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第三の試練!

〜仮眠室・落ちないフォーク・泣き狐〜


投稿者名:ヨコシマン
投稿日時:05/ 7/19

 令子は薄暗いオレンジ色の光がぼんやりと照らす天井をじっと眺めていた。
 体は疲労と倦怠感を訴え、そして脳は睡眠を求めていた。だが、彼女の心がそれを許そうとはしない。
 仮眠室のベッドに横たわったまま、令子はもう何時間も黙って天井を見つづけていた。
 その間に彼女の脳裏を巡るのは、後悔の念と横島の姿。静かな空間で悄然と一人考えれば、余計に強い喪失感が令子の心をかき乱しては通り過ぎていく。
 そんな長い懊悩の果てに、令子は何かを諦めたかのようにゆっくりと目蓋を閉じた。同時に彼女の閉じた瞳の両端から、暖かい涙の粒が頬を伝う。

「ゴメン・・・、横島クン。」

 掠れたような小さい呟きが、乾いた唇から微かに零れる。
 その一言を合図に、彼女の中の見えない何かが堰を切ったように溢れ出してきて、自分自身でもそれをコントロールする事が出来なかった。
 視界の歪んだ両目からとめどなく涙が流れ、喉の奥からこみ上げる熱い吐息が抑えられずに、苦しげにしゃくりあげる。
 令子は毛布の中にもぐりこむと、まるで子供のように体を丸め、搾り出すような嗚咽を堪えようともせずに泣いた。
 泣いて、泣いて、泣いて。
 今までずっと堪えてきた全てのものを吐き出すように。小さな子供のようにただひたすらに。
 どれほどの時間泣いていたのだろうか。ようやく落ち着いてきた呼吸を意識して整えながら、令子はゆっくりと瞳からこぼれる涙を拭った。
 そして、ふと気付く。
 静かだった。気味が悪いほどに、仮眠室の中は奇妙な静寂に支配されていた。
 もしかすると、もう真夜中なのかも知れない。令子は自分の時間感覚がかなりおかしくなっている事を、今更ながら再認識した。
 重い頭を抱えるようにしてベッドから体を起こすと、ゆっくりと辺りを見回す。仮眠室内は異様な程に森閑として、戸惑う令子を包み込んでいる。
 まるで音を立てる事自体が罪であるかのように、もしくは空間自体が音を拒絶しているかのように。

(・・・おかしい。音がしないと言うよりは・・・、音が・・・伝わっていない?)

 一瞬、令子は己の聴覚が異常をきたしたのかと疑ったが、シーツや毛布の衣擦れの音はしっかりと聞こえている。
 ではこの異常な静けさは一体何だというのか。令子はまるで仮眠室だけが、世界から切り離されてしまったかのような錯覚を覚えた。
 そうやって数十秒間、状況を把握できずに戸惑っていた令子の視界の端に、ふわりと小さな光の玉が現れた。その光球はゆらゆらと不規則に動きながら、それが何かを把握できない令子の周囲を浮遊し始める。

(これは・・・霊魂? ・・・いや、違う・・・?)

 一見すると、それは職業柄見慣れた霊魂のように見える。しかし、その光からは霊魂特有の波動やけはいは全く感じられなかった。
 例え体調が万全では無い今の状態であっても、彼女程の霊能者がそれを間違える事は決してない。
 過去の経験の中で、その光の玉に感じが似ているものを強いて挙げるとすれば、“残留思念”かもしれない。だがあくまで近いと言うだけで、同じものではない気がする。
 どう対処するべきかを、疲労と睡眠不足で上手く回転しない頭であれこれと令子が考えていると、その光はゆっくりと動いてベッドの脇で空中静止した。
 その目の前の空間で僅かに上下しながら浮遊する光を見つめながら、令子はベッドの上でゆっくりと筋肉を緊張させながら呼吸を整える。何があってもすぐに反応できるように、彼女は本能的に危険を回避する為の準備をしていた。
 その状態のままで暫くすると、一つの変化が起こった。光球は先程までは僅かな振り幅であった上下運動を少しづつ大きく変化させ始めると、同時にその光量を徐々に増していく。
 次の瞬間、その光は部屋全体を覆いつくし、令子は一瞬にして視力を奪われた。

(あ・・・、しまっ・・・!)

