『我が神、我が神…………何故私をお見捨てになったのですか――――?』
(マタイによる福音書 二十七章 四十六節・マルコによる福音書 十五章 三十五節より)
久しぶりに帰ってきた日本は、今の彼にとってあまり居心地の良い所ではなかった。
東京。蒼い空。乾いた風と、その下に群がる人の群れ。人ごみの中をコートの襟を立て、伊達雪之丞は歩き続けた。――その眼に、深い絶望を宿して。
香港の事務所が燃えた後、土爪湾の倉庫脇で倒れている所を保護された雪之丞は、そのまま病院へと搬送された。炎の直撃を間近で食らった雪之丞の怪我は思ったより重く、快復には丸一ヶ月の時間を要した。
そして――明弘。
病院側に問い合わせて貰った結果、明弘と同じ年恰好の子供は、誰一人として保護されてはいないという事実のみが解った。
それで…………充分だった。後にはただ、ぽっかりと口を開けた、胸の穴だけが残った。
(俺は……何をしたんだ……)
過去の自分がしたことは、あまりにも鮮明に、雪之丞の脳裏に思い起こされる。自分の言葉は…… "力"に対する自分の信念は…… 結果的にひのめを追い詰め、息子は、その為に……
強くあろうと思った。息子の死が確定的なものとなって猶、自分は強くあろうと思った。
……だが、現実はどうだ? 自分は明らかに揺れている。持っていた確信を叩き壊されて、悔恨と、自責に苛まれている。驚いたことに、ひのめに対して、恨みすら感じている。……そのようなもの……今更考えるまでもなく、持つ資格など自分にはありはしないのに……
思考に耽溺する間に、足は自然に目的地に辿り着いていた。顔を上げる。自分の頭が、何故か非常に重く感じた。
『弓』
その屋敷の表札に書かれている文字は、その一文字だった。
弓式除霊道場、現当主、弓かおり。雪之丞自身の妻であり……そして、明弘の……母である、女性。
眼を、瞑る。雪之丞が退院した後すぐに、『話がしたい』と言われ、呼び出された。つまりは……そういう事だろう。自分には、何も言えない。
ママから貰った"伊達"の姓を変える事を望まず、自分はかおりの親父に嫌われた。一時は本気で駆け落ちする事も考えたが、弓家の事を考えると、それも出来なかった。そのうちに、子供が生まれた。双子のその子供の名前は、自分がつけた。長男、明弘。長女、飛鳥。その五年後、自分はかおりと大喧嘩をし、明弘を連れて香港に渡った……
つまり……自分は、明弘を託してくれたかおりを裏切った。明弘を……ッ!
だから……
雪之丞は扉を開いた。名乗らずとも、いい。俺が行く事は、かおりはしっかりと解っているだろう。
玄関をくぐる。多少の感慨はあった。もう……この玄関をくぐる事はないんだろうな…… そういった、感慨が。
扉を開いた音に気づいたのだろう。奥からドタドタと、子供が走ってくる音が聞こえる。飛鳥か――
「ママぁーっ、パパ来たよぉーっ!!」
声が聞こえる。子供の、声――――
…………待て。
今の、声。もしかして……まさか――――
廊下の曲がり角からその姿が現れた事で、その疑惑は確信に変わった。
「明弘ぉっ!!」
ドタドタと自分へと走ってくる、最愛の、息子。飛びついてくるその小さな……身体を、しっかりと抱きとめる。驚愕に塗りつぶされていた、歓喜。その原始的な感情が、息子の身体の重さと共に、蘇って来る。
「明弘! 明弘、明弘、明弘、明弘……!!」
息子が死んだと思ったときには、出なかった涙。……今は、滂沱と流れている。何があったかは解らない。だが……息子は生きている!
「パパ泣いてる……?」
首をかしげる息子を、より強く抱きしめる。――そのとき、廊下の奥からかおりが、飛鳥と共に歩いてくるのが見えた……
「おかえり……雪之丞」
その瞳は、優しかった。
「かおり…………」
「小竜姫さまがね。探し出してくれたのよ。明弘を。『何も出来ないから、せめてこれくらいは』……てね」
そう言い、かおりは短く笑う。見ると、その瞳にはわずかにいたずら気な色が浮かんでいた。
「それでね……明弘は何て言ったと思う?」
「え……」
腕の中の明弘が、途端に満面の笑みを浮かべる。……こちらとしては、訳がわからず、ただポカンとするしかない。
「見せてあげなさい? 明弘?」
「うん!」
元気良く答えると、明弘は腕の中で霊気を練り始めた。あの事があった数日前から、自分が教え始めた動作。基本中の基本の――――いや、これは……?
