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ばらの花

第二話:ワンダーフォーゲル


投稿者名:ライス
投稿日時:05/12/31



 夕暮れもつかの間、すっかり夜になっていた。月は妙に明るい。
 閑散とした住宅街の並び。真新しく舗装された道路を二人は歩いていた。道は街灯と家々の明かりが点々と光り、わずかに見通しを良くしている。
 二人とも押し黙ったまま、夜の舞台が続く。キヌはなにも話せないでいた。横島もどうやら同じでなにを話したらいいのか、困っているように見える。だが、二人の歩む足は止まらない。無機質にただ目的地だけを目指していた。向かう先はもちろん彼女の住居先であり、彼女らのアルバイト先でもある、美神令子除霊事務所。
「送り迎えをするのも、彼氏の役目だよ!」
 ふと一文字の提案を思い出す。最初、共にあまり乗り気ではなかった。が、結局押しの一手で、キヌは横島に事務所まで送られるはめになった。ありがたくも思いつつも、一文字たちが少し恨めしい。
 とはいえこの日、激変した二人の関係はとてもぎこちなかった。キヌの心もおのずと高鳴っていたが、降って湧いて出てきた状況にどぎまぎするばかり。おかげでなにも出来ずにいる。どこからかニャーンと、猫の声。猫がなにを言っているかは分からない。声はそれっきりだった。仲間でも見つけたのだろうか。
 キヌと横島は街灯の下をくぐり抜ける。このままで終わるのが忍びない。光が身体を通り抜けいく。
 と、彼女は急にひらめいた。思わず意を決して、深呼吸をする。
「横島さん」
 少し間隔を詰めて、彼女は彼の名を呼んだ。
「手、繋いでもいいですか」
 その発言を聞くと、横島は背にほの暗い光を浴びながら、立ち止まった。こちらを見つめている。だが、彼の表情は逆光で読み取れない。途端にキヌは不安になった。
「だめ、ですか?」
 しばらくして彼はああ、と二つ返事で手を差し出して来た。どうやら怒ってはいないようである。安心したキヌはそっと彼の手に触れ、優しく握り締めた。繋いだ手は暖かい。彼女は冷えた自分の手が暖かく包み込まれた気がした。
 二人は妙な雰囲気が漂わせて、夜の路地をまた歩き始めた。ばらばらだった二つの影は溶け合い、寄り添って一つとなる。
 キヌは彼の様子が気になり、ちらっと顔をうかがってみた。薄暗くて、やはり表情はよく読み取れない。でも、彼女の手には体温が伝わってくる。彼がとても身近に感じられるのが嬉しい。それもたぶん今までの中で一番だ。彼女は思わず、顔がほころびそうになる。 
 面映い気持ちに満たされながらも、時間は無情に過ぎていく。二人はすでに見慣れた道を歩いていた。目的地に通ずる道筋だ。ここまで来ると、もうすぐ。キヌは気付くと少し寂しくなる。
「事務所、もうすぐですね」
「ん、ああ。じゃ、こっから一人でも大丈夫だよね?」
 不意に話しかけられて、慌てた横島は思わず手を放そうとする。だが、キヌは逆に彼の手を引き止めて、強く握った。巻きつく蔓のようにぎゅっと。
「もう少しだけ……」
 それ以上、口に出ない。彼女はどうしてもまだ、繋げた手を離したくはなかった。
「でも、おれ」
「手前の曲がり角まででいいです。だからもうちょっとだけ」
 目の前の角を出れば、事務所のある通りへとたどり着く。手を繋いでいたい。たとえわずかな間でも出来るだけ長く。キヌは今という時間を大事にしたかった。だから、彼と手を繋いでいられるこの瞬間をまだ少し続けていたいのだ。
「分かったよ」
 と、横島はぶっきらぼうに答えた。
「あそこの角まで行こう」
 彼は突然、キヌの手を引っ張って、急ぎ足で歩き出した。先ほどまでのゆっくりとした歩調とは打って変わり、あっという間に曲がり角に着いてしまう。
「さぁ、着いた! これでいいだろ、おキヌちゃん」
「は、はい。ありがとうございます」
 街灯の下に躍り出た二人。ここなら横島の表情がはっきりと見える。キヌはまた彼の顔を見てみた。無愛想な顔をしている。どこかぎこちなさを感じる顔つきでもあった。照れ隠しだろうか。見ていて、すこし可笑しかった。
