椎名作品二次創作小説投稿広場


ばらの花

第三話:ロビンソン


投稿者名:ライス
投稿日時:06/ 3/24


 長いように感じられた日々もあっという間に過ぎ去って、約束の日当日。
 ついにやって来てしまった。外では雀の声がちゅんちゅんとうるさい。
「もう朝なの……」
 キヌは愕然とした気持ちで、部屋を見渡した。カーテンの隙間から朝日が入ってくる。彼女は仰向けの状態でそれを浴びた。昨日から一睡も出来ていない。ひどい眠気が襲っている。目の上のシャッターが閉まれば、意識は瞬く間に遠のくだろう。せっかくの休日、まだ寝ていたい。もう一度、布団の中に潜り込みたくなる程、起きぬけの脳内は混沌としていた。
(起きなきゃ)
 彼女はなんとか身を起き上がらせて、ベッドに別れを告げた。クローゼットを開き、部屋着に手早く着替えると、洗面所へ。雲と雲の間から差し込む日光。それは窓からキヌへまぶしく輝いた。だが彼女はまだ大きなあくびをしている。
(ああ、眠い)
 ふらふらとした足つきで辿りつくと、蛇口を捻る。音を立てて、水が勢いを増した。鏡の中では、眠たそうな人間がまん前に立っていた。寝ぼけまなこでなんとも締まりのない顔。自分の顔なのに、思わず吹き出してしまう。
「へんな顔」
 鏡越しに呟いて、すぐに素顔に戻った。中の自分は嘲笑っている。自分で自分を笑って、なんてばからしい。独り笑うのは空々しく、むなしい事だ。すると水の音が早く顔を洗え、と急かす。おとなしくそれに従い、彼女は手で水をすくった。水は顔に何度も打ちつけられ、弾ける。
 待ちに待っていた日。ずっと楽しみにしていた。待ち遠しくて、耐えれない気持ちでいっぱいだった。さらに胸のドキドキが止められない。そのおかげで、ほとんど眠れずに朝を迎えてしまった。
 顔を流れ落ちていく水。真正面から被ると、一瞬溺れた感じにもなる。繰り返していくうちに眠気はすっかり洗い流され、気分は爽快に。水を止め、タオルで顔を拭く。ようやく目が覚めた心地になれた。しかし、それでもあくびは出てしまう。眠いのはまだ治っていないようだ。
「おはよう」
 後ろから声がした。振り返ると、ぬっとタマモが脇に割り込んで、水道の蛇口を捻った。また流れ出す水。おもむろに彼女は蛇口の下へ両手を差し伸べ、水をすくう。
「あ、おはよー」
 キヌは洗面台を彼女に譲りながら、言う。直後、タマモは顔を洗い出した。
「シロちゃんは?」
 そういえばと思って、キヌはすかさず聞いてみた。今日だけは『いつも』のように行動されてしまうと、こちらとしては困ってしまう。もし、すでに向こうに行ってしまっているなら、手遅れだ。などと、彼女は今さら不安を感じた。
 じゃああ、と水が鳴り響いている。タマモは顔を洗う手を一旦止めて、彼女の問いに答えた。
「寝てるわ」
 聞いた瞬間、心から安堵する。
「昨日、横島の奴になんか言われたみたい。用事があるとか何とか言ってたわ。そのおかげで、夜通しずっとむせび泣いてたのよ。こっちはいい迷惑だわ」
「そ、そうだったの」
 顔を洗い終わったタマモは水を止めて、タオルを手に取った。
「でも、なんでそんな事を聞くの?」
「えっ……今日もシロちゃん、横島さんと散歩かなと思って。聞いてみただけ」
「ふーん」
 顔を拭き終わり、タオルを洗濯かごに投げ入れる。
「ま、いいけど」
 そう言って、洗面所から出て行くタマモ。足音が遠のくのを確認してから、キヌは大きく息をついて、胸を撫で下ろした。
 さすがに今、聞いた発言はどきっとしてしまい、焦った。去り際で、タマモは不思議そうにこちらを見ていた。あの表情はなにか見透かしていそうである。もしかして、ばれているとか? なんとか上手くやり過ごせたはずだが。不安はよぎる。しかし、確証のないものに不安を感じているわけにもいかない。
 キヌは髪を簡単に梳かし、上手く整えた。再び鏡の前に立つ自分の姿は無表情。何を思っているのか、考えているのか読み取れない顔つきである。だが、さっきよりは締まって見えた。
「よし」
 鏡に向かって力強く答えると、彼女は洗面所を後にした。