気づけば、明弘の小さな身体は、不完全ながらも、頑強な魔装に包まれていた。間違いない。これは――
「魔装……術……」
「危機に際して、力が急速に目覚めたんでしょうね…… だけど……あなたが教えていた基礎がなければ、そんな事も起こりようがなかった……」
唖然とする雪之丞に暖かい感触。かおりが……抱きしめてくれている。
「ありがとう……雪之丞。明弘を……救ってくれて……」
眼から、また新たな涙の筋が零れ落ちるのが自覚出来た。
俺は……間違っていなかったのか? 俺は……あの行動を誇っていいのか? 俺は……また……やり直して……いい、のか?
「なぁ、かおり……」
「うん? なに?」
「その……」
眼を、見た。
「また……やり直さねぇか……? 俺が、弓になってもいいからよ……やり直してぇんだ……ここで」
その言葉に、答えはなかった。ただ、かおりはより強く、身体を抱きしめてくれた。
★ ☆ ★ ☆ ★
ガラス窓の外に見えるオフィス街には、昼時の喧騒をそのまま表す人の群れが、常のように忙しげに行き来している。汗を拭き拭き歩き続けるその姿に一抹の哀れを覚えつつも、エアコンが効いた喫茶店の中において、それは全くもって外界の話に過ぎない。苦笑しながら、美神忠夫は眼前の人物に注意を戻した。
「…………」
その青年もまた、こちらと同じく外に注意を向けていたらしい。こちらが戻した視線に気づき、自然と、視線が再び交錯する。――話には聞いていたが、会うのは初めての事だった。
その青年の容姿――そこに、懐古の念を感じる事は仕方のない事だろう。かつて自分の"恋敵"であった……そして、今はもう何処にもいない、男の面影を。
「……誠君」
「はい」
――いい声だ……
その声は澄んでいた。自らの行動……そこに、ひとつの句読点を打った男の、声。迷いを越え、諍いを超え……そして――――
忠夫は、運ばれて来てから手を付けていなかったコーヒーを一口啜った。すっかり冷めたそれは、忠夫の舌に一筋の苦味を残し、消える。苦笑し、砂糖壷から角砂糖を一つ取り出した。
「……超えたみたいだな」
カチャカチャカチャ……
角砂糖を入れたコーヒーをかき回すスプーンの音だけが、対峙する二人の男の間に響く。
誠の苦笑が見えた。やや自嘲を含んだ、軽い軽い笑い。
「やっぱり、あなた達には解ってたんですね…… どっから来たんですか? 先生ですか?」
「……いや、直接連絡を受けたのは、ほんの昨日の事だ。義父さんからな」
「そうですか、公彦さんが……」
遠い眼をする若者。その姿が、忠夫には眩しげに映った。……と、同時に、義父である公彦からの電話の内容も思い起こされる。
ただ一言。
『西条君を救ってくれ』
と、言われた。直後に電話は切れた。
即座に、弟子である尊厳の兄であった、誠の事が思い起こされた。――ただ、自分は何もする事が出来なかった。
「決めたのは……君だ」
「…………そうです、ね」
無言。
数瞬の躊躇。その後、誠が再び唇を開いた。
「俺は……ICPOに入ります。腐り切った今の組織の状態を、俺が……絶対に変えてやります。それが……あの人達への……俺のせめてもの……詫び、です……」
「……そうか」
再び、誠は窓の外に視線を移した。同じく、忠夫も視線を外に向ける。
烏が、二羽。遠くへ飛び去ってゆくのが見えた。
★ ☆ ★ ☆ ★
パン。
引き金を引き絞った腕に伝わってきたのは、想定していた全ての未来に反した、軽い手ごたえだった。
眼前の、二人。ひのめと、師、ピート。その二人もまた、きょとんとした表情でこちらを見尽くしている。
火は――――出ていない。
「ふっ…………ははっははははははははははっははははははははは!!」
突如、こみ上げてきたのは笑いだった。あんなに……あんなに考え抜いた末に撃った。その弾丸は、もとより存在しなかったのだ!
