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ばらの花

第一話:ヒバリのこころ


投稿者名:ライス
投稿日時:05/10/ 3

 
 言うまでもなく、彼女は恋をしていた。
 いつの頃からだろうか。その胸の高鳴りに気付いたのは。つい最近であるような、はたまた初めて出会った頃からのような気もする。
 いつもの日常。普段どおりの生活。幽霊から人間に戻って以来、滞りなく過ごしていった生活。これからもなにも変化せず行くはずだった。
 しかし、それに比例して実像を帯びていく感情。ふと思いがけず彼を見れば、気になり、それは今もなお続いている。前から持っていた感情のはずなのに、なぜこうも胸が締め付けられるのだろうか。
 何かが変わっていた。それは知らないうちに、肥大化していた。
 彼の風貌はさして変わっていない。でも、色んな事があった。彼が目の前で涙を見せた時、彼の違う一面を見た気がした。
 この時、彼女は心の奥底で気付かないうちに思った。自分には今までとは違う一面があるのだろうかと。もしあるとするなら、見てみたいと。
 芋虫は美しい蝶へと孵化する。蕾は開き、色鮮やかな花となる。
 同じように、今までの自分とは違った自分がいるのではないだろうか。言い出せないでいる、秘めた思いを。それを感情露わに言い出せる自分がいたら。彼に告げることが出来るかもしれない。
 けれど、それこそ叶わぬ夢であった。
 他を思いやる気持ちが強すぎて、自分を出せない。特に問題を見出してはなかったが、やはりそこなのだろう。彼を思うこの気持ちは本物だ。だからこそ、自分の性格を少し悔やみ、途方に暮れる。
 勇気が欲しい。誰からでもいい。もらえるものならば勇気が欲しかった。願いを叶えるために。だが、何度も考えても勇気を得る方法は思いつかない。こうして彼女はまた元に戻る。その事だけを考えているほど彼女も暇ではないのだ。
 またいつもの日常。普段どおりの生活。
 自分の心に深い断絶を味わいながら。その時を密かに待っている自分を隠し、仮面を被り続ける。氷室キヌの日常はその様に滞りなくいつも通り過ぎ去っていくのだった。
 それが現実のものとなるまでは。


 ◇


「好きですっ、横島さん!」
 耐え切れなくなって出した一言。追い詰められて、急かされて。口に出さずにはいかなかった一言。それはあっさりと出たようで、出すのにはずいぶん苦労した。彼は信じられないといった顔つきでこちらを見ている。それは彼女自身も一緒だった。
「おキヌちゃん」
 彼が自分の顔を見つめる。それだけでももどかしいのに、告白してしまったのだ。恥ずかしい気持ちで一杯だった。反面、ついに言い出せて嬉しいといった気持ちもあったが、やっぱりこの状況が耐えられそうにもなかった。でも、逃げ出すことはもう出来ない。彼の顔も直視できない。フラれたら、明日会う時、どういう風に接すれば良いのだろうか。胸がどきどきと連打を続け、脈も16ビートを刻みそうなくらいだ。あぁ、恋の変拍子とはこれ如何に。
 氷室キヌはしっかりとまぶたを閉じ、横島の顔を直視しないように努めた。告白してしまった以上、彼からの返事が来る。手をしっかり組んで、立ち込めた沈黙が破られるのを待った。カラスが鳴いている。今は夕暮れ時、場所は人気のない高校の体育館裏。横島も学校の帰り。キヌもまた学校の帰りだった。カァカァとカラスの声が耳うるさく聞こえる以外は何も聞こえない。気になる、とても気になる。彼の答えが。彼からの回答が口に出ることが怖くもあり、楽しみでもある。期待と恐怖が入り混じり、過ぎ去る時間だけが彼女の心を惑わせた。出来る事なら、早く言って欲しい。早く答が欲しい。自分を好きだと、言って欲しい。自惚れているわけでもなんでもない。ただ純粋に、彼の口から出るその言葉を聞きたい。それだけでも自分は幸せになれる。
(だからお願いっ、横島さん)
