当時のヨーロッパで流行していたものの一つに、仮面舞踏会がある。
昼な夜なにと大勢の男女が集まっては、それぞれが劇やオペラなどの登場人物に扮して、刹那の乱痴気騒ぎを繰り広げる。
仮面をつけている間は、それが誰であれ素性を詮索することはしない。うわべだけにせよ、それが暗黙の了解だった。
それはちょうど、革命の胎動に怯えるアンシャン・レジームそのものの姿と言えた。
そういったものが流行れば、当然ながらそれを商売とするものも現れる。
仮装などというものは普段着られるようなものではなく、奇抜であれば奇抜であるほど人気が高かった。
結果として、互いに争うようにして様々な衣装を取り揃える貸衣装屋が乱立することとなった。
「―――だからって、わざわざそんな格好をしなくても・・・」
「しょうがないでしょう? あの女がいるところに、そっくりな顔をした私がそのまま行くわけにはいかないじゃない」
帽子からなにから全身黒ずくめの衣装を着た美神は、先へ進む足を止めずにそう答えた。
振り向いた顔は笑みを浮かべているように見えたが、そうではない。
美神が借りた衣装は、前と後ろに二つの顔を持つヤヌスの衣装。
笑みを浮かべているのは後頭部のほうで、前の顔は口を固く結んだ冷たい表情をしている。
この服を選んだのはたぶん無意識にであろうが、メフィストという相反する前世を持つ美神にふさわしいとも言えた。
「そうは言っても、ものすごく恥ずかしいんですけど・・・」
「心配ないわ。よく似合ってるわよ」
首の高いカラーが特徴的な連絡将校の服を着たおキヌが、さも恥ずかしそうに小声で囁いた。
その服は前年にヒットした『フィガロの結婚』のソプラノ、ケルビーノが着ていたのと同じ衣装なのだが、残念ながらおキヌにはそれを楽しむどころではなかった。
実際、彼女が着ていた巫女服のほうが相当に奇異で場違いなはずなのだが、やはり着慣れないものというのは落ち着かないらしい。
背を伸ばせばしゃんとして見えるだろうに、身体を小さく丸めて縮こまるばかりだった。
「ほらほら、もっとちゃんとして歩きなさい。そんなんじゃ、余計に変に見られるわよ」
「でも・・・」
「おキヌちゃんはまだましなのねー 私なんてこんなのなんだから」
「うるさいわね。アンタなんかそれがお似合いよ」
「ひっどいのねー! 仮にも私は神族の一員なのに、なんでこんな悪魔の格好をしなきゃいけないのねー!」
「だーかーらー、アンタが神族だっていうのを隠すには、それが一番いいでしょ?」
「そんなことない! 絶対うそなのねー!」
ヤヌス神に将校に悪魔という、何の脈絡もない装いの一行が往来を歩いていくにもかかわらず、街の人々は一顧だにしようとはしなかった。
またどうせ、どこかのパーティーで女たちがバカ騒ぎをするだけだと思っているのだった。
この当時のモーツァルトは、シュテファン寺院の裏手の路地を少し入ったところにある家に住んでいた。
モーツァルトには引越し癖があると言われ、ウィーン滞在中はたびたび住居を変えていたが、ここには最も長い間、およそ三年ほど暮らしていた。
一説によれば彼の転居は借金取りから逃れるためとも言うが、はたしてその真偽は定かではない。
ここで『フィガロの結婚』など数多くの作品が作曲されたため、後に”フィガロハウス”の名で親しまれることとなるのだが、もちろん今はまだその名で呼ばれてはいない。
このころの平均的なアパートメントと同じく、共用場所となっているホールをぬけて階段を二階へと上がる。
四つある部屋にはどれも表札などは掲げられていなかったが、だらしなくワインの酒瓶が放置してある部屋にあたりをつけた。
「たぶん、ここだと思うんだけど、どう?」
「そうなのねー ここで間違いないのねー」
わざわざ神通力を使うまでもなく、ヒャクメはモーツァルトが通った気配を感じ取っていた。
それは非常に微妙で、巧妙に隠された気配ではあったが、それでも彼女の感覚器官を欺くことは出来なかった。
モーツァルトは客間の中央に置かれたビリヤード台を仕事机にして、次なるオペラの作曲に勤しんでいた。
手慰みに球を転がし、四隅に当たって返ってくるのを受け止めては羽ペンにインクを浸し、また転がして書き続けるのだった。
彼は書き直すということをほとんどせず、思いつくままにすらすらと書き上げていく。
およそ人間業とは思えないが、彼にとって作曲とは、頭の中にすでに完成している曲を写譜するに過ぎないのだった。
