椎名作品二次創作小説投稿広場


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投稿者名:UG
投稿日時:06/ 1/15


 ―――これは雪之丞の恋愛に関する物語だ


 トン!

 音もなく後ろから近づいた雪之丞の手刀が、見張り役らしき男の延髄に吸い込まれる。
 一言も発さないまま意識を失った男の体を支えると、雪之丞は物陰にその男の体を引きずり込んだ。

 横浜港
 雪之丞は倉庫の鉄扉の前で腕時計に視線を落とす。
 AM1:00
 依頼主から聞いた情報が正しければ、この中であるものの取引が行われるらしい。
 その取引を妨害するだけで、しばらくは修行に専念できるだけの報酬を雪之丞は約束されている。

 「そろそろか・・・・」

 雪之丞はワザと大きな音を立て鉄扉を開けた。

 「!」

 倉庫内にいた数名の男たちが一斉に雪之丞の方を向く。
 驚愕の表情を浮かべた双方の代表らしき二人の背後で、ガードらしき男たちが懐に手を伸ばすのが見えた。

 雪之丞は相手の利き腕側に飛び込みながら、右手の指に挟み込むように持っていたクナイを男たちに投擲する。
 男たちは手に持った拳銃を発射することなく、正確に利き手を貫いた鋭利な金属片に苦痛の呻きを漏らした。

 雪之丞が回転し起きあがった所に青竜刀を持った男たちが斬りかかってくる。
 軽く上体を反らしてかわすとカウンター気味に先頭の男の膝にローを叩き込んだ。

 アクション映画さながらの動きで、雪之丞は斬りかかってくる相手をかわしながら腕や膝を破壊する。
 観察眼のある者がこの場にいたとしたら、足を破壊され動けなくなっている者と逃げ足を残している者とに共通点があることに気づいたことだろう。
 雪之丞は、取引を行っている片方の組織からのみ機動力・・・逃げ足を奪っていた。

 「ボーナスポイントはついたようだな・・・」

 雪之丞は中央で固まっていた代表の一人が、何かの包みを脇に抱え逃走の姿勢に移ったことを確認する。
 身内らしき3人の男たちも、破壊された肘関節やクナイに貫かれた利き手を庇いながら男の後を追っていた。

 「おっと!お前は逃がさん・・・」

 自分も逃走に移ろうとしたもう一人の男は、雪之丞の投げたクナイに足を貫かれその場に倒れ込んだ。

 「お前たちの方が運がいいかもしれないぞ・・・」

 雪之丞は逃走した男たちを見送ってから、必死にクナイを引き抜こうとしている男に近づく。

 「法で裁いて貰えるんだからな。こんなモノを扱っているヤツでも・・・・・・」

 近くに転がっているケースには白い粉が入った包みが詰まっていた。
 雪之丞はゆっくりと、男の足に刺さったクナイを踏みつける。
 男の苦痛の叫びが倉庫内に響き渡った。

 「!」

 背後で沸き上がる殺気に雪之丞は振り返る。
 騒ぎを聞きつけ現れたのだろう、取引現場にいた取り巻きとは明らかに異質な雰囲気の男が倉庫の入り口に立っていた。
 男の出現に、周囲に倒れている男たちは安堵ではなく恐怖の表情を浮かべていた。

 「や、止めてくれ先生」

 取り巻きの一人が放った言葉のイントネーションで、雪之丞はこの者たちの背景をある程度推測できた。
 そして朧気な推測にしかすぎなかった依頼主の意図に確信を持つ。
 現れた男は近くにいる仲間たちに近づいていくと、その頭頂部と頸部、脊髄に深々と針を射し込んでいった。

 「ぐわああああぁぁ・・・・・・・・・・・・・」

 針を刺された男は、針による苦痛に一瞬白目を剥いた後、意識の感じられないドロリとした視線を雪之丞に向けた。
 そしてその表情からは想像も出来ない俊敏な速度で、自分に対して投じられたクナイを片手でキャッチする。
 手の平が裂けたのを全く気にした様子もなく、その男はクナイを足下に投げ捨てた。

 「・・・・ようやっと俺向きの相手が出てきたか」

 雪之丞はそう言うと、次々に起きあがってくるドロリ目の手下たちに凄まじい笑みを見せた。






 ―――もう一度言う、これは雪之丞の恋愛に関する物語だ







 AM3:00
 横浜中華街

 「急な仕事で悪かったね・・・・これ約束の報酬よ」

 世界最大級の中華街である横浜中華街の某所で雪之丞は依頼主から報酬を受け取っていた。
 ずっと起きて雪之丞を待っていたのだろう。
 人の良さそうな老人は雪之丞に2センチ程度の厚みのある封筒を手渡す。
 雪之丞は中身を確認することなくポケットに仕舞おうとしたが、その時になってようやく自分の服が戦闘によって破けている事に気づく。
 ポケットに手を入れ中身の手応えがないことに一瞬表情を変えたが、そのまま何事もなかったかのように報酬を懐にしまい立ち去ろうとする。

 「沈黙は金・・・・・流石ユキノジョさん。荷物とか、あの男たちの正体とか、気にならないか?」

 「興味がない・・・・逃げた男たちがどうなったのかもな」

 雪之丞の言葉に老人は複雑な表情を浮かべた。

 「台無しねユキノジョさん・・・でも、アナタはそっちの方がいい。あの荷物はソーマよ」

 「ソーマ?実在したのか?」

 老人が口にした植物の名前に雪之丞はその足を止めた。
 知識に乏しい雪之丞でも様々な神話に姿を現すその植物の名は聞いたことがある。
 GS業界にまことしやかに囁かれる噂によれば、中国のチベット侵攻はその植物の存在を巡ってのものらしい。

