笑みはいやに刺々しく感じる。
「横島さんと付き合っていることを言わなかったのは謝ります。けど、言おうとはしてたんですよ?」
「嘘はよして」
 うんざりとした表情で、美神はため息をついた。またなの、と彼女の眉に皺が寄る。それを見ていて、キヌはすかさず反論した。
「嘘なんか言ってません」
「まさか」
「本当です」
「信じられないわね。さっきまで嘘をついてたあなたが嘘をついてない? 冗談にしたって馬鹿げてるわ」
 そんなの無理な話よねと言いたげに、美神は肩をすくめた。
「いい? おキヌちゃんが横島クンと付き合おうと、私にはこれっぽちも関係ないの。私だって鬼じゃないわ。ちゃんと言ってくれさえすれば、ああそう、とまでは行かないけど、あなた達を祝福してあげたわよ。なのに、あなたは言わなかった」
「お願いです、美神さん。私の話を聞いて……」
「それが大きなお世話だって言うのよ!」
 キヌが弁明しかけようとも、美神の言葉はそれすら遮った。
「気を利かせたつもりなんだろうけど、ふざけないで。隠し事されるのが一番癪に障るわ。はっきり言いなさいよ! 身内に裏切られるなんて、もうまっぴらごめんだわ」
 その時、美神の髪が踊った。彼女が背を向けた時に翻る長い髪は赤々と燃えている。それは揺らめく炎のように、感情と重なり合う。緋色の髪は時に激しく、彼女を物語っている。しかし、キヌはその姿を見ていて、釈然としないものを感じていた。
「美神さんが悪いんじゃない……!」
「なんですって」
「気にしてない、関係ないって言っていますけど、実際のところ、一番横島さんを気にしてるの、美神さんじゃないですか!」
 キヌは我慢できなかった、それと同時に許せなかった。
「それに私だって、小さい子供じゃないんです。隠し事の一つや二つ持って、なにがいけないんですか。付き合っていることはいつか必ず言うつもりでしたけど、それでも美神さんには包み隠さず、報告しなくちゃならないんでしょうか? プライベートな事すら? それこそ馬鹿げてますよ」
「問題をまぜっかえさないで、それとこれとは別よ」
「なにが違うんですか。美神さんは私が横島さんと付き合い出したのを、子供みたく焼きもちやいてるだけじゃないですか!」
「おキヌちゃん」
「分かってるんです、美神さんの気持ちだって」
「やめて」
「でも、私の想いも止まらなかった。いいえ、誰に止めることなんて」
「うるさい!」
 美神の怒号が響き渡る。キヌの全身に彼女の声が通り過ぎ、彼女はたじろいだ。
「さっきから聞いていれば、ずいぶん勝手なこと言ってくれるじゃない」
 美神は先ほどの刺々しい口調からさらに険しくなり、声は震わせていた。
「あのバカを好きだなんて、言った憶えはないわ」
「そうでしょうね。でも、知ってるんです。たまに美神さん、横島さんのこと、ぼーっと見たり、ため息ついたりしてますよね。すぐに顔を戻しますけど」
「ち、違うわよ」
「じゃあ、あれはなんだったんですか。教えてくれませんか?」
 部屋は静まり返った。二人は睨み合ったまま、無言に耐えている。憎しみに満ちた瞳と毅然と立ち向かう瞳。お互いに相手を覆いつくそうと、一歩も譲らず。勝つのは輝きの大きいもの、光が濁るものが勝利できる道理はどこを探しても無い。
「やっぱり言えないんですね」
 キヌはまたぽつりと呟いた。
「美神さんはいつもそうですよね。わたしのものはわたしのもの、あなたのものもわたしのもの。結局、自分の所有物を持ってかれることが一番嫌なんですね。それなのに、大切なものに限って、自分を偽って主張もしないし、素直になれない。嘘つきなのは美神さん、あなたです」
 また窓の下を光がすり抜ける。キヌは美神を見つめた。対して彼女はこちらを睨みかえして、歯を食いしばっていた。言葉に出来ない歯がゆさが彼女の表情から伝わってきた。その証拠に拳がわなわなと小刻みに揺れる。
「……このっ!」
 怒りに任せて、美神は利き腕を振り上げた。来るはずの攻撃に備えて、とっさに身構えたのだが、彼女の手は止まっていた。そして腕を下ろすと、手の平をまた強く握り、大きく深呼吸をした。
「もういいわ。これ以上、話すのは無駄のようだし」
 瞳を閉じ、大きく肩を落として、美神は鬱陶しい気持ちを身体で表現する。
「行っていいわよ」
「でも」
「いいから出てって」
 キヌはまだ心残りがあったが、彼女の言うとおりかもしれない。お互い感情的になっているし、本音も色々出ていたように思う。そこで浮き彫りになった相違を埋めることはすぐというわけには行かないだろうし、美神が一旦退いたのも分からなくない。たぶんこれから時間をかけて、理解しあっていくしか方法はない。
「わかりました」
 少し間のあった後、キヌは静かに頷く。そして、背を向けた。
「しかし、わからないわね」
「はい?」
「あなたを選ぶあのバカもバカだし、あいつを選んだあなたもあなたってことよ。他にいい男がいるだろうに。どうしてあのバカがいいのか、さっぱりわからないわ!」
 この女は。その瞬間、ぶつりとキヌの緒が切れた。いたちの最後っ屁ともいうのか、はたまた子供の駄々か。言っている本人も分かっていそうな事をぬけぬけと。本当にたちが悪い。そうやって、自分たちの関係が気に食わないからと踏みにじる神経が理解できない。ああ、もう我慢の限界だ。
 もはや止める術は見当たらず、キヌは自らの引鉄を引く。銃弾は振り上げられ、そして加速した。


