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ANADEUS

11.ドラマ・ジョコーゾ「ドン・ジョヴァンニ」 第2幕第15場「晩餐に招かれ儂は来た」


投稿者名:赤蛇
投稿日時:06/ 5/14

門番の立つ城門のくぐり戸を抜けると、街道筋は漆黒に覆われていた。
この時代、いかに強国の大都市であっても人口はまだそれほど多くはなく、市街から一歩踏み出ると茫漠とした田園風景が広がっている。
黒い森の中をまっすぐに貫くローマ街道も、長く続いた中世の時代に補修されることもなく放置され、石畳も剥ぎ取られて無残な姿を晒すばかりだった。
かつてこの地が、パンノニアと呼ばれていたローマ帝国の頃には、街道の要所要所にかがり火が焚かれ、行き交う人々の足元を赤々と照らしていたものだが、今となっては石柱に空けられた穴の意味を解するものなど誰もいない。
人間が再び夜を征服するようになるには、まだ百年の歳月が必要であった。

天頂には半分に欠けた月が昇っていたが、あいにくと雲が多い。
時折、うっそうと並び立つ樅の木の隙間から冷たい光が照らし込むが、頼りとするには心もとない。
シカネーダーの館から通い慣れた道とはいえ、土地の者でも恐れて出歩かぬ時刻に、モーツァルトは灯りも持たずに歩いていく。
劇団の女たちと大いに騒ぎ、飲んだためか上機嫌で、「ツァイーデ」のアリアなぞを口ずさんでいる。
いつものように泊まっていけ、とシカネーダーに勧められたのだが、何故か急にコンスタンツェの顔が見たくなり、急遽帰ることにした。
さほど急がず家路につくモーツァルトに、道端の闇の中から声を掛けるものがあった。

「―――ウォルフガング」

「うわっ!?」

黄泉の森から聞こえるような、低く不気味な声に名を呼ばれたモーツァルトは文字通り飛び上がり、もんどり打って転げまわる。
先程までの意気揚揚たる姿も何処へやら、まるで喜劇役者のような醜態だった。

「―――何をうろたえておる。儂だ。レオポルトだ」

少々呆れ果てた声とともに、声の主が姿を現した。
その姿は誰あろう、昨年死んだはずのモーツァルトの父、ヨハン・ゲオルグ・レオポルト・モーツァルトその人であった。
だが、モーツァルトは甦った父の姿を見て、逆にほっ、と息をついた。

「―――なんだ、父さんか。脅かさないでくださいよ。てっきり悪魔か何かだと思って、死ぬほどびっくりしたじゃないですか」

「貴様、自分のことを差し置いて何を言うか」

「そうは言いますけどね、怖いものは怖いんだから、しょうがないじゃないですか」

魔族とは思えぬほど情けない顔をしてみせるモーツァルトに、レオポルトは眉をひそめて手を一振りする。

「まあよい。それより、儂が来たのはほかでもない―――」

「何か用ですか、父さん?」

息子であるはずのモーツァルトに「父さん」と呼ばれ、レオポルトは露骨に嫌そうな顔をしてみせる。

「辺りに人はおらぬ。儂を父などと呼ぶな。貴様にそう呼ばれるだけで虫唾が走るわ」

「でも、そう呼ぶように父さんが・・・」

「止めぬか!!」

「へいへい、わかりましたよ―――まったく、冗談が通じないんだから・・・」

「何か言ったか?」

ぶつくさと文句を言うモーツァルトを、レオポルトはじろり、と睨む。
その鋭い眼光をさらりとかわし、モーツァルトは肩をすくめた。

「―――それで、こんな夜中にまかり越し頂き、この私めになんのご用でございましょうか、レオポルト様?」

普段使い慣れもしないために幾分でたらめな敬語を口に、慇懃無礼なほどに腰を折ってみせる。
相手の事が性に合わないのは、なにもレオポルトのほうばかりではなかった。

この二人、世間では親子として通じているが、実はそうではない。
モーツァルトがそうであるようにレオポルトもまた魔族であり、彼らの主である魔神に命ぜられた任務を果たすために組まされた、いわば上司のようなものであった。
それが、モーツァルトを造り出した主の意向によって、偽りの親子として世に潜んでいたのである。

