椎名作品二次創作小説投稿広場


ツンデレラ

エンゼルとグレてる


投稿者名:UG
投稿日時:05/11/14

 病院の一室
 夫婦と呼ぶにはあまりに異質な二人がベッドの前で見つめ合っていた。

 「覚悟はできた?」

 女は手に持った薬瓶を目の前に持ち上げる。
 その瓶をみて男は顔色を変えたが、頭部と顔面を覆う鉄仮面のために外側からはそれをうかがい知ることはできない。
 しかし、女は天性の洞察力と夫婦の絆によって男の躊躇を見抜いていた。

 「あなたがしっかりしないと、計画はすべて失敗するのよ」

 「しかし・・・令子の事を考えると」

 仮面の男・公彦の言葉は妻である美智恵の抱擁によって遮られた。

 「私が・・・気にしていないと思っているの・・・・・・でも、これには人類の運命がかかっているのよ」

 「中学生の女の子が、そんなモノを背負えるわけないだろう!」

 公彦は美智恵の体を剥がそうとする。
 しかし、痛いぐらいに二の腕に食い込んだ美智恵の指先がそれを許さなかった。
 来るべき未来、人類の危機を自分の娘とその仲間たちが救う。
 そのために妻は死を偽装しなければならないらしい。
 美智恵の言葉を全面的に信頼している公彦だが、独り残される令子があまりにも不憫だった。

 「5年我慢して・・・・・・」

 その台詞が自分に向けられたものなのか、それとも娘に向けられたものなのか公彦には分からなかった。

 「5年経てばあの子と出会える・・・それまでは寂しい思いをさせるけど・・・・」

 「・・・一つだけ教えてくれないか?」

 公彦は美智恵の独白を遮った。
 不確定要素をこれ以上増やさないために、公彦は具体的な未来像は聞かされていない。
 たった一つ、最後まで心にかかっていた事を公彦は口にした。

 「君の目から見て、令子は幸せだったんだね?」

 「ええ・・・でも、もっと幸せになるには昔の私みたいに素直にならなくちゃダメだけどね」

 この答えに公彦は覚悟を決めた。
 自分の娘も美神の女なのだ。自分の運命は自分で切り開く事だろう。

 「分かったよ・・・多分、壮絶に嫌われるだろうけどそれが父親の仕事なんだろうね」

 「絶対に、仮面を外しちゃだめよ。あなたはヒトの心を読めるけど、その分すぐ顔に出ちゃうんだから・・・令子は私に似て鋭いから・・・」

 覚悟を決めた筈の美智恵の目には涙が浮かんでいた。
 公彦はハンカチを取り出すとそっとその涙を拭き取る。
 一緒に過ごした時間は皆無に等しいが、美智恵がどれだけの愛情を娘に注いで来たのかは理解しているつもりだった。
 数秒間無言で見つめ合う二人、美智恵は薬瓶の中身を一気に飲み干しかりそめの死を迎える。
 公彦はその体をベッドに寝かしつけると一世一代の芝居に取りかかった。





エンゼルとグレてる





 けたたましいベルの音に美神は意識を覚醒させた。
 セットした覚えのない目覚ましに手を伸ばすが一向にベルは鳴り止まない。
 そのまま数秒が経過し美神はその音が電話の呼び出し音であることに気がついた。
 数回の呼び出し音の後、それは留守番機能に切り替わり相手の用件を録音し始める。
 美神は気怠そうにベッドから抜け出すと、長期欠席を気にする担任からのメッセージを削除した。
 美智恵の死から既に10日が経過している。
 未だに美智恵の死を引きずる美神は学校へ行く気にはならなかった。
 自分との同居を強く勧めた公彦の申し出を固辞し、美神は美智恵との思い出が残るマンションで独り暮らしを始めている。

 ―――吾妻さん、あなたはママの夫かも知れないけど私の父親ではないのよ。

 その時の台詞は微かな後悔と共に美神の心に張り付いていた。


 洗面所へ行き涙で腫れた瞼を庇いながら顔を冷水で洗う。
 本来は化粧を必要としない十代の肌であったが、ここ数日の不摂生な生活のため顔色が悪く目の下には隈ができている。
 食事をロクにとっていないためか頬が痩けていた。

 「・・・酷い顔・・・何か食べなきゃ」

 鏡の中の自分が酷く美智恵に心配をかけている気がしていた。
 美神はのろのろとキッチンへ向かう。
 冷蔵庫を開けると既にいくつかの食材が賞味期限を過ぎている事に気付く。
 美智恵の葬儀の後、公彦が買いそろえた食材のいくつかを美神は無言でゴミ箱に捨てていった。
 冷蔵庫の中で固くなったパンとジャムを取り出し美神は独りテーブルに着く。
 ジャムは美智恵が生前作り置きしたものだった。

 「これもそろそろ無くなっちゃうわね・・・」

 美神はここ数日これしか口にしていなかった。
 冷蔵庫の中に残された美智恵の手料理を美神は少しずつ消費している。
 正確にはそれ以外は喉を通らない状態が続いていた。
 料理らしきものは既に無く、瓶の底に数センチ残ったジャムだけが美神が味わえる美智恵の味であった。
 美神は固くなったパンを一口かじる。
 弱った胃が受け付けないそれを、美智恵の作ったものを無駄にしたくない一心で無理矢理飲み込んだ。