 「そう、戦火を逃れこの街に運ばれてきた最後の一本・・・正しい使用法は散逸してしまったけどね。どこから聞きつけたかあの男たちはそれを手に入れようとした」

 老人は舌の回りを良くしようとお茶を一口飲む。
 雪之丞には葉の種類など分からなかったが、今まで飲んだものとはレベルが数段異なる香りのお茶だった。

 「今のあの国には色々な意味で本物は殆ど存在しないのね。近代の動乱で本物はほぼ全て焼失したか海外に流出した・・・それを取り戻そうとかなり無茶な方法で集めにかかっているのよ。あの針師の技もその一つ・・・・あの技を使われたらもうヒトでないね」

 「ひょっとして気を遣わせているか?」

 雪之丞はいつになく雄弁な老人が自分を気遣っているように感じていた。
 倉庫での取引を妨害した1時間後、通報をうけて駆けつけた神奈川県警は倉庫の中に原型を留めていない数体の死体と、大量の薬物、発狂したリーダーらしき男を発見している。

 「生憎、俺はそんなにヤワじゃない。以前にも同じ釜の・・・・・」

 何故か雪之丞はこの単語の所で詰まる。

 「同じ修行をしていたヤツを手にかけている・・・・そういう世界で俺は育った」

 「生まれは違った筈ね・・・ユキノジョさん。あなたの目には生まれついての職業凶手にはない光がある。アナタとアナタを産んだ親御さんは本物よ」

 母親の事を出された雪之丞の表情が僅かに揺らぐ、一瞬見せかけた表情はハードな世界には似合わないものだった。

 「そう、その顔、その顔が出来るウチは大丈夫。ワタシの孫はそれが出来なくなっていた・・・・・」

 「まさか、取引場所にいたのは・・・」

 「馬鹿な子よ。本物と偽物の違いも知ろうとせず、その価値が分からないまま一族の宝を麻薬なんかに代えようとして・・・・感謝してるねユキノジョさん。御陰であの子は人らしい最期を迎える事ができる」

 取引が妨害され、逃げ帰った先で老人の孫がどの様な運命を迎えようとしているのか雪之丞には容易く想像できた。
 しかし、その最後は一族の宝を持ち逃げした男としての末路よりは比べものにならない程安らかなものだろう。
 老人が雄弁だった訳を理解した雪之丞は、かける言葉も見つけられないまま黙ってその場を後にした。








 幾つもの細い路地を抜け、雪之丞はようやく大きな通りにつながる小道に辿り着いた。
 世界各国に点在する中華街の中で最も観光地化していると言われている横浜中華街であったが、一本路地に入るだけで容易く別世界に迷い込む。
 八門遁甲の陣などで知られる道教の術理に基づいた都市設計により、外界から隔離された本当の中華街が存在することを30m離れた大通りを肉まん片手に歩く観光客が気付くことはない。
 雪之丞が一歩小道に足を踏み入れると結界を跨ぐときの独特な感覚が襲ってくる。
 それと同時に雪之丞は辺りに漂うトラブルの匂いを感じ取った。
 深夜にもかかわらず、どう見ても堅気とは思えない男たちが周囲を鋭い視線で見回していた。

 「お前、さっきからずっと此所にいたのか!」

 路地から出たばかりの雪之丞に、今気付いたとばかりに男たちの中で一番の大男が話しかける。
 男たちは雪之丞の背後にある路地を認識出来ていない。
 その為、男たちはずっとこの場所に立っていた雪之丞に自分たちが今気付いたのだと勘違いをしていた。

 「若い女を見なかったか?店の品物に手を出した女でな、身体検査の最中に逃げ出しやがった」

 問いかけられた雪之丞が無言で大通りの方を指さすと、男たちは急いでそちらの方向に走り出していく。
 男たちが角を曲がったのを確認してから、雪之丞は店の外に積まれたビールケースの影に視線を送った。

 「男たちは行った・・・・それに、それ以上その道に入っていくと出るのに苦労するぞ」

 ビールケースの背後に微かに認識することが出来る路地の奥には、街に悪意をもって侵入しようとする者たちへの罠が待ちかまえている。
 依頼者の老人から受けた注意を口にする雪之丞の声に、ビールケースの向こうに隠れるようにしていた人影が姿を現した。

 「!」

 雪之丞は現れた女の姿に一瞬息を呑む。
 身体検査の最中に逃げ出したと言われていた女は、下着だけの姿で雪之丞の前に姿を現していた。
 それも下だけの姿で・・・
 雪之丞と同じ位の年齢だろうか?
 その女は均整のとれたプロポーションを隠すことなく雪之丞の目を真っ直ぐ見つめた。

 ―――ママに似ている

 雪之丞は月明かりに照らされている女を呆然と見つめていた。
 月の光を弾くような瑞々しい均整のとれた裸身と、その上にある整った顔、その中で自分を見つめる意思の強さを感じさせる瞳。
 豊かな長い髪を団子状にして左右でまとめた中華独特の髪は、綺麗な細工が施してある水晶の髪飾りで止められていた。

 「やっぱり隠れていたか」

 先程の男の声が小道の端から聞こえてきた。
 女はその声に慌てたように胸を隠すと、反対側の通りに向かい走り出そうとする。
 しかし、新たに立ちはだかった別働隊らしき男たちにすぐにその足を止めてしまう。
 数を増やした男たちはジリジリと雪之丞と女を包囲するように距離を狭めてきた。

 「ヘッ、意外そうな顔をしているな・・・」

 先程雪之丞に尋ねた男が、憮然とした表情の雪之丞に蔑みの視線を送る。

 「チビはよく嘘をつく・・・弱い自分の身を守・・・ガハッ!」

 雪之丞に対しての禁句を口にした大男は、鳩尾にめり込んだ右拳に苦悶の表情を浮かべた。
 いつもの雪之丞ならば、苦痛に体を折り曲げた所を延髄への一撃で意識を刈り取る。
 しかし、禁句を口にしたこの男はそう簡単に楽にするつもりは無いらしい。
 男がようやく意識を失えたのは、雪之丞に襲いかかった自分の部下が一人残らずたたきのめされた後の事だった。

