椎名作品二次創作小説投稿広場


ANADEUS

10.ピアノと管楽のための五重奏曲変ホ長調 第2楽章


投稿者名:赤蛇
投稿日時:06/ 5/ 4

「ふうっ」

最後の譜面を書き上げ、羽ペンをインク壺に戻すと、モーツァルトは呼吸をするのを思い出したかのように大きく息を吐いた。
頭の中には次なる曲の着想も浮かんではいたが、とりあえず今日はここまでで区切りを入れる。
黒インクに汚れた指を拭き、凝り固まった肩を回しながら振りかえる。
三分の一ほどにちびた蝋燭が灯る手元の燭台だけが照らす室内は暗く、物音一つしないままに静まり返っていた。

「―――帰っちゃったか、やっぱり」

ほったらかされて怒ったのだろうか、妻に似た突然の訪問客たちの姿はもう、部屋のどこにもなかった。
はた迷惑な客ではあったが、いなくなってみるとなんとなく寂しくもある。

「ま、しょうがないか」

もう一度ため息を吐くと、それに呼応するかのように腹の虫がぐう、と音を上げた。
思い起こして見れば昼間の演奏会以来、何も食べていなかったことにようやく気づくが、あいにくと家の中には口に出来るものがなにもない。
元来、彼もコンスタンツェも、家事や料理などするような家庭的な性格ではなかった。

「シカネーダーのところで、何か食わせてもらうとするか」

近くにいきつけの店もあるにはあるが、一人で食べるのも味気ないし、こんな遅くでは入れてもらえないかもしれない。
オペラの興行主でもある友人のシカネーダーのところに行けば、真夜中でも必ず誰かがいるし、味はともかく、食いっぱぐれることと、酒に困ることはない。
それに、金の払いと寝床の心配をしなくてすむのが何よりだった。

そうと決まれば、今しがた書き上げたばかりの譜面を、他にも様々な曲が無造作に押し込まれているキャビネットの中へ押し込んで支度をする。
束になっている譜面のどれもが、後の世の多くの人の心を捉えて離さない名曲揃いであったが、幾ばくかの値をつけてくれる買い手がなかなか現れないため、およそ日の目を見ることはない死蔵品と化していた。
もしもこの場に、ルートヴィヒ・フォン・ケッヘルやアルフレート・アインシュタインがいたならば、それこそ身代を投げうってでも買い求めたに違いないが、当時においてはモーツァルトの才能を本当に理解していたのは極々一部、ややもすれば本人ですら理解していなかったと言っても過言ではないのが現実だった。
彼にとって作曲とは、芸術であると同時に、日々の糧のために対価を貰うための売り物でもあったのだ。

派手な装飾の割に、さほど複雑でもない構造の鍵を掛け、ポケットの奥に仕舞い込む。
取られるものとて他にない暮らし振りではあったが、これこそが彼の全財産に等しいと言っても過言ではなかった。
そういえば、ルイ十六世の趣味は錠前作りだったっけ、なんの脈絡もなく、何故かそんなことが思い出された。



空になったカップにワインを注いでくれる者もなく、美神はほおづえをついて、所在なげにふちを指でなぞる。
大ぶりな木彫りのカップはビールでも注いでいたほうが似合いそうな感じだったが、庶民相手の居酒屋ではワイングラスなど使わせるはずもない。
イギリスの産業革命のおかげで、少し無理をすれば手が届く程度には普及していたが、それでも気軽に使えるほどの値ではない。
無頼な客が酔って気勢を上げるたびに割られてしまっては、それこそ家計に響くどころか、身代が傾くことにもなりかねないのだった。

テーブルの向こうでまたも上がる嬌声に顔を上げる事もせず、自分は酒を飲むのが上手くないな、と、美神は自嘲気味に一人ごつ。

今まで自分は無類の強さを誇ってもいたし、自覚もしていたのだが、それだけでは楽しくないということを、今日ほど思い知らされたことはなかった。
たとえば、西条などを誘って飲みに行くことはあっても、話すことといえば仕事のことばかりで、挙句の果ては酔い潰してしまうばかりだった。
他の知り合いを誘ってみたところで、せいぜいエミと張り合い酒を飲むのがいいところで、あとは押しなべて言うまでもない。