 ◇

 
 タマモたちと一緒に朝食をすませ、食器の後片付けも終わった。まだ待ち合わせの時間には早すぎるくらい、時間が余っている。出かける前に掃除洗濯は済ませておかないと。
 そう考えたキヌは洗面所に戻った。彼女はかごへ脱ぎ捨てられたものを分けて、洗濯機に放り込むと、洗剤を振りかけた。あとは洗い方を設定して、スイッチを押すだけ。
 洗濯機は動き出した。その合間に、掃除機でざっと部屋の周りをかけた。今日はデートもあるので、大まかに。台所や居間、廊下など目立つ所だけ集中して掃除する。自然と力が入った。これからお楽しみがあるとなると、やる事なす事が楽しくなり、うきうきしてしまう。
 掃除が手早く終わると、キヌは再び洗濯機の前へ。洗い終わった衣類を中からかごへ入れて、屋上に向かった。そこにある物干しの前に立ち、洗ったものを一つずつしわを伸ばしながら洗濯バサミやハンガーで竿へ掛けていく。今日の天候は曇りがちなので、乾き具合が気になる所だ。朝食中に見たテレビの天気予報によれば、曇り所により晴れとのこと。雨は降らないそうだ。
 すべて干し終えると、空で太陽が顔を出してきた。雲が多いが、青空も垣間見える。家全体に日が当たり、すこし暖かくなった気がした。
「この様子なら大丈夫そうね」
 キヌは空になったかごを持って、また家の中へ入った。
 居間に戻り、身につけていたエプロンの紐をほどいて、台所の壁へ掛けた。これで今日の家事はだいたい終了。後は帰ってきてから、洗濯物を取り入れるだけだ。
 ふと居間の掛時計を見ると、そろそろ時間である。
 キヌは自分の部屋に戻って、出かける準備をした。服は着飾らず気張らず、普段着っぽいのを。化粧はうっすらナチュラルに。洗面所でまた髪を整えて、準備は万端。姿見の前でくるっと確認。問題はなし。ショルダーバッグを持って、いざ出発。
 と、その前に。キヌは美神の部屋へ向かった。家の主は今日も休日だからと、おおっぴらに爆睡していて、朝は起きてこなかった。もうまもなく昼なので、出かける前に起こしておかないといけない。彼女はドアを強く叩いた。
「……おキヌちゃん?」
 反応があったので、中に入る。カーテンで光は遮られ、部屋は暗いまま。
「もうお昼ですよ。起きてください」
「あとちょっとだけ」
 寝ぼけた声で美神は懇願する。だが、願いは受け入れられない。
「駄目ですよ。タマモちゃんもどこかに出かけちゃいましたし、私もこれから弓さんたちとお買い物に出かけるんですから」
「シロは?」
「シロちゃんは部屋でおとなしくしてるみたいですけど……とにかく、私も出かけちゃいますからね」
「分かったわよ、起きりゃいいんでしょ」
 不平そうに漏らして、美神は寝返りを打った。
「一応、朝食は作ってありますから。ちゃんと食べてくださいね」
「はいはい」
「それじゃあ、行ってきますね」
 キヌは言い終わると、扉を閉めようとした。すると。
「いってらっしゃい」
 声が聞こえた。はっきりとした張りのある、生々しい言葉だった。まるで楔を打ち込まれた石のように、それはまた心にも響く。気のせいにするには不可解な声だった。だが、背後には布団に潜りこんでいる美神の姿しかない。キヌはまさかと思って、振り返ったが美神はまだ寝ている。声は確かに聞こえたのに。結局、彼女は首をかしげるほかなかった。
 時計の時刻は待ち合わせの時間になろうという所。キヌは足早に部屋を去って、玄関口を出ると、横島との待ち合わせ場所へと急いだ。  