 何が起こったのかは分からない。ただ、油断したのだけは確かだ。令子は目を閉じることすらできない光の洪水の中で、己の迂闊さに失望した。

(・・・思ったよりも、眩しくない・・・?)

 部屋の中が見えなくなる程の光量のはずなのに、目を開けていられる。令子は戸惑いながら、一体これから何が起こるのかと神経を張り巡らす。
 ふと、誰かが立っている事に気がついた。この光の中で、同じように光りながら、それでもその部分だけ少し異質な印象を受ける。おそらく、人の形。

「・・・誰?!」

 令子の問いかけが虚しく部屋に響いた。その人影は無言のまま、滑るように令子に向かって動き出す。
 人影は令子のすぐ傍まで来ると、動きを止めた。

「あなた・・・まさか・・・。」

 自分の目の前にまで接近されて、令子は思わず呟いた。その人影は間違いなく女性の姿をしていたからだ。それもよく知っている女性の姿を。
 それなのに名前が出てこない。間違いなく知っているはずのこの女性の名前が。令子はもどかしさに思わず眉をしかめた。
 人影は何も語らず、ただじっと令子を見つめている。人影といっても光そのものである為に、その表情を知ることはできないが。
 そしてその人影は、ただ戸惑う令子の前にそっと両手を差し出した。その掌には、金色に輝く小さな羽根が乗っている。

(羽根・・・? それも孔雀の・・・。)

 恐る恐る、令子はその羽根に手を伸ばすと、そっと両手で包み込むように受け取った。不思議な光を発するその羽を手に持った途端、今まで令子の頭の中に掛かっていた靄が晴れるかのように、思考がクリアになっていくのを感じる。
 その羽根は黄金の質感があるのに不思議と軽く、そして何とも言えない温かさに満ちていた。

『・・・彼を、信じてあげて。お願い。』

 言葉も無くその羽根に見とれていた令子に光の女性は不意にそう告げた。

「え・・・?」

 令子は複雑な表情を作ると、己の掌にある羽根から思わず視線を上げた。令子の顔には驚きというよりも、戸惑いの方が色濃く出ている。
 聞いたことのある声だったのだ。どこかで、確かに聞いたことのある声。
 だが、どうしても思い出すことができないその声。
 まるで、記憶に鍵が掛かってしまっているようだ。令子は眉をしかめながら軽く頭を振った。
 同時に令子の視界が、再び激しい光に包まれた。最初の時と同じように、光の盲目とも言える状態に陥った令子は、その光の洪水の中で“彼女”が遠ざかって行くのを確かに感じた。

(待って! まだ行かないで! ちょっと・・・ま・・・)








「待ちなさいって言ってるでしょ!」

 深夜の仮眠室に、悲鳴に近い叫びがこだまする。
 その響きに自分自身驚き、しばらく呆然とした後に、令子は己がベッドの上で横たわっている事に気が付いた。

「・・・夢・・・だったの? アタシ、眠っていたの・・・?」

 あれは夢だったのだろうか。現実と夢の境目があまりにも曖昧で、しかもその夢の事を殆ど覚えてはいない。しかし、確かに誰かに何かを言われたという事だけは、記憶に焼きついて離れなかった。

「令子! 何?! 今の悲鳴は!?」

 その声と共に仮眠室のドアが勢いよく開き、仮眠室を支配していた静寂は破られた。同時に青ざめた顔の美智恵が室内に飛び込んで来るのが令子の瞳に映った。
 美智恵がたまたま仮眠室の近くを通っていたのか、それとも令子の様子を見にこちらに向かっていたのかは分からないが、どうやら彼女は仮眠室のすぐ近くを歩いていたようだ。