 カラスがばさばさと羽を鳴らして、飛び立っていく。周囲には何の音も無くなってしまった。何も聞こえない。体育館の裏側で、じっと祈りながら、彼の前に佇む彼女の姿。二人の地面の影は混ざり合い、一つになった。そして心を、気持ちを重ねあいたい。もうキヌには願う事しか出来なかったのであった。
「おキヌちゃん」
「横島さん……」
「おキヌちゃん、おキヌちゃん」
 横島が自分の名前を連呼している。なにかとても夢心地な気分だった。
「氷室さんっ!」
 突然、割ってはいるように自分を呼ぶ声が大きく響いた。はっと気が付くと瞬く間に教室の風景が広がった。あれ、と思いながらもクラスメート全員の視線を浴びて、のけぞりそうに驚くキヌ。隣にはやっと起きたと言わんばかりの一文字の表情があった。
「さっきからうわの空でしたよ? あなたらしくもない」
 声の主は教壇に立つ先生だった。
「す、すみませんっ、つい」
 キヌは思わず立ち上がり、深々と謝った。先生はしかたなさそうな顔をして注意を促すと、また授業に戻った。彼女は顔を上げて、また席に腰を下ろした。何気ない溜息をつき、手は頬を支える。そのぼぉっとした表情から滲み出るのは、上気と羞恥と妄想。それらが渦巻き、頬はほんのり紅潮していた。眠気があるわけでもないに、気分が遠のいていく。
 それだから授業に戻った後も、キヌはおぼつかない表情でうわの空だった。
 彼女は先生の話もろくに聞かず、頬杖ついて黙々と溜息ばかりついている。授業など、まるで耳に入らなかった。別の事を考えていたから、それどころではなかったのだ。確かに、あんな男のどこが良いのかとよく言われるけど、彼には言語に換えがたい魅力があるのも確かなわけで。そこに惹かれているからこそ、彼が好きなんだといえる。と、胸の内で思っていても、それが言葉になるわけでもなく、ずっと自分の中で秘めた思いとして、ずっと心の引き出しの奥にしまいこんでいた。いつか言える時が来るかもしれない。自分から横島へ、思いのたけを存分に。自分の口から自分の声で。彼に対する特別な感情を叫ぶ時がやってくると信じている。けれども、現実がそう甘くないのは彼女も重々承知であった。
(いやだ、わたしったら。すごく変な想像してた)
 と、さっき思い浮かべたことを反芻してみた。……火が吹き出るほど恥ずかしい。今にも顔が真っ赤になりそうな告白シーン。彼女はお決まりの舞台で期待通りの名演技をする女優と化す。脳髄から吐き出される妄想はなにもかもが取り繕えそうにないくらい、自分へのあまりな都合のよさもその強引さも全て、湧き出でてくる羞恥心が支配する。キヌは思わず真っ赤になりそうだった。
(それもこれも一文字さんと弓さんがあんなこと言うから)
 すこし不満そうに心の中で愚痴る。無論、元凶は同級生の二人だった。時間は少し遡って、その日の昼休みの事。いつものように一文字と弓、そしてキヌは一緒に昼食をとっていた。屋上は今日は天気もよく、雲一つない日本晴れ。
 それは一文字の唐突な詰問に端を発した。
「で、結局さ。あれから半年以上経つけど、横島とはどうなったんだ?」
「え?」
 飲んでいた紙パックの牛乳を吹き出しそうになった。
「あ、あれからって」
「この前のクリスマスん時の合コン。色々あったけどさ、あんたと横島、最後まで結構良い雰囲気だと思ったけど。あれからなんか進展はあったのかって話」
「と、特にこれといってなにも……」
「なかったわけ?」
「う、うん」
 頷くほかは無かった。これを聞いた一文字と弓は顔を見合わせて、大きく溜息をついた。
「あ〜ぁ、期待して聞いた私が馬鹿だった」
「ほんとになにもなかったの、氷室さん?」
 少し考えて、また頷く。横島とは幾度となく事務所で会っているし、一緒に仕事もしている。なのでデートに誘おうと言う実感が湧かない。それ以前に勇気がいるし、こちらからは言い出しにくく感じていた。
「いいんです、別に。いつも会ってますし」