「な、なんだよ。いきなり笑い出して」
 思わず、声に出して笑っていたらしい。キヌはさっきまで思っていたことを頭にしまい込み、口を閉じた。また場は静まりかえる。
「じゃ、じゃあ、おれは帰るから」
 ばつが悪くなったのか、横島はキヌに背を向けて、自分のアパートのある方向へと戻ろうとしている。すると、キヌは思わず声に出した。
「まっ、待ってください!」
「なに?」
 彼は首を振り向かせた。
「あのっ、今日はあ、ありがとうございました! 本当に嬉しかった、です」
 声を振り絞って、キヌは彼に話し出す。
「私、横島さんのことがずっと好きでした。でも、言い出せなくて。今日も一文字さん達のおかげでというか、ようやく口にできた事が嬉しくて恥ずかしくて。さっき、手を繋いだこともそんな感じでとても嬉しかったんです。だから……。
「だから、横島さんと楽しく過ごせたらって思うんです。もちろんお仕事もあるから、頻繁にってわけには行かないですけど。
「それに初めての事だから私、いろいろたくさん迷惑かけるかもしれません。でも、横島さん。これからもずっと、よろしくお願いしますね」
 話し終わると、屈託の無い微笑みを横島へ送る。これからの未来に思いを馳せて、キヌは朗らかな気分になっていた。そして、彼女は告白したという実感をようやく持つことが出来た。
「そろそろ行かないと。みんな待ってますし」
 月が出てから随分と経つ。帰らなくては。目と鼻の先の事務所では帰りを待っている者もいる。次第にキヌは、その足を帰る家へと向けていた。
「うん。じゃあ、また今度」
 横島は当たり障りのない言葉を使い、安堵した表情でこちらを見ている。
「はいっ」
 対してキヌは嬉しそうに軽く頷き、とびきりの笑顔を見せた。色鮮やかな花がぱっと咲く。明るい笑みを振りまいて、彼女は横島の元を去っていった。
 小走りに事務所へ向かう。キヌの心は弾んでいた。今までどこかに持っていたわだかまりがようやくすっきりした。まるで開放されたみたいで、とても気分がいい。全ては思いが口に出来たおかげだ。
(夢じゃない、本当なんだわ!) 
 こうして横島に告白した感慨を胸にしまい、彼女は帰路へ着いた。
 一方、告白された方はと言えば。
「あんな可愛い顔するんだ……、おキヌちゃんって」
 と、間の抜けたことをあっけらかんと呟いていた。どうやら横島の脳裏には、今しがたのキヌの愛らしい笑顔がくっきりと焼きついたらしい。彼女の後ろ姿を見送ると、彼も歩みを自宅に向けた。
 ともあれ、彼女たちの関係は新しい船出を告げたのである。


 ◇


 告白をしてから、一週間が経つ。といっても、日常になんら変化はない。以前と変わらないやり取りで、物事は滞りなく進んでいる。生活も普段どおり。
 周りへの配慮として、キヌは横島への感情をあまり出さないようにした。彼にも言い聞かせてある。色々と角が立つのは困るし、望む所ではない。
(って、分かっているんだけどなぁ)
 一連の出来事を思い返すたびに、すぐ嬉しくなってしまい、表情に出たり、鼻歌を歌ってしまったりと、つい油断してしまう。うわの空になるたびに慌てて我に返り、照れながらの日々を過ごしていた。
 それに比べ、横島はまた逆の状況で、普段以上の踏み出しに躊躇しているようである。また彼の対応があまりにも変わらないのも、キヌは少し残念だった。
 しかし、まるで生まれ変わったような気分である。一週間。たった七日間はいえ、キヌは毎日がとても新鮮で、爽やかな一日がずっと続いていた。まだ数えるほどしか日が経っていないというのに、幸せに満ちた生活をしている錯覚に陥る。バイトの関係上、彼とは必ず会っているが一緒にいるだけでも嬉しい。話すわけでもなく、二人きりになるわけでもない。ただ満ち足りていた。
 だが一方で、彼に対して少し厳しくなっていた。おかげで、三日くらい話していない。横島の事が気になって、気になってしかたないというのに、このありさま。納得はしているはずなのに、心ではまだ許せていない。
(でも、あれは横島さんが悪いんだし……)