「あ、ママ。どうしたの?」

 令子は美智恵の真剣な表情に少々おどけた様子で、不思議そうに母親の顔を眺めていた。

「どうしたの、じゃないでしょう。あんな大きな声で叫んだら、何かあったかと思うのが普通じゃない。具合でも悪いの?」

 美智恵は令子のそのとぼけた表情を見た瞬間、即座に己の想像していたような事態は起きていなかった事を確信し、安堵した。そのまま表情の緊張を解くと、今度は呆れた顔を作って腰に手を回し、溜息混じりに愛娘の表情を覗き込む。

「あ・・・あはは、ゴメン。夢を見てたみたい。多分寝言だわ。」

 令子はようやく自分が大声で寝言を言った事を思い出すと、ばつが悪そうに舌を出しながら頭を掻いた。
 恥ずかしそうにしている娘の姿を、眉を八の字にしながら眺めていた美智恵はふとあることに気が付いた。

「・・・貴女、顔色良くなったわね。さっきまで酷い顔していたけど、今は元気そうに見えるわ。」

 そっと令子の頬に触れながら、美智恵が問いかける。気のせいではなさそうだ。確かに頬にうっすらと赤みが差しているのが、薄暗い仮眠室の照明の下でも良く分かる。

「そうかな・・・? 確かに結構気分はいい気がするわ。ゴメンね、心配かけて。」

 頬に添えられた母の手をそっと触れながら、令子が少し照れながら答えた。精神的にも少し落ち着いたのか、眠る前は常に感じていた漠然とした苛立ちもすっきりと無くなっていた。
 どうやら、仮眠中に心の整理が付いたようだ。美智恵は娘が立ち直りつつある姿に思わず目を細めた。
 そのまま何気なく視線を娘の顔から体の方へと移し始めたが、美智恵の瞳は令子の右手のあたりでピタリと止まると、そのまま動かなくなった。

「・・・・・・?」

 母親の視線が一点で静止している事に気が付いた令子が、怪訝な表情で首を傾げる。その視線が自分の右手を捕らえている事に気が付くと、令子もそのまま自分の右手に視線を移した。

「貴女、どうしたの? それ。」

 それ、と美智恵が顎で軽く指し示した令子の右手には、黄金に輝く孔雀の羽根が握られていた。

「・・・?! これ・・・夢じゃなかったの?!」

 軽く、それでいて質感がある奇妙な羽根を目の前に持ってきた令子が思わず声を上げる。その吐息に反応して、羽根は光の残像を残しながら優雅に揺れた。

「ねえ、それって・・・。」

 美智恵が何事か呟きながら、令子の持つ羽根にそっと触れようとした瞬間、突然仮眠室天井のスピーカーから電子音が鳴り響いた。
 それは緊急時に館内すべてで放送される緊急全館放送を知らせるチャイムだった。

『緊急連絡。研究サンプルに異常発生。美神顧問、至急コントロールルームにお戻りください。繰り返します・・・。』

 無言で親子は顔を見合わせた。そのまま一言も言葉を発せずに、二人は同時に頷く。ベッドの毛布が高く舞い上がると、すでに室内に二人の姿は無く、激しく鳴り響く靴音だけが響いていた。











「・・・おキヌ殿、食べないと体が持たないでござるぞ。」

 僅かに眉をしかめながら、シロが話しかけた。テーブルの向かいには、並べられた食事に殆ど手を付けずにいるおキヌの姿がある。

「うん、分かってる。」

 気力なく生返事を返したおキヌの姿を見て、シロは本日三度目の溜息を吐いた。ここ数日、おキヌは明らかに気力、体力共に衰えている。
 憔悴したおキヌの顔を見るのは、散歩に行けない事よりも心苦しいものだ。シロはそんなおキヌの姿に思わず顔を歪めた。