 「寂しいよ・・・ママ」

 堪らない孤独感に美神はテーブルに突っ伏す。
 葬儀以来、美神は世間との関わりを絶つように一度も外出をしていない。
 それどころか、テレビや新聞にも目を通していなかった。
 自分にとってかけがえのない存在だった美智恵の死。
 その死とは全く関係なく流れていく世の中に美神は違和感を感じていた。
 堪らなく悲しい自分と、それとは無関係に時を刻んでいく周囲の人々。
 美神はこの世の中と自分が全く無関係であるかのように感じている。
 それは怒りともいえる感情だった。

 「ママが死んだのにみんな何で平気なの・・・・」

 外から聞こえてくる楽しげな子供の声が美神の神経を逆なでする。
 周囲に対する怒りが理不尽なものである事に美神は気付いていなかった。
 母親を呼ぶ子供の声に耐えかねたように美神は席を立つ。

 「アンタたちが私やママと無関係だというのなら・・・・」

 美神は化粧台の前に移動すると背中まで伸ばしていた髪を首筋でひとまとめにする。

 ―――令子の髪は私に似たのね

 美智恵の言葉が思い出される。
 美神は美智恵に髪を梳かされるのが好きだった。
 自分に感謝するよう笑いながら、上機嫌で美神の髪にブラシを入れる美智恵。
 しかし、もう二度と美智恵が美神の髪を梳かす事はない。
 美神はハサミを手にすると、自慢だった母親似の髪へ刃先を滑り込ませる。

 「・・・・・私もアンタたちを否定してやる」

 刃先の閉じる音と同時に裁断された髪が床に落ちる。
 鏡に映る美神の目には、世の中の全てに対する敵意の炎が揺らめいていた。
 周囲に対する敵意。それだけが美神に生きる力を与えていた。












 美智恵の死から1ヶ月
 美神の心は未だに凍てついたままだった。

 「美神ぃ!面かしな!!」

 ヤニ臭い息を間近に感じ美神は不快な表情を隠さない。
 下校途中の美神を取り囲んだ3名は見るからに如何にもという人種だった。
 踝までのスカートと安い化粧、つぶれた革鞄にはアイドルの名前が書かれたラメのステッカーが貼られている。
 後ろに立っている取り巻きの鞄に”FACK”という落書きを認め、美神の唇が冷たい笑いの形をとった。

 「オメぇ、最近、態度でかいんだよ!」

 冷笑を挑発ととったのか、リーダー格らしき女生徒が美神の胸ぐらをつかもうとする。
 その手を擦らせもせず、美神は体を入れ替えると女生徒の髪を掴み顔面からジュースの自販機に激突させた。
 美神は無言のまま、苦痛の呻きをあげる女生徒を二度、三度と自販機に打ち付ける。
 アクリルのディスプレイに女生徒の鼻血が打ち付けた回数だけ染みを残した。

 「やめてくれよぉ!美神」

 二人の取り巻きのうち、美神と同じクラスの女生徒が泣きながら止めに入る。
 この生徒とは二、三回は口を利いたことがあった。

 「何の用?」

 美神は静かに問いかけるとようやく握ったままの女生徒の髪を解放する。
 涙と鼻血で顔をグシャグシャにした女生徒は怯えたようにその場にへたり込んだ。

 「この先の駐車場でセンパイが待ってるんだ・・・お前目立ち過ぎちゃったんだよ」

 女生徒の母親が持たせたものだろう。
 仲間の鼻血を拭いてやるハンカチの白さが妙に目に付いた。
 美神は唇を軽く咬むとそのハンカチから視線をそらす。

 「案内して」

 美神はこの二人をその場に残し、黙って事の成り行きを見ていた最後の一人に声をかける。
 何も考えずただ周りに流されるだけの存在らしく、その生徒は先程の光景にすっかりすくみ上がっていた。
 立ちすくんでいるその生徒の脛を蹴飛ばし雑居ビルの地下駐車場まで案内させる。
 静かな怒りが美神の腹腔内で鈍い疼きを発していた。





 地下駐車場はタバコの煙と有機溶剤の臭いが充満していた。
 あちこちに散乱するスタミナドリンクの空き瓶がたやすく有機溶剤の目的を連想させる。
 再開発でテナントが撤退した雑居ビルの地下駐車場は、質の悪い人間のたまり場となっていた。

 「センパイ、アイツが美神です」

 美神が駐車場に姿を見せた途端、知った顔が原付にまたがった女に声をかける。
 知った顔は先ほど鼻をつぶした女生徒と連んでいる同学年の生徒だった。
 原付に乗っている女の方にも見覚えがある。
 同じ中学の卒業生で、高校をすぐに退学し中学の後輩としか連めない哀れなヤツだった。
 大方、後輩の愚痴を聞き良いところでも見せようという魂胆なのだろう。

 「随分と、スカしたヤツだね」

 「・・・・・・・」

 女の言葉に美神は応える気は無かった。
 降りかかる火の粉に聞かせる言葉は無い。
 ただ全力で振り払うだけだった。
 女は怒った様子もなく下卑た笑いを浮かべる。

 「謝りゃ許してやろうと思ったんだけどね・・・輪姦されてもスカしてられるかね」

 女の言葉と同時に物陰から3人の男が飛び出し美神を取り囲む。
 そこまでの事態になるとは考えていなかったのだろう。
 事の成り行きに美神より同学年の生徒の方が顔を青ざめさせた。

 「センパイ、そこまでは・・・・」

 躊躇した後輩を無視し、女は集めておいた男たちに思いっきりヤルよう声をかける。
 3人のニキビ面は好色そうな笑みを浮かべた。

 「コイツ親がいないんだろ!大丈夫だって」

 男の一人が美神の足を狙いタックルをしかける。
 その慣れた動きに、他にも被害者がいることを悟った美神は氷のような殺気を身に纏った。

 ビジッ!