 ◇


 正午過ぎ。キヌは駅前のベンチで待ちぼうけていた。かれこれ何十分待っているのだろう。待ち合わせた場所に横島の姿はない。
「遅いなあ、横島さん」
 完全に遅刻のようだ。キヌが腕時計を見るのもこれで何度目だろう。空はどんよりとした灰色の雲が覆っている。それを見ていると、ふうっとため息が出てきた。退屈ではないのだが、うんざりしてしまう。一体、どのくらい待てば良いのだろうか。もう行く前から疲れてきた。
(早く来てほしいな……)
 今日が来るのをどれだけ心待ちにしていたか、それが横島には分からないのだろうか。
 彼との初デートだけにキヌは大きな期待を持って楽しみにしていた。しかし、どうだろう。待ち合わせた時刻はとうに過ぎ去り、期待よりも不安とイライラが積もってきている。せっかくの休日、約束した日の当日に誘ってくれた当人がいない。まるで自分が馬鹿みたいだ。
 また時計をちらりと見た。無論のことだが、時間はさらに進んでいる。キヌの中では、横島への不満が今にも噴き出しそうだった。いっその事、帰ってしまおうか。そうしてしまえば、彼も自分の犯した罪を思い知り、いい薬になるだろう。彼には反省が必要だ。と、思ったキヌは一瞬、帰り道に足を向けたのだが。
「でも」
 果たしてそれで自分が納得できるか、という疑問が湧いた。この日を一番楽しみにしていたのは、他でもない自分ではなかったのか。
 するとキヌの足どりは止まって、戸惑い始めた。帰るのは簡単だ。ただここで放り投げ出してしまうのは、自分でも納得できないだろうし、横島にとっても失礼な事である。おまけに自己否定にもなりかねない。
 頭の中でぐるぐると回転が起こり、混乱する。回転木馬のように何度も何度も同じ考えが巡り、繰り返された。その結果、キヌはもう少し待ってみることにしてみた。つまらない癇癪で、勝手に帰ってしまうのが一番まずい。ここは平常心を保つのが安全かつ最良の選択だろう。少しの辛抱さえあれば、まもなくデートが始められるのだ。
 すると、やがて通りの方から人影が一つ、こちらへ向かってくるのが見えた。
「おキヌちゃーん」
 横島だった。彼は大声を上げて、駆け足で雑踏を通り抜けてくる。キヌの元にやって来ると、彼は膝に手を付いて、息を切らせた。キヌは横島に近づいて、彼をじっと見つめる。
「ご、ごめん! 遅くなっちゃって」
 彼は苦笑いしながら、キヌの顔を見上げた。
「遅すぎですよ」
「ごめんごめん。シロに今日は散歩来んなって言ったのを忘れてて、てっきり来るもんだと思ってて」
「それで寝過ごしちゃったわけですか」
「うん」
 話しながら、呼吸を整える横島。彼は側のベンチに座り込み、ぐったりと天を仰いだ。
 確かに今日、シロは朝からずっと家にいたし、タマモの話から考えても横島の話は間違いない。となると散歩が彼女の習慣になっていたように、その付き添いのために起こされる横島が、シロを目覚まし代わりにしていたというのは想像に難くないところだ。まったくだらしないというか、彼らしいというか。
「もう。だからって、遅刻していい理由にはなりませんからね?」
 キヌは少し顔をふくらませて、横島に抗議した。やって来て早々に、冷や水浴びせるのはさすがに酷かとは思う。が、長いこと待たせられた身としてはこのくらい当然の事だろう。
「ずっと待ってたんですよ」
「ほんと、ごめん」
 大きく深呼吸しながら、彼はすまない表情で謝る。それを見ていて、キヌも段々と言い過ぎたように感じてきた。堪えているようだし、ここいらで許すとしよう。
「仕方ないですね、横島さん。これからは……」
 ぐうっと腹の虫が鳴った。それも突然。キヌが言いかけた瞬間だった。まるで不意打ちである。滅多に鳴く事なんてないのに、この場に及んで盛大に鳴ってしまうなんて。憎々しい腹の虫だ。
「おキヌちゃん?」
「はい」
「お昼、まだだったの?」
 その問いに対して、キヌは口を堅く閉じた。腹が減るくらいに待たせたのは誰だとも言いたくなったが、それよりも先に恥ずかしさの方が上回り、言葉がなかなか出なかった。
「はい……」
 ようやく出てきた声は肯定の合図。彼女は頷いて、空腹を認めた。それ以上は、気恥ずかしくてなにもすることが出来ない。
 横島がこちらを見ている。あまりじろじろ見ないで欲しい。余計に恥ずかしくなってしまう。キヌはおなかを自然に押さえて、彼の視線に耐えようとした。見つめられていると、息がつまりそうだ。
「なら、おれと一緒だ」
 いきなり、彼は笑顔で答えた。
「急いできたから、何も食べてなくてさ。朝飯もまだだよ」
「そうだったんですか」
 横島がそう言うのを聞いて、キヌも少し安心した。やっぱり誰だって、おなかは減るものだと気が楽になった。
「じゃあ、行こっか」
「まずはお昼を食べに、ですね」
 キヌはふふっと笑みをこぼす。それは同じく横島も。お互いに微笑んで、駅の改札口へ向かうことにした。気付けば、いつの間にやらデートは始まっていた。


