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ANADEUS

3.ディヴェルティメント へ長調「音楽の冗談」 第1楽章


投稿者名:赤蛇
投稿日時:06/ 1/ 4

ウィーンの街には、パリやローマで見かけるようなオープンカフェというのはあまりない。

真夏の雷雨を除けば、年間を通して降水量が少なくて過ごし易いのだが、ときおり激しい風が吹き荒れる。
アドリア海からアルプス山脈を越えて来た風は、タトラ山地とズデーテン地方の間を駆け抜けて行く。
それを避けるためには、建物を背にして北東の方角に配する必要があり、店内の広さが充分ならわざわざ作る必要もないからだ。
そんな小さな店のひとつに美神たち一行は集い、テーブルを囲んで話をしているのだった。

「―――それで、あれは一体誰なんですか?」

意外にも、一番早い立ち直りを見せたおキヌが問う。
いかに美神と横島にそっくりだといっても、結局のところは別人だと割り切っていた。
もしかするとそれは、幽霊だった時分にユリ子という、自分とまったく同じ顔をした子と出会っている経験があるからかもしれなかった。

「―――彼の名前はモーツァルト―――ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトなのね・・・」

いつもの能天気な陽気さはどこへやら、心眼もどんよりと曇っていそうな感じでヒャクメが呟く。
その、よく知った名前を聞いて、おキヌは思わず大きな声を上げた。

「あの人がモーツァルト!? あの作曲家の!?」

「そうなのねー」

「でも、なんか肖像画と全然違うんですけど・・・」

おキヌは音楽の授業で見たモーツァルトの絵を思い浮かべて言った。
とてもではないが、あの顔と横島では似ても似つかぬ別人だった。

「あんまり知られていないけど、モーツァルトの肖像画と言われているものは真偽がはっきりしないのねー 今はまだ生きてるけど、彼のデスマスクも紛失してしまうことになるのねー」

「そうだったんですか・・・」

歴史上の人物の意外な事実、文字通りの素顔の一端を知り、おキヌはなんだか得した気分になった。
ましてやそれが、自分の一番身近な男性と同じ顔をしているという事実に、知らず知らず顔がほころんできてしまう。

「それじゃ、あの―――」

そこでおキヌはちらりと美神の顔を見る。
こちらは沈んでこそいないが、どこか面白くなさそうな顔をしていた。

「―――あの女の人は誰なんですか?」

「あの女の人は旧姓コンスタンツェ・ウェーバー、今はモーツァルトの奥さんのコンスタンツェ・モーツァルトなのねー」

「ああ、あの人が・・・」

おキヌはやっぱり、という顔でうなずく。
言われて初めて、コンスタンツェという名前を授業で聞いたように思い出したが、あの様子を見れば恋人同士か、さもなくば夫婦だろうとは思っていた。
むしろ、あれが行きずりの恋だとしたら、そっちのほうが驚きだった。

「そうなのねー そしてあの人は―――」

なにかを思いついたように、ヒャクメもちらりと美神の顔を見る。
他愛のないいたずらでも見つけたかのような、そんな表情だった。

「―――世界の三大悪女の一人と呼ばれているのねー」

「ちょっと! それはどういう意味よっ!?」

「どういう意味って、ただ事実を述べているだけなのねー」

「なんですってっ!」

「まあまあ、美神さん。ヒャクメ様も」

おキヌが笑いをこらえた、少し困った顔で二人の間を取りなす。
そのタイミングを見計らったかのように、黒のスーツに蝶ネクタイをはめた年配のヘル・オーバー(給仕)がコーヒーを運んできた。

ヘル・オーバーは奇妙な女の三人連れを見ても、特に驚く様子でもなく応対する。
もともとハプスブルク帝国は多民族国家であり、その中心地たるここウィーンは、イタリアや東欧、ロシア、果てはトルコやインドなどからも交易で人の集う地であった。
それがために、ヒャクメや美神たちの装いを見ても、遠国の民族衣装ぐらいにしか思わなかったのかもしれなかった。



怒りの腰を折られた美神はまだ不満そうだったが、とりあえず黙ってコーヒーに口をつけた。

美神が頼んだものは小さなデミタス・カップに入った、シュヴァルツァーと呼ばれる濃いブラックコーヒー。
おキヌたちのはアインシュペーナーという、ホイップ・クリームをのせて粉砂糖を振りかけた甘いコーヒーだった。
余談だが、ホイップ・クリームというとウィンナ・コーヒーが思い浮かぶが、もちろんそんなものはメニューのどこにも存在しない。
そもそもが”ウィンナ”という名前自体がウィーン風という意味であり、強いていうならば、ここで飲まれているコーヒー全てがウィンナ・コーヒーということになる。

