椎名作品二次創作小説投稿広場


ツンデレラ

ユリの女王


投稿者名:UG
投稿日時:05/12/18

(※元ネタである雪の女王のあらすじを知らない方は後書きからご覧下さい)

プロローグ

 機内は奇妙な緊張に包まれていた。
 ファーストクラスに席をとった客たちは、人種、年齢も様々であったが例外なく2つの共通点を有している。
 一つはそれなりの社会的地位を持つこと、もう一つはみな同じような表情を浮かべていること。
 その表情は母親の機嫌を損ねた子供のソレにとてもよく似ていた。
 礼儀正しく背筋を伸ばした姿は、これ以上母親の機嫌を損ねぬために良い子に徹している子供のようだった。
 破格に礼儀正しくなった客たちは、時折、様子を窺うように一人の女性客に視線を向けるのだが、その女性からにじみ出る怒りの波動を目にすると一瞬で視線をそらす。
 意思の強さを感じさせる整った顔立ちの東洋系の女性は、口元を強く結びまっすぐ前を見つめているだけだった。
 しかし、その張りつめた表情は周囲に凄まじいまでのプレッシャーを与えていた。

 ―――なんでオレがこんな目に

 偶然、隣りに乗り合わせた出張帰りのビジネスマンは、奮発してファーストクラスに乗った己の不幸を呪う。
 やり手と謳われている日本のビジネスマンを相手に、無事レアメタルの買い付けを済ませた彼は意気揚々と帰国の途に付いていた。
 かなり有利な条件で契約をまとめることができた彼には臨時のボーナスとバカンスが約束されている。
 本来ならリゾートのパンフレットでも眺めつつ、大きな成果をあげた充実感を噛みしめながらの帰国になる筈だった。
 しかし現在、彼は隣りに座る東洋人からのプレッシャーに姿勢を伸ばしたまま身動き一つとれないでいる。
 唯一の救いは斜め前の座席に自分より不幸な客がいることくらいだった。
 背後から与えられ続けるプレッシャーに、彼女の目の前に座る客は精神に失調を起こしかけていた。

 ―――クソッ、契約で運を使い果たしたか?

 辣腕で知られた日本のビジネスマンとの契約は熾烈を極める筈だった、彼も本社から許されている金額ギリギリの交渉を覚悟していた。
 しかし、大方の予想に反し契約はかなりの余裕を残したまま迅速に終了する。
 彼の幸運が日本のビジネスマンに向けられた一本の電話によるものであることを彼は知る由もなかった。
 そして、現在の彼の不幸もその電話によるものであることも・・・・
 先程から喉の渇きを覚えた彼であったが余計な身動きをする勇気はない。
 しかし、視界の端に触れた光景に、乾きに堪える気になっていた彼の目が大きく見開かれた。
 彼の目は一人のフライトアテンダントが、ドリンクのサービスにやって来るのを目撃していた。
 しかも、そのフライトアテンダントは最初のサービスを彼女に行うつもりらしい。

 ―――よせ、彼女を刺激するな

 彼の脳裏に幼い頃の記憶がよみがえる。
 空気が読めない三歳年下の妹が、機嫌の悪い母親にさらなる追い打ちをかけた時の思い出。
 それは根強いトラウマとして彼の行動に未だに色濃く影響を与えていた。
 彼の視線に気づかないのか、若いフライトアテンダントは極上の微笑みを浮かべながら彼女の元へと歩み寄る。

 「お客様、お気分が優れない様子ですが、何かお飲み物でもお持ちしましょうか?」

 機内の空気が凍り付く。
 周囲の客たちは爆弾処理の現場にいるような緊張感を味わっていた。
 キツイ東洋人の視線にさらされながらも、フライトアテンダントは微笑みを崩さず彼女の返答を待つ。
 それは不機嫌な母親を気遣う良くできた長女の様な微笑みだった。
 しばしの沈黙の後、東洋人の視線に若干の柔らかいモノが混ざる。

 「・・・ミルクティーをいただけるかしら」

 その声を聞いて、フライトアテンダントは花のような笑顔を浮かべた。

 「良かった・・・実はもう用意してあるんです」

 優雅な手つきでティーポットからミルクティーを注ぐと、フライトアテンダントは小さな声を付け加えながらコップを手渡す。

 「私の母が好きなもので・・・お客様も好まれると思ってました」

 東洋の女性は香りを楽しむようにコップを傾けミルクティーを一口飲む。
 甘く温かなソレが食道を通過し胃の腑に落ちる頃には、彼女の胸に溜まった棘の先端も若干ではあるが溶け始めていた。

 「ありがとう・・・美味しいわ」

 この言葉に周囲の客たちは彼女に聞こえないよう安堵のため息を漏らす。
 これからしばらく後、このフライトアテンダントは「サービスならナルニア航空」と謳われるほど数多くの伝説を残しナルニア航空中興の立役者となる。
 そして彼女は一線を退き教官になってからも、時折この時の事を思い出し若き訓練生に聞かせるのだった。
 あの「ありがとう」を聞けたことが自分になによりの自信を与えてくれたと。

 こうしてナルニア発パリ行きの機内は、横島百合子のプレッシャーから解放されたのだった。








ユリの女王





 成田空港
 フランス発の飛行機が到着するゲート前で、美神とおキヌは百合子の到着を待っていた。
 事前の電話連絡では、最も早く日本に着く便で向かうことになっている。
 本数の少ない直行便ではなく、フランスでトランジットを行い帰国すると予想した美神は先程からずっと百合子の影を探していた。
 もしも、直行便で来るのなら到着は15時間後となる。
 美神とおキヌはそれまでずっと待ち続けるつもりだったのだが、美神の予想通り百合子は最も早い経路で成田に到着した。
 余程急いでの帰国らしく、手荷物の鞄だけを持ち美智恵が入国ゲートを通過してくる。
 その表情は氷のように冷たかった。

 「すぐに忠夫の所まで案内してください。詳しい話は移動しながら聞かせて貰います」

 挨拶らしき挨拶もないまま、百合子は美神とおキヌの横を早足で通過する。
 美神とおキヌは小走りで百合子を追い抜くと駐車場に駐めてある車の所まで百合子を案内した。
 ポルシェの後部座席に百合子を座らせ、美神は運転席のハンドルを握る。
 空港の駐車場を出てから、美神は前回の百合子の帰国から横島の身に起こったことを全て話していた。

 「核ジャック事件の裏にそんな事があったなんて・・・・」

 百合子は息子の身に起こった出来事にただ愕然とするばかりだった。
 助手席に座るおキヌは、一言も口を挟まず黙って話に耳を傾けている。
 話は美神の前世、美智恵の擬死にまで及んでいた。
 そして、美神は少しも誤魔化すことなくルシオラの死、自分が横島に提示した復活の可能性まで百合子に聞かせた。

 「そんな辛い目にあったのに親には一言も言わないで・・・・・・・」

 百合子の呟きに車内に重い沈黙が落ちる。
 その沈黙に耐えかねたように美神は口を開いた。

 「何故私を責めないんですか?横島君がこうなってしまったのは私の・・・・」

 バックミラー越しに百合子の目を見た美神は沈黙してしまう。
 百合子の目は美神にこう語りかけていた。


 ―――お前たちにはその価値すらない と


 何かに耐えるように唇を噛みしめた美神に、百合子は感情のこもらない声でこう答えた。

 「すぐに連絡してくれたことは感謝します。だけど、まだ肝心の事は聞けていない・・・3日前、忠夫の身に何があったのか聞かせてください」

 美神は既に覚悟を決めている。
 努めて平静を装いながら、美神は3日前の依頼について説明し始めた。







 今にして思えばその依頼は何処か不自然だった。
 オカルトアイテムの収集家を悩ます幼い双子の妖怪の襲撃。
 美神事務所に持ち込まれる依頼としては比較的楽な相手に、美神は横島とシロ、タマモの3名に仕事を任せることにしていた。
 もちろん彼は見習いのため、自分は責任者としておキヌと共に屋敷の外で待機している。
 最近の横島の成長は目を見張るばかりであり、美神もそろそろ見習いの解除を真剣に考える時期に来ていた。
 霊力の爆発的な成長こそ姿をひそめたものの人格面の成長は著しく、シロは別としてタマモでさえも彼の指揮下に入ることに異議を申し立ることは無くなっている。
 美神とおキヌはその事が、横島があの一件を乗り越えた印だと思っていた。
 いや、正確にはそう思いたかっただけなのかもしれない。
 しかし、その願いは屋敷の中から聞こえてきたシロの悲鳴によって無惨にも打ち砕かれた。

 「美神殿!先生が・・・」

 屋敷に飛び込んだ美神とおキヌの目には、血溜まりの中に沈んだ依頼主の姿とシロとタマモにすがりつかれながら霊波刀を手に立ちすくむ横島の姿が映った。

 「シロッ!タマモッ!一体何があったって言うの!?」

 シロは血の気の引いた顔を力なく横に振る。
 その手はそれ以上の凶行を食い止めるべく横島をしっかりと抱きしめていた。
 横島の力が抜けた事を確認したタマモは、横島から手を離すと書架に偽装した隠し部屋への入り口を無言で指さす。

 「シロちゃん!タマモちゃん!力を貸して!!!」

 依頼主の傷口に手を当ておキヌが必死にヒーリングを試みている。
 既に虫の息だが、どうやら即死は免れているらしい。

 「そんなヤツ死んで当然よ」

 「・・・・・・・・・・・・」

 まるでゴミでも見るような目つきでタマモが言い放つ。
 シロも反論をしないところを見ると同じ気持ちらしかった。
 おキヌは既に依頼主を斬りつけたのが横島であることを確信している。
 それだからこそ、いつものおキヌからは考えられない台詞を無意識のうちに口にしてしまっていた。

 「このままじゃ横島さんが人殺しになっちゃう!!お願い、横島さんを助けて!」

 おキヌは明らかに死にかけている依頼主ではなく横島が罪人となる事を心配していた。
 その事に思い至ったシロとタマモは嫌悪の表情を露骨に浮かべながらも、おキヌを手伝い傷口に霊波を送り始める。
 しかし、絶対に傷口を舐めようとはしなかった。




 「噂では聞いたことがあるけど・・・・・」

 隠し部屋に入った美神は部屋の惨状に沈黙した。
 部屋の中には夥しい数のオカルトアイテムに埋もれるように数体の下級魔族の死体があった。
 既にミイラ化したものからまだ瑞々しさを残すものまで・・・
 好事家が手に入れたアイテムの威力を試すため、捉えられた下級魔族や妖獣に執拗な拷問を加えるケースを美神は耳にしたことがあった。

 『コロシテ・・・・』

 人の気配を感じたのか辛うじて息のある魔族が美神に懇願した。
 どの様な拷問を受けたのか、鎖に繋がれた傷だらけのハーピーは既に光を失っていた。
 切り取られた乳房の傷跡が彼女の受けた拷問の残忍さを物語っている。
 その姿に美神は思わず視線をそらせた。

 「すまない・・・本当にすまない」

 いつの間にか美神の横に並んでいた横島は、目に涙を浮かべ捕獲した双子のパーピーを自由にする。
 母親を取り戻すために屋敷の周囲を窺っていた所を呪縛ロープによって捕獲されていた二人は、変わり果てた母親にすがりつき大声で泣き始めた。
 横島はパーピーを縛めている鎖を霊波刀で切り離すと、状況を理解できていないその体に二つの光る珠を押しつけた。

 (快)(癒)

 二文字同時使用の文珠により、ハーピーの傷が逆回しの映像を見るかのように回復していく。

 「あ、ああああ・・・・・・・」

 光を取り戻した母親は我が子を抱きしめると、凄まじいまでの敵意の籠もった視線で横島を睨み付けた。
 状況を理解していない母親の目には人間は全て敵に映るのだろう。
 我が子を背後に庇うと、ハーピーはフェザーブレットを身構える。
 子供だけは守ろうとする意思がその目からは窺えた。

 「もう大丈・・・ッ!」

 母子に歩み寄ろうとした横島の左肩に母親の投擲した羽が突き刺さる。

 「横島君!!」

 神通棍を手にした美神が間に割り込もうとするのを横島が手で制する。
 苦痛と出血に耐えながら横島は敵意のない印としてハーピーに笑顔を向けた。
 そのまま後ずさりし、部屋の出口までの道を空けると先程言いかけた言葉を口にする。

 「もう大丈夫、君は自由だ」

 美神を伴い隠し部屋の外へ出て行くと、油断無く周囲を警戒しながらハーピー母子もその後に続く。
 部屋の外で横たわる依頼主の姿を見たときハーピーの顔色が変わった。
 おキヌ達のヒーリングによって奇跡的に一命を取り留めていた依頼主に向け、ハーピーはフェザーブレットを投擲する。

 「!」

 「危ない!」

 その射線上に割り込んだおキヌを守るために、シロとタマモは放たれた羽を全て打ち落とした。

 「お前たち・・・何故人間を庇う」

 復讐を邪魔されたハーピーは怒りのこもった目でシロとタマモを睨んだ。

 「コイツを庇ったのではない、おキヌ殿を守ったのでござる」

 「人間なんてみんな同じだ・・・」

 ハーピーの目は未だ敵意を失わず新たな羽をその手に掴む。
 依頼主の前から退く気配のないおキヌを背後に庇うように、タマモは一歩前に歩み出た。

 「人間にもいろいろいるわ。特にGSの中にはヒトと物の怪の共存を目指している者たちがいる。今回、アンタを助けた男はそういう人間なの」

 タマモはこういうと横島に視線を移す。
 美神除霊事務所での生活は、徐々にタマモの心から人間に対する偏見を無くしていった。
 その中で最も大きな影響を与えた男は、何処かいつもと違う雰囲気でタマモを見つめ返す。
 横島が発した言葉は、ハーピーを含めその場にいた全員を金縛りにした。