その頭の中での作曲が、無遠慮に叩くドアの音で中断された。
「コンスタンツェ! ・・・は出かけているんだっけ」
苛立たしげに妻の名前を呼び、今日は近くに住んでいる母親のところへ行っていたことを思い出してため息をついた。
その間にもドアを叩く雑音は止もうとはしない。
「・・・はいはいはい、そんなに叩かなくっても開けますよ、って」
いかにも渋々といった感じで身を起こし、肩をひとつ鳴らして立ち上がる。
鼻歌交じりに書きかけのオペラのアリアを口ずさみながらドアを開けたモーツァルトは、思わずはっとして息を呑んだ。
この僅かな油断で、今まで隠していた正体を晒すはめになってしまったが、それも仕方のないことだった。
「―――モーツァルトさん?」
内心の動揺を悟られぬようにしながら、美神は彼の名前を呼んだ。
ここにはいないはずの横島と同じ顔をしたこの男が、先程宮殿で見かけたのと同一人物なのはもはや疑いようもなく、今更驚くことでもなかった。
だが、一瞬だが微かに感じられた気配―――人間には決して発することの出来ないはずの気配に、足が震えんばかりに驚愕する。
それは感覚は、かつて自分の前世だったメフィストと対峙した時に感じたものと、非常によく似通っていたのだった。
「ヒャ、ヒャクメ様、モーツァルトさんってもしかして・・・」
「そう、間違いないのねー」
戸惑いながらも何かを感じたおキヌが聞いてくるのを受けて、ヒャクメは今度こそ確信する。
「彼は魔族なのねー!」
ヒャクメの声に一瞬モーツァルトはしまった、というような顔をするが、その格好を見て思わず苦笑する。
その表情はシロとタマモがケンカしているときの、横島の困ったような顔に良く似ていた。
「―――アンタにそんなこと言われてもなぁ」
モーツァルトはご丁寧に尖ったしっぽまで付けたヒャクメの格好を指差して言った。
その当然と言えば当然な指摘に、ヒャクメは耳まで真っ赤になって叫ぶ。
「だから、こんな格好は嫌だって言ったのねーーっ!!」
前回とともに今回もちょっと短かったと思いますが、場面の音楽的にここで切りたかったのでご容赦ください。
美神さんが着ているのは『アマデウス』で父レオポルド、そしてサリエリが扮するあの衣装です。
やっぱりアマデウスと言えば、これを外すわけにはいきません。
もしGS美神の単行本を持っておられましたら、7巻の作者近況を見ていただければわかるかと思います。 (赤蛇)
それにしても…芸術家と言う生き物は、往々にして社会や日常生活に適応できないようですね。
( ̄▽ ̄;)ダメジャン
前近代のウィーンを徘徊する現代女性3人。
彼女達の旅路は、どこへ辿り着こうとしているのでしょうか。目が離せません(笑)。 (鴨)
PS もちろん、ひらがな表記です。はるか以前、GTYでも一度しでかしましたが、日本語変換を忘れただけという、お粗末なミスでした。 (よりみち)
モーツァルトが魔族だったとは夢にも思わなかった。って言うか、最近夢見てません。(何の話!?)
話を元に戻しますと、何故魔族であるモーツァルトがこんな事をしているのか、そして、何故横島と同じ顔なのか・・・・・
気になることは山のようにありますが、それでこそ次回も読みがいがあるというものです。
楽しみに待っています。 (鷹巳)
徘徊、というにははた迷惑な三人ですが(笑)
今でこそモーツァルトの名声は不動のものとなっていますが、当時としては作曲家は芸術家というよりも職人としての地位で見られていたようです。
「音楽のために音楽を書く」と言ったのは後のベートーヴェンですが、モーツァルトは「客の注文のために書く」といった事が多かったらしいです。
そういった一面もあって、いろいろと難しかったんじゃないかと思いますね。
>よりみちさん
それほど裏をかいたつもりもなかったのですが(笑)
恐れ多くもモーツァルトを魔族にしてしまいましたが、一応それなりの意味があるつもりです。
とりあえず今は、最期のエピソードに関係する理由とだけ申し上げておきましょう。
>鷹巳さん
やっぱり『アマデウス』の印象が大きかったからですね。サリエリから見れば、彼は充分に悪魔と言えるでしょうし。
あとは原作の「デッド・ゾーン」を踏襲しているのも理由の一つですか。
そういえば、メフィスト・フェレスの出る『ファウスト』を書いたゲーテもこの時代の人物でしたね。 (赤蛇)