 ◇


「ごちそうさまでした」
 都内のファーストフード店。キヌと横島は映画館に行く前に、お互いの空腹を満たしていた。二人とも注文したメニューを食べ終わり、一息ついたところである。
「でもいいんですか? 私、おごってもらったりなんかして」
 昼食の代金は全て横島の財布から、支払われている。だからこそ、余計に心配だった。彼はかつて時給二百五十五円という異常な薄給で雇われていた過去もある。
「大丈夫、お金ならまだあるから。おれだって以前よりは多くもらってるんだぜ?」
「そうなんですか? なら安心なんですけど」
 どうやら杞憂だったみたいだ。だが、少し意外な気もした。
「待たせちゃったお詫びもあるしね」
 横島が少し微笑んで言う。すると、キヌは先ほどの出来事を思い出して、また恥ずかしくなってきた。
「その話は、もう止めてくださいって」
「けど、おキヌちゃんでもおなか鳴るんだね」
「横島さん!」
 彼女はうろたえながらも、横島を牽制する。
「ははっ、ごめんごめん。でも、あんな風に」
「もうっ」
 キヌは聞いていられなくなって、席を立ち上がった。
「お手洗い、行ってきますね」
「ああ。じゃあおれ、これを片付けて入り口で待ってるから」
 そう言って、横島はトレイを手にして立ち上がる。お手洗いに向かうと、キヌは鏡の前で立ち尽くした。大きく息をつくと、自分の顔を見る。そして、にっこりと笑顔。顔は少し赤かった。彼が話を蒸し返すからだ。きっとさっきの会話でも、おなかが鳴った時も、真っ赤に頬を染めていたのだろう。考えただけでも、顔の体温が上がりそうだ。
 ともあれ、彼女は心を落ち着ける。まだ映画館にもまだたどり着いてもないのに、この有様だ。キヌは必死に自分の感情を抑えつける。何度も大きく深呼吸をして、昂ぶりをなくそうとした。
 予期しない出来事が起こり続けている。ほんの些細な事ばかりだが、キヌが想像していたものより大分違っていた。物事が上手くいった試しはないということか。
(デートって、こんなものなのかな)
 彼女の中では拍子抜けした所もあったが、やはり楽しいということには変わりはなかった。それにまだ始まったばかりである。
 面と鏡に向かい、顔を引き締める思いで、気を取り直す。鏡の自分は相変わらずの表情だが、期待に満ちているようにも見えた。すこし髪を整え、キヌはお手洗いを出ようとする。と、店内側から扉が開いた。
「あっ」
「え、おキヌちゃん?」
 中へ入ってきたのはタマモ。キヌは目を疑った。まさかとも思った。こんな街中のありふれた飲食店で知り合いとばったりと対面するなんて。彼女は鳩が豆鉄砲喰らったように、鉢合わせた相手を見る。向こうも偶然居合わせたのに驚いているらしい。お互い、状況は一緒のようだ。キヌは落ち着いて、タマモに話しかけた。
「なんでここにいるの?」
「なんでって、ここですることと言えば一つしかないと思うけど」
 むろん、ここはお手洗いである。もちろん便器もちゃんと設置されていた。
「そ、そうだったわね」
 まずい。急に心臓の動きが早くなった気がした。焦りと動揺が踊り出し、キヌはなんとか作り出した笑みを見せる以外に手段が思いつかなかった。
「おキヌちゃんこそ、なんでここに?」
「え……あ! そう、弓さんたちとの買い物途中で、お昼をここで食べ終わったところなのよ! で、私がトイレに行きたかったから、二人には先に行って待っててもらってるの」
「そうなの?」
「そうよ」
 まごついたが、キヌはなんとかかんとか言い逃れることに成功した。
「タマモちゃんはお昼食べたの?」
 すると間髪入れず、話を逸らそうと彼女はタマモに話題を振る。
「まだだけど。けっこう遠出しちゃったからここで食べていこうかなって」
「じゃあ、作っておいたお昼、無駄になっちゃったわね」
「大丈夫じゃない? シロがいるんだし」
「そうよね! あ、じゃあ、みんな待ってるし。私行かなくちゃ」
「う、うん。じゃあまた後で」
「ごめんね、タマモちゃん」
 キヌは強引に話を断ち切って、急ぎ足でお手洗いを出て行った。大丈夫だろうか。あの様子だと、横島との事はバレていないようである。だが逆に、危険は増す。心配だ。タマモが彼を見たかどうか。見ていなければいいのだが。どちらにせよ、ここに長居は無用である。
 彼女は店を出ると、横島を探す。彼は店の外脇に立って、辺りを見回している。どうも人込みの中に潜む美女を探そうと躍起になっているらしい。目がきょろきょろ動いていた。
「横島さん!」
 キヌはすぐに駆け寄って、声を掛ける。横島はびくっと身を震え上がらせて、こちらを見た。そんなにびくつくくらいなら、やらなきゃいいのに。と、彼女はやれやれといった表情で笑ってみせる。
「なに見てたんですか?」
「いやなに、天気を見てたんだよ。ははは……!」
 彼の引きつった空笑いが霧散する。不器用な演技だった。表情、声からしてもその笑いが照れ隠しなのが丸分かりである。その開き直り方には目を覆うほどだった。呆れてものも言えないが、それよりもこの場所から早く逃げ出したい衝動にキヌは駆られていた。
「まあ、いいですけど。と、とにかく早く行きましょう、映画館!」
 横島に苦言の一言すら言えない。店内にはタマモが居る。見られているかと思うと気が気ではない。彼女は一人で切迫した心持ちになっていた。
「ん、ああ」
 キヌは彼の腕を少し引っ張りながら、急いで店を離れていく。彼女の歩調は非常に軽快で、気持ちも弾んでいた。それとは裏腹に彼女の心は、不安と期待が複雑に入り混じっている。この状況を見られているかもしれないという不安。いよいよ一緒に映画を見るんだという期待感。その二つが絡み合い、彼女を苛む。
 助けてと叫びたい。が、こんな大勢の人前で言い出す勇気もない。隣に居るのは横島。彼の横顔を見て、いてもたってもいられなくなったのだろうか。次第にキヌは彼の腕をぎゅっと抱きしめ、二度と離さないくらいに力強く持った。
「おキヌちゃん」
「少しこのままでいさせてください」
 それ以上、横島はなにも言わなかった。離したくない腕。キヌは彼の体に寄りかかり、歩調を合わせた。歩く速度はだんだんとゆっくりになってゆく。一歩ずつ歩くたびに、不思議と安心感が生まれてきた。同時にほっとするような暖かさも感じる。さらには不安すらも嘘のように消え去っていく。一体どうした事だろう。彼女はふと彼の顔を見た。
(横島さん)
 キヌは心の中で呟く。これも愛なのだろうか。それは当事者にすら分からない。でも、きっとそうなのだろう。今一瞬、彼が支えてくれたような気がしたからだ。
「なに?」
 横島はキヌの視線に気付き、なにか不思議そうだ。すると彼女は微笑んで言った。
「なんでもありませんよ」 
 ずっと捕まえていたい。キヌは両手を彼の腕に優しく巻きつけた。そして、二人は寄り添いながら一路、映画館を目指す。