 そう言ってすまなそうに微笑んでみせた。
「じゃあ聞くけど、二人はどうだったの?」
『え?』
 声が重なった。もっと言い換えれば、ハモった。二人とも驚いた表情の後、少し照れながら頬をほんのり染めた。
「ふふ、二人とも顔赤くなってるわよ?」
「そ、そう?」
「気のせいですよ、気のせいっ!」
 対照的な照れ方をする二人がおかしくて、キヌはくすりと笑う。あの一騒動のお陰でめでたくカップルが二組も成立したのだ。これ以上、喜ばしい事はない。
「いいな〜。私も……」
「も?」
 素早くそれに反応したのは一文字。
「やっぱり羨ましいんだ? おキヌちゃん」
「わ、私は別に」
「でも、その割には顔が赤いみたいですけど?」
 先ほどの仕返しと言わんばかりに弓が言い返す。一文字もここぞと言わんばかりに、にやつき始めている。キヌは林檎のように赤くなり、押し黙ってしまう。彼女だって人並みの恋心は持っているつもりだし、それなりの理想を持っている。横島とは幽霊だった頃からの付き合いだし、こうやって今を生きていられるのも、美神と横島の力があってこそだった。とても感謝している。けれども一方で、横島には恋愛感情じみたものを感じ取っていた。いつからだったか、いつの間にかそんな感じを抱いていた。一方的な片思いに近い感情であるが、他に代えようもなかった。だから彼とデートしたり買い物したり、出来ることならずっと二人きりで一緒に居たいと思う時さえある。彼女は太ももの上に乗せていた紙パックを手で優しく握り締めた。横島と付き合えたらと思う気持ちが募るだけ。その思いが友達二人を羨望の眼で見据えしまっていたのだ。
「やっぱりそうなんだ」
 そらみろといわんばかりに十文字はにやついた顔をして、こちらを見ている。
「なにも、いぃ言ってないじゃないですかっ」
「そんなこと言ったって、顔に書いているよ、ねぇ?」
 おキヌの必至の抵抗もにべもなくかわされ、十文字は弓に同意を求めた。彼女もまた、してやったりといった面持ちで、不敵に微笑んでいる。
「そうそう、丸分かりですわよ」
「ほらみな、弓だって言ってるじゃないか」
「で、でもまだ……、私と横島さんはっ、そんな仲じゃっ!」
「悠長なことを言ってますと、誰かに取られちゃっても知りませんよ?」
 弓の一言が激しくキヌの心を貫き、抉った。確かに敵(?)は多い。でも、その件に関しては不可侵条約が暗黙の内に敷かれている気がしてならない。別段、意識はされてないだろうが、恐らくは自然と均衡が保たれているように思える。果たして、それを自分が崩していいべきなのだろうか、崩さなければならないのだろうか。同時に横島が自分の事をどう思っているんだろう、と彼女の心は途端に揺れ始めていた。
 いつの間にか食べる手は止まり、片方の手もわずかに紙パックを握る力が強くなっていた。キヌの頭の中はぐるぐる回転し、回答をはじき出すために必死だったので、つい喋ることを止めてしまっていた。
「お〜ぃ、おキヌちゃ〜ん」
 一文字の呼ぶ声も耳に届かず。ぶつぶつとあれこれなにやら、彼女は口を動かしているが声にならず、言葉にもならない。色々と想いがあるのは確かなのだが、未だに形にすらなってもいないのだ。
「あ〜ぁ、だめだこりゃ」
「氷室さん、いい事を教えてあげますわ」
 キヌの心情を察したのか、弓が救いの手を差し伸べてきた。すると、彼女は顔を上げて弓の方をまじまじと見つめた。
「今、あなたはなにやら思いつめ過ぎているみたいですけど、それは大きな間違いです。恋とは先手必勝っ! 先に仕掛けたものこそ恋を成就させ、それ以外はただ後塵を被るのみ……、よろしいですこと? 恋とは戦いなのです! 勝ち取るものなのですわ!」
「そ、そうなのか?」
「もぅ、一文字さん、横やり入れないで下さる?」
「でもなぁ」
「信じられないとでも? ふっ、そう言うと思ってたわ。論より証拠、百聞は一見にしかず。そんなあなた達のためにいいものを持ってきてあげたの、これよ」