 「おキヌちゃん、シロ、タマモ・・・そこを退くんだ」

 何の感情も籠もっていない冷たい無機質な声だった。
 その声にはいつもの横島が持つ天性の明るさは微塵も感じられない。

 「横島さん、何を言っているか分かっているんですか!?」

 おキヌは青ざめた顔で横島に語りかける。
 先程から無言だった美神も、信じられないものを見るような視線を横島に向けていた。
 横島の表情からは一切の感情が欠落していた。

 「分かっているつもりだ・・・オレにはソイツやこの世界が価値のあるモノには到底思えない。分からないのは・・・・・・」

 次に横島の口にした台詞はおキヌと美神の心を粉々に砕いてしまう。

 「何故オレはあの時、ルシオラを見殺しにしてまでこんな世界を守ったのか・・・」

 横島の目には、ルシオラと引き替えに選んだこの世界が堪らなく醜悪に映っていた。

 「何でオレは・・・・・・・」

 出血の影響で横島はその場に倒れ込む。
 朦朧とする横島の耳におキヌが呼んだ救急車のサイレンが聞こえてくる。
 新たな目撃者の増加に、逃走に移ったハーピー母子の背中を見送りつつ横島は意識を失った。











 「結果はどうでした?」

 病室の前でパイプ椅子に腰掛けていた美智恵は、西条の接近を待ちきれないように立ち上がった。
 担当の医師からの報告とレポートを受け取ってきた西条は、美智恵にレポートを渡すと苦々しい表情で首を横に振る。

 「心理分析の結果は真っ黒です。狂信的テロリストやシリアルキラーもかくやといった結果が出ています」

 西条はこう言うと、気味の悪いものを見るように美智恵の背後にあるドアを見た。
 その奥にある窓一つ無い個室には、意識を取り戻した横島が半軟禁の状態で入院していた。

 「アレは本当に横島君なんでしょうか?心理分析の付き添いをしていて心底ゾッとしました」

 美智恵は無言でレポートに目を通していたが、「解離性同一性障害の疑いあり」の一文を認めると絶望的な表情で天井を仰いだ。
 それは横島の内部にかなりの確率で別人格が存在するということだった。

 「殺されかけた依頼主は、相変わらず横島君を告訴するつもりなの?」

 「傷はヒーリングとその後の治療によって跡形もなく消えていますし、令子ちゃん達は全員事実を認めないでしょうけど・・・どうやら値の張る弁護士をつけるようです」

 西条は忌々しそうに右の拳を左手に打ち付けた。

 「あんなゲスでも人間である限りは人間の法によって守られる・・・正しいか正しく無いかではなく、法に沿うか沿わないかで言えば今回の依頼主は殺人者ではなく妖獣保護法違反者に過ぎない」

 やりきれなそうに唇を歪めると西条は薄い笑いの形を作る。
 その顔は泣いているようにも見えた。

 「ヤツはオカルトGメンに護衛を依頼して来ました・・・魔族の復讐から自分を守れと。僕はあんなヤツを守るために・・・」

 「西条君!」

 西条は美智恵の一言に言いかけた言葉を飲み込む。
 美智恵は西条に向けて無言で首を左右に振った。

 「今後の状況は非常に繊細な問題になりそうです。ひょっとしたら横島君は人間の法から外れた存在になるかもしれません」

 「まさか、彼の体内の魔族因子が!」

 「あくまでも可能性の話です。詳しい検査結果が出るまでは何とも言えません。しかし、急激な人格の変化を見ると・・・」

 ここまで話しかけて美智恵は廊下の端にあるエレベーターに視線を向ける。
 一向に解除にならない面会謝絶に業を煮やしたシロとタマモがエレベーターから降りてくるのが見えた。
 部屋の近くでの言い争いを避けるため、二人は速やかにエレベーター前に移動する。
 今の横島を彼の知人に見せるわけにはいかなかった。





 「どうしてでござるか!先生はもう意識を取り戻したのでござろう?」

 面会を止める美智恵と西条にシロは声を荒げた。
 あの晩から既に3日が経過している。
 丸一日眠り続けた横島が意識を取り戻したとき、事務所のメンバーでは責任者の美神だけが面会を許されている。
 その美神は横島の状況を確認すると、慌ただしく事後処理に動くのみで自分たちには一向に様子を知らせてくれていない。
 堪らなく不安にかられたシロとタマモは直接病院に乗り込んできていたのだった。

 「確かに意識は回復した、しかし、彼はまだ落ち着きを取り戻していない」

 立ちはだかるように二人の前に出た西条がシロの疑問に答える。
 何処か歯切れの悪い説明に納得しない二人は更に食い下がったが、一歩も引く様子のない西条は交渉を打ち切るように最後のカードを切った。

 「彼は今、微妙な立場にいる。僕と美神先生で事態の収拾に努めているが状況は良くない。彼のためを思うならもうしばらく彼をそっとしておいてくれ」

 「・・・・・・・・・・・・・・・」

 シロとタマモは西条の言葉を無言で受け止めその視線を正面から受け止めた。
 西条はその様子に表情を崩すと慰めるように続けた。

 「君たちだったら僕の臭いから嘘を言っていないことがわかるはずだ。悪いようにはしない。今日はもう帰りなさい」

 西条の言う通り、彼からは自分を騙そうとする人間が放つ不快な臭いはしなかった。

 「本当にヨコシマの為に動いてくれるの?聞いたわ・・・前回の戦いの時、この世界がヨコシマに求めた代償のことを」

 タマモの言葉に、美智恵と西条の体から微かに動揺の臭いが伝わってくる。
 シロとタマモはその中に後悔と自身への怒りの臭いを感じとりそれ以上の追求は避けた。
 あの晩の事件がきっかけとなり、シロとタマモは美神とおキヌから横島に起こった出来事ついて説明を受けている。
 その時に感じた堪らない無力感は今も二人の胸に張り付いていた。

 「信じてくれとしか言いようがない。今は横島君の体が第一だが、依頼主に対する殺人未遂のことも無視はできない・・・」

 「その心配はないわ!」

 西条の言葉に沈黙してしまったシロとタマモの背後で、エレベーターから降りたばかりの美神がその言葉を打ち消す。
 美神令子は、おキヌ、百合子を伴い病院に到着していた。

 「アイツは今日中に告訴を取り下げ明らかになってもいない余罪を自供し始めるでしょう・・・そして、刑務所内で魔族の追求に怯えながら暮らすことになるわ」

 「令子、あなたまさか・・・・」

 美智恵の言葉に、美神は悪びれた様子もなく答える。
 自嘲気味に口元を歪めてはいるがその目にはある種の覚悟が窺えた。

 「そう、依頼人を魔族に売ったわ」

 美神の言葉に西条は驚愕する。
 本来、霊障を扱うGSは依頼人の薄暗い過去を知ることが多い。
 その為、時に霊力以上に求められるのが守秘義務をどれだけ守れるか・・・つまり、口の堅さである。
 美神が今回行った行為は業界のタブーに触れたことであり、今後の業務に致命的なダメージを与える筈だった。

 「同情はいらないわよ。ワルキューレはこう言ってくれた。魔族の気は長い、復讐を望む魔族にもアイツが刑務所にいる間は手を出させないと・・・その代わり、二度と転生できないように死後アイツの魂は魔界に連行されるけどね」

 美神は依頼人の脅迫に力を貸してくれたワルキューレの言葉を思い出す。
 彼女は自分たちと同じくらい横島の身を案じてくれていた。

 「アイツは次の獲物としてシロとタマモを狙っていた・・・ウチに依頼してきたのはそういう理由からなのよ」

 美神の言葉にシロとタマモは自分に向けられた依頼人の視線を思い出し肌を粟立たせる。
 できることならアイツは自分の手で八つ裂きにしてやりたかった。

 「それに、アイツがいなければ横島君は・・・」

 美神は自分の言葉を無理に飲み込む。
 引き金を引いたのは確かに今回の依頼人だったが、横島の心に悲しみという火薬を詰め込んでいたのは自分たちだった。

 「こちらは横島君のお母様よ。とにかく横島君に会っていただくわ」

 美神は吹っ切るように背後の百合子を美智恵と西条に紹介すると、西条の制止を無視して病室の扉へと歩き出した。



 病室に足を踏み入れた一同は、横島の視線を受けその場に固まってしまっていた。
 その場にへたり込んだおキヌを支えようと、シロは足に力を込めるが思うように力が入らない。
 おキヌに引きずられるようにシロもその場に膝をついてしまった。
 横島はベッドの上で上体を起こし虚空を見つめている。
 その視線から窺えるこの世への拒絶は、以前の横島を知っている者に堪らない衝撃を与えていた。
 既に面会を果たしている3名のうち美智恵と西条は、周囲の動揺を感じやりきれないような視線を床に落とす。
 唯一美神だけが周囲の反応を正面から受け止めていた。

 「忠夫・・・なんて酷い顔になって」

 百合子は横島のもとに歩み寄りその顔を胸に抱く。
 横島は身じろぎもしなかった。

 「息子さんがこうなってしまった事は全て私に責任があります。申し訳ありませんでした」

 美智恵が深々と頭を下げる。
 西条はそんな美智恵の様子に胸を痛めた。
 あの戦いの時、美智恵も自身の命と娘の命を人類の為に捨てる覚悟を決めていた。
 決して美智恵は安全圏に居座ったまま、横島一人に犠牲を強いたわけではなかった。

 「ですが、あの時はああするしか仕方がなかった、あの場にいたみんなが必死で・・・・」

 「西条君、黙りなさい!」

 少しでも状況を理解して貰おうとした西条の言葉は、厳しい美智恵の叱責に遮られる。
 西条の言葉は百合子の神経を逆なでするのに十分だった。

 「あなたの目にはこの子がスーパーマンにでも見えるというの?私の目にはただの高校生にしか見えない・・・高校生があのような選択を迫られたことが仕方がないで片付くとあなたは本当に思っているの?」

 百合子の静かな抗議に西条はうつむいてしまう。
 あの時、大人である自分は完全に役立たずだった。

 「すみません・・・・・」

 西条はこれだけ言うのがやっとだった。
 百合子は横島を抱く手に一層強く力を込めた。

 「忠夫は自分の意思で戦いに望んだと聞いています。それに、あの事件では多くの人たちが命を落とした・・・リアルワールドには忠夫より不幸な子供はたくさんいる。だから、被害者の立場をとる気は一切ありません。だけど、これ以上忠夫をこの場には置いておけない・・・親としてそんなリアルワールドは間違っていると思いたい」

 百合子はしっかりと美智恵を見据えた。

 「・・・息子はナルニアに連れて帰ります」

 「横島君には魔族化の可能性があります。せめて検査結果が出るまでは・・・それに今の横島君に出国許可が下りるかどうか」

 美智恵はこればかりは譲れないと百合子の言葉に異を唱える。
 魔族化した横島を守れるのはGSである自分たちだと美智恵は思っていた。
 そんな美智恵の覚悟を打ち砕くように、院内連絡用に持ち合わせていたPHSの呼び出し音が鳴り響く。

 「・・・・・・ですが!・・・・・はい、わかりました。GS本部は横島忠夫君に対して一切の拘束は行いません」

 美智恵はPHSをしまうと百合子に向かい複雑な表情を向けた。

 「外務省に、ナルニア政府から横島忠夫君の出国に関して特別の便宜を図るよう要求があったそうです。彼の出国は今すぐにでも認められます・・・」

 百合子は大樹の仕事の速さに満足そうな表情を浮かべる。
 大切な商談中にかかってきた息子の異常を知らせる美神からの電話。
 大樹は家族の為に商談をすぐに打ち切り、持てるコネクションをフルに利用して息子の出国を可能にする手だてをとっていた。
 彼の手がけたレアメタル事業はナルニアの基幹産業に発達し、ナルニアの政界、財界と太いパイプを持つに至っている。
 そのパイプを利用し、大樹は少資源国家の日本に圧力をかけたのだった。

 「・・・ですが、魔族化した場合の危険を考えると」

 「私の目には、忠夫は自分の息子にしか見えないわ・・・それに」

 続いた百合子の言葉に美智恵は完全に沈黙してしまう。
 いや、美智恵だけではなく周囲の者たちはそれに返す言葉を持ち合わせていなかった。

 「私にはあなた達よりも、忠夫の命を救ってくれた魔族の方が温かく思える」

 百合子は横島の頭を抱いたままその耳元に優しく囁く。

 「もしあなたが魔族になって・・・どうしても人間を殺したくなったら私が真っ先に殺されてあげるわ」

 この言葉に横島は初めて反応する。その目には微かな感情の光が生じていた。
 百合子は横島の顔を胸から解放し、横島の手を強く握るとその手に祈るように額を付ける。

 「あなたの中にルシオラさんがいるのね・・・ありがとう、私の息子を助けてくれて・・・本当にありがとう・・・・」

 百合子は息子の中のルシオラに向かい何度も礼をいう。
 握った手に息子の涙が落ちたことに気づくと、百合子は再び横島の顔を胸に抱いた。
 横島のすすり泣く声が病室に響く。周囲の者たちはいたたまれないように一人、また一人と病室の外に姿を消していった。








 横島がナルニアへ連れて行かれてから一ヶ月が経過していた。
 美神除霊事務所はあの事件の残務処理や、その他の雑用に追われ慌ただしい日々を送っている。
 残されたメンバー達は横島の事を一言も話題にはせず、黙々と日々の仕事に取り組んでいた。

 ―――みんなあの日から変わってしまった。

 おキヌは事務所のメンバーに起こっている変化に気付いていた。
 美神はあの事件の影響とは無関係に仕事をセーブし始めている。
 タマモとシロはあれから一度も喧嘩をせず、それぞれ別々に行動することが多くなった。
 そして、おキヌの心にも変化が表れていた。

 ―――私は以前の自分が嫌いになっている

 朝食の後片付けを終わらせ、おキヌはここしばらく考え続けていた計画を実行に移す決心を固める。
 食事の席で美神が何気なく言った、明日からしばらく仕事を控えるという言葉は彼女の背を押すのに十分だった。
 おキヌは六道の制服に着替えるといつもと変わらない様子で事務所を後にする。
 ただ一つ異なる点は、部屋の机の上に一通の置き手紙をしたことだった。