 タックルの姿勢に入った男の鼻軟骨が、カウンターとして打ち込まれた美神の膝によって潰れる。
 死に体になった男の手を振り切り美神は素早く周囲に目を走らせた。
 ほぼ同じタイミングで自分を抱きすくめようとした背後の男に軽く開いた手で目打ちを食らわす。
 目打ちにしたのは失明しないよう気遣ったのではなく単に確率の問題だった。
 男の眼窩に指先をねじ込む事に美神は別段禁忌を感じていない。
 視力を奪われ無防備になった股間を容赦なく蹴り上げられ、男は白目をむくとその場に崩れ落ちた。
 予期せぬ反撃に棒立ちになった最後の男は股間蹴りの後、美神の掌底で顎を打ち抜かれ意識を失った。
 この間、僅か3秒。
 起きあがろうとしたタックル男の股間を蹴り潰すと美神の足下で動くものはいなくなっていた。
 外傷的なダメージもさることながら今の攻撃には霊力を思いっきり乗せてある。
 霊体を損傷させた3名はこれからしばらくの間、様々な霊障に悩まされる筈だった。


 美神は首謀者である原付女のもとにゆっくりと歩み寄った。
 この手のヤツは後々面倒な事にならない様に潰せるうちに潰しておかなければならない。
 このような事態を想定していたかどうかは定かではないが美智恵の教えの一つだった。

 「勘弁して下さいよ。センパイ」

 口から出た台詞とは正反対に美神の右拳が女の顔面に吸い込まれる。
 それは強かに女の鼻筋を打ち抜き、一切の抵抗の意思を女から奪い取った。
 原付から転げ落ちた女を軽く蹴り続けながら美神はいたぶるように壁際に追いつめていく。
 首謀者のこの女はすぐに楽にするつもりはなかった。

 「何とかいって下さいよ」

 美神の蹴りに押され後頭部が壁にぶつかるが気を失う程の衝撃はない。
 ギリギリの所での手加減は恐怖感を与えるためであり、相手を気遣ったものではなかった。
 涙と鼻血でくしゃくしゃになった女の下腹部を強く踏みつけると、一目で偽物と分かるシャネルのロゴ入りのスエットに染みが広がる。
 周囲に立ちこめるアンモニア臭から女が失禁してしまった事が窺えた。
 美神は女の髪を掴み顔を上げさせると自分と目を合わさせる。

 「親がいないんで不安なんですよ・・・自分がどうなっちゃうか分からないんで」

 女は視線を合わせようとせず震えている。
 完全に女の精神が折れたことを美神は理解していた。
 この女が今後自分と関係を持つことは無いだろうが、親のいない弱みにつけ込もうとしたこの女を許すつもりはない。
 美神は腕に力と霊力を込める。後頭部から壁に打ち付けるつもりだった。
 障害が残る程の怪我となるだろうが自業自得だ。
 結果、自分も補導されるがどうでも良いことだと美神は考えていた。

 『おねーちゃーん』

 何処からか聞こえてきた女の子の泣き声に美神は気をそらせた。
 周囲を見回すが殺伐とした景色の中に声の主は見あたらない。
 美神は再び女に視線を戻すが、一度切れた殺気はこれからの行動をどうでも良く感じさせていた。
 途絶えた美神の殺気にようやく口がきけるようになった女は譫言のように詫びの言葉を口にし始める。
 その情けない様子に美神は全てが馬鹿らしくなっていた。
 一刻も早くこの場を立ち去りたくなった美神の目に女の乗ってきた原付が目に付く。

 「アレ下さいよセンパイ」

 美神が顎で原付を指し示すと女は躊躇無く首を縦に振った。
 これ以上痛い思いをせずにこの場を切り抜けるのが先決だった。
 原付くらい直ぐに次のモノを親に買わせればよい。
 これからは真面目になると言いさえすれば、親などは簡単に騙せると女は思っていた。
 そんな心の動きが分かったのか美神に再び怒りの感情がわき起こる。

 「何かお礼をしなきゃね・・・」

 美神は霊力を込めた拳に渾身の力をこめて女の顔面を打ち抜いた。
 再び加えられた衝撃に女の鼻軟骨は完全に砕けたようだった。

 「良かったわね、整形手術を受ける言い訳ができて」

 美神の捨て台詞は意識を失った女には届いていなかった。
 そのまま原付にまたがりエンジンをかけると自分を呼び出そうとした同学年の生徒を一瞥する。
 口封じなどは意図していなかったが、自分と視線を合わせないところを見るとこれ以上自分に関わる気は無いようだった。
 変な言い訳をされる前に美神はアクセルを開く。
 15歳の美神は恐喝したバイクで走り出した。