 と、弓の手に取り出されたのは安奈みら最新刊『バトルロワイヤル・ラヴァーズ〜生き残るのは誰だ!? 史上最大のサバイバル・ラヴ』……。
「読んでみなさい、というか読みなさい! これであなたも恋がなんたるかを少しは……」
「まぁ、こんなもの読まなくてもさ、おキヌちゃん。もう少し自分の気持ちに正直になったらどう? きっと後悔するよ、今のままだと」
 一文字の助言にキヌは、少し頷いた。頭の中では分かりきってる事なのだ。
 でも。
「だ、だいじょうぶ、だからっ」
 少し言葉を詰まらせながら、学食で買ったサンドウィッチを無造作に慌しく口に運んだ。チャイムが鳴った。昼休みの終わりのチャイム。
「あっ、鳴ったよ? 早くしないと先生が来ちゃう」
「ちょっ、待っ」
「じゃ、先に行ってるからっ!」
「おキヌちゃん!」
 一文字の呼び止める声も聞こうとせず、足早に逃げるようにして、彼女は教室に戻っていった。なぜだか分からない。ただ羨ましくないともいえない。自分だけ取り残されたような、そうじゃないような奇妙な感覚だった。
 というのが、昼の顛末である。
(でもなぁ……)
 正直な所、無理な話だった。こういう話に関しては免疫があまりないせいか、いつも口調がしどろもどろになってしまって、何を伝えたいのかさっぱりこんがらがってしまうのだ。キヌはまた溜息をつくと、両手で頬杖をついた。理路整然と出来ないものかと自分に問いかける。いや、それ以前に彼の告白する勇気が彼女にはもっとなかった。勇気さえ持てれば、情勢はが変わるというのは半ば嘘に近いだろう。しかし、そこには若干の真実を含む場合もあるということだ。勇気を持つということ自体は悪いことではない。ただおキヌ自体がその一歩を踏み出せないでいるのが、問題なのだった。
(あ〜ぁ、なんとかならないのかなぁ)
 彼女の悩みは深まるばかりであった。


 ◇


 夕闇が落ちようとしてる中、おもむろに彼は口を開いた。
「ありがとう、おキヌちゃん」
「えっ」
 横島の表情は微笑んでいて、なんだか清らかでとても澄み切っている。沈む太陽に比例して、体育館の影が伸びていく。いやがおうにもムードは高まり、彼女の心の中は最高潮に達していた。高鳴る心臓はいまだに鳴り止まず、爆発しようものならば、今にも胸の奥から血を吹き出させて、まるで花のように咲き乱れる事だろう。
「ずっとずっと前から言おうとしてた事、先に言われちゃったな」
「横島さん」
「好きだよ、おキヌちゃん」
 天にも昇りそうな気分。今まさにおキヌは感じていた。これが幸せで喜びなのだと。両思いという言葉は、口にするのも気恥ずかしいくらいに陳腐な言葉ではある。しかし、今の自分たちの事を言い表すにはまさしくふさわしい言葉だろう。
「あのっ。わ、私っ、なんて言ったらいいのか」
「何も言わなくていいよ」
「あっ」
 沈む夕焼け。太陽にはもう付き合ってられないとそっぽ向かれてしまった。おかげで空は茜色どころか紫。その空の下、おキヌは横島が自分に顔を近づけるのを、固唾を呑んで注視していた。というより、あまりにも唐突に訪れたこのシチュエーションに驚くばかりで身動きも出来ない、というのが正しいだろう。
「待ってください、こっ心の準備がまだ……」
 戸惑いながらも、彼女は必死に堪えた。心臓がばっくんばっくんと、手で触らなくても分かるくらい激しく脈打っている。彼との距離は5cmにも満たない。目の前には彼の顔と目と、そして唇。世界でいちばん近くていちばん遠い距離、かもしれない。
「だいじょうぶ」
 横島の利き手がおキヌの顎をくいっと上向けさせる。見つめ合う瞳と瞳。そしてその時の彼の言葉で、彼女は覚悟を決めた。するとおキヌは自分の唇を彼の唇へ寄せ、いよいよお互いが重なり合おうとするまさにその一瞬、という場面だった。
「にゃあぁぁぁっ!?」
 彼女が夢から飛び起きたのは。