 ―――美神さん、シロちゃん、タマモちゃん、横島さんを迎えにナルニアまで行ってきます。
     黙って出て行くことを許して下さい。
     ただ後ろで立っていただけの自分がどうしても許せなくて、一人で行くことを決心しました。
     必ず横島さんをつれて帰ってきます。心配しないで待っていて下さい。  氷室キヌより


 おキヌは横島を迎えに行くため一路ナルニアを目指し旅立ったのだった。




 成田空港行きの列車の中で、おキヌはナルニアのガイドブックを熟読する。
 乏しい旅行代金を気にして成田エクスプレスには乗っていない。
 既に駅のトイレで着替えは済ませており、傍らには2日前からコインロッカーに預けていた旅行鞄が置いてあった。
 おキヌは事務所のみんなに気付かれないよう数日前からナルニア行きの準備をしていた。
 六道入学時に海外修学旅行用に作っていたパスポート。
 僅かばかりの貯金を全額下ろし捻出した旅行代金。
 肌身離さぬよう首から紐をかけてぶら下げてある護身用のネクロマンサーの笛。
 生身になってから初めての海外旅行が女の一人旅という無茶な計画だったが、おキヌは今までの自分を変えるために敢えて無茶な旅に自分を投げ出していた。

 ―――私はいつも黙って立っているだけだった。
     肝心の時には守られているばかりで、あの時も横島さんの力に何一つなれなかった。
     そして、今回も美神さんの隣でただ黙って・・・
     私は卑怯だ。
     横島さんの後ろに黙って立っているだけで、いつか横島さんが私を求めてくれると期待していた。

 おキヌは読んでいた本を閉じると荷物の中にしまう。
 最初の目的地である空港に列車は到着していた。

 ―――だから私は初めて自分から行動する。
     自分から横島さんを求める。
     そして、許されるなら横島さんと・・・

 おキヌは見た目ほど重くない旅行鞄を手に空港へと歩き出す。
 その目には強い決意の光があった。




 ナルニア航空のチケットカウンターはちょっとしたトラブルに見舞われていた。
 おキヌの目の前で外国人の老女が怒り心頭といった具合に担当者に食ってかかるが、日本人の担当者は幻術にでもかかったかのような虚ろな目で既に予約されたチケットは発行されている旨を繰り返すばかりだった。

 「あのー、何かあったんですか?」

 あまりの老女の剣幕におキヌが取りなすように事情を聞く。
 もとより世話好きの彼女は困っている老女を見捨ててはおけなかった。

 「どうしたもこうしたもあるかい!折角予約したチケットが別の誰かに発行されちまったって言うんだよ・・・代わりの席をとろうとしても満席だし全くツイてないよ!」

 「え、もう席がないんですか?困ったな・・・次の便を待つしかないか・・・」

 一刻も早くナルニアに向かいたいおキヌは、百合子と同じくフランス経由の空路を選択していた。
 時間はかかるが、本数が多い分、直行便を待つより早く着けることが多いとガイドブックに書いてある。

 「命が欲しけりゃ止めときな、次の便は怪異に襲われる運命だよ」

 「なんでそんな事が分かるんですか?」

 訝しげなおキヌの顔に、老女は自分の顔を見せつけるが何の反応もないのを見て力なく肩を落とした。

 「ナルニアじゃぁ、少しは顔が売れた占い師なんだけどね」

 「でも、自分のチケットのことは・・・・」

 おキヌの悪気のない疑問に老女は天を仰ぐ。
 占い師を続ける以上何千、何万とされてきた質問だった。

 「うるさいわね、それは自分の事を占うのがタブーだから・・・・ん?」

 おキヌに食ってかかろうとした老女の目が、おキヌの首にかけられたネクロマンサーの笛に釘付けになった。

 「お前さんひょっとしてネクロマンサーかい?」

 おキヌの肯きに、老婆は頬を人差し指でかくと何か考えるような仕草を見せた。
 そして懐から水晶球を取り出すとおキヌに名前と生年月日を聞く。

 「名前は氷室キヌ・・・生まれた時には名字はありませんでした。生年月日は多分、元禄ってことぐらいしか・・・・・」

 老女の実力は本物らしく、通常なら怒られるような回答も水晶球を覗いていた老女にはあっさりと受け入れられた。
  
 「なんて出鱈目な運命の子だよ!良かったらその笛で何か吹いてくれないかい?」

 求められるがままにおキヌが吹いた笛の音に、老女は目を閉じて聞き入っていた。
 そして、名も知らぬ異国の曲が終わると老女はおキヌの手を握りしめる。
 その顔からは先程の不機嫌さがすっかり消え失せていた。

 「お前さんが私と乗れば次の便でも大丈夫。好きな男を追っかけるのに金は必要だよ!ただでチケットを手配してやるからその力を人助けに使ってみないかい?」

 「!・・・何で、私の目的を・・・」

 旅の目的を言い当てられ、驚きの表情を隠せないおキヌに老女はしてやったりという笑顔を見せた。

 「言ったろう?少しは顔の売れた占い師だって・・・・で、どうするんだい?チケット代も浮き、乗客の命も助かる。いい話だと思うけど」

 「あ、はい、よろしくお願いします」

 深々と頭を下げるおキヌを見て顔をほころばせると、老女はもっと高い地位にいる職員と交渉するべくおキヌを伴いチケットカウンターを後にした。






 三時間後、おキヌと老女は空の旅を楽しんでいた。

 「ファーストクラスって初めてですけどゆったりしてていいですね」

 おキヌは初めて座るファーストクラスの座席に嬉しそうな表情を浮かべる。
 老女の知名度はナルニア本国ではかなりのものらしく、彼女の予言を信じた航空会社はすぐさまファーストクラスの座席を確保していた。
 当初乗る予定だったエコノミーとの待遇の差に、流石に申し訳なくなったのかおキヌは感じていた疑問を口にする

 「だけど、怪異が分かっているなら出発を取りやめても良かったんじゃないですか?」

 おキヌの質問に、老女は航空会社の職員にしたのと全く同じ話を口にする。

 「満席だったこの便を占い師の一言で欠航させる事はできないしね。それに、取りやめて運命が変わるなら最初から止めてるさ。今回の怪異は航空機そのものを狙ったモノらしくてね・・・この機が出航を見送っても次の便が怪異に襲われ結果としての運命は変えられない。悲劇が回避されるとしたらその場に腕利きのGSが乗っている・・・そんな偶然が起こらない限り未来は変わらないのさ」

 老女は機内食をつまみながら話を続ける。

 「実はね・・・この便は怪異について絶望的な卦が出ているのに結果としての運命は平穏そのものだったんだ。正直、私もヤキが回ったんだと思っていたのさ。だからこそ一切を視なかった事にして一足先に逃げだそうと・・・・だめだね、長いこと占い師をやっていると人の不幸に鈍感になっちまって」

 老女はおキヌの手に自分の手を重ねる。
 既におキヌは機内食を食べ終わりテーブルを畳んでいた。

 「温かい手だね、お前さんの笛の音と同じだよ。いいかい、この温かさを失っちゃいけないよ」

 老女の言葉におキヌは無言で肯く。
 その様子に老女は目を細めると、おキヌの目をまっすぐに見つめた。

 「運命への介入・・・占い師を長いことやっているとたまにこういう事があるのさ、私に運命への介入を決心させたのはお前さんの笛の音だよ。私はあの時、自分の役割を理解した。チケットの発行ミスが有ったのも、お前さんをこの便に導き悲劇を回避するためだろうとね」

 老女はおキヌの手を離しまっすぐ前を見つめる。
 占い師という商売柄、積極的に世の中に関わるのを避けていた老女が久しぶりに人の運命に関わろうとしていた。

 「傍観者で無くなった私にはこの便の未来は見えない。一番いいのは怪異が起こらないこと。そうすりゃ、私一人が嘘つき呼ばわりされるだけで誰にも迷惑・・・・・この席に座る筈だった二人には申し訳ないか?」

 老女はおどけたようにおキヌとの間にある肘掛けを手で叩いた。
 おキヌはその仕草にクスリと笑うが、予定をいきなり狂わされた相手の事を思うと申し訳ない気持ちになる。
 その表情を読んだのか、老女は大したことないという風に片手を2、3回顔の前で振った。

 「気にすることはないよ!その客には代わりに次の直行便のファーストクラスを押さえたらしいからナルニア着も2時間差らしいし、空港での無駄な待ち時間はホテルで極上のサービスを受けられる。なにより怪異を回避できるんだから逆に感謝して貰いたいぐらいだよ!」

 老女はこう言っておキヌに笑いかけると、食べ終わった容器を器用に脇にのけ水晶玉を取り出した。

 「さて、何か起きるまでの眠気覚ましに、お前さんが追いかけている男の事を聞かせてくれないかい?」

 老女はおキヌのことを気に入っていた。
 だからこそ、おキヌが必死に追いかけようとしている男の事が気になっていた。
 若干躊躇ったおキヌだったが、自分の気持ちを整理するためにおずおずとであったが横島について話し始める。

 「私が地縛霊だった時、横島さんが・・・・・・」

 美神所霊事務所に起こった長い長い物語をおキヌは話し出す。
 老女は時に笑い、時に涙ぐみながらじっとその話に耳を傾けた。
 そして、横島がナルニアに連れて行かれた所まで話が進むと、おキヌは自分の気持ちを確認するように今の気持ちを素直に口に出していた。

 「私は横島さんが好きなんです。ルシオラさんや美神さんに負けない位。馬鹿ですよね、こんな風にならないと勇気が出ないなんて・・・私はずっと黙って待っているだけだった。都合良く横島さんが私を好きになってくれるのを待っているだけだったんです」

 おキヌは自分の手をきつく握りしめる。
 過去の自分の不甲斐なさが今のおキヌには許せなかった。

 「横島さんが傷ついたときも私は何もしてあげられなかった・・・私はただ愛されることを望んでただけで、本当に心の底から横島さんを愛そうとはしていなかった」

 「いまは違うんだろ?お前さんは困難を承知でその男を迎えに行こうとしている」

 老女はおキヌの手に優しくその手を重ねた。
 その時、老女の視界の端で数名の人影が立ち上がるのが見えた。
 人種も年齢、性別もまちまちな人影はノロノロとした動作で周囲を見回し始める。
 その目には精気のかけらも感じられなかった。

 「お客様?どうなされまし・・・キャァ!」

 異様な雰囲気に様子を伺いに来たフライトアテンダントは、中年の女性の一押しで数メートルの距離をはじき飛ばされ意識を失った。
 尋常でない怪力を発揮した乗客に、周囲の乗客が驚きの声を上げる。
 テロ対策に常駐している武装警備員が装備した銃の安全装置を外した。

 「チッ、ゾンビでハイジャックとは考えたね・・・」

 老女とおキヌはすぐに敵の正体に気付いていた。
 特殊な霊薬であるゾンビパウダーによって作り出された動き回る死者は、ハイジャック対策に行われる様々な防犯装置を全てパスできる。
 もともとゾンビに凶器は必要なく、死なない体と尋常でない怪力だけで一般の人々には十分な脅威であった。
 テロに対する武装した警備員が常駐しているものの、人間相手の武装ではゾンビに敵うはずもない。

 もしも、ゾンビが機内の乗客を次々に襲い始めたら?

 もしも、ゾンビが上空1万メートルで怪力を発揮し機内を破壊し始めたら?

 もしも、ゾンビによって航空機がコントロールを奪われたら?

 次々に浮かぶ最悪の事態を回避するため、おキヌはネクロマンサーの笛に手を伸ばす。
 澄んだ笛の音が機内に響き渡ると、機内を制圧しようと散開中だったゾンビがその動きを止めた。

 「みんな落ち着いて!この便には幸運にも凄腕のGSが搭乗している。パニックになったら相手の思う壺だよ!!」

 おキヌの笛の音をBGMに、二次的被害を心配した占い師の老女は機内のパニックを収めに動いた。
 パニックになった乗客はネクロマンサーの笛では押さえきれない。
 おキヌの精神集中を乱さないように老女は全力でバックアップを試みる。
 しかし、咄嗟の事態に機内の緊張は限界に達しようとしていた。

 「それに、その方はナルニアでは有名な占い師です。この便の未来は保証されています!!」

 救いの声は思わぬ所からも上がった。
 意識を失った同僚を気遣うよう、サービス中のコーヒーポットを持ったまま駆け寄ったフライトアテンダントが老女の正体を機内に伝える。
 毅然とした態度のフライトアテンダントに促されたように、座席の所々から老女の正体を告げる声が上がった。
 老女の存在を知らなかった者にも彼女が本国で得ている名声が紹介され、そのような人が乗っているならばと機内に立ちこめた緊張した空気が緩み出す。
 動かなくなったゾンビに気味の悪い視線を送るものの、乗客は勝手に席を立とうとはせず指示に従う姿勢を見せた。

 「驚いたねコリャ・・・」

 老女は自分の存在がパニックを収めたことに軽い驚きを見せると共に、とっさの機転で乗客を諫めてしまった若いフライトアテンダントに視線を向ける。
 乗客の不安を打ち消すのに十分な力を、そのフライトアテンダントの笑顔は持ち合わせていた。

 「気味悪いかも知れないが動くんじゃないよ!もうすぐこの子がゾンビを完全にコントロールしてくれるからね」

 老女はおキヌに視線を向けると僅かに口元を引きつらせる。
 隣でネクロマンサーの笛を吹き続けるおキヌの表情には明らかな緊張が浮かんでいた。

 「コントロールが難しいのかい?」

 動揺を表に出さないよう、おキヌにだけ聞こえる小さな声で語りかける。
 おキヌは小さな肯きで老女に答えた。

 「お前さんの笛に自立行動や遠隔操作のゾンビが逆らえるとは思えない、この近くにゾンビマスターがいるんだね?」

 この言葉にもおキヌは小さく肯いた。
 老女の見たところおキヌと相手の力量は拮抗している。
 このままでは最初に制御を行っている相手の方が有利だった。
 老女は覚悟を決めたように息を大きく吸い込むと、ファーストクラスの乗客全てに聞こえる声で協力を呼びかけた。

 「みんな済まないが協力しておくれ!幸運を招くナルニアの古いお呪いだ!隣の席同士でお互いの腕を強く抓り合ってくれりゃあいい」

 老女の呼びかけに乗客の間にざわめきが起こる。
 とくに生粋のナルニア人はそんなお呪いあったかと首をひねったが、ファーストクラスの乗客は老女に言われるがままお互いの腕を強く抓り合った。

 ―――マズイね、この中にはゾンビマスターはいないようだよ

 一向に切れる様子のないゾンビマスターの精神集中に、老女は焦りの表情を浮かべるのを必死に押さえた。
 乗客の中に敵がいると考えた老女はこの方法で敵の精神集中を切るつもりだった。
 長く続いた拮抗に、おキヌの笛の音がだんだんと細くなっていく。
 このまま持久戦となれば笛を吹き続けなければならないおキヌの方が早く限界を迎える。
 しかし、長く続いた拮抗は老女の意図に気付いたフライトアテンダントの行動により大きく動き出した。

 「熱っ!」

 フライトアテンダントが手に持ったポットの中身を気を失っている同僚にこぼした瞬間、おキヌは全てのゾンビのコントロールを掌握していた。

 「ソイツがゾンビマスターだよ!」

 老女の指摘と同時に、さっきまで気を失っていた筈のフライトアテンダントが跳ね起きた。
 その女は手に何かの粉末を握りおキヌに向けて投擲の体勢に入る。
 女は起死回生の一手としてゾンビパウダーを使いおキヌをゾンビ化させるつもりだった。
 笛を吹くために息継ぎを頻繁にしているおキヌにパウダーを避ける手だてはない。
 もし、笛の音を止めたらば再びゾンビのコントロールを奪えばいいだけの話だった。

 ズン!