 ◇


 映画館は混んでいた。昼はとうに過ぎているこの時間。デートスポットとしては格好の場所でもある。ましてや、今日は祝日だ。家族連れも多いことだろう。
 二人のやってきた場所はシネマコンプレックスと呼ばれる、大手の複合映画館だった。上映ラインナップは軒並み人気作。売り場の上にある、デジタル座席状況ではすでにほとんどの席が埋まってしまっていた。残っているのはレイトショーの上映だけ。しかし、二人は高校生だ。原則的に18歳未満は見ることが出来ない。それにキヌは帰って晩ごはんの仕度もしなくてはいけないから、なおさら無理がある。
「人、いっぱいですね」
 映画を楽しみにしてやって来たキヌにとって、この状況は落胆以外の何物でもない。
「うわ、ちょっと甘かったかなあ」
 横島もしまったなという顔つきで、館内の人だかりを目の当たりにしている。入場案内のアナウンスに導かれ、人の波がうごめく。キヌたちは入り口前に立ち尽くしていた。 
「どうするんですか、横島さん」
「どうって、これじゃあ……」
 キヌは彼と顔を見合わせて、館内の人ごみをまた見る。一向に減る気配はなく、人はますます増えているようにも思えた。やはり映画は見られないのだろうか。彼女はよけい心配になった。
「別の所、行く?」
「そんな」
 横島がこちらの顔をうかがって聞いてきた。彼の思いよらぬ一言にキヌは隣を見上げる。対して彼は困った表情をすると、話を続けた。
「でも、招待券はここでしか使えないし。お金はあるけど、見るとなると待たなきゃならないよ。いいの?」
 すると横島は胸から招待券を取り出し、彼女に見せる。キヌはすっかり黙って、考え込んでしまった。どのみちここで映画を見るとなると、待たなければならないのだ。彼女にはそれが時間の無駄のように思えた。だったら、他の場所に行き、デートらしく二人で歩き回った方がいい。しかし、映画館も捨てがたいのも事実。さて、どうしたものか。
「その券、ここじゃないとだめなんですか」
「ああ。ほらこの通り、ここに映画館の名前が……ん?」
 招待券を手に持ち、横島はその裏面をキヌに見せる。長方形のチケットの裏には、利用できる映画館の一覧が細かく書いてあった。他にも招待券の注意事項やら案内も載っている。
「使えるとこ、ここだけじゃないみたいですね」
 すぐに彼女たちは目を一覧に向けた。いくつも利用可能な映画館があったがここからだと、いくぶん遠い所ばかり。細かい文字と格闘しながら、近場の映画館を探す。一枚の券を間に二人の体が寄せ合って裏面を見る姿は、鳥のつがいにも思えた。
「あっ、横島さん。ここ、近いですよ」
「どれどれ」 
 キヌが見つけたのは、この街の映画館。どうやら近くにもう一つあるみたいだ。
「ここから出て探した方が早そうですね」
「うん。行こう、おキヌちゃん」
 二人は勇んで、その映画館を出た。また街へ繰り出し、券に記載された別の映画館を捜し求める。幸い住所が載っていたので、それを頼りに歩くことにした。
 途中、交番でお巡りさんに道を聞く。その案内によると、目的の映画館は繁華街を少し外れたところにあるらしい。キヌたちは町の中心へと急ぐ人と騒音を背にして、また目指す。大通りを離れ、こじんまりとした車道と並木の歩道へ出た。小じゃれた石畳の道が目の前に広がる。多少、人の往来もあるが 賑やかではない。行き交う車も大通りほどではなかった。落ち着いた雰囲気の商店街という印象だ。
「だいぶ駅から離れちゃったけど、大丈夫かなあ」
 きょときょとと辺りを目配せする横島。この辺りは彼も来た事がないらしい。先ほどの美女漁りとは打って変わって、その眼は不安そうだった。
「大丈夫ですよ、道は覚えてますから」
 キヌは笑って答えた。歩いて既に二十分くらいは経っているだろうか。彼女は一向に疲れを知らない。なんとしてでも彼と映画を見たいという心が彼女を突き動かしていた。それが実現する事が楽しみなのだ。早く、早くと急かす気持ちを必死に抑えながら、足だけは目的地へしっかりと歩み寄っている。もうすぐなのだ。いよいよ横島との映画鑑賞。胸は高まりを抑えられない。頭上は灰色の空が淀み、中で太陽が燻ぶり続けている。憂鬱な天候にもかかわらず、彼女は一人で最高潮に達していた。
