かの地は神の前に堕落し、悪しきものが満つることになりぬ
(創世記 6-11)
D is for Devil
高い山々に囲まれた奥地に在る妙神山には、空気が薄いためか肌に刺すような星の光がたなびく雲の間に間に降り注ぐ。
堅氷至る季節にはまだ半月ほどあるが、釣瓶のように陽が沈むとともに霜が降り始めた。
薄闇が辺りを覆い、羽音さえも聞こえぬ静寂が支配する中、鬼門は霜を踏む微かな音を聞いた。
「誰だっ!!」
詰問に返る答えはない。
だが、青い月の光に浮かぶ小柄な身体と特徴ある帽子の影は、それが誰であるか聞くまでもなかった。
「パ、パピリオッ!!」
「待て! 待たぬかっ!!」
「大変です! 小竜姫さまーーーっ!!」
しゃくしゃくと音を立てる霜の下道を走り、パピリオは一目散に駆け出していった。
小竜姫は畳敷きの居間に佇み、丸いちゃぶ台に肘をついたまま動かなかった。
傍に置かれた黒塗りの4号自動式卓上電話機は受話器が外れ、あらぬ姿勢で転がったままだった。
そんな折、鬼門の警報が急を告げる。
事の次第を察した小竜姫はすぐさま身を起こし、湯飲みの冷たくなって色の変わったお茶を一息に飲み干した。
そして、すぐに門へと駆けつけようとする小竜姫を、静かに呼び止める声があった。
いつもの人民服を着た斉天大聖老師が立っていた。
「どこへ行くのじゃ、小竜姫よ」
「パピリオが逃げました。すぐに連れ戻さなければなりません」
「放っておけい。今さら追いかけてもどうなるものでもあるまい」
「ですが、それではパピリオは―――」
身柄を拘禁せよとの命令だけなら、いかようにも交わして言い逃れする術はあるが、脱走となればそうはいかない。
自分の目が届く場所から離れてしまえば、これから何が起こるかわからないのだ。
「なんのかんのと言っても、やはりあやつは魔族じゃよ。己の本文を知るには頃合じゃろうて」
「―――老師はパピリオのことがお気に入りだと思っていましたが」
「お主はゲームの相手をしてくれぬでの。じゃが、それとこれとは話が別じゃよ」
よっこらしょ、と、さも疲れたかのように声に出して胡座をかいた。
小竜姫もちゃぶ台を挟み、正座をして居住まいを改める。
「堕落と誘惑が魔族の在り様の一つだとすれば、多少なりとも縁のある相手があったとしても不思議でなかろう?」
昔話のように話す老師の呟きを受けて、小竜姫ははっ、と気がついた。
そして、それに気がつかなかった自分の硬さに臍を噛む。
「―――パピリオにどんな入れ知恵されたのです?」
「なに、猿知恵というやつじゃよ」
老師はおもむろに袂から煙管を取り出し、小竜姫は黙って煙草盆を差し出した。
柔らかな手つきで刻を詰め、火をつける。
煙草を嗜まない小竜姫は、その手際を武芸か何かのように見つめていた。
「望むものを望めず、望まぬものを望むのが、ここに括られているお主の使命じゃ。神というのは往々にして不便なものじゃよ」
「―――元より、承知しています」
「ま、今生の別れというわけでもあるまい」
それには何も答えず、小竜姫は放り捨てられた電話機を手に取って元に戻した。
老師が悠々と煙草を吸い終わるまでの間、そのままじっと坐っていた。
最後の一服を終え、ぽん、と灰を捨てると、煙管の手入れもしようとせず盆を脇に除ける。
「小竜姫よ」
「―――はい」
「済まぬが、茶を一杯くれぬか」
「はい」
コップの中の嵐が温帯低気圧になった頃、それまで何も言わずにいた雪之丞が口を開いた。
「悪いが、俺は降りさせてもらうぜ」
「ゆ、雪之丞!?」
「困っている友達を見捨てるっていうの? そんな青春じゃないわっ!」
狭いソファに並んで詰め寄られてもうっとうしいだけだが、今さら席順に文句を言っても始まらない。
「俺はお前たちと違って高校生じゃないからな。青春だの何だのってやつには無縁なのさ」
「高校生だから青春ってわけじゃないわっ!!」
興奮のあまり、学校妖怪としての自分を否定してしまうような愛子の発言に雪之丞は苦笑いを浮かべるが、半ばそれを聞き流してベスパのほうを見つめる。
「アンタ、横島を狙う奴がいるって言っていたよな。一体、どんな奴なんだ?」
「そうだね―――」
ベスパは少し思案顔で答えを探す。
横島を狙う人物と言うのはあくまでも可能性であって、現時点では特定の人物がいるわけではないからだ。