それなのに、と、滑らせる指を止めて、物憂げに目線を少し上に向ける。
手を伸ばせば触れるほどに遠いテーブルの真中にコンスタンツェが座り、今また一際大きな声を上げていた。
ほんの一、二杯ほどしか飲んでいないはずの彼女は、およそ自分にそんな顔を出来るのかと疑うほどにはしゃぎ、主題がころころと変わる艶話を面白おかしく、または猥雑なほどにして話している。
そんな話をヒャクメは興味深そうに聞き、おキヌでさえも顔を赤らめながら、身を乗り出すようにして聞いていた。
隣に座るサリエリはさすがに一緒になってはしゃぐことはしないが、ごくあたりまえのようにコンスタンツェの肩に手を回し、話の節々に加わりながらときおり軽いキスを交わす。


―――あ、この二人、今夜は一緒に寝るんだ。


サリエリが耳元で何事かを囁くのを見て、不意にそう感じた。
恋人同志のような様子に思わず納得しかけるが、この二人の関係を思い出し、慌てて頭を振る。


―――いったい、どういうことよ? 信じられない!


モーツァルトを毒殺したという、プーキシンの戯曲に代表される噂の真偽はともかく、少なくともライバル関係にはあったはずのサリエリが、相手の妻であるコンスタンツェとベッドを共にする。
その事実に美神は大きく動揺し、物憂げだった頭を今やはっきりと持ち上げて目を見張る。

この二人の様子から見て、今夜限りの間柄などではなく、かなり前からの濃密な関係にあるのが窺えた。
あるいは共謀してモーツァルトを廃し、場合によっては殺害しようと画策しているのやも知れぬ。
GSという職業柄、昼間におキヌがよく見ているサスペンスドラマのような、不倫がらみの愛憎の果てに妻や夫を殺し、という事例も目の当たりにしたし、それで悪霊と化した霊を祓ったことも少なからずある。

だが、目の前に座る二人は、どうも違うように見えて仕方がない。
なんというか、奥底に隠し事を秘めた依頼人のような、独特の黒さが見うけられない。
夫のライバルに抱かれてもなお、コンスタンツェはモーツァルトを愛していると言い、自分には判らぬ夫の稀有な音楽の才能の素晴らしさを自慢している。
そしてサリエリもまた、音楽家としていろいろと比較されておもしろくない立場のはずなのに、あいかわらず彼女の肩をしっかりと抱き、亜麻色の髪にやさしく指を這わすのだった。
いかに時代背景の違い、またはヨーロッパ人という人種の倫理観の違いといっても、そんな関係が成立するなど、考えたこともなかった。

そして、それは間違いもなく自分と西条、そして横島との関係の一面でもあるのだった。



「―――どうしたんだい? 暗いねぇ」

うたかたの黙考に耽っていた美神は、急に掛けられた声にびくっ、と反応し、顔を上げる。
そこには怪訝そうな表情を浮かべたメドーサ、いや、ヨゼファ・ダイナーが立っていた。

「なんだい、変な顔をして?」

「・・・あ、いえ、なんでもないわ。ごめんなさい」

「・・・ま、別にアンタが謝ることでもないけどさ」

もう店仕舞いの時間になったのであろうか、ヨゼファは表の看板を小脇に抱えながら、そっけなく言った。
吊り上げた片眉がまだ何か言いたそうにしていたが、まだ少しワインの残っている素焼きのデカンタを軽く持ち上げてみせる。

「飲むかい?」

反射的に空のカップに手が伸びかけるが、それを押さえて美神は頭を振る。
度数が高く、荒々しさが残る地物のワインは、こざっぱりとした素焼きのデカンタに入れることによって雑味が取れ、口当たりに仄かな丸みを帯びていたが、今日はどれほど飲んでも酔えそうになかった。

「―――やめておくわ」

「そうかい」

ヨゼファはさして気を悪くした様子もなく、ひょいとデカンタを持ってキッチンの奥へと消える。
もちろん捨てるような真似はせず、明日の仕込みかソースにでも使うのだろう。
美神は他の客がいなくなって灯りの消えた店の奥の薄闇をちらりと見、またすぐに木彫りのカップに目を戻す。
彼女にあって自分にないものがそこにある、柄にもないそんな考えが頭の中をめぐってくるのだった。
それ故か、簡素な前掛けを外したヨゼファが隣に座ってきても、とっさには気がつかなかった。