 その映画館は古めかしい建物だった。どことなく時代を感じさせる風格。年季の入った昔ながらの映画館といった所か。
「ぼろっちい建物だなあ」
 横島が言う。確かにその通りだったが、入り口の上の壁には真新しい看板絵が飾られている。どうやら営業はしているらしい。それにしても上映館が二つしかない。先ほどの映画館に比べたら、恐ろしく少なかった。
「ま、とにかく入ってみるか」
「そうですね」
「すみません、これでお願いします」
 そう言うと横島が売り場に向かって、招待券を差し出した。
「おキヌちゃん、どっち見る?」
「うーん、どっちでもいいですよ」
 キヌは彼に促された。といっても、彼女が映画に詳しいわけでもない。脇にある立て看板を見ても、ともに見たことも聞いた事もない映画だった。なので、少し悩んだふりをして、答を濁す。
「えーとじゃ、上映の早い方で」
 彼女を尻目に、横島は即決した。
「え? あ、はい。分かりました」
 売り場の人から入場券を受け取って、彼はキヌの所へ戻ってきた。
「お待たせ。もう上映が始まってるらしいから、急ごう」
「大丈夫なんですか」
「うん。今から向かえばまだ大丈夫だって。売り場のおばちゃんが言ってた」
 キヌは横島から券を受け取り、二人は中へ急いだ。上映館は一番館。少し重い扉を開くと、館内は真っ暗。薄暗くてよくは見えないが、席はまばらに埋まっていた。二人は早速、入り込んで中ぐらいの真正面の席に座り込む。
 スクリーンではようやく前説の宣伝が終わり、いよいよ本編が始まろうとしている。
「急いで飲み物とポップコーン買ってくるよ。なにがいい?」
「烏龍茶があればお願いします。なければコーラでもなんでも」
「オッケー」
 注文を聞くと横島は静かに席を立って、扉に向かって駆けていった。スクリーンの向こうでは冒頭のシーンが始まっている。字幕から察するに飛行機の中らしい。しばらくして、彼が戻ってきた。
「はい、おキヌちゃん」
 注文どおりの烏龍茶。それとポップコーン。
「ありがとうございます」
 受け取ると、横島が隣に座りなおした。シーンが変わって、静かなギターの音色と男性コーラスが流れ、タイトルロールが始まる。映像から受ける印象からすると、昔の映画だろうか。キヌはストローから烏龍茶を飲んだ。主役らしき男性の顔はどこかで見たような気がする。でも、名前が思い出せない。
「横島さん。あの人、なんて名前でしたっけ」
「えーと」
 どうも彼もよく覚えてないらしい。そうこうしている内にまた場面が変わってしまった。結局、名前は分からないまま。キヌはあきらめて話に集中する事にした。
 内容は恋愛もののようだ。ふとしたきっかけで親の友人の夫人と関係を持つことになった主人公。そこに夫人の娘が休みで帰って来る。最初は親の勧めで、彼女と付き合い始めたのだが、彼は次第に彼女の魅力に引かれていく。しかし、それに気付いた夫人は黙っていなかった。
 だいぶ古い映画のようで、淡々と話が進む。横島は退屈そうだったが、女性が脱ぎ出すシーンになるとその度に目の色を変えて、凝視していた。
「早く脱がんかーっ」
 彼はまくし立てて叫んでいたが、そのシーンがあっさり終わるとすごくガッカリしている。キヌは横で見ていて、少し他人のふりをしたくなった。こういう反応は一緒に見ている時くらい、我慢して欲しいと思う。
(まったく相変わらずなんだから)
 でもそこが憎めないんだと苦笑して、彼女はポップコーンをつまんで口に入れた。
 映画はまだまだ続く。主人公は夫人との関係を切る事が出来ず悩み、夫人は自分の娘と主人公の関係を嫉んで、娘に関係をばらし、彼女はショックを受けてしまう。これ以上にないベタな三角関係が繰り広げられ、その合間に瑞々しい映像が描写される。
 銀幕の中で紡がれる物語は決して派手ではない。淡々と地味に描かれるドラマだ。苦悩する主人公、嫉妬する夫人、彼に絶望するが忘れられない娘。お互いにすれ違ったまま、彼女はついに結婚式へ。三者三様の人間描写が積み上げられ、そして物語はクライマックスに向かう。