「たしか、メドーサが復活したとか聞いたね。あいつなら間違いなく横島を狙おうとするんじゃないか?」
「なっ! アイツ、まだ生きてんのか!?」
あの時、文珠で消滅させたと思っていた相手が甦ったと聞いて、横島は少なからず動揺する。
数ある魔族の中でもメドーサが一番因縁が深く、また激しく恨んでいるに違いなかったからだ。
「ああ、そうだな。あの蛇女は相当執念深いからな。お前も寝首を掻かれないように気をつけろよ」
かつては自分の師匠だった魔族の性格を思い出し、励ますように横島の肩を軽く叩いた。
だが、すぐにベスパのほうに向き直る。
「だけど、メドーサなら横島を誘惑なんかしやしないだろ?」
確かめるように念を押す。
自分が魔装術を習っていた頃の、プロに徹していたメドーサならともかく、今のメドーサにあるのは横島に対する恨み、私怨しかないはずだ。
そのメドーサが横島に対して甘言、誘惑、篭絡などの面倒な手段をとるはずがない。
彼女の頭の中には殺すことしかない、雪之丞はそう断言してもいい自信があった。
「そ、そう言われると・・・」
きっぱりと決め付ける雪之丞の台詞に、ベスパは上手く反論することが出来ない。
実際、同じアシュタロスの部下とは言っても一緒に任務に着く事などなく、互いに顔と名前を知っているだけでどんな相手なのか知ることもなかった。
そのベスパの様を見て、雪之丞はしてやったりと笑う。
「他にもこいつを狙っている奴はいるかもしれないが、それが誰だかわからないんじゃ考えたって仕方がないだろ。そん時になってこいつが誘惑に負けるようなら殺せばいいじゃねぇか」
そん時は俺も混ぜろよ、と妙な要望を小声で横島に囁く。
だったら今助けてくれ、と横島はひそひそと囁き返すが、雪之丞はそれを無視した。
「だいたい、結局のところはこいつが誘惑に負けなきゃいいだけの話だからな。それはもう、俺らがどうこうする話じゃないさ」
「だけど雪之丞、人間の心が誘惑に負けないほど強くなるのは難しいよ?」
長い人生の間に、様々な転落や破滅を見聞きしてきたピートはそう呟く。
悪魔の介在がなかったとしても、心の安寧を計るのはそれほどまでに難しい。
「たぶん、大丈夫なんじゃねえか」
雪之丞は気楽な調子で太鼓判を押す。
「あのアシュタロスの誘惑にも勝ったんだから、俺は心配いらねえと思うんだけどな」
口では軽く流しているが、今でもあの時のことを思うと冷汗が出る。
本人はもうあまり意識していないようだが、あの時の横島の選択次第では自分はおろか、この世界自体が消滅してしまっていたのだ。
たとえ恋人の命が掛かっていなくとも、世界の命運を手にした時の暗い衝動に耐えることが自分に出来るのか、そう思うと身震いがするのだ。
予想通り静まり返ってしまった座を眺め、雪之丞はなおも話を続ける。
俺はまるで空気の読めない道化だな、そんな自分を馬鹿馬鹿しくも思うが、この場を開くには今が頃合だった。
「いずれにせよ、今日は蜂の姉ちゃんもどうこうするつもりもないだろうから、俺はフケさせてもらうぜ。明日も早いんでな」
そう言って、ひょいと客のいなくなった後ろのソファを跨ぎ、テーブルをガタガタといわせて通路に出る。
帰しな愛子の本体に坐ったまま考え込むベスパの肩を叩き、じゃあな、と言って出て行った。
あるいは、ベスパが檄昂して襲い掛かってきても文句を言うつもりはなかったのだが、そうはならなかった。
うやむやのうちに、なんとなく座が白け、誰が言うでもなく今日はお開きとなった。
ファーストフード店で腰が据わっちゃったので困っていたのですが、とりあえずこれで外へ行ってもらうことが出来ました。
なんちゅうかもう、舞台劇のようなイメージで書いちゃっているので、みんな座ったままで動きが無くて・・・
妙神山のほうはもう少し晩秋の寒々とした雰囲気が出せればよかったのですが、意外に描写の仕様が無くて困りました。
それでも、寂しい感じは出せたかな、と思っています。 (赤蛇)
今回は目立っていたのでA評価です。
パピリオも動き出したようですし、これからの急展開に期待。 (鷹巳)
やっぱり、こういう長い回しで台詞を喋らせるのは、なんといっても雪之丞が似合います。
もう少しべらんめぇな口調の方が良かったかな、とも思いましたが、こんな感じでいかがでしょうか。
さてさて、次回でこの短編も終りです。
うまく落とせたかなぁ、と心配なんですけどね。 (赤蛇)