 事の始まりは日曜日の事。その日の仕事は午後の予定だけ。なのでわりと遅い時間に集合だった。キヌは平日と同じ時刻に起きた。天気は快晴。とても気持ち言いの朝だった。身支度を整えて、朝食の支度に向かう。部屋を出ると、窓からの日差しが眩しい。
「いい天気」
 作る食事は三人分。美神の分はない。こういう日に限って、美神はずっと寝ており、時間になるまで起きない。弓が言うには夜に備えて寝るのもGSの仕事の内らしいが、寝ている様を見ていると、にわかに信じられなかった。部屋を覗き込むと、酒の匂いがぷんぷんする。まったく、とキヌは苦笑う。
 屋根裏の二人はもう起きていた。シロはエサもとい、朝食がやってくるのを心待ちにしている。タマモは洗面所らしい。ばしゃばしゃと水の音がする。朝食が出来上がり、テーブルに行くと、朝の挨拶。
「おはよう、二人とも」
 二人も挨拶して、食卓の席につく。焼き魚に目玉焼き、野菜、ご飯味噌汁。典型的な日本の食卓だ。しかし、シロが肉が食べたいと駄々をこねる。いつものわがままが始まった。彼女はどうも好き嫌いが激しい。
「だーめ」
 キヌはにべもなく却下する。すると、タマモが鼻で笑った。明らかな嘲笑に、脊髄反射の如くシロが沸騰した。
「シロちゃん!」
 食事中の喧嘩はご法度。二人が屋根裏に住むようになってから、美神の下したルールであった。とにかく食卓は中立地帯だった。
「あら、どうかしたの?」
 タマモはすべて分かって、笑みをシロに送っていた。喧嘩すれば、両成敗で一週間飯抜き。リスクの高いいたずらである。シロが口で言い返せないのをいい事にからかっているのだ。この法令のおかげで、シロはいつもタマモにからかわれっぱなし。ちょっと可哀想だ。そろそろ助け舟を出してあげなくては。
「タマモちゃん」
「はーい」
 今日もまた一時休戦。腹を立てたシロは朝食に怒りをぶつけた。あっという間に平らげると、彼女はすぐに出かけてしまった(行き先は判りきっているので言うまでもない)。タマモも朝の散歩と称して、窓から出て行った。このように日曜の朝食後は大抵、キヌ一人きりになってしまう。
「さてと」
 彼女に休む暇はない。朝食の後片付けを済ませると、掃除洗濯と一般主婦の行う仕事を手際よくこなしていく。特に掃除は毎日は出来ないので念入りにするのが日課だった。これだけ家も広いと部屋数も多いので、手の行き届かない所もたくさんある。
 キヌはこれらを鼻歌混じりに、楽しんでいた。廊下はもちろんの事、屋根裏の部屋、応接間、キッチンや普段あまり使うことのない部屋もくまなく綺麗にしていく。次に掃除する日のために、人目につく所を出来るだけ念入りに掃除しなければならない。清潔さを保つ事で、事務所の印象をよくしようという、ささやかではあるが大切な努力であった。
「ふう」
 これらが一つ残らず、終わる頃には太陽は青空に高く上っていた。、
 昼が近づいてくると、事務所は途端に賑やかになってくる。まず美神が起きて、大きなあくびをしながら、眠気を覚ましにシャワーを浴びに向かった。他人が見てないところだと、やっぱり少しだらしない。が、寝起きの悪い人に言っても余計に不機嫌になるだけなので、黙っておいた。その直後、タマモがどこからか帰ってくる。キヌは彼女と二三、他愛ない会話を交わす。話し終わると彼女はお昼になったら呼んで、と屋根裏に戻っていった。相変わらずマイペース。
 さらに数分経って、外の方から自転車のブレーキが聞こえる音がした。シロが横島を連れて帰ってきた。この日も、彼を長時間引きずりまわして帰ってきたところ。強引極まりない散歩は彼女の日課。とはいえ、付き合わされる相手はたまったものではないだろう。
「たっだいまー、でござる!」
 すっかり機嫌のよくなったシロが二階の応接間に入ってきた。シロ一人だけ。横島の姿はない。自転車を降りた後、二人してやってくると思っていたのだが。おかしい。キヌは横島はどうしたのかと言いかけて、とっさに勘がひらめいた。
「いっけない」
 次の瞬間、シロを押しのけて大急ぎで部屋を出た。