魔族としては異質なほどに真面目で実直なタイプのレオポルトにとって、部下であるモーツァルトの存在は矛盾に満ちたものだった。
彼は魔族としての力はほとんど持たず、単なるカモフラージュのために身につけた音楽にばかり傾倒する、およそ魔族としての存在価値などないに等しい男だ。
それだけならまだしも、軽薄で、ずる賢く、女好きで、口の減らない、実に我慢のならない部下だった。
腕にものを言わせてその性格を叩き直してやりたい、と会うたびにいつも思うのだが、まさにそのキャラクターを目的として造り上げられたためにそれもできない。
今までに何度殺してやりたいという衝動に駆られたか、もはや自分自身でも思い出せないくらいだった。

「貴様、何故あのオペラのシナリオを書き換えた?」

「あのオペラといいますと?」

「とぼけるな! 例の『フィガロの結婚』のことに決まっておろうが! なんなんだ、あのシナリオは?」

「えー! でも、ブルク劇場では大成功でしたよ。拍手が鳴り止まないために、何回もアンコールするはめになったぐらいですし」

「音楽のことなどどうでもいいっ! 問題はその中身だ。わざわざボーマルシェの原作を取り上げたのに、貴族階級への風刺を削除してしまっては何にもならないだろうがっ!!」

「だって、あのままじゃ上演はさせないって陛下から言われてましたし・・・」

「馬鹿か貴様はっ!!」

レオポルトは憤懣やるかたない、といった風情で怒鳴りつける。

「皇帝だろうと教皇だろうと、たかだか人間ごときに言われたからといって、はいそうですか、と聞く奴があるかっ! せっかく高まっていた民衆どもの不満を煽らなくてどうしようというのだっ!」

レオポルトの言う少々物騒な話は、彼が魔族だからということではなく、実は今のヨーロッパの機運においては取りたてて珍しいものではない。
そもそもボーマルシェの原作そのものが、フランスを中心にして高まる革命の機運を煽るために書かれた物だった。
第三身分に属する従僕が活躍するこの風刺劇は、その辛辣な筆致によって貴族社会を散々にこけ下ろしにし、笑い者にすることによって身分制そのものを痛烈に批判していた。
身分制は神に与えられた神聖不可侵なものではなく、その気になればいつでも廃することのできるものなのだ、ということを謳い上げているのだった。
それがために、民衆を刺激することを恐れた皇帝ヨゼフ二世は、この喜劇をウィーンで上演することを禁じていたのであった。
事実、このわずか二年後にはフランスの民衆がついに蜂起し、バスティーユの監獄を襲って革命の火蓋を切ることになる。
ヨゼフ二世は革命の行方に心を痛め、恐れおののくうちに死することになるのだった。

魔族であるレオポルトが貴族階級を批判し、虐げられている側の不満を増長させて幇助するというのは、一見すると場違いのようにも見える。
この後、その大革命によって王侯貴族を中心としていた封建制度は終わりを告げ、近代市民社会の幕が開くこととなるのだから、それは神の導きであったとしても不思議はない。
人は生まれながらにして自由であり、平等であるとする革命の理念は、二百年経った今もなお色褪せることはなく、輝かしいばかりの崇高さに溢れている。

だが、そうした見方は後世の視点によるものであり、時代の情勢を正確に評しているとは言えなかった。
当時のヨーロッパの人々の頭上に真に君臨していたのは、諸国に分裂する王侯貴族などではなく、第一身分たる聖職者、すなわちキリスト教そのものであった。
キリスト教は物質的に、また精神的に人々を完全に支配し、生まれてから死ぬまで、いや、死して後もなお、その魂を縛り付けていたのである。
その長年の支配が崩れ、信仰心と言う名の神の勢力が弱まりつつある現在の状況は、魔族にとってまさに千載一遇の機会なのであった。

「僕は政治は嫌いです」

レオポルトの剣幕など何処吹く風とでもいうように、モーツァルトはそっけなく言った。
彼にしてみれば、面白おかしい喜劇に、完璧といってもよいほどに極上の音楽を惜しみなく散りばめた作品であって、それ以外の何物でもない。
権謀術数に満ちた裏話など自分には関係ない、かつて皇帝の前で言ったのと同じ台詞を、再び繰り返すばかりだった。