 とても上滑った声で、思わず上半身をベッドから跳ね起こさせてしまった。幸い、起きたのが真夜中で誰も聞いていなかったのが唯一の救いだろう。それでも、キヌは辺りをくまなく見渡し、誰も聞いていなかったというのを確認してから、ようやく一息ついた。
 まるで悪夢から目を覚まさしたような、荒々しい呼吸の乱れ。焼けるように暑かった。寝汗もだいぶかいている。二度三度深呼吸をして、呼吸を整えた。まったくなんて夢だろうか。
「いくらなんでも出来すぎてるわっ、それに横島さん、あんなにかっこよくないし……!」
 おキヌは膝を曲げ、ベッドの上でうずくまった。欲求不満なのだろうかと、自分を疑ってしまいたいくらいである。夢に対して、とやかく言うのは無駄と分かっていても、おキヌは自分の中で理由をつけて必死に否定する事で取り繕おうとしていた。第一、今見たのは現実じゃないと。
「そうよ。夢よ、夢なんだからっ!」
 昼休みの一件からはや二週間。もうそろそろ忘れてもいい頃のはずなのに、彼女達の言葉は脳味噌にぺッタリとインプットされて、その表面にプリントされているようである。嫌になりそうだった。しかし、それは自分の心に大きく揺さぶりをかけたのは間違いない。今までどおりでは満足いかなくなっている自分が見え隠れして、今までの自分を否定しようとしていた。それが分かりきっているのに、踏み出せない。
 色々思い悩んでいると、次第にあくびが出てきた。今は朝の三時、眠くもなるはずだ。
「寝よっと」
 ひとまず考えるのをやめて、眠りにつく。明日もまた学校があるし、朝の準備も色々とある。そのためには寝ておかなくてはならない。キヌはまたベッドに横になり、布団を掛け直して、また深い眠りに落ちた。


 ◇


 さて、事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、思いがけない現実が稀にある。それはふいに、まるで虚を突くように襲い掛かってくるのだからたまったものではない。しかし、そうなってしまった場合、いかな場合でもあろうとも立ち向かわねばならない。出会ってしまった現実から逃げる事など、到底不可能だからだ。
 二度あることは三度ある。このことわざが示すようにまさか、と思うからこそ油断はしてならないのだ。立て続けざまにあった事がまた起こることは確率上、とても低い事だろう。けれども、そういう事すらも起こりえてしまうのであるから、現実と言うものは恐ろしい。
「えっ」
 夕暮れ時、場所は人気のない高校の体育館裏。キヌは学校の帰りだった。カァカァとカラスの声が耳うるさく聞こえる以外は何も聞こえない。どこかで見た光景。
「えぇっ」
 一度目は妄想だった。二度目は夢の中だった。そして三度目は現実。
「うそ」
 夢から覚めて、さらに一週間。彼女はまさしく妄想や夢に出てきた同じ場所に立っていた。景観は違えどもシチュエーションは全く一緒。太陽が沈みかけているオレンジ色の空。それと比例して、地面には影が巨人のように大きく伸びて、建物の影へと溶け込んでいた。唯一つ違うものがあるとすれば、それは一文字の存在だった。
 こんな所にやってきたのも元はといえば、彼女の仕業でもあった。
「ちょっと放課後、連れて行きたい場所があるんだけど。いい? 悪いようにはしないからさ」
 という誘いに何の疑念も持たず、快く乗っかったのが後悔の始まりだった。今となってはあとの祭でしかない。断ればよかった、しかし素直に断る事も出来ずに、一文字にここまで連れてこられたのはそういった性分に違いない。
「じゃ、あとは頑張ってっ、おキヌちゃん」
 一文字の励ましがキヌの耳を素通りしていった。まさか、こんな。彼女の思考回路は断線しつつあった。向こう側から歩いてきたのは弓。そしてさらに先に立つのは無論、彼。
「お膳立てはしましたわ。あとはあなた次第です、氷室さん。感謝なさい」