 彼女はまったく忘れていた。有り余りすぎる彼の煩悩を。彼は言わずと知れた、横島忠夫その人である。なにが起こるかわかったもんでない。
 キヌはまず美神の寝室へ向かった。仕事があることを考えれば、彼だって命の危険を冒してまで、シャワーシーンを覗きに行かないだろうと思ったからである。
 しかし、現実は甘くなかった。部屋はとっ散らかっていていたが、誰もいない。なんの変哲もない美神の寝室だった。
「まさか」
 嫌な予感がする。すぐさま浴室へと急いだ。浴室は三部屋に分かれている。手前の部屋には洗濯場と洗面台。さらにその奥にもう一つドアがあり、その中に脱衣所と風呂場への入り口が存在する。そして脱衣所の入り口脇には乾燥機付き全自動洗濯機と洗濯かごが。危険だ、大変に危険だ。
 ドアの前にたどり着くと、喜びに震えた小さな叫び声が漏れてくる。遅かったか。
「こ、これこそが美神さんの脱ぎたて生した……っ!」
「横島さん!」
 聞いた瞬間、怒声と共にキヌはドアを思いっきり強く叩き付けた。彼女らしからぬ扉の開け方で、大きな音が立つ。そこに見覚えのあるデニムの青い背中がいた。手にはかごから探り当てたらしい下着。それが美神のであることに憤りを隠せない。というより、許せなかった。
「お、おキヌちゃん!?」
 彼は目の前に立ちはだかるキヌを見て、狼狽していた。それと息もごくりと一飲み。
「なにをしてるんですか」
 抑揚のないキヌの声が一音一音、スタッカートする。
「ちょっ、待って!」
「なにをしてるんですか」
 さらに口調を強めて、言った。
「これには深い理由がっ」
「知りませんっ!」
 と、キヌは詰め寄って洗濯かごごと、横島の手にしていた下着を奪い返す。そして冷たい視線で彼を睨んだ。
「横島さんの馬鹿っ」
 キヌは一瞥して、部屋から出て行く。扉をばたん、と閉めるとまた少し後悔した。彼の性格を考えると、起こりうる状況のはずなのにどうにも許せなかった。嫉妬なのだろうか。曲がりなりにも付き合いを始めたわけであるから、出来れば自分の方をずっと見ていて欲しいという気持ちが引き起こしたのかもしれない。どちらにしても、横島の行動に納得できなかった。そしてその日、彼女から横島に話しかけることは無かった。
「で、深い理由ってなにかしら」
「いっ。そのドスの利いた声には物凄く聞き覚えが……」
 また同日、浴室が真紅の色で塗り尽くされたのは言うまでもない。 


 ◇


 ありえない。今まで焼きもちを焼いたことなど、ほどんどなないのに。キヌは自分でも意外なくらい、信じられなかった。幽霊だった頃まで顧みても、あの感情の発露、燃え上がる炎のように、湧きあがるものを経験したのは生まれて初めてだった。
 また、彼女は落ち込んでもいた。一瞬とはいえ、感情のままに彼へ怒りをぶつけてしまった事には反省したくなる。
(嫌われないかな、私)
 横島はあの性格なので、今後も似たような事は十分ありえる。いや、絶対にある。その度に怒らなければならないかと考えたら、憂鬱になってきた。
 大目に見ていくべきなのだろうか。
 付き合う前には大して気に掛けなかったのに、いざ始まってみると横島の行為が目についてしかたなかった。付き合い始めたのだから、少しは自重して欲しい。本能であると言っても、彼のは異常だ。でも、言って聞くような人でもない。
 悩みの種。
 辛抱すればいいこと。でも、彼女は自分にそこまで忍耐力があるのか、不安だった。また嫉妬してしまうのではないかと、ジレンマに陥る。
 拭いきれない悩みを抱えたまま、彼女は次の日からまた変わりない日々を過ごした。こうして三日が経った今に至る。そして、四日目も過ぎ去ろうとしていた。
 仕事が終わり、帰ってきた事務所一同。片付けも終わり、日もすっかり暮れている。夕飯は横島も交えて、賑やかな食卓を過ごした。彼が手料理を食べてくれる事はなによりも嬉しい。その後、横島はシロの勝手な見送りを引き連れて自宅へと帰っていった。タマモも屋根裏に戻っていく。
 キヌは台所で後片付けをしていた。長いようで短い一日が終わろうとしている。仕事はつつがなく処理できたので、すこぶる快調な一日であった。何事もないのは平和のあらわれだが、このような日も珍しい。