レオポルトはほんの少しの間モーツァルトを睨みつけていたが、やがて、まあよい、と言って自ら話題を変えた。
オペラの話など単なる余興に過ぎず、これからが本題だった。

「貴様の妻は元気か?」

予想もしなかった話題に、モーツァルトは虚を突かれたようになる。
生前、と言ってもこれは互いに顔を見なくても済むように口裏を合わせた芝居だったのだが、自分と同様に仲が良かったとはいえないコンスタンツェの事を口にするとは思ってもみなかった。

「え、ええ、おかげさまで元気ですよ。でも、どうしてです?」

「ふん、そのようだな」

レオポルトは皮肉たっぷりな口調で言い放つ。

「相変わらず他の男との浮気に余念がないようだからな」

「あれはただの遊びですから」

「どうだか」

モーツァルトはレオポルトの嘲りを聞き流す。
彼が妻のことをとやかく言うのはさんざんに聞き飽きた。

「それで、どうなのだ?」

「どうだ、とは?」

「コンスタンツェはメフィストとかいう魔族の生まれ変わりなのかどうか、ということだ」

その問いに対するモーツァルトの答えは聞くまでもなくわかっていた。
暗闇の中でその答えを想像し、レオポルトは密かにほくそ笑む。

「それを確かめるためだけに、我が主は役立たずの貴様を造り上げたのだからな」

役立たずと言われてモーツァルトは少しむっ、とした顔をする。
まあいい、上位の魔族だろうがなんだろうが、この連中に音楽のことなど判る筈がないのだ。
心の中で悪態をつくモーツァルトの脳裏に、ふと今日出会った美神のことが思い浮かんだが、そのことは口にしないことに決めた。
未来から来たらしい彼女こそが、名前も知らぬ魔神が躍起になって探しているメフィストとやらの生まれ変わりに近かったが、それをこの上司に話して手柄にされるのも癪に障る。
自分の任務はコンスタンツェ・ウェーバー、今のコンスタンツェ・モーツァルト夫人の正体を確かめることだけなのだから。

「彼女は全然違います。魂の結晶、でしたっけ? そんな厄介なものなんかこれっぽっちもない、全く無関係の人間ですよ」

だから、もう自分たちのことはほっといてくれ、モーツァルトの返答にはそんな思いが込められていた。
予想通りの答えに、レオポルトは満足そうに頷いた。

「やはりそうか。ならばこれ以上あの女のことを探る必要もあるまい」

自分の言葉に、まるで結婚を許されたかのように喜ぶモーツァルトを見て、レオポルトは出来うる限り渋面を崩さずに新たなる指令を伝える。
まさにそれは、天国から地獄へと突き落とす、魔族の面目躍如たる決定的な一言だった。

「殺せ」

「―――え?」

ようやく開放された思いに有頂天になっていたモーツァルトには、ごく単純にして、使い古されたその言葉の意味がわからなかった。

「メフィストの生まれ変わりでないとわかった以上、あの女にはもう用がない。これ以上一緒にいて、貴様の正体が魔族だと露見しても困るしな。それに―――」

呆気に取られているモーツァルトを余所に、レオポルトは真面目くさった顔をして言い放つ。

「キリストの名において断ずれば、不義密通は死罪だ。違うか?」

確かにそのとおりではある。
カトリックにおいて姦通は大罪のひとつであり、罪を犯したとする告発によって死の宣告を受けた者は列挙の暇もない。
だが、それは、ある者を死罪にする意図があって初めて成される告発であり、宣告であった。
姦通のみを断じて額面どおりに執行したとなれば、まず聖職者と貴族階級こそが死滅してしまいかねないと言っても、あながち誇張ではない。

「そんな・・・」

魔族がカトリックの教義を盾に死を迫るという、ある意味滑稽なまでの矛盾にもモーツァルトは気づかない。
そのあまりのうろたえぶりにレオポルトは溜飲を下げ、胸のすく思いを味わっていたが、夜が開けるまでこうしているわけにもいかない。