 ラストシーン。誓いの言葉を前にして、教会のドアが開かれる。娘の名を叫ぶ主人公。それに振り向くと、彼女は結婚相手を押しやって、主人公の所へ向かう。抱き合いそして
、二人は教会の外へ。追う参列者、そして結婚相手、夫人と彼女の夫。主人公と娘は手を取り合って、バスへ駆け込む。最後方の席に座り、バックで教会が遠のいていく。そして雪崩れ込むようにエンドロールに入って、一巻の終わり。
 キヌは少し涙ぐんでいた。いい映画だった。主人公が少し気味悪かったが、それでも最後の場面は感動ものだった。ハンカチで涙を拭って、キヌは隣に話しかける。
「よかったですね、横島さ……」
 彼女は見た瞬間、唖然とした。横島は眠りこけていたのだ。それもぐっすりでいびきをかいている。信じられない。とにかくキヌは揺さぶって起こすことにした。
「横島さん?」
 声が耳に届いたのか、彼は大あくびをしながら目を覚ます。
「ん、終わったの?」
 横島はまたあくびをして、聞いてくる。せっかくの感動が台無しだ。エンドロールも終わり、館内にまばゆい明かりがついた。まばらにいた客も次々と外へ出て行く。しかし、二人は席を立とうとしない。キヌは横島をずっと見つめている。言い知れぬ感情が渦巻き始めていた。
「見てなかったんですか」
 キヌは気持ちを抑えながら、絞り出すように声を発した。
「途中でなんか眠くなっちゃってね。気付いたら、おキヌちゃんに起こされてた」
「じゃあ、ほとんど見てなかったってことですね」
「そ、そういうことになるかな。ははは……」
 薄気味悪い笑い声を出して、彼は肯定する。それがどうしても許せなかった。
「横島さんのバカ!」
 もう我慢できない。彼を置いて走り出すと、映画館を抜けて駅方面へ向かった。もうなにがなんだか。初めてのデート。こんな展開は望んでもいなかった。
 外は夕方になって薄暗くなっていた。雲の狭間からは橙色の太陽が見える。彼女は数十メートル走った後、立ち止まった。はあはあと息を切らす。空を見上げて、彼女は途方に暮れた。
(なにをやってるんだろ、私)
 こんなことやっても気持ちは晴れない。分かっているはずなのに、また。それと同じように終わった事も取り返しはつかないのだ。だからといって、彼のしたことを簡単に許すなど出来るはずも。
「おキヌちゃーん」
 すると、横島が後を追ってきた。
「横島さん」
「えと、ごめん」
 いきなり彼が申し訳なさそうな顔をして、謝り始めた。しかし唐突に謝られても、その真意が分からないので困ってしまう。
「どうしたんですか」
 キヌは問いただしも含めて聞き返した。
「あ、いや」
 横島は情けない声を出して、頭をかく。
「なんというか今日はおれのせいで。こっちが遅刻したり、寝ちゃったりでおキヌちゃんにすごく悪いこと、しちゃったなって」
「そうですね」
 キヌはにべもなく答える。彼がそう思ってくれたのは嬉しいのだが、もうちょっと早く気付いて欲しかった。
「だ、だから本当に悪かったと思ったんだってば。嘘じゃないぜ?」
「本当ですか?」
「本当さ、バカって言われたのは結構ショックだったよ」
「じゃあ、今度から言われないように気をつけてくださいね」
「だからごめんって……え? 今なんて」
 思わぬキヌの言葉に、横島は驚いている。彼女はその表情をうかがいながら、彼が心の底から謝っていたことを確認した。
「今日は横島さんのせいで散々でした。予定もだいぶ狂いましたし、それに一緒に映画見たのに横島さんは寝ちゃってますし。でもいいんです」
 確かに許せないことが多かった一日。しかし、考え直してみれば、平凡なデートをするよりは色々な事があったのではないだろうか。
「横島さんもちゃんと謝ってくれましたんだし、ひとまずここは許してあげます。今度、こんな事あったら許しませんよ?」
 最後に釘を刺して、キヌは話を終えた。
「うん、約束する」
 横島は静かに頷いた。気付けば、日もすっかり落ちている。二人もそろそろ帰らないといけない時間に差し掛かっていた。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
 そして、キヌたちは駅へ仲良く向かう。二人の手は重なり、固く抱きしめられていた。