 しかし、その手に握られたゾンビパウダーはおキヌに投げられることなく空しく床にばらまかれる。
 強い地響きと共に鳩尾に打ち込まれた肘が、フライトアテンダントに化けたゾンビマスターから一瞬で意識を刈り取っていた。
 多くの乗客は、爆発的な破壊力を生み出した肘が震脚と呼ばれる術利に基づいていることには気付いていない。
 おキヌの危機を救ったもう一人のフライトアテンダントは、肘打ちを繰り出す際に大きく破けたスカートの裾を押さえ照れくさそうな表情を浮かべた。

 「悪戯が見つかりそうな妹に似た表情を浮かべたので・・・」

 老女とおキヌはこの言葉に同時に噴き出す。
 すでにゾンビは完全に無力化していた。







 老女の占い通り、怪異に襲われた飛行機は無事にフランスにたどり着いた。
 ゾンビマスターと無力化したゾンビは、着陸と同時に機内に突入してきた空港警察とフランスのGSによって捕捉されている。
 赤色灯をつけた車が慌ただしく行き来する様子を、タラップ周辺で事後処理のため足止めをされている乗客が物珍しそうに眺めていた。

 「名残惜しいがここまでだね」

 老女はおキヌに右手を差し出す。
 反射的にその手を握ったおキヌだったが、当初ナルニア行きの予定だった老女の心変わりに首をかしげる。

 「未遂とはいえあれだけの事件だよ、警察の事情聴取だけで一日は優に潰される・・・お前さん、一時間でも早く横島って男に会いたいんだろ!」

 おキヌは老女の意図を理解した。
 老女はおキヌを一刻も早くナルニアに向かわせるため事後処理の一切を引き受けるというのだ。

 「はい!いままで本当にありがとうございました」

 おキヌは老女に向かい深々と頭を下げた。
 そんなひたむきな姿に老女は複雑な表情を浮かべたが、意を決したように最後のアドバイスをおキヌに伝える。

 「ライバル達に一歩先んじたかったら急がば回れだよ」

 「お待たせしました!」

 老女の言葉に再び首をかしげたおキヌだったが、その言葉の謎解きは駆け込んできた先程のフライトアテンダントによってうやむやになってしまった。

 「事情を話したら彼女が色々と手を回してくれてね、普通のトランジットの便より早くナルニアに行けるようだよ」

 「そう言うことです。荷物は既に移せている筈です!!急ぎましょう!」

 破れたスカートの代わりに活動的な黒のパンツルックに着替えた彼女は、おキヌの手をとると自身とおキヌにサングラスを掛ける。
 戸惑うおキヌを引きずるように走り出した彼女も警察の事情聴取の対象になっていた。

 「ありがとう、本当にありがとう」

 おキヌは最後に大きな声でお礼をすると、その姿が見えなくなるまで一度も振り返らず走り続けた。




 離陸直前の飛行機に飛び乗り、おキヌは慌ただしくナルニアに入国した。
 おキヌを案内したフライトアテンダントはかなり有能な人物らしく、おキヌの入国審査から荷物の受け渡しまで一切の手続きを滞りなく終了させている。
 諸手続がガイドブック頼りだったおキヌは、あまりの展開の早さにホッとしたのと拍子抜けしたのが半々の気分だった。

 「目的地が無ければホテルの手配をした方がいいんだけど・・・」

 フライトアテンダントの言葉におキヌは腕時計に視線を落とす。
 機内にいる間に時差は修正してある。時計の針は午後3時を指そうとしていた。
 ナルニアに向かう機内で十分仮眠はとれている。
 おキヌは一刻も早く目的地に向かいたい旨を彼女に伝えた。

 「本当にその男の子が好きなのね」

 彼女はクスリと笑うと最初から答えが分かっていたかのように車のキーをおキヌに見せた。
 機内でおキヌから旅の目的を聞いた彼女はすっかりおキヌとうち解けている。
 おキヌの恋を応援したくなった彼女は、少なくともおキヌの最初の目的地までは送り届けるつもりになっていた。

 「で、その目的地ってどこ?良かったら送って行くけど」

 彼女の申し出におキヌは顔を輝かせる。
 ナルニアでの横島の住所は知らされていない。
 おキヌは大樹の勤め先に訪問し、そこから横島のもとに連れて行って貰うつもりだった。

 「えーっと、村枝商事ってしってますか?そこに横島さんのお父さんが勤めているんです」

 「!!!!・・・村枝商事の横島!?ひょっとしてお父さんの名前って大樹って言わない?」

 「え、そ、そうですけど知り合いですか?」

 驚きを隠せないおキヌの言葉に彼女は軽くため息をついた。

 「父親の方は直接は知らないけど・・・横島夫婦はナルニア航空では有名人なの」

 彼女は言いづらそうに言葉を濁らせる。
 特にナルニア航空を利用する度に、まるで義務であるかのように同僚をナンパする大樹の話はおキヌには伝えられなかった。

 「あなたの好きな男の子の話・・・ホントは少し信じられなかったんだけど、あの二人の血筋なら信じられるわ」

 「何となく分かります・・・・じゃあ、横島さんのお母さんの方はご存じなんですか?」

 百合子の話題になった瞬間、おキヌの目には彼女の表情に温かいものが混ざったように見えた。

 「偶然接客してね、私の母と同じ紅茶の好みをしていたわ。その人が横島さんと知ったのは少し経ってからの事だけど・・・」

 過去に百合子が行ったハイジャック阻止は彼女の親友の危機を救っていた。
 親友からその事を聞いた彼女は、密かに百合子の事を尊敬していたのだった。
 尊敬する人物から受けた感謝の言葉を思い出し彼女の胸が温かいもので満たされる。
 彼女が百合子に差し出した一杯のミルクティーが、百合子と美神の空港での出会いを最悪な事態に発展させなかった事をおキヌは知る由もなかった。

 「あのお母さんから、息子を奪うのは骨が折れるわよ」

 「はい、・・・でも頑張るしかないんです!」

 おキヌの決意に彼女の口元が緩む。

 「その調子!いくら相手が何枚も上手といっても残念ながら親子は恋人になれない・・・あなたにとって最初から有利な戦いだと言うことを忘れちゃだめよ!」

 「!・・・・・・・・・・・・・・・」

 エールを送ろうと口にした台詞が、おキヌの胸をえぐった事に彼女は気づいていない。
 自分の子供としての思い人の復活。
 おキヌは横島に対して提示されたアイデアの残酷さに改めて気付く。
 そして、それを唯一無二のアイデアとして認めていた自分の身勝手さにも。
 成田空港から病院へ向かう途中、百合子が自分たちに冷たい視線を向けた理由をおキヌは理解した。

 「いまから緊張してどうするの!」

 おキヌの沈黙を緊張のためと勘違いした彼女は、おキヌの背を押すように駐車場に移動する。
 百合子を通しつながった不思議な縁に気付かないまま二人は空港を後にした。







 村枝商事は空港から20分とかからない場所にあった。
 ナルニアは首都こそ近代都市の体をなしているが、国土の90%以上を森林が占め国民の大半は散開して暮らしている。
 外国資本を取り入れるために作られた急ごしらえの町並みの一角に村枝商事は存在していた。
 フライトアテンダントは、気後れを見せ始めたおキヌを引き連れフロントの受付嬢の元へ向かう。

 「横島はすぐ参りますのでしばらくお待ち下さい」

 大方、この受付嬢も大樹の手が付いているのだろう。
 受付嬢の軽い敵意のこもった視線をフライトアテンダントは軽く受け流した。
 ナルニア航空フライトアテンダントの肩書きをフルに使用し、アポを無視した面会を果たそうとしている彼女は先程から値ぶむ様な視線にさらされている。
 エレベータの影やロビーの隅から送られるOL達の刺すような視線が、彼女の纏ったオーラに触れ見えない火花を散らしていた。
 美容のために始めたという中国拳法を達人の域まで昇華させた彼女のプロポーションは、半端な嫉妬の視線では揺るがない絶対的な防御力を有している。
 おキヌは剣豪小説に出てくる殺気の応酬にも似た緊迫感に気圧されそうになりながらも、敢えてその視線を浴びるように一歩前に踏み出した。
 これからおキヌが対峙しようとしているのは他ならぬ横島百合子なのだ。
 この程度の殺気に気圧されるようでは勝負は見えている。

 「やっと元気を取り戻したようね」

 再び闘志を取り戻したおキヌに、とびきりの笑顔を向けると彼女は右手を差し出す。
 その笑顔はおキヌに笑顔を取り戻させると同時に、彼女に向けられていた周囲の刺すような視線ですら霧散させていた。

 「それじゃあ、私はここまでね」

 「はい、こんな事までしていただいて・・・本当にありがとうございます」

 精一杯の感謝を表すようにおキヌは力一杯彼女の手を握った。

 「がんばるのよ!」

 おキヌが顔をしかめるくらい強く握り返すと、フライトアテンダントは急ぐようにその場を後にする。
 受付に現れた大樹が自分をナンパした場合、百合子ファンの自分が肘打ちを大樹に打ち込む衝動に耐えられるか自信がなかったからだった。
 彼女が完全に見えなくなるまで手を振り続けたおキヌは、ロビーのエレベータから降りてきた大樹を見つけると軽い会釈を送った。

 「あれっ、君はたしか・・・」

 「お久しぶりです。私、美神さんの所で横島さんと一緒に働いていた・・・・・キャッ!」

 突然、大樹にお尻を撫で上げられおキヌは20センチほど飛び上がる。
 熟練の技か不思議とイヤらしさは感じなかった。
 顔を真っ赤にして自分を睨み付けるおキヌに、大樹は悪びれた様子もなく息子によく似た笑顔を見せる。
 おキヌはその笑顔に何も言えなくなってしまった。

 「ゴメン、ゴメン、君、あの時たしか幽霊だったから足の確認をと思ってね」

 こう言うと、大樹はおキヌにキツイ目を向け始めた受付嬢に視線を移す。

 「息子の友人でね」

 こう紹介された途端、受付嬢のおキヌを見る視線が嘘のように柔らかいものへと変化していった。
 そして、ロビーを見回し始めた大樹の意図に気付きやや棘のある視線を大樹に向け直す。

 「ナルニア航空のお客様は、そちらのお嬢さんを置いてお帰りになりました」

 氷の様に冷たい受付嬢の言葉に顔を引きつらせながら、大樹はようやく平静を取り戻したおキヌに視線を向ける。
 その顔には明らかな落胆の表情が浮かんでいた。

 「機内で知り合った人に此所まで案内して貰ったんです」

 「ふーん、で、何でこんな所まで?観光のついでに寄るような所でもないし・・・」

 大樹はおキヌの姿をまじまじと見つめる。
 旅行鞄を持っているところを見ると今夜の宿はまだ決めていないらしい。
 おキヌは勇気を振り絞るように両手を強く握りしめると、強い意志の籠もった目でまっすぐ大樹を見つめた。

 「私、横島さんを連れ戻しに来たんです!お願いです、横島さんに会わせてください!!」

 「・・・・・立ち話もなんだから場所を変えようか?」

 頭を下げたおキヌに大樹は声のトーンを落とすと、ごく自然にその背中に手を添えエレベーターに案内する。
 途中、受付嬢を振り返り以降の取り次ぎを全てキャンセルすることを伝えた以外、大樹は無言のままエレベーターに乗り込んだ。




 小規模な会議に使われる一室におキヌを案内した大樹は、机の上の内線電話を操作しお茶を持って来るよう部下に伝える。
 その後いつも座っている席に腰掛け、彼専用と化している灰皿を手元に引き寄せると胸ポケットを手探った。

 「いいかな?」

 「あ、はい」

 喫煙の許可を求めた大樹に、おキヌは多少慌てたように返事を返す。
 間が持たないのを誤魔化すように煙草に火をつけると、大樹は体中にニコチンを染み渡らせるよう深くゆっくりと紫煙を吸い込む。
 エレベータに乗ってからずっと、気まずい沈黙が二人を包んでいた。