 「ありがとうございます」

 女は雪之丞の手を取り感謝の言葉を口にする。
 咄嗟のこととはいえ、女の危機を救った形となった雪之丞は目のやり場に困ったように女から視線を外す。

 「まず、何か・・・・・・・・」

 まず何か着ろ。
 そう言おうとした雪之丞は、女のとった行動と台詞に一瞬固まってしまう。
 女は雪之丞の手を自分の胸に当て、雪之丞の目を真っ直ぐ見つめこう口にした。

 「お願いがあります。私を明日の9:00までに新宿に連れて行って下さい。報酬が必要なら私の体で払います・・・・」

 雪之丞は柔らかな弾力と体温の奥に、早鐘のように脈打つ女の心臓の存在を感じている。
 そしてそれは、気丈そうに見える彼女の行動がギリギリの賭であることを雪之丞に伝えていた。
 雪之丞は無言で女の胸から手を離すと、背後の衣料品店のショウウインドウに手の平を当てる。
 照明が落ちた店内でチャイナドレス姿のマネキンが虚ろな目を雪之丞に向けていた。
 ガラスの冷たい手触りが女の胸の感触を打ち消した事に、若干のもったいなさを感じながら雪之丞が霊気を放出する。
 ショウウインドウの表面に細かな亀裂が生じ、強化ガラスは音もなく砕け散った。

 「先ずは服を着ろ。丁度俺もその近くに9:00までに行く用事がある」

 こう言うと雪之丞は腕時計にアラームをセットする。
 それをガードの承諾と受け取った女は、ようやく緊張を解いたように笑みを浮かべると砕けたガラスに注意しながらショウウインドウの中に入っていく。
 女が浮かべた年相応の笑みに雪之丞は遅まきながらその顔を赤らめていた。



 「お待たせしました」

 追っ手は足下に転がる男たちばかりではないのだろう。
 女はすぐにチャイナドレスを身につけショウケースから姿を現す。
 雪之丞はまるでオーダーメイドでしつらえたかのようなその姿に感心したような表情を浮かべると、男たちの財布から抜き出した現金全部を迷惑料としてマネキンの足下に挟み込んだ。
 財布を物色したのは男たちの正体を探るためだったが、生憎手がかりとなるような物は数枚の外国紙幣以外無い。
 しかし、男たちのイントネーションから雪之丞は先程倉庫で戦った男たちと何らかの関連があることに気付いていた。
 後々への影響を考え、すでに男たちの体は路地へと放り込んである。
 自力で脱出するには運が良くて良くて数日、悪ければ出られない筈だ。

 「名乗るのが遅れました。私の名は、茗(メイ)明鈴と言います」

 「俺の名は・・!」

 名乗ろうとした雪之丞は、上空からの視線を感じ顔をそちらに向けぬよう意識のみを向ける。
 九龍でヤバイ連中ともめたときにも同様の視線を感じたことがあった。

 ――― 千里眼(遠視能力者)

 遠くのものを視ることにのみ霊能力を特化させた能力者の視線を雪之丞は確かに感じていた。

 「・・・俺のことはヤムチャとでも呼んでくれ」

 監視されている事に気付いた雪之丞は偽名を名乗ると、茗明鈴の手を取り人気のない中華街を走り出した。



 十分後、渋谷と中華街を結ぶ地下鉄の線路を二人は歩いていた。
 始発までまだだいぶ時間があるとはいえ、追っ手がかかることを考えた場合決して賢い逃走経路ではなかった。
 
 「ヤムチャさん・・・ここを通ることに何か意味があるのですか?」

 茗明鈴は走り出してから初めて口を開く。
 雪之丞の雰囲気から張りつめたモノが薄れたのを見越しての事だった。

 「千里眼・・・遠視能力者にさっきまで覗かれていた。奴らの視線から逃れるには地下深くに潜るしかない」

 茗明鈴はこれで全てを納得したようだった。
 さっきまで黙っていたことといいかなり聡明な娘らしい。
 音までは聞こえないものの、唇の動きを読まれれば自分たちの行動は筒抜けとなる。
 雪之丞が先程偽名を名乗ったのはその為だった。

 「だから隠れていた場所が・・・・」

 自分と出会うまでに茗明鈴が体験してきた苦労がその言葉に感じられた。
 雪之丞は魔装術を発動すると茗明鈴を軽々と抱き上げる。
 いわゆるお姫様だっこだったが魔装術には深い意味はない。
 強いて言えばパワー増加だが、本当の所は単に照れくさいだけだった。

 「安心するのはまだ早い。奴らも千里眼の欠点は熟知している・・・このまま地下鉄の始発を待つのではなく幾つか裏をかかなきゃならん」

 そういうと雪之丞は茗明鈴を抱きかかえたまま全速力で走り出した。



 みなとみらい地区
 バブル崩壊によって都市計画にかなりの修正が加えられたものの、現在は景気の回復や渋谷とのアクセスによって徐々に活気を取り戻している。
 しかし、渋谷とのアクセスによって少年犯罪の増加という問題も発生していた。
 先程まで雪之丞がいた旧横浜とも言える地区と対照的な雰囲気をこの地区は持ち合わせている。

 「さてと、ここで車の手配をする」

 地下鉄構内から地上へ現れた雪之丞は既に魔装術を解いている。
 あまり大きな力の解放はすぐに千里眼に気付かれるからだ。
 相手の予想を上回る雪之丞の速度に、千里眼はいまだ二人の姿を捕捉できていなかった。