 ◇


 初デートがまもなく終わる。キヌは帰りの電車の中で、それを強く感じた。
 ちょうどよく二人は乗車席に座れたので、肩を隣り合わせていた。席は少しすし詰めな感じできつかった。
「大丈夫?」
「あ、はい」
 横島が気に掛けてくれたので、返事をする。特にこれといって問題はなかったので、キヌはにっこりと答えた。
 帰り先の駅まではまだ何駅か間がある。それにしても今日は大変な一日だった。思い出になりそうな出来事がたくさんある。その大半は隣にいる彼のせいだ。嫌なことが多かったが強烈な印象は残った。初めてのデートしては十分すぎるくらいだろう。
(こっちもすこし恥ずかしい事があったけど)
 どちらにしても忘れられそうにない一日になりそうだ。今日はともかく、これから横島といろいろ体験していくはずだし、次が楽しめればいいなとキヌは考えた。
 ふと背中越しに窓から外を見る。もうすっかり夜だ。建物の明かりはあるものの、景色は真っ暗で何も見えない。闇とは言わないが、近くのものしか見えないので遠くのものは見えないのと一緒だった。
 それを見て、キヌは突然、今日見た映画のラストシーンを思い出す。そして疑問が思い浮かんだ。あの後、主人公たちはどうなったのだろうかと。幸せに暮らしたのだろうか。もしかしたら、また別れてしまっているかもしれない。ラストシーンのその後。それは誰も知らない。
「おキヌちゃん」
「え、なんですか」
 横島が呼んでいた。
「なんか外見て、真剣そうな顔してたから気になって」
「すみません、でもなんでもないんです」
「そう」
(まさか、ね)
 これから自分たちはどうなるのだろう。キヌは先のことを想像してみる。でも、どうなるかは本人達でも分からない。だから楽しみでもあり不安でもある。しかし、この時、キヌの脳裏に嫌な考えが浮かんだ。
(横島さん)
 今は、今だからこうしていたい。キヌは急に身体を横島へ寄りかからせた。肩越しに彼の体温が感じられる。彼女は一瞬、勝った不安を打ち消すかのように彼の存在を確認した。まるで幸せを噛み締めるように。
「なんか疲れてきちゃいました」
 不安のために張り詰めた緊張が一気にほどけたのか、次第にまぶたが落ちてきた。そういえば、昨日から眠れていないのを忘れていた。
「おキヌちゃん?」
 横島が呼びかけたときには、キヌは夢の中へ落ちていた。彼女は横島に寄りかかりすやすやと眠る。彼は少し重たそうにしたが彼女から、良い香りが鼻腔をくすぐるとまんざらでもないようだった。
 電車は二人を乗せて、夜の線路を駆け抜けていく。キヌたちのデートが終わりを告げようとしていた。彼女は深く眠っている。今日一日の出来事を胸に、これからを夢見ながら。降りる駅はもうまもなくだ。



 続く


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