 「アイツ、俺に似て体だけは丈夫でね・・・赤ん坊の頃から病気らしい病気をしたことが無かったんだ」

 煙草一本を吸い終わってから大樹はようやく口を開いた。
 手元の灰皿に吸い殻を押しつけると、大樹はおキヌに気を遣いながら息子の話題を口にする。

 「アイツの今の様子は知っているのかな?」

 「横島さんは大丈夫なんですか!?」

 最も知りたかった話題におキヌは身を乗り出す。
 目の前の少女が心の底から息子を心配している事を感じ大樹の視線に温かいものが混ざった。

 「ようやく落ち着きを取り戻してね・・・最近はよく話すようになった」

 「よかった・・・本当に良かっ・・・・」

 横島の様子を聞き、今までの緊張が解けたのかおキヌの目に涙が浮かぶ。
 今の話を聞けただけでもナルニアまで来た甲斐があったとおキヌは思っていた。

 「さっきも言ったけど、アイツ本当に手がかからない子供でね・・・あれだけ必死にアイツの世話をするカミさんの姿を初めて見たよ」

 大樹は二本目の煙草に手を伸ばしかけて止める。
 今、会話を途切れさせると非難のニュアンスをおキヌに伝えてしまう。
 大樹が言いたいことはそんなことでは無かった。

 「前に住んでいた採掘場近くの家に連れてくと、それこそ文字通り付きっきりでアイツの世話をしてね・・・・・緑しか無いような環境と、無償の母の愛、アイツは徐々に自分を取り戻していっている。まさに母は強しというヤツだよ・・・悔しいが俺にはアイツにかける言葉が見つからなかった」

 百合子から聞かされた息子の身に降りかかった重すぎる選択。
 それを自分の身に置き換えたとき、大樹は息子の背負ってしまった十字架に愕然とした。
 大切な何かを切り捨てた経験は大樹には無い。
 自分が頻繁に見せる浮気行動は、百合子という確固たる地盤を前提に成り立っている。
 極論すれば自分はそういったオチャラケが許される甘い世界の住人だと大樹は思っていた。

 「未だに信じられないよ、アイツがそんな事に巻き込まれていたなんて・・・・・俺にとってアイツは元気だけが取り柄の馬鹿息子だったんだ。だから・・・良かったら聞かせてくれないかな?アイツが君たちとどの様な生活を送っていたのかを・・・」
 
 大樹に促され、おキヌは涙をぬぐうと横島との生活を話し始める。

 「私が地縛霊だった時、横島さんが・・・・・・」

 美神除霊事務所に起こった長い長い物語をおキヌが話し終えるまで、大樹は目を閉じてじっと話に聞き入っていた。
 途中、コーヒーが運ばれてきたが二人とも手を付けていない。
 コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
 一月前の横島が豹変してしまった事件を話し終え、おキヌはようやく冷めたコーヒーに口をつけた。
 大樹は二本目の煙草に火をつけると何かを思い出すように語り出す。

 「俺にとってアイツは、いつまで経っても泣き言が多い根性無しだったんだ・・・」

 「横島さんはスゴイ人です!」

 大樹の言葉におキヌは思わず立ち上がり反論してしまう。

 「優しくて、一緒にいると安心できて、みんな横島さんを頼ってました・・・・・・・」

 おキヌは辛そうにこの先を続ける。
 大樹は無言で吸いかけの煙草を灰皿に押しつけた。

 「いつの間にかそれが普通になって、横島さんにすごい無理をさせて・・・・」

 「ありがとう、アイツの事を評価してくれて・・・でも、俺が言ったのはそういう意味じゃないんだ」

 大樹はおキヌの肩に手を掛けると椅子に座るよう促す。
 そして、僅かに口を歪ませながらうっすらと煙が立ち上る吸い殻を見つめ呟いた。

 「アイツに自転車の乗り方を教えたのは俺なんだ。それだけじゃない、泳ぎ方や竹とんぼの作り方・・・何でも俺が教えてやった。うまくいかなくって泣き言をいうアイツをよく叱ったもんだよ、この根性無し!って。だけど、ナルニアに帰ってきたアイツを見て俺は何も言えなかった。泣き言もいわず、ただ悲しいほど冷めた目をしたアイツに・・・・馬鹿が!変な所で根性見せやがって」

 大樹はおキヌの目を正面から見据える。

 「おキヌちゃんだったね。君はアイツに会って何と声を掛けるつもりだい?それに、アイツを日本に連れ帰ってどうするつもりなんだい?」

 おキヌは大樹の問いに一瞬言葉につまる。
 実の父親でさえかける言葉が見つからないのに、他人の、しかも横島を頼るだけだったおキヌに何ができるのか?
 大樹にそのつもりは無いのだろうがおキヌにはそう問いかけられているように感じたのだった。
 おキヌは決心を固めたように冷め切ったコーヒーを一気に飲み干す。
 大樹の問いかけはおキヌ自身何度も自問自答したものだった。

 「私、横島さんの事が好きなんです!!!幽霊だった私に横島さんや美神さんはこの世界が優しくあたたかい事を教えてくれました!生き返って体を持ってからも・・・幽霊の頃とはだいぶ違って見えるけど、私にとって横島さんがくれたこの世界は優しくってあたたかくって・・・だから、横島さんにもう一度この世界を優しくあたたかいって感じて欲しいんです!!そのために、許されるなら私は横島さんと一緒に・・・・・」

 ジリリリリリリリ!!!

 おキヌの言葉を遮るように火災警報機に似た音が鳴り響く。
 数秒遅れて大樹の部下らしい男が会議室に走り込んできた。

 「大変です!武装ゲリラがこのビルを占拠しようとしています!!」

 大樹は報告を受けると速やかにおキヌの手を引き会議室を後にする。
 エレベーター前にたどり着くと大樹は緊急用のコマンドを打ち込んだ。
 このような事態に備え、このビルのエレベータはコントロールをいつでも握れるような細工が施してあった。

 「パーカーは?」

 「すでにもう一つの地下駐車場に向かわせてます」

 「いい判断だ、女子社員から優先的に避難させているな?」

 「はい、しかし悪い知らせが・・・営業二課が完全に人質となっています」

 大樹が天を仰ぐのとエレベーターの扉が開くのはほぼ同時だった。
 不幸にも中にいた3名の武装ゲリラは、予期せぬ階で扉が開いた驚きの表情のまま大樹の当て身を受け意識を失った。

 「すぐに戻る。それまでにコイツらを拘束しといてくれ」

 大樹は部下にそう言い残すとおキヌと共にエレベーターに乗り込む。
 階数ボタンにコマンドを打ち込むとエレベーターは階数表示のないフロアに向かい降下していった。

 「驚いたかい?武装ゲリラに襲われるなんて日常茶飯事なんでね」

 大樹は手帳に何かを書き込みながらおキヌに笑いかける。
 安心させるための気遣いだったようだが、更にハードな日常を送っていたおキヌはごく普通に愛想笑いを返すだけだった。
 エレベーターが停止し扉が開く。待機していた黒塗りの高級乗用車の旁らには、初老の運転手らしき人影が立っていた。
 運転手が恭しい動作で後部座席のドアを開けと、大樹はおキヌを後部座席に座らせ旅行鞄を隣の座席へ押し込む。

 「一号車か・・・」

 大樹の言葉に運転手は小さく肯く。
 後部座席のドアを閉める前に、大樹はおキヌに手帳のページを一枚破り手渡した。

 「念のため、前に住んでいた家の住所・・・かなり辺鄙な所だけど今の忠夫には必要な環境なんだ」

 「横島さんのお父さんは行かないんですか?」

 自分だけを逃がそうとする大樹におキヌは心配そうな視線を向ける。
 その心配を打ち消すように、大樹は息子にそっくりの笑顔を浮かべた。

 「一応責任者なんでね・・・逃げるわけにはいかんのよ。パーカー、百合子がいるところまでこの子を頼むぞ」

 こう言って大樹がドアを閉めると、静かなエンジン音を残し車は地下駐車場を後にする。
 後ろを振り返るおキヌの目に、エレベーターに向かい踵を返した大樹の背中が映る。
 常に横島の前を歩いていたその背中には、これから戦いの場に赴こうとする覚悟が表れていた。








 「立派な方です」

 パーカーと呼ばれていた運転手の言葉に、後ろを振り返っていたおキヌは前方に視線を向け直す。
 既に大樹はエレベーターの中に姿を消している。
 車は長い地下道を進んでいるが出口らしき明かりは見えてこなかった。

 「日本では、ナルニアに赴任することを左遷というようですね・・・あの方にとってはナルニア赴任は不幸だったのかも知れませんが、ナルニアにとっては幸運だった」

 「それならば私も感謝しなくちゃ。そのおかげで私は横島さん・・・あの人の息子さんに出会えた」

 パーカーはバックミラーをずらしおキヌの表情を窺う。
 その表情には幸せな過去を思い出した温かさと、それを失ってしまった寂しさが同居していた。
 運転手はこれ以上この話題に踏み込むことを避けそろそろ長い地下道が終わる事をおキヌに伝える。

 「驚かないでくださいね。テロ対策に打ち出したあの方のアイデアなんです」

 なんの事か分からないおキヌの前方で地下道は上り坂にさしかかり、突き当たりと思えた天井が徐々にずれはじめると夕暮れの空を覗かせる。
 車はスピードを落としもせず真っ直ぐその亀裂に向かい突っ込んでいった。

 「な、なんですか?この大がかりな仕掛けは?」

 表の世界に飛び出した車内でおキヌは背後を振り返り愕然とする。
 背後では村枝商事の社宅の庭にあるプールがスライドし、極秘の地下駐車場へとつながる通路を隠し始めていた。

 「あの方の趣味だそうです。良くは分かりませんが接待に使うとあの方と同世代の方には大変喜ばれます。因みに、二号車の出口は椰子林にありますが・・・」

 「はあ・・・・そうですか」

 何のことかよく分からないおキヌはリアクションに困っていた。
 おキヌの反応の無さに、パーカーは大樹の好んでいる二号車にしておくべきだったと軽く後悔したがどちらにしても同じことだろう。
 気まずい沈黙の中、おキヌを乗せた車は市街地を抜け横島に指示された採掘場近くの住居を目指し進んでいった。





 市街地を抜けると徐々に木立の密度が増し、今まで都市部にいたことが嘘のように広大な森林地帯が出現する。
 おキヌは車の窓から夕日に照らされた木立をぼんやりと見つめていた。

 ―――私はできることなら横島さんと・・・・

 先程、大樹に言いかけた言葉をおキヌは胸の中で反芻する。
 密度を増す木々の中を進んでいた車が不意に停車し、おキヌを現実に引き戻すまでおキヌはその言葉を胸の中で繰り返していた。

 「どうしたんですか一体?・・・!」

 おキヌは車のライトに照らされた前方を見て軽く息を飲んだ。
 信号など存在しないナルニア郊外の道で車が止まる理由は数えるほどしかない。
 車のライトに照らされていたのは年端もいかない少女の倒れた姿だった。

 「大変、助けなきゃ!」

 「待ってください!」

 ドアを開け道に出ようとしたおキヌをパーカーが止める。
 おキヌは何事が起こったのか驚いた顔でパーカーを見つめた。

 「こんな所で不自然すぎます。情けない話ですがナルニアは治安が悪い・・・君子危うきに・・・」

 大樹から預かった大切な客を危険な目に遭わせまいとするパーカーは、一点の曇りもないおキヌの目に言葉を失ってしまう。

 「私の好きな人は、倒れている女の子を見捨てるなんて絶対にしませんから・・・」

 おキヌはこう言うと素早く車を降り少女の元へと走り寄る。
 パーカーは慌てて後を追ったが、シートベルトを締めていた分だけ車を降りるのが遅れてしまった。

 「大丈夫ですか?」

 おキヌはうつぶせに倒れていた十二、三歳くらいの少女を起こそうと肩に手をかける。

 「ああ、おかげさまでね」

 山猫を思わせる敏捷さで少女は体の向きを変えると、隠し持っていたナイフをおキヌの首筋に当てる。
 少女の視界の端では運転席から降りた男が右手を動かすのが見えた。

 「動くな!」

 少女の一喝に背広の内ポケットに手を伸ばしかけたパーカーが動きを止める。
 その声が合図だったように、植え込みに隠れていた二名の男がパーカーの元に走り寄りパーカーの武装を解除する。
 拳銃の他に見つかった数本の投げナイフがパーカーがただの運転手でない事を物語っていた。

 「足首も調べな!」

 この中では一番立場が上らしい少女の指示に従った男たちは、パーカーの足首に固定されたデリンジャーを見つけ口元に皮肉な笑みを浮かべる。
 彼らがこの少女に従う理由は、首領の娘というだけではなく少女の実力によるところが大きかった。

 「ソイツには見覚えがあるよ。イトコの姉貴が昔お世話になった日本企業の運転手兼用心棒だ。姉貴は日本のサラリーマンとソイツにしてやられたと言ってたっけ」

 少女はおキヌの首にナイフを当てたまま手下に細々とした指示を与える。
 指示通りにパーカーを紐で縛り終えると、男の一人が車のエンジンがかかったままなのを確認した。

 「そこ子に危害を加えないでくれ、その子は倒れている君を案じた優しい子だ」

 縛られたパーカーは観念したのか、リーダーらしき少女におキヌの身の安全を懇願する。
 その言葉に少女は歯を剥いて笑った。

 「ハン、くそ甘い日本人と一緒にいるとどうしても甘くなるみたいだね。安心しな、身代金の価値がある限りは大切な客人だよ」

 少女はそういうと安堵の表情を浮かべたパーカーに向かい、手下が持ってきたパーカーの投げナイフを投擲する。
 それはパーカーの体を僅かに逸れ背後の木立に突き刺さった。

 「お前ならアタシたちが立ち去った後、すぐにそのナイフで戒めを外せるだろう?いいかい、明日までに社に戻って伝えな!身代金を支払う気があるのなら、ナルニアタイムスの夕刊にこの子の名前で尋ね人の記事を出せとね」

