西暦1787年、ウィーン。
繊細優美かつ優艶魅惑な宮廷文化が散り初めの華を咲かせていた頃。
美しく青きドナウを上り、黒い森を抜けてライン河を越えた向こうより不穏な風が流れて来てはいるが、人々はそれに気づかない、いや、気づかない振りをして享楽の日々を送っていた。
我らのあとに洪水よ来たれ、と心の奥底で願いながら―――
ロココ調の見事な装飾が施された人気のない部屋の窓が、風もないのに急にがだかたと揺らぎ始める。
高い天井から吊るされた豪華なシャンデリアの先が青白く光り始めたかと思うと、まったく突然に人の姿が現れた。
時空間を越えて姿を現した美神たちは、無慈悲なまでに容赦なく室内へと放り出されるのだった。
「―――痛っ!」
さして高くもなかったのだが、固い床に腰を打ち付け、美神は軽い悲鳴を上げた。
少し涙目になりながらも腰をさすり、改めてあたりを見渡してみる。
言われるまでもなく、そこはさっきまでいた事務所とは違う部屋だった。
「ヒャクメ! ここはいったいどこなの!?」
美神は自分をここへ連れてきたヒャクメを呼ぶ。
移動する前に見たモニターから年代は想像がついているが、今いる場所がどこかわからないのでは対処のしようがないからだ。
部屋の様子からヨーロッパのどこかだろうとは思うのだが、それ以上のことは何もわからなかった。
だが、左右を見渡して見ても、横で目を回して倒れているおキヌのほかは、人の姿は見えなかった。
「ちょっ、ちょっとヒャクメ! どこ行っちゃったのよっ!」
慌てて美神はもう一度ヒャクメの名前を呼ぶ。
ひょっとして時空間に取り残されてしまったのでは、という悪い予感が頭をよぎる。
ヒャクメの安否も気になるが、彼女なしでは現代に戻ることは難しい。
そのことが美神の不安を掻き立てる。
「ヒャクメ! 返事をしなさいよっ!」
「こ、ここなのねー」
思いもかけぬ場所、美神の頭の上のほうから、ヒャクメの情けない声が返ってきた。
見上げると、天井のシャンデリアに引っかかり、猫が襟首を掴まれているような格好でぶら下がっていた。
「・・・アンタ、何やってんのよ?」
「好きでこんなことしてるわけじゃないのねー! 早く助けてほしいのねー!」
「助けてって言われても、そんなとこじゃ手が届かないわよ」
「そんなこと言わないでなんとかしてほしいのねー!」
「あー、もう、うるさいわね! さっさと下りてらっしゃい!」
『まーまー、美神さん。かわいそうだから助けてあげましょうよ』
「だけどね、おキヌちゃん。あんなとこどうやって届くと―――」
そこまで言いかけて美神は口をぽかんと開けて黙ってしまった。
美神の目の前には、半透明になったおキヌがふよふよと浮かんでいるのだった。
『えへへ。落っこちた拍子に、また幽体離脱しちゃいました』
おキヌは照れくさそうに笑いながら、ヒャクメがじたばたと暴れているシャンデリアへと上っていった。
何気なく目を向けると、床に倒れたままの本体も何やらむにゃむにゃと呟いているので、本当に大した事はなさそうだった。
『ちょっと待っててくださいね、ヒャクメ様。すぐに外しますから』
「ありがとー。 やっぱりおキヌちゃんはいいコなのねー」
嬉しさのあまり、ヒャクメは思わず涙ぐむ。
今ならどんな願い事でも聞き届けてしまいそうなぐらい感激していた。
もっとも、ヒャクメに叶えられる願い事など、たかが知れているのだろうけれど。
「それで、ここはいったいどこなのよ?」
ようやくに下りてきたヒャクメに向かい、肝心なことを問いただす。
おキヌも無事に身体に戻り、裾をはたき、外したエプロンを丁寧に折り畳んで、ヒャクメのトランクにしまう。
「ここはオーストリアのウィーン、シェーンブルン宮殿の一室なのねー」
「ウィーン!? なんだってそんなところへ!?」
「実は、ここに美神さんに見せたい人がいるのねー たぶん今日来ているはずなんだけど―――」
「私に? 誰よ?」