「・・・タマモちゃんは? あの子も全然食べてないんじゃないかしら?」

 ふと、思い出したようにおキヌが呟く。その顔はとても他人の心配をしている程の余裕があるようには見えない。シロは四度目の溜息を吐いた。

「あいつは二、三ヶ月食わなくたって死ぬ事はござらぬ。人の心配より自分の心配をしてくだされ。
 第一、学校だって殆ど行かれておらぬではござらんか。」

 半ば苛ついた表情を見せながら、シロがおキヌの呟きに答えた。その表情を見たおキヌが、そうだね、と小さく頷く。
 おキヌといい、タマモといい、あの日からまるで死霊の如く虚ろな反応しか返ってこない。シロはほとほと困り果ててしまった。
 本当なら、彼女が一番大泣きしてもおかしくない所なのだが、周りが明らかに異常な状態になってしまったせいか、逆に奇妙なほど冷静になってしまっているようだ。
 自分がしっかりしなければ。シロは心の中で歯を食いしばった。

「とにかく、ちゃんとご飯を食べてくだされ。大体、先生はまだ死んだと決まった訳ではないでござるよ。そうでござろう?」

 今のところ、美知恵からは定期的な“変化なし”との連絡しか送られていない。あの日、西条とおキヌが横島生存の可能性を見出したまでは良かったのだが、それ以後全く良い知らせが来ていないのだ。横島の肉体に掛けられた法術だけが唯一の希望だが、その法術も本当に横島を助ける為なのかは分かってはいないのだから。
 いっその事、助かる見込みが無いと分かってしまった方が良いのだろうか。思わずそんな思考が頭を過り、シロはそれを否定すべく小さく頭を振った。
 今はほんの少しでも希望を持っていたい。おキヌの為にも、少々意外ではあったがタマモの為にも、そして何より己の為にも。
 シロの想いが通じたのかどうかは分からないが、ようやくおキヌが緩慢ではあるが食事に手を出し始めた。それを見たシロは僅かに安堵の表情を浮かべると、席を立って台所へと向かった。

「ちょっと泣き狐の様子でも見てくるでござるよ。」

 台所から戻って来たシロは、軽く冗談めかして笑顔を作ると、食事を載せたお盆を持ったまま屋根裏部屋を指差す。おキヌが小さく頷くのを見届けると、シロはゆっくりと歩き出した。

「・・・シロちゃんにまで気を遣わせちゃった・・・。あたしがしっかりしなきゃいけないのに・・・。」

 事務所の扉が閉まる音にかき消されそうな程に小さな呟きが、おキヌの口から零れ落ちる。
 考えるのが酷く面倒で、頭が重い。ここ暫くは殆ど寝ていなかった。口に含んだサラダはまるで、紙切れを食べてるかのように味がしない。
 おキヌの心はもうずっと、横島が帰ってこないのではないか、という不安に駆られ続けていた。
 病院で横島の肉体から魂が抜き取られていた事に気がついた事は、おキヌの中に僅かながらではあったが希望を芽生えさせた。だが、一向に横島が目覚める気配がないまま過ぎていく時間の中で、その僅かな希望が逆に彼女を失意の底へと導いていたのだ。
 横島の肉体に掛けられている“法術”は横島を蘇らせる為の物では無かったのだろうか。自分達が単に自分達の都合の良いように考えていただけなのではないのかと。
 そんな思案の種をぐるぐると頭の中で巡らせれば、鼻の奥から痺れるような熱い何かがこみ上げてきて、視界の端がぐにゃりと歪む。おキヌは咄嗟に下唇を軽く噛むと、これ以上涙が溢れないように堪えつつ右手で目蓋を拭った。
 これ以上こんな姿をシロやタマモに見せる訳にはいかない。今こそ自分がしっかりしなければ。おキヌは静かに呼吸を整えると、昂ぶり始めていた感情をやや強引に押さえつけた。
 そうして涙を拭った右手をテーブルに戻そうとしたとき、おキヌはその右手に何か硬いものが当たるのを感じた。

「あっ・・・。」

 とっさにその右手に目をやると、テーブルに並べられていたフォークがおキヌの手に弾かれて、今まさに落ちようとしているではないか。おキヌは反射的に手を伸ばしてそれを受け止めようとした。