 外は車の音が鳴る以外は静かな夜。流しに落ちる水の音と食器どうしの擦れ合う音が重なり、食卓のある居間へと漏れていく。時たま、新聞紙をめくる音も聞こえる。ほぼ隣どうしの台所と居間にキヌと美神が二人きり。言葉もあまり交わさないまま、時間だけが過ぎていく。食事前に汗を流した美神はビールをかっ喰らいながら、夕刊を見始めていた。
「おキヌちゃん、ビールもう一本ーっ」
 彼女のビールは五本目に突入していた。晩酌にはちょうどいい量である。新聞をめくる音が消えたと思うと、またがさっと音がした。また読み返している。
「しっかしろくな事、書いてないわねぇ」
 一度読み終えてしまって、ひどく退屈らしい。
 キヌはまだ洗い物の最中。食器を水に流しながら、鼻歌が思わず出ていた。隣に美神がいるのも忘れ、それは居間の方へもかすかに漏れていく。
 新聞を投げつける音がする。後に美神の大きなあくびも聞こえた。しかし、キヌはよっぽど上機嫌なのか、鼻歌を止めなかった。
「おキヌちゃん」
「なんですか〜」
 美神に呼ばれた。壁越しなので出来るだけ、声を出して。
「なんか良い事でもあったの」
「別にありませんよ〜」
「そう。ならいいんだけど」
 ここで会話が終わりそうなものだが、美神の様子が普段と違っていた。
「じゃあ、一つ聞いてもいいかしら」
「はい?」
 流しの水を止め、キヌは廊下に顔を覗かせて、居間の方に耳を傾けた。美神の重い口調は続く。なんだろうと、不安が襲う。
「一度しか言わないから、良く聞いて……」
「こんばんは、令子いる〜?」
 二人の会話に割って入るように、一階から大きな声が聞こえた。どうやら来客のようだ。キヌはすぐに返事して、階段を駆け下りた。玄関の前へいってみると、赤ん坊を抱えた女性が一人立っている。美神の母、美智恵だった。腕には妹のひのめもいる。キヌは挨拶もそこそこに、彼女を居間へ案内した。
「お邪魔するわね」
「ママ」
 部屋に入ってきた美智恵は側の椅子に腰掛け、抱きかかえる赤ん坊をあやす。
「今、なにかお持ちしますね」
「あっ、いいわよおキヌちゃん。帰り際に立ち寄っただけだから」
「いいじゃない、ママ。おキヌちゃん、私にもお願い」
「わかりました、お二人ともコーヒーでいいですか」
「えぇ」
 キヌは軽く頷き、早速コーヒーを淹れに台所に行った。その間も親子二人はお互いに最近のことを談笑しあっている。仕事の話も織り交ぜて、話を軽妙に進むのが耳に入ってきた。
「でね、ママ」
 美神の口調は美智恵が来る前のものと違い、明快でいつものものへ戻っていた。彼女が一体、なにを聞こうとしていたのかは分からずじまいである。
(なんだったんだろう)
 コーヒーを淹れ終わると、キヌはカップを部屋へ運ぶ。彼女は、親子の手前にコーヒーカップを置いた後、自分の分を持って、同じ席についた。一口飲んで、親子のやり取りを見守った。
「なにいってるのよ、それは令子あんたが……」
 そんな中、ふとテーブル脇にある育児ベットを見てみると、ひのめがすやすや寝ていた。寝息を立てている。そっと近寄ってみた。可愛らしい寝顔を見ていると心くすぐられそうだ。思わず、口に出してしまう。
「お休みなさい」
 赤ん坊に毛布を掛けなおしてやった。席に戻ると他愛のない話は面白おかしく続いている。キヌも聞いたり話したりして、夕食後の団らんを楽しんだ。こうなると時が進みは早くなり、夜もすっかり更けてしまう。
 いつの間にか天井もがたがた騒がしい。上がやかましいという事はシロが帰ってきている。また喧嘩でもしているのだろうか。キヌは耳を立てて、思った。一方で、こちらは親子の会話が和やかに続いている。ちょっぴりキヌは羨ましくなった。また、寂しさも覚える。
(親子、相棒。でも、私は独り……)
 などと変な事を考えてしまう。駄目だ、いけない。急に横島の顔を思い出した。自分には彼がいる。みんなもいる。寂しく思う必要はない、はず。孤独だなどと、嫌な考えはさっさと振り払ってしまうべきだ。独りじゃないんだ。そう思いたい。
「そろそろお風呂に入りますね」