「いつまで呆けておるか! さっさと戻ってあの女を殺してこい!!」

「し、しかし―――」

なお抵抗を試みるモーツァルトを見て、レオポルトは怪訝な顔をする。
今までならば自分が一喝すればそれで終いで、慌てて飛んで行ってしまうのにもかかわらず、今日に限ってはそうしようとはしない。
コンスタンツェを愛し、守ろうとしているとでも言うのだろうか―――愚か者めが。

「―――ウォルフガング・アナデウス・モーツァルト(Wolfgang Anadeus Mozart)よ。貴様は一体なんだ?」

レオポルトはそれまで荒々しく吐き捨てていた口調を落とし、あたかも父親が諭して聞かせるように静かに語りかける。

「アナ・デウス(ana deus)―――”神の裏に在る者”、すなわち魔族だ。貴様はあの女を愛しているつもりなのだろうが、あの女は貴様を愛していると本当に思っているのか? 人と魔が愛し合い、共に生きることが出来るとでも思っているのか?」

「そ、それはもちろんコンスタンツェだって―――」

「本当にそう思うか? 貴様が魔族だと知ってもなお変わらぬままでいられるのか? 病める時も健やかなる時も共に在り、死が互いを分かつまで一緒にいられると思っているのか?」

「そ、そんなの―――」

あたりまえだ、と言おうとしたモーツァルトの口の端から、その言葉は無残にも霧散してしまう。
たとえ彼女に近づくは任務だったとしても、今の自分は間違いなく彼女を愛していたし、彼女もまた自分を愛していると確信していた。
多少は恋多き性格だったが、それは単なる大人の遊びであって、舞踏会やビリヤードなどに興ずるのと同じだった。
互いに離れていても二人の心は通じていて、それは終生変わりはないはずだった。

しかし、それは本当にそうだろうか。
確かにコンスタンツェはモーツァルトを愛しているが、それはあの幼くして流行り病に倒れた可哀想な男の子、かつて神童と呼ばれ、かのマリー・アントワネットに求婚したとされるアマデウス・モーツァルトとしてだ。
あの一家にすり替わる形で彼女の前に現れた自分が、こともあろうに神に逆らい、人に仇成す魔族であろうなどとは疑ってもいないはずだ。
その正体を知ったとき、彼女は果たしてどうするのか。
彼女は敬虔なキリスト教徒というわけではないが、それでも自分が魔族であると知れば恐れ戦き、忌み嫌うに違いない。
それを恐れたからこそ、自分は自らの素性を隠すことに努め、世に潜む他の魔族たちにも会わぬようにしてきたのではないか。
しかし、だからと言って―――

「―――まあよい」

戸惑いの最中に声を掛けられたモーツァルトは、はっと顔を上げる。

「今までずっと連れ添ってきた女を殺すというのも気が引けるであろう。だから―――」

レオポルトはこれまで見たことがないほどに穏やかな顔で語りかける。
その様は本当の父親が息子に話しているかのようで、モーツァルトは思わず指し止められた呼びかけを口にする。
先程あれだけ怒ったのにもかかわらず、レオポルトは嫌がる素振りも見せなかった。
これなら、とモーツァルトが希望を持ったとしても不思議はない様子だった。

「父さん・・・」

「―――だから、儂が代わって片をつけるとしよう」

「と、父さんっ!?」

三度”父さん”と呼ばれたレオポルトは闇の中でにやり、と笑う。
それは見るものを震え上がらせる、まさに悪魔の微笑みに相応しい酷薄な表情だった。

「儂は今までお前に何もしてやれなかったが、せめてこれぐらいは父親らしいことをしてやることにしよう」

「待て! 待ってくれ、父さんっ!!」

慌てて引き止めるモーツァルトの懇願も聞かず、レオポルトは勢い良くマントを翻して飛び去る。
突然に巻き起こる風に樅の木が激しく揺れ、視界を奪う土ぼこりが静まると、もはや辺りには誰の姿もない。

「くそっ!!」

普段の彼からは思いもよらぬ大声を上げ、モーツァルトは月明かりの漏れる街道を駆け出していった。
その先に浮かぶウィーンの城壁の黒々とした縁は、まだ遥か遠くにあった。


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