「それで、あれはいったいなんなのよ? 私と―――」

ここで美神はいったん口篭もる。
先程見たラブシーンがまだ抜けきらないようだった。

「―――横島クンの前世、というわけじゃないわよね」

自分の前世はここよりも遥か昔、遠い平安時代にいた魔族・メフィストだったはずだ。
それは、自分の目の前に座っている―――口の周りにホイップ・クリームをつけた、はた迷惑な神族と一緒にこの目で確認したのだから間違いはない。
だとすれば、あの二人はいったい何だというのだろうか。

「あれは美神さんたちとは全然関係ない、全くの別人なのねー」

「それにしては、二人とも似すぎていないですか?」

「本当なのねー 二人とも、魂の色が全然違うのねー」

きっぱりとした口調で断言するヒャクメ。
だが、鼻の頭にまだクリームがついている有様では、今一つ信頼性に欠けていた。

「それにしちゃ、アンタもやけに驚いていたじゃない」

「あ、あれは―――」

おキヌからクリームの指摘を受けて、慌てて拭いながら言いよどむ。

「―――ちょっと、予想外のことがあったのね・・・」

「どんな?」

「まだ確証が持てないから言えないのねー」

それっきりヒャクメは口をつぐんでしまった。
美神としても、不確実な情報で惑わされたくないので、それ以上は深く追求しないことにした。
どうせ、遠からず自分からしゃべってくるに違いないのだから。

「でも、いいなー 別人でも美神さんたちにそっくりな人がいるなんて」

カップに残ったクリームをスプーンでかき回しながら、うらやましそうにおキヌが呟いた。
しかも二人が結婚しているなんて、とは、もちろん言わなかった。

「残念だけど、おキヌちゃんは無理なのねー」

「何でですか?」

そんなつもりもないのだが、少々とげのある返事になってしまう。

「だって、おキヌちゃんはこの時代、まだ存在しているのねー」

事も無げにヒャクメはさらりと言った。
今が18世紀の末だとすれば、おキヌが死んでからほぼ百年ぐらい、現役バリバリの幽霊として過ごしている頃だった。

「あ、そう言えばそうですね」

「あの二人の魂は美神さんたちとは全くの別人だけど、広義的に言えば同質性がないとも言えないのねー だから、この時代におキヌちゃん本人がいる以上、今と同じように一緒にいて縁を結ぶのは難しいのね―」

遥か昔の頃の自分が、今この瞬間も遠く離れた日本にいるというのは妙な感じだったが、なんとなくヒャクメの話がわかるような気がした。
些細なわだかまりが消えたわけではないが、とりあえず自分たち自身の事に頭を切り替えることにする。

「ところで、これからどうするんですか?」

「そうねえ」

美神はちょっと思案顔でヒャクメのほうを見る。

「アンタの神通力はまだたまんないわよね?」

「うーん―――あとニ、三日ってとこですねー」

「だとすると、それまでヒマつぶしにウィーン見物しててもいいんだけど―――」

そう言っておキヌに目配せをして言った。

「とりあえず横島クン―――じゃなくて、モーツァルトにでも会いに行きましょうか」

「そうですね。そうしましょう!」

「じゃ、そういうことでヒャクメ、ここの勘定はよろしくね」

「ちょっ、ちょっと美神さん!?」

「何よ、不満だって言うの? だいたい私やおキヌちゃんが今の時代のお金なんて持ってるわけないでしょう?」

「私だって持ってないのねー」

「うそおっしゃい。じゃあ、アンタのトランクに入っているのは何?」

「あ、あれは万が一のために宝物庫から借りてきた銀貨で、もし使ったのがバレちゃったら・・・」

「大丈夫よ、帰ったらなんとかするから」

「きっと返してほしいのねー!」

「あー、もう、うるさいわね。いいから、さっさと払ってらっしゃい!」

およそ口では美神に勝てるはずもなく、ヒャクメはしぶしぶとコーヒーを奢る羽目になった。
この当時のコーヒー代がいくらかはわからないが、その代金にマリア・テレジアのターレル銀貨で払うのなら、まこと歴史に添った使い方となったのだった。


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