 ◇


 思い返すたびに嫌な思いが募るばかりだ。ベッドの上に身体を沈めている。キヌはぼんやりと部屋を見つめていた。辛く、苦々しい。手に伝わってくる感覚はすでに無くなっていたが、胸の奥は締め付けられるばかりだ。
 キヌは美神の事が気がかりで仕方なかった。きっと怒っている。彼女の最後の言葉と表情は、怒声と罵声を浴びるよりも沈痛で、深い溝を感じた。枕に顔をうずくめると、気持ちはさらに暗澹となっていく。悶々と悩むキヌに追い討ちをかけるように、また彼女の姿が思い浮かぶ。同じ事をぐるぐる考えていても、無駄のようだ。それにしても、明日からどんな顔をして向き合えばいいだろうか。
 寝返って、天井を見上げているとまぶたが重くなってきた。寝てはいけない。まだ帰ってきてから、夕飯もお風呂も、洗濯物の取り込みすらしていないのだ。睡魔は襲い掛かる。身体も疲れていた。だが、その気だるさを感じながらも、この一室での静けさを受け止めていた。まるで切り取られた空間に思える。
 かちかちと時計の針が進んだ。狂うことなく、一定に、常に不変だ。違うように感じるのは人間の持つ感覚であり、細かくすれば個々人、あるいは精神状態、状況によるものが多い。キヌもまたそれらいくつかの条件により、この部屋に流れる時間が緩やかに感じられていた。
 その端を発しているのは、あの女に他ならない。彼女は不器用すぎる。きっと家庭の事情もあるのだろうが、素の自分を出すのがとても下手だ。反面、嫉妬深くもあり、意固地である。また寂しがりなのも、先ほどの状況を引き起こした一因なのかもしれない。離せないのだ。一度自分の領域に入ってきたものを拒めない。ましてや、恋愛対象になればことさら掴んで離さないだろう。横島がそうであるという事は置いておくにしてもだ。
 それが業ではないか。キヌは立ち返った。自分は横島が好きだ。この気持ちは誰にも邪魔はできない。美神が何を言おうとも、だ。だがあの時、感情が衝動的に突き動かされたと、同時に砕け散った。怯えと恐怖。やらなければ良かったという後悔の念が、言い争いでの美神の言葉をより強大にした。
 離すものか、諦めろ。でないと、ただでは済まさないぞ。美神の苛立ちを不安定ながらも受け止めるには限界があった。悪いのは彼女でもあり、自分もまた然り。それでも、出来上がってしまった堀はしばらくは埋まりそうにもない。キヌは唇をかみ締める。
 そして、すぐに身を起き上がらせた。夕飯はのどを通りそうにない。さっさと風呂に入ってしまおう。ベッドから立ち上がり、背を伸ばす。寝巻きを取り出すと、屋上の洗濯物を忘れていたのに気付く。まずそっちからだ。気乗りはしないが、キヌの頭ではやらなければいけない事が思い浮かんできている。今の気持ちがどうであれ、通常の仕事はきっちりこなさないといけない事を自分に教えられてしまった。これも習慣なのだなだと、キヌは少し苦笑した。
 しかし、今日は疲れた。キヌは取り出した衣類をベッドへ置くと、大きく息を吐き出した。気持ちは優れないし、どうしようもない。けれど、何も動かないのは損だ。とにかく前へ行くしかない。その先に何があろうとも。彼女は頭でそう繰り返したが、やはり眠い。早く入浴して、さっさと寝てしまおう。大あくびをして、部屋から風呂場に向かおうとした矢先、部屋の扉をこんこんと叩く音がした。


 続く


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