「何よ―――」

ほっといてよ、と悪態の一つも流そうとした口の端から、それは音にならずに消える。
営業中は軽く束ねていた長い髪をほどいた姿は、もはやどう見てもメドーサ本人にしか見えず、切れ長だが爬虫類のように縦に割れていない瞳だけが、かろうじて別人である可能性を訴えていた。
旧来の敵の顔をまじまじと見つめる美神をよそに、ヨゼファは盆に載せて持ってきた対のグラスを並べ、ワインボトルとは少し違う、首の長いボトルからブランデーに似た、やや枯れた色を帯びた液体を注ぐ。

「飲みな」

「ん―――」

無造作に突き出されたグラスを受け取り、これがメドーサだったら毒の一つや二つは入っているんだろうな、などと思いながら口に運ぶ。
樽で熟成された独特の香りと共に、強い甘味とアルコールが舌を突いた。

「何よこれ、グラッパじゃないの」

「おや、さすがだね。わかるかい」

「あんた、いったいどうやってこんなモノを―――」

「まあ、蛇の道は蛇、ってとこかね」

そう言ってヨゼファは、僅かに口元を歪めて笑う。
笑って目を細めるその表情は、ますますメドーサのものに酷似していった。

そもそもグラッパは、イタリアのワイン産地で発酵の終わった絞り粕を蒸留して作られ、広く庶民から王侯貴族まで親しまれている酒であるが、一般のものは熟成をしないので、ほぼ無色透明に近い。
だが、このグラッパはおそらく十年以上、樽にわざわざ詰められて熟成されており、琥珀色の深い色合いを成している。
また、ボトルのラベルにはカステッロ、すなわち「城」の文字が刻印され、その家の印であろう紋章が描かれていることからもわかるように、イタリアのどこかの領主の城で作られた特別な酒であることが窺い知れる。
いくら強大なハプスブルク帝国の首都とは言え、ウィーンの庶民相手の居酒屋に出回るような酒ではなかった。

さらに言えば、二人が何気なく手にしているグラスにしても、とても一介の居酒屋の女主人が持てるような代物ではない。
ステムから絡み合って伸びる三匹の蛇がカップの底部を支えるデザインのグラスは、ざっと見て十六世紀初頭の頃、イタリア・ルネッサンスの流れを受けてガラス工芸の一つの頂点を極めた、いわゆるヴェネチアングラスに他ならなかった。
かつてはその透明さと装飾の華麗さによって絶賛され、ヨーロッパ中の貴族がこぞって買い求めては、その富と権勢を誇ったものであった。
そしてまた、それにまつわる様々な逸話、たとえば誤って落として割ってしまい、手打ちにされた女中の悲劇など、今も数多く伝えられ、残されている。

十八世紀のこの頃にはカリ灰(酸化カリウム)を用いた堅いカリクリスタル、俗に言うボヘミアングラスが主流となってはいたが、それで価値が損なわれるわけでもなく、むしろ希少さ故に高まる一方のはずであった。
そんな高価な代物をどうしてヨゼファが持っているのか、いつのまにかコンスタンツェと一緒にいなくなっていたサリエリが見たら、目を剥かんばかりに驚いたに違いない。
今まで他人の空似とだけ思っていたヨゼファが、急に得体の知れぬ魔族のようにも思えてきた。