「・・・?!」

 おキヌの口から、声にならない声が思わす漏れた。落ちるフォークの落下軌道を予測して差し伸べた右手に、落ちるべき筈のフォークが落ちてこないのだ。
 どう見ても、そのフォークは明らかにテーブルから離れ、空中に浮いていた。

「なに・・・これ・・・? 浮かんでる・・・の?」

 何が起こっているのか理解できない状態のまま、おキヌは辺りを見回す。室内の空気が異様な違和感を含んでいた。
 ふと窓の外に目をやると、雀が飛ぶ姿勢のまま空中で静止している。そして先程まで聞こえていた窓の外の音も、まるで聞こえなくなっているのだ。
 事態の異常さをようやく把握したおキヌの脳内は、この状況にただうろたえる事しか出来ない。そんなおキヌの耳に、小さく何かの音が入ってきた。
 さらに同時に、体全体に痺れが走って動きを封じられてしまった。

(・・・これは足音・・・? 屋根裏から・・・シロちゃん?)

 ゆっくりと、誰かの足音が聞こえてくる。コツコツと響くその足音は、屋根裏部屋の階段からゆっくりと下り、廊下を歩いてこちらへと近づいた。
 その音が近づくにつれ、得体の知れない恐怖と共におキヌの心拍が上がっていく。
 ラップや騒霊といったよく知る霊現象では無い。おキヌはいまだかつてこのような体験をしたことが無かった。ネクロマンサーであるおキヌにとって、悪霊の類は恐怖の対象ではない。彼女を恐れさせるのは、彼女の知識、経験には無い現象とその存在だ。
 その得体の知れない存在は部屋の扉の前で止まると、そのまま動かなくなった。

「・・・誰・・・ですか? シロちゃん?」

 おキヌは恐怖で破裂しそうな程早く動く心臓の鼓動を両手で必死に押さえ込みながら、声を僅かに上擦らせて尋ねた。
 ドア越しに確かに気配がする。それがシロやタマモのものではないであろう事は、もうおキヌも理解していた。

「だ、誰ですか!」

 勇気を振り絞って、今度は声を張り上げた。おキヌはその後静かに両目を閉じて、こみ上げてくる恐怖と戦いながら返事を待った。

『怖がらないで。』

 女性の声。声というよりは、精神に語りかけてくる感じと表現した方が適切だろうか。ともかく、どこかで聞いたことのあるような、親しみのある声がした。

『怖がらないで。あなた達はみな“強い”から、こういうやり方でしか触れられないの。』

 ドアの向こうから語る声は、少し悲しげにトーンを落としてそう言った。

「わ、私に・・・何かを伝えたいの? 貴女は・・・誰?」

 どこかで聞いたような声とその口調のせいか、僅かに落ち着きを取り戻したおキヌはドアの向こうの存在にゆっくりと問いかける。

『彼等を・・・助けてあげて。二人はこれから長く辛い時間を耐えていかなければいけないの。
 貴女だけが、彼等を支えてあげられる筈だから。お願い、貴女にしか・・・出来ない事だから。』
「え・・・? あ、あの、どういう・・・?」

 答えは返ってきた。だが、その意味はあまりにも不可解。おキヌは戸惑いの表情でドアに向かって聞き返したが、もうその声がする事は無かった。

「彼等を・・・支える・・・。」

 “彼女”に言われた事を、口の中で呟いてみる。だが、やはり意味が分からない。まだ少し早い心臓の鼓動を感じながら、ぼんやりと視線を窓の方へ何気なく移した。
 突然、硬い金属のような物が床に落ちたような音が室内に響いた。
 心を思考の海に沈めて考え事をしていたおキヌは、驚きで大きく体を跳ねさせると音のした方向に視線を切り替える。
 同時に、体の自由を取り戻したことに気が付いた。