 風を切る感覚に、美神は溜まった怒りが徐々に後方へ溶け出すのを感じている。
 普段見慣れた町並が後方へ素早く流れるのは爽快だった。
 アクセルを開き更に速度を速めようとしたが、前方を走る大型トラックが蛇行を繰り返しそれを許さない。
 微かな苛立ちを覚えた美神は、トラックが大きくふくらんだ隙をつき一気に追い越しにかかった。

 『おねーちゃーん』

 先程と同じ声に美神は意識を周囲に走らす。
 アクセルを緩め、ミラーを素早く確認するが先程と同じで女の子の姿は見えなかった。
 原付が速度を落としたのとほぼ同時に、大型トラックは急に方向を変え美神が追い抜こうとしたスペースを狭めていく。
 居眠り運転だったのか、そのまま進行方向を乱した大型トラックは路肩に乗り上げガードレールを巻き込みながら電柱に激突した。

 「!」

 急ブレーキに原付の後輪が流れる。
 前もってアクセルを緩めていなければ完全に巻き込まれているタイミング。
 アドレナリンの効果か美神の目には周囲の景色がスローモーションの様に映っていた。
 徐々に近づいて来るトラックの後部。
 近づいてくるトラックの向こうで電線の抵抗を受けながら傾き始める電柱。
 その軌道上に立ちすくむ母親に連れられた小さな女の子。

 『おねーちゃーん』

 先程の声が再び聞こえる。
 しかし、その声を意識せず美神はわざと原付を転倒させた。
 トラックに向かう慣性を歩道方向に僅かにずらし、受け身の要領で勢いを殺しつつ姿勢を立ち上がらせる。
 僅かに残る慣性を利用しガードレールを飛び越えた瞬間、トラックに衝突する原付の音が聞こえた。

 「危ない!」

 美神はそのままの勢いで電柱の下敷きになろうとしている母娘の元に走り込み、娘を庇うように抱いた母親を安全な方向へ突き飛ばす。
 街路樹の植え込みの中に娘を抱いた母親が飛び込むのと、それまで母娘がいた場所に電柱が倒れ込んだのとはほぼ同時だった。

 「よかった・・・間に合っ」

 自身も間一髪で電柱をかわした美神がホッとしたのもつかの間、遅れて地面に落ちてきた切れた電線が鞭のように暴れながら美神の上に落ちてくる。
 回避しようとした美神だったが既に間に合うタイミングでは無かった。

 『おねーちゃーん』

 再び美神の耳に少女の声が届く。
 その瞬間、美神は高圧の電流に打たれ意識を失った。










 事の起こりは一陣の風だった。
 幼稚園の遠足でピクニックに来ていたひのめは、僅かばかり道から外れた所にある花を手折ろうと列から外れた。
 既に同様の行為を重ねていたのか彼女の両手には結構な数の花が抱えられ、その行為に彼女が時を忘れそうになると引率の教員がやんわりと注意し彼女を列に戻す。
 30分ほど前から繰り返されてきた光景だったが、引率の教員もひのめが花を摘む理由を理解しているため別段それを咎める様子はない。
 母親から作り方を習ったというシロツメクサの花の冠を被ったその姿は天使のような愛らしさだった。
 しかし、遊歩道沿いに一陣の風が走り抜けたとき状況は一変する。
 夢中で花を摘んでいたひのめが列に戻った時、周囲に人影は無くなっていた。

 「せんせー、りえちゃーん」

 ひのめは大きな声で教師や友人たちの名を呼んだが反応は無かった。
 置いて行かれた事を理解したひのめは、いそいでもと来た方とは反対側へ走り出す。

 「みんなーどこなのー?」

 しばらく走っても皆の姿は無かった。
 茂みから飛び立つ鳥の羽音に驚いたひのめは背中を竦ませる。
 一つの驚きが呼び水となり、次々に不安な考えがひのめの頭をよぎった。

 「おかーさーん」

 堰を切ったように泣き出したひのめは当てもなく先へ歩き出す。
 ひのめの不安は既に限界に達していた。

 「おねーちゃーん」

 母と姉を交互に呼びながらひのめは彷徨い続ける。
 年の離れた姉はひのめにとって最も影響力のある存在だった。
 姉のことが大好きなひのめは、いつしか母親よりも姉の方に助けを求めている。

 「おねーちゃーん」

 「おねーちゃーん」

 「おねーちゃーん」

 何度目かの呼びかけと同時に、それまで晴れ渡っていた空に雷鳴が轟く。
 ひのめから僅かに離れた立木に小規模の雷が落ち枝の一本が発火した。

 「おねぇちゃん!!」

 その根元に現れた人影にひのめは歓喜の声を上げた。
 火の手をさほど気にせず、髪を無造作に切りそろえたセーラー服姿の少女のもとに走り出す。
 その少女の姿が透けていることにひのめはすぐには気がつかなかった。




 「おねぇちゃん!」

 呼びかける声に美神の意識が徐々に覚醒する。
 薄目をあけると、白い輪を頭に乗せた子供が自分をのぞき込んでいるのがぼんやりと見えた。

 ―――天使?

