椎名作品二次創作小説投稿広場


ANADEUS

4.カノン K.231「Leck mich im Arsch」


投稿者名:赤蛇
投稿日時:06/ 1/ 6

宮廷の東側にあるアントニオ・サリエリの執務室は、広さの割には意外とこざっぱりとしていた。
中央に置かれた大きなチェンバロの他は、書き終えた楽譜が置かれている机と、その脇の音楽関連の書物を収めた本棚が目を引くぐらいで、およそ千二百フローリンもの年俸を稼ぐ宮廷作曲家の部屋には見えない。

ほぼ執筆用の机と化しているチェンパロに向かいながら、パリで上演する予定のオペラ『タラール』を書くサリエリの元へ、二人の客が訪れた。
めずらしいことに、普段はあまり仲の良くない宮廷楽長と宮廷劇場監督が、連れ立って一緒にやってきたのだった。

「お二人がご一緒に来られるなど、めずらしいこともあるものですな」

せっかく波に乗り始めた作曲の邪魔をされて、サリエリは少し不機嫌な様子を見せた。
彼らは同じイタリア人同士、多少の無礼講は許される間柄だった。

「サリエリ、君は知っているかね」

一番年長の劇場監督は、にこりともせずに問いかける。

「何をです? まあ、そんなところに立っていないで座ってください。お菓子はどうです? この”ショコラーデ・クーゲル”はピスタチオをチョコでくるんだものですが、なかなかのものですぞ」

サリエリはチェンバロの上に置いてあった皿の菓子を勧める。
彼の甘いもの好きはつとに有名で、五線譜は欠かしてもお菓子は欠かしたことがない、なとど言われるほどだった。
だが、劇場監督はそんなものに見向きもせずに話を続ける。

「モーツァルトが出版した新しい楽譜だよ。見たかね?」

その名前を聞いて、サリエリは嫌な予感がした。

「いえ、まだですが」

「見たまえ」

つっけんどんに手渡された楽譜を取り、チョコをひとつ口に放り込んでサリエリは目を通す。
読み進むサリエリの頭の中に、あたかも今ここで聞いているかのように音楽が鳴り響く。

それはちょっとしたカノンの小品だったが、曲の大小に関係なく実にすばらしいものだった。
完璧なまでに整えられた曲は、音符をひとつ変えるだけで全てが破綻してしまうほど精密で美しかった。
その清らかな響き、至高の存在に触れるかのような調べにサリエリは感動していた。

「素晴らしい」

「本当に?」

「いったい何の問題があるというのです? まさしく、これこそが本当の美だ!」

モーツァルトが自分の一番手ごわいライバルだと言う事も忘れ、サリエリは素直に彼の作品を賞賛していた。
何故この連中は彼の素晴らしい芸術を、ただのこれっぽっちも理解しようとしないのか。神の声を聞こうとしないのか。
彼の音楽の本当の意味を理解できるのは、この世で自分ただ一人なのだ、その思いにサリエリは激しく駆られた。

「この歌詞を見ても、まだそう言えるかね?」

サリエリの情熱とは裏腹に、まったく感情を表さない声で劇場監督はもう一枚の紙を差し出した。
恐る恐る歌詞を受け取り、最初の一行目に目を通したとたん、サリエリは天国から地獄へと叩き落された。
そこに書かれている歌詞の、なんという低俗さ! 卑猥さ!
あの崇高な音楽のひとつひとつを、歌詞の一言一言が汚染していくとしか言い表せなかった。
およそ感激の深かった分だけ、サリエリの怒りもまた、深いものとなった。

「末席とは言え、仮にも宮廷作曲家として席を置いている者が、こんな低俗なものを出版しているとなったらどうなる? 諸外国のいい笑いものだ!」

「今回は宮廷楽長の権限として私が出版の差し止めを命じたので、かろうじて世間の目にさらされることは防げた」

「だが、いかに皇帝陛下からの覚えがめでたいからといって、宮廷に泥を塗るような真似が許されるわけがない」

「彼はまだ若いから、天才だとか持てはやされていい気になっているのは、まあ、わからないでもないんだが―――」

サリエリは怒りのあまりに肩を振るわせたまま、口々にモーツァルトを非難する二人をよそに部屋を出て行こうとした。

「おい、サリエリ。どこへ行くんだね?」

「モーツァルトのところです! 今日という今日は堪忍袋の尾が切れました。奴をとっちめて、二度とこんな真似はさせないようにします!!」

そう怒鳴ると、思わず握り締めた楽譜を捻り上げ、無造作に外套のポケットに押し込んだ。
つばの広い帽子をかぶり、つかつかと足音を立てて出て行こうとしたが、ふと思い立って足を止めた。

「お二人はモーツァルトが天才だとおっしゃるが、それは間違いです!」

そして、自慢の長い黒髪を振り乱し、拳を上げて叫んだ。

「奴は悪魔です!!」

それだけ言うと、大きな音を立てて荒々しくドアを閉め、やつあたりをするかのように階段を急いで駆け下りていった。
部屋の中に残された老獪な二人は、特に動ずるでもなく互いの顔を見つめ、肩をすくめて言った。

「モーツァルトが悪魔だと?」

「あんな軽薄な男がかね?」

「ふん、そんなばかなことがあるかね」

宮廷楽長はさもばかばかしい、といった様子で巨体を揺らし、鼻で笑った。
だが、劇場監督はまるでドイツ人のようににやりともせず、渋面を作ったままで言った。

「だが一応、睨下には報告しておこう」


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