 「え、でもどうやって・・・レンタカー屋さんなんか」

 「簡単だ・・・アンタが一人で300mも歩けばいい」

 雪之丞の言葉に訝しげな表情を浮かべたものの、茗明鈴は雪之丞の言葉に従い物陰から通りへでるとそのまま一人で歩き出した。
 茗明鈴は雪之丞が言った距離の半分も歩かないうちにその言葉の意味を理解する。
 自分の脇に幅寄せしてきた派手なワンボックスカーの中から、下心が服を着ている様な男が声をかけてきた。

 「まだ、始発動いてないよ。良かったら送ってくけど」

 まともな状況判断が出来る娘なら絶対に乗らない誘いだった。
 スモークシールドの向こうでは、運転役の男の他に3名の男がギラついた目で茗明鈴を見ている。
 尤もこの時間帯に一人で出歩いている若い娘に状況判断能力があるかどうかは甚だ疑問であり、事実、このような連中による犯罪被害が最近は後を絶たない。
 無視をして歩き続ける茗明鈴が通りを渡ったとき、いきなりスライドドアが開き男の手が茗明鈴の腕を掴む。
 しかし、茗明鈴の体は車内に引き込まれる事は無かった。

 「防犯カメラの位置から外れた途端とは、お前らどれだけの常習だ?」

 気配を絶って茗明鈴を尾行していた雪之丞は、流れる風のように車内に入り込みほんの数秒で男たちの意識を刈り取ってしまう。
 男たちの手から、使われることの無かったスタンガンやバタフライナイフが空しくこぼれ落ちた。
 雪之丞は気絶させた運転手と助手席の男を手際よく後部座席に引きずり込み、その他の二名と共に紐で拘束していく。
 後部座席にはおあつらえ向きにロープや手錠、ガムテープがあった・・・つまり、そういう連中の車だ。
 雪之丞は一人一人の首筋にあるツボを点穴する。

 「これで半日は目を覚まさない。目が覚めた時は証拠のビデオと共に警察署の前だ・・・」

 雪之丞はスライドドアをしめるとそのまま運転席に移動し、助手席に転がったデジタルビデオをつまらないものでも扱うかのように後部座席に放り投げた。
 その動作を乗れの合図と理解し茗明鈴も助手席に乗り込む。
 内心穏やかでは無いはずだが、気丈にも茗明鈴はそれを顔に出していない。
 その気丈さに雪之丞は軽く口元を緩めた。

 「経路が特定される高速ではなく一般道で新宿へ向かう・・・・・少しの間なら眠れる」

 こう言うと雪之丞はアクセルを踏み込む。
 まだ、役割が終わった訳ではない。
 雪之丞の表情はすぐにハードな世界に生きる男のそれに戻っていた。






 二人を乗せたワンボックスカーは、多摩川を越え東京に入っている。
 蒲田近くのコンビニで朝食の購入を済ませた雪之丞は、念のため地下の駐車スペースに車を止めてから早めの朝食を口にする。
 車内の時計はAM5:30を指そうとしていた。

 「ヤムチャさんて不思議な人ですね・・・・」

 手渡されたお茶とおにぎりを見つめた茗明鈴が呟く。
 雪之丞は包装をむき海苔を巻き終えたツナおにぎりを咥え、缶コーヒーのプルトップに指先をかけた所だった。

 「これは寝不足対策だ・・・急ぎの仕事で結局昨日は寝ていないんだ。怖がるとマズイから言わなかったが、実は運転も無免許でな・・・荒事よりも神経を使う」

 茗明鈴の言葉を、おにぎりと缶コーヒーの組み合わせの事と勘違いした雪之丞は頓珍漢な受け答えをしてしまったことに気付いていない。
 そんな雪之丞の受け答えに、茗明鈴は名前通りの耳に心地よい鈴の音のような笑い声をたてた。

 ―――この笑い声を聞くためならどんな努力も厭わない。

 世の殆どの男がそう決意しそうな笑い声に雪之丞は不思議そうな顔をする。
 自分の受け答えが酷くまともであると雪之丞は思いこんでいた。

 「確かにそれも変ですけど、どう見ても私と同じくらいの年齢なのに映画のヒーローみたいに強くって・・・さっきなんか変身するんですもん」

 「魔装術・・・・」

 「え、何ですって?」

 茗明鈴は雪之丞の呟きを聞き逃していた。
 出会った時の緊張が解けたからか、表情豊かな一面を見せ始めた茗明鈴は雪之丞に聞き返す。

 「あれは魔装術と言ってな、どちらかと言えば悪役の技だ」

 「・・・・でも、私に取ってはヒーローです」

 雪之丞の言葉に彼の暗い過去を想像したのか、茗明鈴はうつむくと手に持ったおにぎりをいじり出す。
 おにぎりの開け方がよく分かっていない様子に、雪之丞は苦笑混じりにそのおにぎりに手を伸ばした。

 「今、アンタのおにぎりをとった様に、人は自分の手が届く範囲の物しか楽に手に入れることができない」

 こう言うと雪之丞は器用にそのおにぎりを開封する。 

 「手を伸ばしぐるっと回った円の向こう・・・その壁の向こうにあるモノが欲しけりゃそれなりの力がいるんだ。時々、俺の円内にあるモノを盗ろうとするヤツもいる。殴れば恨まれるし殴られれば痛い。だが、何も持たなかった俺はこの力で色々なものを手に入れることが出来た。自由、プライド、幾ばくかの金、親友、そして・・・だから俺はこの力を気に入っている」