確かに――警察官などの職業では、一発目には基本的に空砲を詰める。……だが。まさか暗殺を目的として放たれた者のスーツに忍ばされていた拳銃にすら、空砲が入っているとは思わなかった。完全に想定の外だ。
未だ、眼前の二人はきょとんとしている。事態について来れていないようだ。だからこそ……誠は先刻の決意を確かめることが出来た。――未だ、こみ上げてくる笑いは止まらない。
「ははっはははっ……ひ、ひのめさん……」
笑いの中、急に名を呼ばれ、ひのめが再び緊張した表情を見せる。……だが、こちらはもうそれに呼応して緊張する必要はない。もう……ない。
「あなたの生き抜く意志。確かに見せてもらいました。そして、覚悟。見せてもらいました。あなたがあなた自身を背負い、これからも生きてゆく事を誓ってくれるなら……俺は…………」
その眼を、ピートに向ける。師は、状況について行けずに虚脱しているようでもあった。
「先生、俺は先生のことを許せない。……ですが、ひのめさんは過去を背負って生きていく覚悟をしてらっしゃいました。俺は、もう何も出来ません……」
そして、ずっと突きつけていた拳銃。結局役立たずであったそれを、軽く……足元に捨てた。その銃が立てたゴトン……という鈍い音が、二人を金縛りから解き放ったようだった。
「……どういう事?」
これは、ひのめの言葉。視線からは、状況に呼応して毒気は取れている。ただ――緊張は解いてはいない。表情は硬い。……当たり前だ。
「……簡単な事ですよ、ひのめさん」
ひのめの姿――それを脳裏に焼き付け、誠はひのめに背を向けた。突然の銃声に驚いた子供が、トイレの中を恐々と覗き込んでいる。その脇を、通り過ぎる。
追っては――こない。
「あの時――俺が、先生を"撃った"たあの時……どちらも死ななかったら……俺はあなたを尊敬する。するしかないじゃないですか…… もう……どうにも、出来ないんです。そう、決めたんですよ…………」
その言葉は、風に乗って消えた。
★ ☆ ★ ☆ ★
眼前の美神忠夫の顔を見つめながら、自問する。結局、俺は何だったのだろうか、と。
あの瞬間、師、ピートを憎んだ感情は本物であったと思う。……ならば何故、自分は今、彼を撃たずにすんだ事に安堵しているのであろうか。
ひのめではなく、ピート。彼は、卑怯者であった。撃とうと思った。だが、撃ったら自分はひのめに殺されていただろうし、ひのめも…………
「……なぁんだ」
「――ん?」
その言葉に、美神が再びこちらを向く。そのきょとんとした顔がおかしくて、誠はひとしきり笑った。
……そうだ。俺は、ひのめが見つけた"答え"を壊したくなかったんだ。
壊れそうでありながらも、やっと、生きる事を決意したひのめのこころを、奪いたくなかったんだ。
美神ひのめ――――
「今……何処にいんのかなぁ……」
窓の外のオフィス街の向こうに、栗色の紙の後姿が見えた気がした。
★ ☆ ★ ☆ ★
険阻な山肌を、二つの人影が登っている。遅れがちになる一人を、一人が支えながら。
この先に何が待っているか。それは、二人には解らない。
だが。
何が待っていても。
戦う。
生き抜く。
その意志だけがここにある。
絶望の声は、最後には賛美へと変わる。
だから。
生きる。
生きる。
……生きる。
〜完〜
だって蛇足になっちゃいますもの……
このお話が、少しでもあなたの心に残るものになりましたら幸いです。拝読、誠にありがとうございましたm(_ _)m (ロックンロール)
絶望の先にあるのは歓喜。
最終話の読了後、つい先日足を運んだとあるお芝居の中で、上記のような台詞があったのをふと思い起こしました。
ひのめの生きる意思。生きていた明弘。わたしの気持ちが救われたような気がしました。
例え、二次創作の中、物語の進行上でいかな理由があろうとも、登場人物が死ぬのは切ないものを感じずにはいられなかったからです。
これまでに死んでしまった人物たちの思い、その業を背負い、それでも生きたいと願うひのめの思いとそれに対して尊敬せざるを得なかった明弘の想い。
期待、失望、愛情、憎悪。様々な感情の雨に洗い流されて、最後の最後に残った心の一欠片は、許しだったのかもしれません。
ロックンロールさんの解釈によるひのめと、彼女を要としたこの物語。
本当に面白いお話だったと思います。
最後に<燈の眼>完結。おつかれさまでした。 (矢塚)
まずは遅ればせながら完結おめでとうございます。
いつぞやのお約束の通り、読ませていただきました。
個人的にはひとまずの幕が下りた、と言うように感じました。
結局、この作品のテーマは「生きる」だと。
人にはなにかしら、支えが必要であると言う事を読んでいて感じます。
それが絶望的であろうとなんであろうと、支えがあれば生きていけるという、ロックンロールさんのメッセージを感じました。テーマの結論、そこに至るまでの展開はお見事だったと思います。
逆に受け入れ難かったのは、キャラクター全員です。私としてはこういう話は嫌いではないのですが、今回の話のキャラクターには感情移入できるキャラがいませんでした。それで終盤までカタルシスがなくストレスの連続だったので、結構辛かったのは事実です。さらに言えば、最終話も(展開が展開だけに仕方ないと言えばそれまでなのですが)不完全燃焼の印象がします。ひとまずの幕と最初に言ったのは、そういった理由からです。
しかし、物語の語り口、展開やテーマなどはやはりロックンロールさんの技量を感じさせる所があり、改めて敬服します。なので、色々考えた挙句、このような評価に収まりました。
各回のあとがきを見るに、相当な紆余曲折があったのものと思います。
そういったロックンロールさんの苦労と共に、物語を書ききった事に素直に賛辞を送りたいと思います。
長い連載、お疲れ様でした。
それではm( )m (ライス)