「それは見ればわかるのねー それに、その人は誰でも―――おキヌちゃんも知っている人なのねー」
美神にはわけがわからなかった。
ヒャクメは見せたい人物のことを自分も、そしておキヌも知っていると言う。
宮殿にいるということは、ハプスブルク家の人間だろうか。
ハプスブルク家で自分が知っている名前といえばマリア・テレジアぐらいだが、今が本当に1787年だとすれば、彼女はとうに死んでしまっているはずだった。
だとすれば、他にいったい―――
マリア、という名前で美神の思考ははたと止まる。
以前にタイムスリップしてマリア姫と、そして若きDr.カオスに出会ったのは、今よりもさらに五百年も前のこと。
あのときにいた場所はここよりも遥か西、アルプス山中トレンティーノの北方とはいえ、長い年月の間に移動できない距離ではない。
そして、”テレジア”とは、英語に直せば”テレサ”のことだ。
だが、そのことをどうしておキヌが知っているというのだろうか。
「美神さん! 誰かこっちに来ます!」
つかの間黙考にふけっていた美神を、おキヌの声が呼び覚ます。
ヒャクメの言うとおりにここがシェーンブルン宮殿だとすれば、現代のように歴史的建造物として保存されているのではなく、ハプスブルク家の夏の離宮として、今まさに使用されているのだ。
人気のないこのフロアにも少なからず警備につく兵士たちや、宮廷に使える者たちがいても当然だった。
よくよく耳をすませてみれば、階下で演奏会でも開かれているのか、微かに人のざわめきと音楽の調べが聞こえてくる。
「美神さん! ここに隠れるのねー!」
「おキヌちゃん! 早く、早く!」
ヒャクメが指差す家具の陰に潜り込み、おキヌを急いで手招きする。
狭苦しい隙間におキヌが滑り込むのと同時に、息を切らせた若い女が嬌声を上げて駆け込んで来た。
女は両手でドアを閉め、けらけらと笑いながらドレスの裾をつまんで部屋の中を走り回る。
ローブ・ア・ラ・フランセーヌという、少し流行遅れになった胸元の開いたドレスを纏い、まるで冗談のように大きな白いかつらをつけていた。
あいにくと逆光になってしまい顔は見えなかったが、美神もおキヌも、どこかで見たことがあるような気がしていた。
誰かに追われているのだろうか、彼女はしきりにドアを気にしてはいたが、およそ緊迫感のかけらも見えなかった。
するとドアのノブがかちり、と音を立て、ゆっくりと下がりだした。ドアはまだ開かれてはいない。
それに気づいた女は息を潜め、足音を立てないようにして、美神たちが隠れている目の前の、クロスが深く掛けられているテーブルの下へと身を隠す。
それと同時にオーク材のドアが音もなくゆっくりと開き、一人の男が中へ入ってきたが、やはり顔は見えなかった。
男は先ほどの女と同じように若く、女のほどにはバカげて大きくはないが、両サイドを二つほどカールさせた白いかつらをつけている。
この時代ではそうするのが宮廷の作法だと知ってはいても、若い男女が小麦粉を振りかけて真っ白なかつらをつけているというのは、なんとも奇妙な様子だった。
男は部屋の中を見渡し、一度出て行くような素振りを見せては立ち止まり、ドアをぴたりと閉めた。
床板がきしきしと鳴る音が聞こえ、男は少しずつテーブルのほうへ近づいていく。
そのまま足元に隠れる女に気づかずに通り過ぎるのかと、美神たちが息をのんで見守っていたとき、不意にけたたましい下卑た笑い声を上げて潜り込んだ。
「アーーハハハハハハハハッ!!」
「キャーーーーーッッ!!」
「アハハハハハハハッ!!」
女は慌ててテーブルの下から逃げ出そうとするが、あえなく男につかまって引きずり戻されてしまう。
クロスの影でなにやらもみ合っている気配がしたが、その間も騒がしい嬌声を上げたままだった。
一度だけ何かの拍子で這い出してきたが、今度は男に足を掴まれて、大の字に腹這いのままたわわな胸を床に擦るようにして、テーブルの向こうへと消えた。