 雪之丞はおにぎりに海苔を巻いてから茗明鈴に手渡す。
 茗明鈴は花のような笑顔を見せそれを受け取った。

 「もう一つ、不思議なことがあります。なぜ、私が追われている理由を聞かないんですか?」

 「じゃあ、教えてくれ。実は気になってたんだが、あまり女と話したことが無くてな・・・うまく切り出せなかった」

 雪之丞は苦笑混じりにこう言うと、初対面から誰に対してもあけすけな親友を思い出す。
 あの男がこの場にいれば、多摩川を越える前に茗明鈴の生い立ちからスリーサイズまで事細かに聞き出しているだろう。
 尤も彼の場合、最初の出会いのシーンでバッドエンドを迎える選択をしている可能性の方が遙かに高いのだが。
 そんな雪之丞の想像は、鈴の音のような笑い声に中断される。
 自分の答えが間抜けだった事に、当の本人はまたもや気付いていない様子だった。
 ひとしきり笑った後、茗明鈴は先程雪之丞に渡されたお茶の缶を掲げる。

 「私が追われていたのはコレのせいなんです」

 「お茶?」

 茗明鈴は怪訝な顔をした雪之丞に説明を始める。

 「詳しい話は聞いてもつまらないでしょうからかいつまんで話しますね・・・・・あくまでも狭義のお茶についてですけど、世界中で飲まれているお茶は全て中国原産なんです。イギリスの紅茶や日本の緑茶もそう言う意味では中国にルーツを持ちます。しかし、その原種とも言えるお茶は既にその製法と共に絶滅しているんです」

 「・・・近代の動乱で流出したそれが、アンタの家に伝わっていたということか?」

 雪之丞の言葉に茗明鈴は驚いたような顔を浮かべた。
 彼女は昨夜雪之丞が、仙薬の材料となる幻の植物を巡っての騒動に巻き込まれていたことを知らない。

 「そうです。私は代々家に伝わる家宝を両親から託されました。この身に代えてもこのお茶を新宿のある所まで届けなければならないんです」

 雪之丞は物々しいまでの逃走劇が、お茶を巡ってのものと知り拍子抜けした表情を浮かべる。
 いくら食に対して貪欲なこだわりを示す国民性とはいえ大げさ過ぎる対応といえた。
 拍子抜けしたせいか、あまりにも大げさすぎた茗明鈴との出会いを雪之丞は思い出す。

 「だが、出会った時のアンタは・・・その、何も持っているように見えなかったが」

 「体に隠してたんです」


 ―――この話もヨゴすつもりか?

 雪之丞は天を仰ぎ胸の中でそっと呟く。


 「あそこまで身体検査されてもうダメだと思いましたけど・・・・・」

 車の助手席で茗明鈴は何かを蹴飛ばす動作をした。
 チャイナドレスのスリットが大きく開いたが雪之丞は無表情を貫く。

 「下っ端がスケベな男たちだったんで隙をついて逃げることが出来ました・・・・・あ!」

 心の中を見透かされたような気がして、雪之丞は慌てたように茗明鈴の方を向いた。
 茗明鈴は責めるような目で雪之丞を見つめていた。
 美神が良くやるジト目というヤツだった。

 「・・・・今、変な事考えましたね?」

 「ち、ちがう!俺はそんなヨゴレじゃない!少なくとも、アイツらと絡まない限り俺は至ってハードボイルドな男なんだ!!!!」

 哀れなほど動揺した雪之丞は必死に茗明鈴の考えを否定する。
 そんな様子に、茗明鈴は心の底から楽しそうに笑った。

 「あー悔しい!ヤムチャさんがこんな人だと知っていたらあんな条件言わなかったのに・・・ただ助けて下さいってお願いすれば良かった。恥ずかしかったんですよ本当は」

 からかわれた様な、褒められたような、不思議なむず痒さを感じた雪之丞は照れ隠しに普段では考えられない饒舌さを発揮する。

 「どんな条件を積まれてもお茶の為だと知っていたら引き受けなかったさ。確かに食に対するアンタたちの拘りは尊敬に値する。だが、俺は飯のうまさを決めるのは、料理の質よりも一緒に喰う人間だと思っている・・・・嫌な依頼主と喰う高級料理よりも、俺にはダチと喰うカップ麺の方が数段上だ。正直そんなモノに自分の身を・・・」

 一気にまくし立てようとした雪之丞は、顔を曇らせた茗明鈴に気付き言葉につまる。

 「そんなことは私たちも一緒です。だけど、このお茶を運ぶために私の父と母は・・・・・私は一族の未来の為にこれを運ばなければならないんです」

 茗明鈴は気丈にも涙は見せなかった。

 「ヤムチャさんは今日、このお茶が飲まれる席の事を知らないからそんな事が言えるんです。今日は世界中に散っている華僑ネットワークの大老が新宿に集まっている・・・・・和やかなその席の裏でどんな暗闘が繰り広げられているかご存じですか?」

 「まさか・・・・」

 雪之丞の表情が引き締まる。

 「最近、急速に力をつけている本国の大老が影でどんな酷いことをやっているか・・・だけど、その大老の発言力を落とせれば・・大老間の発言力はどれだけ国の文化を引き継いでいるかに左右される。このお茶を持って行けば、世界中に散る我々の方が本国の文化を正当に受け継いでいると・・・・・・・」

 「ちょっと待て!それじゃ、お前を襲った奴らはお茶の葉を奪うのでなく、その会にお茶を運ばせない事が目的なのか!!!」

 雪之丞は慌てて茗明鈴の言葉を遮った。

 「それならば、敵は俺たちを追うんじゃなく、新宿で守りを固めればいいだけじゃないか!!!新宿には奴らの息がかかった組織が数多くあるんだぞ!!!」

 「それじゃあ、どうすれば・・・・」

 「少し時間をくれ、作戦を立て直す必要がある。それと、そのお茶を運びたい正確な場所と、渡したい人物の情報を聞かせてくれ」

 こう言うと雪之丞はハンドルに伏せるようにして考えを巡らせはじめた。





 時計はAM6:00を指そうとしていた。
 雪之丞は携帯を操作し、数少ないダチと呼ぶ男の所へ電話を入れる。
 迷惑な時間帯であったが、もう30分ずれるとその男は弟子に散歩に付き合わされる可能性が高い。