 コーヒーを飲み干して、席を立つ。学校は明日もあるので、そろそろ寝ておくべき時間帯だった。
「あら、もうこんな時間」
「泊まってったら、ママ。ひのめもぐっすり寝付いちゃってるわよ」
「そうしようかしら、今さら家に帰るのもなんだし」
「じゃあ私、先に入りますから、お二人はもう少し待っててくださいね」
 キヌは部屋を出て行った。取り残された親子二人は、まだ話を続ける。
「最近、雰囲気が変わったんじゃない? おキヌちゃん」
 美智恵が娘の顔をうかがった。なにか勘付いたのか、彼女は少し顔がにやけている。すると美神は怪訝な目つきで母親を睨み、言い放った。
「付き合ってるのよ」
 答えは簡潔だった。案の定、娘の機嫌が悪いのが感じ取れる。
「聞いたの?」
「別に。あのバカとおキヌちゃんが付き合おうと興味はないわ」
「あら。ずいぶん素っ気ないわね」
「ほっといてよ、私の問題じゃないんだし」
「はいはい」
 娘は妙にふてくされていた。察した美智恵は生返事で話を切り上げようとする。
「でも」
 美神は口を漏らす。まだ話は終わってないと言いたげに。
「どうしてなにも言ってこないのかしら」
「関係ないんじゃなかったの、令子?」
「も、もちろんよ。ただ私に気を遣ってるのなら、余計なお世話だわ」
「あっ、そういうこと。あんたらしいわ」
「どおいう意味よ」
「さあ? 自分の胸に聞いてみなさい。それこそ、私の手出しする問題じゃないわ」
 と、母はちくりと一言。娘は癇にさわったのか、さらに不機嫌になってしまった。二人は急にぎくしゃくし出す。
 すると、唐突にドアをノックする音がした。
「お風呂、出ましたからどうぞ」
 キヌだった。彼女は扉越しに中にいる二人に声を掛ける。
「は〜い」
 美智恵の声が返ってきた。キヌは確認すると扉を離れて行った。次に天井裏の部屋に向かい、再びドアを叩く。
「入っていいかしら」
「どうぞお入りくだされ」
 侍口調の声が聞こえた。了解を得ると、彼女は中に入った。部屋ではシロとタマモがおのおのにくつろいでいる。
「どうしたんでござるか?」
「今日、隊長さんが泊まる事になったからお風呂、少し遅くなるけど大丈夫?」
「構わないでござる。タマモもいいでござろう?」
「別にいいわ」
「良かった。じゃあ、隊長さんと美神さんが終わったら入ってね。ちゃんと百まで浸かるのよ。あと髪の毛もちゃんと洗うように」
「あいわかったでござる」
「善処するわ」
「それじゃあ、お休みなさい」
 キヌは戸を閉めて、自分の部屋へ戻っていった。一方、シロたちの部屋では。
「おキヌどの、なにかいい香りがしたでござるなぁ」
 彼女の石鹸の残り香がまだ部屋に漂っていた。シロは鼻をひくつかせている。
「シャンプーの匂いだけじゃなさそうだけどね」
「ん? どういう事でござるか」
「わからないの? あんたって本当に幸せね」
 この会話の後、シロとタマモはまた喧嘩になった。が、ここでは割愛しておく。
 それはともかく、キヌは部屋に戻ると化粧台に向かい、髪を梳いた。終わると髪を束ね、寝る準備を整える。次に学生鞄を持ち出して、机の真正面の壁に貼り付けてある時間割を見ながら、明日の授業に必要な教科書を取り揃え、鞄の中にしまっていく。その後、ベッドの上の目覚ましをセットし、明かりを消すとベッドに入った。
 暗くなった天井を見上げながら、考え事をする。結局、また彼と話すことはなかった。これでもう四日も口を聞いていない。
(あぁもう、私の馬鹿っ)
 日曜以来、不必要に横島を遠ざけていた。話すきっかけもなく、つい冷たい態度をとってやり過ごしていた。悪い印象しか与えないと言うのに。つまらない嫉妬でしぼんだ花はさらにしおれた。
(横島さん)
 彼女は後悔はしていなかった。横島に告白したこと、彼と付き合っていくことを。誰がなんと言おうと、彼のことが好きであるし、決心に変わりはない。
 ふと思った。
 なら、我慢する必要なんてないのではないのだろうか。もしまた、脱衣所の件と似たことに鉢合わせたら、怒って注意する。きっと横島も判ってくれるはずだ。キヌは改めて気を取り直す。