 先程までの事故のイメージがよみがえり美神は慌てて体を起こした。

 「やっぱり、おねぇちゃんだー!」

 ひのめは満面の笑顔で美神に飛びつく。
 しかし、その体は美神の体をすり抜け、全ての枝が炎をあげて燃えさかっている立木にぶつかってしまう。
 その事で美神は自分の体が霊体となっている事に気がついた。

 「おかーさーん!おねーちゃんがいじわるするー!」

 炎が燃え移っていない幹の部分に頭をぶつけ、涙目になったひのめが抗議の声をあげる。
 子供とは言え、山火事に発展しかねない現場にいるとはとても思えない態度だった。

 「アンタ、そんな所にいると火傷するわよ!」

 頭上では立木の枝が燃え上がり今にも焼け崩れそうだった。
 ひのめの手を掴もうと手を伸ばしかけた美神だったが、自分が霊体であることを思い出しその手を引っ込める。
 その仕草に一瞬悲しそうな表情を浮かべたひのめは、左手首に巻き付けた発火能力封じのアクセサリーを外した。

 「みんなーしずかにしなさーい!」

 ひのめが燃えさかる炎に掌をかざすと燃え上がっていた炎は瞬く間に消え失せ後には炭化した枝のみが残された。
 驚いた表情の美神を不思議そうに眺めると、ひのめは落ちていた枝を拾い上げその先端に火をつけたり消したりしてみせる。

 「アンタ、発火能力者だったの?」

 「おねーちゃん、わすれちゃったのー?火はわたしのトモダチだよー」

 ひのめは不満と自慢が入り交じった表情で左腕にアクセサリーをもどす。
 このアクセサリーは能力の暴走防止に彼女の姉がプレゼントした物だった。

 「きおくそーしつになっちゃったの?それにユーレーみたいにすけてるしー」

 「私にもわからないわ。事故にあったのは確かだから、死んだのか、ただの幽体離脱か・・・別にどっちでもいいけどね」

 自棄気味に答えたのは紛れもない本心だった。
 今の美神には自分のやりたいこと、求めるものが見えていない。
 美智恵の死というあまりに大きな喪失は美神を人生の迷い子にしていたのだった。

 「おねーちゃん!死んじゃいやだー!!」

 ひのめは美神にすがりつこうとして再びすり抜けてしまう。
 同じように立木の幹におでこをぶつけ涙目になったひのめは美神に抗議の視線を送った。

 「アンタ学習能力がないわねー。第一、私はアンタのお姉さんなんかじゃないわ!」

 「おねーちゃんのいじわる!おかーさんにいいつけてやる!!」

 子供の言葉とはいえ、今の美神に母親の話題は禁句だった。

 「・・・勝手にすれば!」

 ひのめにもはっきり分かる程の怒りを漂わせ美神はその場を立ち去ろうとした。
 しかし、美神の歩みはひのめから数メートル離れたところで空回りしてしまう。
 自分の存在がひのめに括られていることを理解し、美神は大きくため息をつくとひのめの方を振り返った。

 「おねぇちゃん、おこったの?」

 心配そうに自分を見上げるひのめを見て、美神は諦めたように肩の力を抜いた。

 「怒ってなんかいないわ」

 この言葉を聞き、ひのめは安心したように笑顔を見せた。
 美神はひのめの前にしゃがみ込むと目線をひのめの高さに合わせる。

 「でもね、私はアンタのお姉さんじゃないの。だって、私のママは死んじゃったんだから・・・・」

 「おかーさんは死んでないよ!」

 「そうね・・・・本当にそうならばどんなにいいか。それよりアンタは何でこんな所に独りでいるの?」

 美神は噛み合わない会話を打ち切り、ひのめに自分が括られている理由を調べ始めた。

 「お花をつんでたらみんないなくなっちゃったの!」

 先程まで泣き叫んでいた事が嘘のように、ひのめは笑顔混じりでみんなとはぐれた時の状況を説明する。
 もっとも信頼する姉が側にいることでひのめは安心しきっていた。

 「無責任な引率者ねー。じゃぁ、アンタを無事に人がいるところまで届ければ良いわけね」

 霊力に目覚めて間もない者が自身の危機を助けて貰うために他の霊体を括ってしまうことは珍しい事ではない。
 肝心なのは括った霊体が悪霊とならないうちに解放することと、無意識にそのような事態を起こさないよう訓練をうける事だった。
 美神は目の前の少女が霊能力者としての訓練を受けていないと考え、一刻も早く少女の危機を解決する道を選んだ。

 「ちがうよ!みんなをたすけにいくの!おねーちゃんはせいぎのみかたでしょ!!」

 あまりにも子供じみた発想に美神は苦笑をうかべた。
 自分にもこのような時代があったのか美神は真剣に疑問に思う。
 美神がそう思うほど、目の前の少女の瞳には正義の炎が燃え上がっていた。

 「アンタ、よっぽど大切に育てられたのね・・・多分、まわりのみんなにはアンタがエンゼルに見えるんでしょう。独りぼっちでグレてる私とは大違い」

 「ちがうよ!おねーちゃんにも、せいぎのなかまがたくさんいるよ!!それに、おにーちゃんとか!」

 ひのめの言葉に美神は更に苦笑を深めた。

 「ますます、私はアンタのお姉さんじゃないわね。私なら他人の為に何かするなんて考えられないし・・・」

 「ちがうもん!おねーちゃんはせいぎのみかただもん!」

 「ハイハイ、で、どうすりゃいいの?」

 美神は一刻も早くこの子供から解放されたいと思っていた。
 自分は独りだと思っている美神には、むき出しの信頼を寄せてくるひのめは眩しすぎたのだった。

 「みんながいなくなったとこまでもどるの!」

 「で、そこはどこなの?」

 自分があてもなく彷徨っていたことを思い出し、ひのめの表情が途端に曇り始めた。
 涙を浮かべ始めたひのめの姿に、流石に可哀想に思ったのか美神は紅葉のようなその手に自分の手を重ねる。
 意識を集中しさえすれば軽微なモノを動かすくらいの密度を美神の霊体は持ち合わせていた。