 プルルルルル・・・・ガチャッ

 「横島か?俺だ」

 「6階の無限ループは、各フロアを右、左、右、右、上、左、上、右で抜けられます」

 「・・・・・一体何の話だ?」

 訳の分からない事を言われ雪之丞は怪訝な顔をした。

 「あ、何だ、雪之丞か・・・どうしたこんな時間に?」

 「悪いが手を貸せ」

 「断る!」

 予想通りの即答に雪之丞は最初から切り札を使う。
 駆け引きをしている時間はあまりない。

 「依頼主は美人だぞ」

 協力を快諾した横島に笑う自分の横で、今の台詞に茗明鈴が頬を赤らめた事に雪之丞は気付いていない。
 雪之丞は考えた作戦を横島に伝えた。

 「・・・・・・・・・・タイガーには俺から連絡するとして、分からん事が一つある」

 「なんだ?」

 雪之丞は横島の疑問に答えようとした。

 「ピートも加えた方が作戦に幅が出る気がするんだが・・・アイツなら頼まれれば嫌とは言わんだろう」

 「別にピートを仲間外れにする気は無い。単に嫌な予感がするだけだ・・・どうも最近、俺たち4人がツルむとロクな目に遭わない。正直、お前と話している今も気が気じゃない・・・悪いがそう言うことだ、頼んだぞ親友」

 雪之丞はこれだけ言うと素っ気なく電話を切ろうとする。

 「ちょっと待て、俺の携帯番号を教えておく・・・・○×○ー○@×○ー△□@☆」

 「お前、携帯なんか持つ甲斐性があったのか?」

 「美神さんが買ってくれた」

 横島の言葉に、雪之丞は驚いたような表情を浮かべる。
 おキヌが攻勢に出始めた噂は耳にしたが、とことん意地っ張りな所長もどうやら重い腰をあげたらしい。

 「とうとう首輪をつけられたか・・・・」

 「ああ、昼夜問わず、仕事で呼び出されてクタクタだ。丁稚から奴隷にクラスチェンジした気分だぜ」

 とことん意地っ張りな女と、何処までも鈍い男のやりとりが目に浮かび雪之丞は笑いをかみ殺した。
 面と向かって好きだと言われない限り相手の気持ちに気付かない男と、絶対に自分の口からは言わない女はまだまだすれ違いを続けるつもりらしい。
 男の傷が癒えるのを待つ意味でもそれは理想の関係だと雪之丞は思っていた。

 「遊び人も極めれば賢者になる。奴隷も極めれば何かに化けるかもしれんぞ・・・・」

 奴隷のエリートクラスが旦那であることは口にした雪之丞自身も気付いていない。
 横島は何故かドラクエを元ネタにした軽口に苦笑を漏らした。

 「人ごとだと思いやがって・・・・切るぞ」

 「ああ、それじゃ後で」

 雪之丞は電話を切ると、早速横島が口にした番号を登録した。

 「今のがお友達ですか?」

 「ああ、強敵と書く方のダチだけどな・・・一口じゃ説明できんが頼りにはなる」

 雪之丞はこう言うと、ワンボックスカーのギアを入れ目的地へと車を走らせる。
 目的地である新宿歌舞伎町に向かって。





 新宿歌舞伎町
 欲望と享楽の街として24時間眠らない不夜城として知られるその街の近くに、ひっそりと佇む一軒の中華料理屋が存在する。
 世界各国に散る華僑のVIPが立ち寄るようには決して見えないその店には、一般には知られていない隠れた逸話があった。
 戦前、軍事都市としての一面を持っていた新宿には後の歴史に名を残す数々の中国人留学生が生活していた。
 人形町に居を構える人物の後援を受けていた孫文をはじめ、蒋介石、周恩来など・・・
 それらの留学生が足繁く通い多くの仲間と理想を語り合ったその中華料理店で、密かな、しかし鉄壁の警護の中、大老たちの会合が行われようとしていた。

 「車はここで乗り捨てる」

 運転席に後部座席の男たちの罪状をメモした紙を残し、雪之丞は茗明鈴を伴いワンボックスカーをアルタ近くに乗り捨てた。

 「本当に大丈夫なんですか?」

 雪之丞を信じてはいるものの、不安を隠せない様子の茗明鈴は無意識のウチに雪之丞の腕にすがりつく。
 二人は正面から歩いて歌舞伎町を突っ切り、職安通りを超えた所にある目的地を目指していた。

 「大丈夫、俺たちの姿はタイガーの精神感応で周囲に気付かれることはない。千里眼も、横島が霊波を逆探知し無力化することになっている」

 「さっきから、そのお二人らしき姿が見えないんですが」

 「タイガーは新宿に入ってすぐに俺たちの後ろに張り付いている・・・アイツの気配の消し方は俺たちの中でピカ一だ。それに、横島もちゃんといる事がわかった」

 その確信の理由が腕にすがられたときに突き刺さった煩悩男からの殺気にあることを雪之丞は黙っている。
 雪之丞はあくまでもハードにこの依頼を片付けるつもりだった。


 歌舞伎町は、休日の午前中にも関わらず退廃的な空気に包まれていた。
 一時期に比べキャッチが減ったものの所詮取り締まりとのイタチごっこに過ぎない。
 辻々に立つキャッチと自分たちを捜す鋭い視線の男たちの前を素通りしながら、雪之丞は極力霊気を押さえ歌舞伎町を進んでいく。
 木を隠すには森の中、敵もまさか自分の勢力圏内を目標が歩いているとは予想しないだろう。
 その証拠に上空に感じる千里眼の視線は自分一人に絞り込まれていない。
 タイガーの精神感応は予想通りの威力を発揮していた。