 笑ったり、怒ったり、悲しんだり、楽しかったり、感情を混ぜ合わせる事が生きること。人と付き合っていくこともたぶん、同じ。
(だから怒ってもいいんだ)
 キヌはだいぶ気が楽になっていた。
 次第にまぶたが落ちてくる。同時に考え事も収拾が付かなくなり、ばらばらになっていく。彼女は大きなあくびをして、眠りに落ちていった。


 ◇


「おキヌちゃん」
 次の日の夕方、事務所の廊下でキヌは横島に呼び止められた。彼は美神に言われて、資材室で仕事の準備に取り掛かっているところ。彼女は先の一件以来、彼と話すのはこれが初めてだ。
「なんですか」
 彼女はやや目つきを吊り上げて、彼を凝視した。割り切ったはずであるのに、会うととげとげしくなってしまう。
「あの、怒ってる? 日曜の事」
 怒っているわけではなかった。おそるおそる聞いてくる横島に対して、不思議と怒りは湧いてこない。だから素っ気なく答えた。
「そんなこと、ありませんけど」
 言って、失敗したと思った。これではまるで怒っているみたいだ。彼の表情は一気に青ざめてしまい、泣きながら謝り始めた。
「し、仕方なかったんや! 一瞬迷ったけど、でもやっぱ美神さんのは捨てがたく……ごめんなさいっごめんなさい、このとーり!」
 床に額を何度もぶつけながら平謝りをする横島。彼も反省はしているらしい。キヌは穏やかにため息をつくと、優しく囁いた。
「怒ってませんから立ってください、横島さん」
 横島はえっ、と声を出してキヌの顔を見上げた。
「あんなことするからいけないんですよ。横島さんの性格だから、直せとは言いませんけど、私と付き合ってるんですから。今度から気をつけてください」
「えぇ、そんなっ」
「いやですか?」
 横島はキヌの笑ってない笑顔が目に入ると、大急ぎで首を振った。
「約束ですよ」
「……はい」
「じゃあ、この事はこれでお終いです。それで、なんですか」
 キヌの問いに彼は首をかしげた。でもすぐに最初に彼女を呼び止めた理由を思い出して、ジャケットのポケットからある物を取り出した。それは二枚の映画無料招待券。
「この前のお詫びも兼ねて、映画に誘おうと思ったんだけど。だめかな?」
 横島は彼女の顔をうかがいながら、またおそるおそる尋ねる。キヌは手に取ると、まじまじと券を見た。
「どうしたんです、これ」
「いや、まぁ。色々とツテで。どうするかはおキヌちゃんに任せるよ」
 一枚の招待券を前にして、彼女は横島を見た。彼ははにかみ、キヌの返答が返ってくるまでの間をもてあましている。キヌにはその落ち着きのなさが憎めなかった。
「いいですよ」
 彼女はため息混じりに微笑む。内心、嬉しかった。横島がちゃんと自分の事を気遣ってくれていたことが感じ取れたからだ。彼は答を聞くと、ようやく安堵した。そして大きく息をついて、胸を撫で下ろす。おどおどしいていた表情が消えて、普段の横島が帰ってきたみたいだ。
「それで、いつ行きましょうか」
「次の休みでどう?」
 その日はちょうど祝日。キヌに異論はなかった。
「じゃあ今度の休み、お昼前に駅で待ち合わせってことで」
「分かりました」
 用が済むと、横島は今日の仕事の準備に戻っていった。
 キヌもその場を離れて、干していた洗濯物を取り込みに行く。しかし、頭の中はそれどころではなかった。理由がどうであれ、デートである。初めての事に心中穏やかでいられない。彼女は高鳴る気持ちを抑え、深呼吸をした。落ち着かないと、すぐに顔に出てしまいそうで恥ずかしかった。
 幸せな気分だった。彼と一緒に一歩一歩進展していく感覚が嬉しい。今からデートの日が待ち遠しい。休みの日はまだ先だというのに、キヌには短く感じるほどだった。
 色々と思いを馳せるが、実現するのはまだ先のこと。それまではいつもどおりに過ごさなければならない。やることはたくさんある。
「頑張らなきゃ」
 思いを新たにキヌはさっそく洗濯物を取り込んでいったのだった。


 続く

 
 


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