 「驚いた?私も霊能力者なのよ!」

 「しってるよ!おねーちゃんはゴーストスイーパーだからね」

 亡き母親の職業を口にされ戸惑いの表情を浮かべる美神。
 ひのめはその表情に気付かず、自分と手を繋いでくれた美神にひのめは満面の笑みを浮かべた。
 しかし、すぐにその笑みを曇らせ顔向けできないとばかりにうつむいてしまう。

 「おねーちゃん、ごめんね。わたしまいごになっちゃったの・・・」

 「気にすることないわよ、アンタの来た道なら多分わかるから」

 ひのめの手を握りながら美神は確信をもって道を歩き始める。
 二人の歩く先にはまるで目印のように、迷子のひのめが落とした花が一本、また一本と道の向こうへと続いていた。






 「ここで目印は途切れてるわね。ここでみんなとはぐれたの?」

 美神の問いにひのめは大きく肯いた。
 その両手には拾い集めた花が大切そうに抱えられている。
 美神はその姿に先程から疑問に思っていた事を口にした。

 「そう言えば、アンタ何でそんなにたくさんの花を摘んだのよ?」

 「おねーちゃんにあげるの!あした、にゅーいんするんだって!!」

 ひのめの言葉に、美智恵が息を引き取った病室の景色を思い出し美神は表情を曇らせる。

 「アンタのお姉さん病気なの?」

 「ちがうよ!おねーちゃんは・・・・・」

 沈鬱な美神の表情に笑顔で答えようとしたひのめは、最後までその言葉を発することができなかった。
 先程と同じように遊歩道を一陣の風が吹き抜け、その空気を吸ったひのめの目から精気が失われる。

 「・・・おかしのおうちだー」

 どの様な幻を見ているのか手に持った花束を足下に落とし、ひのめは夢遊病患者のように歩き始めた。

 「ちょっと!何があったって言うの!?」

 ひのめの豹変ぶりに美神は慌てたようにその後を追い始める。
 風は実態を伴わない彼女には影響していなかったが、括られている以上美神にひのめの後を追う以外の選択肢は無かった。

 「なに?この道は!?天然の結界じゃない!!」

 ひのめはふらふらと道を外れ茂みの中を突き進みながら斜面をくだっていく。
 美神はひのめが歩む斜面が巧妙に周囲から隠されていることに気付いていた。

 「ちょっと!!アンタ、危険よ!止まりなさい!!」

 美神は必死にひのめの歩みを止めようとするが、実態がないせいで物理的は力は殆ど発揮できない。
 ひのめを止めようと努力を続けるが空しく引きずられるだけだった。
 引きずられるままに茂みを抜け、少し開けた場所に出た美神は周囲の光景に驚きの声を上げる。

 「何なの?コレは?」

 森の中に突然現れた空間の中央には巨大なキノコの様な物体が生えていた。
 そして、その周囲に倒れ込んだ幼稚園児と引率の教員はキノコの胞子体から舞い落ちる胞子を全身に浴びている。
 最も胞子体に近い地面にある白骨化した動物の死体に、美神はみんなの運命を想像し背筋を凍らせた。

 「ヤバイわよ!そのまま進んじゃダメ!!」

 「おねえちゃんもたべなー。このドア、チョコでできてるよー」

 先程の風に獲物を引き寄せる幻覚物質が含まれているのだろう。
 幻に魅せられたひのめは自らキノコの栄養源となるべく、一歩、また一歩と制止する美神を引きずりながら胞子体の根元に歩み寄っていく。
 前に呼び寄せられた子供たちのように意識を失ったら一巻の終わりだった。

 「マズイ!こうなったら!!」

 美神は咄嗟の判断で、ひのめの左手首から発火能力抑制のアクセサリーを外す。
 その瞬間、無意識のまま防衛本能が働きひのめの体内に侵入した異物を全て燃やし尽くした。

 「コホッ!」

 煙を吸い込んだようにひのめは軽く咽せると、夢から覚めたように周囲の光景を見回す。

 「あれっ?おねーちゃん、おかしのおうちは?」

 「アンタ、ナニ寝ぼけてんのよ!マジでヤバイ所だったのよ!!」

 完全に窮地を脱した訳ではない。
 美神の表情は引き締まったままだった。
 ひのめは美神が指さす方向に視線を向け教師や友人たちが危機に陥っていることに気付く。
 敵も獲物の催眠が解けたことを察したのか、撒かれた大量の胞子が風に乗りひのめの方へ向かってきた。