 ヴ――――

 マナーモードにした携帯のバイブレーションに一瞬気が乱れる。
 急いで気を押さえ上空に意識を向けたが千里眼に気付かれた様子は無かった。
 横島からの連絡に雪之丞は通話スイッチを押す。

 「どうした?」

 「千里眼の位置が分かった・・・マズイ事に二丁目だ」

 「煩悩野郎にとって苦戦は必至だな・・・しかし、ピートを巻き込まなかった俺のカンも大したもんだろう」

 薔薇の花の精気を吸う美形のバンパイアハーフには、最も危険と言える環境に千里眼は潜んでいるらしい。
 余裕を見せようと軽口を叩いた雪之丞であったが、視界の隅に映った光景に表情を固まらせる。

 「悪いが急いでくれ・・・・コッチもマズイことになりそうだ」

 「どうした?」

 「タイガーにキャッチの姉ちゃんが近寄っていく・・・・しかもスゲエ格好でな」

 「走れ、雪之丞!」

 雪之丞と横島は同時に携帯を切ると全力で走り出す。
 きっちり1分後、キャッチの姉ちゃんの悲鳴と共に、雪之丞と茗明鈴を周囲から隠していたタイガーの精神感応は効果を失った。
 それと同時に上空から千里眼の気配が消える。

 「流石だな横島!」

 雪之丞は親友である煩悩男が、アウェイの環境をものともせず千里眼を無力化したことを理解する。

 「ヤムチャさん!通りの向こうでトラの化け物が暴れてます!!!」

 「気にするな!アレがタイガーだ・・・・俺自身、タイガーにあんなキャラ設定があったのをすっかり忘れていたがな」

 雪之丞は茗明鈴の手を引くとタイガーに集まる注目を利用し職安通りを目指す。
 しかし、通りにさしかかる直前、雪之丞たちの行く手に多数の男たちが立ちはだかった。

 「やっぱり最後は荒事になるのか・・・」

 雪之丞は何処か嬉しそうに首をほぐすように一回りさせる。
 千里眼を無力化した今、目視された敵だけを倒せばよい。
 雪之丞は口元に笑みを浮かべ魔装術を発動しようした。

 「相変わらず、バトルマニアのヤムチャなようだな」

 背後から急に声をかけられ雪之丞と茗明鈴は後ろを振り返る。

 「アンタは・・・・」

 「そんな・・・私なんかの為に・・・・」

 二人の後ろに立っていたのは大老の一人、李卓吾と、未だ名を名乗らぬガードのリーダーだった。

 「若い娘にだけ危険な思いをさせるわけにはいかんだろう?向こうに潜り込ませた配下から、お茶を持った茗家の娘を魔装術を使うヤムチャという人間が守っていると聞い

てな・・・友人を見張らせて貰っていた。尤もその友人に千里眼を潰して貰わなければ、こうして堂々と介入はできんかったが」

 こう言うと李卓吾は労うように茗明鈴の肩に両手を置く。

 「ご苦労だった・・・ご両親は無事保護しているよ」

 その言葉に茗明鈴はその場に泣き崩れそうになる。
 しかし、持ち前の気丈さで足を踏みしめると、団子状に固めた髪の中から小さな壺のような物を取りだした。

 「茗家に伝わる本物のお茶です・・・そして、それを煎れる為の技は私が」

 「確かに受け取った。茗家の技、存分に振るってくれ」

 李卓吾はそれを受け取ると大事そうに懐に仕舞った。

 「そこに隠していたのか・・・」

 雪之丞の呟きに茗明鈴は涙を拭き笑顔を見せた。
 しかし、その笑顔はお茶を奪おうと向かってくる男たちの姿にかき消されてしまう。
 振り返り打って出ようとする雪之丞を、それまで無言だったガードのリーダーが止めた。

 「相手は卓吾様の顔も知らん三下だ。それにお前が打って出ている間にこの子が人質に取られたらどうする。ボディーガードという仕事を舐めてないか?」

 リーダーが合図を送ると、左右から4名のガードが進み出る。
 進み出たガードたちは、次々と襲ってくる敵を文字通り一撃で倒していった。

 「どうだ、本物の八極拳は?ついでに言っておくが、この男はあの者たちよりも数段強いぞ」

 多少自慢げな李卓吾の台詞だったが、その言葉に雪之丞は目を輝かせた。
 霊力を纏っての肉弾戦が主体である雪之丞の強さは生身での戦闘能力に比例する。
 生身の武術で良き師に巡り会えていない雪之丞にとって、本物の武術を身につけることは何よりの望みだった。