「あ、フォーク・・・。」

 先程まで空中で止まっていたフォークが、いつの間にか落ちていた。注意して聞けば、窓の外の音も聞こえてくる。あの違和感はすでに消えていた。

「・・・なんだったのかしら、今のは。」

 思い返してみると、何かおかしい。確かに今さっき誰かが来て、何かを言っていたような気がするのに、もうその時の事を殆ど覚えていなかった。
 夢だったのだろうか。最近泣いてばかりで、あんまり寝ていなかったし。おキヌは首を傾げながら、落ちたフォークを拾い上げて台所へと立ち上がった。
 不思議なことにそういった動作一つとっても、なんとなく体が軽い感じがする。おキヌはもう一度首を傾げながら、キッチンで落としたフォークを洗い始めた。

 突然、事務所の電話が大きく鳴った。










「おい、タマモ。飯でござるぞ。」

 屋根裏部屋へと続く階段を昇りながら、シロがそこに居るであろうタマモに声を掛けた。かつては屋根裏部屋には扉があったそうだが、シロとタマモが来たときにはすでにその扉は無く、室内は階段からそのまま床へと繋がる形態となっていた。

「・・・まだ泣いてるのか? 全く泣き虫狐でござるな。」

 相変わらず返事の無いタマモに、はっぱをかけるような口調でシロがもう一度声を掛けた。

「・・・あれ?」

 片手に食事を乗せたお盆を持った姿勢のまま、階段を昇りきったシロが怪訝な表情を浮かべて呟く。いつものようにベッドの中で丸くなっていると思っていたタマモの姿が見えなかったからだ。
 数秒の間思考が停止したシロの頬を、まだ夏の気配を残した暑い風がそっと撫でた。それに気が付いたシロがゆっくりと周囲を見渡すと、部屋に唯一ある窓が大きく開かれているのが目に入った。

「・・・ま、まさか・・・!?」

 屋根裏部屋の窓はそのまま屋根に直結しており、簡単に屋根の上に上がることが出来る。シロは慌てて食事の乗ったお盆をサイドテーブルに置くと、動揺した顔で窓に駆け寄り、そのまま屋根の上に飛び出した。
 屋根の上は九月の太陽に照らされ、フライパンの上のように熱い。シロは熱気に顔をしかめると、すぐに屋根の真下を覗き込んだ。
 特に変わった様子は無い。冷静に考えれば、シロは勿論タマモだってこの程度の高さから落ちたとて、大事に至ることは無いはずだ。
 シロは小さく安堵の溜息を吐くと、自分の想像の馬鹿馬鹿しさに思わず苦笑いした。

「何やってんの?」

 不意に、シロの背後から声がする。思ってもみなかった声にシロは体を一瞬跳ねさせると、ぎょっとした顔で声の方向に振り向いた。

「そ・・・、それはこっちの台詞でござるぞ! 馬鹿狐! お前こそ何をしてるんだ、そんな所で!」

 いきなり虚を衝かれた驚きと、変な心配させられた怒りで、思わずシロが大声を出した。普段仲が悪いように振舞っている分、タマモを心配している自分を見られた事がシロには恥ずかしかったのかもしれない。
 しかし、そんなシロにお構いなしでタマモはじっと窓の上に立ったまま、空を見上げていた。

「おい! 聞いてんのか! 大体お前は・・・!」
「来る。」

 キャンキャンとシロが今までの不満をまくし立てようと、声を荒げ始めたところをタマモはその一言で遮った。

「・・・へ?」

 またもタマモに虚を衝かれ、シロは思わず呆けた顔で返事を返した。
 そんなシロにタマモは目を合わせると、続けて問う。

「シロ、ご飯。」

 今度は片眉を上げ、その言葉の意味が理解できない、といった表情をシロが見せる。それも無理も無い。少し前まで、タマモはシロがどんなに声を掛けても、一切の食事を拒否し続けていたのだから。
 そんなシロにそれ以上語りかけずに、タマモは黙って窓から部屋に戻ると、サイドテーブルにおいてあった食事をはしたないほどの勢いで口に詰め込み始めたではないか。

「お・・・おお?」

 窓の外から顔だけを室内に入れた状態で、シロは唐突に食べ始めたタマモをただ呆然と見つめていた。

 どこかで、電話の音がする。シロは豹変したタマモに呆れながら、その電話の音を黙って聞いていた。


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