 「早く燃やして!急いで!!」

 美神の指示にひのめは意識を前方の空間に集中する。
 物理的な発火現象ではないのか、粉塵爆発を起こさずに空気中の胞子は一斉に燃え尽きた。

 「その調子!次はみんなの上に撒かれた胞子を始末するわよ!」

 「え、でも・・・」

 みんなの体に火傷を負わさずに胞子のみを燃やし尽くすには超人的な集中力を必要とする。
 ひのめにはそこまで炎を扱う自信が無かった。

 「アンタは正義の味方の妹なんでしょ!私も手伝ってあげるからしっかりしなさい!!」

 背後から両肩を支えられひのめの体が安定する。
 そして、そこから流れ込む霊気は紛れもなく彼女の姉・美神令子のものだった。

 「やっぱり、おねぇちゃんだ・・・・」

 ひのめは浮かべた安堵の表情を引き締めると前方の胞子体を睨み付ける。

 「ごくらくにいかせてあげるわ!」

 本当は意味が良く分からない姉譲りの台詞を口にし、ひのめの霊力が極限まで高まる。
 背後の美神はその霊力が暴走しないようしっかりと支え続けた。








 白い鴨の絵が描いてあるバスがそろそろ傾き始めた日差しの中を走っている。

 「みんなーお家に帰るまでが遠足ですよー」

 そろそろ解散場所が近いのか、引率の教員が車内に忘れ物をしないよう注意を呼びかける。
 素直に返事をするみんなに混じって、ひのめは大切そうに摘んだ花を胸に抱いた。

 「ったく・・・なんでピンチが去ったのに解放されないのよ」

 一番後ろの席に座ったひのめの前に立ち、美神はいまだに解放されない自分の身を呪っている。
 みんなには美神の姿が見えないらしく、美神の独り言にひのめは周囲に気付かれないよう小さな声で答えた。

 「せんせーもいってるでしょう!おうちにかえるまでがえんそくなの!」

 この言葉に力なく笑うと美神は天を仰いだ。
 ひのめの活躍により謎のキノコは胞子を含め全て消滅させられている。
 今回の事件は何一つ問題なく解決した筈だった。
 意識を取り戻した教員は今回の事件を集団お昼寝事件と銘打ち、自分たちが生命の危機に瀕していたことなど誰一人気付かないまま家路を目指している。
 角を2回ほど曲がるとバスの前方に出迎えの保護者らしい集団が見えた。

 「アンタのお母さんって何処にいるの?」

 バスの窓から自分の親を捜す子供たちに混ざり美神はひのめの母親を捜す。
 美神は自分のことを姉と呼び続ける少女の親に多少の関心があった。

 「んー、きょうはこないみたい。そのかわりおにいちゃんがきてくれた!」

 姉の次に好きな大人の姿を発見し、ひのめは赤いバンダナを巻いた青年に窓越しに大きく手を振る。
 その青年は美神の姿を認め驚いたような表情を浮かべていた。

 「せんせーさようなら、みなさんさようなら!」

 バスの中でお別れの挨拶を済ますと、後続の車に迷惑をかけないよう前の席の子から次々と家路についていく。
 ようやくひのめの番となった時には職員と二人の園児しか残っていなかった。

 「おにいちゃんただいまー」

 元気にバスから降りたひのめにバンダナの青年が走り寄ってくる。
 しかし、その青年はひのめの横を素通りすると彼女の背後にいた美神にいきなり抱きついていた。

 「出会った頃のイケイケもいいけど、この斜に構えた雰囲気も可愛いぞー」

 「何なの!アンタはっ!!」

 霊体である自分を完全に抱きしめられ、驚いた美神は咄嗟に男の頬を張り飛ばす。

 「はっ!俺としたことがあまりの可愛さに我を忘れて・・・」

 周囲の教員の目には、何もない空間に欲情した男の頬が赤く掌の形に色づいたように見えた。
 そんな奇異な光景も、ひのめの入園式で若い教員全員をナンパするという伝説を作ったこの男ならばとあっさりと受け入れられる。
 その際ひのめの姉から受けた折檻とあわせ、彼を取り巻く伝説は枚挙に暇がなかった。
 後に彼がGSとして確固たる地位を確立していると知った独身の職員は小さく舌打ちしたのだが、それは彼のあずかり知らぬ事である。

 「何なのよこの男は!なんで当たり前に霊体に抱きつけるの!!」

 突然抱きしめられたことで美神の顔が真っ赤に染まる。
 不思議な事に嫌な感情は無かった。

 「・・・おねーちゃんのだんなさんよ・・・いちりゅうのゴーストスイーパーなの」

 ひのめは姉譲りのジト目で迎えに来た男を見上げる。
 完全に浮気という訳ではないが、男には告げ口されたときの未来がたやすく想像できた。

 「それならば納得できるわ。アンタのお姉さんも大変な相手と結婚したのね・・・」

 美神の台詞に何となく状況を察した男はひのめに視線を向ける。
 ひのめは立てた人差し指を横に振り美神の想像を打ち消した。

 「おねぇちゃんは、ちょういちりゅうのゴーストスイーパーだからね。うわきはぜったいにゆるさないの!!」

 ひのめの台詞に姉の教育のすさまじさを感じ、男は力なく笑うとひのめを肩車する。
 昔から行っていたご機嫌取りは未だに有効らしく、ひのめは男のバンダナを手綱がわりに握ると楽しそうに足をバタつかせた。

 「おにーちゃん、おかーさんは?」

 母親が迎えに来ない理由をひのめは男に尋ねる。
 遠足で出会ったもう一人の姉に、ひのめは母親を見せたいと考えていたのだった。

 「義母さんには、カミさんの入院の支度を手伝ってもらってるんだ。情けないけどこう言うときに男は無力だからね」

 「アンタの奥さん何処か悪いの?」

 「しいて言えば金銭感か・・コフッ」

 姉の教育の賜だろう。
 美神の質問に軽口で答えようとした男の言葉はひのめの踵攻撃によって食い止められていた。
 横島は鉄壁の連携を誇る姉妹の絆に苦笑を浮かべると美神の頭を優しく撫でる。