 少女はこう言い残すとおキヌを伴い自動車の後部座席に乗り込む。
 おキヌを真ん中にもう一人の手下と挟むように座ると、最後の一人が運転席に乗り込み運転を担当した。

 「いいかい、くれぐれも変な気を起こすんじゃないよ!」

 少女の捨て台詞を残し車が走り出す。
 その姿をパーカーは無念そうな顔で見送った。





 「悪いね・・・・こっちにも色々事情があってね」

 安全圏に出れた気のゆるみか、走り始めてから30分が経過するとおキヌの首筋にナイフを当てたまま少女が口を開いた。
 それまで一言も話さなかった反動か、少女はおキヌに自分たちに起こった出来事を話し始める。

 「本来アタシたちは誘拐なんて卑劣な真似はしない由緒正しい盗賊団なんだ!しかし、昨晩の仕事でヘマをやらかしちまってね・・・日本からの直行便の貨物を戴こうと団員全員で仕事に取りかかったんだが凄腕の護衛にみんなやられちまった。オヤジは大怪我、盗賊団は存亡の危機ってヤツさ」

 少女は悔しそうに昨晩の様子をおキヌに話す。
 一番悔しいのはその護衛が子供だからと自分を見逃した事だった。
 ナイフの腕は仲間の誰にも引けをとる気はない。
 倒された父親の前に立ちはだかった自分を無視し、その護衛はその場を立ち去っていた。

 「仕方なく残された動ける者たちで治療費を稼ごうと思ってね・・・アンタには悪いがしばらくつきあって貰うよ」

 少女の言葉に、おキヌは初めて盗賊団の男たちがそれぞれ手傷を負っていることに気づく。
 男たちの包帯からにじみ出ている血に気づかなかったのは、誘拐された事実と未だに首にあてがわれているナイフのプレッシャーのせいだった。

 「動かないでください」

 おキヌはこう言うと、隣りに座る男の腕に巻かれた包帯に触れる。
 一瞬身を固くした男だったが、傷口から流れ込んでくる温かな力に肩の力を抜いた。

 「何するんだい!」

 「よせ、お嬢、この子はヒーラーだ」

 おキヌの動作を警戒した少女を男が止める。
 3分程おキヌのヒーリングを受けた後、男が包帯を外すと鋭利な刃物で切られたような傷口は癒着していた。

 「本当に治るにはまだまだ時間はかかりますけど、痛みを消すくらいにはなります」

 「コイツはすげえ!ありがとう!本当にありがとう」

 おキヌの笑顔に男は何度も頭を下げた。

 「頼む!俺にもやってくれ」

 「待ちな!」

 運転席の男が斬りつけられた左肩をおキヌに差しだそうとするのを少女が止める。
 少女はおキヌの首筋からナイフをどけるとその手を掴み深々と頭を下げる。

 「虫がいいのは分かっている。でもお願いだ、オヤジを・・・仲間を助けてくれ・・いや、助けて下さい。オイ、お前たちもお願いするんだよ!」

 少女の命令に二名の手下も一斉に頭を下げる。
 運転手の男にも頭を下げられおキヌは軽い悲鳴を上げた。




 運転手のヒーリングを済ませると、一行は4頭の馬を引き連れた男の近くで車を止めた。

 「悪いね。ここから先は馬に乗り換えてもらうよ」

 言葉遣いはそれ程変化はないが、さっきとは格段の待遇の違いだった。
 男たちはまるでお姫様にでも従うようにおキヌに手を貸すと一頭の白馬にまたがらせる。
 おキヌが無事座り終えたことを確認すると、盗賊の少女はおキヌの乗っている馬にひらりとまたがり自分より大きなおキヌを抱えるように馬の手綱をとった。

 「お前たちは車の処分に行っといで。足が付いていない今なら高く売れるだろう」

 おキヌへの感謝とは別物らしく、少女は平然と車を売るよう二人の手下に指示をだした。
 一人は車の運転、もう一人は帰り道用に馬を二頭つれて近くの町を目指していった。

 「お嬢、その娘が人質になるんですか?」

 「計画は変更・・・この人はヒーリングができる霊能力者だ!」

 少女の言葉に馬番をしていた男の目が丸くなる。
 辺境とも言えるナルニアでは未だに呪術師の地位が高い。
 年端もいかぬ少女が霊能力者と聞き男は驚きの声を上げた。

 「へぇーっ!俺は占い師のばあさん以外に霊能力者を見たことが無いんですが、こんな娘がスゲエ力を持っているなんて信じられませんね」

 「失礼な事を言うんじゃないよ。この人はアタシの客人だ」

 少女が腰帯に刺したナイフの柄に手を伸ばしかけると、馬番の男は顔色を変えて馬の向きを大急ぎで変えた。

 「それじゃあ、あっしは一足先に隠れ家にこのことを知らせてきます」

 走り出した男の姿を見ておキヌは噴き出してしまう。
 馬番の男は余程この少女に酷い目に遭わされたことがあるらしかった。

 「さて、アタシらも出発するけど・・・馬は平気だよね」

 「分からないけど我慢します。だけど、さっきの約束は守ってくださいね」

 おキヌはヒーリングが済み次第、自分を横島の所に届けることを少女に約束させていた。
 自分にはどうしても会わなければならない男がいることをおキヌは少女に伝えている。
 まだ恋というものをしたことがない少女は、おキヌの必死な思いに不思議そうな顔をしたもののその約束を快諾していた。
 少女は馬を走らせながらその時に感じたことをおキヌに質問する。

 「だけど、アンタが会いたいっていう男はどんなヤツなんだい?顔がすごくいいとか、金をうなるほど持っているとか、ものすごく強いとか・・・」

 おキヌはこの言葉を聞き、この少女が恋というものを知らない事に気付く。

 「顔はもっとハンサムな人がいるわ・・・・別に変な顔というわけじゃないけどね。お金は・・・・適正に評価されれば・・・いや、それは無理な話ね」

 「何だか分かんない話だね!それじゃぁ、ものすごく強いのかい?豹を素手でしとめられる位に」

 「それくらいはできるかもね。もっと強い相手とも戦った人だから」

 「そうか、やっぱり男の価値は強さなんだね!」

 自分が理解できる価値観にようやくたどりつけた少女は、疑問が解けた時の爽快感を味わっていた。

 「でも、横島さんが強くなったのはいつでも周りの女の子を助けるため・・・・私は横島さんが強くなくっても、いや、こんな事になるのなら強くならない方が良かった」

 おキヌは自分の発言に唇を噛みしめる。
 それは、横島と他の者たちの出会いが無ければ良かったと言っているに等しかった。
 自分の中の黒い部分を感じ、おキヌは何かに耐えるように固く目を閉じる。
 人を好きになる以上、己の中の黒い感情と向き合わなくてはならないことを今のおキヌは理解していた。
 それだからこそ、おキヌは抜け駆けに等しい行為で横島の元へと向かっているの。

 「わっかんないなー。じゃあ、アンタはその男の何処に惚れたんだい?」

 少女の無邪気な疑問がおキヌに横島の姿を思い出させる。
 数々の思い出がおキヌの胸に温かいもので満たしていった。

 「優しいところ。一緒にいると安心できるところかな」

 この言葉にますます分からなかった少女は頭を抱えた。

 「アタシたちの間じゃ、男の優しいは他に取り柄がないって事だぜ!なんでそんな男の為に、アンタはわざわざ日本からこんなトコまで来たのか・・・」

 少女は自分を振り返ったおキヌの目に言葉を失ってしまう。
 その目は如実に物語っていた。

 ―――あなたも恋をすれば分かる と

 「・・・・アタイも誰かを好きになれば分かるのかい?」

 おキヌは少女の言葉に小さく肯く。
 そして、口元を僅かに歪ませながら静かに語りかけた。

 「これは先輩からのアドバイス。人を好きになったら待っていてはダメ、自分の気持ちに気づいたら早く素直にならないと他の人に先を越されるわ」

 おキヌの口調に何かを感じたのか少女はおキヌに向かい一つお願いをした。

 「アンタとその男の話を聞かせてくれないかい?」

 少女にせがまれ、おキヌは静かに横島との生活を話し始める。

 「私が地縛霊だった時、横島さんが・・・・・・」

 美神除霊事務所に起こった長い長い物語は盗賊の隠れ家に付くまで続いた。







 「ありがとう、本当にありがとう」

 父親である首領の治療を終えたとき、少女は再びおキヌに深く頭を下げた。

 「いえ、そんな大した怪我じゃなかったし・・・・」

 除霊やセクハラの度に傷を負う横島を見慣れているため、おキヌは至って冷静にヒーリングを行っていた。
 それを抜きにしても、正直な話首領の傷はそれ程深いものでは無かった。
 相手は余程の達人らしく、首領をはじめ他のメンバーも急所を巧みに避けた一撃で戦闘能力を奪われている。
 首領の傷が深く見えたのは、初撃に耐えたために他の者よりも多く相手の攻撃を受けたためであった。
 全ての治療を終えたおキヌは、相手の一撃が敵の行動を奪う上で身体へのダメージ以上に精神へのダメージを狙ったものであることに気付く。
 斬られたという認識は実際のダメージ以上に体の自由を奪っていた。

 「さて、ヒーリングも済んだから約束どおり・・・」

 横島の元へ再び旅立とうとしたおキヌの足下がふらつく。
 見た目以上の軽傷だったとはいえ、多くの盗賊にヒーリングを続けた疲労は無視できない。
 少女は慌てておキヌを支えると近くの椅子に座らせた。

 「少し休みな。アンタが回復したら約束どおり連れて行くから」

 「でも・・・私は」

 一刻も早く横島の元に向かいたいおキヌの言葉は、差し出された一杯のスープに止められていた。
 驚いたように見上げたおキヌに少女の母親が笑いかける。

 「亭主の命の恩人をそのまま帰しちゃ女が廃るよ!お願いだから一休みしていきな・・・・それに」

 母親が口にした言葉はおキヌを引き留めるのに十分な効果を発揮した。

 「もう日が沈んだ。メモの場所に着くのはどんなに急いでも真夜中だよ。ウチらのせいだから本当に申し訳ないけど、そんな時間にヒーリングで疲れた顔を好きな男に見せられるかい?100年の恋も一遍で冷めちまうよ!悪いことは言わないから休んでいきな」

 娘からおキヌの目的を聞いたのか、母親はおキヌに差し出したスープの効能を話し始める。
 材料は不明だがこれを飲めば肌の調子は一発で回復するらしい。
 いつの間にか若い頃のモテ自慢に発展している話を、軽く聞き流しながらおキヌはスープを一口啜った。

 「どうだい?イケるだろ」

 おキヌの顔をのぞき込んだ母親は胸を張った。
 若い頃モテたと豪語するだけの質感を感じおキヌの口元が軽く引きつる。
 その表情に気づいた母親はおキヌの耳元に近づきそっと囁く。

 「これはそっちにも効果があるよ」

 「・・・・・・お代わりありますか?」

 一気に残りのスープを流し込んだおキヌの言葉に母親は声を上げて笑った。

 「あるとも、スープだけじゃなく他の物も好きなだけ食べていっておくれ!」

 母親の合図に仲間の女たちが色とりどりの料理を運び込んでくる。
 仲間の傷を治してくれたおキヌに対するせめてもの感謝の印だった。

 「おいしそう・・・じゃあ、遠慮無くいただきます」

 ナルニアに着いてから食事らしい食事をしていないおキヌは、素直に盗賊団の好意を受け取ることにした。
 旅先で振る舞われた思いもよらぬご馳走におキヌが舌鼓を打っていると、にわかに表が騒がしくなり始める。

 「大変だ!姉御が大怪我をして・・・・」

 先程見た顔が血相を変えて飛び込んでくる。
 おキヌ達が表に飛び出すと、白馬にもたれ掛かるようにして息も絶え絶えの女が中庭に姿を現していた。

 「姉貴、一体どうしたんだい!?」

 全身に走る苦痛に顔を歪ませているイトコに盗賊団の少女が走り寄る。

 「やられたよ・・・前回のリベンジに乗り込んだんだが・・・グフッ」

 馬から落ちそうになる女を少女は慌てて支えた。

 「急いでベッドのある所へ!」

 ヒーリングを依頼される前におキヌは動き出していた。
 顔色から判断するに、女の受けたダメージは盗賊団の男たちよりも深刻に見える。
 ベッドの上に女を寝かしつけると、部屋から男たちを追い出しおキヌは女の衣服をはだけさせる。
 豊かな胸の隆起から脇腹、背中にかけて生々しい打撃痕が青黒い色を浮かび上がらせている。
 肋骨の骨折は免れない様子だった。

 「もう少しでうまくいくところだったんだ。前回邪魔した運転手はいないし、あのサラリーマンにも油断はしなかった・・・・・」

 「喋らないで!」

 おキヌは女の脇腹から漏れる霊気で怪我の度合いを測ろうとする。
 もし折れた骨が内臓を傷つけているのならばヒーリングではどうにもならない。
 女は付きそう少女の腕を強く握り何かを懸命に伝えようとする。
 一種の恐慌状態に女は陥っていた。

 「それなのにあの女が・・・いきなり乗り込んできた化け物みたいに強いあの女が一人で、畜生!みんなあの女に・・・」

 急に起きあがろうとした痛みに耐えかねたのか、苦悶の表情を浮かべた女はそのまま力なくベッドに倒れ込んだ。

 「気を失ったようです・・・大丈夫、何とかなります!」

 心配そうな周囲に声をかけるとおキヌは精神を集中し自分の掌に霊力を集中させる。
 霊力の照射をしばらく続けると、女の顔色に赤みが差し始め呼吸も深く静かに落ち着いていった。

 「霊波が安定しました。もう大丈夫です」

 おキヌの言葉に周囲の女たちから歓声があがる。
 口々に伝えられる感謝の言葉を笑顔で受け止めおキヌは少女の方へ向き直る。

 「お願いがあるんだけど・・・」

 「ああ、いいとも!何でも聞いてやるよ」

 笑顔を崩さないおキヌに少女は二つ返事で答えた。

 「今晩泊めて。もう限界みたい・・・」

 おキヌはこう言うとその場に倒れ込みすやすやと寝息を立て始める。
 限界までの霊力使用に加え、日本との時差ボケが今頃になっておキヌに襲いかかっていた。




 温かで柔らかな感触を肌に感じおキヌはうっすらと両目をあける。
 自分を間近に見つめる同じベッドに寝ころぶ少女の視線に、慌てて体を起こそうとしたおキヌはシーツの中で自分と少女が下着姿になっていることに気づく。

 「キャッ!なんで私」

 おキヌが急いでシーツを巻き付けたせいでむき出しになった少女は悪びれた様子もなくおキヌに向かい合う。

 「よっぽど疲れていたんだね。このベッドに運ぶときも少しも起きなかったよ」

 昨日は気づかなかったが、大きくのびをする少女の胸はおキヌ以上のふくらみを見せていた。
 裸で寝るのが習慣らしく少女はブラジャーをつけていない。

 ―――あのスープの効果かしら?