「―――しかし、本当によく似てるねぇ」

ぐい、と飲み干した美神のグラスにグラッパを注ぎながら、ヨゼファが感心したふうに声を漏らす。

「そうかしら」

美神は特に気のない風を装って返事を返す。
ヨゼファの様子には怪しいところは何もないが、気を緩めるのは危険過ぎた。

「世の中には同じ顔の人間が三人いる、っていうじゃない」

「それにしたって、こうまでそっくりなのは聞いたことがない。尋常じゃないよ」

今頃はサリエリと情事の真っ最中のはずのコンスタンツェとそっくりだと言われ、美神の表情がまたも曇る。
自分にはあんな真似など出来ようはずもない。

「・・・そっくりなのは外見だけよ。中身は全然似てもいないわ」

影のある美神の呟きを耳にしたヨゼファは、少し呆れたような表情を浮かべる。
それは、経験の浅い小娘をからかいでもするような、諭しているような感じだった。

「何をバカなこと言ってるんだい。アンタたちはまるで双子のように、いや、生まれ変わりと言っても良いぐらいにそっくりだよ」

「そ、そんなこと―――」

美神は不覚にも上ずらせた抗議の声を上げる。
火照った目で睨みつけられてもなお、ヨゼファにはたじろぐような素振りは微塵もない。

「アンタがどこから来たのかは知らないけどね、アンタのとこにもサリエリの旦那やウォルフの坊やみたいなのがいるんだろう?」

「―――――」

「そっちのサリエリの旦那もアンタに惚れちゃいるが、アンタは坊やのことが好きで好きでたまらないのさ。なのに坊やときたら他の女―――こっちのは”ミューズ”っていうタチの悪い女だけどさ―――にうつつを抜かしてばかりいて、アンタの気持ちなどに気づきもしないのさ」

「・・・うるさい」

「だからアンタ達は、他の男にちょっかいを出してみたり、妙に当り散らしたりして坊やの気を引こうとしているのさ―――違うかい?」

「うるさいって言ってるでしょうっ!!」

饒舌なヨゼファに痛いところを刺され、美神は声を荒げてテーブルをドン、と強く叩く。
予想以上に強い衝撃にテーブルは大きな音を立て、酔いつぶれていたおキヌが僅かに頭を持ち上げる。ヒャクメに至っては、目を開けようとすらしない。
深い酔いの覚めぬおキヌの目には、美神とメドーサが口論しているようにしか見えず、ぽつりと寝言を呟いて再び落ちる。

「そうです・・・ その人の言うとおりですよぉ・・・」

「メドーサに私の何がわかるっていうのよっ!!」

そう怒鳴ってしまってから、美神は自分が迂闊にも口を滑らせてしまったことに気づき、慌てて口を噤む。
だが、それにはあまりにも声が大きすぎたし、聞かれた相手が悪すぎた。
なんとかしてごまかそうと思う間もなく、ヨゼファの眉がぴくりと動いた。

「・・・メドーサ?」

「―――――! 」

「・・・ふうん、なるほどね」

ヨゼファはほんの少しの間だけ神妙な顔をしていたが、やがて得心がいったのか、満足そうに頷いてグラスをあおって飲み干した。

「そっちにはあたしもいる、ってわけかい」

なるほどなるほど、などと呟きながら空になったグラスにグラッパを注ぎ、またあおる。

「それも、その様子だとアンタのお仲間じゃないね?」

「―――だとしたら何?」

「―――敵、だろうねぇ」

ヨゼファは続けざまに二杯目をあおり、息を吐いて人心地つく。
その様を美神は複雑な思いで見つめている。
彼女の出方次第では、気が進まないが口をふさぐことになるやも知れなかった。
しかし、ヨゼファは事を荒立てようとはしないように見えた。

「それで、アンタんとこのあたしは今、どうしてるんだい?」

その問いに美神は一瞬返答に詰まったが、正直に答えることにした。
もちろん、彼女はメドーサが魔族だとは想像もしていない。

「―――死んだわ」

「アンタが?」

「いや―――」

美神はメドーサの最期を思い起こしてみる。
メドーサは美神の手に掛かって死んだのではない。
横島の文珠によって文字通り”滅”んだのだが、それをどう伝えるべきか迷い、答えを探るようにヨゼファをちらり、と見る。
その視線の奥に、ヨゼファの脳裏に投影される何かが見えた。

「―――坊やだね」

ヨゼファは美神の視線を外し、悲しみに耽るように俯く。
やがて、二人のグラスに残ったグラッパをなみなみと注ぎ、寂しそうに笑って持ち上げた。

「哀れなもう一人のあたしに」

「アンタ、もしかして―――」

あのモーツァルトのことが、と言いそうになるのをぐっ、とこらえ、静かにグラスを合わせ、最後の酒をあおる。
空になったグラスを静かに置き、黙ってヨゼファの様子を見つめる。
ヨゼファはヴェネチアングラスの蛇の装飾をしげしげと眺め、指でなぞりながら、顔を上げずに呟いた。

「悪いが、もう帰ってくれ」


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