 「茗家の者とお茶を守ってくれたお礼だ。望みなら後でこの者と手合わせさせてもいいが・・・」

 李卓吾の提案にリーダーは若干顔を引きつらせたが、雪之丞は心からの笑顔を見せた。

 「ありがたい。ずっと戦闘シーンが無くってストレスが溜まってたんだ!俺にとって何よりの報酬・・・・・」

 しかし、雪之丞の感謝の言葉は腕時計から聞こえてきたアラームに止められていた。
 雪之丞の時計は8:30分を指していた。






 ―――大変なことを思い出した。
     これは雪之丞の恋愛に関する物語だ。







 「すまんが時間がない。必ず、必ず香港に行くからその時に頼む・・・いや、頼みます」

 一体何が起こったのか、雪之丞は慌てたように李卓吾とガードのリーダーに深々と頭を下げる。
 そして、茗明鈴と向かい合うと思い切ったように話しかける。

 「約束の報酬を今貰えるか?」

 「え、今、ここでですか?」

 茗明鈴は顔を赤らめる。
 しかし、雪之丞は茗明鈴の同意を待たずにその顔に優しく手を伸ばす。
 近づいてくる雪之丞の顔に茗明鈴はそっと目をつぶった。









 「これ何処で買ったんだ?」




 雪之丞の声に茗明鈴が驚いたように目を開けると、水晶の髪飾りを雪之丞が見つめていた。
 予想外の状況に茗明鈴は咄嗟に中華街にある店の名前を告げる。

 「ありがとう。助かった!」

 こう言うと雪之丞はその場から一目散に走り出していった。

 「ちょっと、ヤムチャさん、何処行くんですか!?」

 顔を真っ赤にして叫ぶ茗明鈴の声は雪之丞には届かなかった。
 何が起こったのか未だに理解しかねるように茗明鈴は呆然と呟く。

 「・・・・ひょっとして、私、フラれちゃったって事ですか?」

 李卓吾とガードのリーダーは処置なしといった具合に雪之丞の背中を見送っていた。

 「多分、フラグが立ってたって事にすら気付いていないよ。喧嘩と一緒で一途なんだアイツは」

 自分の呟きにいきなり答えた横島の姿に茗明鈴はギョッとした顔をする。
 横島は頭部に大きなたんこぶを作り気絶しているタイガーを背負い、自身は、どう見ても女のものとは思えない大きな口紅の跡をそこいら中につけていた。
 Gジャンの下でよれよれになったYシャツや、ずれかかったバンダナからも横島が別な意味の修羅場をくぐり抜けていた事が窺えた。

 「・・・・ヤムチャさんの彼女ってどんな人です?」

 「気の強い美人だが、アイツが惹かれた点はそこじゃ無いらしい。前に言っていた・・・背中を預けられる女は初めてだって」

 「そうですか・・・・・・・・・・・」

 「良かったらアイツの本名教えようか?」

 横島の言葉に茗明鈴は大きく首を振る。

 「言わないで・・・ヤムチャさんのままなら多分忘れられますから・・・・」

 これに応える言葉を横島は持ち合わせていなかった。











 学生街の一角にある寂れた映画館を雪之丞は目指していた。
 道中走った事を悟られたくないので300m手前からは徒歩に切り替えている。
 息を整えながら映画館への角を曲がると、寂れた風景の中に待ち合わせの相手である弓が立っていた。
 雪之丞はしばしその光景に見とれる。
 コンクリや鉄錆に埋まりモノクロに見える景色の中で、弓の所だけが華やかな色に彩られている。
 少なくとも雪之丞の目にはそう見えていた。
 こちらに気付いた瞬間、ほんの少し弓の顔に笑顔が浮かぶ。
 その笑顔が雪之丞は好きだった。

 「相変わらずギリギリですわね」

 「時間には間に合っている」

 この憎まれ口も既に年中行事だった。
 口論を最小で済ますには、気づいた瞬間の笑顔が消えないうちに小走りになることが重要だと雪之丞は学習している。
 自分に気付いた瞬間の弓の笑顔を見るために、雪之丞がワザとギリギリに現れる事を知ったらば弓はどんな顔をするだろうか。

 「大体、いきなり呼び出しておいて・・・・何よ、この映画!」

 弓が映画館前の看板を指さす。
 そこには「主演:千葉真一   直撃地獄拳」と書かれていた。

 「名作だぞ・・・ここの支配人とは趣味が合う」

 雪之丞は半ば強引に弓の手を握るとチケットも買わず中に入っていく。
 弓はチケット売り場に小さくかけられた「本日貸し切り」の掛札に気付いていないようだった。

 「一体どうしたわけ!いつになく強引じゃない」

 手を繋いだままスクリーン正面の最後尾の席に座ると、丁度頭の真上から映写機の光がスクリーンを照らしはじめる。
 宝石や新作の宣伝もなく、いきなり始まった映画のシーンに弓は映っているのが看板の映画でないことにすぐに気付いた。


 「これって・・・・」

 「この映画館の霊障を片付けた報酬がわりにな、我が儘をきいて貰った」

 スクリーンに映っているのは以前二人が見損なった橋の上で繰り広げられる中年の恋愛映画だった。

 「横浜でお前に似合いそうな水晶細工を買ったんだが、そこで急な依頼が入ってな・・・仕事の途中で無くしてしまった。その代わりもっといい水晶の髪飾りを見つけたんだ。映画が終わったら買いに行かないか」

 スクリーンに見入る弓の横顔に雪之丞は話しかける。
 反射した光に照らされた弓の横顔はとても美しく思えた。

 「門限までに帰れるならね・・・・」

 美しい横顔がこう答えたのを聞いて雪之丞はゆっくりと目を閉じる。
 二人の間に立ちはだかる壁は、根無し草の自分にはまだまだ破れそうに無かった。 
 弓の手を握り続けていた手からだんだんと力が抜けていく。
 規則正しい寝息が聞こえて来たのを確認すると、弓はゆっくりと雪之丞の頬に唇を近づけて・・・・・・






















 「寝たふりはバレてるわよ」

 耳元でのささやきに、雪之丞の頬がほんの僅かに引きつった。

 「実を言うとこの映画、レンタルビデオで見ちゃったのよ。つまらなかったし・・・男でしょ、最後まで格好良く決めなさい」

 この言葉に雪之丞は急に立ち上がる。
 その横顔は映画のシーンに彩られ、スクリーンには雪之丞の影がくっきりと映った。
 やがてスクリーンに映った影は、ゆっくりと隣の席に重なるようにかがみ込んでいく。


 そして、誰もみる者がいなくなったスクリーンはつまらない恋愛映画をエンドロールまで映し続けた。


終 


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