 おキヌはその様子に自分もその習慣にならわされたことを理解する。
 ブラジャーを外されていなかったのがせめてもの救いだった。

 「実はアンタに惚れちまった男が沢山いてね。一人で寝かすのが危なすぎたのさ、その点では私の寝床は一番安全だからね」

 とんでもないことを言いながら、少女は笑顔を見せると素早く衣装を身につけ始める。
 もう一着用意されたナルニアの華やかな民族衣装を手に取るとそれをおキヌに向かって放り投げた。

 「母ちゃんからのプレゼントなんだ・・・若い頃の勝負服だって」

 軽くしなやかな生地で作られた華やかな衣装を手に取ったおキヌは突然の展開に頭がついていかなかった。

 「今日、横島という男に会うんだろ?良かったらそれを着てくれないかい?みんなからの精一杯のお礼なんだ」

 横島の話題におキヌは腕時計に慌てて視線を落とす。
 時間は朝の7時を回っていた。

 「慌てなくても大丈夫、姉貴が昨日のお礼にアンタを送らせてくれってさ。姉貴の腕と、愛馬のパトリシアだったら車よりも速く横島の家にたどり着く・・・だけど、急いだ方がいいね。アンタが此所を出てくと聞いたら本気で止めにかかる馬鹿が片手じゃ収まらないんだから」

 少女はせかすようにおキヌに民族衣装を着せにかかる。
 軽くて風通しの良い生地は暑いナルニアの気候に合っており、頭部に被るスカーフのような飾り布は強い直射日光を遮るのに丁度良い。
 身支度を済ませたおキヌを裏口に案内すると、昨晩助けた女ゲリラと少女の母親がおキヌを見送るために待ちかまえていた。

 「他の女たちは各自馬鹿な男たちを足止めしているよ。これだけの見送りで勘弁しておくれ」

 母親は申し訳なさそうにおキヌに小さな包みを渡す。
 それは途中で食べるように作られた朝食だった。

 「ありがとうございます。それにこの服も・・・」

 「よく似合うよ。その服は縁起物だからね・・・負けるんじゃないよ」

 母親の励ましに大きく肯くとおキヌはその耳元で内緒のお願いをする。

 「今度来たとき、あのスープのレシピを教えてください」

 一晩寝たおキヌの肌は前以上の瑞々しさを見せていた。
 周囲に気づかれないよう声を潜めて笑う母親に、先程から黙って見ていた女ゲリラが急かすように声をかける。

 「急いだほうがい。そろそろ行くよ!」

 馬上から伸ばされた手を掴むと、おキヌの体が軽々と引き上げられる。
 その動作は昨日のダメージを感じさせないものだった。

 「夕べはすまなかったね。アンタには手を出さないから安心おし」

 女ゲリラの言葉に若干の気がかりを感じたおキヌだったが、勢いよく走り出した白馬にそれどころではなくなってしまう。

 「今度は横島もつれて来るんだよ!約束だよ!」

 少女はおキヌの姿が完全に見えなくなるまでその場で手を振り続ける。
 おキヌを送ろうとしている女が、横島家への復讐に燃えていることに誰一人気付かないままおキヌは盗賊の隠れ家を後にした。




 女ゲリラが駆る白馬は二人乗りの重量をものともせず道無き道を走破している。
 どれほどの技量を持ち合わせているのか、獣道や沢伝いの小道などを走っているにもかかわらずおキヌには微かな振動しか感じることはできなかった。
 少女の言葉通り、おキヌは横島が住むという家の近くまで僅か一時間でたどり着いている。

 「あそこが横島ってヤツの家だろう?」

 南北戦争時の映画に出てくるような素朴な二階建ての洋館を見下ろす丘の上で、女ゲリラはおキヌの持っていたメモと懐の地図を照らし合わせる。
 もとはレアメタルの試掘の拠点にするための家だったので周囲に民家は存在しない。
 一本だけ伸びた電線は、この先にある採掘場の発電機から送られてくるものだった。

 「多分そうです。急ぎましょう」

 「まあ、慌てなさんなって。好きな男に会うんだ化粧の一つもしたいだろう」

 おキヌにビル占拠時にぶんどったコンパクトを手渡すと、女ゲリラは双眼鏡で煙突から立ち上る煙を確認する。
 どうやら自分に二度も煮え湯を飲ました男の妻は留守ではないらしい。
 おキヌにドアを開けさせ油断したところで男の妻を人質にとる。
 絶望に沈む大樹の顔を想像し女ゲリラは軽く身震いした。

 「じゃあ、行くとするかい」

 百合子を人質にとるなどと馬鹿げた事を考えている女ゲリラは、不幸への坂道を一歩、一歩踏み出していった。


 丘を10分も下ると二人は横島の家にたどり着いていた。
 家の前を真っ直ぐ走る道は市街地から採掘場までを結んでいる。
 日本では考えられない広さの庭を囲む生け垣は、背後のジャングルと混在しその境界すら曖昧であった。

 「さあ、いよいよだね」

 「ちょっと待ってください」

 おキヌは門扉の前で馬にまたがったまま女ゲリラから受け取ったコンパクトを念入りにのぞき込む。
 門の向こうに見える洋館に横島がいると思うとどうしても己の身だしなみが気になってしまった。

 「あれ?道の向こうから車が・・・横島さんのお父さんかしら」

 のぞき込んだ鏡に車の立てる砂煙を認めたおキヌは背後を振り向く。
 女ゲリラもつられたようにそっちに双眼鏡を向けると、小さな悲鳴のような声をあげた。

 「早く降りて!私はもう帰るんだよ!!!」

 女ゲリラは顔色を変えるとおキヌを彼女の旅行鞄ごと急いで地面に下ろす。
 そして砂塵をあげて近づく車とは反対方向へ一目散に走り去っていった。

 「何なのかしら一体・・・・?」

 おキヌは呆然と女ゲリラが走り去った方角を見送る。
 米粒くらいに小さくなった女ゲリラは、ちょうど採掘場からこちらへ向かおうとするトラックと接触しそうになったらしい。
 微かなクラクションがおキヌの耳に届いていた。
 気を取り直し化粧を確認したおキヌは意を決し鉄の門扉に手を伸ばした。








 電話のベルが鳴ったのは、朝食の準備を終わらせ横島を部屋へ起こしに向かう途中だった。
 百合子は二階の自室に引いた子機でその電話を受けようと、目的地を一つ隣りの部屋へと変更する。
 受話器から聞こえてきた夫の声は、今まで聞いたことが無いくらい緊迫していた。

 「武装ゲリラの話ならTVで見たわよ。安心して帰ってらっしゃい」

 「バカ、そんなんじゃない!おキヌという女の子が昨日そっちに向かったんだが着いていないのか?」

 朝帰りの言い訳と勘違いした百合子の軽口は、切羽詰まった大樹の声に打ち消された。

 「ちょっと、一体何のこと?」

 百合子の反応に、今入ったばかりのパーカーからの連絡が真実であることを理解した大樹は頭を抱えた。
 大樹は努めて冷静にパーカーからの連絡を百合子に伝える。
 その話を聞き受話器を落としそうになる百合子だったが、窓の外できらめいた鏡の反射に視線を飛ばすと心底安堵したようにため息をもらした。

 「その事なら心配はないようね」

 窓から見える表の景色に百合子はホッと胸をなで下ろす。
 門の外では行方不明になっている筈のおキヌがのんきにコンパクトを握っていた。

 「その子は今、ウチの前にいるわ・・・一体昨日から今日にかけて何があったの?」

 受話器の向こうから大きな安堵のため息が聞こえてくる。
 長年夫婦をやっているとこんな所まで似てくるらしかった。
 未だ事後処理に忙殺されている大樹は、手短に昨晩あったことを百合子に説明する。
 大樹からの報告をうけた百合子は、口元を緩めると受話器を置き横島の部屋へと向かっていった。
 朝食の知らせよりも先に息子に伝えたい事が百合子にはできていた。



 「なんだ起きてたの?」

 ベッドの上に身を起こしていた息子に百合子は笑いかける。

 「電話の音でね・・・オヤジ何だって?」

 「昨日のゲリラは大人数だったらしいわね。パーカーもいなかったから相当苦戦したらしいわ」

 家族の事に反応するようになった息子に百合子は目を細める。
 ここまで来るまでの壮絶な戦いを思い出し百合子の胸に熱いものがこみ上げてきた。

 「運良く強い助っ人が現れたらしくってね。こんどお父さんに聞かせて貰うといいわ」

 息子の浮かべた笑顔に後押しされ、百合子はずっと伝えようとしていた事を切り出した。

 「忠夫、雪の女王って話を知っている?」

 「雪の女王?」

 アンデルセン童話の集大成といわれる話だが、忠夫に買ってやった本には何故かその話は含まれていなかった。
 百合子は怪訝な表情を浮かべた息子にあらすじをかいつまんで説明する。

 「悪魔が作った物事を歪んで映す鏡の破片が、カイという男の子の目と心臓に入ってしまうの・・・その子は今までのように世の中を見れなくなり、乱暴な事ばかりをやるようになったカイは雪の女王にさらわれてしまう」

 百合子の話に何かを感じたのか、横島は軽く握った自分の右手に視線を落とした。

 「カイの幼なじみにゲルダという女の子がいてね。ゲルダはカイを探すために一人で旅に出るの。方々を旅して、色々な困難を乗り越えてゲルダはカイに再会する。カイを思うゲルダの心がカイにめり込んだ破片を溶かし元の心を取り戻すのよ・・・・・忠夫、窓の外を見てご覧なさい」

 百合子は窓に近づくと息子を追いかけてきたゲルダの様子を見ようとする。
 窓から見えた光景は百合子の口元に笑いの形を浮かばせていた。









 同時刻 美神除霊事務所
 事務所の前に急停止したアストンマーチンから美神美智恵が飛び出す。
 美智恵は西条が駐車するのを待たずに事務所の階段を駆け上っていた。

 「令子、令子いないの?」

 その手には美智恵が一刻も早く娘に伝えたい情報が握られている。
 電話に出ない娘に直接この情報を伝えようと、美智恵は夜半であるにもかかわらず西条を伴い事務所を訪れていた。

 『ようこそ、マスターのお母様』

 人工幽霊の声が鳴り響き、今まで真っ暗だった室内に一斉に電気が灯った。

 「人工幽霊、令子はいないの?それに他の子たちは?」

 『それが、一口では・・・・』

 要領を得ない人工幽霊に業を煮やした美智恵は勝手に事務所内を探索する。
 数分後、堪えきれないように吹き出した美智恵の笑い声が事務所に響き渡った。

 「こんなもの読まなくっても、若い子は自分で答えが出せるんだったわね」

 美智恵は複雑な笑顔を浮かべると手に持ったレポートをテーブルの上に投げ出す。
 レポートの表紙には「横島忠夫の魔族化の可能性について」とタイプされていた。

 「本当・・・・年は取りたくないわ」

 寂しげに呟いた美智恵の手には4通の置き手紙が握られていた。









 鉄の門扉を開けようとしたおキヌの近くに、猛スピードで駆け込んできたジープが急停止した。
 運転していた髪の長い女は、運転席から飛び降りると驚きの表情を浮かべおキヌと対峙する。

 「おキヌちゃん!何でこんな所に!!」

 「美神さんこそなんでここに!!!」

 想像だにしない再会を果たしたおキヌと美神のすぐ隣で、採掘場からやってきた運搬用のトラックが停車した。

 「ありがとうおじさんたち」

 荷台から降りた少女はめいっぱい可愛いしぐさで運転席の男たちにお礼の言葉をかける。

 「なーに、タマモちゃんの為ならこれ位お安い御用さ」

 「タマモ???」×2

 だらしなく顔をとろかせた男たちの言葉に、おキヌと美神は同時に振り返る。

 「タマモ!なんでアンタがここにいるのよ!!」

 「ゲッ!二人とも何でここに???」

 美神の声に振り向いたタマモは、驚いたようにおキヌと美神を指さした。
 予想外の出来事に固まってしまった3名の背後で、茂みが激しく揺れると一人の少女が飛び出してくる。

 「やっとついたでござる。先生、今いくでござるよ!!!」

 「まさか・・・・・」×3

 背後から聞こえてくる聞き覚えのある声におキヌ、美神、タマモは同時に振り返った。

 「シロちゃん!何でここにいるの!!!」

 「うわっ!おキヌ殿・・・それだけじゃなく美神殿、タマモまで一体どうして?」

 四人ともお互いを指さし合ったまま言葉に詰まる。
 自分が書いた書き置きが誰の目にも触れていない事実をここにいる全員が察していた。
 四人は同時にわざとらしい笑いをあげる。
 もう笑うしか無かった。

 「バカ犬、アンタどうやって此所まで来たのよ?」

 沈黙を恐れるようにタマモはシロに此所までの行程を尋ねた。

 「バカでもないしイヌでもないでござる!!拙者、先生のアパートから荷物が運び出されるのを近所の・・・・・・クッ、犬に見張らせていたのでござる。そして、その荷物と同じ貨物に忍び込み・・・・ううっ、空の上は洒落にならない寒さだったでござる!!!」