いつしかけたたましい笑い声は止み、睦み合い、ときおり口付けを交わす音が聞こえてくる。
よく見えないとはいえ、すぐ近くで繰り広げられる愛の営みに、美神もおキヌも顔を真っ赤にしながらも、何一つ聞き逃さないように耳をそばだてているのだった。
それは時としてバカバカしく、時として卑猥で、そして時として官能的な囁きの繰り返しだった。
「・・・ねぇ、まさか、これが見せたかったわけじゃないでしょうね?」
まだ繰り広げられる二人の痴態からは目を離さず、そばにいるヒャクメに小声で話し掛けた。
おキヌなどはもう、身を乗り出さんばかりにしているほどだった。
だが、ヒャクメからの答えは何も返ってこなかった。
今更恥ずかしがるアンタでもあるまいに、そう思った美神は少し皮肉を込めて、再度ヒャクメに呼びかける。
それでも、やはり返事は返ってこない。
「―――ヒャクメ?」
ほんの少し不審がった美神は、些か名残惜しいがテーブルから目を離してヒャクメのほうを向いた。
何と言う事か、ヒャクメはその目を、いや、ありとあらゆる感覚器官を見開いたまま固まってしまっていた。
「―――な、なんということなのね・・・ こんなことって・・・」
「ヒャクメ!? どうしたのよ!?」
「美神さんっ!!」
それまであの二人をじっと見つめていたおキヌが、慌てて頭を引っ込めて声を掛けた。
さてはついに見つかったか、そう思って頭を低くしたが、どうもそうではないらしい。
恐る恐る顔を上げて覗いて見ると、二人はとうにじゃれ合うのを止め、男が険しい顔をして立ち上がり、閉ざされたドアを見つめている。
立ち上がる際にかつらが脱げたのか、男は短めに刈った地毛を見せていた。
「ウォルフィ・・・?」
心配そうな声を出す恋人を片手で制し、ほんの少し黙っているように指示をする。
物音一つしない部屋に、ドアの向こうから微かな音楽のようなものが聞こえてきた。
「僕の曲だ」
そう言って恋人に振り向いたとき、美神の目に男の顔がはっきりと見え、大きな衝撃を受けた。
「勝手に始めちまいやがった」
そう言って男はかつらをひったくるようにして拾い、荒々しくドアを開けて出ていった。
置いて行かれた女は少し寂しそうに、だが、どこか頼もしげにもう一度男の名前を呟いた。
「ウォルフィ・・・」
そしてすぐに晴れ晴れとした顔をして、急いで彼のあとを追いかけて出て行こうとする。
ふと、何を思ったのか、誰もいないはずの室内を振り返ったとき、女の顔もはっきりと見え、美神は再びショックに襲われる。
女の顔は寸分たがわぬ自分と同じ顔―――
そして、先程の男は、紛れもなく横島忠夫と同じ顔をしていたのだった。
横島にあの巻き髪のかつらが似合うのかどうか問題ですが、配役としては申し分ないんじゃないかな、と思っています。
トム・ハルスのあの笑い声と横島のセクハラとは、また方向性が微妙に違いますが、なんとかがんばって演技してもらいたいものです。
タイトルの意味とからめて、モーツァルトにはもう一つ秘密があるのですが、それはもう少し先で明かすように致しましょう。 (赤蛇)
読了し、たまたまつけたTVがウィーンフィルの中継。
まさにモーツァルトや当時のウィーンを紹介しており、作品背景を垣間見ることができ、望外の幸運でした。
新作のお年玉、ありがとうございます。
(^−^)ハルカラ、エンギガイイ! (鴨)
ウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートは、私ももちろん見ておりました。
そもそも今年はモーツァルト生誕250年にあたりモーツァルト・イヤーなんだそうでして、それに合わせてこの話を書き始めたという経緯があったりします。
もっとも、モーツァルト・ファンからは怒られそうな作品ですが。
とてもお年玉にはなりませんが、こんなのでよろしければぜひ受け取ってください(笑) (赤蛇)