 弓はそう言い切ると、キヌの横を通り抜けていった。目の前には呆然と立ち尽くす横島。彼もまた唖然とした顔つきで言葉が出ないようである。
 なにがお膳立てなのだろうかと一瞬、わけが分からなかった。が、すぐに後ろを振り返ってみれば、立ち去っていった一文字と弓の二人がこっそり草むらに隠れて見守っているのが分かった。あぁ、そういうことなのかと、キヌはすぐさま理解した。
「横島さん」
 横島はおそるおそるにじり寄りながら、キヌの方にやってきた
「お、おキヌちゃん、なんでここに?」
 うろたえた表情で、目を泳がせながら、横島はキヌを見ている。それ見て、キヌは優しく微笑んでいた。
「横島さんこそ、なんでこんな所に入るんですか?」
「え、いゃ、あの、弓さんに誘われて。というか、話したいことがあるのとか何とか言われて、しかも体育館の裏へ行かないかなんて言われて、こりゃベタだなとか思って、まさかとか何とか思いながら、わくわくっていやっ、そういうのじゃなくて! で、来てみたらおキヌちゃんがいて。あぁっもう何を言ってるのかさっぱりだな、おれ」
「ふふっ、そうですね」
 明らかに彼はこの状況に当惑していた。それはキヌも同じなのだが、次第に落ち着きを取り戻している。自分の友人二人が作り上げたこの展開は確かに大きなお世話だった。このお膳立てされた状況を果たして、どうするべきだろうか。逃げてうやむやにしてしまうのは簡単ではある。だがそうしてしまう事で自分が納得できるのだろうか。
 静かな校庭と体育館だった。部活動や下校生徒の声すらも無くなり、風がまだ枝についている木の葉を揺らすだけ。夕焼けが焼き焦げてきたので、夜もいよいよだ。
 言えるのだろうか。胸に秘める想いを、口に出すことが自分に出来るのだろうか。キヌの心臓が高鳴り始める。血液の循環が激しくなり、鼓動のリズムを速めた。
 言う、しかないのだろうか。仮に言わなかったとして、次はいつになるだろうか。同じ状況がまたあるとも思えない。自分が言わなかった事で、別の誰かに先を越されるかもしれない。そんなのは嫌だ。
「おキヌちゃん?」
 横島の呼ぶ声にはっと気付く。今確かに目の前に居るのは、彼ただ一人。見守るものはいれど、邪魔するものはいないと断言できる。今しかない。言わなければ、自分の心が嘘になってしまう。自分までも否定してしまいたくはない。正直に言わなければ、どうあっても先へは進めない。腹は決まった。あとは勇気を出して、声に出すだけだ。言葉の堰を切って思いきり、彼にぶつけるのだ。
「横島さんっ!!」
 ついに出てきた言葉。それは大きな声で、彼女は顔を真っ赤にしながら、さらに続けた。
「好きですっ!!」
 彼は信じられないといった顔つきでこちらを見ている。
「え、ちょっ、待って。お、おキヌちゃん、今なんて」
「私は横島さんが好きですっ!」
 告白してしまった。それも立て続けに二度。言い出せて嬉しいといった気持ちもあったがやっぱりこの状況が耐えられそうにもなかった。でも、逃げ出すことはもう出来ない。
「ずっとずっと好きでした! 人間に戻る前からずっと! 今まで言えなかったけど、でも好きなんですっ!! 横島さんっ!」
「でも、おキヌちゃん」
「でもって、なんですか? 横島さんは私が嫌いなんですか? 私じゃ、ダメなんですか!?」
「いや、そうじゃなくてっ」
「美神さんですか? それともシロちゃん? 誰が好きなのかはっきりしてください!! 出ないと、私はっ、私はどうすればいいんですか? いやですっ! 横島さんの隣に誰かいるなんてっ!! 私を見てくださいっ!! 私だけを見ていてください!!」
 キヌははじける心臓の音を感じながら、感情を爆発させた。一方、横島は戸惑うばかりで、何もいえないでいた。
「とりあえず落ち着いて、おキヌちゃん。なんか変だよ」
「どこが変なんですか。好きな人を好きって言ってなにが悪いんですか!?」
「いや変じゃないし、おかしくもないけど……あんまり急だったもんで、なんか驚いちゃってさ」