 上空で味わった寒さを思い出したようにシロは軽く身震いした。

 「イヌだしバカじゃない」

 タマモの言葉に一ヶ月ぶりの喧嘩が始まりかかったが、口を挟んだ美神の言葉がその流れを止める。

 「満月で良かったわね。新月だったら死んでたわよ」

 「そうでござる!その拙者の苦労を無にしようとする輩が現れたんでつい余計に懲らしめてしまったでござるよ!!」

 シロは喧嘩よりも旅の苦労話をする方を選択した。

 「・・・ひょっとして荷物を盗みに来た人たちがいたとか?」

 シロの発言に何か引っかかるものを感じたおキヌは、まさかと思いつつも頭に浮かんだ想像を口にする。

 「さすがおキヌ殿!その通りでござる。貨物を盗みに来た盗賊団をバッサバッサと・・・父親らしい男を庇った娘を見るまでは拙者も我を忘れていたでござるよ」

 多少やりすぎたことを反省しているようにシロは頭を掻く。
 盗賊団の首領を庇う少女の姿にシロは自分の姿を重ねていた。

 「後はこの近くの集配所まで荷物を追いかけ・・・・そこから先は待ちきれなかったので先生の臭いを直接感じ取ってきたでござるよ!」

 「無茶苦茶な嗅覚ね」

 タマモの感想を褒め言葉と受け取ったシロはVサインをだすと思いっきり胸を張った。

 「愛情の賜でござる。それより、タマモはどうやって此所まで来たのでござる?」

 「私はそんなに苦労はしなかったわね。幻術でチケットを失敬して・・・そう言えば、チケットの持ち主が占い師だったらしくって、化かした相手に占いをせがまれてウザかった事が苦労と言えば苦労かな」

 「はははは・・・・・・」

 再び聞かされた衝撃の事実におキヌは力なく笑う。

 「その後は、横島の親がレアメタル関係って知ってたから片っ端から鉱山関係者に聞いて回って・・・それで此所にたどり着いたのよね」

 「タマモ・・・それって708便の事?」

 微かな殺気を含ませて美神が口にした便名におキヌは身を固くした。
 その便名はおキヌがゾンビと戦った飛行機のものだった。

 「いや、違うけど・・・それがどうしたの?」

 美神はタマモの様子に肩の力を抜くと今回の旅についての苦労話をし始める。

 「全く、今回の旅は最高にツイてなかったのよ。予約していたファーストクラスは理由を説明されないまま人に取られているし・・・・」

 美神の発言におキヌの顔から血の気が引き始める。

 「代わりに手配された直行便でナルニアに着いたときには目当ての場所はゲリラに占拠されてるし・・・」

 「み、美神さんそれでどうしたんですか?」

 おキヌはチケットの件から話を逸らすように先へ先へと話を持って行こうとする。

 「しょうがないから乗り込んでいって蹴散らしたわよ。敵のリーダを取り逃がしたおかげで警察からあれこれ聞かれなきゃならなかったけど」

 「どうしてでござるか?美神殿は平和を守ったのでござろう?」

 おキヌはシロの疑問に答えようとする美神の言葉を、固唾を飲んで待ちかまえていた。

 「リーダーに手心を加えたと思われたのよ。確かな手応えがあったから病院で網を張らしたんだけど結局つかまらなくて・・・・・多分、ソイツは病院以外で治療をうけたのね。ソイツが捕まっていればもっと早く解放された筈なのよ!」

 「で、でもいいじゃないですか!こうして無事にたどりつけた事ですし。ねっ!」

 おキヌは自分の行動を悟られないように美神の機嫌をなだめようとする。
 その口元が若干緩んでいるのは、微妙に絡んだ運命を一人理解している優越感にも似た感情からからだった。

 「で、肝心のおキヌちゃんはどうやって此所まできたのよ!そんな民族衣装まで着ちゃって!」

 美神の指摘に3名の目がおキヌに集中する。
 今回の旅で一番変わったのはおキヌだった。
 おキヌはほんの少し意地悪そうな微笑みを浮かべると3人をゆっくりと見回す。

 「今は内緒です。その内みんなでこの事を笑って話せるようになったら話します・・・そろそろ肝心な事を話しませんか?」

 おキヌの提案にみんなが固唾を飲む。
 先程からあえて触れなかった話題におキヌは踏み込むつもりだった。

 「どうやって来たのかは分かりました・・・・じゃあ、みんなは何のために此所まで?」

 一瞬の静寂が広がる。

 「そりゃあ・・・ねえ?」

 「そうでござる・・・なぁ?」

 「そうよね・・・・じゃあ!!!」

 機先を取ろうとしたタマモに負けまいと4名は一斉に門扉に手をかける。
 僅かに開いた隙間に一斉に4人の人影がなだれ込むと横島の所へと走り出した
 人狼と妖弧、人外並の身体能力を誇る美神に引き離されたおキヌに占い師の言葉がよみがえる。

 ―――ライバル達に一歩先んじたかったら急がば回れだよ

 おキヌは一人目的地を変更した。












 「あなたには4人もゲルダがいたみたいね」

 窓の外に集合した4人の人影を確認した百合子は、微かな期待を胸に隣りに立つ息子を見上げる。
 横島は窓の外の光景に涙を流していた。

 「あなたにとってこの世界はお伽噺のような甘い世界じゃなくなってしまったかも知れない・・・でもね、忠夫、母さんはあなたに元気に生き続けて欲しいの。あなたはまだ生きている・・・・このまま心を凍らせたままでは悲しすぎるわ」

 百合子はただ立ちつくしている横島の右腕を強く握った。

 「もしもあの中にあなたにとってのゲルダがいて、あなたに入ってしまった破片を溶かすことができたのなら・・・・・・」

 百合子の言葉は自分の手に添えられた横島の左手に遮られる。
 横島の腕を掴んだ百合子の手は、優しくも毅然とした拒否の意思を持つ横島の左手によって引きはがされていた。

 「こんな俺を迎えに来てくれた4人の気持ちは本当に嬉しいよ。だけど、俺はカイにはなれない・・・俺のために死んだアイツを・・・ルシオラを溶かすなんて俺にできるわけないじゃないか」 

 横島は百合子の目の前でずっと握っていた右拳を開く。
 そこにはルシオラの霊気片が握られていた。
 横島の悲痛な決意を感じた百合子は何も言えなくなってしまう。
 
 「大丈夫、心配しないで・・・俺の目にはこの世界はもう温かに映らないかもしれないけど・・・あの時やった選択が一生俺を苦しめるかもしれないけど、俺は俺で強く生きていくよ。だからあの4人には会えない・・・」

 横島は早足で部屋を出ると廊下側の窓枠へその体をくぐらせた。

 「時々帰ってくるから飯食わせてね・・・」

 自分を気遣った笑顔と台詞に百合子は涙を浮かべる。
 百合子には何処までも優しい自分の息子が救われなかったことが不憫でならなかった。

 「もちろんよ!ここはアンタの家だし、母さんと父さんはいつまで経ってもお前の親なんだからね」

 流れる涙は止められない。
 せめて旅立とうとする息子を百合子は元気に見送ってやりたかった。

 「ありがとう母さん。俺、父さんと母さんの子供で良かったよ・・・」

 横島はそう言い残すと窓の外へ身を躍らせていた。

 「忠夫!」

 去りゆく息子を見送ろうと百合子は急いで窓枠に走り寄った。







 瞬く間に3名に引き離されたおキヌは、占い師の言葉を信じ家の裏手へと急いでいる。
 視界の端では3名が鍵のかかっていない玄関のドアから中に飛び込んでいる所だった。
 おキヌが裏手への角を曲がるのと、横島が二階の窓から身を躍らせたのはほぼ同時だった。

 「横島さん!」

 予想外の至近距離から声をかけられ、慌てて振り向いた横島の胸におキヌは躊躇無く飛び込んでいった。
 体当たりにも似た抱擁を受け尻餅を着いた横島におキヌはそのまま馬乗りになる。

 「逃がしませんよ!」

 やろうと思えばはねのけられる拘束であったが、泣きじゃくるおキヌの姿に横島はその行為を躊躇った。

 「綺麗な服だね・・・・・」

 「誤魔化しは通用しません!」

 強い調子の台詞とは裏腹におキヌは笑顔を浮かべたまま泣き続けた。
 もう自分の感情がどんな状態にあるのかおキヌ本人にも分からなかった。

 「こんな所にいたのね!」

 「こっちでござったか!」

 「ナイスよおキヌちゃん!」

 おキヌの声を聞きつけ他の3名が集まってきた。
 途端に騒がしくなった裏庭を百合子は祈るような気持ちで見守っている。
 集まった3名はそれぞれが旅の間に考えていた横島への言葉を口にしようとした。

 「ダメッ!私が一番です!!!」

 それを一喝の元に沈黙させたのはおキヌだった。
 そのあまりの迫力に出遅れた3名は黙るしかなかった。
 おキヌは袖口で涙をぬぐうと大きく息を吸う。

 「横島さん!私、横島さんの事を愛してます!!!」

 あまりにストレートな愛の告白はこれだけで終わらなかった。

 「だから・・・一緒にルシオラさんの復活を目指しましょう!!」

 この事を口走ってから、おキヌは自分の言った言葉の別な意味に思い至り顔を赤らめる。
 おキヌの下では横島が表情を強張らせていた。

 「勘違いしないで下さい!私がルシオラさんを産むって訳じゃないんです!!まだ諦めるには早い、何か別な方法があるはずです!私バカだからよく分からないけど一生懸命考えますから・・・」

 おキヌの下で横島は驚いたような表情を浮かべる。
 自分自身どこか諦めかけていた可能性を、おキヌは再度追求すると言うのだった。

 「ごめんなさい、私、ルシオラさんが横島さんの子供になるってアイデアを聞いたとき少しホッとしたんです・・・卑怯ですよね。だから、そんな自分が我慢でき無くって・・・でも、私ずるい子なんです。自分の為にルシオラさんに復活して欲しい・・・不戦勝も不戦敗ももう沢山なんです。見苦しくっても情けなくってもいい、最後まで悪あがきさせて下さい!」

 おキヌは一気にまくし立てるとようやく横島の上から体をどかす。
 既に横島にはこの場から立ち去る気は無くなっていた。
 おキヌは横島の手を引き上体を起こさせると目の前にしゃがみ込む。

 「告白の返事は今すぐって訳じゃないです・・・ルシオラさんが復活してから。お願いです。一緒に頑張らせて下さい」

 これだけ言うと、おキヌはどこかスッキリした顔で後ろで待つ女たちに順番を譲る。
 順番を譲られた美神は心底悔しそうにたった一言だけ口にした。

 「い、以下同文!」

 「クッ、右に同じでござる!」

 「ミ、me too!」

 最後のタマモが微妙な英語を口にした瞬間、横島の目から大量の涙があふれ出す。
 自分を追いかけてきた4人はあくまでも甘く優しい世界に自分を引き戻すつもりらしい。
 右袖で涙を拭おうとした横島の目が微かな光を拳の中に捉える。

 「まさか・・・あ、ああああああ」

 右拳を開いた横島の目に淡い黄緑色の光が飛び込んでくる。
 宣戦布告してきた4人のライバルに応えるように、その光は点滅を繰り返していた。
 まるで望むところだと言っているかのように・・・・・
 光の点滅を目にし、その場にいた全員が大量の涙を流し始めた。
 その涙は、あの事件以来みんなの心に入り込んでしまった小さなかけらを徐々に溶かしはじめていた。





エピローグ


 美神除霊事務所

 「先生!令子ちゃんはいましたか?」

 駐車場に車を止め、ようやく事務所に顔を出した西条の質問に美智恵は力なく首を振った。

 「全く、こんな大切な情報が入ったというのに・・・」

 「いいのよ、あの子たちにはもう必要ないわ」

 美智恵の様子に首をかしげながら西条は応接セットの反対側に腰掛けた。

 「ねえ、西条君・・・雪の女王って知ってる?」

 「たしかアンデルセンの童話ですよね。子供の時に少し」

 「雪の女王って、実はゲルダと対決していないのよね・・・・・ゲルダは女王の不在中にカイを取り戻す。もし、雪の女王がその場にいたら、彼女はゲルダをどうしていたかしらね」

 「さあ、見当もつきませんが・・・・一体何の話ですか?」

 美智恵が百合子の行動に感じている尊敬にも似た感情を、母親になることはない西条には理解することができなかった。

 「令子とひのめが女の子で良かったってことよ・・・・西条君、ライター持ってる?」

 西条が胸ポケットから差し出したライターを受け取ると、美智恵はソファーから立ち上がり暖炉の前に移動する。

 「せ、先生!何をする気ですか!?」

 「御託はもう沢山!彼を心から慕う者にはこんなモノは必要ないの・・・・・私はゲルダにも雪の女王にもなれなかった」

 美智恵の手の中でレポートは一枚、一枚、念入りにライターの炎によって灰になっていく。







 ―――横島忠夫内部において人型の霊気構造の成長が確認されており、当初予想された
     魔族因子との融合が見られないことから・・・・・ 







 ―――現在の解離性同一性障害に似た症状は、横島忠夫内部で成長した人型部分の影響と
     考えられ・・・・・・・・







 ―――今回の心理分析の結果は、アシュタロス事件の精神的影響を抑えていた魔族因子の
     影響が低下していることに起因するものと考えられる。
     不安定な状態にある横島忠夫本来の心理が報告にあった魔族の死に対して・・・・・






 ―――将来的には成長した人型霊気構造と魔族因子の乖離がかなりの確率で起こることが
     予想される。これによって横島忠夫から魔族の霊気構造が離・・・・





 全てのレポートを燃やし終えると美智恵は火かき棒でレポートの灰を粉々にする。
 あの事件によって彼女の胸に入り込んだ欠片は未だ溶ける兆しを見せない。
 しかし、美智恵はこれから全力で彼らを取り巻く甘く優しい世界を守る決心を固めていた。
 それだけがナルニアにいる雪の女王に応える術だと美智恵は思っていた。



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