 「心配してくれてありがとう。半分は俺の責任だけど病気じゃないんだ」

 男の笑顔と力強く優しい掌に美神は顔を赤らめるが、男の言葉の意味はさっぱり分からなかった。
 美神は不思議なものを見るように男が手に持った携帯電話を見つめる。
 そのサイズ、デザインとも美神には電話のようなものという認識しか持てない。
 男は手慣れた手つきで携帯メールを打つが美神にはその作業の意味が理解できなかった。

 「さあ、この角を曲がれば楽しい我が家だ。メールが届いていれば、義母さんとヨメさんが表で出迎えている筈だよ!」

 男はこう宣言すると美神の手を取って大股で歩き出す。
 角を曲がると夕日に色づいた家並みに二人の人影が見えた。

 「まさか!そんなことって・・・・・」

 逆光のため美神の目に二人の顔はよく見えない。
 一人は大事そうに大きな自分のお腹を抱え、もう一人はそれを気遣うように隣りに寄り添っている。
 美神にはそのどちらの人影にも見覚えがあった。

 「君はこの子を救うために括られていただけじゃないんだ、君も自分の心を救って貰うためにこの子を括っていた・・・時を超えてまでお互いを助け合う。一人っ子の俺にはうらやましい限りの姉妹愛だな」

 「あ・・・あああ・・・・」

 美神の声は既に言葉にならない。
 大量にあふれ出る涙に美神の視界が大きくゆがむ。美神は家の前で待つ二人の正体に完全に気がついていた。
 それと同時に今まで二人を捉えていた括りの力が消滅し、美神の姿は次第にその影を薄めていく。
 男は力強く握っていた手を離すと誰よりも優しい眼差しを美神に向ける。

 ―――お前は独りじゃない

 男の目は何よりも雄弁にそのことを美神に伝えていた。

 「これが俺たちが必死に生きて手に入れた未来なんだ・・・失ったものもあったけど俺は幸せだよ。またな、令子」

 既に美神の姿は目をこらさなければならないほど透き通っている。
 美神の号泣と肯きは完全に消え去るまで続いていた。










 病院の一室
 頬を流れる涙の感覚に美神は意識を覚醒させる。
 枕カバーに染みた涙の跡は、彼女がどれだけの涙を流したのかをたやすく想像させた。

 「何の夢を見たんだっけ?」

 美神は幽体離脱中の出来事は記憶していなかった。
 しかし、心に澱の様に張り付いていた悲しさや怒りは涙と共に流れてしまったらしい。
 美神はどこか晴れやかな顔で上半身を起こす。
 火傷と打ち身による傷の痛みに顔をしかめたが、その痛みすら心地よく感じるほど今の美神は生きる希望にあふれていた。

 「きれいな花・・・」

 ベッドサイドに置かれた花に手を伸ばしかけると病室のドアが開く。
 ドア越しに若い女が驚きの表情を浮かべているのが見えた。

 「令子さん、意識が戻ったんですね」

 美神は記憶を辿り女の顔を思い出す。
 たしか、公彦の研究室に出入りしている大学院生の女だった。

 「よかった。大学に連絡が入った時にはどうしようかと・・・・南米の吾妻先生には全力で連絡を取っています。連絡が取れ次第すぐに帰国できるよう準備はできていますから・・・・」

 「この花は?」

 美神には公彦の事よりも花の方が気になった。

 「・・・令子さんが助けた母娘からです。先程までいらっしゃったのですが」

 美神と公彦の関係を知っているのか、女は素っ気ない美神の態度に表情を曇らせる。
 信じがたいがこの女は研究者としての公彦を尊敬しているらしかった。

 「そう・・・・・」

 美神は何気なく一本の花を手に取りその香りをかぐ。
 花をいっぱい抱えた少女の姿が脳裏に一瞬よぎった。
 美神は何かを思い出したように少女の残像を掴まえようとしたが、その少女は美神の心に温かな気持ちだけを残し忘却の彼方へ姿を消してしまう。

 「連絡が取れても、帰国することはないと伝えて」

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 女は公彦の体質以外の何かがこの親子にはあるように感じていた。
 想像以上の親子の断絶を感じ沈痛な表情を隠せない女に、美神は気を遣うように付け足す。

 「別に会いたくないという意味じゃないわ。私は独りでも大丈夫だという意味よ・・・」

 美神は自分の発言に照れたように顔を赤らめる。

 「ママと同じGSになるまでの間、私学のお嬢様学校に進学することにしたわ。あがつ・・・オヤジにはその学費を稼いで貰わないとね。そう伝えてくれればいいわ」

 美神の言葉を聞き女の表情が明るく輝く。
 公彦に今の言葉を直接聞かせてやりたかった。

 「今言えることはそれだけ、悪いけど疲れたからもう寝るわ」

 真っ赤な顔を隠すように美神は頭から布団を被った。
 手に持った花の香りに包まれながら美神は次第に瞼が重くなるのを感じる。
 やがて規則正しい寝息をたて美神は眠りに落ちていった。
 どの様な夢を見ているのか、その寝顔は楽しそうな微笑みを浮かべていた。


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