「あっ!」
 その瞬間、自分の言っていた事の恥ずかしさに気付いて、キヌは思わず口をつぐんだ。火が吹き出るほど恥ずかしい。今にも顔が真っ赤になりそうな告白シーンを現実のものとしてしまった、その気恥ずかしさがより一層、彼女の顔を真っ赤にさせた。さらに止まることなく湧き出でてくる羞恥心が、この胸を独占してかかろうとしていた。心臓はばっくんばっくんと、手で触らなくても分かるくらい激しく脈打っている。今は一秒たりともこの場にいたくない気持ちになっていた。逃げ出したい。でも、逃げ出しちゃいけないんだとキヌは強く心に思った。
「で、でも。好きなんです……」
「おキヌちゃん」
「好きなんです、横島さん。何度でも言えます。好きです! 横島さんはどうなんですか? だめならそれでもいいんです。はっきり言ってくれれば、私も納得します。だけど、宙ぶらりんのまま、このままいるのは私、我慢できないんです。だからお願いです、横島さん」
 言うことは言うだけ言った。ここまで来てしまったら、もはや逃げも隠れも出来ない。あとは彼の口から答えが出るのを待つしかなかった。すると急にキヌは怖くなり、目をつぶる。自分を好きだと、言って欲しい。ただ純粋に、彼の口から出るその言葉を聞きたい。だが、彼の答えが期待と逆であったら。私は脆く崩れ去るだけだろう、とキヌはとても不安だった。キヌの心は揺れ続けていた。
 次第に夕焼けは沈み、空は茜色どころか紫。まもなく夜になろうとしている。一番星が月の脇で光り輝き、他の星々も空に隠れながら、その呼吸を吹き返し始めていた。
 すると横島の息を呑む音が聞こえた。そしてひどく詰まりながら、彼はついに言葉を押し出した。
「そ、そりゃ、好きだけどさ……でも」
「本当ですかっ!?」
 キヌは目を見開いて、大きな声で確認を取った。横島はそれに気おされたのか、勢いに負けたのか。
「あ、あぁ」
 と、頷いてしまった。
「うれしいっ……!」
 感激のあまり、キヌは思わず横島を抱きしめる。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ちょっ、おキヌちゃん!」
「あっ、私ったらっ……すみません」
「いや、こっちも」
 二人は顔が合うと、すぐにお互いの身体を離れて、口ごもってしまった。こそばゆい雰囲気が漂い、お互いに恥ずかしそうな表情で一定の距離を保ちながら、時間がゆっくりと流れていく。
 するとどこからか拍手が聞こえた。それは草むらに隠れていた二人からである。
「おめでとうっ、おキヌちゃん! やったじゃん!」
「まったく、なんだか見ているこちらの方が恥ずかしくなってしまいましたわ」
「いっ、一文字さん。ゆ、弓さんまで」
 今までの一部始終を見られていたということを、キヌはすっかり忘れていた。途端に、恥ずかしさが最高潮に達し、顔を林檎のように赤くしてしまった。
「今さら、真っ赤にしたってだめだよ、おキヌちゃん。私達、この目でしっかり見てたんだから」
「そうですわ。逃げも隠れも出来ないお見事な告白でしたわ」
「もう、お二人とも他人事だと思って……!」
 キヌは涙を拭って、笑う。どうしようもなく、おせっかいな友人達を見て。
「でも、良かったじゃん。言えてさ。おめでと、おキヌちゃん」
「おめでとう、氷室さん」
 二人はもう一度、祝いの言葉を彼女に上げる。そしてキヌは微笑みながら、二人に感謝の言葉を送った。
「ありがとう」
 彼女は満面の笑みであった。その笑顔を横島に向けて、また。
「ありがとう」
 そう言うキヌの顔を見て、横島もぎこちない笑顔で答えた。しかし、まんざらでもない表情していたのも間違いないようである。
 ともかく、今ここに新しいカップルが誕生したのだった。 


 続く
 


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